クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 06 Sep, 2010(校正、2010年10月17日、11年4月4日、12年4月5日)
冬道のクラスノヤルスク地方、氷のエニセイ川とアンガラ川
(4) エニセイ街道を北上する、カス川の運河跡
           2010年2月15日から3月5日(のうちの2月19日

На зимнике в глушь Ангары и Енисея( 15.02.2010 - 05.03.2010 )

アンガラ川へ エニセイ川へ
(1) ハバロフスクからクラスノヤルスク (4) エニセイ街道を北上、レソシビリスク市
アンガラ川へ出発 新ナジーモヴォ村泊
アンガラ松のグレムーチィ村 悲劇のオビ・エニセイ運河
(2) アンガラ川中流、水没のケジマ区 運河跡のアレクサンドル・シュルーズ村 追記
アンガラの支流チャドベツ川の密漁 運河跡の『名無し』村
アンガラ北岸の僻地、古い歴史のヤルキノ村 (5) 1605年からのヤールツェヴォ村
(3) アンガラ下流の先住民、バグチャニ区のバグチャニ村 スィム川の新しい村マイスコエ
アンガラ針葉樹林帯を下流へ リョーハの銃
『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村 (6) この旅の目的地ヴォーログヴォ村
モティギノ町、郷土博物館その2 古儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス村
エニセイを渡ってクラスノヤルスクへ (7) ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地
クラスノヤルスクで 帰りの冬道、オーロラは見えなかったが
地図 アンガラ川下流 ロシア帝国のシベリア『開拓』地図
ヴォーログヴォ『多島海』地図 エニセイ中流地図
シベリアの町々の父エニセイスク市
帰国

 エニセイ街道を北上する。レソシビルスク市
 2月23日(火曜日)9時半にクラスノヤルスクで私がホームスティしているアパートにリョーハが迎えに来てくれた。ディーマのオフィスで、私の防寒具も貸してもらい、ランクルにスノーモビールと燃料タンクを積んだトレーラーをつなぎ、ルーフにも燃料タンクを乗せ、クラスノヤルスクを出たのは10時半ぐらいだった。そして、2日前に通ったエニセイ街道を北のエニセイスクに向けて走る。舗装してあるよい道だがトレーラーを引いているのでスピードを落として走る。シベリヤの冬は晴れの日が多く、野原の間を遠くの低い山々を眺めながらゆっくり走るのは快適だ。これからの車の旅のウォーミングアップをしているようだ。
クラスノヤルスクからパゴタエヴォまではエニセイスク街道
左上の『ハ』は、ハンティ・マンシ自治管区

 クラスノヤルスク市からエニセイスク市までエニセイ川を航行すると413キロで、街道なら338キロだ。直線距離では275キロしかない。(新幹線を通すとしたらこれくらいの距離に収まるのか。ちなみに現行のシベリヤ幹線鉄道から、1976年に開通した支線でいくと、クラスノヤルスク駅からアーチンスク経由になるので458 キロもかかる、しかも少し手前のレソシビルスクまでしか敷かれていない)
 出発点のクラスノヤルスクは川のほとりにあるが、その先、街道と川はやや離れていて、200キロ近く行ったカザチンスク村辺りまでは街道から川は見えない。カザチンスクを過ぎるとストレルカ町の辺りまでまた川岸を離れる。クラスノヤルスクからエニセイスクの辺りまでは川岸沿いにも、街道沿いにも集落が比較的密にある。20世紀初めまでにできた農漁村も多い。ソ連時代は農業コルホーズもたくさん作られたに違いない。この街道は昔よく通って見慣れた風景だが、少しずつ違ってきている。昔はなかった教会が見えたりする。
 260キロ行ったところが河川港アブラコーヴォ村で、ここで、クラスノヤルスクからアーチンスク経由の鉄道支線が街道近くまで来る。だからこの後はエニセイ川と街道と鉄道は並んでレソシビルスクまで走るのだ。

  (注) レソシビルスクはクラスノヤルスク地方の材木産業の中心地で、人口は6万人余もある(クラスノヤルスク地方内では8位)。もともと、この地にはマクラコーヴォ村という1640年ロシア人の『開拓者』が作ったという集落があって、古い住民は狩猟や漁業に従事していたそうだ。20世紀初めノルウェー人がマクラコーヴァ村に材木工場を作ってから、アンガラ松を扱う林業が発展し、林業従事者の団地新マクラコーヴォ村や新エニセイスク村などを合併して、1975年レソシビルスク(シベリヤの森)市ができ、アンガラ河口から40キロという河川運行の便も良く、地方庁のクラスノヤルスクにも近いので、コンビナートが発展した。1976年には鉄道支線(クラスノヤルスクからアーチンスク経由)も開通し、ソ連風に発展したのだ。

トレーラーを引いてクラスノヤルスクを出発
レソシビルスク市に近づく
遠くからも見える高さ67mの大寺院
シュメーツ家のアパート前で駐車する
エニセイスク市入口のレーダー基地
白一色のエニセイ川を左に見ながら進む
『冬道』の始まり
そろそろ日も暮れかかった『冬道』
 道がレソシビルスク市に近づくと何本もの煙突からもくもく上がる煙が見えてくる。町外れには途中まで建てて(ソ連崩壊後の経済悪化のため)放棄された集合住宅、材木工場の塀や製材置き場、鉄道の引き込み線、クレーンなどがあって、今まで通りすぎた小さな静かな村々とは様子が違ってくる。市の中心に近づくと広場にオベリスクも立っていて『レソシビルスク、成立1975年』と彫られた石碑も横にある。
 レソシビルスクには、2002年完成の高さ67メートルのシベリヤで1番大きいという十字架挙栄大寺院 Крестовоздвиженский соборがある。スポンサーはレソシビルスク材木コンビナートだ。ロシアは信心深い国で、ソ連時代の75年を除いて、その前は大商人が私財で、その後は企業が教会を建てている(税金も使っている場合もあるそうだ)。
 (古い村でスターリン時代に、由緒ある教会が破壊されたところでもスポンサーがいなければ再建できない。また、ソ連時代に計画経済でできたような新しい町でも、景気のいい企業がスポンサーになって新築する場合もある、ゼレノゴルスク市のように)

 アリョーシャにはレソシビルスクに知り合いが二人いるそうだ。その一人は市の交通警察の署長で、今からそのシェメーツ家にお昼を食べに行くという。町の狭い通りに入ると、スノーモビールや燃料タンクのトレーラーを引くランクルは、ますますゆっくり走り、シュメーツ署長のアパート前まで来たのは4時頃だった。こんな厄介な車を駐車させる場所を見つけるのも容易ではない。除雪の山で道は狭く、アパートのほかの住民の車も止まっているし、どこにでも止めたのでは、ランクルが盗まれなくてもスノーモビールが盗まれるかもしれない。燃料タンクだって、もっと危ない。それで、シェメーツ家の息子の少年が、私たちが昼食をとっている間、番を命じられた。ロシアの少年って親のいうことをよく聞くのだ。奥さんのタチヤーナさんが作ってくれた食事はとてもおいしかった。若いリョーハなんかはもりもり食べていた。
 タチヤーナさんのおじいさんは、今はレニングラード州になっているが、歴史的にはフィン・ウゴル族の地であり、16,17世紀はスウェーデン王国領、1702年ロシア帝国領になったイングリア(インゲリマンランディヤ)という地方からスターリン時代に民族ごと流刑になったフィン人だったそうだ。

   (追記) ネヴァ川流域、フィンランド湾の東部及び南東岸ラドガ湖西の約15千平方キロ(岩手県15,277平方キロ)を歴史的にインゲルマンランディア(イングリア、イジョルスカヤの地)と呼び、ロシア帝国領になってからは、1708年イングリア県が置かれた。1710年にはペテルブルク県となり、1927年にはレニングラード州となる。(ちなみに革命直後の1919年1月23日から1920年12月5日まで独立の北イングリア共和国があった)
 インゲルマンランディア・フィン人は1920年代レニングラード州を中心に165千人いたが、90%以上が農民だった。1930年代の『富農』撲滅時期と、1942年の戦中の民族強制移動時期に、イングリア地方からフィン系のソ連人が一掃されたとある。1930年から45年までに全員が同州から流刑でシベリア、中央アジア、極東に送られ、65千人、つまり半数近くが亡くなったと書かれている。『移動途中に70%がなくなり、東シベリア鉄道沿線にはインゲルマンランディア人の死体が山積みされていたと言うのは誇張ではない』そうだ。
 1954年には移動の自由が許されたが、故地に戻れたインゲルマンランディア・フィン人は多くなかった。2002年の国勢調査でも故地のレニングラード州には12千人と少ない。ちなみにクラスノヤルスク地方にはインゲルマンランディア人は634人とある
http://www.uusikotimaa.org/12/041s.htm
http://www.memorial.krsk.ru/


 シェメーツ家の台所には給水機『クーレル』があった。小型のもので、水道水の飲めないところで、真空式電気魔法瓶(日本の普通の家庭にあるポット)よりは大きいが、冷水も出るとは便利だ。シェメーツ氏は警察官の制服を見せてくれて、試着もさせてくれ、交通警察の紋章まで記念にくれた。この親切な署長さんと9日後の帰途にも再開する。

 レソシビルスク市からシベリヤの古都エニセイスクまでは30キロで、市の入り口近くにはレーダー基地のような広い軍事施設がある。いつ通っても異様な感じがする。最新技術のようには見えないし、稼働しているのかどうか知らない。帰りには1泊することになったエニセイスクだが、この日はレーダー基地から町外れまで10分ほどで市を通りすぎ、エニセイ川の左岸支流のケミ川も渡ると、今までの天候季節非依存型の普通の陸上路(ここではエニセイスク街道)もそろそろ終わりになる。
 エニセイスク街道の延長にあるここから先の地へは夏季は航路で行く。なぜなら、この先のエニセイ左岸は沼地か冠水地だし、エニセイに注ぐ大小の支流を横切らなくてはならないが、橋は1本もない。すべての水分が凍りついた冬場だけ通行できる『冬道』がパドカーメンナヤ・トゥングースカ河口のボル町まで500キロ余が全線開通したのがここ数年だと言う。冬道はそれなりに林を切り開き通路をつけ、小さな川にも安全確認済みの氷上路があるはずだ。ボル町から先は空路しかない。

 エニセイスクから40キロのパゴダエヴォ村までは、エニセイ川を右に見ながら進んだ。川岸には漁船がつないであった、と言っても氷の中だが。パゴダエヴォ村を過ぎてゆっくり10分ほど行ったところで、ついに、キロメートル標識が0のところに出た。つまりここから新しくできた『安全な』冬道が始まるのだ。最近できたような道路標識が立っていて、私たちが最初の日に泊まったノヴォナジーモヴォまでは179キロ、次の日に泊まったヤールツェヴォは275キロ、逗留したヴォーロゴヴォは413キロ、終点のボルへは528キロと書いてあった。その道は暗い森へ向かってに細く通じていて、入り口にはさらに
『通行車両の運転手へ。この冬道はトラックやジープのような高度な走行能力を持った車のみ通行可。制限速度30キロ。通行は縦縦隊で2台以上が組になって行うこと』という立て札が立っていた。1台だけだと、事故が起きたりすると遭難してしまうのか。
「ほら、タカコさん。すごいところでしょう」とアリョーシャが強調する。私ばかりか、こんな遠くは初めてだという新米のリョーハも感心して後学のためか写真を撮っていた。まだ5時半だったので雪や木々も撮れた。
 そして、わくわくして『危険な』冬道を、たった1台のランクルで進んでいった。6時半ぐらいまで、木々の間に長い間かけて沈んで行く夕日も撮れたが、その後は真っ暗で車のライトのあたる方向以外は何も見えなくなった。

 小さな村の近くも通りすぎたと思う、村の名前の標識が出ていたから。その他いくつもの川を過ぎた。大きめの川にはちゃんと標識が出ている。この辺の川は地図でみるとみんな沼地の中を流れている。広いシベリヤ低地に降った雪は春になると融けだし流れとなり、周りを冠水しながら流れ、東へ向かう流れは最後にはエニセイ川右岸支流へ、西はオビ川左岸支流の上流に流れ込む。

 新ナジーモヴォ村泊
 冬道はエニセイ川岸近くを通っているらしく、船が航行する時に目印に川岸に建てる立札も見えた。
 夜の10時頃、ノヴォ(新)ナジーモヴォと標識のある集落に着くと、まずアリョーシャは知り合いのガソリン・スタンドで給油した。村には都会にあるような、1リットルあたりの代金を払えば売ってもらえるガソリン・スタンドはないらしい。村では自動車はすべて(昔は国営、今は)企業のものだから給油も企業が帳簿につけながらやってくれる。レソシビルスクから約100キロ下流のノヴォナジーモヴォはエニセイ左岸の材木集散地として、ナジーモヴォ村(1631年ナジーモフ家が開墾した)の近くに作られた。レソシビルスクの材木コンビナートの一つ『ノヴォエニセイスク』材木コンビナートのノヴォナジーモヴォ支社の経営者がアリョーシャの知り合いだった。補給した燃料も彼の会社のものらしい。
台所に立つパポフ氏、手前にペチカ

 給油の後、夕食を食べ一夜を明かすためにそのパポフ氏の仮住まいへ行った。仮住まいというのは、家族はエニセイスク市にいて、彼だけが長期出張のような形でここに留まっているからだ、と思う。ノヴォナジーモヴォ村は、付近の4つの村を集めても人口が1500人くらいの寂しい村だが、材木関係のパポフ氏の仮住まい家は田舎風ではなく、全く都会風だった。というのは、装備や家具類はすべて都会から運んできて据え付けたというような、田舎らしくない家だった。田舎では自分で自分の住む家を建て、木を植え垣根を作り、インテリアも自分でこつこつ完成させるといった木造平屋が多いのに、パポフ氏の『仮住まい』はレンガ造りの1軒屋で、中に入ると都会のマンションに入ったかと思うくらいだった。床にもちゃんとリノリウムが張られ、広い台所には壁一面がシステムキッチンで、背の高い冷蔵庫があり、玄関の横にはユニット・バストイレ・ルームがあって、これだけでもとても快適そうだった。都会のマンションと違うところは台所にペチカがあることだ。一人住まいなのでパポフ氏自らが私たちのために食卓を準備してくれたが、寝具を用意してくれたのはいつの間にか入ってきた若い女性で、彼女は朝までいて、また黙って出て行った。
 本当に快適な家だった。水洗トイレの水も問題なく流れた。

 オビ・エニセイ運河
 シベリヤのオビ川エニセイ川が運河でつながっていると、初めて知ったのは2002年ニセイ川クルーズで『アントン・チェホフ号』に乗っていた時だ。それまでは2つの川の水は北極海に出るまで混ざらないと思っていた。クラスノヤルスクの私の当時の知り合いもオビ・エニセイ運河のことは知らなかった。
ウラルを超えるとシベリア、オビ川とエニセイ川

 モスクワからウラル山脈をこえてトボル川に沿ってトボリスクまで来ると、イルティシュ川を下ってオビ川に出られる。オビ川水系からエニセイ川に渡ればアンガラ川を下り、バイカル湖を経てセレンガ川をさかのぼり、清国に出られる。オビ川の無数の左岸支流は、エニセイ川の無数の右岸支流のすぐ近くを通って流れている。両側の諸支流上流には低い湿原が広がっているが、分水嶺で微妙に離れている。だから、そこがつながれば、ウラルから清国まで航行できる。また、オビ川支流のトミ川ほとりにあるシベリヤ商業中心地トムスク市と東シベリヤの商業中心地エニセイスク市が結ばれる。だから18世紀末から、すでに、運河は検討されていた。が、19世紀後半、エニセイ川右岸で金が採れるようになると、エニセイスクの有力商人たちは建設地調査のスポンサーになったのだ。
 オビ川右岸支流のいくつかは、源流近くではエニセイの左岸支流の上流とほとんど接しているが、長年の調査の結果、トミ川のトムスク市の北約250キロで合流するオビ川右岸支流ケッチ川の上流とエニセイスクの230キロ下流で合流するカス川の上流をつなぐルートが最適とされたのだ。(トムスクからケッチ川河口のカルパシェヴォまで直線236キロ、道路336キロ)
オビ・エニセイ運河のルートは、
オビ川からケッチ川(長さ1621キロ)を580キロさか上る。
・ケッチ川の右岸支流オジョールナヤ川を15キロ行く。
・オジョール川の左岸支流のロモヴァータヤ川を50キロ行く。
・ロモヴァートィ川の左岸支流の小川34キロのヤゼヴァヤに入って、ヤゼヴァヤ川の水源のボリショエ湖にたどり着く
・長さ5キロ、幅3キロのボリショエ湖は分水嶺湖とも呼ばれていて、ここまでがオビ川水域だ。
・ボリショエ湖から8キロの人口水路を引くと、エニセイ流域の小カス川の上流にたどり着ける。
・小カス川を90キロ下ると大カス川との合流点に入り、大カス川を213キロ下るとエニセイ川に出られる。
 というものだ。
オビ・エニセイ(ケッチ・カス)運河
 オビ川からエニセイ川の間の航行は1000キロ余となる。そのうちのオビ川1次支流のケッチ川とエニセイ川の大カス川を除いた217キロは、陸地を掘った運河の8キロの他、水量の少なく曲がりくねったオジョールナヤ川やロモヴァートイ川やヤゼヴィヤ川や小カス川などの小川の川幅を広げたり、川底を深めたり、岸を強化したり、閘門をいくつも(本当は29門必要だったが作られたのは14門)設けなくてはならなかった。
 (注) 閘門(こうもん)とはロシア語でシュリュース、運河・河川などの、水面に高低差のある場所で、水面を昇降させて船を行き来させるための装置。閘室と呼ぶ前後を扉で仕切った水面に船を入れ、扉の開閉によって水位を昇降させてのち、一方を開いて船を進める 
 1895年ひとまず完成したオビ・エニセイ運河だったが、通行できるのは年間3ヶ月半の期間だけで、排水量8トンの船まで(最も水量の多くなる季節でも80トンまで)しか航行できないという不便さのためや、シベリヤ鉄道が当時開通したこと(実は鉄道会社からの賄賂の疑惑あり、後述の『ヤールチェヴォへ挨拶を』参考)、運河が都市部からあまりにも離れていたことなどのために、実際に商船は一隻も通行しなかった。すでに、1898年8月11日号『シベリア通報』誌に『死産児』と断言されているくらいだ。( 『クラスノヤルスク・ラボーチィ』誌2003年9月5日号)
http://krasrab.krsn.ru/archive/2003/09/05/15/view_article
当時のベズミャンカ閘門の建設
『クラスノヤルスク・ラボーチィ』誌2003年9月5日号
 1911年運河の拡大改築工事も、第1次世界大戦のため延期され、革命後の内戦のとき白軍がオビからエニセイを通過しようとして設備を壊し、1942年、エニセイからオビへと3隻の船を移動させようとして、まだ残っていた運河設備も破損させた。その時は船自体をも毀損させ、4カ月もかかって通過したそうだ。
 現在、ケッチ川とカス川を結ぶ地帯は過度の湿原沼地地帯であることと、人口が過疎のため水治工事には全く不適とされ、オビ・エニセイ運河は『膨大な計画の悲劇的結末』と言われている。今は、元あったような自然の湿原沼地に戻っているそうだ。かつての人工水路にも草が生え、小川より狭くなったが、最近になってリフティング・グループが年間に数組通過しているそうだ。
 運河工事の際、6000年以上前の石器時代人の遺跡が多く見つかったとサイト(ウィキペディア)にある。沼地にこうした石器があるはずもなく、石器時代人も、ここがオビ川(ケッチ川)からエニセイ(カス川)への移行に適地と考えていた、とか別のサイトに載っている。また2000年前の黒海北岸のサルマート戦士と同じような鎧なども見つかっているそうだ。事実、分水嶺ボリショエ湖を通って水行と陸行で、オビからエニセイへ出るコースは、原住民の間で古くから知られていたそうだ。
 14の閘門を建設した場所には集落(スタン、宿営地)を作った。中でもイリインスキィ・スタンノーヴィ・スタンは商店や学校もある環境の比較的整ったスタンだったが、1918-20年の間のそのインフラはすべて破損し無人になった。今も、ノーヴィ・スタンの墓地は残っている。
 1930年代ソ連政府の集団農業化を逃れて主にトムスク州から、古儀式派の信徒たちが無人になったスタンに移り住むようになった。今、クラスノヤルスク地方にある7つのスタンのうち、アレクセイサンドロスキィ・シュリュース村ベズミャンカ村が、集落として地図にも載っているが、どのスタンにも、たとえばマリイナ・グリヴァと言うスタンにも、数家族の旧教義派が住んでいるとか。
 1983年、旧運を再建する規格があり、調査されたが、この地はあまりにも沼沢地であること、人口が希薄であるため、断念され、新運河はクラスノヤルスクダム近くまで流れ寄るずっと南のチュリム川が候補に挙がった。
 小カス川が大カス川に合流するところにできたアレクサンドロスキィ閘門が一番エニセイに近い。地図でみると一面の湿原と沼地の中にアレクサンドロフスキィ・シュリュースと載っている。道があるのかどうかわからない。旅行案内書にはこのシュリュース(閘門)跡の写真が載っていることもある。行ってみたいものだ。
 ノヴォナジーモヴォ村の近くで大カス川はエニセイに合流する。アリョーシャが地元の人に問い合わせたところ、今、そこまで通行できる冬道があるそうだ。

 運河跡のアレクサンドロフスキィ・シュルーズ村
  2月24日(水)この家のご主人のパポフ氏が台所に立って作ってくれたフレンチトーストの朝食を食べて、9時頃出発した。エニセイ川沿いに冬道が通っていて村々を結んでいる。冬道はエニセイ川に平行なので、エニセイ川に(直角に)流れ込む支流を渡って走っている。小さな川でも大きい川でも、河口地点で広まった川でも狭いままの川でもどれも凍った上を渡らなくてはならない。川には氷上路の標識が立っている。国道53号線や地方自治体(州など)道のような主要な道は補修や安全管理はしているしているだろうが、冬道も冬期間の大動脈なので管理はされている。中でも、数年前に開通したエニセイスク市(正確にはパゴダエヴォ村から)からパドカーメンナヤ・トゥングースカの河口ボル町までの528キロは大動脈だ。しかし、状態は厳しく、過疎地帯を通るので、通行量は多くない。対向車とすれ違うことはめったにない。トレーラーをつないでいるのでゆっくり走る私たちのランクルを抜く車もない。時々右にエニセイの白い氷原が見える。道幅は小型車くらいなら楽にすれ違えるほどはかためてある。
カス川の左岸を行く『冬道』
ノーヴィ・ガラドク村のカーキ色のトラック
2004年夏のアレクサンドロスキィ・シュリュース
文集『ヤールツェヴォへ挨拶を』から
古儀式派信徒さんの家。私の背後はペチカ
夏に撮った閘門の写真、だそうだ
古儀式派のおばあさんの家の祭壇
おばあさんと二人の孫

 2時間ほど快適に走ると左岸支流カス(大カス)川の氷上路に出る。少しは大きめの氷上路なので、一応『同乗者は降りて渡ってください』と書いてある。2月の厳寒にランクルくらいの車で氷が割れることもないだろうに。
 カス川を渡ったところで、エニセイに沿って北へ行く主要冬道と、左へ折れてカス川左岸に沿って上流のトムスク州との境界へ向かう道に分かれる。左のカス川の方に曲がると『ノーヴィ・ガラドク35ベズミャンカ145』と標識が見える。その文字の間に手書きで書いたようなアレ・シュリュース105の文字が判読できる。
 カス川の左岸に伸びる冬道も状態は悪くなく、『エニセイスク・ボル』主要冬道よりは狭く、木々は道幅近くまで迫っているが、道路の雪は固めてあり、ランクルなら楽に通行できる。左に見えるカス川の氷原も美しい。川の深度を図る目盛りのついた棒が見える。どの川も春の雪解け期には水かさが極度に増すからだ。

 途中のノーヴィ・ガラドク村は9キロ上流のカソヴォ村と合わせて『ノーヴィ・ガラドク農業ソヴィエト』の中心で、合わせて人口は387人だと、クラスノヤルスク地方庁公式サイトに載っている。村に入るとロシアの田舎で見かけるカーキ色の古いトラックが止まっていた。家々の屋根には深く雪が積もっている。住民は横を流れる大カス川で漁もしているのだろう。見たところ氷に穴を開ける冬漁はやっていなかった。アンガラのチャドベツ川ほどは美味な魚の少ない川なのかもしれない。しかし、
「彼らも密漁をやっているに違いない、今度夏に来て捕まえようぜ」などとアリョーシャが部下のリョーハに言っている。
 
  (追記)クラスノヤルスク地方にも数多くあった矯正労働収容所(ラーゲリ)が
ガラドク村(今の村は新ガラドク村)にも1940年中ごろでき、その収容者は森林伐採などに従事させられていたそうだ。そのガラドク・ラーゲリは、1929年から1960年まであった『特別収容所シベリア管理局СИБУЛОН』の支部ラーゲリのひとつだった。
 ちなみに、СИБУЛОНができた当時は、帝政時代からあったエニセイ県(今のクラスノヤルスク地方)は廃止され、カス川地方はウラルからバイカルまでも含むシベリア地方(地方庁はノヴォシベリスク)に含まれていたのだ。
http://www.memorial.krsk.ru


 ここから目的地までは70キロだが、2時間半かかった。小さな川でも道を踏み外さなく渡れるように縞模様の目印棒の立った小さな氷上路をいくつも渡り、漁師(猟師)小屋を見かけたが動く車の窓から写真に撮るだけで通り過ぎ、『アレクサンドロフスキィ・シュルーズ』と標識のある小道に入る。道が狭く雪道も平らではないので、ゆっくりと20分も進んだところに集落があった。集落の入口のところで2人づれの青年を見かけたほかは人気のない村だった。ここにオビ・エニセイ運河の閘門(シュリュース)が残っているはずだ。入口に『オビとエニセイをつなぐ水路』と書いた新しい看板まで立っている。最近の僻地好みのツーリストはこんなところにも足をのばすようになったとわかる看板だ。
 水路に作られた14の閘門のうち、ここがオビ川からは最後の閘門で、ここを過ぎると比較的広い大カス川に出る。私たちは閘門のありそうな川岸の方に行った。やっと地元の通行人を見つけて閘門の場所を聞いた。もうほとんど跡は残っていないが、この辺だと言う方を一応写真に撮ったが、辺り一面のただ高低のある雪原だった。夏に来れば水をせきとめたり流したりする閘門の一部を作る木材の残りでも見られたかもしれないが、今は川も『遺跡』も一面に雪で覆われている。その髭を生やした地元の人(だから古儀式派で、ここには古儀式派信徒しか住んでいない)によると、彼の指さす方に『帝国倉庫(当時はロシア帝国だったし運河は帝国立だ)』などもあったそうだが、今見えるのはその跡地に立った村学校だ。
「これが大カス川で、小カス川はここで合流しているが、閘門は川の本流にはない。川はこの100年間で進路を変えたので、当時の閘門(の残骸)は今は分流となってしまったところにある。もし閘門跡を見たいのだったら、ゲオルギンスキィ閘門が比較的跡をとどめている」と教えてくれた。そこへは冬道もないが、彼は私たちのランクルを見て、これなら行けるかもしれないと言う。閘門のあったところに設営された14の元スタン(宿営地)は地図上ではアレクサンドロフスキィ・シュルーズアとベズミャンカを除いて無人と書いてあるが、古儀式派の数家族が住んでいるらしい。ゲオルギンスキィ閘門にも2家族ほど住んでいるそうだ。
 時刻は3時半も過ぎていたから、ゲオルギンスキー閘門まで行こうとは思わなかったが、たまたま通りかかって、自称日本人だという私につかまって話し相手になってくれていたその地元のアレクサンドルさんが、自分たちの家に招待してくれた。
「お茶はごちそうしませんが」と言う。なぜなら古儀式(旧教義)派の人たちは他宗派の使った食器は使わないことになっているのだ。
 その家は、物置や飼料置場、家畜小屋もほとんど一緒になって住居部だけはそれなりに住めるようになっている。19世紀末に運河従事者のために建てた家を、修理しながら使っているのだろう。
 アレクサンドルさんの妹一家の家だそうだ。可愛い男の子も二人いた。家の中心は煮炊きと暖房のペチカだ。横のテーブルには裸のパンがいくつも並べてあった。布をかぶせた桶もあった。保存食でも入っているのだろう。古儀式派の決まり通り、頭はかぶり物で覆いスカートをはいた主婦が愛想よく迎えてくれて、夏に撮った閘門の写真を見せてくれた。オビ・エニセイ運河はトムスクからのツーリストが数年に1組くらいは踏破している。ツーリストは地元の住民とたいていは知りあっているから、その時撮った写真だろうか。
 やがて、自分たちのおばあさんの家に案内してあげましょうと言われる。なぜなら私が古儀式派の話をしたからだ。おばあさんの家には祭壇もあるからだし、より熱心な古儀式派なのだろう。ちなみに彼らは自分たちのことを『古儀式派』と言わない。自分たちこそがロシア正教徒である、と言っている。『公式ロシア正教』からは『分離派』とか『ケルジェキイ』と言われている。それは古儀式派がニジネガロッツカヤ州ケルゼネツ川ほとりに修道院を作って住んでいたが、1720年代に数万人もの古儀式派がそこを追われてシベリヤへ移住してきたので、川の名前をとってケルジェキイと呼ばれることもクラスノヤルスク地方では多い。
 おばあさんとは2世帯住宅に暮らしているようだ。同じ敷地内にあるが、別所帯を構えているらしい。おばあさんも、アレクサンドルさんに案内されてきた私とリョーハを見るとはじめはびっくりしたが、こんな地の果てに悪意のある旅人が訪れることもないのか(と、私は勝手に思った)、すぐうちとけてイコンを飾ってある部屋の一角も見せてくれた。壁にかかったイコンの下のテーブルには古くて茶色くなった分厚い聖書が置いてあった。これは古いキリル文字で書いてあるそうなので読めない。写真を撮ってもいいかと聞くと、どう答えてよいかわからない風だった。ので、写真に撮った。やがて、先の家の2人の男の子も私たちの後を追ってやって来た。一応おばあさんにパンを届けるという口実をお母さんにもらったらしい。好奇心が強くて人なつかしい男の子だった。長い冬の間、(夏場でもそうだが)ほとんど孤立した村で、すっかり退屈しているのだろう。手作りのおもちゃを見せてくれたりした。私のデジカメで撮った写真のプレビューも見たがった。自分でシャッターを押したがったので押させてあげた。
 おばあさんもトムスク州から来たそうだ。運河沿いの古儀式(旧教義)派は1939年代に、主にトムスク州からソヴィエト政権の集団農業化から逃れてきたと、どのサイトにも書かれている。83歳だそうだが、村一番の長寿者に違いない。そう言うと、ほほっと笑っていた。 
 アレクサンドロフスキィ・シュルーズ村にいたのはおばあさんたちと話していた間も含めてせいぜい1時間半だったが、私は満足だった。アリョーシャに無理を言って往復200キロ以上の厳しい雪道を寄り道して、スノーモビールや燃料タンクを積んだ重いトレーラーを引っ張りながら来てもらったのだから。

 運河跡の『名無し』村
 元来た道に戻って先に進むのかと思っていたが、アリョーシャたちはここまで来たのだからとさらに奥地のベズミャンカ村まで行くという。そこまでの道路の状態も良いと言われたからだ。奥地へ行ってくれればくれるほど、『安楽』に助手席に座っているだけの私は嬉しい。ベズミャンカ村は小カス川沿いに40キロ奥に行ったところにある。シベリヤの詳細地図には、ベズミャンカ川とかベズミャンカ村と言うのがよく載っている。『無名の』という形容詞からできた地名だ。(ちなみにロシア語では薬指も『名無し指』と言う)だから、奥地のアレクサンドロフスキィ・シュルーズよりさらに奥地にある『名無し』村は、まともな名前ももらえないほど小さな村かと、私たち3人は思っていた。
  冬道だから用心深くすすまなくてはならない。いくつもある小川はちゃんと縞々棒で印をしてあるところをわたらなければならない。でないと、道端の氷に追突して抜け出すのに苦労するかもしれない。1時間半も行くと、薪を橇に乗せて背の低いアジア馬を曳いて大きく振りかえって私たちを眺める地元の人を追い越した。
 しばらくして、村の方から来る太いスノータイヤを履いたこんな田舎にしてはスマートな乗用車とすれ違った時、リョーハは
「村のオルガルヒ(新興財閥、ロシアの資本主義化の過程で形成された政治的影響力を有する寡頭資本家。 Oligarch)かもしれない」とうなった。
なかなか裕福なベズミャンカ村
薪のそりを曳くアジア馬に村の中でまた出会う
送って行ってあげた古儀式派信徒さん(帽子)
 リョーハの驚きは村に入ると一層強まった。過疎化が進んで、住んでいるのは老人のみと言う普通のシベリアの農村と違って、大きくて立派な新築の家が何軒も建っていた。木の香りも漂ってきそうな新しい色だった。古い家の横には新しく建て増ししている。
 日本に帰ってクラスノヤルスク地方の公式サイトを見ると、カス川上流には『ルゴヴァトカ農村ソヴィエト』があり、ルゴヴァトカ村、アレクサンドロフスキィ・シュルーズ村、ベズミャンカ村を含んで人口514人とある。地図で見るとこの辺には10個近くの村やザイムカもあるが、公式サイトに載っている3村を除いて無人と書いてある。
  (注) ザイムカЗАИМКА は、荒れ地(誰のものでもない未開墾地)の占有、新開墾地のこと。シベリアに多い。開墾者の家が普通は1軒あって、そこから、昔は自然発生的に村ができた。開墾者の名前を取って「ザイムカ・ブラギナ」などと呼ばれている。10軒も家ができるとフトールと言われる。やがてジェレーヴニャとなりセロとなる。セロには、もう地区の教会も建つ。ザイムカが大きくなってもそのまま伝統的にザイムカと呼ばれることも多い

 私たちはぐるりと村内を回って盛んに感心していた。さすが勤勉な古儀式派の村だ。たまたまの通行人を止めて話しかける勇気はなかったのは残念だった。リョーハが村の通りを歩いている人をさして
「ほらあの人に話しかけてみたら」と勧めてくれて、アリョーシャもランクルのスピードを緩めてくれたが、私がためらっているうちに通行人は私たちの方をじっと見ながらも通り過ぎて行ったのだ。
 そんなわけで、村をぐるりと一回りしただけで、元来た道に戻った。この先の道はルゴヴァトカ村へ通じているのかいないのか。ベズミャンカにはエニセイ川側から3番目の閘門があるが、村から少し離れているらしい。探してたどり着いても、積もった雪を見るだけだっただろうが。
 後でわかったことだが、このベズミャンカ村には30家族以上も住んでいるそうで、1家族はたいてい5人以上の子供がいる。だから人口は増えているそうだ。全員が古儀式派の村は、決して貧しくはない。彼らは他からの援助に頼らず、全く自給自足で生きている。道は自分たちでつけ、橋は自分たちで架ける。年金も受け取らない。よく働くので、村全体が豊かだ。村に入ると、どこも手入れが行き届いていると感じられる。自分の力でよく働き、その分豊かだと言うのは、たとえば、『クラスノヤルスク・ラボーチィ』誌2003年8月15日の記事によると、この村の近くの森にできるシロキノコを干して町に売ってかなりの現金収入を得ているとか。シロキノコは貴重で高く売れるので、豊作の年など200キロもの干しシロキノコを売って5万ルーブルも稼ぐとか。
 レーニンの妻クルプスカヤは『富農撲滅とは古儀式派撲滅である』と言ったそうだ。ちなみにシベリアを事実上開墾をしたのは17世紀からシベリアに逃れてきた古儀式の諸派だった、とも言われている。
   http://www.kgau.ru/distance/culture/cont/sibir/indexS.html
 元来た道を戻り始めたのは6時も過ぎていた。さきほどの『地元オルガルヒ』の車が止まっていて、近くで写真を取っている男性がいる。村人のような毛皮で身をころころに包んでいなくて町風のスキーウエアを着ている。話しかけてみると、村に関係はあるがノヴォシビリスクから来たという。なるほど車のナンバーもノヴォシビリスク州の54番だ。
 エニセイ沿いの冬の『大動脈』に出るまでの145キロの途中で、あたりはすっかり暗くなった。途中に橇のようなトレーラーをつけた1台のロシア製小型ジープ『ニーヴァ』が私たちと同じ進行方向を向いて止まっていた。ランクルが近づくと外に出ていた二人の子供が急いで中に入った。ちょっと気にかかったがそのまま通り過ぎた。
 そこから何十キロも行ったところにロシア製中型ジープ『ウアス』が私たちと逆進行方向を向いて止まっていた。時刻は9時過ぎ、真っ暗で、車のライトに照らされて髭の男性(つまり古儀式派)が手を振っている。アリョーシャが降りて話に行った。やがて別の男性、こちらも髭、が後部座席のリョーハの横に座ると、何やら続きを話している。やがて、私たちは進行方向、つまり、今朝通って来た道を元の大動脈冬道に向けて走り出し、『ウアス』はベズミャンカの方へ出発した。その男性を、途中のノーヴィ・ガラドク村の、彼の知り合いという家の前で下してから、アリョーシャから事情を聴いたのだが、二人の子供がいた『ニーヴァ』が彼の車で、故障して動かなくなったそうだ。それで子供は車の番に残して歩いてくると(何十キロも、この冬道を!)ウアスに会ったそうだ。ウアスは逆方向へ行くのだが、彼はこの先のノーヴィ・ガラドク村の知り合いの家で車の修理部品を手に入れなくてはならない。シベリヤ奥地では人々は進んで助けあうものだ。

 私たちの目的地はヴォーログヴォ村だとアリョーシャは言う。大カス川がエニセイに注ぐところの、エニセイ沿いの『大動脈』冬道に戻ってからでも150キロはありそうだ。今夜中に行きつくのは無理だ。アリョーシャが寝ないで運転しても着くのは明け方になる。そこはお任せして、私はワンディ・コンタクトレンズを鏡も見ないで外すと、助手席で眠ってしまった。
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