『チャルパン露天掘り』、その後の発掘 |
持たせてもらった歯と、ほぼパーツがそろっている一体
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塚穴から引き上げられて整列している古代人の骨 |
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『ほら立派な歯でしょう』 |
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翌日7月11日に、また東ベヤのチャルパン露天掘り炭田内にあるクルガン発掘地へ行くことになった。そこは4日前に行ったし、そのときは泊りがけで、ちょっと退屈したくらいだから、あまり気が進まなかった。そこより、アスキース地区のカザノフカ野外博物館に行きたい。その近くにはポルタコフ村石画公園やサフロノーフ村クルガン群があって、そちらの方が見たいものだ。しかし、スラーヴァは発掘の進行状況が見れるし、何よりもそこで発掘の手伝いをしている知り合いの修理工に車を見てもらいたいのだと言う。東ベヤのチャルパン露天掘りに寄ってからアスキース方面に行き、カザノフカのユルタで一泊してチェルノゴルスクに7月12日に帰れば、18日間のハカシア旅行が完了できると言う。
そこで4日前のようにアバカン・ベア線をコイバリスカヤ(コイバリスク)草原の奥へと進んでいった。4日前のようにスミルノフカ村の店でお土産を買い、検問所を通り、今度はもう迷わずに発掘現場に着いたのは11時ごろだった。
確かに発掘は進んでいた。4日前、塚穴の底にパーツになって散らばっていた古代人の骨は、ほとんどが上に上げられていた。1体だけほぼ完全にそろっているが、あとのばらばらになったパーツの骨は塚穴の外、現在の地表の内側に、部分ごとにきれいに整列させられていた。頭蓋骨が何十となく一列に並んでいる。大きな穴の眼窩は、やはり、本当の目のようで、いっせいに私をみつめている。あごの骨も1列に頭蓋骨と並んでいる。立派な歯がしっかりとあごの骨からはえているのもある。手足の骨も長さをそろえて並べてある。塚穴の横に整頓して並べているのは水着姿の女子学生だ。私が近づくと
「ほら、こんなにそろった美しい歯もあるんですよ」と見せてくれた。写真を撮っていると、塚穴の底で、残っている骨の土を払ったり、遺物(盗掘の残り)を探したりしていた男子学生が、
「ほら、骨の間で見つかった青銅製の鏃ですよ」と見せてくれる。今のところ、この塚穴から見つかったものは骨の他は、このような小さな青銅製の道具か土器の破片だけだ。
3日前、現在の地表から当時の地表まで掘り下げ、塚穴の上をふさぐ丸太のカラマツが見え始めていたクルガンのほうは、今、発掘は終わっていた。これは周囲のものより新しいタシュティック時代の墓で、学生によると、火葬した男性の骨と火葬しなかった女性の骨が見つかったそうだ。磁石や物差しが置かれ、ゴトリプ助教授がいろいろな角度から撮影をしていた。ここにはほとんど隣接して、いくつかの塚穴があると、あらわになった当時の地表をみながら助教授が言っている。事実すぐ横には小さな塚穴の上をふさぐカラマツの断片が覗いている。タマーラさんは子供の墓だという。すぐ横には、当時の地表の上にあった中身の入った土器が、見つかったままの形で掘り残されている。
新しく掘り上げたタシュティック時代の塚
男性は火葬されている
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食事の時間、みんなが食堂のテントに集まり、当番の学生が作ったスープを飲む(ロシア語ではスープは食べるという)。学生も少しメンバーが入れ替わっていたかもしれないが、考古学者も、発掘責任者のゴトリプ助教授のほかに、ハカシア大学の研究員パセリャニーン先生も来ていた。2日前『旧アズナチェンノエ渡し場』遺跡であった考古学アマチュアのヴィターリーや、卒業生のサーシャも、今日はこちらのほうに来ていた。近々発刊されるというオールカラー版考古学一般向け雑誌の最終校正をしていたので見せてもらう。これも、そのうちネット版で出るそうだ。また、ゴトリプ助教授の論文もネットにいくつか公開されているので、『ハカシアの古代石造り要塞スベ』についても読めるということだった。ネットでの検索に入れる言葉を教えてもらう。
私はこうして発掘物を見たり、写真に撮ったり、食事をしたり、先生たちと話したりしている間、スラーヴァは友達の修理工の考古学愛好者とニーヴァの修理に奔走していたらしい。ブレーキもほとんど壊れかかっていたそうだ。エンジンの調子は最悪だが、私との観光が終わるまで何とか持たせて、それから安いところを探してオーバー・ホールをするのだと、スラーヴァは繰り返していたが。
いったいロシアではスラーヴァのようなガイドだけが、こんな(半壊れの)車で外国人の観光案内をするのだろうか。
露天掘りではまた4時ごろ発破をかけるそうだが、その前に出発し、アバカン・ベヤ線をコイバリスク草原を縦断して行った。アバカンから100キロ南の人口5417人(2002年)のベヤ村を通り過ぎた。ベヤは、18世紀のミヌシンスクのロシア正教会の文書に、10軒の家があり45人の信者がいたと記されている古い村だ。新しくできたらしい舗装道が低い丘を越え草原を横切って続く。
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石碑公園(ステラ園)のポルタコフ村 |
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ベリティリスク村の近く。クルガンの横にできてしまったゴミ捨て場(発酵して煙が上がっている) |
ハカシア南部
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ボンダレンコ村を通り過ぎたところで、道路わきに広がるクルガンの立石のあまりの多さにはっとする。道はハカシア人の割合が最も多いというアスキース地区に近づいている。事実この辺はベリティルスク古代墓地 Бельтырский могильникと言われていて、アスキース町からタシュティップの方へ国道161線に沿ってだけでも30キロ以上にも伸びるタガール時代の遺跡なのだ。また、1982年アファナシエフ時代の3面顔の『ベリティルスカヤ石柱』も見つかっているそうだ。
事実、アバカン川谷に沿って走る国道161号線に入ると、両脇は、どこまで行ってもクルガンの立ち石が、密に、あるいは疎らに立ち並んでいる。数メートルもの高いものもある。先がとがった扁平な石のクルガン、三日月形の石があるクルガン、四角くどっしりとした石のもの、いくつもかたまって立っているのや数個だけ残っているもの、傾いて立っているもの、隣に村が迫ってきたクルガン、発酵して煙を出しているゴミ捨て場がすぐ横にできてしまったクルガンもある。ここもクルガン草原と呼ばれているそうだ。
このクルガン草原を横切る国道161号線を10キロほど南下し、アバカン川に注ぐ左岸支流エシ川のほうへ曲がるとポルタコフ村 Урс Полтаковがある。繁盛しているとは思えない小さな村だ。この村の唯一の鉄筋2階建て建物は村役場らしいが、同じ建物に、村立図書館や村立文化会館もある。建物の壁は躍進するソヴィエト農業をバックにハカシア民族楽器を奏でる青年を現したソヴィエト時代ものの、大きなモザイク画だ。
その敷地内に驚くべき石碑公園があるのだ。奥行きと幅が60m位の広場に93個の石碑が、ぎっしり並んでいる。それなりに公園らしい体裁を作った一角もある。一度に93個なんて多すぎやしないか。それも、どの石にも打刻画がある。これは1970年代にこの地方で灌漑用水路工事を行ったとき発掘されたクルガンで、打刻画のある石だけを集めてきてできたのがこの野外博物館だそうだ。青銅器時代から中世キルギス時代までの打刻画まである。オクネフ時代と見られる石には、放射状に光を放つ顔の絵がある。(この時代の特徴で、似たよう絵は南シベリアの草原地帯、山すそに広く見つかっている)。ある石にはくっきりと角のある動物が、別のには、バルスーチー・ロッグ遺跡で見たような男性(これは古代人が自分たちの祖先像を彫ったのだと言う、みんな巨大な男根)、または、半分かすれたような動物群、鳥のような画、星や太陽のような画、別のには渦巻き模様や何かのシンボルがぎっしり打刻してあったりする。車輪もあって、これは太陽でもあリ、大熊座の神話とも関係しているそうだ。7世紀のオルホン文字の一派、エニセイ・ルーン文字もある。『タムガ』もある。
4輪の車、タムガ
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ポルタコフ石碑公園入り口 |
石碑の道 |
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アバカンの郷土博物館前に並ぶ石碑にも全く説明プレートがなかったのだから、ポルタコフ村の石碑にあるはずがない。これら立石(寝かせて置いてある石もあったが)は、元はどこにどんな形で立っていたのだろう。
さすが南シベリア古代文明の中心ハカシアだ。こんな寂しい小さな村にこの貴重で膨大なコレクション。
今回、ソ連風のモザイク画のある村立文化会館は閉まっていて、野外展示物のみ見られた。
(後記)ポルタコフ村は19世紀末ごろまでこの地にあったいくつかの集落,と言っても遊牧ハカシア人の冬営地だろうが、それらをを合わせて地元の家畜業の古老ポルタッフの名を取ってできた寒村だ。そこに石碑公園ができた。
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サフロノーフ村の神秘なクルガン丘 |
打刻のある石、前時代のリユースか
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サフロノーフ丘 |
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6m以上もある石をつかったクルガン |
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クルガンの一つ |
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サフロノーフ Сафронов村はポルタコフ村よりさらにエシ川に沿った道をさかのぼった奥地にある。アスファルト舗装はしてないが通年は通れそうな道だ。クルガンの立ち石がいっそう道路近くに立っている。道路に一部がはみ出している石もある。道路が石をちょっと迂回して通っていたりする。周りは乾いた草原だが、道はエシ川のそばを走っているので、川岸にべったりと沿って帯状に成長している林も見える。そのむこうには木の生えていない低い山並みだ。
スラーヴァは、サフロノーフ村はハカシア人の貧しい村の一つであると言う。そうかもしれない。道には深いわだちができ、ニーヴァは走りにくくなり、家々の塀の板はところどころ抜けていて、傾いている。都市と農村の差の大きいロシア(ハカシア)だ。
サフロノーフ村の背後にある丘に、ハカシアで最も印象的な古代人墓地があるのだ。木の一本もない山の中腹にある広い草原台地に50基ほどのクルガンがそびえている。そのうちの4基は特に高い石で囲ってある。波型の石や、三日月形、台形、逆三角形など、これらさまざまな石の形は古代人の好みなのだろうか。高い石は地上6m以上あるそうだ。2500年前のタガール
時代と言う。塚山は、盗掘と風化でほとんどなくなっている。打刻画のある石も多い。獣、鳥、馬に乗った人物、シャーマンかもしれない飛んでいるような人物、タンバリンのようなもの、渦巻き模様、天体のような絵や、シンボルのようなもの(呪術のためだそうだ)など、画は564個あるそうだ。茫々とした荒野に樹立する石柱、乾いているので緑より茶色の草の多い地面を四角く区切る低い石柱、地衣類が生え黄色や赤のまだらになっている石。時刻は8時近くなって、空はハカシア晴れに真っ青だったが、もうクルガンの長い影ができていた。
ひとつひとつの打刻画を丹念にたどっていきたかった。だが、今夜の寝場所も決めなくてはならない。ここにテントを張って古代人と一緒に寝るのは少し怖いような気もするが、素晴らしいではないか。スラーヴァによれば、下のサフロノーフ村の住人に見つからないように、山のもっと奥ならいいそうだ。見つかると喉首を切られる、と言う。切られても誰も助けてくれないし、発見してもくれないかもしれない。強盗殺人が怖かったわけでも、古代人の幽霊が怖かったわけでもないが、まだ明るいうちにカザノフカのユルタ・キャンプに行くことにした。
カザノフカに行き着くために、サフロノーフ村からポルタコフ村へエシ川沿いに戻り、そこからアバカン川に沿った国道161号線をサガイスカヤ草原(サガイ草源)のクルガンに囲まれて、アスキース町のほうへ進む。途中のアンハコフАнхаков村には『ウルック・フルトゥヤッフ・タス(おきな石のおばあさん)Улуг Хуртях тас』を祭る博物館がある。これは4、5千年も前の『多産の偶像』だとどの資料にも書かれている。18世紀前半、ハカシアがロシア帝国に合併されてまもなく、ドイツ人学者メッセルシュミットがピョートル大帝の命でハカシア方面の調査を行ったのだが、その報告書にも、エシ川流域には打刻画のある石柱で囲まれた多くのクルガンがある、と報告されていた。その近くで、この『ウルック・フルトゥヤッフ・タス』は見つかったそうだ。ハカシア人は、この不思議な彫刻のされ方をした石が、数千年前のものにもかかわらず(つまり、現在のハカシア人と異なる民族の可能性が大)、自分たちの女性の衣装に似ている輪郭があるとみなし、多産の象徴として、供え物を添えて祈るようになったそうだ。ところが、1954年にアバカンの郷土博物館に移されてしまった。だが、ハカシア人長老会議のたっての願いによって2003年、もとの場所に戻ったという。以前は野原に建っていたが、戻ってからはガラスの建物の中におさまっている。隣にはお土産を売るユルタも作られた。ここへは2年前に寄ったので、今回は通り過ぎた。本当は寄りたかったが、先を急いだのだ。
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鉄道分岐駅アスキース町 |
アバカン川に沿って走る国道161号線をアスキース町まで行く。ハカシア人の割合が最も大きいアスキース地区中心のアスキース町は、ハカシア共和国の政治首都アバカンとは別に民族首都とされている。人口は7千人で(そのうち周辺部も入れて5千人がハカシア人)、ハカシアでは10番目に大きい。1771年、ハカシアで最初のロシア正教会が建てられたのがアスキース町で、1876年には3千人の原住民(と書かれている)の集団洗礼が行われた、と資料にある。サフローノフ村やポルタコフ村やそのほか途中の草原で通り過ぎた集落は、昔のようにほとんど自給自足で生活しているようだが、アスキース町は面積も大きく2階建て以上の建物も多く、黒い煙がもくもく出ている高い煙突まで数本ある。
オビ川の支流トミ川とチュリム川(黒と白の
イユース川を含む)。エニセイの支流アバカン川
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鉄道分岐駅アスキース
(アバザ行きとノヴォクズネツク行きに分かれる)
下はやや広範囲の地図 |
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ちなみに、アスキース駅は南シベリア支線の重要な分岐点で、アバカンから、ハカシアの南の新しい(20世紀半ば)鉄鋼の町アバザまでの列車が1日1往復通り、また、アバカンから、ケーメロフ州冶金工業と炭鉱の大中心地ノヴォクスネツク市までの列車が1日1往復通る。鉄道はアバカンからアバカン川をさかのぼるように通じていて、アスキース駅を過ぎて、ほぼアバザまで延びるアバカン川に沿った線と、アスキース駅からはアスキース川に沿ってさかのぼり、1957年代にできた(2002年に大修理)ハンフチュル・トンネルでクズネック・アラタウ(のトミ川とアバカン川の分水嶺)を超え、トミ川の最上流の支流畔のビスカムジャ村にでて、今度はトミ川に沿って下り、西隣のケーメロフ州の鉄鋼業大中心地ノヴォクズネツク(*)に出る線が通る。つまり、この鉄道支線は南シベリア地下資源輸送の動脈なのだ。
ちなみにトミ川はオビ川(3650キロ、イルティッシュ川を含めると5410キロとロシア最長)の右岸支流で、長さが827キロもある。だから、トミ川がオビ川に合流するのは遠くトムスク州のトムスク市の近くだ(**)。クズネック・アラタウ、特にハンフチュル・トンネルはまさにオビ川とエニセイ川の分水嶺にあたるのだ。流れの道筋は(アスキース川→アバカン川→エニセイ川→北極海)(トミ川→オビ川→北極海)
(*)ノヴォクズネツク市 1932年から61年までスターリンスクというシンボル的な名前がついていた。
(**)合流点とトムスク市との間に今はセーヴェルスク市(旧トムスク・セブン)と呼ばれるウランとプルトニウム精製の有名な閉鎖都市がある
またトミ川上流のクズネツク・アラタウ山地のハカシア側や、ケーメロフ州側の、特にトミ川の上流左岸支流のコンドマ川(ショルツ語で『曲がりくねった』の意味、ノヴォクズネツク市でトミ川に合流、392キロ)やムラス・スー(ショルツ語で『シベリア・マツの川』、332キロ)流域はシベリア少数民族ショルツ人が住んでいる。
ショルツ人は総数が16,600(2002年)、そのうちケーメロフ州に12,600人、ハカシア共和国のトミ川上流に1200人、アルタイ共和国などに住んでいる。6世紀から9世紀の間、または17世紀ごろまでに原住のケト人やサモデイツ人と、この地に渡来してきたチュルク語系民族との交流でできた民族で、ショルツ語はチュルク語系言語のひとつだ、と資料にある。17世紀トミ川上流を『征服』にやってきたロシア人はショルツ人をクズネック(鍛冶)・タタールと呼んだ。というのは、当時ショルツ人が鉄製品をチュルク系カガン国に税金として納めたり、ロシア商人との交換物にしたりしていたからだ。またケーメロフ州南のショルツ人を川の名前でコンドマ・タタールや、ムラス・タタールと呼んでいたそうだ。
1930年代この地方がノヴォクズネツク冶金工業コンビナートとして大発展したのは、クズバッサ(クズネック炭田)のコークスがあったからだ。そうでなかったら、この辺はショルツ人やテレウト人がコンパクトに住む僻地として残っただろう。
ニーヴァを鞭打って、アスキース川横の道をさかのぼっていく。川や道と平行なアバカン・ノヴォクズネック支線では、貨物車がかなり頻繁に通っている。やはり南シベリアの石炭と鉱石輸送の幹線だ。スピードがでない路線なのかゆっくり走っている。
上アスキース村を通り過ぎた頃は10時近くで夕日がまともに差込み、サンバイザーなどのないニーヴァの助手席では目も開けていられないくらいまぶしかった。スラーヴァもよく運転したものだ。
*上アスキース村遺跡発掘資料はURLにある
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遺跡・自然保護の野外博物館『カザノフカ』 |
アンチン・チョル村
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『アンチン・チョル』クルガン |
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『アンチン・チョル』遺跡の石棺 |
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ハズィン・ヒィル山の岩画(蓮の花?) |
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『死者たちの町』チツィ・ヒィス |
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鉄道のカザノフカ駅を通り過ぎるとカザノフカ村があり、村はずれに自然公園『カザノフカ』の入り口がある。アバカンから127キロを電車で2時間半かけてカザノフカ駅まで来て、そこから5キロ歩いても行き着ける。
1996年、クズネック・アラタウ山麓の2万ヘクタールに作られた遺跡・自然保護区で、草原地帯、山地草原地帯、山地針葉樹林帯を含み、北西には1000mの岩山もある。保護区内には、ハカシア伝統にのっとって生活しているハカシア人の村もあり、生活様式や言語も保存されているそうだ。保護区内の遺跡は、わかっているものだけで6000年以上前の新石器時代遺跡から18世紀までの2000箇所以上ある。クルガンは、最も古いもので4500年前の青銅器時代初期のものがあり、クルガンがもっとも華々しく作られた紀元前千年紀のタガール時代のものは千基以上ある。また、岩画は1500個以上あって、最も古い時代の岩画は紀元前3000年紀から2000年紀にかけてのオクネフ時代のものだ。住居跡はアスキース川やシル川の段丘に紀元前3000年紀半ばのアファナーシエヴォ時代のものがあり、オクネフ時代のものはハジル・ハヤ山などの狭い谷間の今は涸れてしまった川のほとりにある。紀元前13世紀から8世紀のカラスク時代人の住居跡はアスキース川のすぐ近く、今のカザノフカ村やアンチル・チョン村(自然保護区内)の近くの3箇所が見つかっている。さらに、延長40キロもの古代灌漑用水路跡や、青銅器時代の銅採掘場跡、初期鉄器時代の鉄鉱石採掘場跡、古代鍛冶場跡などが見つかっている、と言うすばらしいものだ。(ちなみに1956年、まだ現保護区がなかった頃、ノヴォクズネツクまでの鉄道を敷くためにハカシア人の祖先の山の一つが爆破されたそうだ)。
保護区に着いたのは10時半で、さすがこの谷間では薄暗くなっていた。ユルタ・キャンプ場(つまりホテル)『キュック(ハカシア語で『喜び』の意)』に宿泊してもよかったが、4、5人用ユルタに一人で泊まるのも不経済だったので、近くのアスキース川ほとりの広場に、またテントを張って寝た。テント持参は便利だ。テント泊は無料だし。
翌7月12日、まずは『アンチル・チョン』クルガン群に行く。ここは1960年代、森林コルホーズが林道を作ったり、70年代に灌漑用水路を作ったりで、3000年前のクルガンが20基以上も破壊されてしまった。それで、1996年から2006年に復旧発掘調査がなされた。それにスラーヴァも参加した、と言う。
今、そのクルガン群の周りは家畜が入って糞をしないように(壊れかかった)木の柵が巡らしてある。柵の中には18基の調査済みのクルガンがあって、もちろん、どれも古い時代に盗掘されている。1番大きいクルガンは円形だ。ハカシアのほとんどのクルガンは方形なのに、円形のクルガンとは珍しい。そればかりか、そのクルガンを中心に放射状に10個のクルガンが囲んでいるという様式は、トゥヴァのアルジャン古墳と似ている。10個のうち9個は小さな方形で1個は円形だ。内部には石の棺があって、中央の石室には数千年前の皮と青銅の飾りをまとった20歳くらいの女性が、頭を南西に、左を下に、食物が入れてあったらしい壷と一緒に葬られていたそうだ。さらに、これら放射状に繋がった11個の墓地には女性だけが葬られていた。そのうちの4人は幼児と一緒だった、とある。9m離れたところには板石を横に並べたクルガンがあって、男性が葬られていたそうだ。
ここには、方形のクルガン、円形のクルガン、クルガンの周りに石板を縦に並べて囲ったもの、横に並べて囲ったものなど、狭い場所にさまざまな様式のクルガンが並存していることが謎だ。周辺の調査はまだ続いているそうだ。
このクルガン群から200mほど北東から、ハズィン・ヒィル(白樺の山)が始まるのだが、ここに有名な岩画がある。異なる時代の岩画で、古いもので鳥の姿を打刻した紀元前2世紀、後代になると、シャーマンやシャーマンの道具のタンブリンや拍子木を打刻したものなどが見えるが、7世紀と推測される花(蓮に似ている)の線刻画が有名だ。蓮の花は仏教を表しているではないか。もし、これが仏教の蓮の花なら、ここがシベリアのひとつの仏教中心地だったことになる(私は時代的・場所的にどうかなと思う)。というわけで、この蓮の花の形をした杯の線刻画がカザノフカ遺跡・自然保護区のシンボルマークになっているそうだ。
有名なハズィン・ヒゥル山には岩画などの遺跡や『スベ』(調査の結果、中世要塞の跡より、古代神殿跡の可能性が高いといわれ始めた城壁のように石を積み上げた建造物)などがあるそうだが、また急な崖を上らなくてはならない。それはやめて保護区内の草原を、先に立つスラーヴァの後について行った。
木の生えていない低い山裾に広がる野原の下にアスキース川が流れているらしい。川向こうには人気のないアンチル・チョン村や長い屋根の家畜小屋も見える。スラーヴァたちが発掘調査したときは、テントを張らずに、アンチル・チョン村の空き家に住んでいたそうだ。
この辺は『チツィ・ヒィス』谷と呼ばれている。この草原と言うより荒野を歩いてゆくと、はるか遠くに立ち並ぶクルガン群が見えてくる。『死者たちの町チツィ・ヒィス』とはよく言ったものだ。遠くから見ると密集しているように見えるが、近づくと150以上ものクルガンが四方八方に伸びていて、自分たちの大通りや横丁を作っているかのようだ。門構えのあるクルガンもある。周りを水平に並べた石板で囲ってあるクルガンもある。四隅には高い石を置いたクルガンもある。土盛りはどのクルガンにも、もうない。だから盗掘された穴もない。あってもぼうぼうと生える草の間に隠れているのか、もう地面がすっかり均されてしまったのか。
タガール時代にできたこのクルガンの石には、多くの打刻画が残っているそうだ。シャマーンのまじない場面もあると、案内書には書いてある。ハカシア晴れの朝の空の下、長い間、私はこの古代死者の町をさまよい、門を入り、、石に座り、遠くの青い山を眺め、飛んできた青い蝶と遊んだ。
アク・タス
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『チツィ・ヒィス』谷にはこのようなクルガン群がいくつもあるという。しかし、スラーヴァは来た道を引き返して歩き出したので私も続いた。『アフ・タス』に行くと言う。
ニーヴァに乗って、ユルタ・キャンプ場『キュイ』を通り過ぎ、出口の方に向かうと、野原の中に不思議な面持ちで立っている2mばかりの白い石が見えた。それがアフ(白い)・タフ(石)だ。そこへは乗り物で近づいてはならないとスラーヴァは言うので、遠くに車を止めて歩いて行く。同じく歩いて来る二人連れの男性がいる。ロシア人のようだから、近くにキャンプしている旅行者だろうか。彼らのほうが先にアフ・タスに着いたので、私たちは遠慮してやや離れた草はらで待っていた。二人の男性はこの霊力があるといわれている立ち石からハカシア風儀式にのっとってエネルギーをもらいにきたのか、石の周りを回ったり、石の横に太陽に向かって立ち続けたりしている。
アスキース川の広い河岸段丘キュイ谷の真ん中にそびえている1本の石柱は、あまりにも唐突としているので、この地に次々と入ってきた集団の人々の目を引いたに違いない。4000年前に立てられた(その時代にこの種のものが多かった)というが、スラーヴァによれば、時期は不明だという。手がかりになるような打刻画もないのでわからない。平野の中に立ちつくす2mの石は神聖だ。霊力があるように思える。近世のハカシア人はこの石に病気を治す力があると信じて、お供え物を捧げお参りをしていたそうだ。
何もないところに、人の背より高い石がただ立っているところがいい。誰が立てたのだろう。もしかして、はじめから立っていたのかもしれない。先ほどのロシア人『信者』は去り、誰もいなくなったキュイ谷で、私も石の周りを回ったり、触ったり抱いたり、横で休んだりしていた。7月中旬はこの地方では野生のイチゴが実る頃らしい。小さなオランダイチゴが群がって生っていた。うっとりとする匂いのタチジャコウ草もその横で満開だ。オランダイチゴの方はお味見をした。タチジャコウ草は根の付いたのを1株リュックに入れた。
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旅の終わり |
7月13日、車でアバカンからクラスノヤルスクに戻り、その日の深夜の飛行機でウラジオストックに着いたのは、14日の朝10時過ぎだった。ウラジオストックから富山へ飛ぶのはバスのような小さな飛行機なので、空港に集まった乗客も少ない。日本人は私だけだった。だから、知らないロシア人に書類の運搬を頼まれてしまった。出産のためにロシアに里帰りをしているという若い女性が、私に近づいてきて、日本語で緊急の招待状を届けてほしいと言う。夫はパキスタン人で、富山で中古車売買をしているらしい。富山空港まで迎えに来るから渡してほしいのだそうだ。その招待状を見せ、それから私の目の前で封筒に入れて封をした。怪しいものは入っていないというわけだ。彼女は私が富山空港に着いたら金沢市まで帰ると知ると、夫に電話して、封筒を受け取ったら私を家まで送っていくようにと言っている。
おかげで、空港に着陸してから1時間半後にはもう帰宅していた。二人もの知らないパキスタン人と車に乗るのはちょっとためらったが、乗ってよかった。道中一言もしゃべらなかった。
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