と滞在後記 | |||
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up date | 07 Sep. 2010 | 校正・追記: 2010年9月29日、2011年4月4日、2016年12月10日、2018年10月18日、2019年12月1日、2021年9月3日、2022年7月25日) |
27-7 冬道のクラスノヤルスク、白いエニセイ川とアンガラ川 (7)ヴォーログヴォ『多島海』、『シベリアの父』エニセイスク 2010年2月15日から3月5日(のうちの3月2日から3日) |
В глушь Ангары и Енисея( 15.02.2010 - 05.03.2010 )
アンガラ川へ | エニセイ川へ | ||
(1) | ハバロフスクからクラスノヤルスク | (4) | エニセイ街道を北上、レソシビリスク市 |
アンガラ川へ出発 | 新ナジーモヴォ村泊 | ||
アンガラ松のグレムーチィ村 | 悲劇のオビ・エニセイ運河 | ||
(2) | アンガラ川中流、水没のケジマ区 | 運河跡のアレクサンドル・シュルーズ村 | |
アンガラの支流チャドベツ川の密漁 | 運河跡の『名無し』村 | ||
アンガラ北岸の僻地、古い歴史のヤルキノ村 | (5) | 1605年からのヤールツェヴォ村 | |
(3) | アンガラ下流の先住民、バグチャニ区のバグチャニ村 | スィム川の新しい村マイスコエ | |
アンガラ針葉樹林帯を下流へ | リョーハの銃 | ||
『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村 | (6) | この旅の目的地ヴォーログヴォ村 村の歴史 | |
モティギノ町、郷土博物館その2 | 旧儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス村 | ||
エニセイを渡ってクラスノヤルスクへ | (7) | ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地 | |
クラスノヤルスクで | 帰りの冬道、オーロラは見えなかったが | ||
地図 | アンガラ川下流 ロシア帝国のシベリア『開拓』地図 | シベリアの町々の父エニセイスク市 | |
ヴォーログヴォ『多島海』地図 エニセイ中流地図 | 帰国 |
ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地とインディギン村 | ||||||||||||||||||||||||||||||
ヴォーロゴヴォに着いた日にアリョーシャとクーチン氏がたててくれた予定では、カーメンヌィ(石の)ドゥプチェク川の古儀式派の修道院へは行かない、カラコルニイ・ヤールとインディギン、サンダクチェス、それに、私が興味あるようならクーチン氏の漁場にも行くということだった。それなのに、サンダクチェスから帰って来ると、アリョーシャ達は、あしたはもう帰ろうと言っている。遠く冬道を何日もかけて(寄り道しなければ1晩)やって来たのに、もう帰るとはつまらない。ネリマ、オームリ、シーク、シューカ、オークニ、ナリム、ペリャジなどのサケ属やイトウ属、すずき目の高級魚をワン・シーズンに2トン、3トンと漁獲している基地を見たいではないか。
アリョーシャとの旅は朝遅く行程が始まるので1日で1か所くらいしか寄れず、あまり内容が濃いとは言えない。これがシベリヤ風の旅の仕方らしくて、私には何も言えない。だが、せっかくここまで来て漁場を見ずには引き返したくない。 翌3月1日(月)その漁場に行くと言ってくれたが、何時に出発するのかわからない。その前に帰りの燃料や食料を調達しなければならないと言って、アリョーシャ達は消えた。9時前から準備ができていた私は、クーチン氏の誰もいない家で、長い間待って、やっと出発したのは12時半だった。この日も、古儀式派のセルゲイが一緒だった。 エニセイ川は西シベリヤ平原(湿原)の東端のエニセイ山地の西がわの下を流れていて、いくつかの難所がある。川が山地を削って流れているので(その逆かも。と言うのもエニセイの流れは山地が盛り上がるより早かった)、山地が川近くせり出したところでは(その逆かも、できた山地をまたエニセイが削った)、川幅が狭く、川底は岩が突き出て浅く、流れは速く、曲がりくねって航行が難しい。クラスノヤルスク・ダムより下流にある2か所の大難所のうちの一つがオシーノフスキィ難所と言って、ヴォーロゴヴォの60 キロ下流(つまり北)にある。難所の一部は両岸に絶壁がそびえるオシーノフスキィ・ショーキ(ショーキは絶壁の意)だが、ここで、毎春、南の下流から流れてきた氷塊が引っ掛かって渋滞するので、流れがせき止められ、数十キロ上流のヴォーロゴヴォ村まで洪水(流氷で埋まる)になる仕組みだ。そういう地形のせいか、オシーノフスキィ絶壁から上流にむけて川幅が非常に広くなったところがある。エニセイがこの流れをとるようになってから(つまり、今のようなシベリアができてから)毎年氷塊の渋滞が起きるからだろうか。そこには、50キロの長さにわたって、川幅が20キロ近くにもなり、大小の中洲が70個以上もあるというヴォーロゴヴォ『多島海』がひろがるのだ。だから、この辺の陸地は中洲なのか本当の川岸なのか、流れは側流・分流でまたエニセイに合流するのか、流れ込むだけの支流なのか、上空からでも見ないとわからないところだ。 ヴォーロゴヴォは川岸にあるようにみえるが、背後にエニセイの分流のシャール川がさらに何本にも分かれて流れたり行き止まりになったりしている。右岸(東側)の方ははエニセイ山地がせまっているので、分流がはびこっているのはウラル山地まで続くシベリヤ平原(湿原)の広がる左岸だけだ。本流より広い分流ザイムスカヤ川もある。ザイムスカヤ分流の右岸にインディギノ中洲があるから、インディギノ村は、ヴォーロゴヴォ村と同じように川岸にあるように見えて本当は中洲にある。ザイムスカヤ大分流やその支・分流、上シャール分流や下シャール分流などが網の目のようになっている。エニセイの川幅は本当の陸地の岸から測ることになるからここは確かに広い。川幅20キロもあり得る。 何十キロにもわたるヴォーロゴヴォ『多島海』(実は中洲の多い川)は絶好の漁場だそうだ。その中洲の一つマクラウソフ島(島とみんな呼ぶがもちろん中洲)にクーチン氏の漁場基地があると言う。 12時半、2台のランクルで出発したが、クーチン氏のスノーモビール『ヤマハ・ヴァイキング・プロフェッショナル』と橇だけをトレーラーに積んで出かけた。近いところだから遭難することもなくスノーモービルは1台でいいのだ。まずは、10キロほど下流のインディギノ村へ行く。2007年夏、アリョーシャのザスロン丸でボル村からエニセイスクまでクルーズした時、その当時は古儀式派のまさに『隠れ村』だと(私が勝手に)思ったインディギノ村へ寄ってもらったことがある。私とコックのオーリャとキャプティンが、本流を行くザスロン丸と別れ、モーターボートで複雑な分流を抜けて、たどり着いた。そこで、初めて古儀式派の家族と話し、何かと感心したものだ。そのあと私たちはまた船足の早いモーターボートに乗ってザスロン丸とヴォーロゴヴォ村近くで合流した。(もう3年前のことになる) その時は、夏に川岸からインディギノ村へ上がったのだが、今、冬に陸上から、近づいたインディギノ村は違う村のように見える。もっとも、エニセイ・クルーズで見るヴォーロゴヴォやヤールツェツェヴォも冬に陸上から来てみると違った印象だが。 クーチン氏は一軒の家の前庭に2台のランクルを止め、スノーモービルを下して準備する。そこはまたしても私たちのセルゲイの親せきの古儀式派の家で、ここにランクルを預け、セルゲイは防寒具をさらに身につけた。クーチン氏運転のヤマハの後ろシートには私が乗り、スノーモビールが曳く橇にはアリョーシャとリョーハとセルゲイが座り、マクラウソフ島(実は中州)に出発した。エニセイ川船舶会社の船などは寄港しないので船着き場のないインディギノ村は、どこからが川でどこまでが岸かわからない。 クーチン氏のヤマハ・ヴァイキングは大きくて安定していて乗り心地もアリョーシャのより快適だったが、風を切って走るので寒いことには変わりはない。足元は分流が流れている氷原を走っているのだが、遠くや近くに枯れた灌木や小さな雪山が見える。そんな『多島海』地域や、雪の他には何も見えない氷原地域などを20分ほど進むとマクラウソフ(正式なエニセイ川航行図では『下ヴィゴフ島』)に着く。どこからが島でどこまでが分流かもわからない。木が生えているところは陸地(中州)だろう。 やがて、かなり木の生えたほとんど林のようなところ(だから、確かに陸地)に建つ新しい大きめの木造の平屋の前で、スノーモビールが止まった。ここがクーチン氏の漁業基地だ。この建物も屋根の下は半分が住居空間で、残り半分が物置だ。物置側の天井には住居からの暖房が伝わるせいか氷の粒が這っていた。 到着すると、リョーハは薪を割り、クーチン氏は自家発電機に燃料を入れた。住居部分は広めのLDKで、地元の木材で作った2段ベッドと長いす2脚がある。4,5人は楽に寝泊まりできる。常駐ではない作業小屋だが、ペチカの他に煮たき用のコンロもあり、キッチンコーナーは定住の古儀式派の家より設備が揃っているくらいだ。クーチン氏はジャガイモの皮をむいてスープを作り始めた。アリョーシャはこんなところまできてパソコンゲームをやり始めた。セルゲイが最近買ったパソコンに面白いゲームを入れたそうだ。撃ったり撃たれたりのゲームで、クーチン氏によれば、アリョーシャはまだ若いのでこんなゲームに夢中になれるのだそうだ、自分はもう年なのでやる気は起こらないが、と言う。 家の外にはパラボラ・アンテナがあって、テレビ放送も受信できる。その横の高い棒の先にもアンテナが付いていて、ヴォーロゴヴォのクーチン氏の家と無線電話ができるらしい。外に出ると2匹の犬が寄って来た。かわいい犬だが私の胸もとに足をかけると背が同じくらいになる。しつこく寄ってきて、何だかちょっと怖い。プーチン氏が棒きれで叩くとおとなしくなるよ、と教えてくれる。そんな怖いこと、もっとできないと思ったが、蒔用の細枝を持って外に出るだけで、その犬たちは寄って来ない。ご主人の知り合いが手に何を持っているかちゃんと見ているのだ。i犬は寄ってきても、私がその細枝で雪の地面をぴしゃりと叩くとすぐ離れていく。やっと、愛想は良くても他人の犬に悩まされることなく、マクラウソフ基地の周りを散歩できた。 どこにも漁をしている様子はない。いったいどこで、長い長い網に何トンもの魚が掛かっているのだろう。マクラウソフ島の周りを流れる分流(エニセイ川航行指示書の詳細地図によるとホベイスカヤ分流とパンテレフスカヤ分流)で氷に穴を掘って網を沈めて採っているのだ。その現場を見にきたのに。 ぜひとも見たい、と私が頼んだので、サンダクチェス村出身のセルゲイが運転するスノーモビールに乗って見に行くことになった。クーチン氏はスープを作っているし、アリョーシャはゲームをして、リョーハは薪割りをしている。クーチン氏がセルゲイに運転の仕方と場所を教え、アリョーシャが私たちの写真を撮って見送ってくれた。 地元民のセリョージャでも、この目印の少ない氷上で場所はなかなか見つけられなかった。陸地だか水上だかあちらこちらぐるぐる回って、白い雪と青い空、丸くて黄色でちっとも眩しくない低い太陽の下、毛皮の帽子のふさふさの毛が目に落ちてこないよう上手にかぶって、使い捨て不職布マスクを風よけにはめて、もうスノーモビールに慣れていたので、十分ドライブを楽しんだころ、やっと雪穴の中でシャベルを持っている男性に出会った。 その男性の指さす方を見ると、同じような雪の穴に人影が立っている。この辺はクーチン氏の漁場で、みんなクーチン氏に雇われているのだろう。初めの男性が指さした穴へ行ってみた。ここでは今ちょうど網をあげているので採れた魚が見られると教えてくれた。 雪をかきわけて開けた直径2メートルくらいの窪みの中に、さらに50センチほどの本当の穴があいていて、そこからはエニセイの川が見える。と言っても上の氷を割られて開けられた小さな川面は周りが零下の気温のため絶えず凍りつこうとするので、シャベルで薄氷をすくい上げなければならないが、その50センチだけは周りの白い雪と違って緑色をしている。すくいあげないとすぐ氷が張って周りと同じ白色になってしまう。そうして凍りついてしまうと網は引きあげられないのか、絶えず薄氷をすくっている。 一つの穴では網を上げていた。ひとすくい上げるごとに数匹の魚が零下何十度もの地上に引っ張り出され、網から外されて雪の上に投げ出される。漁師さんは分厚い手袋で網から魚をはずし、雪の上に投げ出すと、すぐまたひとすくいして魚のひっかかっている網を持ち上げる。エニセイの流れの水中なら零下にならないが、地上に上げられると、魚たちはたちまち凍死してしまう。50センチ以上もあるようなカワカマスだと数秒ぐらいはばたついていたが、20センチくらいの(たぶん)カワスズキは氷上に到着すると同時に動かなくなっていた。 穴の横の氷の上には、網から外されて下げられた鰭の赤いオークニ(スズキ目ペルカ科パーチ)がどっさりつみあげられていた。たっぷり陸揚げ(雪揚げ)すると大きなポリ袋に入れ、ほろ付きそりに乗せる。ほろの中をのぞいてみると、魚の詰まった大きなポリ袋や、違う種類なので袋詰めにしないで並べてある大きなカワカマスや、氷穴から薄氷をすくいだす柄の長いシャベルやアイスピッケルのような道具類などがあった。このほろ付きそりは、氷穴から別の氷穴へと回って収穫物を集めているのだ。後でクーチン氏に聞いたところ、今の時期(やがて春分)では7時ごろ(その時間に薄暗くなる)、マクラウソフ島の基地に戻ってくるそうだ。 その運搬そりが次の氷穴に向かうと言うので、私もセルゲイ運転のスノーモビールに乗り、隣の穴まで後に続いた。そこでは、穴の薄氷をすくい上げて網を引き始めたばかりだ。ここでも私はカメラを構えて連写した。この寒さでも、『ソニー・サイバーショット』はシャッターが下りてくれた。ただ、電池の容量不足マークが早々と出るので、体の熱で暖めながら撮った。 絶えず氷が張ろうとする小さな丸い水面に中腰になって網を引きながら、引っ掛かっている魚を外し、横の雪上に投げている漁師さんを長い間撮っていた。ふとセルゲイを見ると、まじめな顔つきで私たちを見ている。クーチン氏やアリョーシャから頼まれてマクラウソフ島までやってきて、クーチン氏の居心地のいい暖かい基地から物好きな外国人を乗せて現場まで案内し、その物好きさんがせっせとカメラを撮っているのを、眺めているセルゲイだ。寡黙で、行こうと言えば行き、待ってほしいと言えば待ってくれる。彼の顔になんとなく私は見覚えがあった。 「前にお会いしたことがなかったでしょうか」と聞いたことがあったが、 「いいえ、あなたとは僕は初めてです」という答えだった。 氷の上にはそれでも30分ほどいた。もっといても良かったのだが、することもなさそうなセルゲイに悪いので 「もういいわ、ありがとう」と言って引き揚げた。来る時は迷いながら来たので、雪上を猛スピードだが20分も走ったが、帰りは、早かった。途中、一時停止してもらって雪景色を3枚撮った。 基地に帰るとクーチン氏のスープができていて、美味しく頂いた。魚の豊富なこの地で、魚のスープでなくて良かった。実は魚のスープ(ウハ―と言う)は苦手なのだ。 もうしばらく基地にいると、魚を満載したほろ付きそりが戻ってくるかもしれなかったが、6時過ぎに小屋を引き上げた。また、クーチン氏運転のスノーモビールの後部席に不職布マスクの私が座り、けん引されるそりにはアリョーシャとリョーハとセルゲイが座った。親切なクーチン氏は途中で一度撮影休憩を入れてくれた。カメラを私は懐に入れていたのでひもを手繰ってずるずると引っ張り出して4枚ほど貴重な写真を撮った。そこからはもう遠くにインディギノ村の明かりが見えていた。 インディギノ村のセルゲイの親せきの古儀式派の家に7時ごろ戻る。ここでランクルのトレーラーにスノーモビールを積み込む間、その古儀式派の家族が私に家の中で休んでいくようにと言ってくれた。その家には大きな祭壇があって、ろうそくをともして見せてくれた。壁一面に何枚もの聖人の絵(イコン)がかかっていて前のテーブルには古い聖書や燭台が乗せてある長いテーブルがあった。他人の信仰は尊敬しなければならない。この家の主人はその聖画に十字を切っていた。十字を切るときの指の合わせ方で改革派(ニーコン派)と古儀式派が違うので、その説明をしてくれた。この家にもっといて、この愛想のいい古儀式派の家族と話していたかったが、リョーハが何度も入ってきて準備ができたから出発だと言う。 ヴォーロゴヴォの家に戻るとクーチン夫人が台所でシカの腿から肉をそげ落としているところだった。半冷凍だが解けたところからは血が出ていた。9時ごろ、クーチン氏宅には男性の来客があって、シカ肉や生魚の夕食を食べていた。私も、少し食べた。 |
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ヴォーロゴヴォ出発、ノヴォナジーモヴォ経由エニセイスク、オーロラは見えなかったが… | ||||||||||||||||||||||||||||||
3月2日、9時頃の朝食にはヴォーロゴヴォの警察署からという制服の男性も同席していた。アリョーシャが言うには、ヴォーロゴヴォのような村では、クラスノヤルスク市のような都会と違い、ガソリン・スタンドに行ってお金を払えば給油してもらえるというわけにはいかない。政府機関からコネで分けてもらわなくてはならないそうだ。住人ならその地位と財政に応じて有料だか無料だかのルートもあるだろうと、これは私の推測。 朝食後アリョーシャ達は燃料調達とか言って消え、私はまた暇になったので玄関横の物置に山積みされている大きな穀物袋などの写真を撮っていた。 やっと出発。ヴォーロゴヴォ村からクラスノヤルスクへの帰り、青空の下、白い雪の上をひたすら走る。アリョーシャは時々止まって、ルーフに登って、ポリタンクを縛っているロープの点検などやっている。なんだか異音がするそうだ。ルーフに燃料入りポリタンクなんて、日本では絶対できない。
白くても眩しくはないシベリヤの冬道をランクルは進んで行った。来た時は夜道を進んだので何も見えなかったのだが、白昼、左に広いエニセイ川を見ながら踏み固められた冬道を進むのは気持ちがいい。3月とはいえ、まだまだ厳寒は続く。エニセイ河川運行用の蛍光塗料付き川岸標識のそばも通る。航行用標識が見えるところはエニセイの流れと冬道が接して続いているのだ。来るとき、闇の中で通り過ぎたゾッチナ村への分かれ道の標識も昼間の光ではっきり見えた。 スィム川を渡ってヤールツェヴォ村も通り過ぎる。道は川岸を通り、森を抜けて通じている。明るい時間だと長いドライブも気持ちがいい。エニセイの川面がそこだけ凍らず青い水の流れが見えるところもあった。零度以上の湧水が流れ込んでいるのだ。来る時にも見たが、温度差で霧が立ち込めていた。この日はそれほど気温が低くはなかったので青い水面も見れたのだ。また小さな村を通り過ぎ小さな川を横切って、来るときに一泊したノヴォナジーモヴォに着いた。 そこで、『ノヴォエニセイスク』材木コンビナートのノヴォナジーモヴォ支社の経営者パポフ氏の『仮住まい』で、私たちセルゲイも入れて4人は4時半になっていたが昼食を取った。アリョーシャが途中の携帯の通じる場所から連絡したので、用意しておいてくれたのだ。 昼食が終わると、私たちは先を急いだのだが、パポフ氏が途中の材木置き場に案内してくれた。地面にしっかり固定され巨大で腕の長いクレーンが、エニセイ川岸に備え付けてあり、川に沿って長々と百メートル以上にわたって、丸太が人の背の何倍も高く積み上げられている。冬の間、通行可能なエニセイ左岸の森林帯や湿地帯で伐採され、夏のエニセイ川運行シーズンにバージでレソシビルスクまで運ばれて加工される松だろう。有名なベニマツなんかもあるかもしれない。長さが揃って積み上げられている丸太とは別に、幹の先端まである長い木も横たわっていた。 ここから舗装道が始まるエニセイスク市まで冬道200キロほどだ。しばらくは雪原を走って行った。5時を過ぎると赤金色の入り日が始まる。高緯度地帯なので太陽は斜めにゆっくりと沈む。森の中に入ると、雪の積もった枝々の間から金色の入り日が見え、美しすぎて心が締め付けられる。6時半も過ぎると黄昏の中、雪は青白く見える。 途中でかなり急なカーブの続く冬道もあるのに、アリョーシャはスピードを落とさない。おまけに運転しながら長々と携帯をかけている。(ところどころ電波のつながる地域もあるのだ。私のMTS会社のシムカードでは、この辺は全くつながらない)。マニュアルのトランスミッションで片手運転、カーブの多いところでもかなりのスピード、たぶん60キロくらいで曲がろうとしてタイヤがちょっとスリップした。もちろん、何事もなかったが、携帯で(多分最近の愛人と)下らないことをいちゃいちゃと話しているアリョーシャもアリョーシャだ。このランクルが履いていたのはディーマが日本で買ったヨコハマ・タイヤだが、この際、メーカーには悪いが、 「ヨコハマ・タイヤは日本では人気はなく、品質は悪く、グリップ力はブリジストンほどではない」と、全くのでたらめを言って、何も知らない(日本国内の人気には詳しくないはずの)アリョーシャをけん制することにした。実は私のレガシーもヨコハマ・タイヤを履いていて、北陸の雪道を快適に走っているのだが。 こんなところで車が横転しても困るではないか。ルーフには危険物を積んでいることだし、事故が起きても誰も助けてはくれない。ゆっくり走ってほしいと横にいる私がしつこく言ったせいか、スピードを落としたので、後ろからついてきたセルゲイのランクルが抜いて行った。私は出発前に、私たちのランクルはヨコハマ・タイヤで、クーチン氏(今はセルゲイ運転)のランクルはブリジストンだと、ちゃんと見ておいたのだ。 やがて、もうじき冬道も終わりエニセイ街道に出ると言うところで、材木を積んだ大型トラックが脱輪している事故現場に行きあたった。脱輪しているだけではなく救助のクレーン車が到着して狭い道を一杯にふさいで積み荷ほどきの作業にかかったばかりだった。つまり、先を行くセルゲイのランクルは通り過ぎたが、ちょうど私たちの前でストップされてしまったのだ。 「ほら、タカコさん、あなたがゆっくり行って、ゆっくり行ってと言うから、スピードを(無駄に)落としたので、もう少しのところで足止めされてしまった。作業が終わって通れるようになるには何時間もかかるのですよ」とアリョーシャに文句を言われてしまった。しかし、帰りのハバロフスク向け飛行機はクラスノヤルスクを2日後に出発するから、私はちっとも急いではいない。こんな事故現場(脱輪は珍しくない)、というより事故処理現場に行きあたるとはラッキーだ。 リョーハによれば脱輪した大型トラックの運転手はヴォッカでも飲んでいたか居眠りでもしていたのだろう。こんな事故を起こして、確実に減給だと忌々しそうに言う。そんな大型トラックにこのランクルが当てられなくて良かった。道からはみ出して沼地にでも突っ込んだような傾いたトラックは、積み荷が重いので自力で這い上がることはできない。そこで、クレーン車が来て荷を軽くするために材木を下している。確かにこの暗闇で、もちろんクレーンの塔の先端には強烈な明かりがともっているが、かなりの時間は道をふさぐことだろう。すんでのところで通り過ぎることのできたブリジストンのランクルから、セルゲイがわざわざ戻ってきて、私たちのランクルに座って待つことになった。 通行量の少ない夜間の冬道でも、エニセイスク市付近まで来ると、車はやや多くなるのか、私たちの後ろに数台の車の列ができた。たいていの車からは髭を生やした古儀式派信徒が降りてきて脱輪とクレーン作業現場を見に来る。リョーハが 「当分は暇だから彼らの誰かと話でもしてきたら」と、言う。アレクサンドル・シュルース村などで未知の古儀式派の人に大胆に話しかけてきた私を、ちょっと皮肉ったような言い方だったので、そうはしなかった。が、ランクルから出て、クレーン車から離れると周りは暗闇、空は晴れていて星々が文字通り宝石箱をひっくり返したかのように輝いている。あまりにも美しく明るいので写真に撮って保存しておこうと思ったくらいだ。見えるように撮れるかとシャッターを押してしまったが、もちろん何にも写っていない。 アリョーシャのランクルに戻って 「星空を見ていたの、美しかったわ」と、うっとりした口調で言うと、 「こんな場所の星空なんか、たいしたことない、自分はもっとずっと北の星空も見たし、オーロラなんかも飽きるほど見た」と言われる。北極海のカラ海への出口のエニセイ湾の南端(北緯70度)のカラウル村まで、アリョーシャは仕事で何度も往復しているから、オーロラなんて珍しくもないだろうが、北緯59度のエニセイスク市北の星空だって、そりゃあきれいだった。 通行止めは1時間程度だった。クレーン車が作業を中断して、たまった車を通りぬけさせてくれたのだ。その後、また再開するのだろうが、私たちはクレーン車の横の狭い冬道を通りぬけ、エニセイスク市へと続く街道を走った。もう11時近くで、この日にクラスノヤルスクに戻るのは難しそうだった。 |
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『シベリアの町や村の父』エニセイスク市 | ||||||||||||||||||||||||||||||
だから、エニセイスク市で1泊することになった。 「泊まるところはあるの」と聞くと、 「ごまんとある」とのこと。この深夜、そのうちの一軒に向かった。パーシャの家だと言う。家に入るとすぐ、私に寝床を作ってくれたのは『わが愛する妻』と紹介されたニーナさんだったが、そう言った男性、つまりパーシャに見覚えがある。2007年夏、密漁監視船ザスロン号でボル町からエニセイスクまでクルーズしていた時の5人の乗組員の一人だった。そう言えば、彼は自分の家があるからと言ってエニセイスクで下船した。また、翌2008年夏、アリョーシャの持ち船ピューマ号でボル町からパドカーメンナヤ・トゥングースカ川へ航行した時、4人の乗組員はみんな二日酔いで苦しんでいた(喜んでいた)が、そのうちの一人もパーシャだった。 しかし、この日のパーシャは素面で、エニセイスクの堅実な2部屋アパートに妻と一緒に暮らしていた。家に帰りつけない私とリョーハを自分の家に泊めてくれ夜食も出し、リョーハにはヴォッカも勧めている。一方、アリョーシャとセルゲイは、パーシャの家は狭いとかいうので別の友達の家に泊まった。 親切なパーシャ夫妻に大感謝だった。ニーナさんによるとパーシャはトムスク州のケッチ川(オビ川右岸支流)ほとりの古儀式派村アイダラ出身(地図)だと言う。つまり、パーシャは古儀式派信者だと、ニーナさんが説明してくれた。アイダラ村は地図で見るとオビ川右岸支流のケッチ川がオビ川に合流する地点より700キロほどの上流にある。ケッチ川の600キロ上流の支流ロモヴァタヤ川を、エニセイの支流カス川につなげてオビ・エニセイ運河ができたのだった。
(追記) アイダラ村などケッチ川に沿ったお互いに500キロは離れた5つの村をまとめてマコフスコエ農村ソヴィット(全部で359人)としてエニセイスク区内ある。マコフスコエ村はエニセイスク市までの距離が102キロと近い。 ネットで調べてみると、オビ川支流ケッチ川上流のマコフスコエ村は、エニセイ川のエニセイスク柵(エニセイスク市の前身)より古くにできたコサックの越冬地だった。 西のオビ水系からエニセイ・アンガラ水系へ出るには、オビ川東支流から、エニセイ川西支流に乗り移らなくてはならない。そのための陸路をヴォーロク(連水陸路)と言った。水系の異なる2河川を結ぶ陸路・ヴォーログを、荷物を積んだ船ごと引きずったのだ。マコフスコエ越冬地は主要商業(当時のシベリア侵略用の)河川オビ川水系のケッチ川の上流にあり、ここからやはり主要商業(同上)河川路のエニセイ川水系のケミ川にヴォロチーチ(引きずる)したのだ。マコフスコエ柵からマコフスコエ・ヴォーロクを通って、エニセイ川に出て、エニセイスク柵を作ったのだ。西シベリヤの中心トボリスクやトムスクから、東シベリヤの中心エニセイスクやイルクーツクへ出るときは、18世紀後半のシベリヤ街道ができるまでは、必ずこのマコフスコエ・ヴォーロクを通った。 オビ水系からエニセイ水系へのヴォーログはいくつかあったが、ケッチ川とカス川を結ぶヴォーログが最も条件が良かったのか、19世紀末にオビ・エニセイ運河ができた。(前記のように、ほとんど使用されることはなかったが) シベリヤ街道ができてからはヴォーログを通らなくなる。さらに、シベリヤ幹線鉄道が開通した頃には、ヴォーロクは忘れ去られ、オビ川右岸支流とエニセイ左岸支流のケッチ川やカス川、スイム川やドゥブチェス川上流の湿地地帯には、古儀式派の『隠れ村』が多くでき、現在でも彼らが住んでいるのは、今まで見てきたとおりだ。『文明地』からの交通はヘリコプターか、小舟または徒歩しかない。オビ・エニセイ運河のアレクサンドルスキィ・シュルース村などのように、冬道の支線が通じているところもある。ドゥブチェクのサンダクチェス村のように、スノーモ―ビルなら通れるくらいの道をつけたところもある。 パーシャの故郷アイダラ村は、マコフスコエ村より500キロものケッチ川下流にあって、トムスク州との境に近い。一方、パーシャの妻のニ―ナさんはカザフスタン出身だそうだ。 (*) かってのマコフスコエ柵 は、スターリン時代『富農』の流刑地の一つだった。1930年2月3月に694名の富農が送られてきた、と記録がある。エニセイスクに1泊することになった以上は、次の日、クラスノヤルスクへ向けての出発までの間、エニセイスク見物をすることにした。パーシャが車を出してくれたので街中を回ってみた。といっても車で回るほどのこともなく、1619年創設と言う町の中心は、エニセイ川に平行な2キロ弱の(もちろんその名も)レーニン通り、(革命前は『ボリシャヤ』、つまり『大』通り)や、それに平行で、レーニン通りと同様にロシアの地名の定番のキーロヴァ通り、(旧名はケードル・シベリア松通り)、それと平行にウスペンスキィ教会から通りが始まっているのでウスペンスカヤ通り(革命後は『労働者と農民』通り)などの、20世紀のソ連大発展の波から外れてしまった街並みを一回りした。名前だけはソ連風だった。 人口2万人弱のエニセイスク市はクラスノヤルスク市から337キロという近場で、舗装されたエニセイスク街道もあるので、何度か訪れている。郷土博物館に入ったのは15年ほど前で、それ以後は来るたびに閉館だった。今回、パーシャとリョーハをお共に、ガイドも頼んで2時間近くかけてゆっくり見物できた。 エニセイスク市は、前記のように、1619年、オビ川の西イルティッシュ川沿いの当時西シベリヤの拠点だったトボリスク柵からオビ川、ケッチ川と進んで来たコサックが、エニセイ川沿岸まで来て築いたトゥングース(当時はエヴェンキヤ人こう呼んだ)柵がはじめだった。その頃は柵に囲まれ外敵の攻撃に備えた町であったのが、のちに城塞都市になり、東シベリヤへの大動脈エニセイのアンガラ川河口近くという有利な位置のため、エニセイスク柵(旧トゥングース柵)は急速に発展し、東シベリヤの先住民から集めた税(毛皮)がモスクワに向かう通過点でもあり、エニセイ地域の行政中心地になった。ここから南進と東進したコサックたちが、イルクーツクやヤクーツク、ネルチンスクなどの東シベリヤの柵を作った。 17世紀後半には中央シベリヤで一番の商業、手工業(鍛冶)や農業の中心になり、人口も3000人のエニセイスク市はアムール川の上流支流地帯まで管轄下においた。つまり、エニセイ県の県庁所在地エニセイスクは東シベリヤの商業中心都市、モスクワからの統治拠点都市として最も栄え、修道院や教会、大聖堂、石造りの屋内市場なども建てられ賑わったが、18世紀後半には、モスクワからの陸上シベリヤ街道が南のクラスノヤルスクを通って伸びてきたため、中継商業地としての重要さは失っていった。しかし、文化的にはシベリヤの中心都市であり、教会が建てられ、教会付属学校が建てられ、シベリヤ聖画技術もみがかれた。 19世紀半ば、エニセイ県で金が発見されると、ゴールドラッシュの中心になる。当時帝国で産出された金の3分の1がエニセイスク県で採れたものだった。しかし、19世紀後半には産出量も落ち、シベリヤ幹線鉄道が、クラスノヤルスクを通って敷設されると、エニセイスク市の経済的位置は完全に落ち、20世紀初めには人口も最盛期の11万人から7千人に減った。 と言うエニセイスク市だ。 郷土博物館になっているのは1898年建立の元豪商の邸宅と言う由緒ある建物だった。ここでも一応、先史時代から始まり、シベリヤ『開拓時代』先住民エヴェンキヤ(前記のように、昔はトゥングース人と言った)人の道具、革命前も革命後も、ここは流刑の地であったので、その展示物、特に、1940年代、ここへはヴォルガ流域の旧ドイツ人自治区からの緊急流刑者が多かったとかで、詳しい展示コーナーがあった。また、エニセイスク市は北方探検の基地でもあったので、カムチャッカ探検をしてベーリング海峡と名の残るベーリングや、北極探検のナンセンも訪れている。エニセイ河川運行の基地でもあった。その歴史も良くわかるように展示してあった。『大祖国戦争』関連のコーナーのない博物館はないが、博物館側としても、趣向を凝らさないとならないので大変だ。ハバロフスクのオーソドックスに比べ、こちらはシュールだった。 2時間近くかけてゆっくり見て、書籍部ではどっさり本を買ってから、さらに別の展示物があるという土産物店に行ったが、特に目新しいものはなかった。 再建中の教会や、船着き場を見て、1時半ごろ、パーシャとニーナさんに厚くお礼を言って、エニセイスクを引き上げた。帰りのランクルの後部座席には町の女の子が二人乗りこんできた。後でわかったことだが、アリョーシャがこの日泊まった家の知り合いから、乗せてやってほしいと頼まれたそうだ。彼女たちは、クラスノヤルスクの知り合いが経営する店で働くことになるので、送り届けてほしいのだとか。そういうわけで、エニセイクスからクラスノヤルスクまでその女の子がずっと後ろに乗っていた。途中のレソシビルスクでは、来るときにお昼をごちそうになったシュメーツ交通警察署長の職場にも寄って来た。二人の女の子はその間ずっと車の中でリョーハと待っていた。 アリョーシャの教父だという、内務省レソシビルスク署長で大佐セルゲイ・チェルカーシンという地元の名士の執務室に寄ってご挨拶もした。日本から来たと、アリョーシャが紹介すると、署長は愛想よく千島列島南部のことを話題に挙げる。実は、これは、私がちょっと試してみたいロシア人にぶつけてみる話題なのだが。たまには、こんな風に私が答えさせられることもある。 レソシビルスクを出たのは4時頃、6時頃には平原に沈む金色の太陽を見ながら、7時過ぎ、クラスノヤルスクに戻った。 |
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クラスノヤルスク、ハバロフスク、帰国 | ||||||||||||||||||||||||||||||
翌3月4日は、前からゆっくり見たいと思っていたクラスノヤルスク博物館を訪れ、見落としがないようにたっぷり写真を撮った。南シベリアの青銅器時代などの考古学コーナーは、昔から私の好きなところで、今まで撮った写真も多い。宗教(ロシア正教のみ)に関する立派なホールもある。
新しいのは2008年完成のエニセイ川の『迂回橋(非公式にはプーチン橋と言う)』コーナーだ。パネルの右半分はヘルメットをかぶった労働者と建設中の橋とエニセイ川、左には当時の大統領(プーチン)と語る当時のフロポーニン・クラスノヤルスク地方知事の写真があり、その上にはエニセイスクとクラスノヤルスク教区のアントーニィ大主教の正装姿の写真もある。宗教と政治の関係が深く、ロシア人は信仰に厚い(確かフロポーニンはユダヤ教だが)。 ソ連崩壊後の混乱から20年もたって、シベリアはまた開発されつつある。貧しかった村が復興すると必ず教会を立てる。一方、シベリアの奥地では、必ず出会う古儀式派の村々。 村の学校も復興している。パラボナアンテナからパソコンルーム、必ず飾ってある政府首脳の肖像写真。どこの郷土博物館にもある『大祖国戦争』コーナー。 今回、凍りついた川と深く積もった雪、暗い針葉樹林のシベリアの自然に触れるために出かけたのだが、ロシア帝国のシベリア進出(植民地化、開発)の歴史や、今のシベリアの宗教を見ることになった。 その日の夜遅く、と言うより3月5日の早朝2時半にクラスノヤルスクを発ち、時差3時間のハバロフスクへ9時半に着き、空港で時間を潰して、午後3時に新潟へ向けて離陸した。ハバロフスクの待ち合わせが90分と言うぴったりの便もあるが、今回の旅は行きも帰りも余裕をもった時間を選んだのだ。 |
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