クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 12 September, 2010 (校正2010年10月19日、12年4月18日)
冬のシベリア、氷のエニセイ川とアンガラ川
(5)スイム川の古いヤールツェヴォ村と新しいマイスコエ村
           2009年2月15日から3月5日(のうちの2月25日

На зимнике в глушь Ангары и Енисея( 15.02.2010-05.03.2010 )

アンガラ川へ エニセイ川へ
(1) ハバロフスクからクラスノヤルスク (4) エニセイ街道を北上、レソシビリスク市
アンガラ川へ出発 新ナジーモヴォ村泊
アンガラ松のグレムーチィ村 悲劇のオビ・エニセイ運河
(2) アンガラ川中流、水没のケジマ区 運河跡のアレクサンドル・シュルーズ村
アンガラの支流チャドベツ川の密漁 運河跡の『名無し』村
アンガラ北岸の僻地、古い歴史のヤルキノ村 (5) 1605年からのヤールツェヴォ村
(3) アンガラ下流の先住民、バグチャニ区のバグチャニ村 ケット語のスィム川にできた新しいメーデー村
アンガラ針葉樹林帯を下流へ リョーハの銃
『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村 (6) この旅の目的地ヴォーログヴォ村、村の歴史
モティギノ町、郷土博物館その2 古儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス村
エニセイを渡ってクラスノヤルスクへ (7) ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地
クラスノヤルスクで 帰りの冬道、オーロラは見えなかったが
地図 アンガラ川下流 ロシア帝国のシベリア『開拓』地図
ヴォーログヴォ『多島海』地図 エニセイ中流地図
シベリアの町々の父エニセイスク市
帰国

 古くからのヤールツェヴォ村
 ヴォーログヴォまで行くのは遠すぎる。深夜着いたアリョーの知り合いの家はヴォーログヴォまでまだ100キロのヤールツェヴォ村にある。その知り合いのサーシャ家も大変だ。夜中の2時に男女の客が3人も来たのだから。夕食を出して寝床を作ってあげなくてはならない。女性の私がいるから一緒な部屋と言うわけにもいかない。私は、グレムーチィ村のキースティン家のときのようにこの家の子供の部屋に寝ることになった。
ロシア帝国のシベリア『開拓』拡大図
ヤールツェヴォ村
村の教会
白一色のエニセイ川の畔に村がある

 朝になってヤールツェヴォと言う村について知りたいと言ってみると、この家の奥さんが最近発行されたらしい『ヤールツェヴォへ挨拶を』というカラー版の分厚い本を出してくれた。ヤールツェヴォ出身者たちの作文集で、出版部数の少ない非売品のようなものだと思う。『祖父母の思い出』系、『祖父母から聞いた話』系などの他、『第2次大戦(大祖国戦争)従軍物語』系、戦争『英雄』物語系は必ずこの種の文集には入っている。関係者にだけ配られたようなこの種の本は、今を外せば見つけることもできないと思ったので、後々の参考になりそうなページを(村のコンビニにコピー機があるはずもないので)写真に撮っておいた。ヤールツェヴォの歴史をこの本の手記やサイトの他の資料からまとめると次のようになる。
 ヤールツェヴも他のシベリヤの古い集落と同様、コザック前哨隊の作った古いジモーヴィエ(越冬小屋)から始まっている。ヤールツェヴォというコザック隊長が、『シベリヤの新天地』を求めて、オビ川の東支流のケッチ川から、沼地、湿地帯を超えてカス川に出(19世紀末のオビ・エニセイ運河と同じコースだ)、カス川を通じてエニセイに出て、エニセイを数露里下ったところに、1605年ジモーヴィエ(越冬小屋)を建てたそうだ。別説によると、あるロシア人猟師が獲物を追って、森の中を進み、名も知らない幾つもの川を渡ってたどり着いたエニセイ川岸のヤール(切り立った岸壁)に冬越小屋を建てたのが、のちにヤールツェヴォ・ザイムカ(ザイムカは未開墾地『自由地』をはじめに開墾した移住者の占拠地、部落)に成長し、さらにヤールツェヴォ村になった、というものだ。つまりコザック前哨隊や猟師たちの仮宿泊所としてできた一連のジモーヴィエ(越冬地)の一つなのだ。
 当時、イルティッシュ川からオビ川に来たコザック隊や猟師たちはオビ川の右岸支流のケッチ川を上ってエニセイ川の左岸支流に出ると言うのが主要なコースだった。

 古くは、すでに15世紀末に白海から北極海(の一部のカラ海)のヤマロ半島を回りオビ湾のタス川河口に入るというコースもあった。そのタス川に1601年にはマンガゼヤと言う『城塞都市』ができ、シベリヤ産物交易で大いににぎわった。北周りのマンガゼヤ・コースはその後さびれ、東シベリヤへ出るには、オビ川からケッチ川を通ってエニセイの左岸支流に出るほうのコースが主流になった。
当サイトの(6)のヴォーロゴヴォの項参照
 こうしてエニセイ沿岸では最も古いロシア人集落の一つとしてヤールツェヴォ柵はシベリヤ進出の拠点となった。エロフェイ・ハバロフ(ハバロフスク市の名前はここから)も極東探検隊をヤールツェヴォ村で募ったと書いてある。また、ピョートル大帝時代シベリヤの『学問的探検家』で、ハカシア・ミヌジンスク盆地のタガール人のクルガン(古墳)を初めて科学的に発掘したドイツ人の『お抱え学者』のメッセルシュミットも、ここで探検隊員を募ったそうだ(当サイト『南シベリアの古代文明の中心』の『エニセイ文字発見記念』参照)。一方、革命前もスターリン時代も流刑地の一つだったことではヤールツェヴォはシベリヤの他の村々と同じだ。また、北のノリリスク鉱山が開かれた時は資材や食料の供給源の一つと言う重要な役割も果たしたそうだ。

(追記) オビ・エニセイ運河へ行く途中にのカス川の元ガラドク・ラーゲリ(矯正収容所)は、1929年から1960年まであった『特別収容所シベリア管理局СИБУЛОН』のラーゲリ群のひとつだったが、ヤールツェヴォ・ラーゲリは、エニセイ左岸の大支部だった。各ラーゲリには500から1000人収容されていて、主に林業に従事させられていたそうだ。
http://www.memorial.krsk.ru


 ケット語のスィム川にできた新しいメーデー村
 この日2月25日(木)9時半、私たち3人と、たぶん案内をしてもらうためにこの家の主人のサーシャの4人で、エニセイ左岸支流スィム川上流に向けて出発した。スィム川はエニセイとオビの間の平坦な湿地地帯を694キロも流れてヤールツェヴォ村の少し下流でエニセイに注ぐ。上流はアリシム沼やヴァンジリ沼の大湿地帯で、その西はオビ川流域になっている。
 日本出発前からの予定でも、行き先はアンガラ川、エニセイ、スィム川、ドゥプ゙チェス川となっていた。ちなみに、カス川の、オビ・エニセイ運河跡訪問は予定外の飛び入りだ。
 スィム川はクラスノヤルスクより694キロ下流でエニセイに合流する。合流点から上流218キロのスィム村まで航行はできることになっている。スィム村はスィム農業ソヴィエトの中心(ここしかない)で人口149人と、クラスノヤルスク地方庁公式サイトに出ている。さらに100キロも上流にはスタラ(旧)ヴェドーフスキィ(信仰)村が地図には載っているが無人と書いてある。オビ川とエニセイ川の間の人里離れた地方には、1930年代、ソ連政権の集団農業政策から逃れてきた古儀式派の修道院(共同生活)村がたくさんある。彼らは、オビ川西のトムスク州に18・19世紀、ヨーロッパロシアから逃れてきた古儀式派たちの子孫だ。オビ・エニセイ運河管理村(スタン)跡のアレクサンドルスキィ・シュルーズの古儀式派の人々も、その一波だ。後で行くことになったドゥブチェス川上流の修道院(隠舎)村は最も大きいと言われている。
 ヤールツェヴォ村を出るとエニセイに沿ってスィム川の河口まで下り、スィム川をいったん渡ると同川の左岸にできている冬道を通って、上流へ向かう。スィム村まで航行すると218キロだが、冬道に立っていた標識では140キロだった。スィム川は蛇行して流れるが、冬道は比較的直線なのだろう。スィム村までは行かない、もっと近くの54キロのマイスコエ村まで行くという。ここまでもスィム川で航行すると91キロだ。
 スィム川左岸にできた冬道を私たちは進んだ。左に白い雪原のスイム川が時々見える。クラスノヤルスク地名由来辞典によると、スィムと言うのはエニセイ語族ケット語で『黒い水』という意味だそうだが。
 冬道は林道をもとにできているのだろう。そして、林道はその道に沿って原生林を伐採しながら進んで行ったに違いない。同乗のヤールツェヴォ人サーシャの言うには、この辺は10年程前に伐採されて、今見えるのは自生の若い木ばかりだそうだ
スィム川(拡大図
マイスコエの丸太選別用ベルトコンベア小屋
学校のホールにある展示
パスポートを改める校長と事務の女性
家庭科のリューバ先生
ごつい車輪のトラクター

 途中、スィム川に流れ込む支流の上をいくつも通り過ぎた。小さな川でもその前には、一応、川の名前を書いた標識と川幅を示す赤黒縞模様の棒が立っている。いくつもの支流の中で、ルンチェス川と言うのもあった。これから『チェス』で終わる地名が多くなる。「アス」「セス」「セト」「チェス」「テス」と付くのはケット語で『川』という意味だそうだ。方言によって少しずつ違ってきたり、ロシア人に話されて音がずれたりするが、これらはすべて、ロシア人やその前のトゥングース人(エヴェンキ人、エヴェンキヤ人)が来る前、エニセイ川流域に広くに住んでいたケット語由来だ。今ケット人は超少数民族でエニセイ左岸支流のエログイ川中流や、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川のスロマイ村などに主に住んでいて、1429人(2002年)しかいないが、18,19世紀まではケット語や、コット語、アリン語などのエニセイ語族の話し手はエニセイ川中流とその支流に広く住んでいた。だが周りの民族に吸収されてしまい、北のケット語族だけが現在まで言語を保存しているそうだ。ケット語(エニセイ語)由来の地名は、エニセイ流域では南のハカシアから北のトウングースカ川まである。
 地図で見るスィム川支流にも『チェス』で終わる地名がいくつもある。(ディルチェス、トゥビンチェス、トッチェス、サルゼスなど)
 しかし、マイスコエ村は、その名前からして、ロシア人が1960年代に作った村で、スィム川流域材木集散基地として特別に作られたようだ。『マイ(5月、つまりメーデー)』から来た命名だ。クラスノヤルスク地方庁公式サイトには人口762人とある。夏場はもっと人口が増えるのかもしれない。丸太選別と筏組みの作業員が住むための集落だ。アンガラ川岸のオルジョニキーゼ村やエニセイ岸のノヴォナジーモヴォと違って丸太をバージ船(曳き船、はしけ)でレソシビルスクの製材工場まで運ばないらしい。スィム川はバージ船運行も難しいのかもしれない。昔からの筏流らしい。だから川岸にはクレーンもなく、筏に組むため形の揃った丸太が平らに置いてあるだけだった。オルジョニキーゼやノヴォナジーモヴォでは夏場にバージ船が航行して運び去るまで10メートル、20メートルという高さまで巨大クレーンで積み上げてあったが。
 ここでは、スィム川近くに屋根だけのベルト・コンベヤ小屋があり、コンベアで丸太を流し、選別してコンベアから落とせば、丸太は転がって行って横並びになる。その作業を、車から降りて眺めていると、私の方向にも丸太が転がって来たのでびっくりした。近づきすぎたとアリョーシャに叱られた。
 人口もそこそこにある村なので、教会もそろそろ建てなくてはならない、と住民は思ってか、未完の小さな教会が雪の中に立っていた。この歴史が超浅い村で、未完の教会の他に何を見たいのかと尋ねられても困るのだ。いつものように「学校が見られたらいいのだけど」とアリョーシャに言ってみた。通行人に学校のある場所を聞いて、マイスコエ村『学校通り1番地』という住所の『マイスコエ村普通学校』に入る。今回も私の付き添いはリョーハでアリョーシャたちは車の番だ。
 田舎によくある木造の学校で、目立つのはやはり暖房設備だが、玄関ホールの高い所にちゃんと正面を向いたプーチン首相と、やや横向きで首相の方を向いたメドヴェージェフ大統領のおなじみの写真が掲げられ、その横にはロシア連邦紋章の双頭の鷲、さらに国旗もあって、政府首脳陣の写真とで三位一体のように飾られている。その下の掲示板には『戦争と勝利によって』などというスローガンと写真や説明文が貼ってあり、台の上にはその関係の書籍が並べてある。下の床には緑の葉がついた植木鉢が置かれている。アレクサンドルスキィ・シュルーズ村のおばあさんの家で見た古儀式(旧教義)派の祭壇とスタイルが似ていないこともない。
 玄関ホールの別の壁には時間割や、お知らせなどが貼ってある。
 玄関横のクロークに座っているおばさんに
「自分たちは旅行中に、ここに立ち寄った。この人(私)は日本から来た(元)教師である。だからあなた方の学校を見物したいと言っているが、よろしいか」とリョーハがいつもの口上を述べてくれた。教育委員会からの派遣でもなく、たとえ飛び入りでもこんなに遠くからきたのだから、断られるということはない。校長が現れるまで、撮影禁止でもないだろうからホールや生徒たちの写真を撮っていた。
 校長はめずらしく男性だった。来校者名簿に名前を書いてくださいと言う。一応パスポートも見せてくださいと言う
テロリストっていうこともありますから」だそうだ。私とリョーハは異議なくパスポートを見せた。学校の事務の人も日本のパスポートを覗き込んでいた。
 校長によると学校に生徒は60名、教員は男性が3名、女性が8名と言う。今一番の問題は校舎の改築だそうだ。
 たまたま入って来た家庭科の先生が、自分の教室を見せてあげようと言う。リューバ先生と言って50代、感じのいい女性だった。家庭科教室は今は懐かしい手動ミシンが数台並んでいて、糸の通し方を描いた大きな説明図も黒板の横に張ってある。ブラザーの電動ミシンも1台だけ、棚に鍵をかけて入れてあるのを見せてくれた。今、リューバ先生は空き時間だが20分後に授業が始まる。御希望なら参観くださいと言ってくれた。ここで参観し、中学生くらいの女の子(男生徒は技術科、女生徒は家庭科、ロシアでは男女別修)と、少し話せばよかったのだが、途中で出て行ったリョーハが、早く引き上げようと私をせかせに何度ももどってきていた。
 だから1時間半ぐらいで、学校を引き上げた。マイスコエ村も引き上げ、元来た道を戻った。途中、直径が1メートル半、幅が50センチもありそうなごつい車輪のトレラクターを見かけ、こんな巨大な車を使うなんて、さすが難路のシベリヤと感心して写真に撮った。
「こんなだったら、夏でも走れるでしょう」とアリョーシャに言うと
「ダメだ」そうだ。なぜなら、シベリヤの夏は泥道などではなくて、湿原、一面の湖沼地帯なので、沼に溺れてしまうからだ。つまりシベリヤの大地と普通には言っているが、正しくはシベリヤの『大沼』と言うべきで、ところどころにかわいた島があると言うことなのか。
 
 リョーハの銃
 アリョーシャもリョーハもサーシャも、獲物はいないかと走るランクルから見張っていたようだが、見つからない。それでも、途中で車を止めて、射撃訓練でもすることにしたらしい。数10メートル離れた小川の道路標識めがけて銃で撃ち始めた。銃なんて、もちろん、私には抵抗はあるが、リョーハには自慢のものらしい。一応、お世辞で聞いてみると、イジェフスクと言う散弾銃だそうだ。これは帰国後サイトで調べたところ、ヴォルガ中流のウドムルト共和国(と言う自治体、フィン系のウドムルト人は3割で6割以上はロシア人)の行政中心市イジェフスク市のイジェフスク(英語でイズマッシュ)社の機械製作工場でできたので、『イズマッシュ・サイガ12』とか『イズマッシュ・サイガ20』とか言われているらしい。世界三大ライフルとして呼称される『AK-47自動小銃カラシニコフ47』の系列をくむものだそうだ。
アリョーシャは遠くの道路標識を狙ったそうだ

 横で聞いていたアリョーシャが、自分はもっとランクの上のものを持っていると言う。思い出した。2008年にパドカーメンナヤ・トゥングースカ川をモーターボートでさかのぼった時、彼は確かに銃を持参していた。パドカーメンナヤ・トゥングースカでは特に獲物を狙っているようにも見えなかった、とすれば、あれは(狩猟用の)ショットガンではなく(護身用の)ライフルだったのだろうか。ロシア人って物騒なものを持っているなあ。
 その散弾銃を3人の男性は命中したとかしなかったとか言って撃ちまくっている。流れ弾がたまたま飛んできたかわいそうな小鳥に当たるということもないだろうが、こんなことがロシアの男の子たちの楽しみなのだろうか。リョーハが親切にも、
「タカコさんも撃ってみたらどうですか」とカラシニコフを手渡してくれる。まあ、記念写真でも撮ろうかと構えてみる。引き金を引くと、肩に当てた銃床が反動で食い込むのではないかと怖かったが、
「もういいです」と戻すのも間が悪くて、一応一発だけ撃ってから戻した。

 ヤールツェヴォ村に戻ったのはまだ3時半、薄塩の冷凍生魚のぶつ切りの昼食とヴォッカを飲むとアリョーシャは昼寝をしてしまった。この先のヴォーログヴォ村まで138キロの道のりがあるが、アリョーシャによると明るい時の運転はやりにくいそうだ。周りが暗ければ対向車はヘッドライトの光で遠くからでも曲がり角があってもわかるから、運転しやすいのだそうだ。私にすれば、周りの風景が見られない夜道のドライブはちっとも面白くないのだが。
 仕方ないので、アリョーシャの寝ている間、この家の奥さんから貸してもらっている『ヤールツェヴォへの挨拶』の本のページをさらに写真に撮ったり、幼稚園から帰って来たこの家の女の子とパズルなんかして遊んでいたりしていた。6時も過ぎて薄暗くなったころ、やっと出発した。
 村はずれに来たところで、アリョーシャが車を止め、リョーハが黙って出る。はっと、雪原を見渡すと走るものがいる。キツネだ。カメラを向けたが暗くて撮れない。バンッと銃声が響くが、私には嘘のように聞こえた。銃声なんてやはり日常的ではないからだ。狐さんはまだ走り続ける、バンバンと音が響く、一瞬止まったキツネがまた走りだす。急所が外れたのだろうか。狐さんの立場になれば逃げおおせてほしいと思うが、射撃を見ている方からすると
「おっ、また外れた」と思う。
獲物を引きずって来たリョーハ

 日ごろから野生動物保護団体のような口ぶりの私に向かって、アリョーシャは
「あれは悪いキツネなんだ。村に入って鶏を狙っていた帰りに違いない」と言う。ロシアのスカースカ(おとぎ話)の世界だなあ。
 リョーハの何発目かの弾でキツネは動かなくなった。リョーハは長靴の折り込みをあげて、足の付け根まで伸ばすと雪原にぐんぐんと入って行った。やがてしっぽを持って引きずって来たキツネは体長50センチくらいで、すぐにナイロン袋に入れてトレーラーのスノーモビールの間に押し込んだ。数時間で冷凍狐になるだろう。キツネの毛皮は最高で500ルーブル(1600円)で売れるそうだ。

 暗闇の中を2時間半も進むと今までのエニセイスキィ区は終わってトゥルハンスク区に入る。クラスノヤルスク地方は17の市と44の区に分かれているが、細かく分かれているのは南部だけで、北に行くほど1つの区の面積が大きくなってくる。タイムィール区(旧自治管区で2007年自治体改革でクラスノヤルスク地方に含まれた)やエヴェンキ区(同)を除いても、トゥルハンスク区は214千平方キロ(日本は378千平方キロ)、その南のエニセイスキィ区でも106千平方キロ(人口28千人)だ。トゥルハンスク区はエニセイ川に沿って長く伸び、北はもう北極圏内に入っているが、もちろん、そこまでは冬道すらない(夏ならエニセイ川で航行できる、通年では空路のみ)。トゥルハンスク区のほんの入口から百キロほどのボル町までで、このありがたい冬道は終わっている。私たちの目的地は35キロほど入ったヴォーロゴヴォ村までだ。トゥルハンスク区に入って最初のゾッチノ村を過ぎると、ドゥブチェク川を渡る。『チェク』というケット語で『川』という意味の名前からして、ロシア人進出時にはこの辺にケット人が住んでいたのだろう。(ケット人より後に移って来たサモイエード語系の住民がそのまま先住民の地名を使うこともあり得る)。クラスノヤルスク市から785キロ下流のエニセイ川に合流するそのドゥプチェク川を渡ると、エニセイ川に沿って10キロほどでヴォーロゴヴォ村に出る。アリョーシャの知り合いセルゲイ・クーチン宅に着いたのは夜の10時半だった。
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