クラスノヤルスク地方のほほ南から北へ流れて北極海に注ぐ大河エニセイがシベリアを東西に分ける。エニセイの西側はウラルにまで続くシベリア低地で、そこはオビ川が蛇行して流れる広大なオビ川水域だ。一方、東側はサハ・ヤクーチアまで続く中央シベリア高地で、その西斜面はエニセイ川(3本の支流)の、東斜面はレナ川(本流と支流)の水域だ。
中央シベリア高地を東から流れてきた3本の大河トゥングースカ川がエニセイ側に合流する。北から『ニージナヤ(下流の)』・トゥングースカ川(長さ2989km)、真ん中は『中流の』トゥングースカ川でポトカーメンナヤ(石の)・トゥングースカ川(1865km)と呼ばれる。その南の『上流の』・トゥングースカ川のアンガラ川は、バイカルから流れてくる。(ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川は発音はパドカーメンナヤとなる。意味は岩場、つまりオシーノフスキィ大浅瀬より下流でエニセイに合流するので『石・岩場』の『下・下流』のトゥングースカ川)
シベリア高地を東から西に流れる3本のトゥングースカ川。 『下ト』は下流トゥングースカ川、『中ト』は中流トゥングースカ川
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そのうちの北の2本、ニージナヤ・トゥングースカ川とポドカーメンナヤ・トゥングースカ川は旧エヴェンキア自治管区をほぼ東から西に流れてきてエニセイ川に合流する。17 世紀ごろからこの地方はロシア帝国の支配下に入り(毛皮税を納めさせられるようになった)、1930年からクラスノヤルスク地方に属する自治体のひとつになっている(1991年から2007年まではロシア連邦に属する自治体だった)。面積は日本の2倍以上の77万平方キロなのに、人口はたった1万7千人で人口密度は平方キロ当たり0.02
人という無人の地だ。
だから道もない。すばらしい地だ。
ホテルと言えば、クラスノヤルスクから週2便ほど小さな飛行機の飛んでいる行政中心地トゥラ町などに政府関係者用のがあるだけだろう。
秘境での交通路は河川だ。だから、私たちはポドカーメンナヤ・トゥングースカ川がエニセイ川に合流する地点にあるボル町へ、まず向かったのだ。
8月18日(月)、この日7時に、今シーズン最終の水中翼船『ヴァスホッド(日の出)』号でクラスノヤルスク河川駅を出発する。シベリアは普通でも南中時間が1時間遅い上、サマータイムなので1日が太陽の動きよりさらに遅れて、朝は夏でも7時はごろやっと薄明るくなる。だから、まだ残っている朝焼けを見ながら河川駅に着いた。日没は、当然遅くなる。この日は雨まで降っていて寒さも厳しかった。テントなど宿泊設備を持ったディーマは大きなかばんを抱え、アリーナは小さなリュックを背負いゲーム機を持っていた。私は人里離れたところで過ごしやすくするようなものを持ってきていた。たとえば、蚊取り線香(昔風の煙の出るもの)や電池蚊取りなどだ。
荷物でいっぱいの船内、
疲れて眠るディーマ(左)とアリーナ
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水中翼船『ヴァスホッド』号、宣伝用パンフから |
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去年も同じ河川駅から同じ方向へ出発したが、6月26日だったから夏至の頃だった。
2002年の豪華客船『アントン・チェホフ』号で12日間のクルーズも含めるとエニセイを行くのも3度目だ。エニセイ水圏の河川運行はエニセイ河川船舶会社がとりしきっていたが、2006年からは客船運行は(多分)国営『パサジール・レチトランス』社に委譲した。それは、エニセイ河川船舶会社の最大株主で最大利用者のノリリスク・ニッケル会社ばかりではなく、北極圏のヴァンコール油田開発とも関係があるのかもしれない。
客船運行便は、
ディーゼル船の『チカーロフ』号、『マトローソフ』号、『レールモントフ』号があって、
1)クラスノヤルスクからドゥジンカ(1989キロ、下りが3−4日、上りが5−6日かかる、ワン・シーズンに25便)
2)クラスノヤルスクからカラウール(2167キロ、下り4日半、上り6日半、9便)や、
水中翼船『ヴァスホット』号、『ロケッタ』号による
3)クラスノヤルスクからヤールツェヴォ(687キロ、下り12時間10分、上り13時間40分、39便)
4)エニセイスクからヤールツェヴォ(272キロ、5−6時間、52便)
5)エニセイスクからボル(476キロ、9−10時間、39便)
6)クラスノヤルスクからボル(889キロ、15−16時間、26便)
がある。毎年、運行開始は6月で、遅くとも10月中旬までには終わる。カラウールまでの便は9月中旬には終わり、クラスノヤルスクからボル便は8月中旬には終わっている。だから私たちの便は最終便だった。つまり、帰りの便はもうない(飛行機のみ)。
『ヴァスホッド』号は去年6月の時もそうだったが、8月の最終便の今回も満員だった、というより乗客の荷物で満員だった。定期便はすべてクルーズ船ではなく、エニセイ沿岸の村々の住民の『足』だ。クラスノヤルスク北部ではエニセイ沿岸以外や、その支流沿岸以外の場所には集落がないのも、この川が唯一の交通路だからだ。クラスノヤルスク市から北の端の北極海の河口までの2,668キロのうち、300キロのエニセイスク市あたりまでしか、今でも通年安全に通行できる地上の道路はない。だからエニセイスクから北は、どの集落もエニセイ水路の利用できるところにできた。(例外は金鉱山のセーヴェル・エニセイスク市。ちなみに集落ができたのはロシア時代に入ってからで、それ以前、先住民は遊牧生活で季節による営地・基地はあっても集落はなかった。)
なにしろ、運賃がクラスノヤルスクからボルまで片道2,684ルーブルとは安くない『足』だから、ワン・シーズンに一家で一人ぐらいしか889キロの遠乗りはできないかもしれない。
クラスノヤルスク市を流れるエニセイ川と橋、新バイパス(奥側)。 1.鉄道橋 2.コムナリ橋 3.スリー・セブン橋 4.オクチャブリ橋 5.プーチン橋
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水中翼船『ヴァスホット』号のキャビンの窓は広いが、デッキに出た方が見晴らしはいい。が、水上の風が寒くてデッキに出る気がしないばかりか、キャビンでも広い窓から隙間風が廻ってきて、アリーナも私も寒さに震えていた。ディーマは仕事疲れで座ったまま眠っている。
だから、エニセイ川からのクラスノヤルスクも、その先のエニセイ沿いの風景もゆっくり鑑賞しなかったのは、いつものことながら後から考えて残念だ。特に、この年の10月末に開通することになっていたクラスノヤルスクで第4番目の自動車用の橋の工事の終わりも見ずに通り過ぎてしまった。
クラスノヤルスクの橋は、
1)1889年に作られた長さ1キロのシベリア鉄道幹線の鉄道のみの橋、1900年のパリ万博で優勝した立派な橋だったが、今は同じ場所に別の橋がかかっている。
2)1961年のコムナリ橋は、できた当時はアジア1長い橋だった。2,300メートル。それ以前、エニセイの左岸から右岸へ行くには浮き橋を伝って行った。
3)1984年(に完成、しかし通行はずっと遅れて開始)のスリー・セブン橋。これは鉄道(シベリア鉄道の支線)と自動車道が同じ台の上にかかっている。
4)1986年、オクチャブリ橋は2,600メートル。
だから、自動車道としてはクラスノヤルスク近郊で4番目(鉄道だけの橋も入れると5番目)の橋が、10月21日にプーチン首相(当時)参加のもと開通式が行われたそうだ(後記;『クラスノヤルスク・ラボーチー』誌による)。今までのところ『クラスノヤルスク大迂回路エニセイにかかる橋
Мост через Енисей на транспортном обходе Красноярска』と便宜的に呼ばれているが、通称は『プーチン橋』だ。
スリー・セブン橋を通るコースが今まではクラスノヤルスク市街を通らない国道53号線のバイパスだったが、『プーチン』橋が開通することで、第2バイパス『奥側の回り道(大迂回道)』が開通し、視野を広げてみれば、太平洋岸からモスクワへの交通がやや早くなった。
ちなみに、クラスノヤルスクより上流では、ディヴィノゴルスク市近郊、マナ発電所、アバカン市、クィジール市にそれぞれ一本ずつ橋(アバカン市には2本)がかかっているから、エニセイには自動車の通れる橋が、これで8本になるわけだ。そして、この『プーチン橋』を最後として、この先の下流ではエニセイには橋はない。この橋は橋げた間の幅が広いことで、現代架橋技術の先端なのだそうだ。
ヴォーロゴヴォ村を離れる
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寒くてデッキに出ていられない |
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ヤールツェヴォ村船着場 |
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ゾッチノ村コケモモはバケツで何杯と売られる |
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新築(その時はまだ未完。前期のように10月開通だったから)の橋を川から見上げなかったばかりか、有名なジェレズノゴルスクもキャビンで寒さに震えている間に通り過ぎてしまった。閉鎖都市ジェレズノゴルスク(旧クラスノヤルスク26)市は許可なしでは入ることができないが、エニセイ川からは鉄条網やトンネルの入り口などが見られる。双眼鏡を使えば多少詳しく見えるかもしれないが、肉眼では何か人工物(建物)らしいものがある程度にしか見えないとは、前々回の豪華客船『アントン・チェホフ』号クルーズのとき確認済みだ(昔、と言っても1990年代前半の頃、外国人観光客も乗せた当時の『アントン・チェホフ』号では、このあたりを通るとき乗客は皆、下の船室にいなければならなかったそうだ)。この有名なプルトニウム兵器地下工場の方角を双眼鏡まで出してきてみると言うのは、いかにもスパイごっこ的で周りの注目を集めるので、かっこ悪くてできない。
エニセイ川がサヤン山脈を越えて流れてきてから、律儀にも、ほぼ南北に流れるのは東側に高地が迫っているからだ。西側は、ウラル山地まで続く西シベリア平原をオビ水系が縦横に流れている。だからエニセイには中流を過ぎると大きな左岸支流はない。左岸にある水分は、オビ川の支流が運び去ってしまうからだ。アンガラ川(長さ1,779キロ、流域面積104万平方キロ)も、ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川(1,869キロ、24万平方キロ)もニージニャヤ・トゥングースカ川(2,989キロ、47万平方キロ)もみんな右岸の高地から流れ寄ってくる。
ジェレズノゴルスク市あたりから、ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川合流地点まで750キロほどのエニセイの右岸(東岸)に迫る高地は、エニセイ山地と呼ばれているが、南部はプリアンガル(沿アンガル)高原の1部で、北部はザアンガル(アンガルの向こうの)またはトゥングースカ高原の一部だ。ちなみにその北のエニセイ東岸には、ツンドラの自然美で有名なプトラナ高原があるが、その先は東のレナ川まで続く東西1,400キロの北シベリア低地だ。エニセイ川は北シベリア低地を流れる間もなく、エニセイ湾からカラ海(北極海の一部)に出てしまう。エニセイ東岸からレナ川までの山地はすべてまとめて中央シベリア高原と、小さな地図にはある。
東からエニセイ山地に迫られながらエニセイ川は流れるので、右岸は険しい。斜面に生えているシベリア針葉樹林帯が見え、所々には、左岸にまでつながる山地をまたいで通るため、浅瀬となって河川運行の危険地帯となっている。有名なのはクラスノヤルスクから223キロのカザチンスキー浅瀬で、数キロにわたり岩が川面や川底に突き出て、流れもとても早く、川幅が細く曲がりくねっているため、超難所で有名なところだ。が、今回はキャビンで震えていて観賞しないうちに通り過ぎた。流れが岩に当たって白く渦巻いているところも、背の高い船(たとえばせめて『レールモントフ』号のような2階建ての客船)の甲板からならよく見えるが、水面低く行く水中翼船の窓からは見えない。ウィキペディアによるとこの辺はまたも、中石器時代からの遺跡の多いところだそうだ。
朝7時に出発してほぼ時刻表どおりの21時10分につくまで座っていた狭いキャビン内は、だから退屈だった。乗客はほとんど沿岸の住民で、クラスノヤルスクで買い集めた荷物をどっさり持って、厚着をして厳しい顔つきをしているか、居眠りしている。寒くて狭い甲板へは喫煙する乗客が2人いると、もう出られない。左右の出入り口だけが甲板で2個あるから喫煙者4人で満員になる。
14時間の間、2回ほどディーマの持ってきた軽食を食べたほかは、することもなかった。船先キャビンと船尾キャビンの中を2往復ほどしたが乗客からは迷惑そうに見られ、窓から見える景色はガイダンスもないので何が見えているのかもわからなく、水ばかりで面白くない。ディーマは用もないのに動き回るのは大人気ないとばかり座って動かない。
クラスノヤルスクから338キロのところに、1619年にできたエニセイスク市までなら(前期のように、冬季、地面が凍っていればさらにずっと北まで進めるそうだが)、陸上の道があるので、『ヴォスホット』号は停泊しないで一気に、685キロのヤールツェヴァ村まで行く。水中翼船は観光船ではなくひとえに移動の手段だ。ヤールツェヴォの少し手前に去年のエニセイ紀行の時、寄った旧教義派(古儀式派)の村フォムカがある。エニセイ沿岸ではこのあたりから旧教義派村が現れるそうだ。また、古くからの流刑地でもある(スターリン死の1953年までは大規模だった)。
しかし、エニセイ中流沿岸は、ロシア人が来る前は今はシベリア超少数民族となったケト(ケット)人の生活圏だった。17世紀ロシアのコッサック隊が毛皮動物を求めて北西から殖民してきた頃も、このあたりはケト人とエヴェンキ人が住み分けていた。
さらに100キロも行って、夕方の6時過ぎ、小さなゾッチノ村に止まる。船着場に村人がバケツにいっぱいのコケモモやツルコケモモの木の実を売りに来ている。見ていると『ヴァスホット』号の船員が買っている。帰りにバケツを返すそうだ。
ゾッチノ村からしばらく行くと、1636年、ツァーリの指令でここに殖民したとかいうコサック隊の隊長の名前がついたヴォーロゴヴォ村があって、ここでも『ヴァスホット』号は止まった。
ここも、去年訪れた村で、毎年のように春の雪解け水がエニセイ上流からどっと流れてきて、洪水被害にあうと聞いたのだ。このあたりのエニセイは幅が15キロもあって広いのに、雪解け水はなぜ先に流れていかないのだろう。さすが大河エニセイでよほど大量の雪解け水が流れてくるのか、この先の下流は北でまだ氷が解けていないからあふれるのか、と思っていたのだが、実は、ヴォーロゴヴォ村から50キロほど下流に、有名なオシーノフスキー浅瀬があるからなのだ。ここでもまた、エニセイ川がエニセイ山地をまたいで流れているため深い峡谷になり、川幅は700メートル、河岸の高さ150メートルの狭い曲がりくねった廊下になってしまうのだ。この絶壁がエニセイの中でも最も美しいと言われているが、流氷が流れてくれば、ここでせき止められ自然発生の氷のダムができてしまうわけだ。だから、少し上流のヴォロゴヴォ村やゾッチノ村は毎年のように洪水に襲われるのだ。
ところが、1970年代、エニセイ川は水力発電の宝庫だとして、1971年クラスノヤルスク発電所を完成させ、1972年サヤノ・シューシンスカヤ発電所建設に着手した政府は、エニセイ川は河口までにさらに大発電所を3個は作れると計画した。1つ目はアンガラ川合流地点の中央エニセイ水力発電所、そしてオシーノフスキー峡谷発電所、最も下流のイガルカ発電所だ。これでシベリアは電力消費の多い大コンビナート発展が期待できるとされた、と『ソヴィエト大百科事典(ソ連時代の有名な百科事典だが、今ではネットで見られる)』に出ている。特に、爆破すればダム建設に好都合な地形だとされたオシーノフスキー発電所は2000年に完成予定だった。ダムによるこの辺のエニセイの水位は60メートルも上がると見込まれたそうだ。幸運なことに、その後のソ連経済破綻で中止になったので自然は残った。
昔、そんな自然破壊が計画されていたとも、その時の私は知らず、キャビンで退屈しながらひたすら到着を待っていた。
スイカも自転車も売り物
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船を舫いだボル町船着場に着く |
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アリョーシャの丈母さん宅の菜園 |
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ボル町の『百貨店』 |
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店員の背後の棚に並ぶ酒類の瓶 |
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やっと夕方の9時20分ボル町客船用船着場に到着した。エニセイ川はクラスノヤルスク市やアバカン市以外は護岸されていなくて、砂浜に船のような河川駅が舫いであるのだ。3階建てのディーゼル船のような喫水の深い船は停泊できないが、水中翼船のような小さな船なら横付けできる。
去年のようにアリョーシャが車で迎えに来てくれた。去年はホテルに泊まったが、今回は
「しゅうとめ(夫の母は姑、妻の母は丈母)のところがいいかな、ホテルがいいかな」と聞かれた。アリーナは
「ホテルよ」と答えたが、アリョーシャの親戚が泊めてくれると言うなら、そこに行った方がずっと面白い。アリョーシャは最近結婚(合法的ではない事実婚も含む)したらしい(再婚、いや再々婚?)。妻はクラスノヤルスクに住んでいると言う。彼女の両親がボル村に住んでいるのだ。
「丈母さんはどなたと住んでるの」と聞いてしまった。
「岳父(夫の父は舅、妻の父は岳父)と住んでるさ」。
アリョーシャの丈母さんと岳父さんの家は田舎によくある一軒屋だが、設備は整っていてトイレは屋内だし、暖房や給湯施設は自前だと言う。ロシア式サウナ小屋もあり、物置小屋や菜園もあって、住み心地は抜群だった。
しばらくしてボル飛行場の所長と言う人が尋ねてきて、3人分の帰りのチケットを届けてくれた。ディーマはお礼に日本で買ったサントリー・ウイスキーをプレゼントしていた。今度、ディーマが日本へ来た時はサントリー・ウイスキーをもっと何本も買って行ってほしい。
アリョーシャの岳父さんはボル町の車の運転手で、丈母のオリガさんはガソリン・スタンドの経理主任だそうだ。ディーマによると、シベリアのこんな町では燃料を握っている者が、地域に影響力を及ぼすことができるそうだ。つまり、有力者。ガソリン・スタンドとは町で唯一の(元)国立の、あるいは半国立の燃料基地のことだ。だから、つまり、丈母さんのほうが岳父さんより『美味しい』地位にある。
エニセイ中流沿岸の村々は材木産業で成り立っていたが、ソ連崩壊以降は発展が止まってしまった。ヴァンコール油田開発関係の町は立ち直ったようだが、たいがいの村々は貧しいままだ。その中では、ボル町は国立『中央シベリア』保護林の基地で、ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川がエニセイに合流する地点にあり、飛行場も運営されていて、トゥルハンスク町やイガルカ市のように人口が半減したとも聞いていない。
ボル町は現在人口2500人。エニセイ川岸では北のトゥルハンスク柵やタス川のマンガゼヤから南下したロシア・コサックによる17世紀からの古い集落もある中で、ボル町のほうは1946年、まず飛行場が作られたことから始まる新しい集落だ。南の人口の多い工業地帯と、北極圏の中間にある重要な中継軍事基地として作られた飛行場だった。
食料を買いに雑貨店に入った。田舎では専門店はなく、たいていが『百貨店』で、必ず酒類の瓶がずらりと並んでいる。ディーマたちはそれらボトル類やそのつまみ類を買うが、私はミネラル・ウォーターとビスケット、グリーンピースの缶詰だ。食べられないような味付けの缶詰や不良品の缶詰の中で、これが比較的安全だ。これだけあれば、数日ならおなかも壊さず、安全に生きながらえる。
8月19日(火)、この日ボル町を出航したのはやっと、午後3時ごろ。アリョーシャが何をしていたのかは知らない。準備していたにしても、私たちが来るとわかっていたのだから、翌朝すぐ出発できるようにしておいてもよさそうなのに。これだけの時間と費用をかけてここまで来たのだから、時間を無駄にしないでほしいとも言えない。アリョーシャが旅行会社を作ってもうまくいかないだろう、とこっそり思うだけにした。
出発まで丈母のオリガさんの菜園を見たり、オリガさんやアリーナと台所で、菜園でできたにんじんをかじったり、けしの実を食べたりしながら話していた。シベリアの田舎に行って、その土地の人と知り合いになり話し込むというのが、私の好きな旅行の方法のひとつだから、『添乗員』アリョーシャに待たされてもかまわない、と思おう。
オリガさんは立派な菜園を持っているから、食料はかなり自給できると話した。でも、肉は買わなくてはならない。今では都会の大手スーパーでは切り身をラップして売っているが、それでもバザールではざっと解体した程度の骨付き肉塊が台の上に並べてある。頭部や足先などはそのまま並べてあることもある。都会人でも、田舎に行って一頭丸ごとのブタを買ってきて、ベランダで解体して一冬かかって食べ切る、と言う話も聞いたことがある。だから、ソ連時代には普通のロシア人家庭にはかなり大きい冷凍庫があった。ベランダにおいても冷凍されるが、鳥に食べられたり、気温の変動があったりするからだ。
田舎では、パンや菓子類、缶詰、酒類、ハムなどは売っているが、店で肉を売っているのは見たことがない。オリガさんは、家畜の持ち主から牛肉なら塊を、豚なら丸ごと買うそうだ。豚は脂身が毛皮近くにあって、毛皮が、牛のようには肉からははがれない。豚の脂身からは薬味を入れた塩漬けの美味しいサーロと言うおつまみがつくれる。豚毛は焼き取るそうだ。一度には焼き取れず、何度か燃やすそうだ。
『ピューマ』号はしばらくボートを曳いて、ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川を航行
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ボートを荷台に積んで出発 |
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ボートを水に浮かべる |
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小さな貨物船『ピューマ』号 |
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アリョ−シャは『ピューマ』号という小さな貨物船を持っている。中古で買って数年かけて手入れをし、船員を4人雇って運送業もやっているようだ。本業はエニセイ漁業資源保護監視員という国家公務員で、ディーマによると、エニセイ川で生活している人々に対してはとても影響力があるとか。つまり、みんなアリョーシャと仲良くなると有利なのだそうだ。
『写真機』を持ったアリョーシャ
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出発の用意はモーターボートと燃料だ。さらに、オリガさんは婿のアリョーシャに『写真機』も持っていくようにと言っていた。これは銃のことだ。なるほど、うまい暗号だ。
『ピューマ』号の船長アンドレイも来て、モーターボートを乗せたトレーラーをジープで牽いて船着場に着いたのは2時20分ごろだった。モーターボート2台は『ピューマ』号が引っ張っていく。
雇われている船員のうち一人は去年の『ザスロン』丸の乗組員で、私ともよく話していた人だったが、今年見ると酔っ払い状態だった。私に気がつくと「スパイだ、スパイだ」と言って寄ってこない。ほかの2人も二日酔いで苦しそうだったが、オーナーのアリョーシャに叱られながら、出航の準備をした。
午後3時、出航すると、20リットル用ポリタンクにせっせとガソリンを小分けした。モーターボートに乗せるためだ。私とアリーナは狭い船の中を見て回っていた。船倉は、今は積荷がなく、水や保存食が少しあるだけだ。船には運転室のほか、小さな台所つきでテーブルと2段ベッドがひとつあるキャビン(船倉)のほかは、何とトイレがなかった。こんなときは使い捨て紙コップに用を足せばいいが、そんなものは船内にはない。空になったペットボトルを中ほどで切ればコップになる。私たちは船尾の物陰で、誰も来ないことを祈りながらどきどきして大急ぎで用を足左なければならなかった。
3人の船員は、一人は2段ベッドの上で、二人は下段で頭と足をたがいちがいにして寝ているが、時々タバコを吸いに甲板に上がってくる。彼らはいったいどこにヴォッカを持っているのだろう。アリョーシャによると、彼が船に隠したヴォッカを上手に見つけ出しているそうだ。
ボル町はポドカーメンナヤ・トゥングースカ川のエニセイ川への合流地点の向かい側にあるので、私たちは出航するとすぐポドカーメンナヤ・トゥングースカ川に入り、世界でも最も人口希薄地帯のひとつを流れる川(1869キロ)を上っていった。前記のように、日本の2倍の面積のエヴェンキア旧民族自治管区(2007年からクラスノヤルスク地方の一地区)だが、全人口は17,000人だから、人口密度が1平方キロに0.02人と言う希薄さだ。ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川流域には9,000人住み、北のニージナヤ・トゥングースカ川流域には8,000住んでいる。両支流の河口地帯、つまり、エニセイ川沿岸部分(比較的人口が多い)はクラスノヤルスク地方のトゥルハンスク区に入っているからだ。それ以外の中上流は人口が少ないわけだ。
『ピューマ』号の舵を取っているアンドレイに、私たちはどこまで行くのかと尋ねると、できれば280キロ川上のベリモ川が合流するブールニー村まで行く、とのこと。
私を待ちくたびれたのか、3人
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『ピューマ』号はそろそろ錨を下ろして停泊させ
私たちはボートに乗り移る |
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スロマイ村ロマの家 |
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ロマとアンドレイ、蚊を恐れない |
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スロマイ村学校長の夫(職業は猟師) |
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4時間ほど行って、『ピューマ』号は人気のない川岸近くで碇を下ろした。エヴェンキアに入ったばかりの地点だろう。ここでアリョーシャとディーマは先ほどの20リットル・ポリタンクを、ヤマハ船外機のついたモーターボートには2缶、マーキュリーの方には8缶乗せた。アリョーシャが運転するヤマハのほうに私たちが乗るため、重いポリタンクはあまり乗せられないからだ。テントなどはアンドレイ運転のマーキュリーに乗せた。これだけの燃料とテント、食料、それに釣竿があれば280キロのブールニー村(人口170人)までもいけそうだが、この日はもう夕方の7時になっていて、2日後にはこの場所に戻る予定だから、そこまで行けるかどうか。私たち5人は乗組員を留守番に、ピューマを停泊させ、2台のモーターボートで出発した。
ディーゼル船の『ピューマ』に比べモーターボートはずっとスピードがでる。と言うことは風が冷たく、綿入れ迷彩服を2枚重ねても寒かった。景色だけはすばらしかったが。
1時間も水行すると、前年も寄ったケト人のスロマイ村が見えてきた。ケト人は10世紀ごろまでは南シベリアのオビ川やエニセイ川中流域あたりに広く住んでいたが、やがて、チュルク系やウラル系諸民族、エヴェンキ人たちと接触して同化されていった。しかし、エニセイ下中流、つまり最も北に住んでいたケト人は現在のケト人の祖先となり、言語も保持してきた。だから、ケト人というのは古アジア人、消滅した民族の少数の生き残りなので、言語も孤立している。
ケト人が住んでいるのはエニセイ支流にある5つほどの村で、全部で1,500人ほどいるそうだ。スロマイ・ケトは、人口200人のスロマイ村に、統計では170人ほどいる。去年、ディーマとスロマイ村を散歩したときは、住民は皆酔っ払っていた。
今回、アンドレイがスロマイ村に住んでいるロシア人の知り合いのロマに用事があるというので、アリーナと3人で上陸した。アンドレイは知り合いにルアーを借りたいのだそうだ。アンドレイがその知り合いの家の玄関先で長々と話し込んでいる間、蚊の大群の攻撃に参ったアリーナはボートに帰っていった。私は顔がネットで隠れるフードつきの迷彩服だったので耐えられた。
ルアーを借りて、知り合いのロマと一通り話し終わったアンドレイが船に帰ろうとするので、
「去年会った村の校長にもう一度会いたいのだけれど」と言うと、興味のないアンドレイは船に帰り、ロマが私だけを校長宅まで案内してくれることになった。校長といっても、幼稚園と4年生までの初等科が一緒になった村の学校には、職員が校長を含めて2人以上はいないだろう。
校長宅というところに行って知り合いのロマが声をかけると、腹立たしげな様子の年配男性が現れて、私を胡散臭そうに見た。少し怖気ついたが、去年、ポドカーメンナヤ・トゥングースカを航行中、スロマイ村に上陸した時、多分彼の家族たちと知り合った日本人だと説明した。そのとき写した写真を郵送したが受け取っただろうか、と聞いた。届いているとはあまり思わなかったが、
「ああ、写真ね、受け取ったよ、受け取った。ありがとう」と言う返事。その年配男性は校長の夫だと言う。妻のラムトゥルム(恐ろしい水中昆虫と言う意味のケト語、ケト人は魔よけに、怖そうな名前を子供につけるのだ)は、今ちょうど森にベリー摘みに行っていて留守だ、せっかく来てもらったのに残念だ、と言う。予告なしに突然来たのだから仕方がない。帰りも通るから、できたらまた寄ってみると答えた。
「帰りは木曜日だって? そのときは妻も必ず待っているから」と今度はもう、愛想よく言われた。ラムトゥルムさんはケト人だが、夫はエヴェンキア人で猟をしていると言う。この辺の村々の生計はクロテンやミンクの猟だ。
写真をたくさん撮って、モーターボートに戻ってみると、アリョーシャやディーマは肴をつまみ、ウォッカなんかを飲んで私たちを待っていた。
(追記) その後、スロマイ村小学校にも、ポラボラ・アンテナでインターネットが通じるようになった。セットされて使い方を習得するまで時間がかかったそうだが、校長からメールが届いた。
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