up date | 20 March, 2015 | (追記:2015年6月25日、2018年11月21日,2019年12月14日、2021年11月7日) |
32−(14) 再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (14) バイ・タイガの遺跡群 2014年7月11日から8月13日(のうちの8月8日から8月13日) |
Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)
年月日 | 目次 | ||||||||
1)7/11-7/15 | トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 | アバカン経由 | クィズィール市へ | 国境警備管理部窓口 | |||||
2)7/15-7/17 | 東部地図、古儀式派のカー・ヘム岸 | ペンション『エルジェイ』 | 古儀式派宅訪問 | ボートで遡る | 裏の岩山 | ||||
3)7/18-7/20 | クィズィール市の携帯事情 | シベリアの死海ドス・ホリ | 秘境トッジャ | 中佐 | アザス湖の水連 | ||||
4)7/21-7/24 | ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) | 自治管区の議長夫妻と | 図書館 | バルタンさん | アヤス君 | ||||
5)7/25-7/27 | トゥヴァ鉄道建設計画(地図) | エールベック谷の古墳発掘 | 国際ボランティア団 | 考古学キャンプ場 | 北オセチア共和国からの発掘者 | ペルミから来た青年 | |||
6)7/28-7/30 | ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート | オフロード・レーサー達と | カティルィグ遺跡 | 事故調査官 | 鉄道建設基地 | ||||
7)7/31 | 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 | 古都サマガルタイ | 『1000キロ』の道標 | バイ・ダッグ村 | エルジン川 | 国境の湖トレ・ホリ | |||
8)8/1 | エルジン寺院 | 半砂漠の国境 | タンヌ・オラ南麓の農道に入る | オー・シナ村 | モンゴル最大の湖ウブス | ||||
9)8/2 | ウブス湖北岸 | 国境の迂回路 | 国境の村ハンダガイトゥ | ロシアとモンゴルとの国境 | 国境警備隊ジープ | 考古学の首都サグルィ | 2つの山脈越え | ||
10)8/3 | 南西部地図 ムグール・アクスィ村へ | チンチ宅 | カルグィ川遺跡群 | アク湖青少年の家 | 『カルグィ4』古墳群 | ||||
11)8/4 | 民家の石像 | 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 | カルグィ川を遡る | ヒンディクティク湖 | |||||
12)8/5 | 湖畔の朝 | モングーン・タイガ山麓 | 険路 | 最果てのクィズィール・ハヤ村 | ハイチン・ザム道 | ||||
13)8/6-8/7 | 解体ユルタを運ぶ | ユルタを建てる | 湧水 | 村のネット事情 | アク・バシュティグ山 | ディアーナ宅へ | |||
14)8/8-8/11 | 西部地図、ベル鉱泉 | 新旧の寺院 | バイ・タル村 | チャングィス・テイ岩画 | 黒碧玉の岩画 | テエリ村のナーディム | 2体の石像草原 |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。 ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。 |
ベル鉱泉 | ||||||||||||
まずは、オレーグ・ヘルテックさん運転の車の後について、バイ・タイガ・コジューンの行政中心地テエリ村方面へ行く地方道162号線を走る。ヘムチック川左岸の山中を走っていると、オレーグさんの車が本道を出てバイ・タイガ山の方に曲がった。バイ・タイガ山(山塊)は3128mの聖山で、西サヤン山脈の一部アラーシュ高原の頂点だ。 地方道162号線の方はヘムチック川の方へ南進して、テエリ村に向かう。私たちはその162号線の舗装道を出て、細い土道を西進する。すると、開けた谷間があって、古墳群が見えてくる。四角く石で囲った古墳で中央に石塚がある。四隅には大きな立石が立っている。そこはモングーン・タイガ・コジューンの塚と違ってハカシアの古墳と似ている。石塚の中央は陥没している。空から見るとドーナツに見えるだろう。トゥヴァではどんなところにも、少しでも開けた谷間や斜面があると古代人の遺跡を見かける。この古墳群は1975年から81年にかけて調査され、1985年に刊行された地図に古墳"Древн.мог."と記入されているが、その考古学資料はネットでは見つからない。名前もわからない。 雨量の少ないトゥヴァには、山地の北斜面のほかは樹木はなく、ただ草が生えているだけだ。川の流れに沿って帯状に延びている茂みもある。山林でもところどころ木々がまばらで草地になっているところには、たいてい古代人の遺物が残っている。地平線が見えるほど広くなくても、草原は生活の場だ。(モングーン・タイガ・コジューンのような山岳地帯でも、山麓の草原にはどこにも古代人の遺跡と現代人のユルタがあった。) 峠のチャラマを一つ越えて15分も行くと、起伏はあるが見晴らす限りの草原の中、低い丘(バイ・タイガ山のずっと麓の小山)の斜面に車やテントの群れが見えてきた。見えては来たが、行きつくまでには乾いた窪地をそっと通り抜け、どこを通ればいいかと、車から降りて周りの地形を見ながら行ったので、さらに20分もかかったが。 地図ではアジク・カラ・スグ鉱泉(標高1295m)と載っているが、入り口の案内板ではベル鉱泉となっている。トゥヴァの鉱泉はたいてい到達困難地にあるが、ここは比較的、村々からも近いので、湯治客が多かった。みんな車で来て、テントに泊まるらしい。中には小型のユルタを広げている湯治客もいる。ユルタもテントの類推で『幾張り』と数えるのか。バーベキューをしているグループもいる。何やら小麦粉をこねているグループもいる。短期滞在の湯治場でも、きちんとした食事をするわけだ。 斜面の上にはチャラマに色布やチベット語を描いた布がびっしり結ばれていて、横の小屋には仏像が安置されている。斜面の途中には木造のシャワーボックスがあり、まわりのベンチに座って順番待ちでもしている人や湯あがりに休んでいる人もいる。『湯』とは言えない。6度から10度の冷水を浴びるのだから。本当は『湯治客』とも言えない。(温度の高い水のことを一語で湯と、言い表す日本語は便利だ。ここでは4度でも99度でも水だ)。ベル鉱泉には塩素、銅、カルシウム、マグネシウム、ナトリウムなどが含まれていると1966年には調査されたそうだ。 鉱泉でディアーナ達は顔と手を洗っていた。本当は、ボックスに入って全身を浴びた方がいいのだ。樋を伝ってきた鉱泉を飲んでもいい。オレーグ・ヘルテックさんはもってきたペット・ボトルに鉱水を汲んでいた。 |
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新旧の寺院 コープ・ソグとクィズィール・ダッグ村 | ||||||||||||
その有名な仏教寺院はクィズィール・ダッグ村にあるのではなく、村から6キロほど離れたテイレル山麓の草原の中で建設中だ。あるいは、テイレル場(メスティーチコ・テイレル)やクィズィール・ダッグも含めてコープ・ソグ谷と言うのかもしれない(グーグル地図による)。村の旧名がコープ・ソグなのかもしれない。1912年生まれでコープ・ソグ(現クィズィール・ダッグとある)出身のトゥヴァでは有名な政治家がいた。つまり、コープ・ソグ(多くの骨の意)草原一帯は現クィズィール・ダッグ村のある場所を含めて、今は村民となっている集団の遊牧地だったのか。そしてのちに集落ができたのか。
草原の中に、数棟の寺院風建物が見えてくる。屋根と外壁が赤や黄色、緑や青に塗られている。庇が反っていて、屋根は2段になっている(天窓がある)。主な建物は完成していて、塀の外には車も止まっていて数人の人影も見える。建築業者らしい。主な建物(本堂と言えばいいのか)に入ってみる。多くの大小の仏像、ダライラマの写真がある。壁には獅子や竜の絵、たぶん輪廻を表した絵もある。赤色と黄色が美しいトゥヴァのチベット仏教寺院だ。仏様にろうそくを点し、お参りする。寺院に入った以上はお参りをすることにしている。(仏教寺院ばかりでなく、どの派のキリスト教の寺院でも、イスラム教でさえ、頭を下げることにしている。宗教には敬意を払わなくてはならない)。 年配の女性が現れたので、話しかけてみる。彼女は、寺院の番人のような役で、ラマは今、留守だと言う。彼女の話と、私が帰国後ネットで調べてわかったことだが、この寺院はコープ・ソグと言って、2012年ぐらいから建てられている。寺院が最初に建てられたのは、番人の女性の言うところでは1857年で、サイトによると300人の僧がいたが、1929年には破壊され、廃墟が残るばかりだった。 だが、1990年トゥヴァで仏教復興の機運が興ると、国内で最初に仏教寺院が再建されたのは、クィズィール・ダッグ村だった。(1990年と言えばソ連崩壊の1年前だ)。しかし、寺院は(地形が)低い村内にあるべきではない、広く、高い場所にこそあるべきだと、モンゴルから来た高位のラマが告げたので、村から数キロ離れたメスティーチコ(場)テイレルに建てられることになった。確かにクィズィール・ダッグ村はヘムチックが幾筋にもなって流れる平地(低地、スクパク草原)にあり、オールグ川(ヘムチック左岸支流)がクィズィール・ダッグ山を迂回するところにある。(だからその村名ができた)。また、山麓のテイレルには19世紀(番人の女性の言ったように1857年か)に建てられたと言う古い寺院が、廃墟にはなっていた。つまり、もともとあったのだ。 私があまり質問するものだから、番人の女性は、黄色い表紙の小さな本をくれた。「トゥヴァ語で書いてあるが」と言いながら。後で、ディアーナに目次だけでもロシア語に訳してもらった。 ディアーナの両親は私たちと別れる。クィズィール市へ行く用事があるそうだ。ディアーナとサイーダさんは私たちと一緒に、クィズィール・ダッグ村へ向かう。
クィズィール・ダッグ村は人口1000人強だが『世界から忘れられた村』、『失われた村』と言われている。(超僻地、通行困難地の集落は、他にもあるが『世界から忘れられた』と言われるためには、僻地と言うだけではなく、それなりの古い歴史や特色がなければならない)。確かに、クィズール・ダッグはトゥヴァでは古い集落だ。旅行案内書などによると、著名な石の彫刻家を多く輩出している村でもあるそうだ。 村に入ると、大きな寺院風の建物があった。テイレルに寺院ができた以上は、そのかつての寺院(1990年代に建てられた)は、今は宗教設備ではなく、石の彫刻をはじめ民芸品などの美術教室になっている、とネットにある。確かに、屋根の縁が反っているほかは、寺院だと思われるようなものはない。道には馬を引いた男性が木陰でたむろしている数人と話しこんでいた。子どももいるし犬もいる。どこの村でもよく見かける姿だ。 私たちはこの静かな村から近道をしてバイ・タイガ・コジューンの行政中心地テエリ村へ行く予定だ。「ナーデム」祭が始まっているかもしれないとサイーダさんが言っているからだ。クィズィール・ダッグとテエリの間は、距離は短いが、オールグ川やヘムチック川の無数の側流が流れている。が、スラーヴァさんは夏の渇水期なので水量が少なく車で渡れると言う。近道をする。村人に、テエリはどちらの方角かと聞いても、怪訝な顔をされた。「途中に水があるよ」と言われてスラーヴァさんは笑っていた。 村を過ぎると、すぐその『水場』が始まる。確かに、こう何本も流れていれば、川と言うより『水場』だった(*)。どれも浅瀬だったが、中には、流れが速く、深そうな流れもあった。スラーヴァさんが靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくって中に入ってみる。岸辺で見ていると腿の辺りまでもつかっている。それでも、上がってきて足をタオルでふくと、スラーヴァさんは車を進ませる。ドアの隙間から水が入ってくるのではないかと思ったくらいだ。 (*)この辺を流れるヘムチック川が一本の太い川にまとまらないのは、地形のせいだろうが、農業を営むわけではないので治水工事はしないらしい。ヘムチックの右岸のバルルィク川の扇状地は灌漑設備の跡はあるが、左岸のここにはない。左岸支流でも、やや下流のホンデレン川には古代灌漑設備の跡が残っているそうだが(ウイグルかキルギス時代)。かなり川幅のある側流もあった。真ん中あたりで動かなくなったらどうしようかとはらはらしたものだ。川岸に上がるたびにホッとしていた。川岸も、今は乾季で湿地帯になっていないので通行できた。流れと流れの間は川が運んできた砂利の硬い地面だった。1時間近くも水場を通行した後、最後の流れから上がるとテエリ村の家々が見えてきた。 |
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バイ・タル村 | ||||||||||||
考古学の文献によると、古代ウイグル族がトゥヴァの地に17(24基ともしている文献あり)の城塞を東西に連ねて築いたうち、バイ・タルの城塞は最も西だった(地図)。北からのエニセイ・キルギス族を防御するためだったとある。17(24)基のうち中ほどのシャガナール城が最も有名で、復元されたミニチュア模型もある。 19世紀末から、外国人(ロシア人が主)探検家による中世の城砦が『発見』された。しかし20世紀のソ連時代、集落の膨張や、農業設備やダム建設、自然の崩壊などによってその場所さえ不明になっている遺跡もある。城塞のうち12基は現在も残っているが、あとは19世紀の文献にはあるが、場所を特定できない。最近航空写真によって、水没城塞のうち夏の渇水期に『シャガナール1』城塞と『バジン・アラーク2』城塞が推測されている。『エリデ・ケジグ』城塞は灌漑設備建設のため、『テエリ』城塞は町の拡大のために完全に破壊された。『バイ・タル(村の旧名はチョーン・テレク)』城塞は、1959年のクィズラソフの描写(縦横170mと165m、壁の厚さ12m)にある場所より数キロ南に、縦横147mと150m、壁の厚さ8m、高さ0.5から0.9mのものが写真に写されていたが、ヘムチック川の多くの支流に挟まれ木々が生い茂って調査は困難。 バイ・タルが最西端の城塞だったのは、ここがエニセイ川とその支流のつくるトゥヴァ盆地の西端でもあるからだ。これより西はアルタイ山脈へと続くシャプシャリン山脈となる。だから、テエリ村からバイ・タルへと続くヘムチック谷草原の道も、バイ・タル村が近づくと前方に山々が迫ってくる。ヘムチック川もここで山川から平地の川になるので、運んできた石を一面に落としていくのだろう。 学校は村の中心にある。15分ほど待っていると校長が来てくれた。今、博物館の担当の先生は村にいないので、説明はできないが、と館内を見せてくれた。展示物はすべてトゥヴァ語の説明文だったので、私にはわからない。トゥヴァの普通の学校は、初等教育はトゥヴァ語で行い、5年生くらいになってからロシア語の授業がある。ちなみに、ここでは校内の展示物の説明文はショイグ(トゥヴァ出身の当時ロシア国防相)に関したものはロシア語、歴代校長一覧はトゥヴァ語だった。 博物館の展示物には、チベット文字でもモンゴル文字でもなく、もしかしたら模様かもしれないが、8字の書かれた鏡のようなものがあった。古い馬具、民族楽器、シャーマンの衣装の他に、仏教の経典がたくさんあった。小さな木の箱に入っている地獄の鬼の絵や亡者が描かれた紙片もあった。日本でも見かけるような、中を開くと屏風折りになっているお経の本もあって、サイーダさんと手に取ってみた。折り目は傷み、表紙の端がボロボロになっている。ソ連時代に、没収されないよう信徒が隠したというお経の本だろう。 ユルタの見本も展示してあって、その前で、私たち4人と校長、初めに案内をしてくれたたぶん宿直の男性、噂を聞いて何となく集まった人たちで写真を撮る。写真は送ってほしいと言うので、メール・アドレスを聞く。どんな僻地でも学校のアドレスはあるものだ(使っているかどうかわからないが)。帰国後写真を送っておいた。果たして開いて見たかどうかわからない。返事はなかった。 |
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チャングィス・テイЧангыс-Тей岩画 | ||||||||||||
このバルルィク扇状地(草原・谷)辺は昔からトゥヴァ人が多く住み、現在の首都を除けば最も人口が密集していて、古代ウイグル人は耕作もおこなっていたらしい。ソ連時代にも灌漑用水路がつくられた。(当時ソ連政府は計画経済でトゥヴァにも耕地を作ろうとした、今は大部分は放置されている)。テエリ村からシュイ村にかけて、つくられた主要用水路がチャングィス・テイと言った。現代、この辺で耕作がおこなっているような景色を、私は見かけなかった(東部のロシア移民が多い地方以外では、今は、トゥヴァ人は耕作をやっていないかのよう)。 用水路は太い樋のような半円筒の土管(コンクリート製)を地上に置き、水を引く、という方法でも設置されたらしい。あるいは、浅い溝を掘って埋めるのか。目的地へ行くまでに、こうした太くて長い樋のような土管(の廃墟)が延びていた。道路を無視しておかれたのか、置かれた後に自然道ができたのか、私たちの行く手の道を土管がふさいでいる。しかし、車が通れる幅だけ土管が破られている。この土管の用水路が、まさか、地図にも載っているチャングィス・テイ水路ではなく、その支流だろう。が、多くある廃墟の用水路というのは、溝になっている場合も、地上で土管に通している場合も、一時は『計画経済』で農業をも目指したトゥヴァには実は、珍しくもない。私たちが、破ってあるところを横切った用水路用の土管は、新しく、水が流れた跡がなかった。 その『破れ水路』から10分ほどのところに小さな岩山があり、その岩肌に赭土で描かれた絵があった。枝分かれした大きな角を持つ動物(青銅器時代か)、自分より大きい弓を射る人間、ラクダ、直立の人、文字のような模様、卍印(これなどは中世の『タムガ』か)、馬に乗る人などが見て取れたが、よくわからない絵が多い。岩に水をかけると赭土の絵は少しは浮き出てくれる。 案内してくれたクジュゲットさんによると、ここには古いものはスキタイ時代からあるとのこと。しかし、この岩画については、帰国後ネットを探してみたが、どんな文献も見つけることはできなかった。 チャングィス・テイ用水路の周囲、チャンギス・テレク山脈の麓などには多くの古墳の場所が地図には載っている。バイ・タイガ・コジューンは登録されている古代遺跡の数がとても多いのだ。 |
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8月9日(土) 黒碧玉の山サルィ・ダッシュの岩画 | ||||||||||||
前年の2013年、アクスィ・バルルィク(旧名アルディン・ブラク、今また旧名に戻ったよう)のディアーナ宅に逗留したときは、クィズィール・マジャルィク村(バルン・ヘムチック・コジューンの行政中心地)の博物館のマイヌィ・ビチェ=オール・サルチャコビチさんに会って、ビジクティグ・ハヤなどの遺跡を案内してもらった。地元の考古学や遺跡に詳しいマイヌィさんに、今年もぜひ案内してもらいたいと連絡したが、残念ながら、家族の病気の看護のため時間がないと言われた。が、それでも半日ならと引き受けてくれた。
11時頃にクィズィール・マジャルィクの博物館でマイヌィさんと会い、彼が、今回案内したいと言うドン・テレジン村の方へ行く。トゥヴァの大動脈の地方道162号線はヘムチック川の右岸(南側)を通るので、左岸にあるドン・テレジンは地図でしか見たことはない。ドン・テレジンのある左岸にも、よい草原が北のアラーシュ川(172キロ)手前の山脈に向けてなだらかに広がっている。トゥヴァはどこでもこんな草原には、古墳がいくつもある(地図上でも「古代の墓地 Древн.мог.」という書き込みが多い)。 村を出て、北の山脈に向けて車を走らせる。マイヌィさんが、その山脈はドゥラーン・カラという名だと教えてくれる。高ドゥラーン・カラと低ドゥラーン・カラがあるそうだ。地図で見るとアラーシュ川に向かって突き出ている。(地図ではティラン・カラТылан-Караとなっているが、マイヌィさんはドゥラン・カラДулан-Караが本来の地元での名前だと言っていた。 なだらかな広い山裾にある古墳を幾つか抜けると、やがて山脈の端にある岩山につきあたる。ここで車を降りて歩いて探すべきだが、スラーヴァさんは車を鞭打って険しい坂道を上る。大きな角ばった石が地面からいくつも突き出ているような山道だ。「いや、もうこの辺でいい。後は歩いて行こう」と乗客たちがひやひやしてつぶやく。かなり高くまで上ってきている。はるか下方には草原が広がり、その向こうに小さくドン・テレジン村の家並みが見える、さらに向こうがヘムチック川だろう。頂上まで上ったわけではないから、反対側のアラーシュ川は見えないが。 私たちはマイヌィさんのあとについて15分ほど歩いた。一面のごつごつした岩の間に草が生えている。ヤギならここまで上ってきておいしい草を食べるだろう。草原の紫や白い花も咲いている。その草の間の岩肌に打刻画があった。四足動物が長い尾を伸ばし、大きな角のある頭を下げているようだった。大小の黒い石を集めた石塚もある。その中の一番大きく平らな面のある岩肌には10個ほどの打刻画がある。別のやや高い場所には、黒い角ばった石で積み上げられたさらに大きな石塚があり、その石塚の正面にある大きな垂直の岩肌に、ぎっしりと打刻画があった。動物や人物、何かの図形などがある。石塚は古墳かもしれない。または神殿かもしれない。マイヌィさんは、お供え物をしている。この山に登るときには、山の主の霊に、こうして許しを乞わなければならない。打刻画のある石は、その他に多くあった。狩りの場面の絵もあったかもしれない。これらの石は大きく黒光りしていた。石塚に積んである大小の角ばった石も、多くが黒光りしている。 実はこの山は、ロシアで唯一の黒い碧玉(ジャスパー)の産地だそうだ。トゥヴァ語で『カラ・黒』と、ギリシャ語からの学術用語『リト・石』をあわせて、カラトゥリトкаратулитと言う。その黒碧玉は硬く、美しいので建築用材などに重宝される。マイヌィさんによるとやがてこの山も、古墳や岩画も含めて黒碧玉産地として開発されてしまうだろうとのこと。岩画は切り取って博物館へ、古墳は調査して更地にする。 岩画や黒碧玉の石塚の多いこの山の南斜面をメスティーチコ(場)サルィ・ダッシュと言うそうだ。サルィСарыと言うのはタカ科のサシバ(差羽)と言う鳥。餌になる小動物もこの地には多そうだ。斜面に座って下方を眺めると、猛禽になったような気分も味わえる。ダッシュは岩の意。 実は、マィヌイ Б.Сさんが館長をしているの国立博物館クィズィール・マジャルィク村分館は、1995年に創設されたが、これは同年にサンクト・ペテルブルグからの考古学者セミョーノフとキルノフスカヤ(現在、クラギノ=クィズィール鉄道建設前の考古学調査もやっている)がこのドン・テレジン村近くのサルィグ・ダシュ(サルィ・ダシュ)の岩画の調査をしたことがきっかけでできたものだ。 |
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テエリ村のナーディム祭 | ||||||||||||
テエリ村のナーディム会場へ行ってみると、各村からのユルタがぼちぼちと広げられていたが、本格的な祭りのコンサートやスポーツ競技、競馬が行われるのは次の日のようだった。人が多く集まるので出店も多い。トラックの荷台に食品などを並べて、下に寄って来た客に上から売るというスタイルもあり、ベビー・カーに肉入り小麦粉団子を並べ移動して売っている少年もいる。テーブルのバケツに血液腸詰(ウインナー)や焼き肉を入れて売っている女性たちもいて、その一団はサイーダさんの知り合いだった。洗面器に内蔵そのものを入れて売っているテーブルもある。自治体専用のユルタには顔写真のポスターなどが張ってある。まだ、準備のできていないユルタもある。 会場の草原の中央は競技が行われるので広く開いていて、周囲にユルタや出店が並んでいる。羊を解体している一団がいて、ヘムチック村から来ているそうだ。近くへ行って見せてもらう。草の上には真新しい皮が大の字に広げてあり、皮の内側は薄くピンク色だが、地面や草には血の跡がない。皮の上には解体したばかりの赤い肉がつんであって、内臓は横の盆の上に除けてある。4本の細い足の先と頭は毛をつけたまま皮の隅に除けてあった。 ユルタの横にはかまどがしつらえてあり、大鍋に内臓を入れてゆでる。血液を詰めた腸はグルメ好み。珍しげに写真を撮っていると、食卓に誘われて、ふるまわれた。と言っても、私に手渡してくれた腸や、どこかの内臓は、私のたっての願いで極小片だ。「お味は」と聞かれて「タコの足のようです」と答える。皆、「たこなんて食べたことない」と、エキゾチックな返事に喜んでくれた。 横にいたスラーヴァさんは一口も食べない。彼は胃腸が弱いと言う。私も決して強くはないが、食べた。解体したばかりのゆでた内臓など、カップ・ラーメンよりずっと栄養がありそうだ。もっと食べればよかった。 |
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2体の石像草原 コジェーリグ・ボヴー(石像の草原) | ||||||||||||
5時半頃にはナーディム会場を出て、2体の石像があると、ディアーナのパパが教えてくれた野原に向かう。しかし野原なら至る所が野原だ。地方道162号線からどの小道へ曲がればいいか、ぐらいしかわからない。たぶん、バイ・タイガとバルーン・ヘムチックのコジューン境のオヴァー広場から山手に曲がったと思う。
石積みの円形の古墳があった。丸石で四角く囲った古墳もあった。古墳は目印にならない。私たちは道らしいところを30分ぐらいも進んだ。土地勘のあるサイーダさんとディアーナも周りを見回して、方向を定めようとしているが、彼女たちも行ったことはない。小路の続く限り進んでみる。道が分かれていれば、微妙な丘の形で判断するほかない。私にはどこも同じ草原、丘陵にみえる。ディアーナのパパは、何やら小川に沿って行くと教えてくれたそうだ。それらしいものはあるが、それかその小川かどうかわからない。試しに進んでみたが見つからない。 斜面にユルタが見えた。住民に聞いてみたらどうだろう。家畜小屋や、物置もある。家畜を囲っておく柵もある。燃料の牛の糞も積み上げてあった。私たちが近づくと、男性とおばあさん、女の子が2人出てきた。犬をけしかけて追い払われることもあるのだが、このユルタ一家の犬は友好的だったし、男性は2体の石像の場所も教えてくれた。この近くで遊牧している牧夫なら、考古学に興味はあってもなくても石像のある場所なら知っている。おばあさんは盲目のようだった。耳も聞こえなかったのかもしれない。私たちの目の前で排便していた。排出物を犬が舐めていたので、ディアーナが「ううっ!」と小さく叫んでいた。女の子たちは愛想よく私と一緒に写真を撮ってくれた。 教えられた通りに行くと、このユルタから10分ほどの、開けた草原に2個の立て石が立っていた。後で10万分の1の地図で、この時の行程をたどろうとしたが、どうしてもできない。 2体の石像は東に向かい、互いに10mほど離れて、何もないただ広く平らな草原に立っていた。たいていの石像のように、地面からの身長は80cmくらいで、手には何かを持っていた。2体ともに頭には髷のようなものが結われていて、胸のあたりで大杯を持つ腕には肘のようなふくらみがあった。腰はくびれていてベルトを締めている。石像の一つはかなり傾いていた。目鼻立ちが掘られているので、表情がある。ディアーナは「こちらが男性でこちらが女性」と言うが、いくら2体だけが並んで立っていても夫婦とは限らない。女性の石像は珍しい。 私たちは伝統にのっとって、石像にお供えをする。コインも置こうとしたが、日本の10円玉しかなかったので、人数分の10円玉を置く。後でディアーナが10円分のルーブルをくれた。 この日は9時頃ディアーナ宅に帰宅した。クィズィールに行っているディアーナの両親は、まだ帰宅していなかった。 |
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アクシ・バルルィックから、アバカン経由クラスノヤルスク | ||||||||||||
8月10日(日)。朝9時前にはディアーナと彼女の兄弟姉妹甥姪たちに別れを告げて、クラスノヤルスクに向けて出発した。西サヤンを越える900キロ近くの距離だが、1日で行きつく予定だったからだ。2013年は途中のチェルノゴルスクに逗留してハカシアの遺跡ややシャラボリーノ岩画なども見たが、今回は地方道161号線と連邦道54号線をひとえに北上して、この日のうちにクラスノヤルスクにつかなくてはならない。全く移動のためだけに移動するなんて面白くない。
アクスィ・バルルィクの荒野も、クィズィール・マジャルィク村の記念広場(ソ連時代風)も、エデゲイ草原(ウイグルの城塞廃墟があった)も、車窓から写真を撮っただけで通り抜け、アラーシュ川を渡り、峠を越えて、アク・スク川を何度も渡り、西サヤン山脈を上って行く。2013年より、舗装道が整備されていて、道路脇にはユルタばかりか、ドライブインらしい小屋まで建っていた。地方道161号線もメジャーな観光路になりつつある。 ハカシア共和国とトゥヴァ共和国の境のサヤン峠には、標識が立っているのだが、標高を表す新しい数字は2214mらしい。2206mと言う古い標識もあったが。山岳ツンドラ帯なので、周りにはトナカイゴケや矮小シラカバが生えている。たぶん、モングーン・タイガ山塊やサヤン・アルタイ山脈くらいの緯度では2100mを越えると山岳ツンドラ地帯のような埴生になるのだろう。 サヤン峠を越えると、ヘムチックの支流ではなく、アバカン川の支流となる(どちらもエニセイ川の左岸支流ではあるが)。支流オン川やオナ川の樹海が美しいのだが、ただ通り過ぎる。いつか時間があれば、クバイカ村にも寄ってみよう。2013年はオナ関所跡によってランチにしたものだ。突厥文書にも出てくるオナ川で、ロシア帝国時代には関所があった。このルートは1960年代にアク・ドゥヴラックのアスベスト運搬用の地方道161号線ができ、サヤン越えの第2の近代自動車道となったが、もともと中世からの4本のサヤン越え道の一つだった。 道路がアバカン川沿いに出て、やがて干し草ロールが転がる草原に出ると、ロシア人の営みを感じる。アバザ市はモスクワの商人が開発したアバカン鉄山からできた町だ。アバカン・ザボット(工場)からアバザ市の名前ができた。 ハカス・ミヌシンスク盆地はトゥヴァ盆地よりずっと穏やかだ。ハカシア共和国は、トゥヴァと違って18世紀初めからロシア帝国領であり、現在ハカス人はわずか(12%、2010年)で、一方、1944年にソ連邦に併合され、住民の82%がトゥヴァ人のトゥヴァ共和国とはサヤン山脈をはさんでずいぶん異なる。 アバカン市も過ぎるとエニセイ川をせき止めてできた広いダム湖に沿った草原を進む。トゥヴァの草原より広く、草丈が高く、みずみずしくみえてしまう。トゥヴァでは見かけない干し草のロールがますます増える。トゥヴァでは東部のロシア移民(古儀式派も含めて)だけが草刈りをする。 ハカシアとクラスノヤルスクの境を通過したのは7時。バラフタ村付近の路上出店(車のボンネットが売り台)で見事なキノコの売り物を見たのが、8時過ぎ。ディヴィノゴルスク市のクラスノヤルスク発電所近くで黄昏がせまり、山の端から顔を見せる満月が見えたのが9時半。スラーヴァさん宅に到着したのはもうすっかり暗くなってからだった。ランチ休憩の他、ほぼノンストップで来たので1日でたどり着けた。 |
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クラスノヤルスクの本屋を廻る。帰国 | ||||||||||||
8月11日(月) ロシア滞在の最後の日、これは、いつものことだが、帰国便に間に合うように開けてある予備の日で、無事この日の前日までにたどり着ければ、クラスノヤルスクの本屋を廻ることにしている。地図かまたは、クラスノヤルスクかトゥヴァについての本はないだろうか。2013年にも回った。同じ本屋へ行って、店員さんに聞いてみると、1年前にも同じ質問をした私を覚えていて、「あまりありませんが、こういうのなら」と案内してくれた。同行のスラーヴァさんは、その店員さんの職業意識に驚嘆していた。
8月11日の夜中にウラジオストックに向けて去った。トゥヴァ滞在は7月14日から8月10日までの27日間で前半はロシア人のピーシコヴァさんやキルノフスカヤさんたちと交流をし、後半がスラーヴァさんの車で、トゥヴァ人だけの村をまわった。どこへ行っても暖かく迎えられた。クィズィール市のピーシコヴァさんとはもう2年目の文通を続けている。博物館のムングーシさんとも連絡を絶やしていない。 村のトゥヴァ人の年配者は電子メールなんて書かない。ムグール・アクスィ村近くのアク・ホリ湖青少年センターで指導員をしていたオクサーナさんとは、文通が続いている。彼女はムグール・アクスィ村出身だが、中学高校はクィズィール市で、そして、今はハバロフスクの大学で学んでいるが夏休みにはムグール・アクスィで過ごしている。トゥヴァの地名などはメールで彼女に聞いている。2015年にもムグール・アクスィ村へ行こうと思っている。 |