クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 21 January, 2014  (追記:2014年3月6日、7月3日、2018年11月5日,2019年12月11日,2021年10月24日、2023年2月28日)
31−(12)   トゥヴァ(トゥバ)紀行・続 2013年 (12)
    ハカシア(ハカス)盆地
           2013年6月30日から7月27日(のうちの7月23日から7月27日)

Путешествие по Тыве 2013 года (30.06.2013 - 27.07.2013)

月/日 『トゥヴァ紀行・続』の目次
1)7/2まで トゥヴァ紀行の計画 クラスノヤルスク出発 タンジベイ村 エルガキ自然公園 ウス川の上と下のウス村 ウス谷の遺跡 クィズィール着
2)7/3-5 クズル・タシュトゥク鉱山へ 荒野ウルッグ・オー 夏のツンドラ高原 鉛・亜鉛・銅鉱石採掘場の崖上 ビー・ヘム畔 ミュン湖から
3)7/6,7 トゥヴァ国立博物館 ビーバーの泉、新鉄道終着点 聖ドゥゲー山麓 トゥヴァ占い 牧夫像
4)7/7-9 『王家の谷』へ 国際ボランティア・キャンプ場 考古学者キャンプ場 モスクワからの博士 セメニチ車 発掘を手伝う  『オルグ・ホヴー2』クルガン群
5)7/10-12 『王家の谷』3日目 連絡係となる 古墳群巡回 シャッピーロさん ショイグとプーチンの予定 パラモーター
6)7/13,14 地峡のバラグライダ 政府からの電話 ウユーク盆地北の捜索 自然保護区ガグーリ盆地 バーベキュ キャンプ場の蒸し風呂
7)7/15 再びクィズィール市へ 渡し船 今は無人のオンドゥム 土壌調査 遊牧小屋で寝る
8)7/16-18 オンドゥムからバイ・ソート谷へ 金採掘のバイ・ソート 古代灌漑跡調査 運転手の老アレクセイ
9)7/19 西トゥヴァ略地図 エニセイ左岸を西へ チャー・ホリ谷 鉱泉への岩山道 西トゥヴァ盆地へ トゥヴァ人家族宅
10)7/20,21 古代ウイグルの城塞 石原のバイ・タル村 鉱泉シヴィリグ ユルタ訪問 心臓の岩 再びバルルィック谷へ
11)7/22 クィズィール・マジャルィク博物館 石人ジンギスカン 墨で描いた仏画 孔の岩山 マルガーシ・バジン城塞跡
12)7/23-27 サヤン山脈を越える パルタコ―ヴォ石画博物館 聖スンドークとチェバキ要塞跡 シャラボリノ岩画とエニセイ門 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画 クラスノヤルスク

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカシア、ハカス盆地

7月23日(火)トゥヴァからハカシア(ハカス)
地方道161号線(95K-002の部分) は約325キロ。ハカシアとトゥヴァの境界はアバカン川流域とカンテギール川やヘムチック川流域との分水嶺
クバイカ村から 地方道161号線で
アバザ市まで50キロ
 10時頃ディアーナさんの家を出る。だから、地方道161号線を明るい時刻に通って、西サヤン山脈越えができた。地方道161号線は、シベリア鉄道(のアバカン支線)が来ているハカシアのアバザ市と、アスベクトの大産地トゥヴァのアク・ドヴラックを結ぶために1969年開通した428キロの状態のよい道だ。クィズィールからアク・ドヴラックを通ってテエル村への地方道162号線と接している。これらは地方道161号線とか162号線とか呼ばれてきたが、2017年からは、162号線の方は『93K−02』、一方、161号線はアク・ドヴラック市からサヤン峠(2214m)までのトゥヴァ内103キロは『93K-01』と改名、その先の161号線のハカシア内のアバカンまでの325キロは『95K−002』と改名するそうだ。2017年までは旧称が併記される。(ハカシア内には『95K-xxx』が6本あり、トゥヴァ内には『93K-xx』が3本ある)
 昨日訪れたカティン・シャット地のクィズィール・ハヤ岩山を左に見、エデゲイ低地のマルガーシ・バジン城塞跡を右に見て、地方道161号線(今や93K−01と言わなければならないが、まだあまりなじめない)を北上する。
 アラーシ川を渡り(アク・ドヴラックから21キロ)、アラーシ川とアク・スク川を隔てるクィズィール・タイガ山脈の端、といっても十分高く険しい峠を越える。その峠からは広く豊かなアク・スク川谷が見晴らせる。古代には灌漑農業の地だったらしい。古墳も多い。
 峠を下るとアク・スク川に沿って西サヤン山脈に向かって登って行く。草地になったところにはユルタが張ってあったり家畜を囲う柵があったりする。アク・スク(上流はアク・ヘムと言う)の左岸へ行ったり右岸へ行ったり、アク・スクに注ぐ支流に架かった橋を渡って進んで行く。お花畑も美しい。川の流れが木々の間から眺められる。はるか下方だったりすぐ横だったりする。かなり登ったところでも、森の中の草原にはユルタが張ってある。アク・スク沿いを30キロも行ったところで、左岸支流カラ・スクが合流してくる。これより上流のアク・スクはアク・ヘムと言う。
 この合流点あたりはやや広い草地になっていて、以前(ソ連時代)にはペレダヴォイ(『前衛、先駆的な』の意のロシア語)という革命的な名前の集落があったらしいが今は無人となっている。元々のエンゲ・ベリディルというトゥヴァ語の地名に戻って、やはり、何人かが住んでいるようだ。家畜がいた。こんなところの道を歩いている人もいた。下界から離れた深い山奥の小さな草原の、トゥヴァとハカシアを分ける2210mのサヤン峠から10キロも離れていない所に、家畜と住むなんて素晴らしい(と思ったが、実は無人になった営地に、都会から移ってきた家族かもしれない)。ペレダヴォイだの、エンゲ・ベリディクだのと言う名前があるのも素晴らしい。普通は、地図では『冬営地』とか『夏営地』とか記されるだけなのに。
 エンゲ・ベリディクを過ぎると残雪のある山々も近くに見え、冷たい雨も降ってくる。西サヤン峠は人々の間ではソットヴィ(百の意)ともいう。トゥヴァ側の標識には海抜2206m、ハカシア側の標識には2214mとある。ここを夏に通るのは3回目だが、毎回車から降りて谷間を見下ろし感嘆している。傾斜面の下には万年氷が張ったような小さな湖がいくつか見える。湖の周りに背は低くても緑の草が生えている。地方道161号線を通る車は多くないが、観光客は、必ずここで止まってしばらくはこの峠の景観を眺める。
サヤン峠から残雪の谷間を見る。
ほかのツーリストも
『オナ関所』へ渡る橋
『オナ関所』対岸でランチ

 峠をすぎたハカシア側にチベット仏教の庵があるらしい。『サヤン・アルタイの民は東洋の偉大な文化の後継者』と言う看板が立っていた。帰国後調べてみると、ここにヴィクトル・ヴォストコーフ(Виктор Востоковロシア人か)と言う高位のラマ僧の庵があるそうだ。その著名なチベット医学ドクトル(『白ラマ』とも呼ばれる)のヴォストコーフ氏はモスクワに住んでいるが、夏にはここに住むこともあるそうだ。サヤン山脈の自然が精神と身体にいいことや、この地の薬草を採集できることなどが、ヴァストコーフ博士の公式サイトに載っている。
 サヤン峠を過ぎるとヘムチック流域は終わり、アバカン川流域に入り、しばらくはその支流のひとつボリショイ(大)・オン川(52キロ)沿いを行く。美しい樹海の中を20キロ余も行くとストックティシュ川に架かる橋を渡る。近くには『ユキヒョウキャンプ場(ペンション)』や、ボリショイ・オン川にかかる歩道橋などがあって『サヤン・リング』観光のスポットになっている。今回は通り過ぎる。
 南から流れてきたボリショイ(大)・オン川が、西から流れてきたマールィ(小)・オン川(31キロ)と一緒にオナ川(157キロ)に合流する地点に、ボリショイ・オン村がある。1948年頃できた強制移住者たちの集落だったそうだ。1960年代は、161号線の道路工事などで人口が増えて、食堂や学校、授産所もできるくらいの集落になったが、今は人口35人。村は川岸にあり、道路は川岸高くの橋を渡って、私たちは今度はオナ川沿いに進む。ヤナギランが満開だった。
 オン川がオナ川に注ぐところを見てみたかった。もちろん、美しい自然と山川があるだけで特に何の名所でもないが、気がつかないうちに通り過ぎてしまった。そして、ボリショイ・オン村も車を止めてみたかったが通り過ぎてしまった。ただ寂れた村と言うだけで何の遺跡もないが、私は人里離れた小さな村が好き。
 オナ川は古くチュルク時代からその名で、碑文に記されている。モンゴルのバイン・ツォクト遺跡にある突厥文字で書かれたトニュクク(Tonyuquq:暾欲谷)碑文に、トニュククの突厥軍がオナ川を下ってキルギスに攻め入ったことが書かれている(8世紀初め)。
 その時代からサヤン山脈を越える道の一つだった。前記、ウットック・ハヤ奇岩の麓、ヘムチック川岸から見晴らした『アルバトィからデバッシ川・マンチュレークを通りアク・スクへ出るアルバトィ道』と平行して西側には、オナ川からアク・スクに出る道もあったのだ。現代の地方道161号線のオナ川沿いに走る部分は、その古代の道を通っているのだろう。トニュクク将軍もオナ川を下ったのか。
 機を逸したボリショイ・オン村を過ぎて数キロも行ったころ、ナビを見ながら運転しているスヴャトスラフさんにこの近くにある地名を聞いてみると『オナ関所』と言う。今度は機を逸せず、そこへ寄ってみたいと言った。もう通り過ぎていたが車を戻して、わき道へ入って行く。「そんなところに?」と思ったかもしれないが、いつでも律儀に私の願いを聞いてくれるスヴャトスラフさんだ。
 トゥヴァが、ソ連邦でもなかった昔、帝政ロシア時代の関所のひとつがこんなところにあったのだ。(ロシア帝国とモンゴルまたは中国との税関)
 1980年代の地図では『オナ関所、集落、無人』とあるが、2000年代の地図では『オナ関所』は『ウローチッシャ・オナ』の名前として残っている。ウローチッシャとは周りとは違う『ある場』『ある地域』と言う意味。その『場』へ行ってみたい。ナビを見ていたスヴャトスラフさんは、そこはオナ川の向こう岸にあると言う。オナ川岸まで降りてみると、橋があった。オナ川は小さな山川ではなく、この辺では太く勢いよく流れているので橋も太い丸太で車が通れるほど頑丈にできてはいたが、真中で落ちていた。洪水で壊れたのか、川を航行するのに障害にならないよう橋の真ん中を壊してわざと流れを作ったのか、車で向こう岸に渡らないようわざと落としたのかわからない。ちなみにオナ川には地方道161号線の橋が3本架かっているが、どれも高い鉄橋の近代的なものではある。
 『オナ関所』と言う歴史的な名のある『場』には行けなかったが、対岸から眺めた。木々が茂っている。その間に帝政時代の道があって、国境警備隊が駐屯していたのだろうか。名前が残っているのは、ソ連時代の強制移住者村があったからだろうか。
 川岸で私たちはお昼を食べた。スヴャトスラフさんのカセット・コンロでお湯を沸かし、スヴャトスラフさんの買っておいたカップ・ラーメンを食べた。私はラーメンのみ、スヴャトスラフさんは缶詰の肉を入れて食べ、沸かしたお茶をふたりで飲んだ。この先、彼と野外で食べるときはいつもこのメニューだった。私はその缶詰のゆで牛肉は苦手だが、肉汁だけ入れてもらったこともあった。
 川岸で休憩した以上は、スヴャトスラフさんは川浴びをした。ついでに車も洗っていた。私は見ていただけ。
 ボリショイ・オン村から、左岸支流ボリショイ(大)・アンザス川(49キロ)が合流する50キロばかりを、『オナ関所』の対岸も含めて地方道161号線はオナ川沿いに走る。ボリショイ・アンザスが合流するところにはクバイカ村がある。20世紀初めに砂金採集基地としてできた。ボリショイ・アンザス川やマールィ(小)・アンザス川では砂金がとれ、上流には今は無人となっている集落の名前がいくつも記されている。ボリショイ・アンザス川合流点のクバイカと、マールィ・アンザス川合流点のマールィ・アンザス村だけが、現在も集落として残っていて、人口は数十人で寂れている。が、地方道161号線沿いにあるクバイカ村には最近ペンションができて、エコロギー・ツアーで盛んになってきているらしい。
ハカシア盆地パルタコフ村の石画博物館とサフロノフ丘の巨大石古墳群
パルタコフ石画公園
石画公園のある文化会館の2階事務所
 サヤン峠から140キロも山道を下ってアバザ市近くへ来ると、やっと人家の気配がしてくる。さらに30キロでハカシア(ハカス)・ミヌシンスク盆地の南の端のタシュティップ村まで来ると、ハカシアらしい集落も増えてくる。この道沿いにあるパルタコフ村(人口約1000人、別名エシン村)へ寄りたかった。2009年考古学者のスラーヴァ・ミノールさんと回った屋外岩画博物館(公園)がある。
 村の文化会館の敷地内にあるパルタコフ屋外岩画博物館に到着したのは5時半だった。博物館が開いているのは5時までと書いてあるが、屋外だからいつでも入れるのだろう。2009年はもっと遅い時刻だったが、そのままミノールさんと入って行って見学した。今回も、入っていったが、少し時間が早かったので係りの人がまだ帰らないでいたのだろう、入場料を要求された。後でスヴャトスラフさんが言うには、その金額は問題なくその人が着服するのだろうと言うことだが、まあいいか。館員なのか、ガード・マンなのか知らないが一応ガイドをしてもらった。と言っても、私のあとについてくるだけ。
 彼女が言うには、この夏、日本から考古学者が来た。その先生が最も興味深く調べていたのはこの石碑だと、車輪の打刻画のある岩を教えてくれる。後で事務室に案内してもらって、訪問者ノートを見せてもらった。2013年6月30日、日本から来た考古学者の署名と挨拶文があり、日本語で書いてあったので、その女性(館員?)から訳してほしいと言われる。『本日は素晴らしい野外展示物を拝見しまして感激しております。特にタガール文化期の岩絵や中世クルグス族のタムガなどが興味深いものでした。是非ともこの素晴らしい文化遺産が後世にまで残りますことを心よりお祈りいたします。署名』と読めた。
 パルタコフ博物館には93個の岩、1000以上の岩画が保管されているそうだ。これらは、1986年、近くの旧フェドーロフ村にコムソモル・エシ用水路を引いたとき、発見された古墳などからの立て石の岩画だった。
パルタコフ村周辺

  現在のパルタコフ村は19世紀にあった4個ほどの集落が合体してでき、ソ連時代はエシ・コルホーズが栄えていた。当時、アスキース地方のパルタコフ村周辺にも大規模な用水路建設が実行されていたのだ。用水路建設に伴って考古学調査をサヴィノフが行い、エシ・クルガン群やトルガジャク古代集落跡が調査された。当時建設中だったパルタコフ文化会館に岩画公園ばかりでなく、屋内展示場も作る予定だったが、ソ連崩壊のため中止。ちなみにパルタコフ文化会館の外壁のレリーフは現在の寂れたパルタコフ村にしては立派なソ連風レリーフで飾ってある。
 野外展示場だけは岩画公園として2003年正式に博物館として登録された。
"Древнее искусство в зеркаре археологии. К 70-летию Д.Г.Савинова『サヴィノフ70歳に』"と言う題の本
『パルタコフ村近くのクルガン石とサヴィノフ』から

 ハカス・ミヌシンスク(ハカシア・ミヌシンスク)盆地南東のアバカン川の左岸支流アスキース川、エシ川(71キロ)、チョーヤ川(98キロ)、タシュティップ川(136キロ)の草原地帯は古代遺跡の海の華だ。南東から流れてきたタシュティップ川がアバカン川に流れ込む地点から4.5キロほど上流に、西から流れてきたチョーヤ川が合流し、その1キロ下流に北西からのテシ川が合流し、エシ川とチョーヤ川の間にパルタコフ村がある。テシ川とチョーヤ川の間には何本もの用水路が作られ、コムソモル・エシ用水もその一つだ。また、トルガジャク側流がチョーヤ川の北に流れ、側流で囲まれた低地は、現在フョードロフ谷と記されている。南シベリアでも最も大規模と言われる青銅器時代の集落跡のトルガジャクは、この側流の名前から付けられた。10万分の1の地図では、至る所に『古墳』と記されている

 ポルタコフ村まで来たのだからサフロノフ古墳群の丘へも足を延ばす。パルタコフ村からエシ川に沿って15キロくらいのところに人口270人(2004年)のハカス人の村サフロノフがありその背後の丘に50基ほどのクルガンの草原がある。2009年に初めて見た時は、無人の荒野と丘に群立する立石の大きさと形の美しさ、謎めいた様には感動したものだ。その後、クルガンは見慣れてしまって、あまり感動しなくなった。2500年ほど前のタガール時代で、立石には岩画も多い。

 10時過ぎにチェルノゴルスク市のサーシャ宅に到着する。
7月24日(水) 聖スンドークと青銅器時代城壁跡チェバキ
 帰国便の、クラスノヤルスクからハバロフスク経由成田行きは27日(土)の夜出発なので、26日中にはクラスノヤルスクに戻る予定だった。25日に戻ってもいいと思っていたが、最終日宿泊予定のスヴャトスラフさん宅は26日でないと準備ができないと言われる。ホテル泊にしてもよかったが、やはり、26日終日までハカシアを廻ることにした。
北流するエニセイの右岸はクラスノヤルスク地方、左岸はハカシア共和国

 2012年には時間がなくてよく見られなかったシャラボリノ遺跡を廻るとは初めから予定に入れていた。2010年にチェルノゴルスクのサーシャの車で、ヴァロージャ案内で回ろうとして見つけられなかったチェバキ遺跡を、スヴャトスラフさんは知っていると言うので予定に入れた。では、行程として24日はチェバキへ行き、25日はシャラボリノを廻って、クラスノトゥランスク近くのアナーシュ岩画を見て、エニセイ右岸の道を下りクラスノヤルスクに戻るか、それとも、その近くの渡し船発着場からエニセイ川(クラスノヤルスク・ダム湖)を渡ってノヴォショーロヴォ村へ行き、連邦道54号線でクラスノヤルスクに戻ると言う予定を立ててみた。しかし、スヴャトスラフさんはエニセイ右岸の道が悪路で長距離なこと、渡し船の時間が不明なことから、アナーシ岩画は断られた。確かに、アナーシュ村は地図に載っているが、その名の岩画はどこにあるかわからない。クラスノトゥランスク村で一泊するのも、宿に空室があるかどうかもわからない。毎晩、チェルノゴルスクのサーシャ宅に戻り安全なところで泊まって、毎朝出かけた方がいいと、スヴャトスラフさんは言う。それで、サーシャ宅には3泊もすることになった。サーシャ宅を基地に日帰り3日と言うことだ。

 24日はハカシア西のシラ湖から、2009年にミノールさんと行ったことのあるスンドーク遺跡を廻り、チョールノエ・オーゼロ(湖)の奥のチェバキ村へ行くことができた。
 この数年の間に観光地化したスンドーク残丘へは、近づくと道の途中に、料金所までできていた。最近『スンドーク野外博物館』になったらしい。もちろんお土産屋もできていた。昨日、パルタコフ博物館でお愛想に買ってあげた60ルーブルの観光カードがここでは120ルーブルだった。
 私たちは、もちろん料金所や屋台の出ている道は迂回して登って行った。2009年ミノールさんの車では登れなかった第1スンドーク残丘も、スヴャトスラフさんの改造車なら登れる。ちなみに2009年は、スンドーク遺跡では、まだ観光客を見かけることもまれで、ノヴォシビリスク大学の考古学者キャンプ場が運営されていた。
 ずっと気になっていた第5スンドークの岩画も見る。ここにも、車が集まっていた。2009年考古学者のミノールさんと来た時は、場所がわからなくて地元の人に聞きながら探したものだ。
山岳城塞チェバキ
チェバキ要塞から黒イユース谷を見る

 ハカシア観光の目玉は昔からハカス・ミヌシンスク盆地北東のシラ湖だが、最近、その近くの大サルブィック古墳(野外博物館になっている)や、第1スンドークへの人出が多くなった。ちなみに、第1スンドークの『スンドーク』野外博物館には、岩画の鮮明な第5スンドークは含まれていないそうだ。

 シラ湖の南にはトゥイム・リング遺跡やトゥイム鉱山陥没湖と言った観光スポットがあるが、東のチョールノエ・オーゼロ(黒い湖)方面は、まだ人出が多くない。ここまではハカシア以外からやってくる夏場の観光客は足を延ばさない。
 チョールノエ・オーゼロ奥のチェバキ村のイヴァニツキィ邸宅は、2010年と違って夏休み中だったので子供たちが宿泊していた。19世紀末の豪商の邸宅は、改造されて青少年宿泊所になっているのだ。山岳城塞チェバキは、スヴャトスラフさんのナビに記憶してあったはずだが、ちょっと手こずって森の中に入ったり出たりしたが、見つけることはできた。クズネック山中だったので、天気も悪く時々小雨が降り、遠くで雷も鳴っていて、さびしい道はぬかるんでいた。スヴャトスラフさんと二人、無人の麓に車を置いて登ってみる。古代に並べられた石の他は何もないせいか、ここは無人だった。考古学調査をした時の他はずっと無人でこれからも無人だろう。ここで紀元前2000年紀のオクネフ時代の土器などが発見されている。
 チェバキから、元来た道を通ってもよかったが、エフレムキノ村へ古い山道を通って行く、途中誰とも会わなかった。エフレムキノ村は洞窟が多い。が、以前来た時と違って、観光地化して興ざめだった。2009年にはミノールさんと来て、小さな洞窟に入ってみたものだった。
7月25日(木) シャラボリノ岩画とエニセイ門
 9時半ごろチェルノゴルスク出発。サーシャ達には、今日は戻ってくるかどうかわからないと、荷物は一応みんな持って出る。
 チェルノゴルスクからアバカン市をまわってエニセイ川を渡り右岸に出ると、ハカシア共和国ではなくクラスノヤルスク地方となる。そのミヌシンスク市から、建設中のクラギノ・クィズィール鉄道の始点クラギノ町まで74キロほど行ってから、トゥバ Тыба川を渡り、もどるように28キロ行ったところがシューシ川(127キロ)畔のシャラボリノ村(人口800人)。
 17世紀ハカス・ミヌシンスク盆地に現れたロシア人は、そこを『キルギスの地』と呼んだ、と歴史の本にはある。今はハカス人と呼ばれているが、そのエニセイ・キルギス人(アバカン・タタールとも呼ばれた)の地には、当時4つの候国があり、18世紀初めまでロシア帝国の侵入を食い止めていた。その一つトゥバ・ウルスのクラギ侯がついに帝国の臣下となり、1709年この地がロシア帝国に合併された。クラギノ町の名はそのクラギ侯から来ている。その頃ハカス語でウプサ川と呼ばれていたトゥバ 川畔に、集落クラギノができたのは1626年とされている。
 トゥバ Тыба川はエニセイの右岸支流でトゥヴァ Тыва共和国のトゥヴァ民族と関係がある名前らしい。トウヴァ・ウールスの主導的氏族名がトゥバだった(トゥバ族からは鮮卑拓跋部も出た、そうだ)。東サヤン山脈から流れてくるカズィル川(388キロ)とアムィル川(257キロ)が合流してトゥバ 川となりエニセイの右岸に注ぎこむ。長さは源流のカズィル川を合わせて507キロ。シューシ川はトゥバТыба川の下流近くに流れ込む右岸支流。ミヌシンスク盆地でも古くからコザック屯田兵が定住したと言うシャラボリノ村は1719年にできたそうだ。
 シャラボリノと言う名前は、エニセイ・キルギス族のシャラボーラ侯が住んでいたところだったからとか、昔、この地に有力なコザックのシャラボリン家が住んでいたからとか(現在もその苗字の住民がいる)、シャラボルカと言う小川が流れていたからとかとされている。18世紀にはロシア本土との交易で栄えたそうだ。19世紀半ばに建てられたと言う人口800人にしてはずいぶん立派な石造りの三位一体教会がある(1930年代停止、90年代再建)。村から10キロほど行くと、トゥバТыба川畔にイリインカと言う村があり、この近くにシャラボリノ岩画のある川岸が続いている。イリインカ村(人口100人余)も、ウクライナ・コサック移民が19世紀に定住した村だ。
 シャラボリノ岩画という名称は正しくなく、むしろ、対岸にあるテシ村の名を取って、テシ岩画と名付けた方がよいと書いてある論文もある。
シャラボリノ岩画
テプセイ山へ

 12時半に着。2012年に来た時にはあったクラスノヤルスク教育大学歴史学部の考古学調査の基地もない。調査は終わったのか大学の方針が変わったのか無人だった。ここは特に野外博物館にもなっていない。スヴャトスラフさんは車の番をしていると言う。私一人で蛇を踏まないようトゥバ Тыба川右岸の川岸を伝って岩画を見て回った。中洲で若者の声がしたので、声をかけておく。私は一人だし、スヴャトスラフさんは遠くにいるから。
 20世紀初め考古学者アドリヤーノフの調査から、現在までこの岩画の論文は多い。それによると、石器時代から、さまざまな時期に打刻されたり、赭土で描かれたりしてきたが、オクネフ時代(紀元前2000年紀)の岩画が最も多いそうだ。

 3時半ごろイリインカ村を引き上げる。エニセイ右岸に来たのだからテプセイ山に登ろうとスヴャトスラフさんが言ってくれる。トゥバТыба川とエニセイ川の間のミヌシンスク盆地北部の丘陵草原を進んでいくのは気持ちいい。テプセイ山に登るため道路から出て、下には何があるかわからない草の上も進んだ。エニセイを見おろしながら登ったり降りたりする。クラスノヤルスク・ダム湖が始まるこの地点のエニセイ川には左岸にクーニャ山、その北にアグラフティ山、その対岸の左岸にこのテプセイ山、その南にスハニハ山があり、その4つの山がエニセイの川岸に門のように残っている。ダム湖のなかった時期にはエニセイ沿岸一帯に多くの遺跡があった。388キロも下流のクラスノヤルスク市付近のダムでエニセイの流れをせき止め、広いダム湖ができたので、低地にあった村や遺跡は水没した。ダム湖で広くなったエニセイ川だが、これら4つの山に挟まれたところのエニセイ川は狭いままだ。
 テプセイ山は川岸が絶壁になっていて、そこがこの山の頂点らしい。エニセイ門と言われるこれら4つの山は聖山だ。岩画もある。しかし、私たちは見つけられなかった。スヴャトスラフさんの高駆動車で、どこが頂点だろうと、急な坂を草の間から突き出ている岩をよけながら登ったり降りたりして、目で高度を測り、オヴァーのある地点を見つけた。ここがたぶん頂点だ。対岸のクーニャ山とアグラフティ山が見え、眼下にはエニセイが流れている。向きを変えると、トゥバ湾とスハニハ山が見える。昔、トゥバТыба川の小さな入り江だったトゥバ湾は、今エニセイより広くなって奥にトゥバ Тыба川の流れがやっと見える。
 またチェルノゴルスクのサーシャ宅に戻った。
7月26日(金) 聖クーニャ山とバヤルスカ岩画
クーニャ山頂からエニセイ川と
モーホヴォ村を見る
ウズィン・ヒール
バヤルスク岩画
たぶん アファナシェヴォ丘から中州を見る
干し草のロールが並んでいる南シベリアの
夏の平原
 サーシャとレーナは朝早く仕事に出かけたので、私とスヴャトスラフさんは自分たちで朝食を食べ、玄関のかんぬきをかけ、鍵の方は約束の場所に隠し、9時半ごろクラスノヤルスクへ向けて出発した。チェルノゴルスクからクラスノヤルスクまでの連邦道54号線では、380キロほど、どこにも寄り道をしなければ4時間ほどで着いてしまうが、私たちは、クーニャ山とバヤロフカ岩画に寄った。
 クーニャ山の麓にあるモーホフ村へは連邦道を出て数キロで着ける。この近くでダム湖に沈みかけたクルガンを見たこともあった。2012年は水が引いて干された砂地を眺めた。今回は、モーホフ村の湖岸にも寄らず、真っ直ぐクーニャ山への道を取る。スヴャトスラフさんの高駆動車では、クーニャ山なんか問題なく登れた。前にも登ったことがあると言うスヴャトスラフさんは道も間違えず、20分足らずで、麓のモーホフ村はずれから頂上まで一気に登った。地図では高度568m。眼下のエニセイの対岸にはスハニハ山(699m)と昨日のテプセイ山(632m)が見え、それら2山に入口だけを狭められたトゥバ湾が見える。聖なるクーニャ山にも岩画がある。が、私たちは特に探さなかった。
 頂上で写真を数枚撮って去っただけだった。お弁当でも食べたらおいしかったかもしれないが風が強い。 

 クーニャ山の麓と連邦道54号線との間に、ウズィン・ヒール(ゼンフィル)と言う遺跡がある。正式には『プリゴルスク1』と名付けられているそうだ。なぜなら遺跡はその場所に最も近い地名(プリゴルスク町がその遺跡に最も近い)で登録されるからだそうだ。ウズィン・ヒール(ゼンフィル)と言うのは近くの丘のハカシア語の名前だそうだ。訳は『長い山』。
 青銅器時代の集落、寺院跡と仮定されている。大きな石が何個も城塞跡のように並んでいる。2007年に考古学者スラヴァ・ミノールさんの案内で訪れて、その謎めいた大石の配置に驚いたものだ。2012年にも行こうとしたが、道が悪くて行けないと電話をかけたミノールから言われた。今回7月2日の往路で、パーシャ運転の車で行こうとしたが見つけられなかった。スヴャトスラフさんは難なく見つけてくれる。以前に行ったことがあるからだ。すると彼のナビに記録がある。草丈が高く、石の列は近づかないと、気がつかないところだった。

 プリゴルスクからエニセイ川に平行な連邦道54号線を、1時間も行かない所にトロイツコエ村があり、そこでエニセイ川の方に曲がると、バヤルスキエ岩画に行きつける。2009年にここにもミノールさんと来た。ミノールさんは苦労して見つけていたが、スヴャトスラフさんはまたも難なく岩画の麓に車をつけてくれる。ナビがあるからだ(以前来た時ナビにピンをドロップしてあったのだ)。ここの丘陵草原は何度来ても気持ちがいい。控えめの小さな花が緑の草々の間から見え、空は、今日もハカシア晴れだった。

 連邦道54号線はエニセイ川(クラスノヤルスク・ダム湖)と平行に走っているが、道路からは川は見えない。ダム湖に迫る山塊があり、時々現れるその狭間から遠くに真っ青な水面がみえるだけだ。この辺の湖岸は美しい。まだやっと、お昼の1時頃だ。クラスノヤルスクへ急がず、岸辺へ出てみる。もちろん道はないが、農道と無難そうな草原を走って、川岸に出る。
 アファナシェヴォ山(403m)らしい。アファナシェヴォと言えば、紀元前35000年から2500年ごろ、中央アジア東北部からシベリア南部、モンゴル西部、新疆ウイグル北部にかけて栄えた青銅器初期文化遺跡が、最初に発掘調査された有名な丘ではないか。
 所々に一人ぼっちのクルガンがあり、苔の生えた石柱も立っている。ダム湖に浮かぶ島、中洲も真っ青なダム湖の中に聳えている。蝶が飛んできて私の膝に止まる。白昼の、身にしみるような静けさだった。

 クラスノヤルスク近くのエニセイ川の橋を渡ったのは夕方7時50分。8時半には右岸にあるスヴャトスラフさんの家に着き、末っ子でモスクワ音楽院の学生で夏休みに帰ってきているディーマ君や、奥さんのリューダさんたちと夕食をいただいたのは10時頃。リューダさんの姑さんが使っているという古いグランドピアノのある部屋で寝た。スヴャトスラフさんのお母さんつまりリューダさんの姑さんは、今日はダーチャ泊だそうだ。
7月27日(土) クラスノヤルスク
 クラスノヤルスクも大商業都市になったものだ。昔、右岸は環境の悪い工場地帯だった。今、それらソ連時代の工場は閉鎖され、敷地にはショッピング・センターが開いている。ここで中国製のおもちゃを数点買う。ロシア製のより、種類が多く気が効いている。
 お昼頃にはディーマさんのオフィスに行き、12,000ルーブルばかり借りる。出発前に10万円分33,100ルーブル借りていたが、スヴャトスラフさんへの燃料と謝礼の分の2,6151ルーブルが足りなくなっていたからだ。クラスノヤルスクの本屋へ寄って本も買い集めたい。
 スヴャトスラフさんが車で数軒の本屋を廻ってくれた。結局追加の12,000ルーブルでは足りなくなって、スヴャトスラフさんから1000ルーブルばかり借りようと思ったが、クラスノヤルスクの大きな書店のようなところではカードで支払いができた。この日、クラスノヤルスクは雨だった。
 クラスノヤルスクを夜出発して3時間の時差のあるハバロフスクに着いたのは翌朝、そして成田にその日の10時頃着。ハバロフスクから成田の飛行機で、通路側に座った私と空席を挟んで窓際に座っている青年がいた。一人でロシア旅行に行ってきた日本の大学生かと思って、降りるときに声をかけてみると、通じなかった。トゥヴァ人だったからだ。大阪の日本語学校に短期留学に来たと言う。ハバロフスク・成田の飛行機で、トゥヴァ人青年を見かけるなんて珍しい。成田空港では、不安げなそのアヤン君のために書類の書き方を教えてあげた。メール・アドレスを教えてもらって、帰宅後手紙を出してみるとちゃんと返事がきた。短期留学から帰国してクィズィールに住んでいると言う。日本語は、今は特に続けていないそうだ。だからロシア語で時々メールのやり取りをしている。トゥヴァ語でできたらいいな。
(後記:そのアヤン君とは翌年クィズィール市で会った)
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