クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date 2002年8月3日 (追記:06年6月4日,08年6月24日,12年3月26日4日,18年11月23日、2019年11月13日、2020年7月3日、2022年3月7日)
エニセイ川クルーズ(下)
            2002年6月22日から7月4日
Круиз по Енисею на теплоходе "Антоне Чехове" (с 22 июня по 4 июля 2002 года)

 
 イガルカ河川港
永久凍土博物館『5万年前の氷』と書いてあった 
 5日目には、エニセイ河岸でも、大きな町の一つイガルカ港に上陸しました。(追記:イガルカへは2006年6月にも個人で訪れた)イガルカ市は人口1万人で、クラスノヤルスクから1744キロ、北極圏(北緯66度33分の緯線より163キロ北方)にあり、シベリアで最も大きな海港でもあるそうです。と言うのは、ここまで北極海からエニセイ河をさかのぼって海洋船が寄港できるからです。イガルカ市はスターリン時代、永久凍土帯に囚人労働や強制移住者達が作らされた舗装道路や高層建築(4、5階程度が多い)のあるロシア人の町です(先住者の集落ではない)。ここには永久凍土博物館があると聞いていたので、氷付けのマンモスでもあるのかと期待していたのですが、5万年前の氷とかいうのがあるだけでした。完全な氷付けマンモスも、この辺で確かに見つかったのですが、サンクトペテルブルグの博物館に送られたそうです。なんでも貴重なものはシベリアからモスクワやサンクト・ペテルブルクに運ばれてしまうのかも知れません。

 この地帯の永久凍土の深さ(厚さ)は34メートルあるそうです。ですから、永久凍土博物館には地下10メートルのところにも展示室があります。そこは、氷点下の気温なので、コートを着て降りていきました。永久凍土研究所でもあり、何万年も前の動植物の断片が展示されていましたが、町と同様寂れた感じでした。でも、私はもうほかの乗客仲間と親しくなっていたので、写真を撮り合っていました。
 
 エニセイ川
 
 永久凍土博物館前
 イガルカ市は地下2メートルから下は永久凍土なので、家を建てるにも下駄をはかさなければなりません。地下が永久凍土では水はけが悪いので、地表の氷が解けた夏場は沼地が多くできます。ツンドラ地帯はどこもそうです。市はソ連時代に木材の集散地として栄えました。地下資源も豊富です。

 もちろん、スターリン時代(シベリアはスターリンの過酷すぎる政策無しに考えられない)には、大発展する『社会主義』経済の中、イガルカも含めシベリア開発計画が実行に移されていきました。さらに晩年のスターリンは、北シベリア鉄道を敷設しようと考えました。シベリア南部にはモスクワからウラジオストックへ東西を横切るシベリア幹線鉄道がありますが、それと平行し、はるか北方で資源の豊富な永久凍土帯を東西に走る鉄道敷設が計画されました。オビ川下流のサレハルド市からエニセイ河下流のイガルカ市まで1200キロの鉄道で、『501』計画、または『503』計画と言うのだそうです。
「なぜ503なの?」とガイドに訪ねると、いい質問だとばかりに説明してくれました。サレハルドの矯正収容所(つまり刑事犯や政治犯の監獄)は暗号で501番といい、イガルカが503番で、同時に、両地点から作りはじめたからだそうです。どんなに多くの資金とそれ以上に囚人の強制労働が投入されたか、本当のところは分かりません。まずイガルカ市郊外に男囚の収容所ができ、それから女囚の収容所ができたそうです。子持ちの女囚もたくさんいて成績が悪いと、子供との面会が延期になったとか、ガイドが話していました。

 北シベリア鉄道計画の中止でタイガ(針葉
樹林)の中に放棄されている機関車
 
 バラック跡までたどり着いたメンバー
 永久凍土博物館と並んで『503』博物館もあり、収容所を再現した小屋がありました。囚人用2段ベッドや、彼等が使用したコップやスプーンがありました。北極圏シベリア鉄道はスターリンの死後放棄され、今ではタイガの中に錆びた機関車がひっくり返っています。もちろん元矯正収容所だったバラックの残骸も数キロごとにあるそうです。永久凍土帯に鉄道を敷くのは当時は技術的に難しかったようです。

 スターリンの『業績』の跡が、今では観光名所になっているのも奇妙な感じです。『アントン・チェホフ』号はエニセイ川を北へ北へとドゥジンカまでいき、また、同じ航路を南へ南へとクラスノヤルスクまで戻るのですが、帰りのコースに、その『503』鉄道跡見物ツアーも入っていました。乗客の中には、そんなものは見たくないという人も半数以上いました。また、そこまで行くにはエニセイ沿岸のエルマコフカ村(以前は囚人の村だった、だから今は無人)から奥地へ、タイガ(針葉樹林)の中を4、5キロも歩かなくてはなりませんから、それが嫌で参加しない人もいました。

 夏のタイガはどんなものか、有名です。向こうから来るのが熊かと思ったら、それが蚊柱だったという話もあります。これらの憎らしい昆虫類には、船の甲板でも悩まされていました。大きなアブにさされると何日もパンパンに腫れて、眠れない程痒いです。私は航海中、2度程、船医の治療を受けました。
 でも、タイガの中に錆びてひっくり返っている蒸気機関車や、矯正収容所跡を、ぜひとも、この目で見たいと、私は断然、参加者組に入りました。用意万端、この日の為に買った養蜂業者のようなネット帽子を用意し、長い針のアブでも届かないような分厚い服を着て、軍手をはめ、腰には日本で買った携帯用蚊取り線香をぶら下げ、虫よけスプレーを両手に持って出発しました。ここまで武装した乗客はありませんでした。(あと、ゴム長靴さえあれば完全でしたが)。みんな携帯用蚊取り線香を珍しがって、それが何か分かると、
「あんたの後ろからついて行く」と言われました。もちろん日本製蚊取り線香なんて、タイガの中では少しも役にたちませんでした。体のどこにでも吸血昆虫が止まりましたが、腰に下げた蚊取り線香の上にだけは止まらなかったです。
 タイガを歩く時、苦労するのは、昆虫や、はり出した枝だけではありません。沼地にも悩まされました。沼地を避けたつもりでもはまってしまいます。沈まない方法は、沈むより先に通り過ぎることです。それで、前を行く人に、
「早く行ってよ」と言いながら、走り抜けようようとしますが、うまくいかず、膝まで漬かってしまうことがあります。一旦、膝まで泥だらけになると、また沼があってぬかるんでも、
「へいっちゃら、もう私はへいっちゃら、ルンルン」と歌って通り過ぎました。
 しかし参加者の半分は、昆虫と沼に音をあげました。
「もう、私達は、これ以上行きたくない、途中バラック小屋も見たから、もういいではないか、引き返そう」と大合唱しました。でも、
「先に進もうではないか」と言う人もいたので、付和雷同することも嫌いではない私は、
「進もう、進もう」と声をあげました。外国人のおばちゃんにしてはこの元気さが、後でみんなから好かれました。結局2組に別れ、半数が最後まで行って、大きな収容所跡前で写真を撮って来ました。(後でわかったことだが、ここは収容所ではなく北極線鉄道機関車保管修理用車庫だった)。こんなところで、何年間も強制労働させられ、いったいどんな人が生き残れたでしょう。夏の吸血昆虫はともかく、冬の寒さ、そして、栄養不足の食事、何よりも耐えがたい住宅と労働環境。
 帰りは、私とアコーディオニストのジェーニャと写真家のスラーヴァが迷子になり、この3人が一番遅れて本船に戻りました。もちろん全員確認するまで船は出航しません(以上帰りの航路)。
 
 ドゥディンカの河川口 奥には
乗船客を運ぶバスが待っている
 
 市内の博物館 ガイドと
 
 船内のステージで『ヘイロ』団の出演で
 
 『ヘイロ』の民族舞踏

 6日目に、目的地の、タイミール自治管区(*)行政中心地ドゥジンカに着きました。ここは、ノリリスク市のニッケル鉱山会社の専用港で、ノリリスクが閉鎖都市になると同時に、ドゥジンカも閉鎖され、許可がなければ、外部の人は上陸できません。でも、私達は、『豪華客船アントン・チェホフ』号の乗客ですから許可されます。でも、国境警察のパスポート審査がありました。
  (*追記)タイミール自治管区 1930年『タイミール(ドルガンーネネツ)民族管区』として成立。1977年『自治管区』となる。2007年『タイミール(ドルガン・ネネツ)地区』としてクラスノヤルスク地方に含まれる一地方区になる(『自治』が取れる。ロシア連邦構成主体から降格)。2007年人口3万8千人.うち、ロシア人67%、ドルガン人14%、ネネツ人8%、ガナサン人2%。

 ドゥジンカでは北方民族博物館見学がプログラムに入っていました。そマンモスの牙のペンダントを売っていました。博物館のガイドが私のことをすぐ日本人と見破って、
「コンニチワ」と日本語で話し掛け、
「前に来た日本人は、日本にもシャマニズムがあると言っていた」とロシア語で言い出します。
 船内のステージに『ヘイロ Хейро』という、原住民のネネツ人が民族衣装を着て民族楽器を演奏したり、民族舞踊を踊るプログラムもありました。

 ここではツンドラ見学もコースに入っていました。でも、
「私達は、ツンドラなんか見たくない。特産物の北方魚が買いたい。店に連れていってほしい。店だ、店だ」と言い出す乗客もいて、本当にロシア人らしいです。魚なんか、クラスノヤルスクでも売っているではありませんか(産地で買いたいという気持ちはわかりますが)。ツンドラはクラスノヤルスクでも、もちろん日本でも見られません。

 残雪の夏のツンドラ
添乗員のヴァイオリンニストと
 ドゥジンカからノリリスクまで200キロのアスファルト道路ができていて、そこを途中までバスでいきました。凍土帯の上の舗装道路ですから、新しいと言っても、もう穴ぼこです。雪も残っていました。至るところ沼地でした。雪のないところには、ツンドラの低木や、ツンドラに生えるツツジやイチゴ類(名前はちゃんとメモしてきましたし、辞書には日本語も載っていますが、聞き慣れない名前なので省略)が生えていて、「天然記念物」なのだそうです。摘んではいけないのでしょうが、束にして根っこごと土つきで抜いてくる女性乗客もいました。私は慎ましく3本ほど小さいのを摘んできました。

コムサ川が合流してくる(自然保護地区管理
小屋近く)には停泊できないチェーホフ号
待機中の艀
艀で往復
バーベキューでジュース(ヴォッカでもいい)
 
 コムサの河口付近ナージャ
 
 コンサートの後、サロンで
 
私とナージャとオーストラリア人男性のテーブル 
 焚き火を炊いてバヤン(アコーディオンの一種)
で歌う
 
 カザチンスク浅瀬を通過
 ドゥジンカからさらに500キロもエニセイ河を下ると、遂に、北極海の一部のカラ海に出ます。河口の港はディクソンといって、ここまでクルーズ船が行くこともありましたが、よほど天候の良い日に限られていました。さらに、ヨーロッパ・ロシアのムルマンスク港までいく航路もあります。ムルマンスクからイガルカは2800キロだそうです。ウラジオストックまでも行けますが、そのためにはタイミール半島の北を通らなくてはならないので、それは、もう、原子力潜水艦の世界でしょう(もし、運行しているなら)。
 
 竿を持っていただけだが

 私達はドゥジンカから北へはいかず、ここから折り返します。帰りはさかのぼるので速度が遅くなります。でも、一日一度は上陸して、バーベキューと魚のスープの野外グルメ大会、魚釣り、中央タイガ自然公園『散策』、乗客と船員のサッカー大会と、私達乗客を楽しませるためのプログラムが組んであります。

 これら帰りのプログラムは、集落でないところに上陸するので、船着き場はありません。大きな『アントン・チェーホフ』号は沖の方に停泊し、乗客はモーターボートの艀舟でピストン輸送されます。モーターボートに乗ったり降りたりする時には、船員の男の子達が手をとってエスコートしてくれ、なかなか好い気分でした。もちろん私は自力でスルスルと乗り降りできます。でも、私の3倍くらい体重のありそうなロシア婦人は、大変そうでした。

 ところで、トイレにいきたくなった時は、吸血昆虫がいますから青空トイレはダメです。船の、自分のキャビンに戻った方がいいです。モーターボートは乗客の要請で何度も行ったり来たりしてくれますから、ついでのときにお世話になりました。

 カワススキや、マス、クラスノピョールと言うコイ科の魚が私でも簡単に釣れました。えさはミミズで、そのへんを掘って集めました。ノリリスク鉱山会社経理部長と言う人が、私に釣り竿を貸してくれ、ミミズもつけてくれ、釣れた魚も針からはずしてくれました(私は竿を持っていただけ)。獲物は船の厨房に寄付しました。

 コムサ川がエニセイに流れ込むところにあるコムサ中央シベリア自然保護林管理小屋も、6月30日の帰りの航路で寄ったところで、クラスノヤルスクまでまだ1000キロはあります。そんなに北にあるのに、ここのエニセイ川では水浴ができます。というのは、クラスノヤルスク市から40キロほど上流に、巨大なクラスノヤルスク水力発電所ダム湖があるので、クラスノヤルスク市を流れるエニセイ川は、夏はダムの底の冷たい水が流れてくるため、10度以下と水温が低く、とても水浴はできません。冬はダムの底の暖かい水が流れてくるため、クラスノヤルスク付近のエニセイ川の水は凍りません(外気はマイナス20度以下なので凍るべきです)。クラスノヤルスク付近はクラスノヤルスク発電所ダム湖のため、気候も動植物も本来の姿を失って問題になっていますが、ここ、北極圏の近くでは、自然のままです。冬は氷が厚く張り、夏は、こうして泳げるほどに暖まるのです。
 その日のエニセイ川の水温は19度で、案内の自然保護林管理者が、
「泳ぐと気持ちがいいよ」と言ったので、水に入ってみました。水着は持ってこなかったのですが、ちょっと離れたところへ行って、服を脱いで下着のまま水浴しました。もうそのころは、同じ一人旅で来ているクラスノヤルスク・ホテル女性支配人のナージャと、いつも行動を共にして、水浴も、釣りも彼女と一緒でした。
 毎晩、船内の音楽室でピアノとヴァイオリンのコンサートや、詩の朗読会、バーでクイズ大会、いろいろな出し物があったのですが、いつも彼女と一緒でした。食事のテーブルも一緒でした。つまり、私はその女ボスの子分にされてしまったのです。

 一度、デザートが不味いケーキだった時、こんな不味いケーキは食べられない、変わりに別の物を持って来なさいと、レストランの支配人を呼んで申し付けました。これは、ちょっと私にはできません。彼女が言うと、申し訳ありませんと、よく冷えたウォッカとレモンを3人分持って支配人が私達のテーブルに謝りに来ました。いつも、私達のテーブルは、これも一人旅で、片言ロシア語を話すオーストラリア人と3人でした。
 ナージャはクルーズ主催会社の招待客の一人で、デラックスルームに泊まっていました。その部屋にだけは冷蔵庫があったので、途中の漁村で買った半リットルのキャビアを保存してもらいました。漁村なんかでキャビアを買うと、ただのように安いです。クルーズが終わってから、彼女とは写真の交換をしました。

 シベリアの東西への運行は、昔は馬車やそりでのシベリア街道、今ではシベリア鉄道があります。南北への運行は、この沼地帯に陸路はなく、空路の他は、夏場でしたら河川が利用できます。でも、河川なので難所、浅瀬があります。エニセイ川の有名な浅瀬はカザチンスクといって、これがあるために、以前は、北から遡って来た大きな船は手前のエニセイスク市までは行けても、クラスノヤルスクまでは来られなかったそうです。
 浅いだけではなく、岩がごつごつと突き出ていて、川幅は狭く曲がっていて、流れは速いという難所で(エニセイ川ができた頃、ここにには山脈があって、そこを侵食してエニセイ川自らが流れを作ったため、かつての岩が突き出ている)、所々に事故船の残骸が舳先を出して残っています。わざわざ撤去なんかはしないのでしょう。その事故船残骸に草が生えたり木が茂って島のようになり、「モデスト号」島などと昔の名前で呼ばれたりして、景観のひとつになっています。
 そのカザチンスク浅瀬を、今では『アントン・チェーホフ』号のような大きな船でも通行できます。難所ですが、エニセイ川でも最も美しい風景のところで、川岸の絶壁の木々も美しく、河のあちこちで渦を巻いたり、泡だっていたりしています。そのエニセイ川で一番だという名所を、乗客が見逃がすことのないように、わざと昼間通ります。そのために時間調整をして、前日、数時間も、河の中ほどに錨を下ろして泊っていたくらいです。カザチンスク浅瀬のあるのは、緯度があまり高くないところなので夜は暗くなりますから、明るい時に通ったほうが安全だ、という理由が主ですが。
 流れを下る時も早瀬のため危険ですが、さかのぼる時は、もし、馬力の弱い船だったり、未熟な航海士の操る船だったりすると、流れに逆らって上れないことがあります。また、万一の遭難のときのためにも、この難所には常に、『エニセイ川・河川運行』会社の救助船が常駐しています。ここを通るときは、船長自らが舵を取り、みんな甲板に出て、船員は危険度を監視し、乗客は添乗員の説明を聞きながら美しさに見ほれていました。
 エニセイ河には、カザチンスクほどではありませんが、いくつか難所があります。各船は、大支流パドカーメンナヤ・トゥングースカ河がエニセイ川に注いで、川幅や水量がぐっと増える地点までは、『エニセイ川・運行』会社がシーズン開けにナビゲーションをして印をつけた赤や白のブイの示すとおりに、通行します。狭い難所で、船が行き違う場合は、降る方が待っています。

 エニセイ川は貨物運行が盛んで、荷物を積んだ平らな舟をエンジンのある船が押していきます。平ら舟というのは自前では動けないで、荷物の積み下ろしが容易なように大型筏のような形で、船縁もなく、荷物を積んで浮いているだけの船です。なぜ、引かないで押すのか、理由はとても簡単です。エンジンのある船が進むときには後ろに波ができ、もし曳いていると速度が遅くなるからです。平ら舟が前にあり、エンジンのついた船が押しているのなら、推進力を邪魔するものが後ろに何もないので、効率よく走れます。

 クルーズ船ではない普通の客船では、乗客はほとんど商売人で、クラスノヤルスクなどで買った大量の野菜類などを、野菜不足の北方へ運んでいきます。また、クラスノヤルスクで買った中古の日本車や、タイヤなどの部品も、船の大甲板に積んで運んでいきます。普通の客船でも、クラスノヤルスクからドゥジンカまでの船賃は、トイレとシャワーなし船室で食事なしで片道百ドルもしますから、安くはないです。『アントン・チェーホフ』号のトイレとシャワーつき船室で豪華食事観光つき往復千ドルは、ですから高いとはいえません。
 普通の客船は、行きは3日半、帰りは6日かかるそうです。飛行機の半分以下の値段ですが、時間がとてもかかります。商人のように、荷物が多い人は、船がよさそうです。『アントン・チェーホフ』号のほうが、これら客船よりずっと速度は早いのですが、クルーズ船なので、観光しながら行くため、行きに6日もかかり、帰りは上陸・観光してもたった6日しかかかりません。
 途中何度も、いろいろな船と行き交いました。仲良し(?)の船同士ですとお互いに汽笛を鳴らして挨拶します。
 アントン・チェホフ号(左)
に横付けに停泊した
イッポリート・イワノフ号。
キャベルもどっさり
積み込まれている

 1度、行き交うだけでなく、『イッポリート・イワノフ』号という客船が、『アントン・チェホフ』号より、しばらく後に、同じ船着場についたことがありました。クラスクノヤルスクのような大きな港ですと、数台の船が直列に停泊することもできます。上流にある小さな港ですと、浮桟橋がひとつあるだけですから、並列に停泊します。後からついた船は、先についている船の横に着くので、上陸するときは、先着の船の中を通り抜けていきます。別の船同士の乗客や船員がお喋りできます。
 先に着いた船が先に出発するときは、後からきて、横付けしている船に退いてもらわなくてはなりません。錨を上げたり下げたり、ロープをかけたりはずしたり、大変なことです。
 船が停泊するときは必ず舳先を川上に向けなければならないそうです。ですから、川下に出発するときはユーターンしなければなりません。船員さんに聞いて、物知りになりました

 20世紀はじめにシベリア鉄道が開通するまでは、南北交通だけではなく、東西交通も河川を利用していました。陸路のシベリア街道より、荷物が運びやすかったからですが、オビ川水系とエニセイ川水系は分水嶺で分かれていて、そのままではオビ川からエニセイ川に出ることはできません。オビ河の右岸支流をさかのぼって、一度、荷物を船から降ろすか、船ごと陸に挙げて、人力で、エニセイ川の右岸支流まで引いていくしかありません。それで、シベリアの豪商達はオビとエニセイを運河でつなぐ計画を早くから立てていました。オビ川の右岸支流のケチ川とエニセイ川の左岸支流カース川を小さな支流や湖を利用し、7.8キロの人工水路を作り、14の閘門(こうもん、水量調節用のせき、ふたつの水門の間に水を入れたり出したりして、船を上げたり下げたりして水位の異なる河川を通行させる装置)を作り、1891年に開通しました。(後記。オビ・エニセイ運河のアレクサンドロフスキー・シュルース村には2010年2月24日に訪れる)

 小さい運河だったこと、夏場の3ヶ月余しか利用できなかったこと、町から数百キロも離れた辺鄙なところだったこと、そして何よりもシベリア鉄道が開通したことなどで、利用されなくなり、革命後の国内戦のとき、破壊されて、今では、「アレクサンドル水門」とか言う地名だけが残っています。ただ、運河建設の地質調査をしたために、考古学的発見が多くあり、6000年以上前からシベリアの川岸に人類が住んでいたことがわかりました。今、その運河跡の辺鄙なところには、1930年代にソヴィエト政権から逃れてきた旧儀式派ロシア正教徒たちの子孫が住んでいるそうです。

 もちろん、そこまで、『アントン・チェホフ』号が行ったわけではありません。添乗員の郷土史研究家が時々、船内でエニセイ史の講義を開いていて、教えてくれたのです。それもプログラムのうちで、私は最も熱心な聴講生でした。ロシア語での講座を聞いて100パーセントわかるわけではなく、あまり、質問してばかりでは、ほかの乗客にも迷惑なので、その講師の郷土史研究者から、本を借りました。この「エニセイ川クルーズ」紀行文には、私が見たこと、体験したことのほか、彼らから聞いたこと、そして、それが間違っていないよう、その本で確かめて書きました。
 クラスノヤルスクまで、あと数百キロ
仲良しグループ
 
 お別れパーティの後、船長を囲んで

 クルーズの最後の日にお別れパーティーがあって、「ミス・クルーズ」が表彰されたり、「クイズ・物知り」賞や、「河原に落ちていた木や石で芸術作品を作った」賞、「サッカー」優秀賞が発表されたりしました。その他、乗客を喜ばせる「賞」がいろいろあって、私は「誰よりも多くを体験した」賞をいただきました。確かに、上甲板で一日中日光浴をしたり、トランプしたり、ただビールを飲んだりしている乗客も多いところ、私は、主催者の用意したプログラムにほとんど参加したので、添乗員さんたちも自分たちの努力に答えてくれた私が好ましかったのでしょう。何でも知ろう、見よう、体験しようの明るい元気いっぱいの外国人おばちゃんだったので、みんなから感心され、大事に扱われました。友達もたくさんできました。クラスノヤルスクに戻って、3日後、大学の夏休みで日本へ帰ってしまいましたが、9月には、また、に戻りクラスノヤルスク再会しました。

<あとがき>
 日本からクラスノヤルスクまでは飛行機の往復で600ドルですから(2002年当時)、20万円ぐらいで、このクルーズに参加できます。もし、12日間も時間がなければ、一番北のドゥジンカまで行って、そこから飛行機でクラスノヤルスクなり、モスクワなりへ飛べばいいです。乗客の中で、モスクワの新聞社からきたグループは、忙しいのか、ドゥジンカから、飛行機に乗りました。
 
 その後、親しくなったクラスノヤルスク・
ホテル支配人のナージャに別荘に招待された。
彼女は運転免許は買ったという。エンジン・
ブレーキのかけ方を教えてあげた。

 このクルーズが採算が合わないからと停止になる前に、行っておいて本当によかったです。今度は、モスクワ運河から北へ白海のソロベツキー島へのクルーズにいくのもいいです。モスクワからアストラハンまでのヴォルガ河クルーズというのもいいです。アストラハンから乗り換えてカスピ海クルーズもやってみたいです。クラスノヤルスク地方の南西隣のアルタイ地方にある温泉めぐりは、近場の一つです。実は、ロシア国内旅行で、まだ行ってないところといえばそれ以上は思い付きません。もちろん、大自然の中をリュックを担いで、コンパスを頼りに、馬に乗ったり、犬ぞりで行くという本当の旅もありますが、いくら優秀な案内人がついてくれたとしても、私の体力では無理です。私の場合は、やはり、わずかでも、観光産業のあるところがいいです。事故責任で事故に遭うのも避けたいですし。

<後記:この頃はまだデジカメで撮っていた。アルバムにある写真の大部分は、被写体は自分になっている。紀行文の参考までに掲載してある写真も自分が写っている。なるべくそのような写真は避けたが、かなりの枚数になってしまった>
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