クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 21 January, 2014  (追記 2014年2月6日,10月22日,2015年2月23日,2016年7月4日,2017年6月2日,2018年11月1日,2019年11月8日、2021年10月12日、2022年12月16日)
31−(1)    トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (1)
    クラスノヤルスクからサヤン山脈を越えてトゥヴァへ
           2013年6月30日から7月27日(のうちの6月30日から7月2日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013-27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村(地図) ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ(地図) 荒野ウルッグ・オー(地図) 夏のツンドラ高原 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 クィズィール博物館 ビーバーの泉 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 考古学者たちと 連絡係となる 古墳群巡回(地図) シャッピーロさん プーチン達一行の予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 ウユーク盆地北の遺跡 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムを去る 金鉱山のバイ・ソート 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 エニセイ左岸 チャー・ホリ谷 岩画を探す 西トゥヴァ盆地へ トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/24-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカシア、ハカス盆地。
 トゥヴァはアジアの中心、モンゴルの北西、ロシアのハカシア共和国(ハカス共和国)とクラスノヤルスク地方の南にある。
ロシア連邦トゥヴァ共和国
トゥヴァ拡大図は前編『トゥヴァ紀行』の地図参照
 昔はウリャンハイ地方と言って、1911年までは清朝中国の領土だった。清朝崩壊後は、ロシア帝国保護領となり、ロシア革命後の1921年タンヌ・トゥヴァ社会主義人民共和国として独立したが、1944年にソ連邦に合併され、トゥヴァ自治共和国となった。1991年ソ連崩壊でトゥヴァ共和国と改名。現在、ロシア連邦の連邦構成主体の一つである。ロシア連邦内の21の民族共和国(連邦構成主体は全部で83または85)のうちではロシア人の割合が最も低い自治体の一つで(ロシア人18%、しかし、ソ連邦時代は50%以上だった)、トゥヴァ語を母国語とする住民の割合が高い。
 サヤン山脈、アルタイ山脈、タンヌ・オラ山脈に囲まれた盆地にあるトゥヴァ共和国は、面積17万平方キロ(日本は38万平方キロ)、人口は31万人で、人口密度は平方キロ当たり2人弱(日本は343人)。同共和国に住むトゥヴァ人は25万人。他に、モンゴルや中国、ロシア連邦のクラスノヤルスク地方などにも住む。
『2012年のトゥヴァ紀行』の後、2013年の計画を立てる
 2012年初秋に『トゥヴァへ行って来ました』と、バイカル湖畔で民宿をしている知り合いにメールを出したところ、自分たちのところにも、トゥヴァから来て親しくなった宿泊客がいたと、そのタチヤーナ・プルドニコーヴァさんという女性を紹介してくれた。その民宿の知人によると、ウブス・ヌール国際研究所(*)のタチヤーナ・プルドニコーヴァさんは、考古学にも詳しく、バイカル湖の民宿滞在中、地元の子供たちにトゥヴァの遺跡についても講演してくれて、とても好評だったそうだ。彼女はトゥヴァ人ではなくロシア人だということだった。
 ロシア・アカデミー・シベリア支部ウブス・ヌール国際生物圏研究所。ウブス・ヌール(湖)はモンゴルとトゥヴァにまたがっているから国際となる。本部はクィズィール市にあり支部は、ウブス湖畔ほか8か所がある。

 タチヤーナ・プルドニコーヴァさんは私のメールに、長くはないが必ず返事を書いてくれた。おかげで、ウブス・ヌール(湖)の畔ではなく、クィズィール市に住んでいること、夫婦ともが地質学者であること、夏場のシーズン中は調査旅行でほとんど自宅にいないことなどがわかった。来年(2013年)の調査旅行に、私を連れて行ってもいいと書いてくれたので「ぜひとも」と返事した。タチヤーナさんも私も、その時はあまり実現するとは思っていなかったが、文通を重ねていくうちに私は本当に行きたくなり、たぶん彼女は引けなくなったのだろう。トゥヴァへはどこへ行きたいのかと聞いてきたので、トゥヴァの知っている限りの僻地を書いた。いつごろ、どのくらいの期間で、と尋ねられたので、時期はいつでも都合がつく、期間は2週間から4週間と、少し遠慮して返事した。タチヤーナさんは、地質学調査旅行とは厳しいもので、蚊に悩まされながら酷暑の中で地面を掘ることだ、と書いてきたが、そんな僻地へ行けるなら、ぜひ行きたい。
 2013年の春の初めになって、テス・ヘム地方(テス・ヘムの流れる南東方面)やバイ・ソート地域(アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈南麓)、ヘムチック方面(ヘムチックの流れる西部方面)へ行くかもしれない、ヘムチックは大変遠い、バイ・ソートは車をチャーターして行かなければならないが私の席があるかどうかわからない、6月にはモンゴルに調査旅行に行って、いつ帰るかは未定、テス・ヘムは7月前半に学生を連れていく、と少し具体的になり、クィズィー市では自分のところに泊まってください、と申し出てくれた。
文通中のタチヤーナさんから送られてきた写真
2012年、クラスノヤルスク郊外の丘で。
スヴャトスラフさんと愛車『M76』  

 これで、2013年のトゥヴァ旅行の予定は決定した。6月終わりにクラスノヤルスク市にひとまず到着し、そこから電話してタチヤーナ・プルドニコーヴァさんがモンゴルから戻ったことを確かめて、車でクィズィールに行く。テス・ヘムはモンゴルとの国境地帯なので許可がいるが、それは彼女が、みんなの分と一緒に取ってくれる。去年も少しだけ訪れた『王家の谷』クルガン(古墳)群発掘場に、時期を見て一緒に行く。さらにどこへ行くかは、タチヤーナ・プルドニコーヴァさんが決める。ロシア滞在期間は全部で4週間と決めたが、クィズィール市では住むところがあるので安心して滞在できる。
 4週間も彼女のお世話になるのは悪いので、後半には、クラスノヤルスク市からスヴァトスラフさんに迎えに来てもらって、彼とトゥヴァでも南西のアルタイ山脈近くの湖へ行こうと予定を立てた。スヴァトスラフさんは、本当は音楽カレッジのピアノの先生だが、クラシックカーの改造に凝っていて、その高駆動の改造車で旅しよう、と言ってくれたのだ。スヴァトスラフさんとは10年前に、彼が日本でのピアノ・コンクールに生徒を連れて行った時、当時、クラスノヤルスク大学(そこで私は日本語講師をしていた)が夏休みで日本に帰っていた私が電話で通訳してあげた(彼のコンクールは私の住む県と離れていた)。その後、音信は途絶えていたが、2012年、音楽関係の知り合い(2002年のエニセイ川クルーズで知り合い、2012年ネルリさんを通じて再会したヴァイオリニストのリュドミラ・パブロヴナ Людмила Павловнаさん)を通じて思いがけなく再会できた。話しているうちに、自分の改造車で来年(2013年)ハカシア方面を廻ろうと言うことになった。その時はあまり実現できるとは思っていなかったが、文通を重ねて行くうちに、具体的になっていったのだ。
 ハカシアよりトゥヴァを回りたいと書いたが、スヴァトスラフさんは
「トゥヴァを車で回ったことがない。トゥヴァではロシア語が通じない所が多い、反ロシア感情が強くてロシア人には危険であるばかりか、携帯が通じない場所も多い。車2台でグループで行くなら可能なので、知人に当たってみよう。もし、希望者がいなければ、自分がよく知っているハカシアや、自分が行ってみたいクラスノヤルスク南部(エニセイ右岸)の方がいい」と書いてきた。それで
「トゥヴァは男性なら兵役があって、そこでロシア語を覚えるはずだ。ハカシアはたいていのところはすでに訪れている。クラスノヤルスク南部(エニセイ右岸)でもいいが、もし、スヴァトスラフさんにトゥヴァに知り合いがいるなら、その知り合いを頼って行くのはどうか」と頼んでみたところ、「連絡ができるかどうかわからないが知り合いが2,3人いることはいる」と言うことだった。トゥヴァ拡大図は前編『トゥヴァ紀行』の地図参照

 タチヤーナ・プルドニコーヴァさんとの予定と、スヴァトスラフさんとの予定は平行してたてておいた。どちらかがだめになってもトゥヴァ旅行は実現できる。どちらもだめにならなかったが、こうしておいてよかった。タチヤーナ・プルドニコーヴァさんは7月後半、学会の出席があったし、スヴァトスラフさんとは有料なので7月19日から26日と言う8日間がちょうどよかった。
 こうして、クラスノヤルスクに着きさえすれば、いつものディーマさんが手配してくれる車で800キロ南のクィズィールへ行き、そこからクラスノヤルスクへ戻るのはスヴァトスラフさんの車がある、途中のチェルノゴルスク市で(ハカシアの首都アバカン市から20キロ北で、クラスノヤルスクから370キロほど)、いつものサーシャの家で泊まればいい、と決めた。
 タチヤーナ・プルドニコーヴァさんに、テス・ヘムの他はどこへ廻るのかと聞いても、彼女の家に7月19日頃まで滞在しようと思うが、それより早く引き揚げた方がいいか、もっといてもいいかと聞いても、
「その時になってみなければわからない」と言う返事だった。(後で少しずつ分かったことだが、タチヤーナ・プルドニコーヴァさんとは、正確な予定をたてることは不可能だった、これは短期間で効果的に回りたい旅行者には、都合が悪い。しかし、トゥヴァとはこんなところだ。彼女はロシア人だが)
 スヴァトスラフさんはまず、チンチЧинчи(トゥヴァ語では首飾りなどのビーズ玉と言う意味)と言うトゥヴァでは可愛い女の子の名前の教え子と連絡を付けてくれた。実家はムグール・アクスィ村と言うアルタイ山脈とモンゴル国境に近いトゥヴァでも最も南西にあり、地図では、近くにヒンディクティクと言う山の中の湖がある。素晴らしいところだ。チンチさんは、クラスノヤルスク音楽学校を卒業してからトムスクでピアノを続けている。スヴァトスラフさんが今度のトムスク市でのコンクールで審判になったそうだ。その時に会うから話してみようと言うことだった。その後、スヴァトスラフさんからのメールによると、
「チンチのパパが途中まで車で迎えに来てくれる」と言う。そして、ムグール・アクスィ村では彼女の実家に宿泊し、ヒンディクティク湖まで送りましょうということだった。スヴァトスラフさんがコンクールの審判であるからだけではなく、田舎では遠方からの客は懇ろにもてなすものなのだ。
 ムグール・アクスィも国境地帯なので許可が必要だ。スヴァトスラフさんが5月の中頃、連邦保安庁クィズィール支部に二人分の申請書を提出したところ、すでに私の名前で許可申請が出ていた、とびっくりしてメールをよこした。それは1カ月以上前に、タチヤーナ・プルドニコーヴァさんが出してくれたもので、7月前半のテス・ヘム方面への学術調査許可申請書だ。今回のは7月後半のムグール・アクスィ方面への知人訪問許可申請なので、たぶん別々に回答が出るのだろう、と思った。

 だいたいの日程が決まったところで、5月半ば、クラスノヤルスクまでの航空券を購入する。2012年は富山空港から北京経由、クラスノヤルスク行きのコースで、往復が燃料費など費用込みで13万以上かかったが(出発日を変更したので、さらに5万円以上の追加)、今回は成田、ハバロフスク経由でクラスノヤルスクというコースで往復、7万円ほどだった。今年のダイヤでは、ハバロフスクでの乗り継ぎがうまくいくので、こちらにできたのだ。往は、朝7時に家を出ると、その日の夜10時半にはクラスノヤルスクに着く。帰りは、夜11時にクラスノヤルスクを出ると、次の日の10時には成田に着く、というロス時間の少ない行程だ。クラスノヤルスクは日本と1時間の時差(日本はハバロフスクより2時間遅いことになっている。クラスノヤルスクはハバロフスクより3時間遅い)。ちなみに、去年のダイヤでは乗り継ぎ便をハバロフスク経由にしても、ウラジオストック経由にしても2日も待たなければならなかったので、このアエロフロート便はやめて、中国航空便にしたのだ。

 出発の数日前、スヴァトスラフさんから、
「クィズィール市の連邦保安庁に問い合わせてみたが、ムグール・アクスィへの許可は出なかった、理由は告げないことになっている」とメールが来て、がっかりした。ムグール・アクスィ村のチンチの他に、ディアーナと言う教え子がテエリ Тээли村近くにいるから連絡してみる、彼女の他にもクィズィールの音楽家の知り合いに連絡してみると言うことだった(後述)。
7月1日、クラスノヤルスクからクィズィール市へ向けて出発
 予定通り、6月30日に成田を出発して、ハバロフスク経由でその日のうちにクラスノヤルスクに到着し、出迎えてもらったディーマさんの車で『アグニィ・エニセヤ(エニセイ川の灯)』ホテルに着いた。昔は、シャワーやトイレは廊下の端に1か所だけしかないような古いタイプのホテルだったが、最近改造してシティ・ホテルのようになっている。値段も3000ルーブル(9000円)くらいはするらしい。(クラスノヤルスクにしては高め。招待者のディーマさんが出してくれた、自宅は奥さんがお産で取り込み中だから、と後でわかった)。受付では、ワイファイもありますと言われ、私の部屋は5階なので、5階のワイファイのパスワードはこれです、と宿泊カードに書いてくれた。5階の窓からエニセイの流れを見るのは素晴らしかったが、パスワードを入れてもアイフォンは接続できなかった。接続できないと、受付に降りて言うと、1階のワイファイならパスワードなしで通じるし、先ほどまでだれか男性が使っていた、と言う。接続はできたが、受付カウンターから少し離れると切れてしまう。
ホテルの窓から、エニセイ川の眺めと川岸通り

 タチヤーナ・プルドニコーヴァさんにはすでに日本出発直前に電話して、彼女はもうモンゴルから帰ってきていること、7月2日中にクィズィール市の彼女のアパートに自力で行くということが確認してあった。クラスノヤルスクからクィズィールまで800キロは、普通は1日の行程だが、途中寄りたいところもあるので、7月1日に出発することにする。ロシアでは、個人招待で到着した旅行者は、短期逗留手続きをしなくてはならない。それを7月1日の午前中にすませ、午後には、ディーマさんが手配してくれる車で出発したい、と頼んであった。ディーマさんは朝10時に私に電話してから迎えに来ると言う。それで、9時から10時まで、スヴァトスラフさんにホテルで会って、7月19日クィズィールに迎えに来てくれることの確認をしておくことにした。

 すべて予定通りにすすみ、7月1日11時、ディーマさんの会社に到着した頃には、クィズィールまで私を送ることになった運転手のパーシャも準備を整えて待っていた。ディーマさんにルーブルを10万円分ほど借りて(清算は日本でする)、逗留手続きについて確認して、12時には出発していた。
 途中、去年も寄ったクルタック石器時代遺跡に寄った。クラスノヤルスク教育大学のキャンプ場があるのだが、関係者は誰もいなかった。7月1日の夜は、チェルノゴルスク市のいつものサーシャ宅に泊まった。もうアバカン市近くまで来たとタチヤーナ・プルドニコーヴァさんにショート・メールを入れたが、彼女は直通でクラスノヤルスクからクィズィールまで来ると思って(普通は1日で行ってしまう)、夜中の3時に電話してきた。「今、知り合い宅に泊まっている、2日の午後クィズィールに着く」と伝える。私が到着するかと、夜中の3時まで待っていてくれたのか…
 タンジベイ村
 7月2日(火)朝、チェルノゴルスク市のサーシャ宅を出発して、クィズィール市までは山越えはあるが400キロの行程だ。午後には着くが、途中のタンジベイ村を通り過ぎたくはない、と思っていた。タンジベイ村は連邦道54号線が西サヤン山脈を越える前の最後の村で、ここを過ぎると、100キロは全く集落がない。西サヤン山脈の向こう側のトゥヴァ共和国のトゥラン市までの180キロは、ガソリン・スタンドもない。前年は、ネルリさんの知り合いの『蒸し風呂と宿』と看板の出ている家で、持ってきたお弁当を食べた。今回、タンジベイ村では唯一の顔見知りなので、一応そこに車を止めた。
 不審な顔で近づいてきた主人夫婦に、
「私のこと覚えていない?」と聞くと、すぐににっこり微笑んで、
「覚えている、覚えている」と答えてくれる。ここで食事してもよかったが、予約なしでは準備できていないと言うことだった。次回は予約しますと、電話番号をメモしておく。
 村の博物館はどこにあるのでしょう、と聞くと、博物館なんてないという答え。小さな村でも中学校があれば、学校付属博物館がある。2008年にここで給油した時、村の名前の響きが面白いので覚えていて、帰国後ウェブ・サイトを調べてみると、地元の学校が出している詳細な記事があった。当時としては珍しいサイトで、なかなか充実した内容だった。この村が位置するクラスノヤルスク地方では最南端で、西サヤン山脈の北斜面を占めるエルマコフ区の地形、河川、湖、動植物など、周囲にふんだんにある自然について写真付きで説明してあり、読むと面白かった。2012年に通った時、その学校に寄ってみたいと思ったが、時間がなかった。今回は、ぜひとも、そのサイトの製作者の先生に会いたいと思ったのだ。
 『蒸し風呂と宿』の主人夫婦は、中学校なら知っていると、小ケベジ川に架かる橋を渡って案内してくれた。学校は夏休み中で閉まっていたが、学校の修理を手だっていたらしい先生の一人が、顔見知りの村人『蒸し風呂と宿』の主人と日本から来たと言う私を見て、すぐ宿直室から鍵を借りて開けてくれた。ここも大修理中で展示品は少なかった。
 学校博物館を運営している地理の先生は、連邦道で野生イチゴを売っていると言うことだった。村人はシーズン中、『森の恵み』のキノコや木の実、野生いちごなどのベリー類を採集して、道路に座って都会からの車に売っている。(大都市近郊の村々では自宅前に台を置いて売り、遠くの村々では村に近い主要道で売っている)。ジャガイモ、はちみつなどの自家製の作物 や、白樺の箒(蒸し風呂のときこれで体をたたく)など手製の作品のこともある。その日集めた野生イチゴ類などが売り切れれば引き上げる。案内してくれた『蒸し風呂と宿』の主人は、もうそろそろ売り切れて、この道を通って家に帰るころだ、という。田舎は、すごい。みんなお互いに知っている。ゆっくり車を走らせて行くと、ちゃんと、そのスヴェトラーナ・ボイコ先生に出会って、事情がまだ呑み込めないような彼女を乗せて、学校に戻った。
タンジベイ学校の地理の教室,
夏休み中なので椅子が上がっている

 ここで30分ほど、タンジベイ博物館ウェブ・サイトの製作者さんと話ができ、彼女は『エルマコフ区の自然』と言う本をくれた。いくらタンジベイと言う名前が変わっているからと言って(シベリアではロシア語でない村名は多いが)、エルマコフ区の行政中心地でもないタンジベイ村の中学校の出しているウェブ・サイトを見たというだけで、日本から訪問者があったことには、最後まで納得がいかないという親切なボイコ先生には、帰国後お礼のメールを出しておいた。案内してくれた『蒸し風呂と宿』の主人によれば、先生に謝礼した方がいいということだったので、本代として払おうとしたが受け取らない。こういうときのために日本から持ってきた小さなお土産品のほうは受け取ってくれた。ちなみに、メールにはすぐ返事がきた。これは、まだインターネットは役場や学校にしかないと言う村からにしては早いと、感心したものだ。
 エルガキ自然公園
 タンジベイ村を過ぎると、西サヤン山脈を越える新ウス街道に出る。いつ通ってもどこかで道路工事をしている。30分も行かないうちにエルガキ自然公園に入る。雪をかぶった険しい山々が近くに見えてきて、気温は急に低くなる。道の傾斜は大きくなり、どこまでも登って行くと、スノーシェッドに入る。ここもいつも工事中の個所がある。スノーシェッドを出ると、2002年にヘリコプター事故で死亡した前々知事レーベジの記念礼拝堂があって、そこでパーシャが車を止めた。礼拝堂に入るのではなく、この辺が山間の小さな谷間になっていて、近くに高山の花、背後に残雪も見えたからだ。
エルガキ自然公園の礼拝堂
眠れるサヤン。横たわる人物のシルエットに見える

 雪解け水が細い窪地を伝って流れている。途中で沼地になったり池になったりしている。シベリアの沼地に夏の初めに群生するシナノキンバイソウの黄色い花々、菫の紫、石ころの間から芽を吹いている名前の知らない多くの高山植物、厚い葉の間から咲いている橙色の花、その向こう側にはまだべったりと残っている雪。ぽつんと立っているとんがり屋根の小礼拝堂、斜面にはまばらに生えている針葉樹。ここは、連邦道54号線を上って行って初めに出会うエルガキの美しい自然だろう。小路を歩き、雪の上を踏んで、パーシャと写真を撮り合った。ここの高度は1480m。
 連邦道のこの先には、去年も散策したオヤ湖がある。今年、オヤ湖の周りの湿地はシナノキンバイソウが満開だった。桃紫色のヤナギランはまだ咲いていない。オヤ湖を過ぎてブイバ垰(1490m、連邦道54号線上では最高峰)を過ぎたあたりで、突然『眠れるサヤン』岩峰が見えてきた。
 1998年以来このウス街道を5回は通ったが、『眠れるサヤン』を見られたのは2回。連邦道東側には最高峰ズヴョードヌィ(2265m)のエルガキ山脈が広がり、幾つもの奇岩(浸食からとり残された残丘)や、よく写真に撮られている美しい湖、険しい峰と峠などで登山家には有名だ。その中でも、連邦道から見ると横になった巨人のようなシルエットが見えるのが『眠れるサヤン』岩峰で、標高は1986m。パーシャが最初に見つけてくれて、車を止めて、消えないうちにと写真をたくさん撮った。
 ウス川の『上』と『下』のウス村
 連邦道はここまで25キロほどは、下ブイバ川(32キロ)に沿って走ってきたのだが、ウスチ・ブイバ村(今は無人)からは、ウス川(236キロ)に沿って走ることになる。下ブイバ川がウス川に合流するからだ。ウス川に沿ってアラダン村も通りぬけ、さらに25キロも行くと、この道の名前の由来のウス川本流とも別れる。
 連邦道54号線はクラスノヤルスク市からモンゴルとの国境まで全長1063キロあるが、そのうちの古くからロシア帝国の郡役所のあったミヌシンスク市から、トゥヴァのウユーク盆地までを『ウス街道』というのは、20世紀初めトゥヴァへ行くロシア商人たち(多くはミヌシンスク市の商人)がウス川沿いの道を通ってサヤン山脈越えをしていたからだ。(ちなみに、サヤン山脈越えをする道はアムィル川に沿った道など、古くから4本ほどあった。そのうちの一つ)。現在54号線がウス川本流沿いに通るのは上記のように25キロほどだけで、支流コヤルド川(オレーシ)川に沿って南へ曲がってしまう。
ウス村への曲がり角
この車のフロントガラスには割れ目がある

 曲がり角には『ヴェルフネウシンスコエ(上ウス村)』と標識が出ていた。曲がり角の広場には、(たぶん)ウシンスクからの村人が車のボンネットにバケツを置いて野生イチゴ類を売っていた。ヴェルフネ(上)ウシンスコエ村は、まだ50キロもウス川に沿って下ったところにある。新道はここで近道してトゥヴァの方へ曲がるが、旧道はさらにウス川沿いに30キロも行ってイジム村(今は無人)を過ぎてからイジム川に沿って、戻るように曲がる。

 ウス川は西サヤンの支脈クルトシビン山脈の北東の山湖から流れ出て、エニセイ(今はその部分はサヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖となっている)右岸に大きく深い入り江を作って流れ込む236キロもの大河だ。ウス川の上流は険しく小道すらないばかりか、一面の岩石原や沼地のため流れも消えてしまう。ウス川渓谷は険しいが、中流になると川に沿ってウス街道がつくられ、さらに中下流(エニセイへの合流点から80キロ上流)には開けた盆地があって、そこでは川は何本にも分かれ、沖積層の広い草原を作っている。そのウス盆地に、19世紀初め、古儀式派教徒たちが住みついた。

 サヤン山脈一帯には、サヤン・サモディーツ系民族が古くから住んでいたが(たぶん紀元前後から)、その後チュルク系民族や、もっと後にはロシア人に吸収されてしまって、今は幾つかのサモディーツ語の地名が残っているだけだ。そのチュルク系(が主流)のトゥヴァ人も、南麓にまばらに遊牧しているだけなのだ。
 サヤン山脈の中でも、ロシア帝国からは最も奥地のウス谷に、19世紀初め頃、古儀式派教徒たちが住みついてウシンスク村(現ヴェルフネウシンスコエができた。2010年には、村で195年祭がおこなわれたそうだから村の紀元は1815年か。1815年の数年後対岸にできたニジネ(下)ウシンスコエ村も、ウシンスコエ村と同様当時、ロシア帝国の行政も届きにくい遠隔地だった。20世紀初めのロシア・アカデミー百科事典には、ウス川は北モンゴルに発し、ウス国境警備地帯を流れる、となっている。つまり、当時は、ロシア帝国と清朝中国領モンゴルのウリャンハイ地方(トゥヴァ)との、ロシア帝国側のだいたいの国境地帯だった。今は、ウス川は源から河口までクラスノヤルスク地方エルマコフ区に入る。

 『エニセイ県(クラスノヤルスク地方の旧名)の集落と教区』という20世紀初めの教会資料によると、サマル県やトムスク県などから兵役を逃れてきた分離派教徒(古儀式派)たちが、クラスノヤルスク市からは600露里(1露里は1067キロ)、郡役所ミヌシンスク市から300露里、河岸港から300露里、郵便局のあるグリゴリエフカ村からも180露里離れたウス谷に住みついた。後にロシア正教徒も移住してきて1883年、聖ニコライ教会ができ、ヴェルフネウシンスク・ニコライ教区が開かれた。35里離れたガグーリ村や80露里離れたモホフスク村、2露里のニジネウシンスコエ村も教区に含まれる。
 その教会資料には『全教区の住民は男性1246人、女性1255人だが、ロシア正教徒は男606人、女587人、カトリックは5人、ルター派は4人、バプテストなど35人、分離派(古儀式派)の司祭派(ロシア正教会とは別の自分たちの教会ヒエラルヒーがある)は男105人、女85人。反司祭派は男275、女300人。聖職者容認派(ヒエラルヒーに入らない聖職者を受け入れる)は206人と215人。反聖職派は54人と68人』と、当時の教派別人口が詳しく載っている。教会付属学校もあった。アバカン民族管理局が把握している異民族もいる、となっているが、それはトゥヴァ(ウリャンハイ)人や、アバカン・タタール、ミヌシンスク・タタール(今はハカス人)だったろう。
(後記) ウス村はかつて、国境地帯の村として、実は繁栄した。ウリャンハイと取引をするミヌシンスクの商人たちや、ロシアから(軍事的目的で)モンゴル・中国へ抜ける道を探して政府から派遣されていた捜査隊にとっても、ウス村は最後のロシア宿場町となった。また、ウス村の農民自身も、ウリャンハイと国境貿易をしていた。


 

 ウス盆地より20キロほど川上には、ウス盆地の続きのような小さいイジム盆地がある。 
連邦道54号線  右下の『』はノレフカ峠
 ・は今は無人の集落 1は、ウスチ・イジム 2.スホロスロヴォ 3.チェルノウーソヴォ 4.マラルサフホーズ 5.マラリニック 6.クヤルト 7.マラリスキィ 8.サヤニ・パグラニチノエ 9.ニジネウシンスコエ(下ウシンスコエ)10.ニスタフォロフカ川
 黒線はクルトゥシビン山脈でクラスノヤルスク地方とトゥヴァとの境
上(左)側がクラスノヤルスク地方
 ウス川や、西サヤン山脈の奥の川では、1880年代に砂金がとれ、ソ連時代には林業コルホーズ村ができたが、それらは、今は無人となったところが多い。ウス村は、今は他の辺境と同様、雇用先がなくひどく寂れている(ほぼ自給自足経済の村は寂れて見える)。ロシア人の人口は減っているが、元々ここで遊牧していたトゥヴァ人は減っていない。今では村民の半数近くがトゥヴァ人だ。それで、トゥヴァ人のチベット仏教の仏塔もクィズィール(トゥヴァ共和国首都)からの支援で最近出来上がった。
 ウス川下流には、昔砂金を採集していて今は無人のウスチ・ザラタヤ(金の河口の意)という集落の他はない。エニセイ川が西サヤン山脈に渓谷を作って流れるこの一帯は人の手が入っていない針葉樹林地帯の一つで、ウス谷のヴェルフネウシンスコエ村が、車では最も遠い到達可能地だ。だから、そこへ是非とも訪れてみたいものだ。クィズィールからとミヌシンスクから一応路線バスも通っているそうだ。 
 ウス谷の遺跡(上の地図参照)
 最近、ウス谷やイジム谷周辺には石器時代の生活跡からスキタイ時代や中世のクルガン(古墳)などが多く発見されている。ここ数年(2009年からか)、ヴェルフネウシンスコエ村から15キロの所に考古学キャンプ場が営まれ、発掘調査が行われている。というのも、イジム谷は、クラギノ市からクィズィール市に至る新鉄道の建設予定地になっていて、この400キロにわたる新鉄道建設路の通過ルートとその周辺は考古学調査が行われているからだ。クラギノ町から、クルトゥシビン山脈を越えウユーク盆地に出るという現代の鉄道のルートは、また古代人のルートでもあった。ウユーク盆地からはウユーク山脈を越え、トゥヴァ盆地に出る。クルトゥシビン山脈北のクラスノヤルスク地方側の考古学調査隊は『エルマーク(シベリア進出時代のロシア帝国側の『英雄』征服者の名)』と名付けられ、クルトゥシビン山脈南のトゥヴァ側は『王家の谷』調査隊と名付けられて、ここ数年6月から9月の発掘シーズン中は大規模な発掘調査が行われている。

 『エルマーク』考古学基地の2012年報告書によると、イジム谷周辺だけでも、イジム川の湾曲部分の高い段丘に紀元前1000年前後の集落跡『チェルノウーソヴォ6』遺跡、同じくイジム川右岸で紀元前2000年から1000年初めの面積4250平米の集落跡の『マラリスコエ8』遺跡、面積3200平米で初期鉄器時代の4基のクルガンが見つかった『サヤン・パグラニチノエ(国境のサヤン)10』遺跡、初期鉄器時代のクルガン2基の600平米の古代墓地『サヤン・パグラニチノエ11』遺跡、紀元前1000年から紀元後1000年としかまだ分からない2基のクルガンの『クルトシュビン・ザイムカ』遺跡、鎖状に12基のクルガンが続く初期スキタイ時代の『マラリスコエ2』遺跡などが載っている。今は、無人の西サヤン山脈の谷間に3000年ほど前はスキタイ人たちが多く住んでいたのか。(時間を区切れば無人時代も多かったかも知れないが)
(後記:2015年報告には、クルトゥシビン山脈の沼地から発してウス川中流に合流する延長53キロのイジム川谷の上流から下流まで30-40キロにわたって、38群の新石器時代から中世にかけての住居跡、古墳群、岩画が調査された、とある。さらに、
・ニスタフォロフカ川の合流点西には2か所に渡って。赭土で描かれた青銅器時代の岩画が調査された。
・『ウスチ・イジム1』と『スホロスロヴォ2』は、険しいクルトゥシビン山脈越えの前の最後の草原盆地で、紀元前3000年紀半ばから近世の住居跡が調査された。
・『スホロスロヴォ1』は7-8世紀の中世初期の古墳。
・『チェルノウーソヴォ3』獲物を追って移動して来た8000年前の新石器時代人の生活跡、紀元前4000年紀から2000年紀の青銅器時代人、紀元前1000年紀の初期鉄器時代人、および中世の住居跡。9世紀の中国灯台の貨幣も発掘。
・4『チェルノウーソヴォ4』『同6』住居跡。イジム川谷は、初期鉄器時代から中世にかけて人が住みやすく、同時に交易路でもあった。『チェルノウーソヴォ7』はイジム川岸の斜面にあって紀元前7-5世紀の古墳群。
・『クヤルト1』はイジム川儀のの小高い丘斜面の紀元前12-10世紀の後期青銅器時代の古墳群。
・『マラリスコエ2』『同4』『同5』イジム川右岸の丘陵斜面。初期青銅器時代から。古い時代からマラリ(アカジカ)の飼育がおこなわれていた。
・『サヤニ・パグラニチノエ1』『同3』『同4』『同6』『同7』『同8』イジム川の最も上流の6か所の古墳群。青銅器時代から中世。『4』の古墳群の一つは9k7-10世紀の時代で、中国唐の鏡も発見。
 連邦道54号線(ウス街道)は、今はヴェルフネウシンスコエ村より50キロも上でウス川と別れ、クルトシュビン山脈を横切って近道してノレフカ峠に出、峠の急坂を一気に下りて、乾燥したトゥラン盆地に入る。レノフカ峠から見下ろす半砂漠のようなトゥラン盆地は、それまでのサヤン山脈の針葉樹林帯と対比が印象的なので、いつも必ず車から降りて眺めることにしている。
7月2日夕方、クィズィール着、エルガキ登山はパスしたい
 夕方にはタチヤーナ・プルドニコーヴァさんの住むクィズィール市アンガラ通り26番地のアパートに着いていた。着くなりわかったことだが、国境地帯テス・ヘム川地域への私の許可証は、結局降りなかった。理由は『学術調査のため、だけでは情報不足』だからだそうだ。(たぶん、外国人はまともに申請しては許可されない。次回はコネを使ってみよう)。タチヤーナさんたちの分はもちろん出ていた。だから、彼女は3日間、テス・ヘム川地域へ行く。私は、その間、タチヤーナさんの夫のセルゲイさん、昨日ベラルーシから着いたばかりのセルゲイさんの妹のナターシャさんとエルガキへ行ったらどうかと言われた。エルガキは今日通ってきたところではないか。それに、登山は苦手だ。
 セルゲイ・プルドニコフさんはトゥヴァに30年も住んでいるが、ベラルーシのホメリ州マズィリ市出身のベラルーシ人で(当時はみんなソ連邦市民だった)、そこには今も、妹のナターシャさん一家やお母さんたちが住んでいる。ナターシャさんは初めて兄の住むトゥヴァを訪れた。7月1日にモスクワからアバカン経由クィズィールに到着して、10日にはマズィリ市に向けてアバカンを経たなくてはならない。マズィリ市に仕事があるからだ。タチヤーナさん一家には、同時にベラルーシからと日本からの訪問者が滞在することになったわけだ(国際的!)。ちなみに、タチヤーナさんの方はクラスノヤルスク郊外生まれのロシア人。
 私が到着してしばらくすると、市内見物からセルゲイさんとナターシャさんが帰ってきた。彼らは、明日からエルガキ登山の予定で張り切っている。テス・ヘム川地域に行けなくなった私を連れて行こうと言う。エルガキは、それは自然の美で有名だが、
「私は、トゥヴァに来たのだから。エルガキはクラスノヤルスク地方だし」と言ってみた。
「まあ、エルガキは、昔はトゥヴァの領土だったのよ」。それはそうだが、私はトゥヴァの遺跡を見に来たので、登山に来たのではない。エルガキは本格的な高山なのだ。仮に、エルガキにスキタイ時代の遺跡があるとしても、厳しい登山はパスしたい。鍛えていないから登山は無理だ。ためらう私を見てセルゲイさんは、
「クィズィール・タシュトィク(クズル・タシュトゥク)はどうか」と言ってくれた。助かった。そこなら、ぜひとも行きたい。
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