up date | 2007年10月27日 | (校正2017年12月15日、2010年9月18日、2012年1月18日、2018年10月8日、2019年11月25日、2,021年3月12日、7月17日、2022年5月11日) |
21-(2) ハカシア古墳群とクラスノヤルスク地方の僻地 2 <エニセイ川を下る、スロマイ村、インディギン村など> 2007年6月21日から7月8日 |
Глушь Красноярского края, курганы в Хакасии (с 21 июня по 8 июля 2007)
1)航空券も高くなった | 2)石の下のトゥングースカ川のボル村 | 3)僻地探訪の合間に |
僻地が面白い | 密漁監視船『ザスロン』丸 | 全線開通の近道350キロ |
まずはウラジオストック | 3本のトゥングースカ川 | 東サヤン山脈のクラギノ地区 |
いつものクラスノヤルスク | 超少数民族ケット人村 | 『ドイツ人の家』 |
ハカシア共和国へ | 石のトゥングースカ川絶景 | ヴィッサリオン信者の村 |
『ツァーリの墓』 | キャビアのスマロコーヴァ村 | 『暁の町』へ |
ボロジノ洞窟 | 迷路の奥の隠れ村 | 天啓の地 |
先史時代都市跡 | 洪水のヴォーロコヴァ村 | チベリクリ湖 |
大きな石のばあさん | 寂れたフォムカ村 | 下山 |
手続き | 密漁者 | ウラジオストック経由帰国 |
沿岸の町で一番大きいのはクラスノヤルスクから300キロ北の人口7万人のレソシビリスク市で、材木の町です。そこから40キロほど北にあるのがクラスノヤルスクより古くて、当時エニセイ県の中心だったエニセイスク市です。町には古い教会や修道院が残っていますが、今は寂れて2万人ほどの町です(4、5回訪れたことがあります)。エニセイスク市を過ぎるとあとは小さな村があるだけです。17世紀ロシア人(というよりコサック隊)のシベリア進出の拠点としてできたような古い村もあります。 『日の出』号は途中の村々の小さな船着場で乗客を少しずつ降ろしながら先へ進みます。乗客はみなクラスノヤルスク帰りなので、ここから乗って、北の村まで行く人はほとんどいません。船内は乗客と一緒に荷物も減っていき、通路も歩きやすくなっていきました。 時刻表より1時間も遅れてポドカーメンナヤ・トゥングースカ川がエニセイに合流する地点のちょうど対岸にある目的地ボル村に着きました。 川原の船着場にはアリョーシャが車で出迎えています。まずはその車に乗り込んで、人口2千人のボル村見物です。他のエニセイ沿岸の村々が、ロシア人のシベリア経営の根拠地から始まったり、ロシア正教の旧教義(古儀式)派がシベリア辺境にのがれてきて作ったりと言うような古い集落なのに、ボル村は、戦後、中央シベリア地質(地下資源)調査の拠点にするために、まず空港をつくってできたという、社会主義計画都市(村だが)の一つです。でも、ソ連崩壊後は多くのシベリアの村々と同様、経済不振、つまり、働き口の不足に悩んできたのですが、北のヴァンコール油田開発が軌道にのると、この地方も豊かになるだろと、新聞などには書いてあります。 ボル村見物といっても、何も見るものはなく、10分も車で回ると全部見たことになります。ひと気のないポドカーメンナヤ・トゥングースカ空港も覗いて見ました。(後で調べたことですが、夏場は週に2回クラスノヤルスクからの往復便があって、片道運賃が3760ルーブルでした。船賃の2倍というほどではないが、飛行機では超過荷物運賃が高くつくから、荷物の多い乗客は船に乗るようだ)。 ディーマが早く引き上げようというので、店で買い物をしてから、私だけが泊ることになっているホテルに送ってもらいました。ホテルがあるのは、中央シベリア地質調査の基地ボル村へ外部から出張に来る人がいるからでしょう。ホテルの入り口には『トゥルハンスク・エネルギー』公社のボル支社と書かかれています。ロシアの田舎の古いホテルによくあるタイプで、出張族が増えても泊まれるようにひと部屋に多めにベッドが並んでいます。でも、私はもちろん一人で一部屋占有します。ソ連時代の(ビジネス)ホテルには、部屋ごとにトイレやシャワーがついていません。それでは困ります、と管理人に言うと、向かいの『デラックス』ルームのトイレ、シャワーを使えばいいということでした。 夜寝る前にシャワー使おうとすると、その部屋(デラックス・ルーム)の住人(男性)が 「あんたは誰か、これは自分の部屋についているものだ」などと言うものですから、 「だって、ホテルの人が使っていいと言ったんだもん」と答えると、ホテルの管理人に文句を言いに行ったらしいです。 「まあ、いいじゃないですか」というようなことを言われたらしいく、その男性はぷんぷんと怒って、シャワールームにあった自分の石鹸やかみそりを引き上げていきました。アリョーシャによると、まともなシャワーとトイレ、ベッドのある生活はこれが最後で、この先は当分厳しい環境になるということです。
二人の検査官が使っていた船首のキャビンを私とディーマが使うことにしました。船首甲板にある丸いハッチを開けると4段くらいの鉄はしごがあって、下りるとそこが板を張ったベッドが二つある狭いキャビンです。丸窓が4つあって蚊避けネットが張ってありますが、破れたところもありそうです。ちなみに私たちにキャビンを譲った検察官のヴァシーリーは、甲板に寝袋を広げて寝ていました。 操縦室は甲板の中央にあって、キッチンや食堂、トイレ、乗組員の仮眠室は操縦室から急な階段を下りた狭い船腹にかたまっています。トイレの水は、必要ごとにポンプの取手をぎっくぎっくと上下して船底から川水をくみ上げるようです。トイレにはシャワーもあって、浴びるとしばらくは水浸しになります。 船尾にある冷凍室には、証拠品の密猟魚チョウザメを保管します。 村の食堂でディーマやアリョーシャとブランチを済ますと、『ザスロン』丸についているモーターボートに乗り移りました。『ザスロン』丸は足が遅いので、見つけた密漁者を追いかけて捕まえるために小回りが効いて速度のあるモーターボートを2台とモーターがつかないボートを1台つけています。(今回は、私たち3人が別行動するために使うのです) モーターボートに乗り移る時は、水難にあっても溺れないようウレタンの詰まったジャケットを着ます。冷たい川風除けにもなります。『ザスロン』丸が上流のエニセイスクへ向かうのは明日なので、それまで、このボル村でエニセイ川と合流する右岸支流のパドカーメンナヤ・トゥングースカ川や、エニセイの下流方面を回ろうと言うのです。
そこから560キロ南のボル村の対岸に合流するのが『中流の』トゥングースカ川でポトカメンナヤ(石、つまり川底や川岸から石が突き出たエニセイ川の難所より下流に合流するので、『石・浅瀬』のある場所より下『流』の意味の)・トゥングースカ川Подкаменная Тунгуска 1865km、24万平方キロ)と呼ばれています。合流地点にあるのがポトカーメンナヤ・トゥングースカ村、そして、その向かいの左岸にあるのがボル村です。 さらに560キロ南に合流してくるのが『上流の』・トゥングースカ川で普通はアンガラ川と呼ばれ、2番目に大きい支流です。長さは1779kmですが、流域面積は100万平方キロあります。(日本の面積は38万平方キロ弱)。バイカル湖から流れ出るアンガラ川にはバイカルに流れ込む川の流域面積も含まれますが、それを除いても47万平方キロです。 エニセイ川へ東から流れ込むこれら3本のトゥングースカ川は、イルクーツク州から始まり、下流と中流トゥングースカ川はエヴェンキヤ民族自治管区(独立した自治体の期間もあったが、今はクラスノヤルスク地方に属する)を長々と横切り、クラスノヤルスク地方を南から北にほぼまっすぐ流れるエニセイ川に合流します。
エヴェンキヤの人口15,279人(2017年1月)のうち北方少数民族のエヴェンキ人は3,480人(ロシア全土のエヴェンキ人の総人口の約3万7千人の21%)で、あとの大部分はロシア系(62%)か、わずかに『その他の』少数民族です。面積は76万平方キロ(日本の2倍)もあるので、人口密度は地球上でも最も低い地域のひとつでしょう。43.3平方キロに1人です。 ケット人は、シベリアの超少数民族で、全人口は千人余(2015年)。現在ではケット語には近隣語はないと載っています。古アジア語とされるエニセイ諸語グループのうち今でも話し手のいる唯一最後の言語です。つまり、エニセイ諸語のアリン арин語や、アサン語 асан, ヤリン語 ярин, バフチン語 бахтинц、 コット語 котт、プムポコリ系語 пумпокольскиеなどの言語は、17世紀から20世紀までの間に、ケット語を除いてすべて死語となりました。エニセイ語族の話し手たちは17世紀前まではエニセイ流域、オビ川右岸などに広く住んでいて周囲のシベリア住人(サモディーツ系、ウゴール系、チュルク系、モンゴル系)とは全く異なった言語を話していました。エニセイ諸語の話し手は最も古いシベリア人(アジア人)で、クラスノヤルスクやハカシアにはアリン人などが住んでいたのでアリン語(つまりエニセイ諸語)の地名がたくさん残っています。 *ケロログ Келлог村(200人余、エニセイ右岸支流エログイ川の左岸支流ケロログ川近く)ケット人は紀元前2000年ころの南シベリアのオクネフ文化 окуневскаяやカラスク文化 карасукская культураの担い手だったと言う仮説もあります。また、アメリカ先住民に多いハブログループQ(北アメリア先住民には77.2%、南アメリアでは91%は)は2-3万年前中東で発生したと考えられ、その後中央アジア、アルタイ山脈北辺を通り、シベリアでマンモスなど大型哺乳類を狩りながら移動し、アメリカ大陸に移住していったと推定されてい,ますが、そのコースの途中のシベリアのケット人には93・7%の頻度で現れるとウィキペディアにあります。 ケット人は現在貴重な人たちで、後で知ったことですが、スロマイ村にもたびたび民俗学者たちが訪れているそうです。2003年には雪解け水の洪水(流氷)で村の大部分は流されたのですが(古い村)、その後、河岸段丘のやや高台に再建されました(新しい村)。洪水時の川の水位は通常より23メートル高まったとか。 アリョーシャは川岸に近い古い方の村にモーターボートをつけて、私とディーマを上陸させました。古い村を通って、坂を上って新しい村を見物したらいいよ、自分は新しい村の川岸で待っているからと言ってくれました。
川岸の『古い村』は全く無人と言うわけでもありません。2,3軒の家は人の気配がして家畜もいます。魚網が干してあったり、四足動物の皮が干してあったりします。坂の途中に新しい村役場があります。さすが、パラボラ・アンテナが2本立っていていますが、その横には冬場用のまきが山積みされています。役場の横にはたぶん村唯一の店もありましたが、閉まっています。エヴェンキヤには集落と集落を繋ぐような車の通れる陸路はないでしょうし、空路(トゥーラ村やバイキット村、ヴァナヴァラ村などを除いては緊急用のヘリコプターしか運航しないだろう)もなく、商品を届けるには水路しかありません。が、それも夏の初めの雪解け水かさが増えた短期間しか航行できません。ポトカーメンナヤ(上記のように、直訳は『石場の下流』、つまりエニセイ川の石=岩場の難所より下流で合流してくるトゥングース人の川の意)は夏の後半の渇水期はこちらも岩場が多くて小型船しか通行できないのです。ニジナヤ・トゥングースカ川の方は水量が多く、もっと長期間の河川運行が可能です。
*西シベリア平原 エニセイ川の西からウラル山脈まで続く西シベリアの水分は大概がオビ川に流れ込む支流となる。両岸にそそり立つ高い岩は、長い年月の間に風化侵食され、まるで人間の手によって特別に彫刻された搭や人物像のようでもあります。ディーマと私は言葉もなく見ほれていました。私はといえば、すっかり、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川のとりこになりました。パドカーメンナヤ・ツングースカ川が削ってできた岩山を眺めながらしばらく進んだところ、たぶん、スロマイ村から1時間ほども行ったところで、アリョーシャは「この辺だ」とモーターボートを川岸に停め、私たちは岩場に上陸しました。こんなに厳しく美しい場所が他にもあるでしょうか。 南部のクラスノヤルスクではとっくに終わってしまった雪下草(?подснежник)が川原の岩場のいたるところに白や黄色に咲いています。その背後にはアカゴケが生えた自然の石柱が建ち並んでいます。どうしてこんな所に成長できたものか、石柱の岩の間にカラマツや白樺がぎっしりと根を張り伸びています。私はうっとりとして、可憐な雪下草を摘んだり、まるで階段状の搭のようにそそそり立つ岩に登ってみたり(アンコール・ワットのようだ)、色のでるやわらかい石を見つけてそれで岩場に日付と名前を書いたりしていました。アリョーシャとディーマはヴォッカと肴の用意です。彼らロシア人男性達はヴォッカでいい気持ちになり、私はミネラル・ウォーターに肴のソーセージを美味しくいただき、3人ともご機嫌でした。 ディーマは冷たくて清いパドカーメンナヤ・トゥングースカ川で水浴びをし、アリョーシャも、 「これは飲料水として最高なんだ」と言って川水をペット・ボトルに汲んでいました。いつまでもこの絶景に囲まれていたかったのですが、1時間半ほどで引き上げました。 帰り道、行きとは違った方角からパドカーメンナヤ・トゥングースカが見られます。時刻は夕方の8時を過ぎていましたが、この高緯度地帯では夏場は暗い夜はほとんどありません。 来る時には気のつかなかった漁師小屋が左岸に見えます。まだ酔いの残っているディーマが寄ってみようといいました。蚊に御馳走を上げるようなものだと言うアリョーシャは、また川岸でボート番です。私は、旅行中は、誘われればどこへでも行って何でも見てこようという、誘われなくても自分で行ってみたいくらいの旅行者なので、喜んで上陸しました。シベリアの森にはこのような無人の小屋がところどころにあって、漁師や猟師が適時利用しています。住み心地は、快適とはいえませんが、雨風が凌げます。煮炊き用の鍋や、バケツ、マッチなどが残っていて、きっと宿泊者が重宝します。ちなみにディーマは自分の会社を立ち上げる前は半猟師だったと言っています。今でもハンティングが趣味です。でも、かわいそうな動物を撃たないでと、頼んだことがあります。だって母親を撃たれた、たとえば、いのししの子供はどうやって生き延びていけるでしょう、と言うと、 「うん、もうハンティングはしない、魚釣りはするけれど」という答えでした。 漁師(猟師)小屋見物で私とディーマは蚊にたっぷり餌をあげて、またモーターボートに乗り込みました。 私たちが『ザスロン』号に戻ったのは10時を過ぎていました。コックのオリガがすぐ夕食を出してくれました。乗組員のジェーニャとユーラがせっせと魚網の手入れをしているので、なぜかと聞くと、ディーマがボル村から数十キロの漁場で夜釣りを計画しているということでした。 「私も行きたいわ」というと、女性が参加すると魚がかからないということです。「日本では女性が参加しないと大漁にならない」ということわざがあると、でまかせでももっともらしく言ってみましたが、効き目はありませんでした。
この日はスマロコーヴォ Сумароково 村へ行く予定です。10時も過ぎてから、またウレタン・ジャケットを着てアリョーシのモーターボートに乗りこみました。スマロコーヴォ村は、エニセイに沿って27キロほど北の(下流の)川幅が広くなったところにあります。 しばらく行ったところで川中に船らしくないものが泊まっていました。キャビアを洗っているのだそうです。アリョーシャの知り合いが仕事をしているとかで、その『船』に上げてもらいました。チョウザメの成魚から卵を取り出し、ここのスマロコーヴァ村近くのエニセイの水で洗うようにして卵をバラします。自然の状態でチョウザメが産卵し、オスが受精しやすいようにしているのだそうです。卵が元気に受精を待つためには絶えず流れている冷水が必要です。箱の中に薄くガーゼで覆われているキャビアに作業員の女性が注意深く、汲み上げたエニセイの水を流し込んでいました。 ヘリコプターでクラスノヤルスクの水産試験所の人工孵化器に送られるまで、こうやって卵を自然に近い状態に保っているのだそうです。水産試験所で稚魚まで育ってから、放流します。自然の状態では10万個の卵から成魚になれるのは2個だけですが、この方法だと5%にもなるとか(聞き間違えていたのかも)。水産試験所の努力でエニセイ川とその支流のチョウザメ個体数は回復しつつある、とその作業員の女性は言っていました。 スマロコーヴォ村近くのエニセイ川は広く深く良い漁場であると旅行案内書にも書いてありますから、このあたりのエニセイ水はキャビアにとってもいいのかもしれません。 旅行案内書には、さらに、スマロコーヴォ村には北極探検家のフリチョフ・ナンセンが滞在したと書かれています。 スマロコーヴォ村に着くと、アリョーシャはまたモーターボートの番で、私とディーマさんが上陸しました。番をしている間、釣りをしているそうです。 私たちは坂を上って高い河岸段丘の上にある村へ向かいます。エニセイ沿岸の村々はどれも、春の雪解け水での洪水(流氷)になっても浸水しないように高い河岸段丘にあります。ですから、村から眺めるエニセイは素晴らしいものです。一番眺めのいい場所には戦没者記念碑があります。 ディーマさんと村をまた2周しました。玄関口で何か仕事をしているおばあさんと目があったので挨拶すると、愛想よく話しかけてくれました。おじいさんと二人で住んでいて、子供たちはクラスノヤルスクにいるが、ここまでは遠いのでめったに会いに来てはくれないそうです。クラスノヤルスクのような都会での生活は厳しく、この村での生活も厳しいが、菜園と牛がいるからなんとか食べていける、といっていました。自家製の牛乳とパンをごちそうしてくれました。 そのおばあさんにナンセンのことを聞きましたが、そんな話は全く知らないそうです。 ちなみに、帰国後、一応インターネットで調べたところ、1895年北極地点近くまで探検したナンセンは、1913年、北極海のバレンツ海からカラ海を航海し、エニセイ川の河口からさかのぼってクラスノヤルスクまで行っています。途中で立ち寄ったスマロコーヴァ村の市場で、自分たちの産物を売りに来ていたケット人に会い、興味を持ったそうです。 おばあさんの菜園の片隅にはクラスノヤルスクではもう散ってしまったジャルキ(シベリアのバラ)が咲いていました。この日スマロコーヴァ村は古い住人の一人の葬儀で、みんな墓地に行っていたため、あまりひと気がなかったのです。
私たちが村見物をしている間、アリョーシャは一匹も釣れなかったそうです。
出航して1時間ほど行ったところで、インディギン Индыгин村へ行くために、繋いで引いているモーターボートに、航行中の母船の『ザスロン』丸から船長サーシャが乗り移り、続いて私とコックのオーリャが乗り移ります。アリョーシャとディーマは、足の遅い『ザスロン』丸で、今回は(ゆっくり航行しながら)休憩です。
ヴォーロゴヴォ村にはサーシャの友達の船長が川岸に住んでいるので、その家で待たせてもらいました。夕食も御馳走になり、この村の話を聞いていました。話題は洪水のことです。
大河エニセイの流域面積は258万平方キロとざっと日本の7倍もあります。つまり、その領土内にある水分はすべて、エニセイの支流かその支流、支流の支流にされてしまい、最後はエニセイに流れ込みます。下流ほど集まってくる水量は多くなるのですが、アンガラ川合流地点より川下にあるヴォーロゴヴォ村の辺りでも、春の雪解けの頃にはかなりの水かさになります。数メートル高くなるのは普通で、10メートル以上のことも珍しくありません。ですから、エニセイ川岸にある村々は10メートル以上高い河岸段丘にできています。でも、このサーシャの友達の船長の家はあまり高台にはないのです。それで毎年流氷水に浸かってしまうそうです。雪解け水は短期のうちに流れ来て、流れ去っていくと言っていました。今年は水がついても大丈夫なように家具類は2階に上げておいたそうです。
「こんにちは、いかがお過ごしですか」と声をかけると、 「最低だわ…」と、そのあと卑語が続きます。 旧教義派らしいひげを生やした男性が水を汲みに来ていたので、オリガが蜂蜜酒のことを聞いていました。オリガが私と一緒に旧教義派村見物をする目的の一つは、この派のレシピで作った蜂蜜酒が実は有名だからのようです。 坂を上っていくと、ありふれたシベリアの寂れた村でした。初等学校の標札があったので、学校の先生なら村のことをよく知っているのではないかと、寄ってきた子供に先生の家を聞きました。案内された先生は村の一番はずれの家に住んでいて、菜園の世話をしていました。蚊とブヨ避けに家畜の糞を燃やしています。その煙の中に入ると苦しいですし、出ると吸血昆虫の餌になります。煙と昆虫空間の境目にいるのは難しいものです。 その女性は熱心な旧教義派(古儀式派)というわけでもありません。数年前、ウラル山地の村から事情があって移ってきました。そこも住みにくかったが、ここはもっと嫌なところだ、と吐き捨てるように言っていました。教義も村の貧困さも耐えられないのでしょう。この学校の先生のところは早めに切り上げ、村で年長だという女性と、まっすぐ立った塀に洗濯物を整然と干してあった新しい家の住民と、道を歩いていた両手にきゅうりを持った女の子に、私たちは話しかけてみました。みんな自分は旧教義派(古儀式派)というわけではない、この村は面白くないと言っていました。最後の女の子は私とオーリャに1本ずつきゅうりをくれました。この村に1時間半もいましたが、美しい景色も見つけることができず、『ザスロン』丸に戻りました。
次の日の30日も、10時ごろアリョーシャとヴァシーリーの出動がありました。 お昼ごろには『ザスロン』丸の折り返し地点、アンガラ川河口ストレルカ村に近づきます。アンガラ川合流地点からパドカーメンナヤ・トゥングースカ川の合流地点までの間の560キロのエニセイの密漁取締りが『ザスロン』丸の任務なのです。近くのパトチョーサヴォ Подчесово 村に入港するようです。ここは、船の修理に適した入り江があるので、一周してきた『ザスロン』丸をチェックするようです。また、乗組員はみんなこの村出身で、航海の後の休暇をとります。31歳のオリガも、この村の母親のところに12歳の息子をあずけています。 私たちはパトチョーサヴォ村のかなり手前で、モーターボートに乗り移り、左岸の材木工場のレソシビリスク市や古都エニセイスクを見ながら、2時間も行ってアブラコーヴォ Аблаково 村に着きました。ここに、クラスノヤルスクからの迎えの車が待っています。 アリョーシャと別れてディーマと私はアブラコーヴァ村で軽食を取り、車で一気に300キロ離れたクラスノヤルスクに向かいました。 |