クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 21 January, 2014 (追記2月25日)
トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (10)
    西トゥヴァの山中へ
           2013年6月30日から7月27日(のうちの7月20日から7月21日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村 ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ 荒野ウルッグ・オー 夏のツンドラ高原 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 トゥヴァ国立博物館 ビーバーの泉、新鉄道終着点 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 『王家の谷』3日目 連絡係となる 古墳群巡回 シャッピーロさん ショイグとプーチンの予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 ウユーク盆の遺跡捜索 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムからバイ・ソート谷へ 金採掘のバイ・ソート 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 新旧のトゥヴァ地図 エニセイ左岸を西へ チャー・ホリ谷 岩山越えの道 西トゥヴァ盆地 トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/24-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。

トゥヴァ西ヘムチック盆地のバルーン・ヘムチック郡とバイ・タイガ郡
7月20日(日)古代ウイグルの城塞シヴェエリグ・ダック、シヴィリグ鉱泉への道
 ヴァレーリ・デルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんと、やっと連絡がついたので、彼が今いるというシヴィリグ鉱泉場へ翌日、つまりこの日に行くことになった。鉱泉場とは、実は私は苦手だった。普通、現地の人なら1週間以上は湯治するらしいが、場所は極めてワイルド(たとえば、アジッグ・スクのように)。鉱泉を引いてくる樋と、浴びるための板囲い(シャワー・ボックスになる)があるだけで、何もない。みんな自分のテントなどに滞在する。トイレ小屋というのが、テント場からほど近く、鉱泉の板囲いからはやや遠いところにある。
 鉱泉場は、トゥヴァ語では『アルジャーン』、モンゴルやブリヤート語では『アルシャン』、キルギス語では『アラシャン』と言われる霊水の湧き出るところの意味で、昔は医療を担っていたラマ僧やシャーマンが発見し、名前を付けた。ミネラル含有の低いほぼ淡水のアルジャーンもあって、草原では貴重な飲用水となる。ミネラルを含み効能のあるアルジャーンは、たいがい到達困難の大自然の中にあり、だから行くだけでも素晴らしい。が、滞在は苦手だ。トゥヴァにはそれら鉱泉(冷水)、温泉、わき水(泉、淡水)などが200か所以上ある。そのうち、50か所は成分分析がなされ、効能も研究されているそうだ。トゥヴァでは人々は年に1回以上は近くのアルジャーン、または目的の薬効のあるアルジャーンに滞在して療養したり、少なくともリフレッシュしたりする。シヴィリグは数あるアルジャーンの中でも最も有名で、遠くからも湯治客がやってくる。
 実は、私も2004年『サヤン・リング』社主催のツアーで廻ったことがある。辺鄙なところだった。今回は、鉱泉より古代遺跡の方により関心があったが、そこに滞在中という打楽器の先生とも連絡が付いたことだし、鉱泉は浴びなくてもその場所へ行くだけでも、トゥヴァへ来たことになるだろうと思って、この日訪れることにしたのだ。しかし、鉱泉場では最も人出の多いと言うシヴィリグでも、私たちだけでは迷わずに行くことは難しい、という訳でディアーナの両親のヘルティックさんが送ってくれることになった。
 アクスィ・バルルィック村のあるバルーン・ヘムチック郡の西、アルタイ山脈のふもとのバイ・タイガ郡にそのラドンを含有する有名な鉱泉はあって、地方道162号線の終点テエリ村から17キロのバイ・タル村を通りぬけ、大きな石ころや深い穴のある道をさらに16キロ行ったところにあるそうだ。片道3,4時間はかかるのに、送ってくれるとは有り難い。
 9時すぎ、2台の車で出発した。前の車はヘルティックさん運転で彼の奥さん、ディアーナと弟の一人が乗り、先導してくれた。まずテエル村に行きつかなくてはならない。ヘムチック川右岸のアクスィ・バルルィック村から同じく右岸のテエリ村までは実は近いが、途中にバルリック川が幾筋にもなって流れ(川床だけになっている所も多い、当然、沼地も多い)、車での通行は困難なので、クィズィール・マジャルィク村まで戻り、地方道162号線に入ってちゃんとした橋でヘムチック川を渡り、約44キロでテエリ村に着く。地方道162号線はクィズィール市からテエル村までトゥヴァ盆地を349キロにわたって走る幹線道路。(2017年からは地方自動車道『93K-02』となる、正しくはテエルが始点、クィズィールが終点)
 道案内をしてくれたヘルティックさんたちは、道沿いにある遺跡でも止まってくれた。
 それはシヴェエリグ・ダックと言う。アク・ドヴラック市より15キロほど西のヘムチック左岸に突き出るようにそびえている高さ1138mの岩山だ。この辺のヘムチック川は標高900mだから周りより300mくらい高い。橋のあるクィズィール・マジャルィクまで遠回りしたが、ディアーナさんたちのアクスィ・バルルィック村のちょうど対岸にあって、この岩山もアクスィ・バルルィック村に含まれている。ディアーナさんたちの家はシヴェエリグ通りというところにある。これは川を挟んで自分たちの祖先(異論もある)が築いた『砦・シヴェエ』がよく見えるからだ。
「昔は砦だった、砦の跡や岩画がたくさん残っている、車ではそこまで行けない」という説明だけディアーナがしてくれた。シェヴェエリグ・ダックは、確かに前面はヘムチック左岸に着き出て、背後はまわりの山からは谷で隔たっているので周りよりそこだけ高くなって、砦を作るのに最適の場所だったかもしれない。トゥヴァでもハカシアでも、こんな地形の岩山には、堡塁の跡のような石垣や岩画がある。ちなみに、このような山岳築城建造物をハカシアではハカス語で『スヴェ』といい、トゥヴァでは『シヴェエ』と言う。『リグ』は助詞で、『ダッグ』は山だ。(砦のある山の意)。
シヴェエリグ・ダッグ(岩山)とウルッグ・ホヴー(草原)の立石、
左の後方にはディアーナ達のアクスィ・バルルィック村、岩山と草原の間には国道
 シヴェエリグ岩山の北裾野(背後)は谷間が広まっていて、そこには石柱が無数に立っている。地方道162号線は石柱の谷とシヴェエリグ岩山の間を通る。数十個も真っ直ぐ一列に並んで立っている石柱群もある。ここは中世戦士の墓地だと言う。よく見ると、石柱の列はもう平らになってしまった古墳から一列に並んで延びている。古墳は何基もあって、それぞれの古墳から石柱の列が始まっている。しかし、古墳の中央にある最も大きく、戦士の彫像がしてあったかもしれない石柱の方は倒されたり砕かれたりしている。これはまるで、エニセイ・キルギス族か古代ウイグル族の支配者の墓であり、そこから一列に並んでいる石柱はその一族の墓でもあるようだ。あるいは、ハカシアのウイバット草原にあったチャータース(8?9世紀のエニセイ・キルギスの戦士の墓)に伝えられているように一列の石柱は、その戦士(権力者)が倒した敵の数かもしれない。墓標であり、権力者のかたちが掘ってあったかもしれないクルガン中央の大きな石柱が倒されたり砕かれたりしているのは、次にこの地を征服した氏族が前の支配者の墓を破壊したような感じだ。
ウルッグ・ホヴーにある立ち石の列

 ディアーナにこの遺跡の名前を聞いてみると、トゥヴァ語で『キジ(人)・クォジェエ(彫像)』だと私の手帳に書いてくれた。その通りだが、何か固有名詞はないものか。『クォジェエリグ(彫像のある)・ホヴー(野原)』だと、かっこして書き加えてくれた。帰国後だが、地図を見るとメスティーチコ(場)『ウルッグ(大きな)・ホヴー(野原)』とある。(トゥヴァではウルッグ・ホヴーと言う地名は少なくともあと2か所はあるが)。一方、アク・ドヴラック市の高校生の『スヴェエリグ岩山の謎』という小論文(作文)によると、1960年ごろまではシヴェエリグ岩山には砦の跡や岩画も多くあった。麓の谷の彫像は、この砦で戦った戦士の墓かもしれないとある。またアクスィ・バルルィック村の高校生の『シヴェエリグ山の岩画』という題の文もある。どちらにもそれ以上詳しくは乗っていない。ディアーナも知らない。クズラソフ著『古代のトゥヴァ』という本には、、、、翌日の帰り道でも、スヴァトスラフさんとこの谷に寄り、岩画を探した。
石原のバイ・タル村
 バルーン・ヘムチック郡とバイ・タイガ郡(人口1万人、7村)の境の峠だろうか、チャラマや経文を描いた記念碑が立っていた。峠を越えると、また地平線が遠くの山裾に真っ直ぐ広がっているテエル谷に出る。ヘムチック川の右岸はクィズィール・マジャルィク村からアクスィ・バルルィック村、テエル村を含みバイ・タル村まで100キロ近くに渡ってバルルィック川などが幾筋もの側流を作って流れ込む広い扇状地、低地になっているのだ。
 11時過ぎにバイ・タイガ郡の行政中心地テエリ村(3700人、モンゴル語で『中間の』意)に着いた。ヘムチック右岸にあるこの村は、以前はバイ・タイガ村と呼ばれていたらしい。ヘムチック支流の上流などの僻地から人々が移住して『ドルージバ(友好)』村ができ、それらを含めて1940年代にテエリ村ができたそうだ。テエリ村も古代遺跡の上に立っている。ヘムチック川やウルッグ・ヘム川に沿ってあった古代ウイグルの砦の一つだ。山川ヘムチックが、バルルィック川扇状地が開ける平原に出たばかりのバイ・タル村近くにも砦があり、それが最も西に位置することになる。テエリ村近くの砦は2基目だそうだ。さらに、ヘムチックやウルッグ・ヘムに沿って20基近くの城壁があった。ちなみにバイ・タル村の名は20世紀初めの古い地図にも載っている(1913年とある。つまり、1913年にロシア人の定住集落ができた。現在トゥヴァ人の住む集落は20世紀初めのロシア移民の作ったものが多い)。一方、テエル村は当然載っていない。
 テエル村の中心の通りは広場のように広くなっていて、2階建で、トゥヴァ国旗と郡の旗がはためく郡役場、家畜の彫刻のある柵で囲まれた『バイ・タイガ』公園、レーニンの胸像が、入って来る人々を迎えるように立つ『レーニン』公園、戦没者慰霊碑などが並んでいる。
 テエル村からバイ・タル村まで17キロは、ヘムチック右岸の草原を行く。南西から流れてきたヘムチック川はこの低地で何本もの側流となり、南東から流れてきたバルルィック川もこの低地で何本もの側流となってヘムチックに合流する。ちなみに、ヘムチック川は320キロだが、上流から80キロは厳しい山川、バイ・タル村まできて平地を流れるが、チャダン川の合流点を過ぎると、エニセイ川に注ぎこむまでにまだ、ヘムチック山脈を抜けなければならないので、また山川となって80キロほど流れる。ヘムチック川が平地を流れるこの中流がヘムチック盆地(西トゥヴァ盆地)となり、昔からトゥヴァ人が最も多く住んでいた地域だった。
バイ・タル村付近の石原
バイタル村対岸にも続く石原
メシュケン・クリ(湖)

 険しい渓谷から平地に出たばかりのヘムチック畔にあるバイ・タル村からテエル村の草原には、川が運んできた大小の石が、ごろごろしている。ここまで流れてきたヘムチックは平原に出て、流れが緩やかになり、運んできた岩を落として行ったのかもしれない。川岸だけではなく、広い草原の至る所に犬くらいの大きさの石が、無数に転がっている。トゥヴァでは草原は珍しくない。また山川が流れていれば、岸辺には大きな岩がごろごろしている。だが、岸辺だけではなく草原の端から端まで、石原なのだ。ヘムチックは確かに流れの速い力強い川だが、こんなに大きい石をこんなに多く、いったいどこから、こんなに広い範囲に、運んできたのだろうと思ってしまう。
 バイ・タル村(2000人)もこうした石塊群の上にある。自分の家に石庭ができる。
 私たちを先導してくれているヘムチックさんの車は、この村を通り過ぎて、ヘムチックを渡る。ここではヘムチックは大きく2本に分かれて力強く流れている。だから橋がなければ渡れない。スヴァトスラフさんはトゥヴァ旅行と決めて、橋のない川を渡る覚悟もしていたかもしれないが、浅瀬もない急流のヘムチックは難しい。バイ・タル村と言うこんな行き止まりの村によくぞ橋をかけてくれたものだと感謝する。
 バイ・タル村はヘムチック盆地の端で、この先に集落はないが、遊牧基地ならいくつかある。事実、橋を渡ると分かれ道があり、『シヴィリグ直進、スィンダズィン右折』などと書いた細い標識が立っていた。道はますます悪くなり、深い水たまり(ヘムチック川の一部かも)も渡らなければならない。周りには、まだ大石原が広がっている。『トゥラルィグ右折、シヴィリグ直進』と2つ目の標識までくると、谷は狭くなり、石が少なくなり、放牧されている家畜の群れが遠くに見えた。
 やがて、沼地や湿地が見えてきて、次いで湖に出る。メシュケン・クリと言う。この湖のヘムチック側は広い湿地になっていて湖からヘムチックへ流れ出す川もあるので、淡水湖だ。ここにも家畜がいた。
 メシュケン・クリは南北の狭い谷間に納まるように楕円形で、向こう岸には山が迫っている。道路は湖の西側の緩やかに斜面になった草原を通っているが、こんなところにも古墳がいくつもある。……確かに、草原があって水場があれば、古代から遊牧の基地になっていただろう。山々に囲まれて気候は穏やかだったかもしれない。メシュケン・クリの周囲は深い沼地になっているとかで、水を飲めるほど近づくための、特別に石を敷いて作った通路がある。そこには、神聖な場所には必ずあるチャラマも立っていた。
 メシュケン・クリは不気味な湖だ。ここで沈んだ馬が、100キロ以上は離れた湖スト・ホリで見つかったと言うのだ。メシュケン・クリは湿地帯にあって底なし湖のように恐れられたので、こんな伝説が生まれたのだろう。
鉱泉シヴィリグ
 メシュケン・クリも過ぎると山は険しくなり、道の両側には大きめの石ころもごろごろしている。ヘルティックさんの韓国製中古車も、サスペンションがかなり傷んだに違いない。目的のシヴィリグに近づくと、道路に遮断機が付いている。横にいた『門番』さんが私たちを見ると、バーを下ろす。つまり、普通は、上げ下げが面倒なバーは上げたままにしてあるが、誰か新来車を見かけるとあわてて下したかのようだ。これは入場料を取るためだった。自然の中にある鉱泉場は誰のものでもないので、誰でも入れる。しかし、最も人出の多い、このシヴィリグには最近宿泊場などの施設ができたため、領内の入り口に、こうして遮断機を設け、入場料を取るようになったとか。しかし、これはヘルティックさんやスヴァトスラさんには気に入らなかったらしい。払う必要はないと言う。周り道をして入ろうと言う。スヴァトスラフさんは携帯でヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんと連絡をつけ、別の山道を見つけ、悪路だったが、シヴィリグの『無料』テント場にたどり着いた。シヴィリグ鉱泉場にはいくつかの小さな谷間(高原)があり、それらがテント場になっているらしい。私たちの谷間には、20基ほどのテントが張ってあった。テントの横には車が止まっている。人出が多いトゥヴァ・シヴィリグでも、ロシア人の顔はまれだった。
 ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんグループは『ガゼリ』という12人は乗れるワンボックス・カー(ミニバス)で来ていた。グループには10歳くらいの子供が6,7人と大人が5,6人くらいいて、『ガゼリ』や彼のテントの周りの誰までが、ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんのグループか、誰が、たまたまここで知り合っただけなのかは、初めよくわからなかった。帰るころになってもよくわからなかった。
シヴィリグ鉱泉場のキャンプ場の1つ

 彼は打楽器の教師の傍ら旅行業で稼いでいると言う。ドイツからも定期的にグループが来る。グループは12人くらいだと言う。『ガゼリ』に乗れる人数だ。日本からもどうだろうか、と言われる。彼の旅行のテーマは精神的な癒しだそうだ。つまり、シャーマンによる祈祷や、鉱泉浴が主になる。しかし今は、打楽器子供グループが彼の客らしい。

 子供たちの一人は彼の娘さんだった。また大人の一人は彼の奥さんだった。ほかに、マツダ・デミオに乗ってきた年配の男性と、若い女性も彼のグループだった。男性はクルィジャノフスキーといい、クラスノヤルスクの音楽大学(国立音楽・演劇アカデミー)の吹奏及び打楽器講座の準教授で、この一帯(つまりエニセイ川沿いの地方自治体。クラスノヤルスク地方、ハカシア共和国、トゥヴァ共和国)の打楽器の権威だった。もちろん、スヴァトスラフさんとも知り合いだ。ディアーナさんも彼を知っている。ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんは、打楽器子供グループの講師として招いたのかもしれない。子どもたちが丸く輪になって、クルィジャノフスキーさんに合わせて打楽器体操をしていた。
 彼が、いっしょにいる若い女性を、
「僕の生涯の伴侶のアンナです。彼女はオペラ劇場でビオラを弾いています」と、さもいとおしそうに紹介する。彼らは一緒にいるだけではなく、いつも手をつないでいた。ディアーナがびっくりする。
「クルィジャノフスキー先生にあんな若い奥さんがいただなんて。私より若いくらいだわ」。スヴァトスラフさんが訂正する。
「いや、彼は、まだ2度目の妻と別れられないはずだ」
 後で、スヴァトスラフさんが、
「ふん、権力のある老人に若い愛人。古典的な組み合わせだね」と、言っていた。クルィジャノフスキー先生の教え子はもう先生を凌ぐ技量をもち、今や、彼は若い後輩のライバルに追い落とされそうになっているとか。スヴァトスラフさんのクルィジャノフスキー評は辛かったので、私の見方も影響を受けたものだ。
クルィジャノフスキーさんと連れ

 
 私たちを送ってきてくれたヘルティックさんも、シヴィリグの鉱泉をひと浴びすることになった。テント場から数分歩いて登ると祭壇に出る。その奥に新しい木造のボックスが幾つかあり、樋で引いて来た鉱泉を浴びることができる。一つのボックスは二人用で、何も書いてはないが適宜男性と女性用になるのだろう。ディアーナさんと外で順番の空くのを待っていた。入ってみると樋で引いてきた鉱泉が上から勢いよく落ちるシャワー・ボックスのようで、年配の女性が浴びていた。脱衣室はなく、服を脱ぐスペースも飛沫ですっかり濡れている。服をかける釘が何本か出ていたので、タオルや脱いだ服を重ねてかける。鉱泉の温度は6度だと言う。大声をあげたくなるような冷たさだった。事実隣のボックスからワオーという悲鳴が聞こえる。とても流れ落ちる鉱泉の下にはおれない。手足をちょっとだけ浴びてすぐ服を着始めた。先客の年配のトゥヴァ女性に、
「何で、あんたそんなに早く上がるの」と言われたくらいだ。彼女は頭から浴びている。
 ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんは毎年ここへきて、掟(おきて)通り1日4回、1回最大5分間ずつこの薬効あらかたな鉱泉を浴びているそうだ。するとその1年間は絶対に健康に過ごせると言う。スヴァトスラフさんによると、この大自然の中に1週間も10日もいて、冷たい水を1日4回も浴びていれば、ラドンだろうが何だろうが健康になるのは当然と言う。
ユルタ訪問
 スヴァトスラフさんも男性用ボックスで浴びてきていた。ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんが、シヴィリグにはまだ名所が2か所あると言う。彗星が落ちた場所で動物のかたち(ライオンとか)の岩がたくさんあるところと、最上流源泉の『聖岩』だと言う。彗星の岩は、この近くの草原にある。その草原はユルタも張ってあって、スヴャトスラフさんの教え子チンチのおじさんのテリトリーのはずだ、ということだったので、すい星のキリンを見に行くことにした。ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさん自身は行かないが、道案内に2人の男の子をつけてくれた。
「まあ、5分ぐらいだ」と言われたが、30分も歩くと開けた緩やかな草原に出て、遠くの丘の上に岩が見えた。大きな岩がまるで投げ出されたかのように重なり合っている。浸食から取り残された残丘(モナドノック、孤立した堅牢な小高い丘になる)だろうが、確かに地面が浸食によって削られて現れたと言うより、天から降ってきた岩群のように見える。道案内の男の子たちは、するすると登って行く。『彗星』の周りには、それなりにユニークな形をした岩が陣取っていた。…
 ここは緩やかな斜面になっていて、エーデルワイスも咲く素晴らしい草原で、やや下方にユルタが1基見える。横には家畜囲いや小屋がある。チンチのおじさんのユルタかもしれないと近づいて行くと、外に出ていた小さな女の子が急いでユルタの中に隠れた。主婦らしい女性も素早くユルタに入る。非友好的なユルタだ。スヴァトスラフさんが声をかけても返事はなかった。チンチのおじさんのユルタではないですかと言うと、中から男性の声で違うと言ったらしい。チンチのおじさんのユルタはどこかこの近くに張ってないですかと聞くと、知らない、この先にもう1基ユルタはあるが、と言うことだったので、私たち4人は草原をさらに歩いて行った。犬にさんざん吠えまくられるられると言うことは、近くにユルタがあるのだろう。やがて『隣家』が見えてきた。これらユルタに近づいて、獰猛な犬をけしかけられなかったのは、2人のトゥヴァ少年と一緒だったからかもしれない。ロシア人のスヴァトスラフさんは私がトゥヴァ女性に似ていると言うが、私やトゥヴァ人からすれば、似ていない。顔だけでなく体つき、服装などからお互いにはっきり区別がつく。

 この2基目のユルタには年配の女性が一人いるだけだった。私たちが近づいて行くと不審な顔はしたが、追い立てたりユルタに隠れたりはしなくて、話を聞いてくれた。もちろんチンチの親戚ではなかったが、私たちがトゥヴァ女性の名前をあげて、探していると言ったので、あまり警戒されなかったのかもしれない。スヴァトスラフさんが驚いたことには、彼女も元音楽家で、クィズィールの音楽学校出身だった。すると共通の知り合いがいるものだ。ロシア語も通じるので話しこんでいると、そのガリーナ・グィズィムさんと言う白髪の女性が自分のユルタに招き入れてくれた。
ユルタ横で住所を書いてもらう。
背後の羊たちの番は2人の少年が引きうけてくれた

 ユルタには中央にかまどがあり、大きな釜がかかっている。周りには水桶や大鍋が並び、奥にはベッドと長持ち、入り口近くには乳製品を作るタンクのような容器、釜、食器などユルタの生活が感じられる。トゥヴァのお茶や小麦粉団子をご馳走してくれる。ガリーナさんは、話しながらも、外の家畜を気にしている。家畜の番をしていなければならないと言うと、小麦粉団子を食べ終わった二人の少年が走って出て行った。棒きれを持った彼らは家畜の群れを囲むように離れて陣取る。そうして犬と一緒に家畜を囲みながら迷子がでないように少しずつ移動させて草を食べさせるのだ。トゥヴァの少年たちはみんな羊番ができる。
 30分もユルタにいた。お茶や小麦粉団子をご馳走してくれたので、お礼をしたかったが、私は鉱泉帰りで着替えとタオルのポリ袋の他はカメラしかもっていなかった。ガリーナさんは
「私のユルタに日本人が来たなんて誰も信じないから、撮った写真を後で送って」と言う。住所を書いてもらうにも私はメモ帳も持っていなかった。ガリーナさんは長い間ユルタの中を探してとうとう紙切れをとペンを見つけて、郵便番号まで入れた住所を書いてくれた。スヴァトスラフさんはユルタに紙とペンがあることに驚いていた。それも、話のついでにちょっと出たそうだが、彼女の夫は役所で仕事をしていたかららしい。
 ガリーナさんの住所はテエリ近くの元コルホーズ村らしい。冬場はそこに住んでいる。帰国後写真を郵便で送ったが、受け取っただろうか。返事は期待できないが。

 ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんたちの『ガゼリ』や、スヴァトスラフさんの『M47』、クルィジャノフスキーさんの『デミオ』のある私たちの場所に戻ったのは6時頃だった。もうヘルティックさんたちは去っていた。彼らは、今年は、もう少し後で、シヴィリグではなく、別の鉱泉、筋肉や関節に効くと言う鉱泉に行く予定なのだ。これは、2歳でまだ自分で動くことのできない水頭症の孫のためだ。
 私も日帰りしたいところだったが、なり行き上、一泊することになった。ヴァレーリーさんが一人用テントをかしてくれると言う。寒いようなら『ガゼル』のシートで寝たらいいと言ってくれる。
テントからぶら下がっている干し肉
大の字の羊の皮

 グループを運ぶ『ガゼル』の車の下には薪が摘んである。横の草はらに羊の毛皮の敷物があった。と、初めは思ったが、聞いてみると、これはまだ新しいそうだ。ヴァレーリーさんは打楽器教師の傍ら『ガゼル』で旅行業もやっているそうだが、今は打楽器グループの子供たちを乗せてクィズィールからシヴェリグに来ているのだ。参加者からの旅費には3食も含まれているので、旅行主催者の彼は、鍋はもちろん料理用の薪や食料も手持ちしたのだ。ちなみにシヴィリグの遮断機近くにある事務所には薪が売っているが、トゥヴァ人旅行者は食料を積むと必ず薪も摘む(薪をわざわざ買うなんて外国人のすることだ。トゥヴァ人はただの薪なんて買わない)。ヴァレーリーさんは小さめの羊も1頭、『ガゼル』に乗せてきたのだ。なるほど、その方が新鮮な肉が食べられる。テントの屋根からは干し肉がぶら下がっていた。
 草むらに大の字になって寝ている羊は毛皮だけになっていた。さすが、トゥヴァ人。羊1頭の利用の仕方が巧みだ。

 この日は、ヴァレーリーさんの『ガゼリ』のフロント席で寝た。シヴィリグは1500mくらいの高度にあるので、テントで寝たのでは夜間冷えると思ったのだ。『ガゼリ』の座席はあまり寝心地はよくなかったが、寒くはなかった。
 このテント場のトイレ小屋は500mも坂を上ったところにある。登るだけでも息が切れる。それも、間に合うように登らなければならない。登っても順番ができていることもある。私は少年2人に順番を譲ってもらって、間に合わせたものだ。
7月21日(日)源泉の『聖岩』
 シヴィリグは高山(アルタイ山脈の支脈)の小さな谷間にある。直線で50キロほど西には有名なモングレーク山(3480m)があって、バイ・タイガ郡は、その南のモングーン・タイガ郡とともに、トゥヴァでは高山地帯だ。モングーン・タイガ郡にはトゥヴァでは最高峰3970mのモングーン・タイガ山が聳えている。3608mのアク・オユーン山と3577mのムンジュリン山もバイ・タイガ郡にある。ちなみに、シベリアで最も高いアルタイ山脈は、長さ1833キロ、幅1182キロで、カザフスタン、ロシア、モンゴル、中国にまたがる。最高峰ベルーハ山(4506m)はロシアとカザフスタンの国境にあり、モンゴルや中国との国境にも近い。
 高い山々に囲まれているので、この日6時半ごろでも、フロントガラス越しの外界はまだ薄明るいだけだった。7時半になってやっと山の端から太陽が見えだした。この日はヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさん案内で最上流の源泉の『聖岩』(『心臓の岩』とも言う)へ上る。15分くらいだと言う。実際は、40分くらいはかかった。子どもは5人参加した。
途中にあった石柱

 シヴィリグと言えば鉱泉しかないと思っていたが、すい星の岩やその麓のユルタも、『心臓の岩』も、さらに、ちょっと足を伸ばせば3480mのモングレーク山もあるのだ。『心臓の岩』の途中には、石柱も一基あった。古代戦士の一人ぼっちの墓か、あるいは、昔のシャーマンの霊場だったのかもしれない。コインがお供えしてあった。もちろん、遺跡として発掘調査などはされていない。トウヒの森も近くにあって、紫や黄色の花の咲く小さな草原だった。
 そこから10分も登ると『心臓の岩』があった。大きな岩肌が草木の間から見えていた。高さは人の背ほどはある。前には、お供え物がたくさんおいてあり、周りに木々にはチャラマのリボンが結んであった。ここで私たちはトゥヴァ風の儀式を執り行う。まず、一行の中で最も年配の男性(彼は妻と、ガゼルの横に古いテントを張っていた)が9個の凹みのあるスプーンに乳を注ぎ、呪文を唱え四方に飛ばす。私たちは順番にスプーンを握り、乳を飛ばした。それから、そのペットボトルに詰めてきた乳を回し飲みする。
 この儀式を執り行わないと、シヴィリグの薬効は現れないに違いない。私たちが降りようとすると、車で上ってくる家族がいる。ヴァレーリーさんは、神聖な場所へは車や馬に乗ってきてはならないのに、と言う。スヴァトスラフさんは、車でここまで上がって来られる道があるのか、と聞く。ユルタのあった草原の方に廻り道すれば、登って来られるそうだ。
 帰り道、別のシャワー・ボックスに寄った。こちらの方は古くて、ドアも更衣室もない。屋根はある。スヴァトスラフさんは、上半身だけ脱いで頭から浴びていた。
 元の場所に戻ったのは1時頃だった。スヴァトスラフさんが持ってきたカセット・コンロで、スヴァトスラフさんが買ってきたカップ・ラーメンを食べて、すぐ帰途に就きたいところだった。が、クルィジャノフスキーさんのデミオのバッテリーが上がってしまったとかで、スヴァトスラフさんが自分の車から通電してあげていた。この日、クルィジャノフスキーさんもクラスノヤルスクへ帰るそうだ。帰り道がよくわからないから、スヴァトスラフさんに先導してほしいと頼む。だから、クルィジャノフスキーさんとその『生涯の伴侶』さんが帰り支度するのを待っていた。彼は、もう一度鉱泉を浴びてきてから帰り支度をしている。私は、濡れた脱衣場で服を脱ぎ、脱いだ服を水しぶきのかからないよう釘に掛け、氷のような水を浴び、体を拭いてまた服を着て靴をはいでボックスから出てくると言うプロセスを考えると、昨日の『お試しひと浴び』でたくさんだと思って、ただテント場を歩きまわって時間を潰していた。
 クルィジャノフスキーさんは打楽器ではこの地方全体の権威なので、スヴァトスラフさんもヴァレーリーさんも表面は敬意を表している、ようだ。私はむっとした顔で彼らが帰り支度をするのを眺めていた。2時半ごろやっと出発。
再びバルルィック谷へ
 来るとき、ディアーナのアクスィ・バルルィック村からシヴィリグまでの道のりが素晴らしかったので、帰りにはもっとよく見たいと思っていた。クルィジャノフスキーさんのデミオもついてきたが、私としては彼らがこの1本道、迷子になるはずがないと思っていた。だから、出発は待ってあげたが、この先、ついて来てもいいし、追い抜いて行ってもいいし、私たちの止まるところで止まって待っていても、待っていなくてもいい、と思っていた。
 谷間の道をゆっくり行く。狭い野原があると家畜の群れが草を食べている。20分くらいで、『不気味な湖』メシュケン・クリが見えてきた。トゥヴァ晴れの真っ青な空の下、山々に囲まれて、無人なのでそれほど陽気でもないが、怪しい霊気が漂っていると言うほどでもない。湖の周りは干上がった湿地帯のように、草がまばらに生えているだけの荒れ地だった。クルィジャノフスキーさんのデミオは先に行かせて、湖の写真を撮ったり、西岸の斜面にあるクルガンを見て回ったりしていた。20基くらいはあった。
 バイ・タル村近くのヘムチック畔まで来ると、クルィジャノフスキーさんのデミオが私たちを待っていた。彼は地図を全く持っていないのだ。簡単な地図1枚でもあれば、ここまできてクラスノヤルスクまでの道がわからないと言うことはないのに。
 4人で急流ヘムチックの畔で一休みした。スヴァトスラフさんは、また上半身を川の水で洗っている。3時半ごろ出発してバイ・タル村を通りぬけたところで、デミオが見えなくなった。村外れの石原で待つ。スヴァトスラフさんは、村の道路があまりに悪かったので、デミオのような弱い車は穴ぼこに落ちて上がれなくなっているか、石塊を避けきれずに乗りあげて降りられなくなっているかもしれない、と言っている。10分ほども待っていた。こんな印象的な『巨礫が原』でなら、もっと待っていられる。自然が運び自然が残した大石が散らばる広い草原、昔の低地の氾濫原はいくら眺めていても見飽きない。
 クルィジャノフスキーさんはただ村の中で道を迷っただけで無事通り抜けてきた。ヘムチックの右岸を通ってテエル谷に入る。テエル村の中央広場で、またクルィジャノフスキーさんを待つ。村は普通1本だけ大通りがあるものなので行き違いになることはないのだ。村を出ると道路の両側は湿地帯だった。ヘムチックを渡って左岸に出る。峠のチャラマは、素通りした。クルィジャノフスキーさんたちは止まって見物。私はシヴェエリグと石柱の原っぱをもう一度見ておきたかったので、先に進んでもらった。シヴェエリグ岩山の麓で、クルィジャノフスキーさんも石柱に興味があるかと待っていた。しかし、ロシア人はトゥヴァの古代遺跡などにあまり関心がないものだ。彼らは、ギリシャ・ローマやビザンチンに敬意を表し、より親近感を持っている。
 クルィジャノフスキーさんとは、シヴェエリグ岩山麓でやっと分かれた。アク・ドヴラック市と目と鼻の先にあるここまでくれば、クルィジャノフスキーさんでもいくらなんでも自力でクラスノヤルスクまで帰れるだろう。私たちは野原に入って、石柱を1個ずつ丁寧に見て岩画を探した。1列をなしている石柱に岩画が多くみられた。もっと前の時代の石をリサイクルしたのかもしれない。
 スヴァトスラフさんはシヴェエリグ岩山に自分の車『M47』で登れるかもしれないと言う。少なくとも裏側のややゆるい斜面をたどれば、途中まで可能だと言う。彼は急斜面を乗りまわすのが大得意なのだ。そのためにこそ、『M47』のチューニングに冬じゅう励んで来た。
シヴェエリグ岩山のヘムチック側
川岸に木が茂る
その向こうがアクスィ・バルルィク村

 頂上にあると言う砦跡までは乗行できなかったが、岩山の中腹をぐるぐる廻った。家畜の群れもいたし、ユルタもあった。冬営地のような小屋もあった(後でネットで偶然にも知り合ったクィズィール・マジャルィクの少年によると、彼のお祖母さんはウルッグ・ホヴーに冬営地を持ち、エデゲイに夏営地を持っているそうだ)。小屋のすぐ横にはクルガンもある。ヘムチック川岸に出ると向こう岸にアクスィ・バルルィック村が見えた。この辺は岩山でなければ沼地になっているようだ。季節によっては、沼地は良い牧草地になる。今の時期、乾燥しているのでその低地を走れた。トゥヴァは、最も恵まれた気候のヘムチック盆地といえども、厳しい自然だ。
 アク・ドヴラック市近くでもう一度ヘムチック川を渡って、アクスィ・バルルィック村のディアーナさん宅に戻ったのは、7時半。食卓ではたくさんご馳走が出されたが、もう私の消化器は参っている。親戚の学校の先生サイダさんが来てくれた。明日の近辺の見どころについて教えてもらう。
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