クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 05 Sep. 2010  (校正・追記:2011年1月2日、2012年8月12日、2016年1月6日、2018年10月16日,2019年11月30日、2021年8月18日、2022年7月18日)
27-2 『冬道』のクラスノヤルスク地方、氷のエニセイ川とアンガラ川
(2) アンガラ北岸の古い村々
           2010年2月15日から3月5日(のうちの2月19日

На зимнике в глушь Ангары и Енисея( 15.02.2010 - 05.03.2010 )

アンガラ川へ エニセイ川へ
(1) ハバロフスクからクラスノヤルスク (4) エニセイ街道を北上、レソシビリスク市
アンガラ川へ出発 新ナジーモヴォ村泊
アンガラ松のグレムーチィ村 悲劇のオビ・エニセイ運河
(2) アンガラ川中流、水没のケジマ区 運河跡のアレクサンドル・シュルーズ村
アンガラの支流チャドベツ川の密漁 運河跡の『名無し』村
アンガラ北岸の僻地、古い歴史のヤルキノ村 (5) 1605年からのヤールツェヴォ村
(3) アンガラ下流の先住民、バグチャニ区のバグチャニ村 スィム川の新しい村マイスコエ
アンガラ針葉樹林帯を下流へ リョーハの銃
『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村 (6) この旅の目的地ヴォーログヴォ村
モティギノ町、郷土博物館その2 旧儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス村
エニセイを渡ってクラスノヤルスクへ (7) ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地
クラスノヤルスクで 帰りの冬道、オーロラは見えなかったが
地図 アンガラ川下流 ロシア帝国のシベリア『開拓』地図
ヴォーログヴォ『多島海』地図 エニセイ中流地図
シベリアの町々の父エニセイスク市
帰国

 アンガラ川中流水没のケジマ区
  アンガラの旅はアリョーシャの予定では、5日間ほどだ。
 当初の予定では、キースティン氏の伐採地を見た後、ケジマ村まで足をのばし、グレムーチィとボグチャンニに戻り、オルジョニキーゼ村経由でアリョーシャの両親のいるモティギノ町に寄って、エニセイ川を渡ってクラスノヤルスク市に帰ると言う予定だった。ケジマへ行きたいと私は初めからアリューシャに繰り返していた。ロシア人『開拓民』の民俗学の宝庫だというケジマはアンガラ流域では地方庁クラスノヤルスク市から最も離れていて(タイムィール区やエヴェンキヤ区を除いて)、全長1779キロのアンガラ川では下流というより中流で、つまり、上流のイルクーツク市からもエニセイ川への河口からも隔たっている『空白の斑点(未踏査地)』だ。確かに、18世紀末から19世紀に陸上のシベリヤ街道ができてからは廃れたが、アンガラ川がシベリヤ横断の大動脈だった17,18世紀は交通の要路だった。だから、当時の『開拓民』の生活跡が、『開発』から取り残されてそのまま残っているので民俗学の宝庫と言うのだ。一時は、エニセイ県ではなくイリム軍管区(現イルクーツク州)に属するケジム郡の中心で、18世紀後半には立派な教会のあるスラバダ(農奴ではない自由農民の大村)があった。バグチャニの地にコサック前哨隊が柵を作ったのは1642年、ケジマはその3年後だった。
クラスノヤルスク地方、アンガラ川下流
 ケジマ区は、今、人口密度は低く、1平方キロあたり0.7人(2015年)だ。行政中心地はずっとケジマ村だったが、1988年にバグチャンスカヤ発電所建設村のコーディンスク町に移った。人口希薄なケジム区の中では、新産業都市として、コーディンスク市(1989年市制)だけが人口も増えている。発電所関連産業が栄えると言うだけではなく、そもそも、バグチャンスカヤ発電所ダム湖にアンガラ流域の古い村々は大概、(10村ほど)ケジマ村も含めて沈んでしまうからだ。(村々は水利のよい川岸近くにできたから)
 ちなみにコーディンスクは、1930年右岸支流コダ川(238キロ)の対岸に特別流刑地だったコーディンスク開墾地からできた。1977年には発電所建設拠点になり人口が増加しだした。2008年人口は1万5千人と膨れ上がり、アンガラ下流『開発』拠点としてさらに人口は増え続けている。
 2009年にはケジマ村で住民のお別れ会があったそうだ。ダム堤防より上流の古い村々は10村ほどあるがみんな水没する。ダム工事がさっぱり進んでいなかった1995年には、まだ人口2900人だったケジマ村も、ダム完成がもう間近な2009年には、1600人しかいなくなった。その彼らもアーチンスク市やミヌシンスク市、サスノヴォボルスク市(みんなクラスノヤルスク地方南部)などに移住が決まっているそうだ。一応、新ケジマ村という集落が高台にできているが、人口は200人余だ。
 そのケジマへ行ってみたいものだとは以前から思っていた。ケジマ出身で、コーディンスクに移り、その後クラスノヤルスクで働いている女性と、ネットで知り合って、長い間文通していた。彼女によると、コーディンスクより先(上流)は夏季の道がないのでアンガラ川経由でしか行けない。もちろん定期航路はない。航路で189キロあるが2008年以降はダムより上流の定期航路はすべて閉鎖されたので、個人のモーターボートで行くしかない。モーターボートを調達しなければならないし、途中いくつも危険個所(浅瀬や岩場)があって命がけだとか、書いてあった。だが、水没する前に一度は行ってみたいそうだ。できたら私も日本からクラスノヤルスク経由でコーディンスクへ入り、同行してみたかったが、できなかった。というのは、2008年ロシア軍のグルジア進攻のとき批判してしまったので(そればかりかロシアの軍事行動すべてを否定的に書いたので)、彼女から絶交されたのだ。ロシア人はみな『愛国』教育をしっかり受けてきたらしい。彼女はきっと2009年のお別れ会に参加したに違いない。

 今、旧ケジマ村には、自治体の公式サイトによると256人ほど残っていて、アリョーシャの知り合いの老人も住んでいるそうだ。冬道を通っていく予定だったが、コーディンスクからでも陸上263キロある。(コーディンスクからケジマへアンガラ川を航行しても189キロ、グレムーチィからなら313キロという距離だ)。結局、遠すぎると言うので中止になった。代わりに北岸支流チャドベツ川のヤルキノ村へ行くという。ケジム区の集落はアンガラ沿いにできたので、発電所の堤防を閉じる(完成する)と新ケジマ町のように高台に移動した集落でなければみんな水没する。一方、なぜかヤルキノ村は地図で見るとアンガラ沿岸でもなく、右岸の陸地の奥深くにある(もちろんアンガラ川の支流の支流の沿岸だ)
 ちなみに、バグチャンスカヤ発電所の下流にモティギノ発電所計画が進行中だそうだが、そこでせき止めるまでは、コーディンスクより下流のケジマ区の村々(といっても3個の村で合計人口1600人)は生き延びられる。ヤルキノ村は唯一ケジマ区内アンガラ北岸の奥地にあって、どちらの発電所が完成しても、存続し続ける(後でわかったことだが、北岸奥地にはいくつか集落はあったが、ヤルキノ村の他は廃村になった)。
 クラスノヤルスク地方は北から南まで川沿いの集落はどこへでも行ったことのあるアリョーシャも、そこへはまだ行ったことはないそうだ。だから、道案内者が必要だ。バグチャニ村にあるエニセイ川自然保護委員会アンガラ支部の知り合い、つまり彼の同僚に道案内を頼んだらしい。途中の道程でアリョーシャたちは仕事をする。つまり、アンガラ川やチャドベツ川で密漁者を捕まえようというのだ。
 私たち3人はランクルに乗ってキースティン氏の家をあとにし、対岸のバグチャニ村のアンガラ支部の前で、人数が揃うのを待った。アリョーシャの同僚のセルゲイという検査官のほかに、ヤルキノ村出身で今はアンガルスキィ・レスホーズ村(バグチャニから20キロほど下流)で働いているセルゲイ・イヴァノヴィッチという男性も現れるはずだった。彼は仕事のないヤルキノを離れてアンガルスキィ村で、材木で稼いでいるのか。待ち合わせのバグチャニ村から20キロも離れているので遅れてやってきた彼を乗せて、燃料を満タンにして、私たち5人が出発したのは10時過ぎだった。
 アンガラの支流チャドベツ川の密漁
 アンガラ川左岸の広くて(雪が積もっているので見えないが)たぶん舗装されている道を東へ、つまり上流へ向かって進んだ。この道は新産業都市コーディンスクへ向かうのでよく整備された新道だ。アンガラ川に注ぐ小さな支流にも、道幅と同じ広さの橋がかかっていて『大メリニチニィ川』とか『右インバヤ川』とか書いた標識が立っていなければ、橋ともわからないくらいだ。といっても、冬、川は川らしく水が流れているわけでもなく、ただ雪の積もった谷間にしか見えないが。
 木々は遠慮して道路から離れて立っている(もちろん人間が伐採したのだ)。車の助手席に安楽に座り、自分は足を運ばなくても次々と雪をかぶった暗緑色の木々が過ぎていくのを眺めるのは快いものだ。時々道路から見えるところに猟師小屋が建っている。

 やがて、『ガヴォルコーヴォは左へ0.5』『氷上路』と看板の立ったところで産業路を出て左へ曲がり、カヴォルコーヴォ村を通ってアンガラ川へ下りる。コーディンスクまであと42キロのところだ。
 カヴォルコーヴァ村はバグチャニからアンガラ川航行では91キロ、陸上では110キロの800人くらいの村だ。氷上路に出ると、真っ白な広いアンガラと遠くの低い山々と風のほかは何も見えない。車を止めてもらって、写真を撮った。帽子をかぶらないで外に出たからとアリョーシャに叱られた。
 ここに氷上路ができているのは対岸に4つほど集落があるからだ。そのうちのフレブトーヴィ町だけは、1968年材木の集散地としてできた新しい町で、ここからバージ(平底曳船)に丸太を山積みにして、アンガラ川を出たところにあるレソシビルスクのような林業コンビナート町に運ぶのだ。だから、氷上路から上陸するとすぐに、長さをそろえて切られた丸太の巨大な山とその横の巨大なクレーンや作業員小屋が目に入った。
 アンガラ川沿いの道を走りながら、アリョーシャがリョーハに
「見えるか」という。密漁者がアンガラ川の上で仕事をしていないかということだ。リョーハの視力はよほどいいらしい。
 さらに数キロ行ったところに、クリミノ村があり、またその先の、右岸支流のチャドベツ川(647キロ)がアンガラ川に注ぐ河口には、チャドベツ川を挟んでザレデエヴォ村チャドベツ村があり、3個合わせても人口1600人だ。どれも1645年くらいからできている古い村だそうだ。
チャドベツ川に架かる橋、黒点は釣り人、犬
釣り糸で漁をするのは合法
氷に穴を開ける
氷の上の漁小屋
密漁者を先に、証拠品を持ったリョーハ
 これらは、アンガラ水路を通ってコサック前哨隊(これは、つまり、ロシア人のシベリヤ侵略部隊)が東進し、エヴェンキヤ人サモィエード人(注)の地にヤサク(現地人から徴収した税、主に毛皮で納められた)を集める拠点を作ったところから始まった。そこに猟師やのちには農民が移ってきてロシア人の集落になり、水路の宿場町(?)としてそれなりに発展してきた。が、18世紀、陸上のシベリヤ街道ができると振わなくなった。さらに、1898年モスクワからのシベリヤ鉄道がクラスノヤルスクまで開通し、1899年にはイルクーツクまで完成してからは、もう発展から取り残され、ソ連時代もアンガラ下流域は材木資源のほかはほとんど開発されなかった。林業用の強制流刑地としては発展した。
   (注)正しくはサモディエツ人で、フィン・ウゴル語派ウラル語族

 ザレデエヴォ村とは、17,18世紀の移民たちがリョード(氷)の上、つまりアンガラ川を進んできて、魚の豊富な川の河口に住み着いたからザ(向こう側)・レデエ(氷)・ヴォ(ただの語尾)村と名付けたそうだ。3村の中ではチャドベツ村が一番古く、この辺の教区の中心で、1781年には教会もでき、司祭のほか聖歌読誦僧もいたとサイトには出ている。シベリヤを東進するコサック『開拓隊』の後には猟師や教会が続き、先住民をロシア正教徒化(ロシア帝国臣民化)していったのだから、古い村には必ず古い教会がある(あった)。
 ちなみに、チャドベツ村の近くには中石器時代の遺跡もある。『エニセイ百科事典』によるとアンガラ流域の、特に支流の河口付近や浅瀬毎に多くの遺跡が発見されている。バグチャンスカヤ・ダムが出来上がると、未調査の遺跡も含めてすべて水没する。

 チャドベツ川は634キロとアンガラ右岸支流の中ではイリム川(イルクーツク州を流れる)に次いで2番目に大きく、春の雪解け水による洪水(流氷)もすさまじいものらしい。アンガラ河口に近いチャドベツ川にはこんな僻地にしては珍しく橋がかかっている。この橋も2009年の流氷で流されそうになったとか。あと1メートル水位が増えるとチャドベツ河口の村々は孤立してしまうところだったとか。
http://sp-gazeta.ru/?p=2649
 橋の下には点々と黒いものが見える。氷に穴を開けて漁をしている村人たちだった。もちろん、仕事がらみのアリョーシャは村から川岸へ下りて、ランクルで行けるところまで進んだ。若いリョーハがチャドベツ川の雪の上を黒点の方へ歩いて行き、私も後を追いかけた。密漁者を捕まえる瞬間を見たいなどと思ったのだ。足の長いリョーハはすたすたと先を進み、私も雪にはまりながら進んだが距離があくばかりだ。犬にほえられるのでよけて進んだ。犬は深い雪の中へは追って来ない。深いと言っても私の膝くらい、犬にとっては首まではまるから。すでに、リョーハは一人の猟師と話している。釣竿で釣っているから違反者ではないそうだ。釣れたばかりの小さな魚をやっと近づいた私に見せてくれた。この辺のザレデエヴォ村人はみんな釣竿で釣っていると言う。

 車に戻って、川の上を移動する。たぶん、ここで違反者を捕まえるためにアリョーシャは来たのだろう。次の場所では川の中ほどの氷の上に人ではなく、小屋がたくさん立っていた。穴の周りを小屋で囲った方が寒さを防げるからだろう。今度も若いリョーハがすたすたと小屋の一つに進んでいく。私はもう追いかけるのはやめて車の窓から見ていることにした。
ランクルに座ったリョーハが
調書を取る

 リョーハは一人の漁師(黒点にしか見えない)と話している、やがて、その黒点の男性を先に立ててリョーハがこちらにやってくる。手には何だか大きなものを引きずっている。現行犯で捕まえた密漁者と証拠の網だという。車まで連れてくると、リョーハはアタッシュケースを開け書類を取り出し調書を書き、不運な密漁者がサインした。一方、アリョーシャやセルゲイ検査官は他の地元の住民と話している。やがて、ランクルのトランクに捕れたばかりのマス(の一種だと思う、川から上がればこの気温では間髪いれずに冷凍魚になる)を数匹乗せて、出発した。魚を購入したようではなく、まあ、プレゼントされたらしい。地元民が検査官に敬意を表して贈り物をしたのか、どうかは知らない。彼らの仕事の邪魔をしては悪いので写真もあまりとらなかった。
 2009年の洪水でも無事で流れなかったチャドベツ川の橋を渡り、アンガラ川の右岸の奥深く、今度はチャドベツ川に沿って北へ行く。途中に規格の6メートルどころか、10メートル以上もありそうな丸太を積んだトラックとすれちがった。6メートル以上の材木も必要なのだろう、こんなしっぽの長いトラックを運転するのは大変だ、と思った。
 アンガラ北岸の僻地、341年前からのヤルキノ村
 目的地のヤルキノ村はコーディンスク市から105キロの行程にあって、やはり17世紀にできた古い集落らしい。2009年に340年祭が催されたとサイトに出ている。ヤルキノ家が開墾したのでこの名前の村になったとか。住民は193人とある。
 チャドベツ川の右岸の冬道を2時間ばかり進んだ。林道で、トラックが楽に通れるほど広い、というより、道路の近くから伐採していったのか。(後記:ヤルキノまでは夏はヘリコプターで、冬は冬道で訪れることができる。1669年にロシア人が来た頃、ここにはエヴァンキ人が住んでいた。今でも村人は珍しいヤルキノ方言で話しているそうだ。)

チャドベツ川流域の丸太(無人集散所)
氷原の中に見えだしたヤルキノ村
この辺で見かける背の低い馬
村のスノーモビール
ヤルキノ村
自分の牛を解体中
家の中心はペチカ
バケツにふたが付いているだけだが、
多分、座ってできるポータブル・トイレ
魚料理も出来上がる、その横にはヴォッカ
帰途、フロントガラスには一面の氷滴がついて
いた。先を行くのはヤルキノ村の3頭の馬
 ヤルキノまでのちょうど中間あたりにユロフタという今は廃村になった集落があるが、ここには少し前まで木造の古い教会跡があった。18世紀の移民がアンガラ本流を離れてこのチャドベツ川をさかのぼったのは、漁業資源が豊富だったかららしい。アンガラ川北岸は、パドカーメンナヤ・トゥングースカ南岸だ。エヴェンキヤのヴァナヴァラ町にも近くなるので、1908年のトゥングースカ大火球(隕石は見つかっていないそうだ)の目撃者も多くなってくる。エヴェンキヤ元(民族)自治管区の公式サイトには『トゥングース大隕石(火球)落下』のページがあり、多くの目撃者の証言記事が載っている。その中には当時、ケジマやヤルキノ村、ユロフタ村の住民の証言が見える

 途中に廃村にしては新しい小屋が数軒建っているところがあり、そこから5分ぐらいのところに定規格の長さの丸太の山と、トラックが数台、それにキャタピラーをはいたクレーン車が止まっていた。伐採基地か。
 こんなに森林を伐採して地球環境はどうなるのだろうと思う。アリョーシャによるとアンガラ流域の材木はいくら切っても、なくならないのだという。本当だろうか。この寒さではマツもカラマツもトウヒも成長するのに時間がかかるだろうに。
 やがて、まばらな林の先に広い氷原が見え、その向こうに家々の屋根が見えてきた。同行のヤルキノ出身のおじさんによると、そこ(広い氷原)に湖があるそうだ。地図で見ても、チャドベツ川の三日月湖からできた水たまり(つまり大きいのは湖)もたくさん書きこまれている。

 村に入って、ゆっくり回ってみた。アリョーシャの言うには家畜の方が人間より多いそうだ。確かに、足の短いアジア馬(ヤクーチア馬、トゥヴァ馬)が出会った歩行者よりずっと多い。
 340年の歴史のあるこの村がチャドベツ川流域の集落の行き止まりかと思ったが地図で見ると、さらに上流の、プーニャ川が合流してくるあたりにプーニャ村(廃村)があり、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川まで冬道を表す点線が続いている。地図で道があるからといっても、通行可能とは限らない。トナカイでなら通れるだろうが。
 ヤルキノ村は1825年ペテルブルク刊のエニセイ県の地図にも載っている(、ページの下にそのURL)
 雪が解ければチャドベツ川周辺の沼地化のため文明地コーディンスクからの陸上の通行は不可能になる。17,18世紀のアンガラ川流域の『開拓』時代はどのシベリアの村でも、陸上で通行できるのは冬季だけだ。年間を通じてこの辺ではチャドベツ川が主要交通路だった。歴史の古いこのヤルキノ村に、2009年には3人の男の子が生まれ、8人がなくなり、1組のカップルが誕生し、4人の若者を兵役に送り、1人がオセチアの兵役から戻り、初等学校では8人学び、コーディンスクの寄宿舎(中等学校)で6人学んでいると、ヤルキノ農村ソヴィエトの議長が『ソヴィエト・アンガラ』サイトの『2010年年頭あいさつ』に書いている。が、それをパソコンで読む村人は少ないだろう。
 交通要路のアンガラ川から100キロ近くも離れたところにあって、この先は果てしなく無人地帯の続くこのヤルキノ村も謎だなあ。そう思っていると、
「この先で地下核実験をやっていたといううわさもあるんだ。村では癌で死ぬ人も多い」とヤルキノ出身のおじさんが言う。
「こんな遠隔地の村だもん、そんなうわさがあるだけだよ」とアンガル支部の監察官のおじさん。
「噂ってこんなところだから広まるもんだ」とアリョーシャ。
 帰国後ネットを調べた限りでは、アンガラ北岸のクラスノヤルスク地方では地下核実験はやってない。クラスノヤルスク地方では6か所の産業用地下核実験をやったようだが、アンガラ北岸ではない。エヴェンキヤ地区では5か所の地下核実験の記録はあるが、そのうち4発はニージナヤ・トゥングースク川の近くだ(だからトウングースカ発電所、しかし正しくはエヴェンキヤ水力発電所を建設するのは危険だと言われている)。
 文明から切り離されたような純白の氷原の中、チャドベツ川(といっても低めの氷原のようにしか今は見えない)の畔に木造の家が固まってヤルキノ村ができている。どんな辺鄙な村にもある『大祖国戦争(第2次世界大戦)戦没者記念碑』や『文化宮殿(公民館のような)』もある。古いロシア製ジープやメーカーのわからないスノーモビールが玄関先に止まっている家もある。
 牛さん達や馬さん達に道をよけてもらいながらランクルがゆっくりと進んで行くと、村人が自分の敷地で牛を屠殺している光景に出合った。白い雪の上に湯気の出ている解体中の内臓がはみ出ている。横で犬が行儀正しく見守っている。リョーハが近づいていくので、私もあとを追って柵に近づいた。
「許可なく動物を解体するのは違反である」なんてリョーハが言っている。かわいそうにまた捕まったのかと、私はそのヤルキノ人に同情した。
「あんた誰だ」というのでリョーハが、検察官だと答える。
「だって、これは自分の牛なんだよ」。
「新しい法律ができて、たとえ自分の牛であっても屠殺する時は許可がいる、許可なしで解体した場合罰金が科せられる」と、リョーハがもっともらしく言う。そのヤルキン人は片手に小さなナイフを持って、とても困った顔をしていた。私も、本当に調書を取られるのかと同情したが、それはリョーハの冗談だった。ヤルキン人は黙って解体作業を続け、犬はおこぼれのにおいをかいでいた。
 その隣が、同行のヤルキノ村のおじさんの実家だった。田舎の家はどれもそうだが敷地内に物置や家畜小屋、干草小屋などがあり、窓にカーテンなんかがかかっているのが住居小屋だ。(家畜小屋にカーテンはない)。住居小屋へはいくつものドアを開けて入っていく。家の中心はペチカのある台所で、おばあさんが一人いた。おじいさんは癌で亡くなったし、子供もみんな亡くなって、私たちの道案内をしてくれたセルゲイだけが無事なのだそうだ。家は広くて台所に面して3つも部屋があった。壁には大きな聖像画が貼ってある。寝室にはポータブル・トイレが置いてある。このトイレ容器の普及がここ2年間の一番好ましい出来事だ。だって、こんな遠隔地のおばあさんまで購入できているではないか。もし、2年前に来ていれば、外のトイレに行くか、夜間なら本当のバケツ(ふたなしということもある)にしなければならなかったところだ。
 今回の僻地めぐりでも、この先、同じポータブル・トイレによく出会った。毎回、私は感心してカメラに撮ったのだ。

 やがて、私以外のみんなは料理を作りだした。チャドベツ川の村人の『贈り物』の川魚をリョーハが斧でぶった切りにする。息子のセルゲイは貯蔵穴倉から瓶詰を持ってくる。きゅうりやトマトのピクルスや、キノコの塩漬けだったりする。おばあさんはカツレツを温めなおす。アンガラ支部の検査官はパンを切ったり、魚炒めのオイルをたっぷり大なべに流し込んだりしている。アリョーシャはバグチャニのアンガラ支部長から送られたというヴォッカを持ってくる。私が家の中をおずおずと、しかし、じろじろ見て写真を撮っている間に料理は出来上がった。
 私以外はみんなおいしそうに食べ、魚のぶった切り炒めもあっという間になくなった。私はあまり食べなかった。私はよく噛んで消毒作用があるという唾液とよく混ぜて少量を飲み込んだだけだ。台所にいくつものバケツがあって、調理用水がためてあるらしいが、柄杓ですくってそのまま飲んでいた。同居の猫なんかは柄杓も使わず直のみだった。熱が通った魚炒めは私がためらっていると、アリョーシャが、これはグルメだからと肝臓を私の皿に取ってくれた。魚は食べられても肝は無理だ。絶品の肝をお皿の上で回している間に魚のぶった切りは男性たちがみんな食べ、ヴォッカも飲み終えたようだ。
 おばあさんも久しぶりで息子に会えてよかったに違いない。変な旅行者の私が行きたいと言わなければ、息子さんも道案内をして来ることもなかっただろう。
 遠く遥々行きついたヤルキノ村だが、2時間余いて引き揚げた、帰り道、中古部品を自分で組み立てたようなスノーモビールで村に向かう男性のほかに、ほとんど窓がないような不格好なバス(トラック)に出合った。これはスクールバスだと、ヤルキノ村出身のおじさんが説明してくれた。村には4年生までの初等学校しかないので、そこを修了するとコーディンスクの中等学校に行くが(上記、ヤルキノ農村ソヴィエト議長の記事にもあった)遠いので寄宿舎に入るそうだ。この日は金曜日だったので村に帰ってくるのだ。
 遠くにまばらな林が見える氷原の夕日は美しかった。この日夜遅く、朝別れてきたキースティン氏のうちにまた戻った。
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(注)1825年ペテルブルク刊のエニセイ県の地図

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