クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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 up date 2006年9月22日(校正08年6月19日、10年9月15日、12月26日,2014年11月7日)
夏至の頃クラスノヤルスク(中)
     2006年6月15日から7月4日

 Летом в Красноярском крае, в северной Ж/Д (с 15 июня по 4 июля 2006 года)

(上)ロシア19日間始まり
(中) イガルカ市へ飛ぶ
イガルカ空港着、さらにヘリで
アパート着。同居人
天然の良港イガルカ
ゴーストタウン寸前
夜中の太陽
永久凍土博物館
『503』博物館
帰りのチケットが取れない   
クレイカ村宮殿は残念ながら...
ぽりぽり、ちびちびと。暗くなるまでに。 
蚊よけスプレーを持って出発
無人のエルマコーヴァ村
チョウザメを肴にウォッカ
『北極圏鉄道』跡探検 
立派な蒸気機関車
『幻の』エルマコーヴァ駅
(下)ドラッグ・レース


エニセイ下流、クラスノヤルスク北部

 イガルカ市へ飛ぶ

 6月22日(木)、ロシア入国1週間目でやっと旅行者らしく物見遊山の旅に出かけます。クラスノヤルスク市からイガルカ市までの飛行機はAN24という古い小さな機体で44人乗り、階段を4段くらい上るともう機内、クラスノヤルスクのチェレムシャンカ空港から1300キロを3時間半かけて、ゆっくり飛びます。ちなみにクラスノヤルスクの主要空港はエメリヤノヴォですが、近距離や地方便はチェレムシャンカから飛ぶこともあります。と言ってもクラスノヤルスク地方の面積は、エヴェンキヤとタイムィール両自治管区を入れると日本の6倍もあるので、近距離とは言えませんが。 

AN24機、古くて小さい

 2年前の春先、エヴェンキヤ自治管区のヴァナヴァラ村へ行った時はエメリヤノフから出発しましたが、到着したのはチェレムシャンカでした。その時も、やはりAN24という飛行機で、もっと古く、トイレの洗面台から水も出ませんでした。が、脇に水の入ったベットボトルがおいてありました。片手ずつ手を洗うわけです
 今回のはどうか、わざわざ調べに入ったのがトイレにこだわる私らしいところです。最低限は備わった普通のロシアの機内トイレでした。 
 シベリアの空を何度飛んだか知れません。山の褶曲の様子や、その間の低地を三日月湖を作りながら川が蛇行している壮大な景観を眺めているのが好きです。ついカメラに撮ってしまうのですが、出来上がりはいつもややピンボケです。乗客は少なく、空席がたくさんあったので、右の座席に行ったり左の座席に行ったりして、下界の地形を眺めていました。クラスノヤルスク市もイガルカ市も、南から北へとほぼまっすぐに流れているエニセイ川の辺にあり、私たちの航路もエニセイのほぼ上空を北に向かって飛びます。ですから右か左の窓からいつも太いエニセイが見られるのでした。

太いエニセイ

 そのうちに、軽食が配られました。このAN24機には前の座席の後ろに、折りたたみ式テーブルがないので、お盆を膝の上に乗せて食べます。お茶が配られた時は苦労します。それを除けば、魚か肉かチキンかを選ばされるTU154機の(クラスノヤルスクからハバロフスク便やウラジオストック便など、連邦内、つまり国内の大都市を結び、AN24より大型で早いが、同じく古い)、いつも同じ食事などより、美味しかったくらいです。

 食事も終わる頃はエニセイもいっそう太くなり、エニセイが作ったらしい湖沼や、何本も並行する分流が見えてきます。3時間も飛び、エニセイの大きな支流ニジナヤ・トゥングースカの合流点にあるトゥルハンスク村が見えるところまで来ると、地上のあちこちに白い残雪も残っていました。

 イガルカ空港着、さらにヘリで

 イガルカ空港はエニセイの中洲にあるので、町まではフェリー(夏場のみ運行、冬は川が凍っているのでそのまま車で行ける)かヘリコプターで行くと聞いていました。

ヘリの天井

 機体から降り、滑走路を歩きながら早速ディーマと写真を撮り合いました。空港の待合室には、今私たちが飛んできた折返し運転の飛行機に乗って、クラスノヤルスクに行く男性達(出稼ぎに行くのかその帰りなのか)二、三十人がいて、私たちが入ってしばらくすると搭乗口のほうへ消えていきました。
 空港から町へ行くヘリコプターの出発まで50分ばかり待っていました。ヘリの運賃は770ルーブル(3300円)ですが、飛行機で到着した乗客は割引されて100ルーブルほどでした。でも、こんな中州のようなところに空港がないなら、この100ルーブルもいりません。
 ヘリで5分も飛ぶと町に着きました。途中、眼下にはイガルカ市の基幹産業だった材木工場の残骸が累々と広がっています。イガルカ港はエニセイの河川港であると同時に、海洋船も寄港でき、材木の搬出港としてソ連時代は栄えた町です。つまり、クラスノヤルスク地方の材木が川船や筏でイガルカまで運ばれ、ここから海洋船でヨーロッパに輸出され、外貨を稼いできたわけです。当時、材木は外貨稼ぎのエースでした。

 アパート着。同居人

 ヘリポート(と言うより、ただヘリが降り立ったというだけのところ)にはディーマの知り合いの知り合いのエゴールが車で迎えに来ていました。大都市から遠く離れたイガルカには珍しい日本製ジープです。この辺の電力会社『タイムィール・エネルギー』のイガルカ支部のトップらしいです。まずは、宿に案内されました。ホテルではなく、3部屋アパートです。3台ベッドがある大きな部屋にはスネジネゴルスク町(『雪の町』の意)からきたという親子3人がすでに住んでいました。その奥のベッドが2台の部屋をディーマ用にして、私は台所横のやはりベッドが2台の部屋を使うことにしました。先住者の親子は後4日間いるそうです。

奥にあるディーマの部屋
アパートの台所

 アパートの管理人が言うには、もっといい状態のアパートがあるけど、そこは4日後に空くそうです。私たちも、チケットはまだ買ってないのですが、4日後の26日(月曜日)にクラスノヤルスクに帰る予定でした。
 このアパートの寝具は列車の寝具と変わりないくらい古そうで、トイレも水洗であるという事だけがありがたく、お風呂はせめてお湯が出ると言うことが利点で、もちろんゴキブリも同居しています。
 1つのアパートに知らない人と住むのは初めてで、冷蔵庫の中のジュースも、人のを間違えて飲まないようにしなければなりません。実際ロシアではこれが普通で、ホテルでもツイン・ルームに一人で泊まった時は知らない人と相部屋になることがあります。
 愛想のいい親子でした。夫婦と中学生くらいの息子で、お母さんが特に元気で、
「坊や達(夫と息子のこと)、ソーセージ・サンドイッチができたんだけど、食べないこと?」と言ったり、室内を雑巾がけして、
「あ、これでさっぱりしたわ」と言ったり、わたしの顔を見るとにっこりして、スネジネゴルスクはどこにあるか説明してくれたりします。ドゥジンカ市の手前にあるというスネジネゴルスクは、1960年代にできた新しい町のようです。クラスノヤルスクの地理など詳しくないディーマも、もちろん、始めて聞いた地名だそうです。『なになにゴルスク』と言う名前からしてソ連時代に計画経済の一環として(人の住めないようなところに無理やり何かの目的で)作った町でしょう。
「世界でも最も北にある発電所町なのよ」と教えてくれました。なるほど。

 天然の良港イガルカ。だが..

 ディーマと私は自分達の部屋に荷物をおくと、外へ出ました。まずはエニセイ川を見ます。あまり幅広い川と見えないのは中洲があるからです。中洲の向こうが本流で、イガルカ港のあるこちら側は分流です。大きな中洲があるため北極海(のカラ海やエニセイ湾)からの影響も和らぎ、荷物の積み下ろしが容易で、かつ海洋船も寄港できる水深があるという天然の良港です。当時最大の輸出品である材木の積出港を探していたソ連新政府のおめがねにかなったわけです(ちなみに、シベリア第一の大河オビ川の河口、オビ湾は浅くて大型船は入れません)。それで1929年、それまで漁師達の冬越し部落だったイガルカに町を作り積出港と製材所を作りました。
 イガルカは急速に人口が増え、1931年には町から市になり、70,80年代は、ヨーロッパ・ロシアの白海に面したアルハンゲリスクについで大きな材木の積出港になりました。ソ連時代にできた北方の町はイガルカも含めて囚人労働によって作られ、『繁栄』を支えたのも囚人と強制移住者たちです。

 ゴースト・タウン寸前だそうだ
客船が着く船着場だけが、、
戦没者の墓地と『永遠の火』跡
ソ連時代のモニュメント

 その日、後からエゴールが車で市内を案内してくれました。今では人口8千人の小さな見捨てられた町です。イガルカ市材木コンビナートはソ連崩壊後、急速に製造量と輸出量が減り、今では工場も操業をしていなくて、広い敷地に朽ちたような材木がばらばらと投げ出されています。当然人口も減り、ソ連時代、人工的に何かの目的のために作られた北方の多くの町と同様、失業者も多く、若者も職を見つけられず、国の補助金でなんとか続いているようです。
 イガルカ市の市街面積の大部分を占める『古い町』(と言っても町ができたのは1929年から)には、傾いたような建物だけがあり、多くのアパートは無人のようです。これは永久凍土帯に基礎工事の不十分な高層建築(たとえば5階建て)を建てた場合、地下の凍土が融けて地盤が傾いたからです。エニセイに沿って『古い町』の隣に『新しい町』ができていますが、そこも建物が傾斜し、窓には板が打ち付けてあります。町の真ん中のところどころ、沼地や池ができていました。エゴールによると、以前はこのような沼地も池もなかったが、永久凍土の上に家をたてたため凍土が融けてできたそうです。もちろん冬は池も沼も道も凍っているのでしょう。今は夏なので湿地に生えるような草が生い茂っています。
 『新しい町』の、舗装が凸凹になった埃っぽい目抜き通りにはレーニン像が建っています。一街区も行ったところに戦没者の墓地と『永遠の火』(昔はここでコムソモール員が不動で立っていた。どの町にも必ずあって、どこでも、それは町の名所だった)のある寂れた公園があり、さらにしばらく行ったところの雑草と水溜りの中に、石で作られた大きなモニュメントが立っています。ソ連時代の画風で、発展する港町と活躍する労働者群像と『1929』と言う年号がレリーフされています。この町ができた年です。
 ちなみに、私たちの宿泊所は『新しい町』よりさらに新しい『第1団地』と言うところにあります。
 「港を見たい」とエゴールに頼んだので、『元』イガルカ港へも行きました。海港としても河川港としてもクレーンなどの設備はもうほとんど取り払われ、クラスノヤルスク市からたまに客船が到着するための船着場が残っているだけです。

 夜中の太陽
夜中の2時半

 でも、活気のある観光都市を見るために、イガルカに来たわけではありません。夜中の太陽を見るためです。ロシアの時間帯は太陽の動きより全体に1時間進んでいて、さらに今はサマータイムで本当の太陽時より2時間近く進んでいることになるので、夜中の12時ではなく、午前2時くらいが真夜中と言うことになります。この時間に太陽の高度が1番低くなるわけですが、もちろん地平線の端にもかかりません。
  アパートの私の部屋は北西向きに窓があったので、午後から宵はずっと太陽が差し込んでいますが、ディーマの部屋は反対側に窓があったので夜中から朝はずっと太陽が差し込んでいることになります。真夜中の太陽は高度が低いのでまぶしくはありませんが、それでも、さんさんと光っています。でも、外は昼間よりずっと寒くなります。
 1日中明るいので時間の感覚がなくなります。まだ、昼間の4時頃の(日本にいるような)つもりで時計を見ると、もう夜の10時だったりします。

  永久凍土博物館

 233日(金)、9時に開館する永久凍土博物館へ行きました。これは昨日、イガルカのアパートに到着するとすぐ、外国人が来たので珍しかったのか、アパートの管理人が(頼んでもいないのに)館長に電話をして、
「日本人が行くからね」と言っていたところです。その時、管理人が私にも電話口に出てほしいと言うので、しぶしぶ受話器をとりました。

永久凍土帯

「イガルカのどこを見たいの?」と女性館長。
「クレイカのスターリン宮殿も見たいです」
「ちょっと遠いわね。行き方を考えてみるわ。いつまでいるの?」
「26日に帰るつもりですが、まだチケットは買ってありません」
と言うような会話がありました。後はディーマに代わってもらいました。
 ロシアの博物館では外国人料金とロシア人料金は10倍以上違うことがあります。永久凍土博物館は外国からの来館者のため『超』特別料金が設定してあります。写真は撮ってもいいですが、料金が外国人はまた、撮影用『超』特別料金がかかります。
 寂れた町の唯一有名な博物館です。と言うのも、町ができてすぐ永久凍土研究所用ができ、ソ連がシベリアに『発展・繁栄』していたころ、永久凍土帯の『先進的』研究が行われました。その後一般人も入場できる博物館になりました。このような博物館は世界に2つとないと、パンフレットにも書いてあります。
 地下10メートルのところまで降りれて、永久凍土の断面が見られます。永久凍土の断面は岩石とその隙間の氷からできていますが、倒れたカラマツが岩石の間に埋まっていることもあります。もちろんカラマツも凍っています。約5万年前のものと書いてありました。地下はもちろん零下の気温ですが、1年中一定でマイナス5度だそうです。つまり冬、地表がマイナス40度や50度の時、ここは暖かいわけです。
 博物館はガイドつきで、そのガイドが地下に降りるために暖かいコートも貸してくれました。ガイドの話すロシア語はもちろん全部はわかりません。休みなく話すガイドに質問もできないまま次ぎの展示物の説明に移り、15分ぐらいで地下見物は終わってしまいました。地下博物館は見学者の呼吸で暖まらないよう、一度に入る人数も時間も制限されています。と言っても、ガイドを入れて私たちは3人でしたし、この日の来館者も多くて数人でしょう。

 『503』博物館

 永久凍土博物館部は、郷土博物館部と『503』博物館部を併せ持っています。イガルカは2度目の私はこれら博物館も2度目です。ですから、『503』の意味も知っています。

北極圏鉄道

 南シベリアにはモスクワからウラジオストクまで走るシベリア横断幹線鉄道が20世紀はじめには全線開通していましたが、1947年スターリンは、ずっと北の、西シベリアのオビ川下流のサレハルドとエニセイ川右岸のイガルカを結ぶ1200キロの永久凍土帯を走る北極圏鉄道(北方大鉄道、正確にはコミ共和国のチュムが始発、1482キロ)を建設しようとしました。完成すれば、クラスノヤルスク地方北部をはじめ東シベリアにある地下資源が容易にヨーロッパ・ロシアに運ばれることになります。何十万と言う囚人を送り込み、速いテンポで建設が進められました(1953年1月、全ソ連邦収容所の囚人は230万人、うち26万人が、当時『501,503建設』と暗号名で呼ばれていた『チェム―サレハルドーイガルカ』鉄道建設に動員されていた)。サレハルドの収容所本部は第『501』で、イガルカは第『503』です(オビ湾に注ぐプル川が501と503の境界。プル川東岸には現在ウレンゴイ町と呼ばれていて、ヤマロ・ネネツ自治管区内)。鉄道架設予定沿線の現場には5〜10キロごとに5百メートル四方の鉄条網で囲ったラーゲリ(矯正収容所)があって、建設労働者(囚人)が住まわされました。1200キロの予定沿線の各地からいっせいに建設を進めるためです。
 永久凍土帯に鉄道を敷設するのは技術的に困難でしたが、道床を盛り上げ、川に橋をかけ、1953年スターリンの死による中断までには、ほぼ800キロが完成したそうです。たとえば、503建設部では、イガルカからエニセイ右岸を南にエルマコーヴァの対岸までの65キロや、エルマコーヴァからトゥルハン川岸のヤーノフ・スタン(*)まで80キロは運行できるところまで開通していました。しかし、指導者スターリンの死後中断され、その後再開されることはなく建設途中の鉄道は機材もふくめて放棄され、今に至っています。投入された物的資源と人的資源は報われないままに終わったわけです。多くの罪なき政治犯が死亡したとして、ロシア正教の十字架も立っています。

(*)ヤーノフ・スタン エニセイ川左岸支流トゥルハン川(639キロ)畔にある。トゥルハン川のエニセイ合流点より277キロ上流にあり、クラスノヤルスク地方側では最も西の機関車修理場建設予定地だった(40キロ西でヤマロ・ネネツ自治管区に入る)。ヤーノフ・スタンは現在数人が住むмежселеннная территория(どの市町村にも属さない、つまり村としての自治体に入らない)だが、かつては先住民セリクープ人などが住む集落だった。ちなみにトゥルハン川は、オビ湾に注ぐタス川を遡ってエニセイ川に出る16世紀の毛皮商人の通路でもあった。

 イガルカにはヨーロッパ・ロシアから政治犯ばかりでなく、多くの強制移住者が送られてきました。戦後になると、占領時ドイツ軍へ協力したとして特にバルト海のラトビア人が多く移住させられました。その資料や展示物も『503』博物館には多いです。ちなみにイガルカ市の市長も強制移住ラトビア人の子供です。
 この博物館はガイドの説明付きで回ると45分で終わることになっています。でも私たちは、一巡の後、博物館の本を買ったりして、もっと長くいましたが、それでも、午前中にはもう博物館を出ていました。(もっと長くいて、展示物のロシア語説明文を隅々まで読めばよかったとは、後で思ったことです。)
 イガルカができた1929年の翌年から永久凍土研究所はあったので、その後身の博物館は『古い町』にあります。『古い町』から『第1団地』までは1時間に1本の、シートの破れたバスが運行しています。途中、廃材しか残ってないかつての『イガルカ木材コンビナート』跡を通り、窓に板が打ち付けてある建物を見ながら、砂埃を上げるほどスピードは出さないバスに乗って帰りました。

 帰りのチケットが取れない

 どうも予定通りの26日(月)には帰りのチケットが取れません。29日まで空席はないそうです。それも早く買っておかないと空席が埋まってしまうかもしれないので、29日のをひとまず押さえておきました。

エゴール(横向き)の事務室

 その日、午後から、エニセイの川岸に出たり、町を歩いたりして時間を過ごしましたが、もっと興味深いことはないのでしょうか。夕方、エゴールの事務所で日本からのメールを調べたり返事を書いたりしていました。こんなことをするためにわざわざイガルカに来たのではないのに、とぶつくさ言いながら。
 イガルカには、博物館とエニセイ川の他にまだ見るところはないのでしょうか。エゴールのパソコンのインターネットで調べました。住人のエゴールにも聞いてみました。
 市の北はずれに男性用収容所跡と、少し小さい女性用があるはずですが、エゴールの言うには、跡地には何もないとのことです。見張り塔の残骸や鉄条網の破片でもないかと聞いてみたのですが、見るほどのものはないそうです。エゴールが見る価値がないと思っても、私にはあるかもしれません。でもそこへ行くにはエゴールが車を出してくれないといけません。
 イガルカ市紹介のDVDがあるというので、ディーマとコピーしました。イガルカの地図でもないだろうかとエゴールに聞くと、二十万分の1の詳細地形測量地図を出してきてくれました。おお、これはいい、とコピー機がないのでデジカメに撮りました。

  クレイカ村の宮殿は残念ながら...でもエルマコーヴァ村なら

 4年前、エニセイ川クルーズで来た時、クレイカ村のスターリン宮殿跡は見ませんでした。今回はぜひ見たいものです。しかし、エゴールはそこにはもう見るほどのものは何も残っていないと(またもや)言います。エルマコーヴァ村ならモーターボートで魚釣りに行ってもいいそうです。クレイカへはさらに70キロ、つまり片道2時間もかかるので無駄だと言います。
 クレイカは革命前にスターリンが流刑になっていたところで、1949年に、スターリンが当時住んでいた家を囲って立派なスターリン博物館(パンテオンだから宮殿、または神殿と言ってもいい)ができ、1961年に閉鎖され、1995年には破壊されていました。往年の宮殿の写真や廃墟になった宮殿跡の写真はよく見ますが、そこを、実際に見たいものです。
 エゴールのモーターボートがだめなら、ヘリコプターで行けないでしょうか。定期便が飛んでいるはずです。しかし、週1回イガルカ空港を飛び立ったヘリは近辺の村々(交通手段はヘリしかない)を一巡してイガルカへ戻ってくるそうです。1度クレイカへ行けば、帰りは1週間後となるので、その案は却下です。
 結局、エゴールに頼んで、エルマコーヴァまでモーターボートを出してもらう他ありません。エルマコーヴァは4年前のエニセイ・クルーズの時、上陸して北極圏鉄道の建設跡を見ました。ここは2度見る価値があります。1度では見落としたところも多いでしょうし、2度目は印象が違うものです。
 エゴールとディーマ、それにもう一人誘って4人で出かけ、仕掛け網に魚がかかるのを待っている間に鉄道跡を見ることにしました。

  ぽりぽり、ちびちびと。暗くなるまでに帰るには

 24日(土)。エゴールから電話で今日はいけないと連絡があったので、ディーマと二人、埃っぽい町をうろうろして、無人となっている5階建てアパートを撮ったり、エニセイ川岸に流れ着いた流木に座って、ヘーゼルナッツをぼりぼりかじり、ミネラルウォーターをちびちび飲みながら、エニセイを航行する船を長い間眺めたりしていました。酔っ払いがタバコがないかと聞きに来ました。

流れ着いた流木に座って
いつも眺めていたエニセイと中洲

 イガルカに滞在中、夜はいつもディーマの持って来たノートパソコンでDVDを見ていました。ディーマは『ビー・ライン』社の携帯電話が使えると聞いたので、同社用のシム・カードも買い(私も買った)、携帯でインターネットをつないで仕事をするつもりで、パソコンも持って来たのです。でも、『ビー・ライン』社はインターネット接続サービスをまだイガルカ市ではやっていなかったので、インターネットはエゴールの事務所でやり、ディーマのパソコンでは、ロシアに普通に売っている海賊版DVD映画を毎夜、退屈しのぎに見ていました。
 ロシア語吹き替えアメリカ映画やロシアのアフガン戦争映画でした。ディーマの部屋は夜、太陽が差し込むのでカーテンを引いて見ていました。1枚のディスクに10本も録画してある海賊版なんて、質がいいはずがありません。ロシア語でおまけに音も悪くてよく聞こえないので、私には映画の後半になっておぼろげにあらすじがわかるという程度で、実は、イガルカの町同様退屈でした。ディスクにはホラーやスパイもの、冒険もの、家庭コメディーものなどたくさん入っていて、夜になると2本ずつ見て退屈していました。
 やっと夜中の2時も過ぎたころ、カメラを持って夜中の太陽を撮りに外へ出かけます。太陽は低い高度でも金色にまぶしく輝いているのですが、寒くて長くは外に出ていられません。この肌寒いことと戸外に誰もいないことで、明るくても深夜だとわかります。夏、夜のない北極圏の町では、夏中の3ヶ月が1日です。(8月末、太陽は夜10時ごろには沈むが、沈み方が浅いので1晩中薄明かりが続く)。夏、暗くなるまでに家に帰ろうと思ったら秋まで待たなくてはなりません。この時期、夜行性動物は冬眠ではなく夏眠でもしているのでしょうか。

 蚊よけスプレーを持って出発
イガルカの川岸からボートで離れる

  25日(日)。毎朝遅くまで寝ているのは、深夜の太陽は観賞しますが、昼間の太陽など珍しくもないので寝ているからです。この日、午後からモーターボートでエルマコーヴァに行き、遅く帰ってくることになっていましたから、朝は十分寝ておいたほうがいいでしょう。遅く帰るというのは、夜の12時頃と言うのではなく朝の6時頃のことですから。
 エゴールは2時ごろ出発と言っていましたから、それまでにエルマコーヴァ探検に備えて食料(と、もちろんヴォッカ)や蚊よけスプレーなどを買いに出かけました。
 2時ごろ川岸で待っていると、エゴールのモーターボートが近づいてきます。ヴァシーリーという助手も乗っていました。ここからエルマコーヴァ村まで3時間ほどの水上行程が始まります。エゴールはボートのハンドルを握ったまま微動だにしないで前方を見ています。ヴァシーリーは対岸に見えるものを説明してくれたり、ディーマの質問に答えたりしてくれました。私は外国人だったので自分から質問するのは遠慮していました。

 無人のエルマコーヴァ村

 イガルカからエルマコーヴァまでの120キロほどの間、川岸に沿ってカラシノ村などいくつかの(強制移住者たちの)集落がありましたが、今ではやっとそれとわかる跡が残っているだけです。当時、カラシノ村などは、そうした不幸な人たち(壊血病患者も多かったと書いてある)であふれていたでしょう。

ディーマとヴァシーリー、モーターボートで

 目的地のエルマコーヴァ村も今は無人です。この村は、イガルカをはじめ北部エニセイ沿岸の集落と同様、18世紀の頃から知られていて、冬越し用猟師(漁師)小屋が建っているだけでしたが、1942年、まず、強制移住者たち57家族の漁業コルホーズができました。北極圏鉄道建設が始まった1949年ごろにはイガルカに2万5千人も(そのうち1万7千人が強制移住者たち)が住んでいましたが、建設拠点のエルマコーヴァにはイガルカ以上の住民(大部分が囚人)がいたそうです。建設が中止された1953年からエルマコーヴァの大部分の住人(建設に従事していた囚人)は恩赦で釈放され、強制移住者たちは故郷に帰ることを許され、ほとんどの旧村民は去り、残った人々も1964年石油調査停止で村を去りました。
 さらに、1978年『エニセイ石油地質調査会』が地質調査目的で、地下800メートルでの20キロトン(というかなりの規模の)核爆発『地震波測定調査』をしたため、残っていたわずかの住民も上流のイガルカ市や、下流のクレイカ村に移住させられ、今では崩れかけた無人の家があるだけだそうです。そのうち川岸にある1軒が、このあたりで漁をしている(密猟もする)漁師の臨時宿泊小屋になっています。
 小屋の近くの川岸にモーターボートを乗り上げると、食料品などの荷物を持って陸地に上がりました。陸地と言っても地面は軟らかく、歩くと沈むので、腿まであるゴム長をはいたヴァシーリーにおんぶしてもらって、小屋のある高台に上る階段のところまで運んでもらいました。

 チョウザメを肴にウォッカ

 小屋の中は蚊取り線香のにおいがして、ほっとします。小屋には先客(あるいは常駐)の男性が二人いました。早速ヴァシーリーがチョウザメを捌き始めました。もちろん私はすぐにカメラを構えます。でも、これは密漁の魚らしく、写してほしくはなさそうでした。でも、私たちは彼らの知り合いのエゴールの知り合いですし、写真を日本で見せても自分たちの違法行為はばれないでしょうから、笑って許可してくれました。さらに、まだ生きているチョウザメを囲ってある生簀にも案内してくれ、
「どうだ、でかいチョウザメだろう」と自慢していました。

チョウザメを捌く

 チョウザメの肉は脂がのっていて美味しいのだそうです。5人の男性達はチョウザメの刺身をつまみ、ヴォッカを飲み、パンをちぎってチーズを乗せてぱくつき、サラミソーセージの皮を剥いて食べていました。私にも強く勧められたので、ヴォットカ以外は恐る恐る一口ずつ口に入れました。少量なら、胃酸がよくいきわたり、外国人にだけ悪さをするバイキンを殺してくれると思ったからです。安心して食べたのは、出発前に買っておいたグリーンピースの缶詰です。私の長年のロシア生活で『保障つき』はこれとビスケットです。
 先客(あるいは住人)の一人(太って陽気、後でグルジア人と教えてもらう)が、私に以前会ったことがあるといいます。オーストラリア人と一緒にきて、小屋の中の写真を撮っていったと、おぼえているそうです。確かに4年前、アントン・チェーホフ号でエニセイ川クルーズをした折、エルマコーヴァに上陸して北極圏鉄道跡を見物して帰り道、迷子になったアコーデオニストのジェーニャと私がこの小屋に入ったのをおぼえています。そのとき、クルーズの船客でいつも私と同じテーブルで食事をしていたオーストリア人が一緒だったかもしれません。小屋の写真を撮ったのもおぼえています。そういえば、この陽気なおじさんもいたかもしれません。

 北極圏鉄道跡探検
厨房跡
珍しく完全な形で残っているレール

 腹ごしらえをして、私たち4人はまたボートに乗り、グルジア人が教えてくれた漁場に網を張りに出かけました。岸辺に程近く、網の端を結わえ付けるための葦の茎などが水中から出ているところです。魚がかかる間、北極圏鉄道跡を探検に行きます。4年前の経験から、そこへ行くには何キロもの沼地の中を通り、蚊やアブなど吸血昆虫に悩まされ、汗だくだくになるとわかっていました。『防』吸血昆虫用迷彩服はディーマが用意してクラスノヤルスクから持参してあります。手首がマジックテープでしっかり閉まり、フード付きで、フードにはネットがついていて、ファスナーを閉めると頭部も昆虫から防御できます。ネット越しに前方が見られますが、暑いです。
 通り道にある沼地(湿地)は避けて進みます。沼地を避けるため林の中を迂回すると、また沼地に出会います。それも避け、道から遠ざからないよう、昔の線路道を進みます。所々に線路の断片が残っていて、その中にはレールらしく地面に横たわっていないで、突き刺さったように立っているのもあります。凍土が融けたり凍ったりしてかたむいたのでしょうか。レールには刻印がしてあり、錆びてよくわかりませんが、『ナディージダ(希望)』という工場で作ったようです。
 道が上がっていくと沼地は少なくなり、下がると多くなります。半沼地なら、片足が沈む前に別の足を先に出して早く進めば抜けられます。迂回するため林に入ると枝に引っかかれます。倒木をまたぎ、突き出ている根っこで足をくじかないよう、3人の(私よりも)若くて屈強な(ロシア人だからね)男性達に遅れないよう必死で歩きました。

バラック跡

 途中、収容所のバラック群跡のところでは写真も撮らなくてはなりません。鉄条網の断片が見つかると、もちろん、顔のファスナーを開けて、ディーマに写真を撮ってもらいます。崩れかかった玄関口の階段に座ってポーズをとるディーマの写真も撮ってあげなくてはなりません。食堂だったらしいバラックもあり、床は抜けていましたが、入ってみると大きな釜がいくつもあり、かまど跡らしいレンガの山も見えました。
 エゴールは生まれも育ちもイガルカなのに、鉄道跡探検に来るのは初めてだそうです。でも道はよく知っていて、先頭を超スピード(と、私には思えた)で進んでいきます。ヴァシーリーが沼地に慣れない私たちに歩けそうな道を示しながら一緒に来てくれます。私はディーマの足元を見ながら、(周りの景色を楽しむ余裕もなく)、遅れないようついていきました。わたしの歩調が遅く道連れと離れると、木に隠れて姿が見えなくなるので「ディーーーマァ!!」と大声で呼びます。「ここだ、ここだ」と姿を見せてくれます。

 錆びても立派な蒸気機関車
機関車

 5,6キロも行った頃、草道の中に錆びた蒸気機関車がでんと止まっていて、その前に、エゴールが遅い私たちを待っていました。修理すればまだ十分使えるものだそうです。
 1953年から放置されている機関車は、今では鉄道建設跡に10台もないそうですが、これがそのうちの一つです。また、今では貴重な歴史文化遺物といえます。一応(予算不足で形式的にしろ)管理しているのはイガルカの『503』博物館ですが、同博物館報によると、国内外の博物館や各種機関からこのような機関車を購入したいという申し込みも少なくないそうです。ところが、最近エルマコーヴァ地区から機関車が2台行方不明になったそうです。鉄くずにして売却する目的で、何者かが運び去り、もう、すでに、鉄くずにされてしまったらしいと言う情報もある、と書いてありました。確かに、4年前、エルマコーヴァに来た時は、別の場所に別の機関車(煙室戸が取れていた)が横転していましたが、今回はありません。
  エゴールたちが立派だと言う蒸気機関車の写真を何枚も撮り、先へ進みました。私は蚊に刺されないよう重武装服で沼地を抜け、倒木をまたぎ、枝にひっかかれながらの強行進にかなりまいっていましたが、もちろんこの先にあるエルマコーヴァ車庫・機関車修理場跡(サレハルドから1132キロ)もぜひとも見なくてはなりません。

  『幻の』エルマコーヴァ駅
仕掛けた網から魚を取り出す
ターミナル車庫の残骸
給料支払い用(?)の小窓
『立ち入り禁止』

 40分も歩いたところに大きなターミナル車庫の残骸が見えてきました。屋根も壁も落ち、釘の刺さった梁が散らばっていました。点検修理用引込み線と、その下にもぐって修理するための坑道や、作業員のための注意事項を書いた看板などが、それとわかります。また、管理室らしい別室、給料支給用の小窓(昔ロシアではお金が盗まれないよう、こんなのぞき穴を作って支給していた)も残っています。資料によると、1200キロの北極圏鉄道に4箇所このようなターミナル車庫(主要駅)が完成し、2箇所は未完成だったそうです。準ターミナル車庫は4箇所ありました。それらすべては廃墟になっています。
 ターミナル車庫の隣に古井戸のような木枠があって丸い標識が立っています。ヴァシーリーによると、ここが、1978年『エニセイ石油地質調査会』が地質調査目的で地下880メートルでの20キロトン規模核爆発『調査』をした地点だそうで、標識はさびていますが『立ち入り禁止地区』と書いてあるのが読み取れます。もしかして、私たちはもう被爆してしまったでしょうか。ヴァシーリーは、この辺で採れたきのこを食べているそうですが。

 ここまで来ただけの道のりを、また歩かないと帰れません。足がもう先に出ないくらい疲れてモーターボートに戻ったのはもう夜中の1時でした。仕掛けた網から魚を取り出したり、陽気なグルジア人の小屋で(ヴォッカを飲んで)腹ごしらえをしたり(私は、昼の残りのグリーンピースの缶詰)、また、エニセイに出て釣り竿をたれたり(豊漁とは言えなかった)して、エルマコーヴァを引き上げたのが、夜中の3時。エニセイの水上、風を切ってモーターボートで進むのは寒く、用意した綿入れコートに包まって、ゆっくり水平線に接しただけでまた昇っていく太陽を見ながら、4人とも黙って座っていました。朝6時ごろ、もうかなり高い太陽の光がまぶしいなか、前の日に出発した川岸に降り立ちました。

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