クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2008年12月24日(2009年1月28日,3月26日,12年4月23日,13年4月25日,10月15日)
クラスノヤルスクから神秘のトゥングースカ川へ(2)
           2008年8月7日から8月24日(のうちの18日から)

Из Красноярска в Подкаменную Тунгуску (с 18 по 23 августа 2008 года)

(1)秘境エヴェンキアを流れるトゥングースカ (2)暗闇の中でも絶景の地
水中翼船『ヴァスホット』号 『中央シベリア保護区』監視小屋
エニセイに架かる橋 旧教義派のクジモフカ村
右岸を山地に迫られて、時には山地を跨いで流れるエニセイ川 クジモフカ村の学校
エニセイ中流の拠点ボル町の丈母さん 自家製発酵酒
まずは『ピューマ』号で出発 神秘のポドカーメンナヤ・トゥングースカ川の第3夜
ケト人のスロマイ村再訪 帰途

暗闇の中でも絶景の地、川中の星粒
丸太たちは焚き火になるまでは、
私たちのいすになってくれた
スロマイ村出発。前を行くアンドレイのボート
すっかり暗くならないうちにテントを組み立てる
暗い川の中の星粒のようだった(フラッシュが
ついたので川底まで写ってしまったが)

 スロマイ村を出発したのは9時も過ぎていた。30キロほども行って薄暗くなった10時頃、ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川で一番の絶景『シェーキ』(訳すると『頬』または『クランク腕』、方言で『切り立った川岸』)に着いた。シベリア高原の奥深くから流れてきたパドカーメンナヤ・トゥングースカ川はエニセイ川に合流するまでいくつもの岩山を迂回したり、またぎ越えなくてはならない。それらの場所は岩場の浅瀬や急カーブなどの難所となっているが、この『ショーキ』は最後の難所だ。両岸にはコケの生えた岩山が高くそびえ、岩の割れ目から年代ものの針葉樹が生えている。岩は風化されモザイクのブロックのように積み重なっていて、自然が作った芸術作品のようだ。1年前に来たときによく見て感動しておいてよかった。今回はもう薄暗くなっていたから何も見えなかった。
 すっかり暗くならないうちに早く場所を見つけてテントを建てようと、私たちは上陸するとすぐ働きだした。アリョーシャとアンドレイは床に空気マットの入ったテントを膨らませていた。ディーマとアリーナと私のは普通のテントなので地面の柔らかそうなところを探して建てた。2個のテントを立て終わった頃はかなり暗くなっていて、男性たちは薪を集めてくると言って、電動のこぎりを持ってモーターボートで去っていった。
 残された私とアリーナは二人ぼっち、寂しく暗い絶景の中で長い間待っていた。いったいどこまで薪を集めに行ったのだろう。そのうちアリーナはしくしくと泣き出して、心細かった私にも慰めようがない。1時間半も待って真っ暗になった頃、アリーナのパパたちが頭にライトをつけて戻ってきた。きっと、アリーナと私が心配していた頃、3人で釣りなんかをしていたに違いない。でも、釣れなかったのかボートの中には太い丸太が何本かあるだけだった。
 丸太たちは焚き火になるまでは、私たちのいすになってくれた。火をおこすのはとても簡単だ。ビール瓶に入れて持ってきたガソリンを丸太や小枝にかけ、ライターで火をつければ、すぐ燃え上がる。小枝は小枝で、燃やされるまでは串になって、輪切りソーセージなどを火で炙るのに役立ってくれた。
 アリーナのパパたちはウォッカでいい気持ちになっている。月も星も見えなかった。飲まない私は、車ではないがヘッドライトをつけていたので、『シェーキ』の川岸を歩き回れた。川中が点々と光っている。小さな魚が岸辺近くの浅いところまで泳いできているので、その目がヘッドライトにあたって光って見えるのだ。近寄ってヘッドライトで浅い川底まで照らし出しても逃げていかない。指くらいの大きさで、中には小指くらいのかわいいのも見える。さすがシベリア辺境の川だ。
 暗闇の中、側面からライトに照らされた目だけが光って見えるので、魚たちが動くと光が消え、別のところでつく。川岸のあちらこちらにライトを当ててみると、光ったり消えたりする光の粒が無数に見える。川の中に蛍が舞っているようだ。
 焚き火を囲んでいる男性たちのところに戻って、目の光る不思議な魚がいると言うと、魚の目にはフッ素があるから当然だと言う。この辺にいる小さな魚ならトゥグノフだろう。脂が乗っていて軽く塩漬けにしたものはシベリアの珍味のひとつだそうだ。流通経路にはのらないから現地でお味見するほかないと言う。
 彼らは焚き火のそばでウォッカを飲み、満足そうだった。アリーナだけが私と一緒に川岸に来て、目の光るトゥグノフ蛍を一緒に鑑賞してくれた。
 この日、夜遅く2時も過ぎてからテントの寝袋にもぐって寝た。

『中央シベリア保護区』監視小屋
130キロも行くとようやく小さな集落が
河岸段丘の上に小屋が見える
『中央シベリア保護区』監視小屋と、
左に監視官たち
コケモモ、ツルコケモモ、葉っぱやありも
監視小屋内部のアリーナ

 8月20日、朝目を覚ますと小雨が降っていた。みんなが起きてきたのは1時も過ぎた頃で、雨も上がっていて、焚き火を燃やして朝食の後、魚釣りをしたがさっぱりつれなかった。ちなみに私の分の釣竿はなかったので、漁獲高に関心はなかった。
 2時半ごろには無人のポドカーメンナヤ・トゥングースカ川をさらにさかのぼっていた。1時間も行った右岸の段丘の上に小屋が見える。寄ってみるかと言うので、もちろん私は賛成。

 それは1985年に制定されたと言う『中央シベリア保護区』の南東の端にある保護区監視小屋だった。クラスノヤルスク地方には8箇所ほど自然保護地区があって、どれも日本の県くらいかそれ以上の広さだ。『中央シベリア保護区』は9270平方キロと、青森県くらいの広さで、エニセイ川の中流のトゥルハンスク地区の一部からエヴェンキアの一部にかけて、集落の全くないところに広がっている(ここに限らず、この辺りはそもそも集落がないが)。要所には職員が住む監視小屋が建っている。『中央シベリア自然保護区』の南東の一角がポドカーメンナヤ・トゥングースカの両岸に突き出ているので、そこにも監視小屋があるのだ。『保護区』には一般の人は立ち入ってはいけないが、エニセイ川漁業資源監視員のアリョーシャとその一行ならいいらしい。
 その監視小屋には数匹の犬と一緒に職員が3人住んでいて、アリョーシャと愛想よく挨拶し、若い方の男の子はお茶を沸かしてくれ、ボールに入れた木の実(葉っぱも多数紛れ込んでいた)を出してくれた。私の首からぶら下がっている怪しげな器具をさして、これは何だと聞く。乾電池でファンがまわる電気蚊取りだった。シベリアの蚊の大群には効き目はほとんどないが、一応ずっとぶら下げていたのだ。だが、みんなに笑われたので、はずした。
 自然保護区だから自然の中で非文明的な生活を送っている割には、小屋の中には一応の家具があった。切り株のいすもあった。
 やがて人相の悪い男性が二人、川から上がってきた。川から来たからと言って漁師とは限らない。川は唯一の道路でもあるのだから、猟師かもしれない。合法的に猟をするばかりとも限らない。自然保護区といっても微妙な『慣習』があるのかもしれない。彼等の話に付き合わないため。私たちは監視小屋を引き上げた。

 1時間半ほど神秘のポドカーメンナヤ・トゥングースカ川をさかのぼって夕方6時頃、昼食のために薪になるような木が生えていて、地面が乾いているような川岸を見つけ上陸する。昼食後、釣り糸をたれたが釣れない。私はどうでもいいが。
 またボートに乗って、この先の薪がないかもしれない上陸地のために、前もって調達しておいた丸太も乗せて、川上に進むことにする。見えるものは先を行くアンドレイのボートが起こす波の立つ水面と、9時を過ぎてもまだまだ明るい空と、全く人気のない岸辺の草木ばかり。
 エヴェンキア旧民族管区の人口の約半分の9千人は管区の南半分を流れるこのポドカーメンナヤ・トゥングースカ川流域に住んでいるが、人口の最も多い3,700人のバイキット町が河口から546キロのところに、また、2番目に人口の多い3,300人のヴァナヴァラ町は1,146キロのところにある。途中には100人か200人程度の村がぽつんぽつんとあるだけで、集落と集落の間は100キロ以上のところもある。
 スロマイ村からクジモフカ村までは130キロも集落はない。クジモフカ村あたりまで来たところで薄暗くなってきたので、テントを張る場所を決めなくてはならない。石だらけの川岸は空気マットのない私たちのテントでは寝心地が悪いし、沼地ではテントは張れないし、村の近くでは夜中にボートが盗まれる。
 何とか見つけた川岸で、すばやくテントを広げ夜食を食べた。野営なので顔や手は川水で洗う。川岸は草が生い茂り、どこまでが陸地かわからないので、つないであるボートの板べりから、身を乗り出して洗った。ここでは目が光るトゥグノフはいなかった。

旧教義派のクジモフカ村

8月21日(木)この先はもう行かないで、ここが折り返し点になるそうだ。確かにここからさらに80キロのブールニー村まで行っていては、22日(金)のクラスノヤルスク行き飛行機に間に合うようにボル村には帰れない。では、昨夜通り過ぎたクジモフカ村へ寄ってみよう。ここは旧儀式派の隠れ村なので、外部のものとは話してくれないとアンドレイは言うが、河口から203キロも来たのだし、ぜひとも村を歩いてみたいものだ。

人口162人、クジモフカ村
菜園付き家を結ぶ道

 私たちの『野営地』からクジモフカ村まではモーターボートで10分くらいだ。人口は162人でそのうち北方少数民族(エヴェンキア人)は3人と、エヴェンキア地方自治体広報には出ている。どの集落でもそうだが河岸段丘を登ったところから菜園付の家が始まっていて、ほかの集落同様、地面がぬかっても歩けるよう板を敷いた歩道がある。木戸の内側にはスカートをはいて被り物をした旧儀式派女性が2,3人座っていた。女性はかぶり物をして髪を見せず、ズボンをはかないと言う旧儀式派は、ニコン派のロシア正教と分離した17世紀の(男女差別)習慣を守っているらしい。(旧儀式派の教徒は、自分たちこそロシア正教徒だと言う)。
 歴史の本によると、17世紀半ばに総主教ニコンとツァーリの行った宗教改革を受け入れなかったロシア正教徒を、旧儀派(旧儀式派)と言い、その中でも諸分派があるらしい。旧儀派信者たちは主流派(つまりいわゆるロシア正教徒)と政府(ツァーリ)から迫害され、シベリアや、極東、国外に逃れ、特に、ピョートル大帝の時代には、当時の人口の1割の90万人が逃亡したと書かれている(1917から22年のロシア革命期ですら亡命したのは0.5%)。1905年、旧儀派諸派が公認されるまでは、当時のロシア帝国の最大の国内問題の1つだったそうだ。
 だが、20世紀はじめには、2千万人の旧儀派が全ロシアにいて、農業を始め、ロシア経済を牛耳るほどだったとウィキペディアには出ている。ソ連時代にはまた迫害され、共同体はさらに辺境奥地へ移住して行ったそうだ。トゥヴァのカー・ヘム流域にも旧儀派共同体があって、今ではそのいくつかは観光スポットにすらなっている。エニセイ流域にも多い。統計によると50以上あるそうだ。旧儀派は必ずしも自分たちだけの共同体を作って住んでいるわけではないが、奥地にある共同体ほど非信者の文明から離れた生活守っている。強固な信者たちは、さらに奥地へ、自然の中へ、つまり神の近くへ移るそうだ。
 クジモフカ村は革命前、クジモフという商人が、現地人から毛皮などを購入する拠点『ファクトリア』として作った。ファクトリアは英語のファクトリィ(訳して『工場』、または『植民地などにある在外商館』)からきていて、ロシア語では、現地人から猟の獲物を買い取ったり、猟師への物資供給する所の意味で、エヴェンキアにある集落はファクトリアだったものが多い。今もファクトリアがある。中部北部シベリアでは毛皮が最大の商品で、これを売って住民は燃料をはじめ工業製品を手に入れているのだ。(最近のシベリア特産物は鉱物や石油となった)
 クジモフカ村は旧儀派の村なので、外部のものとは接したがらないとアンドレイは言ったが、そのとおりだ。ディーマとアリーナの3人で村探検に出かけたが、高い河岸段丘に立つ家々からは、2台のモーターボートに乗って誰やら外部のものがやって来たとすぐわかったから、菜園にいた旧儀派の女性たちは、私たちが近づくとさっと家の中に入ってしまった。ディーマは、話もできないからボートに戻ろう、というが、アリーナが店を見に行こうと言う。何せ、店好きのアリーナだ。クジモフカは人口162人もいるから店はあるだろうし、学校もあるに違いない。
 ディーマが店の近くで学校のある場所を男性の村人から聞いてくれた。たまたま近くにいた男性が村で数少ない信者ではない校長の夫だという。日本から来た元教員だというと、自宅兼学校に案内してくれると言う。同業者と言うのはどこでも、意外に話が通じるものだ。
 村の道はひどくぬかるんでいた。足場を慎重に選んで歩かなければならない。やがてパラボラ・アンテナのある『クジモフカ普通教育初等学校』に付属した校長宅に着いた。煮炊きができ、ベッドもある入り口の部屋と、じゅうたんが敷いてある奥の部屋がある。奥の部屋には都会風の家具があり、テレビやパソコン、全自動洗濯機もあった。エヴェンキア旧自治管区にある豊かな地下資源開発が近年始まり、人口超希薄なこの地の数少ない村々に、周囲の後進的景観とは奇妙な取り合わせのこうした先進的機器が、役場などに支給され始めたのだ。たとえば、1年前ぐらいはパソコンとインターネットはあるが、まだ準備中で技術者が来ないと使えないと言われていた。
 旧儀派の信者はマッチ以上の文明の利器は使わないと聞いたことはあるが、去年訪れたエニセイ川インディギノ村の敬虔な旧儀派の家には小さな冷蔵庫もあった。そして、「いやこれは必要なのだ」と言っていた。彼に(毛皮を売った)現金収入があったから、町で冷蔵庫を買えたに違いない。

クジモフカ村の学校
もうほとんどからになった燃料タンクを
乗せたボートを『ピューマ』号が曳いて帰る
アリビナ先生宅で帰ろうとする旧儀派の少年
玄関横には吊るしタンク式手洗いも見える
珍味トゥグノフ(サケ科)
アリビナ先生宅の居間兼職員室
立派な教室、アリーナとアリビナ先生
付属村の川岸で洗濯している女性に挨拶する
在庫の獲物(ミンクの毛皮)
居間には旧儀派の祭壇、古いロシア文字
台所。このペチカで煮炊きができる
魚が豊富だというカチュムデック川と
インナたちの次女
飲み直し。テーブルの上には大きな自家造酒の瓶
ボートに戻ってまた飲み直し。アリーナも大変だ
自分のヴィフリ(ボート)を横付けにして
抱負を語るサーシャ
夕焼けの中、先を行くアンドレイのボート
操縦室から下に降りる狭い階段

 クジモフカ村の校長は、旧儀派ではなく、自宅のテレビやパソコンなどは学校の備品だ。テレビは村に2台しかないそうだ。部屋では2人の少年が行儀よくいすに座りニュース番組を見ていた。旧儀派の大人はやはりテレビを見ないが、さすが子供は見たがるそうだ。
 校長兼全クラス担任のアリビナ先生は年配の女性で、数年前チュコト半島(アラスカからベーリング海峡をはさんで旧大陸側)から赴任してきたそうだ。旧儀派は昔から自分たちのカリキュラムで自分たちの子供を教育してきたが、公共の普通義務教育が行われなくてはならない。そういう教員は村の旧儀派にはいないので外部から赴任することになる。外部の人間と接触したがらない旧儀派と、非信徒の教員はうまくいかないことが多く、前任者もそれで転任していったそうだ。だから、アリビナ先生はなかなか気を使っていて、今までテレビを行儀よく見ていた少年を家に帰した。なぜなら、外部から来た私たち、特に外国人との話の内容を少年が家に帰って両親に伝えるのがまずいそうだ。伝えるときは必ず内容が違ってしまうものだ。それでどんな誤解が生ずるかもしれないと言う。
 学校の職員は、今のところ、アリビナ先生一人だが、1年生から4年生まで初等学校の生徒が32人ほどもいるので、新学期が始まると、もう一人先生が赴任して来るそうだ。あとで、アリビナ先生から来たメール(パソコンが支給されていて、こんなところから電子メールが送れるというのも、豊かな地下資源のおこぼれだ、と言えなくもないか)でわかったことだが、新先生はエヴェンキア女性で孫娘と一緒にやってきたそうだ、週33時間も受け持って、1万9千ルーブル(約8万円)受け取るとか。週33時間とは多いが、複式学級は2時間と数えているのだろうか。1万9千ルーブルとは大学講師の2倍だ。超僻地手当てがつくのだろう。
 アリビナ先生は地元の珍味トゥグノフを山盛りにしたお皿を出してくれた。ディーマは喜んで食べていたが、私は旅行中、ビスケットとお茶とグリン・ピースの缶詰と板チョコ以外はあまり食べないようにしているのだ。
 部屋に全自動洗濯機があるが、これも支給品でまだ稼動させていないそうだ。水道のないところでは難しいかもしれない。『吊るし手洗いタンク』からすすぎの水を取るわけにも行かないし。
 このへやは学校の職員室でもあり、アリビナ先生の住居でもあるのだ。だから、シベリアの田舎やで、よく見かけるように猫もちゃんと寝っころがっている。ひとつだけある教室の方へは別の入り口から入る。入り口ホールも入れると教場は二部屋になる。教科書や教材が少し後ろの棚に入っていたが、どれも支給されたばかりの新品だった。
 クジモフカ村のアルビナ先生と1時間半も話して、またぬかるんだ道を通って、(魚がつれないから)待ちくたびれているアリョーシャとアンドレイのモーターボートに戻ったのは3時過ぎだった。

カチュムデック村の自家製発酵酒

 ここから2,3分ほど川下にクジモフカ村の一部だがカチュムデック村がある。小さなカチュムデック川がポドカーメンナヤ・トゥングースカ川に合流するところにあるからその名前がついている。そこにも寄ることにした。同じような河岸段丘の上に立っている旧儀派の家々が見えたが、川岸で洗濯している母娘がいたからだ。彼らに声をかけてみようと、近くにモーターボートを止めてもらった。若い母親と小さな3人の娘がいて、私は躊躇なく近づいて声をかけた。アリーナも付いてくる。被り物をしてスカートの女性はもちろん旧儀派だが、愛想よく会話に応じてくれた。私は話を途切らせまいと、ボル町からボートでやってきたが、その前はクラスノヤルスクから来たのだとか、その先は日本からだとか説明し、3人の女の子の名前とか歳を聞いたりしていた。意外と社交的な女性で、一緒にいたアリーナのことを、あまり私に似ていない娘さんだと言う。アリーナと一緒にいて親子と見られたのは初めてだ。
 やがて、アリョーシャが、彼らの夫が私を河岸段丘のすぐ上にある自宅に招待したいといっているがどうするか、と聞いてきた。外部の人間と自分から求めて交流するなんて、『新』旧儀派だ。もちろん、訪問した。男性たちはボートに残っていた。
 家は、玄関の次に、シベリアによくあるように寒さを防ぐため入り口の間があって、その奥に煮炊きもできるペチカのある居間、一番奥が5人家族なので3台もベッドがある寝室だった。部屋の一角には祭壇があって、宗教画と古いスラブ文字で書かれた聖句が張ってある。旧儀派は、主流派と儀式が違うのだ。ロシア語の書き方も違う。
 夫はサーシャ(28歳)で妻はインナ(25歳)だと言う。インナがカッテージチーズで和えたブルーベリーのデザートを出してくれた。旧儀派は非信者とは絶対に一緒に食べないし、非信者に自分たちの食器を使わせないと、私のクラスノヤルスクの友達はみんな口をそろえて言っているが。
 一家には菜園もあるし、家畜も飼っている。サーシャはシベリアの村々の大部分の男性と同様、猟師だ。在庫ミンクの毛皮も見せてもらった。毛並みがあまりよくなかったから売れ残ったものだったのか。
 サーシャやインナの旧教義派とはどんな宗派なのだろう。サーシャやインナはここで生まれたから、ここでここ風の生活をしているのか。30分も座っていると話の種も尽きたので、家を出て、ボートに戻った。
 しかし、ボートでは先に家から出てきていたサーシャも含めて男性たちが酒盛りをしている。後で聞いたことだが、ディーマやアンドレイたちがボートで私の帰りを待っていると、サーシャが大きなジャム瓶に入れた自家造酒と塩漬けの魚を持って上の家から降りてきたそうだ。旧儀派は禁煙禁酒のはずだが、自家造酒は飲んでいいことになっているとか。 
 もう出発しようと彼らをせかすと、アリョーシャがカチュムディク川を見てきたらいいという。私に村見物(9軒あるそうだ)をさせている間、ボート上の宴を続けるつもりらしい。カチュムディク川は普通の川で、それでもぬかるんだ草原を通り、途中の木の実もつまんで戻ってくると、まだまだ彼らは飲みたそうだ。とうとう、みんなでサーシャとインナの家に行くことにした。そこから出てきたばかりの私は、もうポドカーメンナヤ・トゥングースカの先へ進みたかったのだが。
 気の毒なインナはお客さんたちのためにパンやきゅうりを切ったり木の実を出したりと、大変だった。
 さらに1時間半も食べたり飲んだりしていて、私とアリーナは家の子猫と遊んでいたが、退屈だった。サーシャは、アリョーシャが国家公務員のエニセイ漁業資源保護監視員で、ディーマが車関係の商売(ボートのモーター類も含めて)をしていると知って、満足そうだった。
 7時半になって、ディーマがまっすぐ歩けなくなった頃、やっと家を引き上げてボートに戻ってくれたと思ったのに、サーシャはまたどぶろくを抱えて、家から川岸へ降りてくる。自分のモーターボートを横付けにして、そこに座ってみんなにどぶろくを注いでいる。そのボートはサーシャの大切な交通手段で仕事道具だが、モーターはヴィフリ(『旋風』と言う意味のロシア語)というロシア製で、ヤマハやマーキュリーのような舶来品とは違う。車のナンバープレートのようにボートの側面に大きく番号と文字が書いてある。このボートでクラスノヤルスクまで行くからと言うのでもあるまいが、番号を写真に取っておいてほしいと言われた。
 みんなが酔っ払っては、もう面白いこともないので、帰りを急がせることにした。酔っ払い運転でもポドカーメンナヤ・トゥングースカ川では衝突事故も起きないだろう。アンドレイもアリョーシャも鉄の肝臓を持っているらしい(しかし、ある年齢のとき急に不調になるのかどうか知らない。ロシア男性の平均寿命の短さはヨーロッパで1番だ)。運転しないディーマは慣れないどぶろくをたっぷり飲んで、思いっきり冷たい川風に吹かれてかなり苦しそうだった。

神秘のポドカーメンナヤ・トゥングースカの3泊目

 9時も過ぎると、夕焼けのポドカーメンナヤ・トゥングースカ川は神秘的だった。周りは、憂鬱で暗い針葉樹林と樺類や潅木の茂る無人の森と沼地、通行困難の厳しいシベリアが囲んでいる。今晩は野宿ではなく『ピューマ』号まで戻るらしい。150キロ以上、ひとえに航行を続けた。スロマイ村ではもしかしたらケト(ケット)人の校長が待っていたかもしれないが、近くを通ったのはもう夜中の1時ごろだった。夏の空は一晩中薄明るく、陸地と水面の境もよくわかる。2時ごろやっとピューマに着いた。2日前も酔っ払っていた3人の乗組員は、やはり酔っ払って私たちを待っていた。どこからアルコール飲料を手に入れるのかとアリョーシャに聞くと、酔っ払いは酒のあるところを必ず見つける、と言う答えだった。
 しかし、どうやって、乗組員3人と私たち4人がこの古くて小さな貨物船で一泊できるのだろうか。川岸にテントを張ったほうがいいが、テントの張れるような岸は、もう暗くて見つけられないと言う。
「トイレのないところで寝たくないわ」と断言した。
「私も、トイレのないところで寝たくないわ」と、アリーナが応援してくれる。
 操縦室から下に降りたところにある小さなキャビンにはテーブルと簡易キッチン(コンロと水と食器)と2段ベッドがある。下段ベッドがテーブルに向かう長いすになっている。ここでどうやって7人寝るのだろう。
 アンドレイは操縦室の長いす、太目のアリョーシャが2段ベッドの上段、下段ベッドに細めのディーマとアリーナと私の3人が寝て、3人の乗組員は船倉の荷物の間に寝ることにする、とアリョーシャの指令だ。
 トイレは、船尾にバケツが2個あって、1つはロープが着いているから、これで川の水を手動でくみ上げ、もうひとつのバケツを洗って汚水だけ川に捨てる、と言われた。
「タカコさん、バケツを捨てたらだめですよ。やり方を教えてあげましょう」と、どちらのバケツは何用だと、船尾まで私を連れて行って説明してくれた。日本は使い捨て文化の国だと思っているからだ。高速道路用携帯使い捨てトイレがその時あったらよかった。
 アリーナも初めての経験で、私たちは後で同じことをディーマにつぶやいた。
「川の水を沸かして飲んだり、顔や手を洗ったりしていたけど、もうしないわ」

 1つのベッドに3人とは超窮屈だった。真ん中がアリーナで私は端に寝ることにしたが、寝返りしたら落ちてしまうだろう。寝返りしなくても落ちそうだった。ディーマは壁とアリーナにはさまれて、アリーナをつぶさないよう身動きもしないで寝ただろう。
 朝は早めに起きて船上トイレを試したが、汚水を清楚なポドカーメンナヤ・トゥングースカに捨てた時は、罪悪感にさいなまれた。みんなを起こして朝食を食べ、『ピューマ』号がほぼ空になった20リットル入り燃料タンクを10個乗せたモーターボート2台を引きながら出航すると、11時にボル町に着くまで、また一眠りできた。

帰途、不思議な運賃

 ボル町ではアリョーシャの丈母が蒸し風呂を沸かして待っていてくれた。

ホームスティのニーナさん
ボル町の丈母さんの菜園のケシ
香ばしいケシの実
(自家製の実と店で買った実)
ボル飛行場の 年代もの44人乗りAN機

 時刻表では6時発のクラスノヤルスク行き飛行機だが、3時間遅れで出発した。もちろん私たちは空港の待合室ではなく、丈母のオリガさん宅でゆっくり待っていたのだ。飛行機の出発時間が決まると、空港からオリガさんに電話がかかってくることになっている。町中が知り合いだから。
 オリガさんの菜園にはけしも植えてあって、ちょうどその実が食べごろだった。アリーナと私は香ばしくて栄養のありそうな実を、ケシ坊主からこぼして食べていた。すぐ食べ尽き、アリーナがもっと食べたいと言うと、丈母のオリガさんが店から一袋買って来てくれた。ケシの実をまぶしてよくパイなどを焼くそうだ。

 空港は寒く、飛行機のいすはまともなものが少なく、客席にも荷物があふれていた。クラスノヤルスクから同自治体内の町に飛ばしているシビアビア航空機で、横腹の中に自分で荷物を積み込み、尻尾の方の3段ほどの出入り口のステップを登って客室に入るいつもの44人乗りAN機だ。出発まで長く待たされ、1時間40分ほどゆっくり飛んで4310ルーブル(2万円ほど)だった。いすが壊れていなくて、出発20分前に搭乗手続きをすればいい日本の方が安い。

 クラスノヤルスクからイルクーツクへの列車はこの日の深夜1時46分発なので、10時40分頃クラスノヤルスク空港に着くと、出迎えのミーシャに急いでホームスティ先のニーナさん宅へ送ってもらった。帰途のかばんをつめ、大急ぎでニーナさんとお別れして、1時間後にはまた、ミーシャにクラスノヤルスク駅に送ってもらい、ノヴォシビルスク発ハバロフスク行きの列車に乗った。
 イルクーツクからクラスノヤルスクまで来るときの列車代は2404ルーブルだったのに、帰りは1756ルーブルとずいぶん差がある。1088キロの距離で4人用コンパートメントなのにどうして値段が違うのかと、後でウェブサイトで調べてみると、列車によって3倍近い差のあることがわかった。たとえばモスクワからウラジオストックへの『ロシア』号に乗ると3158ルーブルだし、モスクワ・チタのような列車では同じ4人用コンパートメントで1126ルーブルだった。乗車時間も17時間18分と17時間42分というようにあまり変わりない。不思議な運賃差だ。高い方では絹のシーツでも支給されるのかと、昔風に思ってしまう。
 来るときの2404ルーブルと帰りの1756ルーブルでは、サ−ビス内容にまったく違いはなかった。
 1時間ほど遅れてイルクーツク時間夕方の9時15分に到着した。迎えに来てもらっていたナターシャさんには申し訳ない。ナターシャさん宅で2時間ほど、シャワーを浴びたり軽食を取ったりして休んでから12時ごろイルクーツク空港に着き、今度は延着なく夜中の1時45分に飛び立った。イルクーツク便は日本人が数人乗っている。墓参団だそうだ。
 朝の8時頃ウラジオストックについて、6時間も空港で暇をつぶしていた。町から遠くにある空港だからウラジオストックの知り合いを訪れる時間もない。こんな時こそ、延着すればいいのに。

 2004年クラスノヤルスクから帰国して7回目のロシア訪問だった。クラスノヤルスクへは6回目だ。クジモフカ村のような『(大げさに言えば)地の果て』に知り合いができた。

<後記>クジモフカ村のアリビナ先生とはその後メールで文通していた。
サーシャとインナは、その後用事でクラスノヤルスクに来てディーマ宅に一泊したそうだ。
カチュムデック村のサーシャ一家をバシュコルスタン地方から訪れたパーヴェルと言う男性がネットに写真と記事を乗せていた。メールで文通をしている。(2013年4月25日記)サーシャ一家では5人目の女の子が生まれたそうだ。みんな亜麻色の髪の美人さんたちだ。

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