6月22日(木)、ロシア入国1週間目でやっと旅行者らしく物見遊山の旅に出かけます。クラスノヤルスク市からイガルカ市までの飛行機はAN24という古い小さな機体で44人乗り、階段を4段くらい上るともう機内、クラスノヤルスクのチェレムシャンカ空港から1300キロを3時間半かけて、ゆっくり飛びます。ちなみにクラスノヤルスクの主要空港はエメリヤノヴォですが、近距離や地方便はチェレムシャンカから飛ぶこともあります。と言ってもクラスノヤルスク地方の面積は、エヴェンキヤとタイムィール両自治管区を入れると日本の6倍もあるので、近距離とは言えませんが。
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AN24機、古くて小さい |
2年前の春先、エヴェンキヤ自治管区のヴァナヴァラ村へ行った時はエメリヤノフから出発しましたが、到着したのはチェレムシャンカでした。その時も、やはりAN24という飛行機で、もっと古く、トイレの洗面台から水も出ませんでした。が、脇に水の入ったベットボトルがおいてありました。片手ずつ手を洗うわけです
今回のはどうか、わざわざ調べに入ってみました。最低限は備わった普通のロシアの機内トイレでした。
シベリアの空を何度飛んだか知れません。山の褶曲の様子や、その間の低地を三日月湖を作りながら川が蛇行している壮大な景観を眺めているのが好きです。ついカメラに撮ってしまうのですが、出来上がりはいつもややピンボケです。乗客は少なく、空席がたくさんあったので、右の座席に行ったり左の座席に行ったりして、下界の地形を眺めていました。クラスノヤルスク市もイガルカ市も、南から北へとほぼまっすぐに流れているエニセイ川の辺にあり、私たちの航路もエニセイ川のほぼ上空を北に向かって飛びます。ですから右か左の窓からいつも太いエニセイが見られるのでした。
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太いエニセイ川 |
そのうちに、軽食が配られました。このAN24機には前の座席の後ろに、折りたたみ式テーブルがないので、お盆を膝の上に乗せて食べます。お茶が配られた時は苦労します。それを除けば、魚か肉かチキンかを選ばされるTU154機の(クラスノヤルスクからハバロフスク便やウラジオストック便など、連邦内、つまり国内の大都市を結び、AN24より大型で早いが、同じく古い)、いつも同じ食事などより、美味しかったくらいです。
食事も終わる頃はエニセイもいっそう太くなり、エニセイが作ったらしい湖沼や、何本も並行する分流(*)が見えてきます。3時間も飛び、エニセイの大きな支流ニージナヤ・トゥングースカの合流点にあるトゥルハンスク村が見えるところまで来ると、地上のあちこちに白い残雪も残っていました。シベリアの町にしては自然発生に近いトゥルハンスク村から、直線で195キロ(エニセイ川航行では298キロ)のところに、ほぼ人工的にできたイガルカ市があります。
*分流とは河口近くで本流から分かれて流れ出すこと、またはその流れの意味だが、ここで分流とはアナブランチanabranch、プロトークПротокのことで、川の本流から離れ再び合流する支流のこと。大きな川に長い中州ができたため細い方が分流路になる。蛇行する川に中州ができ、分流路となった川が、元の川と離れれば三日月湖となる。川が川床を変えて換えて流れると分流路や湖が多くできる。
イガルカ空港はエニセイの中洲にあるので、町まではフェリー(夏場のみ運行、冬は川が凍っているのでそのまま車で行く)かヘリコプターで行くと聞いていました。
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ヘリの天井 |
機体から降り、滑走路を歩きながら早速ディーマと写真を撮り合いました。空港の待合室には、今私たちが飛んできた折返し運転の飛行機に乗って、クラスノヤルスクに行く男性達(出稼ぎに行くのかその帰りなのか)二、三十人がいて、私たちが入ってしばらくすると搭乗口のほうへ消えていきました。
空港から町へ行くヘリコプターの出発まで50分ばかり待っていました。ヘリの運賃は770ルーブル(3300円)ですが、飛行機で到着した乗客は割引されて100ルーブルほどでした。でも、こんな中州のようなところに空港がないなら、この100ルーブルもいりません。
ヘリで5分も飛ぶと町に着きました。途中、眼下にはイガルカ市の基幹産業だった材木工場の残骸が累々と広がっています。イガルカ港はエニセイの河川港であると同時に、海洋船も寄港でき、材木の搬出港としてソ連時代は栄えた町です。つまり、クラスノヤルスク地方の材木が川船や筏でイガルカまで運ばれ、ここから海洋船で(北極海を航行して)ヨーロッパに輸出され、外貨を稼いできたわけです。当時、材木は外貨稼ぎのエースでした。
着地のヘリポート(と言うより、ただヘリが降り立ったというだけのところ)にはディーマの知り合いの知り合いのエゴールが車で迎えに来ていました。大都市から遠く離れたイガルカには珍しい日本製ジープです。この辺の電力会社『タイムィール・エネルギー』のイガルカ支部のトップらしいです。まずは、宿に案内されました。ホテルではなく、3部屋アパートです。3台ベッドがある大きな部屋にはスネジネゴルスク町(*)からきたという親子3人がすでに住んでいました。その奥のベッドが2台の部屋をディーマ用にして、私は台所横のやはりベッドが2台の部屋を使うことにしました。先住者の親子は後4日間いるそうです。
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3部屋のアパート。私の部屋とディマの部屋 |
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普通の住宅の台所はこんなものだった |
アパートの管理人が言うには、もっといい状態のアパートがあるけど、そこは4日後に空くそうです。私たちも、チケットはまだ買ってないのですが、4日後の26日(月曜日)にクラスノヤルスクに帰る予定でした。
このアパートの寝具は列車の寝具と変わりないくらい古そうで、トイレも水洗であるという事だけがありがたく、お風呂はせめてお湯が出ると言うことが利点で、もちろんゴキブリも同居しています。
1つのアパートに知らない人と住むのは初めてで、冷蔵庫の中のジュースも、人のを間違えて飲まないようにしなければなりません。実際ロシアではこれが普通で、ホテルでもツイン・ルームに一人で泊まった時は知らない人と相部屋になることがあります。
愛想のいい親子でした。夫婦と中学生くらいの息子で、お母さんが特に元気で、
「坊や達(夫と息子のこと)、ソーセージ・サンドイッチができたんだけど、食べないこと?」と言ったり、室内の床をモップで雑巾がけして、
「あ、これでさっぱりしたわ」と言ったり、わたしの顔を見るとにっこりして、スネジネゴルスクはどこにあるか説明してくれたりします。ドゥジンカ市の手前にあるというスネジネゴルスクは、1960年代にできた新しい町のようです。クラスノヤルスクの地理など詳しくないディーマも、もちろん、始めて聞いた地名だそうです。『なになにゴルスク』と言う名前からしてソ連時代に計画経済の一環として(人の住めないようなところに無理やり何かの目的で)作った町でしょう。
「世界でも最も北にある発電所町なのよ」と教えてくれました。
(*)スネジノゴルスク(Снежногорск『雪の町』の意)はウスチ・ハンタイスカヤ水力発電所町だ。発電所はエニセイ川の河口より606キロ上流地点に合流する右岸支流ハンタイカ川(174キロ)の、合流地点から34キロほど上流をせき止めてできたハンタイスコエ・ダム湖(2230平方キロ)の出口にある(上の地図)。ハンタイカ川は、ハンタイスコエ湖(822平方キロ)などを通って流れてくる。電力は主にノリリスクに供給される。
スネジノゴルスク町に1960年代末は1万人もいた人口は、2009年には1000人、2020年には600人。陸上の交通路はない。ノリリスクと週2回のヘリコプター、イガルカと月2回のヘリコプターが運行(2006年には運行回数がもっと多かったかも知れない)。アパートの親子はそのヘリを待って宿泊していた。
ちなみに、ハンタイカ川より257キロ上流でエニセイに合流する右岸支流のクレイカ川にも、川をせき止めクレイスコエ・ダム湖を作り、水力発電所町スヴェトロゴルスク(上の地図)ができている。(後記2021年)
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客船が着く船着場だけ…… |
ディーマと私は自分達の部屋に荷物をおくと、外へ出ました。まずはエニセイ川を見ます。あまり幅広い川と見えないのは中洲があるからです。中洲の向こうが本流で、イガルカ港のあるこちら側は分流路(上記)です。大きな中洲があるため北極海(のカラ海やエニセイ湾)からの影響も和らぎ、荷物の積み下ろしが容易で、かつ海洋船も寄港できる水深があるという天然の良港です。当時最大の輸出品である材木の積出港を探していたソ連政府が港の建設を決定しました(ちなみに、シベリア第一の大河オビ川の河口のオビ湾は浅くて大型船は入れません)。それで1929年、それまで漁師達の冬越し小屋しかなかったイガルカに町を作り積出港と製材所を作りました。
イガルカは急速に人口が増え、1931年には町から市になり、1970,80年代は、ヨーロッパ・ロシアの白海に面したアルハンゲリスクについで大きな材木の積出港になりました。ソ連時代にできた北方の町はイガルカも含めて囚人労働によって作られ、『繁栄』を支えたのも囚人と強制移住者たちです。(下記に詳細)
その日、後からエゴールが車で市内を案内してくれました。今(2006年)では人口8千人の小さな見捨てられた町です。イガルカ市の材木コンビナートはソ連崩壊後、急速に製造量と輸出量が減り、今では工場も操業をしていなくて、広い敷地に朽ちたような材木がばらばらと投げ出されています。当然人口も減り、ソ連時代、人工的に何かの目的のために作られた北方の多くの町と同様、失業者も多く、若者も職を見つけられず、国の補助金でなんとか続いているようです。
後記: 書籍『古くからのイガルカ、謎のイガルカ Игарка древняя, Игарка загадочная』から(2021年記) |
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『古…イガルカ…』の裏表紙(左)と表紙 |
イガルカという名は、エニセイ分流路のイガルカ川からできたらしい。その分流路の名は、今は死語となっているシベリア先住民のエニセイ語族(ケット語のみが現行)か、または、サモディーツ語からできたらしい。
1740年の地図には、すでにイガルカ川とその畔にイガルカ・ジモビエの名やそのほかの地名が載っている。19,20世紀初めにはエニセイ川下流にいくつもの猟師や漁師の小屋群があった。エニセイ川岸にあったものは『営地スタノーク станок(またはスタン)』 と呼ばれ、川岸から離れたところにあったものは『冬越し小屋ジモビエ зимовье』 といったが、区別は曖昧だ。1軒または数軒の丸木小屋があって季節によっては無人となるが、長期に利用された場所のことだ。トゥルハンスクより北に、たとえば1824年には、数十カ所のロシア人の営地や冬越し小屋があったそうだ。(それらは丸木小屋で、先住民のネネツ人などの円錐形のチュムとは違う)。
エニセイ川の河口より628キロ上流のハンタイカ川合流点から、さらに235キロ上流に合流するクレイカ川合流地点までがこの『古くからのイガルカ、謎のイガルカ』に書かれている範囲だ。
現代はその範囲にはイガルカ市以外はほぼ無人村となっているが、スターリン時代の地図には10村以上の地名が載っている。イガルカ市以外に 1.アガピトヴォ
Агапитово、2.プラヒノ Плахино、3.ノサヴォエ Носовое、4.イガルカ・スタノク Ст.Игарка、5.パガレルカПогорелка、6.スシコヴォСушково, 7.カラシノ
Карасино、8.パロイПолой、9.エルマコヴォ Ермаково、10.ジェネジキノ Денежкино、11.クレイカ Курейка、12.スハリカ
Сухарика、他3カ所などで、収容所の場所だった。これらの場所は現代の詳細地図にも載っているが『無人 нежил.』とあったり、名前がなくて『小屋
игбаб.избы.』とだけあったりする。それらは、18世紀や19世紀からの営地や冬越し小屋があった場所だった。
19世紀後半にはイガルカには2,3軒の家に数人がすんでいた寒村だったが、当時のドゥジンカ(今は大きな港町)より多かったが、(7の)カラシノはイガルカの2倍あったとか。ロシア商人や外国商人が取引に訪れていた。営地は現地人との取引の基地(ファクトリー)でもあった。
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ナンセンがクレイカ村の
エニセイ・オスチャーク人(*)
の墓地を写した写真。 |
1893年から1896年にかけてフラム号で北極遠征を行ったことで有名なフリチョフ・ナンセンが、1913年には商業用北極航路調査のためノルウェーからエニセイ川河口に入り、エニセイ川をクラスノヤルスクまで遡り、そこから列車でウラジオストックへ向かった。手記にイガルカ営地の対岸の崖のことが一言書いてあったり(その頃はまだイガルカ港はなかった)、クレイカ村の写真が載っていたりする。
ナンセンがクレイカ村のエニセイ・オスチャーク人(*)の墓地を写した写真が、ウィキペディアに載っている。墓地には故人が来世へ行けるようにそりが置いてある、と写真の説明にある。
(*エニセイ岸にいたサモディーツ人系、ケット人系、トゥングース人系の古い呼び名、ロシア人には先住民は皆同じに見えたのか、地名で呼んだ。オスチャークとはオビ川中流にいたハンティ人の古いロシアからの他称。今でもシベリアの先住民を一抱えにオスチャーク人と呼ぶロシア人もいる)
1920年代はじめから材木の積み出し港を探していたソ連政府は、1923年頃はウスチ・ポルト(エニセイ河口から325キロの地点、上記地図)を使っていたが、北極海からの疾風でエニセイを下ってくる当時の船舶では長期にとどまれない。それで、河口から918キロ上流のアングチハ
ангутиха分流路岸(上記地図)に仮の港の建設が決まった。しかし、海洋船が遡るには途中のエルマコヴォ浅瀬が障害となった。が、川船から海洋船への積み替え港として、アングチハ港は建設が決まってはいた。
当時、イガルカ分流路の左岸(だから中州になる)には漁師小屋のイガルカ営地があった。1927年、穏やかなエニセイ分流路の水深が深いことが偶然明らかになり、右岸に港を作ることが決められ、イガルカと名付けられた。一方対岸に元々あった営地はスタリィ(旧)イガルカとなったわけだ。1929年6月には資材と250人の建設労働者が無人の右岸に降り立ち、「同じ月にはバラックが、トナカイ遊牧民の移動式小屋(円錐形でチュム)のあった場所に建ち、すでに海洋船や川船、いかだ、曳船や艀が寄港していた。300人が最初の冬を越した」と同書には書かれている。
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クレイカ川合流点からハンタイカ川合流点までの
エニセイ川沿岸の 強制移住者の居住地点
1.アガピトヴォ 2.プラヒノ 3.ノサヴォエ
4.イガルカ・スタノク 5.パガレルカ 6.スシコヴォ
7.カラシノ 8.パロイ 9.エルマコヴォ
10.ジェネジキノ 11.クレイカ 12.スハリハ |
シベリアと言えば、1920年代中頃から50年代初め頃までのスターリンの粛清時代に『大発展』した。(それ以前のロシア帝国領シベリアはロシア人は希薄)。シベリアの『大発展』は粛清された人たちの強制移住先(と懲役地)としてだったと言ってもいい。彼らは地下資源開発の労働力となり、荒野の農地化のコルホーズ員となった。まずは、遠隔地だが資源開発有望地に人の住める場所を作った。そこへ行く交通路を作った(河川というはじめからの交通路のあったところもある)。
ソ連政府がかつて行った粛正のひとつに特別開拓があった。
『特別移住者 спецпоселенцы(または特別開拓者)』とはソ連市民が何らの司法手続きなしで現在住んでいるところから遠隔地・未開地へ強制的に移住させられた人たちのことだ。時期と対象者から3つのカテゴリリーに分けられる。
第1は1929年(1925年)から1932の富農撲滅政策の時期に、富農とされた農民や農業集団化に反対勢力となる自作農などが撲滅対象だった。反革命的行動を起こしたかも知れない農民(本人は銃殺または懲役)の家族やそのほかの富農分子が移住の対象となった。1930-1940に220万人余が犠牲となったが、それは当時の全ソ連人口1億2千万の1.6%だった、そうだ。
第2は1930年代末からの民族的な理由から施行された強制移住だ。主にヴォルガ中流に18世紀に移住してきたドイツ人の子孫、モスクワ公国より以前からロシアに住んでいたフィン系人の子孫や、1939年に併合されたポーランド東部に住んでいたポーランド人(14万人)や、バルト3国、モルダビア、ベラルーシ、ウクライナ西部の住民も潜在的に敵性民族、つまり『信用のおけない民族』として対象となった。
第3のカテゴリーは戦争末期に、チェチェン人、イングーシ人、カラチャエフ人、バルカル人、カルムィク人、クリミヤ・タタール人などで利敵行為があったとされ民族まるごと強制移住させられた。ウクライナからはドイツ軍占領時、ソ連からの独立運動があったとして加担した地域住民が村まるごと移住させられた。
1950年の内務省の統計によると、『旧富農』や利敵行為などを行ったとして『特別開拓者』とされ移住させられた人はポーランド人56,000人、ドイツ人949,829人、カルムィキ人91,919人、チェチェン人とイングーシ人とカラチャエフ人とバルカル人608,799人、クリミア・タタール人とギリシャ人とアルメニア人とブルガリア人(彼らはソ連領でドイツ軍占領地区に住んでいたのでドイツ協力者と見なされた)228,392人、トルコ人とクルド人とヘムシン人(グルシア南西部のアジャリア自治州などに住む)94,955人、ウクライナ民族主義者組織(反ポーランド・反ソ・反独・ウクライナ独立をかかげる)の参加者やそれに協力したかも知れない住民100,310人、ロシア解放軍(『ヴィラソフ軍』反共勢力)参加者やそれに協力したかも知れない住民148,079人、『公安条例違反者
указники(悪意を持って農村での労働を逃れ、反社会的寄生虫的生活様式を送るもの。実際は戦後の農村のコルホーズは生産物の半分を国庫に納め、コルホーズ員の給料は生活できないくらい低かった)42,690人、グルジア系トルコ人とギリシャ人とダシナク支持者(アルメニア革命連盟)57,670人、イラン人4,776人。
この時期特別移住者(開拓者とよばれた)として667,589家族、2,562,955人(男性776,989人、女性929,476人、子供856,490人)とウィキペディアにある。特別開拓者の経済効果は大きかったか。(歴史的にも奴隷労働の経済効果が大きかったか)。未開地に集落を作り(無人の地に一定距離毎数百軒の集落を作る。しかし、その多くは1950年代末には無人となっている)、運河や道路を作り、ウラル山地やクズバス(南シベリア)の地下資源開発などに従事させられた。自由労働者より安い賃金でより多くのノルマで働かされた。1944年以降は所得税も取られた。
イガルカには1930年に最初の強制移住者(特別開拓者)が送られてきた。ついで大きな移住者の波としては1940年と1942年で、最後の大量輸送は1948年だった。
クラスノヤルスク地方北へ移住させられる『人民の敵』達はエニセイ川を曳船に曳かれた艀で運ばれてきた。動力のある曳船に数珠つなぎに曳かれた何隻もの艀に乗せられて運ばれた、とある。そうしたキャラバンで18日もかかって目的地に着いたと、体験談にある。途中、新しい移住者を乗せ、死者を埋葬するために毎日停泊したとか。曳船と艀のキャラバンは高速武装船によって監視されていた。移住者は、自分たちはこのまま北極海の一部のカラ海まで曳かれていき、そこで『富農階級抹殺のため』沈められるのかと噂していたとか。1930年から1933年まで2万人の主として(この頃はまだ)ロシア人『富農』が運ばれてきたとされている。
強制移住の『富農』達はかつて営地や冬越し小屋のあったところに下ろされ、自分たちで小屋を作り、集団農場・コルホーズを作って無人の地を『開拓』するようるように言われた。移動中と移動先での悪条件のせいもあって、最初の冬で大勢がなくなった。とりわけ、アガピトヴォが悲惨だった。「アガピトヴォ営地は無人の地であり、1942年に483人が投げ出され、『赤い10月』という漁業コルホーズを作ることになった。移住者は女性や老人子供達だ。ひとまず地面を掘って住むところを作った。最初の冬に飢えと寒さで182名が死んだ。人々は『死の島』と呼んだ。『赤い10月』はその後、収益が少ないからと閉鎖され。生き残った『コルホーズ員』はプラヒノへ移された」とか。
1930年から1933年はとくに壊血病が多かった。1931年には1000人の壊血病患者が記録され、1933人は3555人だった。1934年には383人と、その本には書かれている。
第2次大戦が始まると、潜在的敵性民(『信用のおけない民族』)として様々な民族が、先祖代々住んでいた場所からシベリアなどへ強制的に移住させられた(上記にも)。この書にあるイガルカへはラトヴィアから約2000人、ヴァルガ移住(18世紀)のドイツ人が5000人以上、アゾフ海岸のギリシャ人が500人、レニングラード州からフィン人、ドイツ人、レット人が数百人。また、1944年の大戦終結前には利敵行為があったとして、カルムィク人500人以上も送られてきた。戦後の1948年にはリトアニアから5000人が送られてきた。1930年から1957年までの強制移住者は3万5千人とされている。そのうち3分の1は1954年のパスポート授与(つまりクラスノヤルスク地方内の移住の自由)や、1957年の国内の移動の自由(つまり帰還できる)を待つことなく死亡。
1960年代にはそうした強制居住地はほぼ無人となり、現在はクレイカに400人が住んでいるのみだ。イガルカも1939年には2万4千人いたが、1959年には1万4千人に減り、積み出し港として機能していた間はまだ1万人以上いたが、ソ連崩壊以後は減る一方で、2020年は4千人になっている。。もちろん『503』収容所などの囚人は含まない。
イガルカの上流100キロから下流200キロの約300キロの沿岸が当時の行政区(ハンタイカ川合流点からクレイカ川合流点まで)だったが、1930年から1960年末までの強制移住者が住まわされた時代を除けば、その前の時代も後の時代もほぼ無人で、季節漁師小屋がある点在している程度だった。
同書によると、1990年最も悲惨だったアガピトヴォにラトビア人の元収容者や遺族が十字架を立て、『アガピトヴォ受難者』を悼んだ。1991年エルマコヴォにクラスノヤルスク大司教がロシア正教の十字架を立てて、北極圏鉄道を建設中に死亡した『503』収容の粛清の犠牲となった囚人達を悼んだ。現在『古い市(下記)』と言われているところにイガルカ郷土博物館があるのだが、かつてはその場所に移住させられたリトアニア人のバラックがあり『リトアニア村』と呼ばれていた.『罪なく1948年にイガルカに送られたリトアニアの5560人を悼んで』という記念碑がリトアニア人遺族や帰還者によって建てられた。2001年かつてのリトアニア人の墓地に『1937年から1957年までリトアニア人517人を含む数千人のイガルカ住民が眠る、御霊よ安かれ」という碑が建てられた。
『驚異のイガルカ Удивительная Игарка』という本に18世紀のイガルカ分流の記事をはじめとしてイガルカに関する年表が載っているのだが、1932年にタイムィールでドルガン人トナカイ遊牧者たちの蜂起があり、その鎮圧にイガルカから懲罰隊が出たと載っている。1932年という年の蜂起はソ連時代の最後の反ソの蜂起だったとか。 |
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戦没者の墓地と『永遠の火』 |
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ソ連時代のモニュメント |
イガルカ市の市街面積の大部分を占める『古い町』(と言っても町ができたのは1929年から)には、傾いたような建物だけがあり、多くのアパートは無人のようです。これは永久凍土帯に基礎工事の不十分な高層建築(たとえば5階建て)を建てた場合、地下の凍土が融けて地盤が傾いたからです。エニセイに沿って『古い町』の隣に『新しい町』ができていますが、そこも建物が傾斜し、窓には板が打ち付けてあります。町の真ん中のところどころ、沼地や池ができていました。エゴールによると、以前はこのような沼地も池もなかったが、永久凍土の上に家をたてたため凍土が融けてできたそうです。もちろん冬は池も沼も道も凍っているのでしょう。今は夏なので湿地に生えるような草が生い茂っています。
『新しい町』の、舗装が凸凹になった埃っぽい目抜き通りにはレーニン像が建っています。一街区も行ったところに戦没者の墓地と『永遠の火』(昔はここでコムソモール員が不動で立っていた。どの町にも必ずあって、どこでも、それは町の名所だった)のある寂れた公園があり、さらにしばらく行ったところの雑草と水溜りの中に、石で作られた大きなモニュメントが立っています。ソ連時代の画風で、発展する港町と活躍する労働者群像と『1929』と言う年号がレリーフされています。この町ができた年です。
廃墟になった『新しい町』よりさらに新しい『第1団地』というところに、私たちの宿泊所があります。
「港を見たい」とエゴールに頼んだので、『元』イガルカ港へも行きました。海港としても河川港としてもクレーンなどの設備はもうほとんど取り払われ、クラスノヤルスク市からたまに客船が到着するための船着場が残っているだけです。
夜中の2時半
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でも、活気のある観光都市を見るために、イガルカに来たわけではありません。夜中の太陽を見るためです。ロシアの時間帯は太陽の動きより全体に1時間進んでいて、さらに今はサマータイムで本当の太陽時より2時間近く進んでいることになるので、正午に太陽が南中するわけではなく、午後2時頃に太陽の高度が最も高くなり、夜中の12時ではなく、午前2時くらいが真夜中と言うことになります。この時間に太陽の高度が1番低くなるわけですが、もちろん地平線の端にもかかりません。(イガルカは北緯67度27秒、北極圏は北緯66度33秒=北極線以北の地域)
アパートの私の部屋は北西向きに窓があったので、午後から宵はずっと太陽が差し込んでいますが、ディーマの部屋は反対側に窓があったので夜中から朝はずっと太陽が差し込んでいることになります。真夜中の太陽は高度が低いのでまぶしくはありませんが、それでも、さんさんと光っています。でも、外は昼間よりずっと寒くなります。
1日中明るいので時間の感覚がなくなります。まだ、昼間の4時頃の(日本にいるような)つもりで時計を見ると、もう夜の10時だったりします。
23日(金)、9時に開館する永久凍土博物館へ行きました。これは昨日、イガルカのアパートに到着するとすぐ、外国人が来たので珍しかったのか、アパートの管理人が(頼んでもいないのに)館長に電話をして、
「日本人が行くからね」と言っていたところです。その時、管理人が私にも電話口に出てほしいと言うので、しぶしぶ受話器をとりました(ロシア語で電話するのは大の苦手)。
永久凍土帯の断面
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「イガルカのどこを見たいの?」と女性館長。
「クレイカのスターリン宮殿も見たいです」
「ちょっと遠いわね。行き方を考えてみるわ。いつまでいるの?」
「26日に帰るつもりですが、まだチケットは買ってありません」
と言うような会話がありました。後はディーマに代わってもらいました。
ロシアの博物館では外国人料金とロシア人料金は10倍以上違うことがあります。永久凍土博物館は外国からの来館者のため『超』特別料金が設定してあります。写真は撮ってもいいですが、撮影許可料金の方も外国人はまた、『超』特別料金がかかります。
寂れた町の唯一有名な博物館です。と言うのも、町ができてすぐ永久凍土研究所用ができ、ソ連がシベリアに『発展・繁栄』していたころ、永久凍土帯の『先進的』研究が行われました。その後一般人も入場できる博物館になりました。このような博物館は世界に2つとないと、パンフレットにも書いてあります。
地下10メートルのところまで降りられて、永久凍土の断面が見られます。永久凍土の断面は岩石とその隙間の氷からできていますが、倒れたカラマツが岩石の間に埋まっていることもあります。もちろんカラマツも凍っています。約5万年前のものと書いてありました。地下はもちろん零下の気温ですが、1年中一定でマイナス5度だそうです。つまり冬、地表がマイナス40度や50度の時、ここは暖かいわけです。
博物館はガイドつきで、そのガイドが地下に降りるために暖かいコートも貸してくれました。ガイドの話すロシア語はもちろん全部はわかりません。休みなく話すガイドに質問もできないまま次ぎの展示物の説明に移り、15分ぐらいで地下見物は終わってしまいました。地下博物館は見学者の呼吸で暖まらないよう、一度に入る人数も時間も制限されています。と言っても、ガイドを入れて私たちは3人でしたし、この日の来館者も多くて数人でしょう。
永久凍土博物館部は、郷土博物館部と『503』博物館部を併せ持っています。イガルカは2度目の私はこれら博物館も2度目です。ですから、『503』の意味も知っています。
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シベリア北を横断する北極圏鉄道(計画) |
南シベリアにはモスクワからウラジオストクまで走るシベリア横断幹線鉄道が20世紀はじめには全線開通していましたが、1947年スターリンは、それと並行して、ずっと北の、西シベリアのオビ川下流のサレハルドとエニセイ川右岸のイガルカを結ぶ1200キロの永久凍土帯を走る北極圏鉄道(北方大鉄道、正確にはコミ共和国のチュムが始発、1482キロ)を建設しようとしました。完成すれば、クラスノヤルスク地方北部をはじめ東シベリアにある地下資源が容易にヨーロッパ・ロシアに運ばれることになります。何十万人と言う囚人を送り込み、速いテンポで建設が進められました。(1953年1月、全ソ連邦収容所の囚人は230万人、うち26万人が、当時『501,503建設』と暗号名で呼ばれていた『チェム―サレハルドーイガルカ』鉄道建設に動員されていた)。サレハルドの収容所本部は第『501』で、イガルカは第『503』です(オビ湾に注ぐプル川が501と503の境界。プル川東岸には現在ウレンゴイУренгой町と呼ばれていて、ヤマロ・ネネツ自治管区内)。鉄道架設予定沿線の現場には5〜10キロごとに5百メートル四方の鉄条網で囲ったラーゲリ(矯正収容所、つまり懲役囚刑務所)があって、建設労働者(囚人)が住まわされました。1200キロの予定沿線の各地からいっせいに建設を進めるためです。
永久凍土帯に鉄道を敷設するのは技術的に困難でしたが、道床を盛り上げ、川に橋をかけ、1953年スターリンの死による中断までには、ほぼ800キロが完成したそうです。たとえば、503建設部では、イガルカからエニセイ右岸を南にエルマコーヴァの対岸までの65キロや、エルマコーヴァからトゥルハン川岸のヤーノフ・スタン(*)まで80キロは運行できるところまで開通していました。しかし、指導者スターリンの死後は中断され、その後再開されることはなく、建設途中の鉄道は機材もふくめて放棄され、今に至っています。投入された物的資源と人的資源は報われないままに終わったわけです。多くの罪なき政治犯が死亡したとして、ロシア正教の十字架も立っています。
(*)ヤーノフ・スタン エニセイ川左岸支流トゥルハン川(639キロ)畔にある。トゥルハン川のエニセイ合流点より277キロ上流にあり、クラスノヤルスク地方側では最も西の機関車修理場建設予定地だった(ここから西へ40キロでヤマロ・ネネツ自治管区に入る)。ヤーノフ・スタンは現在気象観測所があって職員が数人住んでいる。межселеннная
территория(どの市町村にも属さない、つまり村としての自治体に入らない領域の意味)で、かつては先住民セリクープ人などが住む集落だった。ちなみにトゥルハン川は、オビ湾に注ぐタス川を遡ってエニセイ川に出る16世紀の毛皮商人の通路でもあった。 |
イガルカにはヨーロッパ・ロシアから、政治犯ばかりでなく多くの強制移住者が送られてきました。戦後になると、占領時ドイツ軍へ協力したとしてバルト三国のラトビア人が多く移住させられました。その資料や展示物も『503』博物館には多いです。ちなみにイガルカ市の市長も強制移住ラトビア人の子供です。(上記書籍『・・・イガルカ』)
この博物館はガイドの説明付きで回ると45分で終わることになっています。でも私たちは、一巡の後、博物館の本を買ったりして、もっと長くいましたが、それでも、午前中にはもう博物館を出ていました。(もっと長くいて、展示物のロシア語説明文を隅々まで読めばよかったとは、後で思ったことです。)
イガルカができた1929年の翌年から永久凍土研究所はあったので、その後身の博物館は『古い町』にあります。『古い町』から『第1団地』までは1時間に1本の、シートの破れたバスが運行しています。途中、廃材しか残ってないかつての『イガルカ木材コンビナート』跡を通り、窓に板が打ち付けてある建物を見ながら、砂埃を上げるほどスピードは出さないバスに乗って帰りました。
どうも予定通りの26日(月)には帰りのチケットが取れないようです。29日まで空席はないそうです。それも早く買っておかないと空席が埋まってしまうかもしれないので、29日のをひとまず押さえておきました。
エゴール(横向き)の事務室
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その日、午後から、エニセイの川岸に出たり、町を歩いたりして時間を過ごしましたが、もっと興味深いことはないのでしょうか。夕方、エゴールの事務所で日本からのメールを調べたり返事を書いたりしていました。こんなことをするためにわざわざイガルカに来たのではないのに、と内心でぶつくさ言いながら。
イガルカには、博物館とエニセイ川の他にまだ見るところはないのでしょうか。エゴールのパソコンのインターネットで調べました。住人のエゴールにも聞いてみました。
市の北はずれに男性用収容所跡と、少し小さい女性用があるはずですが、エゴールの言うには、跡地には何もないとのことです。見張り塔の残骸や鉄条網の破片でもないかと聞いてみたのですが、見るほどのものはないそうです。エゴールが見る価値がないと思っても、私にはあるかもしれません。でもそこへ行くにはエゴールが車を出してくれないといけません。
イガルカ市紹介のDVDがあるというので、ディーマとコピーしました。イガルカの地図でもないだろうかとエゴールに聞くと、二十万分の1の詳細地形測量地図を出してきてくれました。おお、これはいい、とコピー機がないのでデジカメに撮りました。
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1937年に基礎、スターリンの死の1953年
には閉鎖、1961年には内部は解体され、
前面のスターリン像もエニセイ川に投棄、
1996年には完全に廃墟になる |
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4年前、エニセイ川クルーズで来た時、クレイカ村のスターリン宮殿跡は見ませんでした。今回はぜひ見たいものです。しかし、エゴールはそこにはもう見るほどのものは何も残っていないと(またもや)言います。エルマコーヴァ村ならモーターボートで魚釣りに行ってもいいそうです。クレイカ村へはさらに70キロ、つまり片道5時間もかかるので無駄だと言います。
クレイカは革命前(1914-1916年)にスターリンが流刑になっていたところで、1949年に、スターリンが当時住んでいた家を囲って立派なスターリン博物館(パンテオンだから宮殿、または神殿と言ってもいい)ができ1952年に完成した。1961年に閉鎖され、1996年には破壊されていました。往年の宮殿の写真や廃墟になった宮殿跡の写真はよく見ますが、そこを、実際に見たいものです。
ヨシフ・ヴィサリオーノヴィッチ・スターリン(本名ジュガシヴィーリ Иосиф Вассарионович Джугашвили)は1914年にクレイカ村に流刑になりタラセエヴァ家に滞在していた。
ロシア帝国時代、革命家達はシベリアや北方に短期、長期の流刑になった。逃亡した革命家も多い。スターリンは、1909-1911年には現アルハンゲリスク州のソリヴィチェゴスクに流刑となった。宿泊先の女主人クザコヴァ(寡婦で子あり)との間に婚外子コンスタンティン・ステパノヴィチ・クザコフКонстантин Степанович Кузаков(1911-1996)が生まれた。
スターリンは1914年から1916年までクレイカ村に流刑になっていた。以下は1990年代以降に、スターリンの2人の婚外子、上記コンスタンティンと下記アレクサンドルについて明らかになったことだ。2007年、イギリスで出版されたジャーナリストで歴史家のサイモン・セバグ・モンテフィオーレの『ヤング・スターリン』によると:
「スターリンのもう一人の認識されていない子供の母親は13歳のリディア・ペレプリギーナЛидия Перепрыгинаで、34歳のスターリンは1914年に追放されたクレイカ村に住んでいた。リディアは妊娠し、怒った彼女の兄の訴えにより、地元の憲兵隊が動いたが、スターリンは、女性が結婚できる年齢に達したら、リディアと結婚すると約束して、スキャンダルを防いだ。スターリンの息子アレクサンドルは1917年に生まれました。しかし、スターリンはその先に流刑地から逃亡していた。リディアはイガルカで美容師となり、地元の漁師ジェイコブ・ダヴィドワと結婚し、ジェイコブは子供を養子にした。フルシチョフへの秘密の報告書の中で、ソ連のKGBの責任者、セロフ将軍は「スターリンは決して彼女を援助しなかった」と述べている。アレクサンドルは郵便配達人になった。1935年、彼はクラスノヤルスクに召喚され、クザコヴァの息子の場合のように、彼の出生について極秘にするという文書に署名させられた。アレクサンドル・ダヴィドフ
Александр Давыдовは対ドイツ戦で2度負傷し、少佐に昇進した。戦後、ノヴォクズネツクで食堂のディレクターとして働いた。彼にはスターリンの孫の3人の子供がいた。アレクサンドルは1987年に亡くなった」というものだ。(2021年記)
エゴールのモーターボートがだめなら、ヘリコプターで行けないでしょうか。定期便が飛んでいるはずです。しかし、週1回イガルカ空港を飛び立ったヘリは近辺の村々(交通手段はヘリしかない)を一巡してイガルカへ戻ってくるそうです。1度クレイカへ行けば、帰りは1週間後となるので、その案は却下です。
結局、エゴールに頼んで、エルマコーヴァまでモーターボートを出してもらう他ありません。エルマコーヴァは4年前のエニセイ・クルーズの時、上陸して北極圏鉄道の建設跡を見ました。ここは2度以上見る価値があります。1度では見落としたところも多いでしょうし、2度目は印象が違うものです、といつも思っています。
エゴールとディーマ、それにもう一人誘って4人で出かけ、仕掛け網に魚がかかるのを待っている間に鉄道跡を見ることにしました。
24日(土)。エゴールから電話で今日はいけないと連絡があったので、ディーマと二人、埃っぽい町をうろうろして、無人となっている5階建てアパートを撮ったり、エニセイ川岸に流れ着いた流木に座って、ヘーゼルナッツをぼりぼりかじり、ミネラルウォーターをちびちび飲みながら、エニセイを航行する船を長い間眺めたりしていました。酔っ払いがタバコがないかと聞きに来ました。
流れ着いた流木に座って
いつも眺めていたエニセイと中洲
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イガルカに滞在中、夜はいつもディーマの持って来たノートパソコンでDVDを見ていました。ディーマは『ビー・ライン』社の携帯電話が使えると聞いたので、同社用のシム・カードも買い(私も買った)、携帯でインターネットをつないで仕事をするつもりで、パソコンも持って来たのです。でも、『ビー・ライン』社はインターネット接続サービスをまだイガルカ市ではやっていなかったので、インターネットはエゴールの事務所でやり、ディーマのパソコンでは、ロシアに普通に売っている海賊版DVD映画を毎夜、退屈しのぎに見ていました。
ロシア語吹き替えアメリカ映画やロシアのアフガン戦争映画でした。ディーマの部屋は夜も、太陽が差し込むのでカーテンを引いて見ていました。1枚のディスクに10本も録画してある海賊版なんて、質がいいはずがありません。ロシア語でおまけに音も悪くてよく聞こえないので、私には映画の後半になっておぼろげにあらすじがわかるという程度で、実は、イガルカの町同様退屈でした。ディスクにはホラーやスパイもの、冒険もの、家庭コメディーものなどたくさん入っていて、夜になると2本ずつ見て退屈していました。
夜中の2時も過ぎたころ、カメラを持って夜中の太陽を撮りに外へ出かけます。太陽は低い高度でも金色にまぶしく輝いているのですが、寒くて長くは外に出ていられません。この芯から寒いことと戸外に誰もいないことで、明るくても深夜だとわかります。夏、夜のない北極圏の町では、夏中の3ヶ月が1日です。(6月末の是自然語の3ヶ月。それが過ぎても、8月末まで、太陽は夜10時ごろには沈むが、沈み方が浅いので1晩中薄明かりが続く)。夏、暗くなるまでに家に帰ろうと思ったら秋まで待たなくてはなりません。この時期、夜行性動物は冬眠ではなく夏眠でもしているのでしょうか。
イガルカの川岸からボートで離れる
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25日(日)。毎朝遅くまで寝ているのは、深夜の太陽は観賞しますが、昼間の太陽など珍しくもないので寝ているからです。この日、午後からモーターボートでエルマコーヴァに行き、遅く帰ってくることになっていましたから、朝は十分寝ておいたほうがいいでしょう。遅く帰るというのは、夜の12時頃と言うのではなく翌朝の6時頃のことですから。
エゴールは2時ごろ出発と言っていましたから、それまでにエルマコーヴァ探検に備えて食料(と、もちろんヴォッカ)や蚊よけスプレーなどを買いに出かけました。
2時ごろ川岸で待っていると、エゴールのモーターボートが近づいてきます。ヴァシーリーという助手も乗っていました。ここからエルマコーヴァ村まで3時間ほどの水上行程が始まります。エゴールはボートのハンドルを握ったまま微動だにしないで前方を見ています。ヴァシーリーは対岸に見えるものを説明してくれたり、ディーマの質問に答えたりしてくれました。対岸に見えるものは上記地図にあった収容所跡の小屋などです。私も質問したかったのですがためらっているうちにとおりすぎました。
イガルカからエルマコーヴァまでの120キロほどの間、川岸に沿ってカラシノ村などいくつかの集落がありましたが、今ではやっとそれとわかる跡が残っているだけです(上記)。
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ディーマとヴァシーリー、モーターボートで |
目的地のエルマコーヴァ村も今は無人です。この村は、イガルカをはじめ北部エニセイ沿岸の集落と同様、18世紀の頃から知られていて、冬越し用猟師(漁師)小屋が建っているだけでしたが、1942年、まず、強制移住者たち57家族の漁業コルホーズができました。北極圏鉄道建設が始まった1949年ごろにはイガルカに2万5千人も(そのうち1万7千人が強制移住者たち)が住んでいましたが、建設拠点のエルマコーヴァにはイガルカ以上の住民(大部分が囚人)がいたそうです。スターリンの死で建設が中止された1953年からエルマコーヴァの大部分の住人(建設に従事していた囚人)は恩赦で釈放され、強制移住者たちは故郷に帰ることを許され、ほとんどの旧村民は去り、1964年石油調査停止で調査員も村を去りました。
さらに、1978年『エニセイ石油地質調査会』が地質調査目的で、地下800メートルでの20キロトン(というかなりの規模の)核爆発『地震波測定調査』をしたため、残っていたわずかの住民も上流のイガルカ市や、下流のクレイカ村に移住させられ、今では崩れかけた無人の家があるだけだそうです。そのうち川岸にある1軒が、このあたりで漁をしている(密猟もする)漁師の臨時宿泊小屋になっています。
小屋の近くの川岸にモーターボートを乗り上げると、食料品などの荷物を持って陸地に上がりました。陸地と言っても地面は軟らかく、歩くと沈むので、腿まであるゴム長をはいたヴァシーリーにおんぶしてもらって、小屋のある高台に上る階段のところまで運んでもらいました。
小屋の中は蚊取り線香のにおいがして、ほっとします。小屋には先客(あるいは常駐)の男性が二人いました。早速ヴァシーリーがチョウザメを捌き始めました。もちろん私はすぐにカメラを構えます。でも、これは密漁の魚らしく、写してほしくはなさそうでした。でも、私たちは彼らの知り合いのエゴールの知り合いですし、写真を日本で見せても自分たちの違法行為はばれないでしょうから、笑って許可してくれました。さらに、まだ生きているチョウザメを囲ってある生簀にも案内してくれ、
「どうだ、でかいチョウザメだろう」と自慢していました。
チョウザメを捌く
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チョウザメの肉は脂がのっていて美味しいのだそうです。5人の男性達はチョウザメの刺身をつまみ、ヴォッカを飲み、パンをちぎってチーズを乗せてぱくつき、サラミソーセージの皮を剥いて食べていました。私にも強く勧められたので、ヴォットカ以外は恐る恐る一口ずつ口に入れました。少量なら、胃酸がよくいきわたり、外国人にだけ悪さをするバイキンを殺してくれると思ったからです。安心して食べたのは、出発前に買っておいたグリーンピースの缶詰です。私の長年のロシア生活で『保障つき』はこれとビスケットです。
先客(あるいは住人)の一人(太って陽気、後でグルジア人と教えてもらう)が、私に以前会ったことがあるといいます。オーストラリア人と一緒にきて、小屋の中の写真を撮っていったと、おぼえているそうです。確かに4年前、アントン・チェーホフ号でエニセイ川クルーズをした折、エルマコーヴァに上陸して北極圏鉄道跡を見物して帰り道、迷子になったアコーデオニストのジェーニャと私がこの小屋に入ったのをおぼえています。そのとき、クルーズの船客でいつも私と同じテーブルで食事をしていたオーストリア人が一緒だったかもしれません。小屋の写真を撮ったのもおぼえています。そういえば、この陽気なおじさんもいたかもしれません。
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腹ごしらえをした小屋
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鉄条網の断片 |
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機関車の一部か |
腹ごしらえをして、私たち4人はまたボートに乗り、グルジア人が教えてくれた漁場に網を張りに出かけました。岸辺に程近く、網の端を結わえ付けるための葦の茎などが水中から出ているところです。魚がかかる間、北極圏鉄道跡を探検に行きます。4年前の経験から、そこへ行くには何キロもの沼地の中を通り、蚊やアブなど吸血昆虫に悩まされ、汗だくだくになるとわかっていました。『防』吸血昆虫用迷彩服はディーマが用意してクラスノヤルスクから持参してあります。手首がマジックテープでしっかり閉まり、フード付きで、フードにはネットがついていて、ファスナーを閉めると頭部も昆虫から防御できます。ネット越しに前方が見られますが、暑いです。
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小屋の前のディーマ
当時の食堂らしかった。大釜もあった |
通り道にある沼地(湿地)は避けて進みます。沼地を避けるため林の中を迂回すると、また沼地に出会います。それも避け、道から遠ざからないよう、昔の線路道を進みます。所々に線路の断片が残っていて、その中にはレールらしく地面に横たわっていないで、突き刺さったように立っているのもあります。凍土が融けたり凍ったりしてかたむいたのでしょうか。レールには刻印がしてあり、錆びてよくわかりませんが、『ナディージダ(希望)』という工場で作ったようです。
道が上がっていくと沼地は少なくなり、下がると多くなります。半沼地なら、片足が沈む前に別の足を先に出して早く進めば抜けられます。迂回するため林に入ると枝に引っかかれます。倒木をまたぎ、突き出ている根っこで足をくじかないよう、3人の(私よりも)若くて屈強な(ロシア人だからね)男性達に遅れないよう必死で歩きました。
途中、収容所のバラック群跡のところでは写真も撮らなくてはなりません。鉄条網の断片が見つかると、もちろん、顔のファスナーを開けて、ディーマに写真を撮ってもらいます。崩れかかった玄関口の階段に座ってポーズをとるディーマの写真も撮ってあげなくてはなりません。食堂だったらしいバラックもあり、床は抜けていましたが、入ってみると大きな釜がいくつもあり、かまど跡らしいレンガの山も見えました。
エゴールは生まれも育ちもイガルカなのに、鉄道跡探検に来るのは初めてだそうです。でも道はよく知っていて、先頭を超スピード(と、私には思えた)で進んでいきます。ヴァシーリーが沼地に慣れない私たちに歩けそうな道を示しながら一緒に来てくれます。私はディーマの足元を見ながら、(周りの景色を楽しむ余裕もなく)、遅れないようついていきました。わたしの歩調が遅く道連れと離れると、木に隠れて姿が見えなくなるので「ディーーーマァ!!」と大声で呼びます。「ここだ、ここだ」と姿を見せてくれます。
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先に到着していたエゴール |
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機関車 |
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ターミナル車庫の残骸 |
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書類受付用(給料支払いよう?)窓口か |
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地下核実験跡『立ち入り禁止』の標識 |
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仕掛けた網から魚を取り出す |
5,6キロも行った頃、草道の中に錆びた蒸気機関車がでんと止まっていて、その前に、エゴールが遅い私たちを待っていました。修理すればまだ十分使えるものだそうです。
1953年から放置されている機関車は、今ではここ鉄道建設跡に10台もないそうですが、これがそのうちの一台です。また、今では貴重な歴史文化遺物といえます。一応(予算不足で形式的にしろ)管理しているのはイガルカの『503』博物館ですが、同博物館報によると、国内外の博物館や各種機関からこのような機関車を購入したいという申し込みも少なくないそうです。ところが、最近エルマコーヴァ地区から機関車が2台行方不明になったそうです。鉄くずにして売却する目的で、何者かが運び去り、もう、すでに、鉄くずにされてしまったらしいと言う情報もある、と書いてありました。確かに、4年前、エルマコーヴァに来た時は、別の場所に別の機関車(煙室戸が取れていた)が横転していましたが、今回はありません(4年前のサイト『エニセイクルーズ』に写真あり)。
エゴールたちが立派だと言う蒸気機関車の写真を何枚も撮り、先へ進みました。私は蚊に刺されないよう重武装服で沼地を抜け、倒木をまたぎ、枝にひっかかれながらの強行進にかなりまいっていましたが、もちろんこの先にあるエルマコーヴァ車庫・機関車修理場跡(サレハルドから1132キロ)もぜひとも見なくてはなりません。
40分も歩いたところに大きなターミナル車庫の残骸が見えてきました。屋根も壁も落ち、釘の刺さった梁が散らばっていました。点検修理用引込み線と、その下にもぐって修理するための坑道や、作業員のための注意事項を書いた看板などが、それとわかります。また、管理室らしい別室、給料支給用の小窓(昔ロシアではお金が盗まれないよう、こんなのぞき穴のような小窓を作って支給していた)も残っています。資料によると、1200キロの北極圏鉄道に4箇所このようなターミナル車庫(主要駅)が完成し、2箇所は未完成だったそうです。準ターミナル車庫は4箇所ありました。それらすべては廃墟になっています。
ターミナル車庫の隣に古井戸のような木枠があって丸い標識が立っています。ヴァシーリーによると、ここが、1978年『エニセイ石油地質調査会』が地質調査目的で地下880メートルでの20キロトン規模核爆発『調査』をした地点だそうで、標識はさびていますが『立ち入り禁止地区』と書いてあるのが読み取れます。もしかして、私たちはもう被曝してしまったでしょうか。ヴァシーリーは、この辺で採れたきのこを食べているそうですが。
ここまで来ただけの道のりを、また歩かないと帰れません。足がもう先に出ないくらい疲れてモーターボートに戻ったのはもう夜中の1時でした。仕掛けた網から魚を取り出したり、陽気なグルジア人の小屋で(ヴォッカを飲んで)腹ごしらえをしたり(私は、昼の残りのグリーンピースの缶詰)、また、エニセイに出て釣り竿をたれたり(豊漁とは言えなかった)して、エルマコーヴァを引き上げたのが、夜中の3時。エニセイの水上、風を切ってモーターボートで進むのは寒く、用意した綿入れコートに包まって、ゆっくり水平線に接しようとしただけでまた昇っていく太陽を見ながら、4人とも黙って座っていました。朝6時ごろ、もうかなり高い太陽の光がまぶしいなか、前の日に出発した川岸に降り立ちました。
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沈まないを見ながら帰る。これは朝焼け |
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