クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2009年12月27日  (校正・追記 2010年5月16日、2010年10月12日、2012年1月19日、2018年10月2日,2019年11月28日、2021年7月27日、2022年6月2日)
26-1   南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(1)アバカン市到着
          2009年6月22日から7月14日(のうちの6月22まで) 

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )

地名は『ハカシア共和国Республика Хасасия』、ハカス人(単数 хакас, 女性は хакаска、複数 хакасы)が住んでいる所、言語はハカスキー語 хакасский язык、盆地はハカスコ・ミヌシンスカヤ Хакасско-Минусинская котловина。 しかし、当サイトではハカシア共和国に住むハカシア人ハカシア語ハカシア・ミヌシンスク盆地と、地名の『ハカシア』で統一した

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』、シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン(古墳)草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区オグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり

 夏至の頃に北極圏内で震えながら『夜中の太陽』に当たっていたい、といつも漠然とロシア旅行の計画を考えるが、クラスノヤルスクに到着してから後の行程はいつも知り合いのディーマさんに任せてある。今まで、エニセイ川を北に下ったり(夏期に、北緯67度までは達したので夜中も沈まない太陽も見れた)、南のハカシア共和国(紀元前5世紀の『大サルビック』古墳)、さらにその南のトゥヴァ共和国(シベリア・スキタイ人の『アルジャン2』古墳)などへ行ったりした。
白イユース川のほとりのクルガン群

 今回は、夏至の太陽の動きとはあまり関係はないが、ディーマさんの手配でハカシア『古代文明』の旅ができた。広い草原盆地の中、点々と見えてくる数千年前のクルガン(古墳)群、それは、草原の草ハネガヤに囲まれて半ば土に埋まったり、やや傾いて立っていたりする大小の古代人が建てた無数の立石だ。山の中腹の険しい岩場に古代人が打刻した岩壁画や崩れた要塞跡がある。不思議な動物やその時代の模様の石碑が、今は荒野の中に横たわっていたりする。
 大部分のクルガンなど古代遺跡は発掘調査されていない。考古学的価値が特にありそうだとか、発電所ダム湖に沈むとか、石炭の露天掘りで壊されるとか、このままでは自然に崩壊してしまうとかいう場合には、その前に発掘調査する。その発掘整備されたばかりのクルガンや、さらに発掘中のクルガンも訪れることができた。
 ハカシアにはこれら遺跡が3万箇所あると言われている。だが、普通に訪れることができるのは、乗り物の便が比較的良いほんのわずかだ。旅行案内書に載っているような有名な遺跡でも、たどり着くのは容易ではないからだ。
 ロシアへの招請状を都合してビザを入手し、航空券の手配をする
 いつものようにディーマさんに6月中旬から有効になるようなビザが作れる招聘状を送ってくれるよう頼んでおいて、クラスノヤルスクまでの行き方を考えた。シベリアの空は毎年運賃が騰貴して、2004年までのクラスノヤルスク滞在中は、ハバロフスク経由のダリアビア航空を使って600ドル程度で往復できたのに、2007年はその3倍もした。それは、値段が上がったと言うほかに、ウラジオストックまではウラジオストック航空、そこからクラスエア航空(クラスノヤルスクに本拠)に乗り継いだからだ(ハバロフスク経由では乗継がうまくいかなかった)。2008年はイルクーツクから先は列車で行ったので17万円だったが、悪天候とかで乗継がうまくいかなかった(イルクーツク空港はダイヤ通りに行かないのが普通と、改めて認識)。
シベリア

 2008年秋、地方航空会社の大編成があったらしい。編成が終わってみると、東シベリアの空はウラジオストック航空会社が独占していた。さらに編成が進んで、モスクワの資本が全ロシアの航空会社を束ねるらしい(ソ連時代は国立のアエロフロート航空ひとつだけだった)が、まずは、ノヴォシビリスクとイルクーツクのシベリア航空、ハバロフスクのダリアビア航空、クラスノヤルスクのクラスエア航空などが撤退(破産)させられた。それで、東シベリアの空を飛ぶときは、どのコースでもウラジオストック航空からチケットを買えばよくなったのだ。だからといって、ロシア国内便はサービスの悪さは改善もされず、運賃がより高くなったわけでもない。高いことは相変わらずで、ほかの空路よりずっと割高だ(東京・パリのほうが、新潟・ハバロフスクより安い)。ただ、シベリア極東の空はウラジオストック航空便のみなので、ハバロフスクで乗り継ごうとウラジオストックで乗り継ごうと、乗り継ぎ運賃が高くならなくなった分だけ利用者には良かった。クラスノヤルスクまでの往復が12万円ときいて、去年より安くなったと喜んだくらいだ。乗り継ぎもうまく行きそうだ。
 往路は6月22日新潟発、ハバロフスク着20時50分、そして、翌日11時40分ハバロフスク発、13時20分クラスノヤルスク着という、手ごろな時間帯の便がある。
 しかし、復路は7月13日ハバロフスクに向けてクラスノヤルスク発4時50分と言う厳しい時間なので、ハバロフスク経由は止めて、ウラジオストック向けの2時40分発という少しはまともな時間にする。(クラスノヤルスクは空港までが遠くて、ロシアの国内便は40前に搭乗手続きを終えるので、4時50分発では2時半に家を出なくてはならない)。ウラジオストックからは新潟ではなく富山空港着にした(この場合、7月14日になる)。
 行きと帰りが同じコースでなくても同じ航空会社の便なので割高にはならなかったが、クラスノヤルスクからウラジオストックの運賃の方が、クラスノヤルスクからハバロフスクの運賃より1200ルーブルほど高く、また、ウラジオストックから富山の方がハバロフスクから新潟より1000円安いのだ。しかし、日本の代理店を通じたので、復路クラスノヤルスク・ウラジオストック・富山便は1万円高くついた。(富山から家までの便が好都合なのだ)。

 招聘状を、送付したという知らせがあってからチケットを購入したのだが、届いた招聘状を見て唖然とした。7月6日入国で10月3日までに出国となっている。すぐクラスノヤルスクに電話したが、申請書には『6月15日から』と書いたが、何かの間違いで『7月6日から』となったのではないかという。ありえることかもしれない。それにしても、受け取ってすぐ間違いに気付いて指摘すれば、訂正されたかもしれないが、今となっては、申請書の出し直しになってしまう。すると1ヶ月以上かかるから、もちろん間に合わない。入国が7月6日となっている以上は、それより1日でも早い日付ではビザが出せない、というのは、うろたえてしまった私が領事館に電話してそんな当たり前の答えを聞きだしてしまったのだ。チケットの買い直しも、手数料2万円余を(急いで)払えば可能ではあるが。
 しかし、せっかく夏至の頃、と決めて気分ものっているので6月22日に出発したかった。ディーマさんからの個人招待ビザではなく、前にも利用したことのある観光ビザで行くことにする。イルクーツクの知り合いに頼むとその知り合いの旅行会社がライセンス付きの招聘確認書をすぐ出してくれたが、この会社はイルクーツクにあるのでイルクーツクにも滞在するかのような日程とバウチャーになっていた。観光ビザでは普通はホテルに泊まり、そのホテルが外国人短期滞在登録をしてくれることになっている。しかし、今回私は途中のハバロフスクの安いホテルに一泊するだけで、クラスノヤルスクではホーム・スティなのだ。
 外国人短期滞在登録についてはよくわからない。個人招待の場合は招待者が郵便局で登録する。観光ビザでホテル泊の場合はホテルが登録してくれる。ちなみに、観光ビザでホテルに宿泊しなかった2006年のサハ・ヤクーツク旅行のときは、念のため、ホーム・スティ先のアンナさんが登録してくれたが、出国の時、登録証明書は特に要求されなかった。わかりにくい国だ。
 『古代ハカシア』、旅の予定表
 クラスノヤルスクでどんな予定になるのか知らせてほしい、とクラスノヤルスクのディーマさんに頼んであったが、出発の2日前、突然メールで次のような予定が送られてきた。
   考古者スラーヴァとのハカシア旅行
24日)イヴァノフ湖群  25日スレーク岩画  26日)トゥイム銅山  27日)シーラ湖、イトクリ湖、ベリョ湖ほか  29にちマーラヤ・シーヤ(洞窟、天幕ユルタ)  30日スンドーク残丘  1日ボヤーリ岩画(ボグラッド区)  2日)バルスーチィ谷、ウズン・ヒール  3日)アスキースキィ区、カザノフカ  4日)トゥン・パイラム祭  5日シューシェンスコエ、サヤン・リング祭  6日シューシェンスコエ、レーニン博物館  7日)水力発電所、マイナ遺跡発掘  8日)サヤノゴルスク市、博物館  9日)ベイ地区の発掘  10日)ティプセイ山  11日)ベイ地区のウスチソス

 行程はかなりきつくて遠いので、ガソリン代、宿泊費(ホテルに泊まるときは)、さらにスラーヴァにガイド料として1日1500ルーブル払う。スラーヴァは今、発掘調査に出ているが、こちらの時間の22時以降だと電話が通じるので、詳細を本人に尋ねてください。
 6月24日から7月11日までの予定で、それぞれの日にこれらの場所に行くらしい。と言うことは、クラスノヤルスク到着の翌日から出発の前々日まで、18日間、ハカシア以外のどこへも行かず、前回や前々回、ガイドをしてくれた考古学者で、アバカン市で歴史の教師をしているというスラーヴァが案内するようだ。それも悪くない。
 その夜、スラーヴァに電話して、少しは詳しく聞き出せた。車つきガイド料1日1500ルーブル(4500円)は本人も安いと思っているらしい。ガソリン代は私が持つことはもちろん同意するが、18日間もホテルで宿泊とは、いったいどんなホテルでいくら位するのだろうか。スラーヴァの宿泊費も必要だろう。すると、電話口でスラーヴァが言うには、基本的には毎日アバカン市まで帰ってきて、私はアバカン市のホーム・スティ先(ディーマさんの兄宅)で泊まるのだそうだ(スラーヴァはアバカン市の自宅で)。家に帰らずそのまま次の日の予定地に行く時は、ホテルに泊まるかもしれないが、スラーヴァはテントを持っているから、自然の中で宿泊することも可能だそうだ(えっ、そんなところへ行くのか、ハードな旅だなあ)。考古学関係の女子学生も一人同行させることは可能で、その女子学生に電話してみる、ということだった(結局、その女子学生の都合はつかなかった)。
 出発まで2日しかないが、すぐインター・ネットでハカシア詳細地図セット(20万分の1から場所によっては5万分の1の縮尺)を買い、プリントアップし、また、ハカシア史の分厚い本の古代編をコピーした。飛行機の中や、待ち時間(これがやたら長い)に読もうと思ったのだ。
 地図のプリントの方はうまくいかなかった。ネットで送られてきたファイルをインストールして解凍し、プリントしなければならないが、A4判でプリントしたのでは細かすぎて字が読めない。大判に出すには私の家庭用プリンターでは分割プリントをしなければならない。GIFファイルを分割プリントするのはいつものやり方ではできなかったのだ。できたのは帰国後だった)。
 いつものハバロフスク経由でクラスノヤルスクへ
 予想されたことだが、道中ではちっともハカシア古代史の勉強はできなかった。新潟からハバロフスクの飛行機では、隣に座ったロシア人女性エレーナが話しかけてくる。エレーナはハバロフスク大学の日本語科卒、しばらくは通訳などをやっていたが、今は夫と日本車部品の販売をやっていると言う。ハバロフスクで注文を取って、日本へ来て買い付け、現品を持って戻るのだ。そう言えば、新潟空港で車の部品が入っているような大型のダンボール箱を、いくつもワゴンに載せて搭乗手続きをしていたロシア人がいた。割高だが、早くて着実かもしれない。以前から新潟空港では自動車部品を大量に運ぶロシア人を見かけたものだ。今でもこの飛行機利用型国境貿易は続いているらしい。手荷物超過料金は安くはないが。
 ハバロフスクに着くと、エレーナはターン・テーブルから次々と段ボール箱を下ろし、ポーターを呼んで、ワゴンに積み込んでいた。
 私は、ハバロフスクの知り合いのゲーナさんに迎えてもらって、すぐホテルに向かった。まずはいつもの『ヴァスホッド(東という意味)・ホテル』へ、ここがだめなら行く『ツーリスト・ホテル』。どちらも、もう遅いので外国人短期滞在登録はできないと言われる。一緒に受付に立っているゲーナさんが、では自分の名前で宿泊すればいいと言ってくれだが、いや、私の名前で宿泊しないと登録はされない。インツーリスト・ホテルなら夜でもやってくれるだろうが、1泊100ドル以上と高い。そこで、2つ目のツーリスト・ホテルの受付に聞いて『ザリャー(暁)』という知らないホテルに行った。ここはできると言われるが、よく聞いてみると仮手続きだけのようだった。ゲーナに、
「ほらね、無駄に3つも回った」と言われる。
 ザリャー・ホテルは古い建物でエレヴェターもなかったが、受付でバス・トイレつき一人部屋と確かめておく。二人部屋だと知らない人と相部屋にされたり、バス・トイレは廊下の突き当たりで共同ということになったりするからだ。
機内、ポリ袋にはウォッカの瓶を隠し持つ
各階のホールに取り付けられた給水タンク『クーレル』

 室内には一応テレビや冷蔵庫もあり、飲み水は各階毎に給水タンク(ウォーター・サーバー)があって、冷水や熱湯が手軽にセルフ・サービスでだせる。このポータブル小型給水タンクは数年前からロシアの諸機関に普及していて、補給する水が信頼できるものならとても便利だと思う。水道設備とは関係なく設置できる。ロシアでは水道水は沸かしたぐらいでも飲めない場合や、汚染されて台所では使えないと言う場合もある。たとえば、ここハバロフスクの水源のアムール川は中国の工場廃水で汚染されているそうだ。
 20リットルくらいの大型ペットボトルを装置の上にさかさまに取り付け、下の栓から冷水や熱湯がでる装置だ。ペットボトルが空になると取り替えるのだ。ロシア人はこれを『クーレル(クーラー)』と呼ぶ。なるほど、初期の頃は冷水だけが出ていたのだろう。日本語のクーラーは冷風(冷房)の意味だが。今はエアコンという。

 新潟からハバロフスクに着いたのが20時、ハバロフスク発が翌朝の10時なので接続は悪くない、と喜んでいたが、実際に空港に着いてみると、1時間遅れるとアナウンスがあった。まあ、1時間ぐらいいいだろう。
 ロシアの国内便は、安くもないのにいつも満席だ。また、座席番号は書いてあるのにいつも自由席だ。この飛行機はペトロパブロフスキー・カムチャッキーから飛んできてクラスノヤルスクの先はエカチェリンブルクまで行くらしい。私たちハバロフスクからの乗客が乗ってみると、カムチャッカからの乗客がすでに座っていて、空いているのは4分の1くらいだった。この先4時間半の飛行には通路側がいいので、二人連れの若い男性が横の座席の上に置いていた荷物をどかしてもらって座る。その男性はあまり横幅がないように見えたからだ。大きな人の隣に座ると、いくら通路側でも窮屈だから。しかし、(最終的には2時間遅れで)飛び立ってからわかったことだが、彼らは飲んでいた(この表現は、ウォッカを、と言う目的語なしで使う)。無遠慮に話しかけてくるので気が付いてよく見ると、目が据わっている。食べ物をこぼす。時々瓶からヴォッカをらっぱ飲みで飲んでいる。特に、真ん中の席のアンドレイという男性の行儀が悪いので、私は邪険に伸びてきた足を押しやったり、らっぱ飲みしているところをめがけて写真を撮ったりしたが、あまり応えた様子もない。そのうちスチュワーデスが瓶を取り上げていった。通路をへだてて横に座っていた年配女性が、困惑している私と目があった時、首を横に振りながら、
「あなた、迷惑してるのね。彼らも若いのにこんなに飲んで...」と言ってくれた。「カムチャッカから乗ったときは、そんなに酔っていなかったのに。きっとハバロフスクで待っているときにヴォッカを買ったのね」だって。

 クラスノヤルスク空港は明るくて新しい手荷物受け取り場ができていた。わずかに垢抜けしたと言える。旧時代的なのがいい所もあるが、空港設備ぐらいは新しい方がいい。空港から町までの30キロは低い丘を縫って、以前からよい道ができている。
 ディーマの会社の事務所で、ハカシアの旅について打ち合わせをする。といっても、メールに書いてあった以上にディーマが知っているわけではない。
 私はカードのほかに現金でスラーヴァへの多めの謝礼に1500ドル、ハカシア旅行の費用の一部に約2万ルーブル相当の円を、円が必要なディーマに、ルーブルに両替してもらう予定で約10万円をもってきていた。が、ディーマから、必要な金額はその都度アバカンの支店から受け取ってほしい、スラーヴァへの謝礼もアバカンの支店からする、旅行中はお金を持たない方がいいと言われて、ドルも円もディーマの会社の金庫にアバカンから帰るまで預かってもらうことにした(アバカンでの費用は彼が日本にきた時、円で清算する)。
 23日の夕方はいつものニーナさん宅に行き、78歳になっても元気な中国語通訳(もする)の彼女から、クラスノヤルスクの中国事情を聞きながら夕食をとって寝る。
 はじめからハカシア共和国アバカン空港へ飛べば良かった
 6月24日(水)12時過ぎ、外国人短期滞在登録を郵便局で済ませたディーマさんが、クラスノヤルスクのバス・センターまで送ってくれた。クラスノヤルスクからアバカン方面へは1日に10本以上のバスが出ているが、次の出発は14時30分だそうだ。2時間も待って、さらに退屈な昼間の長距離バスとは気が進まなかったが、ほかに方法もないので、542ルーブル(2千円)でチケットを買った。そのうちの57ルーブルは荷物代だ。 
右のトイレ小屋の入り口は奥で、ドアはない
バスのフロントガラスはひびが

 ロシアの長距離バスは快適とはとても言えない。ロシアで快適な設備は多くはないし、非快適さを楽しむこともロシア旅行の面白さのひとつなのに、長距離バスに乗った時だけは、その余裕をなくして隣に座っている普通のロシア人にまで敵意を持ってしまう。
 ドイツ製のかなり痛んだバスで、フロント・ガラスにはやたらとジャラジャラ飾りが下がっていて、予備運転手はタバコを吸い(もちろん車内禁煙)、途中に止まる休憩所のトイレの状態は、もう言及しない。薄汚れたカーテンを半分閉めた薄汚い車内には設備は何もなく、よく見えない外の景色を楽しむ余裕もなく、やたら退屈なので、車窓から写真ばかり撮っていた。
「何でそんなに撮ってるの」と隣のおばさんが言うのを、睨みつけて無視し、汚れた窓ガラスや、シールがごちゃごちゃ張ってあるフロント・ガラス越しに撮り続けた。
 このバスはアバカンよりも先のサヤノゴルスク行きで、途中の村々やアバカン市内のいくつかの停留所に止まる。隣の女性はアバカンが初めてで、アナウンスなしのバスでは、どこが自分の目的地のアバカン・バスセンター前なのかわからないらしく、私に聞いていた。外国人がこんなバスには乗らないとでも思っていたのだろう。そっけない返事しか返してやらなかった。
 私はアバカンへは列車やバスや車で何度も行っている。車での往復が多いが、今回は2度目のバスだ。この国道54号線の景色はただ通り過ぎるだけなら見飽きている。今度来るときは上手に予定を組んで夜行列車にした方がいい。445キロの道のりで、昼間の7時間半も過ごすというのは、もし、行程そのものが楽しめないなら、旅行者にとっては無駄な時間だから。
 夕方の9時半にやっとアバカンに着いた。
 こんなに遠回りしなくても、ウラジオストックからアバカンへ直接飛んでも良かったくらいだ。帰国後、ネットで調べてみると、夏秋シーズンは火曜日にウラジオストック発14時30分、アバカン着16時50分というのがあるではないか。アバカンからウラジオストックは月曜日22時10分発で翌日6時00分着。料金は税抜き片道7490ルーブル(2万5千円)とある。往復割引と言うのはないようだから、行きか帰りをアバカン直通便にすればよかった。
 ハカシア共和国首都アバカン
ハカシア共和国
 こうやってたどり着いたアバカン市は、ハカシア共和国の首都で人口は約16万人だ。ハカシア共和国は、南北に425キロ、東西に210キロの半月型をしていて、面積62千平方キロというから日本の6分の1ほどで、人口は約54万人。そのうち12%がハカシア人で、80%はロシア人。共和国というが、85の『ロシア連邦構成主体』つまり地方自治体のひとつで、人口では71番目、面積では46番目とシベリアにしては小さい。
 ハカシア共和国はクラスノヤルスク『地方(という形の連邦構成主体)』の西南、トゥヴァ『共和国』の北西、ケーメロヴォ『州(という形の連邦構成主体)』の東、アルタイ『共和国』の北東にある。クラスノヤルスクとの間にはエニセイ川とソルゴン丘陵があり、ケーメロヴァとの間には2千メートル弱のクズネック・アラタウ(*)と言う山脈があり、南のトゥヴァやアルタイとの間には西サヤン山脈があって、これら山々に囲まれたハカシア盆地に、紀元前3千年紀には、すでに青銅器文明が栄えたのだ(アルタイやトゥヴァの青銅器文明も有名だ)。
(*)アラタウとはチュルク語で『まだらな』・『山』の意。針葉林と落葉林が混ざって秋には常緑樹の間にまだらに黄色や赤い葉の落葉樹が見えるからか、と推察するのは温帯・亜熱帯から来た私のような旅行者で、本当は、雪の白、針葉樹の黒色、森辺の小草原の緑、石に生えた地衣類の黄色や赤などのまだら色のことなのだそうだ。
 首都アバカン市はハカシア盆地のエニセイ川左岸にある。エニセイ川の右岸はクラスノヤルスク地方で、アバカン市の対岸に18世紀はじめからの古いロシア人の町、ミヌシンスク市がある。盆地は、アバカンやミヌシンスクを中心にエニセイ川の右岸と左岸に広がっているので、ハカシア・ミヌシンスク盆地(上記のようにロシア語ではハカスコ・ミヌシンスク盆地)と言う。だが、ロシア人がこの地方に進出したピョートル1世の頃から南シベリアの中心だったミヌシンスクの名前だけのほうが、通用している。ミヌシンスク盆地(と今だけそう呼ぼう、正しくは上記のように長い連名)の東は東サヤン山脈が続く。
 アバカン市のバス・センター前で降りると、ディーマの兄のサーシャとマリーナ夫妻が迎えに来てくれ、サーシャのイプサム(軽い事故車を日本で買い、分解して関税の安い部品として輸入、ロシアで組み立て修理したばかり)で、30分ほどのチェルノゴルスク市の家に向かった。
 石炭の町チェルノゴルスク
 ディーマとハカシアやトゥヴァを回るときはいつも泊めてもらっているサーシャの家だが、実はアバカン市にあるのではなく、18キロ北のチェルノゴルスク市にある。
 チェルノゴルスク市、つまり、チョルニイ(黒い)ガラ(山)市は人口7万人でハカシア共和国第2の町だ。20世紀はじめ、この辺の丘陵地に石炭が発見されて(地元のハカシア人は昔から知っていた)いくつかの炭鉱村ができ、1936年、それらの村々を合わせてチェルノゴルスク市ができた。だから、町にはレーニン通りとか10月革命通りなどの定番のほか、『第8炭坑』通りとか、『黒い岡』通りなどの名前がある。
サーシャの車(家の前、今から出勤)
『鉱山労働者に栄光を』
サーシャの家の前
 
(備考) チェルノゴルスク市については、戦後シベリア抑留者の収容所のあったことでも関係者には知られている。1948年10月から47年4月までソ連内務省『第33収容所本部』がここにあり、チェルノゴルスク支部(第3炭坑で)も含め、ボグラッド地区(農業灌漑水路を作らされた)、オルジョニキーゼ地区(金を採掘させられた)、ウスチ・アバカン地区のソン村やウスチビューリ村(材木伐採、運搬などさせられた)などにある7箇所の収容所支部を管轄していた。第33収容所全体では8700人抑留者がいて、707人亡くなったと、『ソ連時代収容所の記録』サイトにある。
http://www.memorial.krsk.ru/Articles/2000%20Ruzavina.htm
『第33収容所』のチェルノゴルスク支部の方では3020人収容され、そのうち285人なくなった。2001年までに269人の遺骨は日本に持ち帰り、それまで葬られていたところにサヤノゴルスク製(ここから80キロ南西、大理石の産地)の記念碑を建てたそうだ。
 サーシャの家は第9炭坑区という、町外れにある。今、その炭坑は休業中で、別のもっと新しい坑で採掘が行われている。家にいても発破の音が聞こえて来るそうだ。第9炭坑をポーランドの企業に売却する話もあるが、今のところ残りの埋蔵量と質が調査中だと、私の質問にマリーナが後で調べて答えてくれた。当時は大規模だったに違いない第9炭坑区へ通じる道には、『鉱山労働者に栄光を』と書いた大きなソ連風看板が見えるが、その薄汚れぶりやそこを過ぎてすぐ大きな廃屋が続いているのは、もの悲しい。しかし、廃墟ファン(以前の私も含めて)ならカメラを撮り続ける。
 チェルノゴルスクは鉱山労働者のためにできた町だから、ソ連時代なら大部分の住民は鉱山関係者だっただろうが、今はそうでもない。少なくとも、サーシャは『チェルノゴルスク鉱山』会社に勤めているわけではない。ここから120キロ南のベヤ村で農業(つまり、ソ連時代はソホーズで、今は英語風に『フェルメル(ファーマー)』と言うそうだ)をやっていたが、4、5年前、クラスノヤルスク市で成功裏に事業を展開していたディーマがアバカンに支店を作ったとき、そこの受け持ちになった(仕事を見つけるのが難しい兄弟の仕事先を作るためかも知れない)。当時、アバカンのアパートはとても高かったので、少し遠くて不便だったが、売りにだされていたこの一軒家を購入したのだ。上下水道のある町の集合住宅ではなく、村といってもよい第9炭坑区の、たぶん第9炭坑の炭坑夫用に鉱山会社が建て、その関係者が住んでいた家々のひとつで、平屋住居に付いた菜園のはずれにトイレ小屋があるような、田舎の家だ。共同井戸から引いてある水は菜園に撒いたり蒸し風呂に使ったりするだけで飲用にはならない。飲用水は別の井戸からバケツに入れて運んでくる。
台所のマリーナ、向こうのバケツには飲用水
 水が出てくる蛇口がないのでシャワーもない。週に2回、蒸し風呂を焚く。サーシャの家の敷地には、平屋住居のほかにトイレ小屋と長い物置小屋がある。物置小屋の中ほどが蒸し風呂用になっていて、通りに面した方がガレージになっている。便利な都市生活に慣れた私には、実はこの家はとても苦手だ。
 今までサーシャの弟のディーマとアバカンへ行ったとき(2005年2007年)や、アバカン経由トゥヴァ旅行のとき(2008年)、1,2泊したことはあるが、それは、ディーマと一緒だったからだ。しかし、今回は、あまり知らない私を18日間も泊めることによく同意してくれたものだ。だから、屋内にトイレがないとか、水道がないとか文句は言えない。
 アバカンではほかに知っている人はいないし、サーシャにならお礼はディーマを通じてできる。サーシャたちは荷物の多い私を18日間も泊めてくれたばかりか、マリーナは私がどんな食事が口に合うかと心配してくれた。マリーナはチェルノゴルスク市立図書館に勤める司書だが、同僚たちが日本人を泊めていると聞いて
「マリーナ、彼女に何を食べさせてるの? 日本人は肉を食べなくて魚を食べるのではないの? 日本料理は作ってあげなくてもいいの?」などと心配されたと言う。
 サーシャには中学生くらいの娘が二人いるが、一人はこの夏休みに馬場へ行っていて、もう一人が私と続きの部屋で寝ていた。夜遅く帰ってきたときは、居間で寝ている私を起こさないよう静かに入ってこなければならなかったので、彼女も大変だった。
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