クラスノヤルスク滞在記と滞在後記  
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home up date 2007年10月27日(校正07年12月15日,10年9月18日,12年1月18日)
 クラスノヤルスク地方の僻地(エニセイ中流、サヤン山脈の新興宗教共同体)と
 ハカシア古墳群  (2)
       2007年6月21日から7月8日

Глушь Красноярского края, курганы в Хакасии (с 21 июня по 8 июля 2007)

1)航空券も高くなった 2)石のトゥングースカ川のボル村 3)僻地探訪の合間に
 僻地が面白い  密漁監視船『ザスロン』丸  全線開通の近道350キロ
 まずはウラジオストック  3本のトゥングースカ川  東サヤン山脈のクラギノ地区
 いつものクラスノヤルスク  超少数民族ケト人村  『ドイツ人の家』
 ハカシア共和国へ  石のトゥングースカ川絶景  ヴィッサリオン信者の村
 『ツァーリの墓』  キャビアのスマロコーヴァ村  『暁の町』へ
 ボロジノ洞窟  迷路の奥の隠れ村  天啓の地
 先史時代都市跡  洪水のヴォロコヴァ村  チベリクリ湖
 大きな石のばあさん  寂れたフォムカ村  下山
 手続き  密漁者   いつもながらの終章

 ポトカーメンナヤ・トゥングースカ川のボル村へ
クラスノヤルスク地方を南から北に流れるエニセイ川
『日の出』号船内、所狭しと置かれた乗客の荷物
まだボル村に停泊中の『ザスロン』丸
  次の日、6月26日(火)、クラスノヤルスクの河川駅から7時発の水中翼船『日の出』号でディーマとボル村へ出発しました。クラスノヤルスクからボル村まではエニセイに沿って距離は889キロ、行きは川を下るので15時間20分、帰りは上るので16時間10分となっています。料金は2000ルーブル(9000円)もします。乗客は荷物をいっぱい持ったエニセイ川沿岸の村々の住民のようでした。私のような外国人観光客らしいのはいません。『日の出』号は沿岸の村人の足(しかし高めの運賃)ですから、観光客はめったに利用しないのです。

 
沿岸の町で一番大きいのはクラスノヤルスクから300キロ北の人口7万人のレソシビリスク市で、材木の町です。そこから40キロほど北にあるのがクラスノヤルスクより古くて、当時エニセイ県の中心だったエニセイスク市です。町には古い教会や修道院が残っていますが、今は寂れて2万人ほどの町です(4、5回訪れたことがあります)。エニセイスク市を過ぎるとあとは小さな村があるだけです。17世紀ロシア人(コサック)のシベリア進出の拠点としてできたような古い村もあります。
 『日の出』号は途中の村々の小さな船着場で乗客を少しずつ降ろしながら先へ進みます。船内は乗客と一緒に荷物も減っていき、通路も歩きやすくなっていきました。途中で乗ってくる村人もいましたが、多くはクラスノヤルスクから自分の村に帰る乗客です。
 時刻表より1時間も遅れてポドカーメンナヤ・トゥングースカ川がエニセイに合流する地点のちょうど対岸にある目的地ボル村に着きました。
 川原の船着場にはアリョーシャが車で出迎えています。まずはその車に乗り込んで、人口2千人のボル村見物です。他のエニセイ沿岸の村々が、ロシア人のシベリア経営の根拠地から始まったり、ロシア正教旧教義(古儀式)派がシベリア辺境にのがれてきて作ったりと言うような古い集落なのに、ボル村は、戦後、中央シベリア地質(地下資源)調査の拠点にするために空港をつくってできたという、社会主義計画都市(村だが)の一つです。でも、ソ連崩壊後は多くのシベリアの村々と同様、経済不振、つまり、働き口の不足に悩んできたのですが、北のヴァンコール油田開発が軌道にのると、この地方も豊かになるだろと、新聞などには書いてあります。
 ボル村見物といっても、何も見るものはなく、10分も車で回ると全部見たことになります。ひと気のないポドカーメンナヤ・トゥングースカ空港も覗いて見ました。(後で調べたことですが、夏場は週に2回クラスノヤルスクからの往復便があって、片道運賃が3760ルーブルでした)。
 ディーマが早く引き上げようというので、店で買い物をしてから、私だけが泊ることになっているホテルに送ってもらいました。ホテルがあるのは、中央シベリア地質調査の基地ボル村へ外部から出張に来る人がいるからでしょう。ホテルの入り口には『トゥルハンスク・エネルギー』公社のボル支社と書かかれています。ロシアの田舎の古いホテルによくあるタイプで、出張族が増えても(それは昔の話)泊まれるようにひと部屋に多めにベッドが並んでいます。でも、私はもちろん一人で一部屋占有します。ソ連時代の(ビジネス)ホテルには、部屋ごとにトイレやシャワーがついていません。それでは困ります、と管理人に言うと、向かいの『デラックス』ルームのトイレ、シャワーを使えばいいということでした。
 夜寝る前にシャワー使おうとすると、その部屋の住人(男性)が
「あんたは誰か、これは自分の部屋についているものだ」などと言うものですから、
「だって、ホテルの人が使っていいと言ったんだもん」と答えると、ホテルの管理人に文句を言いに行ったらしいです。
「まあ、いいじゃないですか」というようなことを言われたらしいく、その男性はぷんぷんと怒って、シャワールームにあった自分の石鹸やかみそりを引き上げていきました。アリョーシャによると、まともなシャワーとトイレ、ベッドのある生活はこれが最後で、この先は当分厳しい環境になるということです。


 密漁監視船『ザスロン』丸
船首甲板にあるハッチの中へ
ハッチの下のキャビン、丸窓の留め具には荷物を
冷凍室から出した、まだ子供のチョウザメ
 次の日、ホテルに迎えに来てもらって、アリョーシャの船に行きました。エニセイ川密漁監視船『ザスロン』丸は監査官アリョーシャとヴァシーリーと、船長と合わせて4人の乗組員、それに女性のコックがいる小さなディーゼル船です。私とディーマを入れると9人になります。
 二人の検査官が使っていた船首のキャビンを私とディーマが使うことにしました。船首甲板にある丸いハッチを開けると4段くらいの鉄はしごがあって、下りるとそこが板を張ったベッドが二つある狭いキャビンです。丸窓が4つあって蚊避けネットが張ってありますが、破れたところもありそうです。ちなみに私たちにキャビンを譲った検察官のヴァシーリーは、甲板に寝袋を広げて寝ていました。
 操縦室は甲板の中央にあって、キッチンや食堂、トイレ、乗組員の仮眠室は操縦室から急な階段を下りた狭い船腹にかたまっています。トイレの水は、必要ごとにポンプの取手をぎっくぎっくと上下して船底から川水をくみ上げるようです。トイレにはシャワーもあって、浴びるとしばらくは水浸しになります。
 船尾にある冷凍室には、証拠品の密猟魚チョウザメを保管します。
 食堂でディーマやアリョーシャとブランチを済ますと、『ザスロン』丸についているモーターボートに乗り移りました。『ザスロン』丸は足が遅いので、見つけた密漁者を追いかけて捕まえるために小回りが効いて速度のあるモーターボートを2台とモーターがつかないボートを1台つけています。(今回は、私たち3人が別行動するために使うのです)
 モーターボートに乗り移る時は、水難にあっても溺れないようウレタンの詰まったジャケットを着ます。冷たい川風除けにもなります『ザスロン』丸が上流のエニセイスクへ向かうのは明日なので、それまで、このボル村で合流するエニセイ右岸支流のパドカーメンナヤ・トゥングースカ川や、エニセイの下流方面を回ろうと言うのです。

 3本のトゥングースカ川
 南から北へ4000キロにわたって流れるエニセイ川の右岸に、東から流れてきた3本のトゥングースカ川が合流します。(地図は、前頁の『僻地が面白い』に掲載)。1番大きいのが1番北を流れる『ニジナヤ(下流の)』・トゥングースカ川(長さ2989km、流域面積47万平方キロ)で、その合流地点にはトゥルハンスクと言うシベリアでも最も古い町があります。
 そこから560キロ南のボル村の対岸に合流するのが『中流の』トゥングースカ川でポトカメンナヤ(石の、つまり難所より下流にある)・トゥングースカ川(1865km、24万平方キロ)と呼ばれています。合流地点にあるのがホトカーメンナヤ・トゥングースカ村、その向かいの左岸にあるのがボル村です。
 さらに560キロ南に合流してくるのが『上流の』・トゥングースカ川で普通はアンガラ川と呼ばれ、2番目に大きい支流です。長さは1779kmですが、流域面積は100万平方キロあります。(日本の面積は38万平方キロ弱)。バイカル湖から流れ出るアンガラ川にはバイカルに流れ込む川の流域面積も含まれますが、それを除いても47万平方キロですから。
 エニセイへ東から流れ込むこれら3本のトゥングースカ川は、イルクーツク州から始まり、下流と中流トゥングースカ川はエヴェンキヤ民族自治管区(独立した自治体の期間もあったが、今はクラスノヤルスク地方に属する)を長々と横切ります。

 超少数民族ケト人のスロマイ村
 ウレタン・ジャケットを着込んだ私とディーマは、停泊中のザスロン丸から乗り移った足の速いモーターボートで、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川をさかのぼっていきました。72キロ、2時間近く行ったところにスロマイ村があります。そこはもうエヴェンキヤ自治管区です。

 エヴェンキヤの人口17,278人(2006年1月)のうち北方少数民族のエヴェンキ人は3,480人(ロシア全土のエヴェンキ人の総人口は約3万人)で、あとの大部分はロシア系かその他の少数民族です。面積は76万平方キロ(日本の2倍)もあるので、人口密度は地球上でも最も低い地域でしょう。43.3平方キロに1人です。
 住民の75%は、管区庁所在地のトゥーラ町など3つの町に住んでいますが、人口数百人の村が16個、数十人の村が4個あります。人口13位の集落が、200人のケト人村スロマイです。ケト語で「赤い粘土の崖」という意味です。

 ケト人は、シベリアの超少数民族で1999年調査では742人となっています。ケト語には近隣語はなく、エニセイ諸語グループのうち今でも話し手のいる唯一最後の言語です。ケト人は17世紀前まではエニセイ流域に広く住んでいて、ケト語の地名がたくさん残っています。現在は、トゥルハンスク地区に散らばって住んでいますが、ケト人のもともとの集落で残っているのはスロマイ村のほか2つの村だけです。2003年には雪解け水の洪水(流氷)で村の大部分は流されたのですが(古い村)、その後、河岸段丘のやや高台に再建されました(新しい村)。
 アリョーシャは川岸に近い古い方の村にモーターボートをつけて、私とディーマを上陸させました。古い村を通って、坂を上って新しい村を見物したらいい、自分は新しい村の川岸で待っているからと言ってくれました。

スロマイ村村役場
私たちを呼び止めたケト人男性
『そろそろこっちに来ない?』と言われて座る。
頭髪がグレーの女性がスロマイ小学校の校長
水浴びするスロマイ村の子供たち

 川岸の『古い村』は全く無人と言うわけでもありません。2,3軒の家は人の気配がして家畜もいます。魚網が干してあったり、四足動物の皮が干してあったりします。坂の途中に新しい村役場があります。さすが、パラボラ・アンテナが2本立っていていますが、その横には冬場用のまきが山積みされています。役場の横にはたぶん村唯一の店もありましたが、閉まっています。エヴェンキヤには車の通れるような陸路はないでしょうし、空路もなく、商品を届けるには水路しかありません。が、それも夏の初めの雪解け水かさが増えた短期間しか航行できません。ポトカーメンナヤ(直訳は『石の下』、つまりエニセイ川の石=岩場の難所より流で合流してくるトゥングース人の川)は夏の後半の渇水期はこちらも岩場が多くて小型船しか通行できないのです。ニジナヤ・トゥングースカ川は水量が多く、もっと長期間の河川運行が可能です。 
 人をたくさん乗せたバイクが坂を上ってきました。横を歩いていた村の少年が、
「僕も坂の上まで乗せて行って」と言ってバイクのサイドに飛び乗りました。坂の上の新しい村には通りが1本あるだけです。ディーマとゆっくり、きょろきょろしながら歩いてゆくと、住民もじろじろ私たちを見ます。そのうち1軒の家からロシア人ではない男性が
「入って来いよ、入って来いよ」と声をかけます。私も、
「ディーマさん、入ろうではないの」と誘いに応じました。
「ヴォッカはないか」とすぐ聞かれます。家の玄関口にはそのケト人の男性とおばあさんと子供の他にロシア人男性が1人いて、みんな酔っていました。
「どこから来たのか」と聞かれます。日本からと答えると、
「ジャッキー・チェンを知ってる」と言われました。おばあさんは、自分のケト語の名前はベバというのだと繰り返します。酔ったケト人男性がやたら抱きつくので、早めに引き上げることにしました。
 通りを歩いていくと、新しい初等学校(4年生まで)と幼稚園の合同校舎が夏休み中の修理をしています。時々村人とすれ違うのですが、みんなひどく酔っ払っているか、酔っ払い気味の人ばかりです。これはスロマイ村に限らず、ロシアの農村では、他にすることもないらしく、酔っ払いが多いです。シベリア先住民のケト人はアルコールに弱く、ロシア人と同じ分量を飲んでも酔い方が激しいと、ディーマが言っていました。
 スロマイ村の通りも2周した頃、ずっと私たちを観察していたらしい3人の女性に呼び止められました。彼女らも玄関口のベンチに座っています。
「そろそろ、こっちに入って来ない」と言われます。3人はケト人で、そのうちの一人は先ほど見かけた学校の校長だそうです。ティガノヴァというロシア語の姓があるが、名前はケト語ではラムチュルムといって、水生甲虫(といえばゲンゴロウか)という意味だそうです。ラムチュルム先生によると、9月の新学期から学校でインターネットが使えるという計画があるとか。また、スロマイ村にヘリコプター離着陸場建設計画もあるそうです。事実ポトカーメンナヤ・トゥングースカ川沿岸にある孤立したいくつかの村にヘリポートが作られつつあるという記事もエヴェンキヤ自治管区公式ホームページに載っています。
 ディーマによると、この3人もしらふではないそうです。ちなみに、ここのケト人の大部分はティガノフという苗字のようです。
 川岸でモーターボートの番をしているアリョーシャをあまり長く待たせるのも悪いので、スロマイ村見物は1時間ほどで切り上げました。川岸では10人くらいのロシア人やケト人の少年達が水浴びをしています。カメラを向けると寄って来ました。
「何年生なの、ここの水は冷たくないの、水遊びは面白いね、夏休みは何してるの」とお決まりの質問をしてみます。決まり悪そうにも愛想よく答えてくれます。
「いつも何しているの。ヴォッカを飲んだり、タバコをすったりしていないでしょうね」と言うとヒヒヒと変な笑い方をします。後からディーマに言われたのですが、私は馬鹿な質問をしたそうです。

ポトカーメンナヤ(石の下の)・ツングース川の絶景
川岸に飛び移ってモーターボートを繋ぐ
川岸の切り立った岩
切り立った岩に少し上って写してもらった
ヴォッカがあると自然はもっと美しくなるらしい
クラスノヤルスク市では
雪がとけた5月ごろ咲くマツユキソウ
無人の漁師小屋
住み心地はいまいちだが、ワンルーム小屋
 アリョーシャのモーターボートに乗り、ポトカーメンナヤ・トゥングースカ川をさらにさかのぼっていきました。人口密度が1平方キロに0.023人というエヴェンキヤを流れるパドカーメンナヤ・トゥングースカ川は手づかずの自然が残っていて、この世のものとも思われないほど美しいのです。赤い粘土の沿岸がしばらく続いた後、両岸に岩がそそり立つ『シェーキ(一般には頬という意味、側面、切り立った川岸という意味もあるらしい)』というパドカーメンナヤ・トゥングースカの名所に出ます。エニセイの西側はウラル山地まで続く広い西シベリア平原なのに対して、東側はレナ川盆地まで続く中央シベリア台地です。東岸を流れてエニセイに合流する3本のトゥングースカ川は中央シベリア台地を削って流れます。そのため、これらの川には浅瀬や岩場が多いのでしょう。『シェーキ』はイルクーツク州から流れるパドカーメンナヤ・トゥングースカ川の最後の難所です。
 両岸にそそり立つ高い岩は、長い年月の間に風化侵食され、まるで人間の手によって特別に彫刻された搭や人物像のようでもあります。ディーマと私は言葉もなく見ほれていました。私はといえば、すっかり、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川のとりこになりました。スロマイ村から1時間ほども言ったところで、アリョーシャは「この辺だ」とモーターボートを川着に停め、私たちは岩場に上陸しました。こんなに厳しく美しい場所が他にもあるでしょうか。


 南部のクラスノヤルスクではとっくに終わってしまった雪草が川原の岩場のいたるところに白や黄色に咲いています。その背後にはアカゴケが生えた自然の石柱が建ち並んでいます。どうしてこんな所に成長できたものか、石柱の岩の間にカラマツや白樺がぎっしりと伸びています。私はうっとりとして、可憐な雪下草を摘んだり、まるで階段状の搭のようにそそそり立つ岩に登ってみたり(アンコール・ワットのようだ)、色のでるやわらかい石を見つけてそれで岩場に日付と名前を書いたりしていました。アリョーシャとディーマはヴォッカと肴の用意です。彼らロシア人男性達はヴォッカでいい気持ちになり、私はミネラル・ウォーターに肴のソーセージを美味しくいただき、3人ともご機嫌でした。
 ディーマは冷たくて清いパドカーメンナヤ・トゥングースカ川で水浴びをし、アリョーシャも、
「これは飲料水として最高なんだ」と言って川水をペット・ボトルに汲んでいました。いつまでもこの絶景に囲まれていたかったのですが、1時間半ほどで引き上げました。
 
 帰り道、行きとは違った方角からパドカーメンナヤ・トゥングースカが見られます。時刻は夕方の8時を過ぎていましたが、この高緯度地帯では夏場は夜なんでほとんどありません。
 来る時には気のつかなかった漁師小屋が左岸に見えます。まだ酔いの残っているディーマが寄ってみようといいました。蚊に御馳走を上げるようなものだと言うアリョーシャは、また川岸でボート番です。私は何でも見たい体験したいというおばちゃんなので、喜んで上陸しました。シベリアの森にはこのような無人の小屋がところどころにあって、漁師や猟師が適時利用しています。住み心地は、快適とはいえませんが、雨風が凌げます。煮炊き用の鍋や、バケツ、マッチなどが残っていて、きっと宿泊者が重宝します。ちなみにディーマは自分の会社を立ち上げる前は半猟師でした。今でもハンティングが趣味です。でも、かわいそうな動物を撃たないでと、頼んだことがあります。だって母親を撃たれた、たとえば、いのししの子供はどうやって生き延びていけるでしょう、と言うと、
「うん、もうハンティングはしない、魚釣りはするけれど」という答えでした。
 漁師(猟師)小屋見物で私とディーマは蚊にたっぷり餌をあげて、またモーターボートに乗り込みました。
 私たちが『ザスロン』号に戻ったのは10時を過ぎていました。コックのオリガがすぐ夕食を出してくれました。乗組員のジェーニャとユーラがせっせと魚網の手入れをしているので、なぜかと聞くと、ディーマがボル村から数十キロの漁場で夜釣りを計画しているということでした。
「私も行きたいわ」というと、女性が参加すると魚がかからないということです。試しに、日本では女性が参加しないと大漁にならないということわざがある、ともっともらしく言ってみましたが、効き目はありませんでした。

魚網の準備

 キャビアのスマロコーヴァ村
エニセイ川中にあるキャビア洗い場
自然の産卵後のように、絶えず新鮮な川水を流す
キャビアがばらされて育ちやすくなる
スマルコーヴァ村からエニセイ川を見下ろす
自家製牛乳とパンをご馳走してくれる
 6月28日(木)も、『ザスロン』丸は、ボル村に停泊したままです。ここはこの船の北の折り返し地点で、次の南の折り返し地点のストレイカ村まではノンストップで行きますから、ここでの仕事も多いのでしょう。
 この日はスマロコーヴォ村へ行く予定です。10時も過ぎてから、またウレタン・ジャケットを着てアリョーシのモーターボートに乗りこみました。スマロコーヴォ村は、エニセイに沿って27キロほど北の(下流の)川幅が広くなったところにあります。
 しばらく行ったところで川中に船らしくないものが泊まっていました。キャビアを洗っているのだそうです。アリョーシャの知り合いが仕事をしているとかで、その『船』に上げてもらいました。チョウザメの成魚から卵を取り出し、ここのスマロコーヴァ村近くのエニセイの水で洗うようにして卵をバラします。自然の状態でチョウザメが産卵し、オスが受精しやすいようにしているのだそうです。卵が元気に受精を待つためには絶えず流れている冷水が必要です。箱の中に薄くガーゼで覆われているキャビアに作業員の女性が注意深く、汲み上げたエニセイの水を流し込んでいました。
 ヘリコプターでクラスノヤルスクの水産試験所の人工孵化器に送られるまで、こうやって卵を自然に近い状態に保っているのだそうです。水産試験所で稚魚まで育ってから、放流します。自然の状態では10万個の卵から成魚になれるのは2個だけですが、この方法だと5%にもなるとか。水産試験所の努力でエニセイ川とその支s流のチョウザメ個体数は回復しつつある、とその作業員の女性は言っていました。
 スマロコーヴォ村近くのエニセイ川は広く深く良い漁場であると旅行案内書にも書いてありますから、このあたりのエニセイ水はキャビアにとってもいいのかもしれません。
 旅行案内書には、さらに、スマロコーヴォ村には北極探検家のフリチョフ・ナンセンが滞在したとあると書かれています。

 スマロコーヴォ村に着くと、アリョーシャはまたモーターボートの番で、私とディーマさんが上陸しました。番をしている間、釣りをしているそうです。
 私たちは坂を上って高い河岸段丘の上にある村へ向かいます。エニセイ沿岸の村々はどれも、春の雪解け水での洪水(流氷)になっても浸水しないように高い河岸段丘にあります。ですから、村から眺めるエニセイは素晴らしいものです。一番眺めのいい場所には戦没者記念碑があります。
 ディーマさんと村をまた2周しました。玄関口で何か仕事をしているおばあさんと目があったので挨拶すると、愛想よく話しかけてくれました。おじいさんと二人で住んでいて、子供たちはクラスノヤルスクにいるが、ここまでは遠いのでめったに会いに来てはくれないそうです。クラスノヤルスクのような都会での生活は厳しく、この村での生活も厳しいが、菜園と牛がいるからなんとか食べていける、といっていました。自家製の牛乳とパンをごちそうしてくれました。
 そのおばあさんにナンセンのことを聞きましたが、そんな話は全く知らないそうです。

 ちなみに、帰国後、一応インターネットで調べたところ、1895年北極地点近くまで探検したナンセンは、1913年、北極海のバレンツ海からカラ海を航海し、エニセイ川の河口からさかのぼってクラスノヤルスクまで行っています。途中で立ち寄ったスマロコーヴァ村の市場で、自分たちの産物を売りに来ていたケト人に会い、興味を持ったそうです。 
看板から糸と貼りだけで簡単に釣れてしまう

 おばあさんの菜園の片隅にはクラスノヤルスクではもう散ってしまったジャルキ(シベリアのバラ)が咲いていました。この日スマロコーヴァ村は古い住人の一人の葬儀で、みんな墓地に行っていたため、あまりひと気がなかったのです。
 私たちが村見物をしている間、アリョーシャは一匹も釣れなかったそうです。

 スマロコーヴァ村から『ザスロン』丸に戻ると、乗組員のジェーニャが船の上から釣り糸と釣り針だけで次々と魚を釣り上げていました。すぐバケツにいっぱいになりました。それをコックのオーリャがさっそくから揚げにしてくれたので、船に訪問したボル村の係官も一緒に皆でおいしくいただきました。
 そうしている間に、出航です。2隻のモーターボートは『ザスロン』丸に繋いで引いていきますが、モーターのついてないボートは甲板に上げます。 

 迷路の奥の隠れ村インディギノ
この辺のエニセイ川、目印の浮標
旧教義派(古儀式派)ロマシェフさん宅の台所
『インディギノ村のロマショフ一家より、シベリアから
日本へ挨拶を』と奥さんと二人で書いてくれる
子沢山の一家の末の二人
インディギノ村住民

 出航して1時間ほど行ったところで、インディギノ村へ行くために、繋いで引いているモーターボートに、航行中の母船の『ザスロン』丸から船長サーシャが乗り移り、続いて私とコックのオーリャが乗り移ります。アリョーシャとディーマは、足の遅い『ザスロン』丸で、今回は休憩です。
 インディギノ村は、ロシア正教の旧教義派(古儀式派)が隠れ住んだ村で、エニセイを航行する船からも見えないところにあります。この辺のエニセイにはたくさん中洲があって、その間の水路(エニセイの分流)は迷路のようです。もちろん、エニセイ川河川運航のためには迷路にはまらず浅瀬に乗り上げず安全に通れるよう指標が川中に固定してあったり、岸辺の目立つところに立っていたりします。
 それら中洲や分流の道筋に詳しい人だけが、インディギノ村までたどり着けます。何せ、それぞれの中州や分流には何の印もなく水位によって姿が変わりますから。ベテランのサーシャですら、インディギノ村をすぐには見つけられず、中洲の間を行ったりきたりして
「おっ、ここではなかったぞ」とか、
「うーん、もうそろそろ見えるはずだが」言っていたくらいです。
 『ザスロン』丸を離れて1時間半くらいして、夕方の9時半ごろ、インディギン中州の対岸にあるインディギノ村に着きました。シベリアの多くの村々は寂れていて、傾いたままの塀や、道端に打ち捨てられたさびた農具、窓ガラスの割れた荒れた小屋、ごみの散らばったでこぼこの埃っぽい道をふらふら歩いている酔っ払いの姿などがおなじみなのに、このインディギノ村は、それら雑然とした村々を見た後では、はっとするほど整っています。家々は手入れが行き届いて、家の周りの菜園も雑草もなく整然と植わっています。もちろんそれを囲む塀もまっすぐ立っています。村人は亜麻色の髪のロシア人だけで、見知らぬオーリャと私をじろじろ見ています。ロシア正教旧教義派(古儀式派)の古い決まりで男性はひげをそらないようです。女性はスカートです。
 オーリャが早速村人を呼び止めて、日本から来たのだ、旧教義派(古儀式派)や村のことをよく知っている人を教えてほしいと話しかけます。すぐ人だかりがして、みんな私をまじまじと見ています。オーリャと私は教えてもらった家に向かいました。『長老』でしょうか。
 この村ではどの家も大きくて立派です。大家族で住むからでしょうか、私たちが向かった家も大きくて、事情を話すと家の中に案内されました。屋根つきの中庭といった感じで、台所、居間、廊下、物置、客間をかねているようなよく整頓された部屋で、いすに座って待っていると、この家の主人が外から現れました。
 長いもじゃもじゃひげで、
「日本人?偶像崇拝者かね」と警戒がちに話しはじめました。確かに仏像を拝んだりしますが。
 旧教義派(古儀式派)は17世紀ロシア正教のニコン総主教の改革に反対し分離派と呼ばれた人たちで、20世紀のはじめまでロシアの各地の、モスクワの権力の及ばない、特に未開拓の地で共同体を作って住んでいました。厳しく迫害された時期もあって、文明から離れた誰にも見つからないようなところに住んだ分離派(旧教義派・古儀式派)共同体も多くあります。クラスノヤルスク地方やトゥヴァ、ハカシア共和国などの、エニセイ支流が流れる針葉樹林の中には今でも多くのそういった共同体があります。旧教義派(古儀式派)の人たち、と言っても、自分達こそがロシア正教で、権力側をニコン派と呼んでいるのですが、自分達の教義を保つために、文明社会から離れて、ニコン派の人たちとは食器も別にする、つまり訪問者の普通のロシア人が飲んだ茶碗を自分たち用にはもう使わないそうで、また、文明の利器を拒否した自給自足の生活を送っています。
 でもよく見ると、小さいけれど冷蔵庫があります。でもこれはどうしても必要なのだそうです。バス・コントロールをしないので一家は子沢山です。私達の話しているそばを小さい子や大きい子が行ったり来たりしています。しばらく座って話を聞いている子もいます。みんなこざっぱりして、22歳だと言う息子は、まだ少年のように初々しい顔立ちです。一番小さいという女の子がずっと私達のそばに座っていました。ふと見ると長いすでまどろんでいます。
 ソ連時代も、この人たちの生活は厳しく、社会主義的集団農場も作られ、彼らは兵役にも就いたそうです。1時間くらいも話していたでしょう。なんだか親しくなったようです。日本と毛皮の取引をしたいとまで言われました。自給自足経済だから現金は必要ないでしょうと言いましたが、いや、実はとても必要なのだ、とのことです。特にモーターボートの燃料は現金がないと買えないそうです。モーターボートはなぜ必要なのでしょうか。外部の村から冷蔵庫などの電気製品を買うためでしょうか。やはり、『異教徒』と接触しないで生きる、と言う教義を守るのは難しいのです。と言うことは口に出しませんでしたが。
 席を立ちかけた頃、奥さんからお茶を飲んでいったらと、勧められました。これは例外的な歓待ぶりです。異教徒とは食器をともにしないのですから。おまけに写真を撮ってもいいとまで言われました。別れる時、奥さんがイラクサ(薬草)のピロシキを包んでくれ、主人は白樺製の入れ物の民芸品をプレゼンにくれました。その民芸品の蓋の裏に何か記念になることを書いてほしいと頼むと、『インディギノ村のロマショフ一家より、シベリアから日本へ挨拶を』と奥さんと二人で書いていました。後でよく見ると『日本』のロシア語が、正しくはヤポーニアなのにエポーニアとなっていました。こんなスペルをつづった事がなかったのでしょう。
 ロマショフさん宅を出て、オリガと私はぐるりと村を一周しました。なんだかみんなに呼び止められて写真を撮ってと言われます。村内ではニュースが伝わるのが早いです。
 川岸でモーターボートの番をして待っているサーシャのところに戻ったのは11時半ごろです。迷路のようなインディギノ分流やパンテレーエフスキイ分流を乗り越え、エニセイ本流に出て出発点ボル村の84キロ南(川上)にあるヴォロゴヴォ村に向かいます。ここで『ザスロン』丸と合流するのです。モーターボートは足が早いので、インディギノに寄り道した私達のほうがずっと早くヴォロゴヴォ村に着き、そこで2時間も待っていました。

 洪水のヴォロコヴァ村

 ヴォロゴヴォ村にはサーシャの友達の船長が川岸に住んでいるので、その家で待たせてもらいました。夕食も御馳走になり、この村の話を聞いていました。話題は洪水のことです。

『ザスロン』丸の操縦室
アリョーシャ(右手をあげている)とディーマ、
もう一人の監査官

 大河エニセイの流域面積は258万平方キロとざっと日本の7倍もあります。つまり、その領土内にある水分はすべて、エニセイの支流かその支流にされてしまい、最後はエニセイに流れ込みます。下流ほど集まってくる水量は多くなるのですが、アンガラ川合流地点より川下にあるヴォロゴヴォ村の辺りでも、春の雪解けの頃にはかなりの水かさになります。数メートル高くなるのは普通で、十メートル以上のことも珍しくありません。ですから、エニセイ川岸にある村々は10メートル以上高い河岸段丘にできています。でも、このサーシャの友達の船長の家はあまり高台にはないのです。それで毎年流氷水に浸かってしまうそうです。雪解け水は短期のうちに流れ来て、流れ去っていくと言っていました。今年は水がついても大丈夫なように家具類は2階に上げておいたそうです。

 夜中の1時半も過ぎて、まだ『ザスロン』丸が追いついてくれないので、私たちは船長の船のキャビンで寝かせてもらいました。3時近く、サーシャが『ザスロン』丸が見えたからと起してくれ、私たちはモーターボートで近づき、速度を緩めない『ザスロン』丸に無事乗り移りました。

 29日、もうこの船に乗って3日目で、乗組員たちともすっかり親しくなりました。みんな日本のことを聞きたそうですが、なにを聞いたらいいかわからないようです。私は操縦室に座ってエニセイ詳細地図を眺めていました。距離、水深、川幅、分流、中洲、集落、支流、浅瀬などのほか川岸に立ててある標識番号や、川中にあるブイの番号が載っているほか、細かい流れの様子や注意点が、ぎっしり書かれています。川の様子は変わるので、毎年のように修正文が貼り付けてあります。全ページをデジカメで撮っておきました。クルーズは暇なので、狭い船内をうろうろして写真をとりまくるか、エニセイの川面をぼんやり見るほかすることがありません。

 寂れたフォムカ村
フォムカ村川岸
フォムカ村の通り
 ヴォロゴヴォ村から142キロ南(川上)にあるのが、次に私とオリガがこの日の2時半頃上陸したフォムカ村です。フォムカ村も旧教義派(古儀式派)の村なのだそうです。しかし大動脈エニセイの川岸にあるせいなのか、どうなのか、インディギノとは全く違っていました。モーターボートで上陸したところには村人の女性が川で食器を洗っていました。オリガが
「こんにちは、いかがお過ごしですか」と声をかけると、
「最低だわ…」と、そのあと卑語が続きます。
 旧教義派らしいひげを生やした男性が水を汲みに来ていたので、オリガが蜂蜜酒のことを聞いていました。オリガが私と一緒に旧教義派村見物をする目的の一つはこの派のレシピで作った蜂蜜酒が実は有名だからのようです。
 坂を上っていくと、ありふれたシベリアの寂れた村でした。初等学校の標札があったので、学校の先生なら村のことをよく知っているのではないかと、寄ってきた子供に先生の家を聞きました。案内された先生は村の一番はずれの家に住んでいて、菜園の世話をしていました。蚊とブヨ避けに家畜の糞を燃やしています。その煙の中に入ると苦しいですし、出ると吸血昆虫の餌になります。煙と昆虫空間の境目にいるのは難しいものです。
 その女性は熱心な旧教義派(古儀式派)というわけでもありません。数年前、ウラル山地の村から事情があって移ってきました。そこも住みにくかったがここはもっと嫌なところだ、と吐き捨てるように言っていました。教義も村の貧困さも耐えられないのでしょう。この学校の先生のところは早めに切り上げ、村で年長だという女性と、まっすぐ立った塀に洗濯物を整然と干してあった新しい家の住民と、道を歩いていた両手にきゅうりを持った女の子に、私たちは話しかけてみました。みんな自分は旧教義派(古儀式派)というわけではない、この村は面白くないと言っていました。最後の女の子は私とオーリャに1本ずつきゅうりをくれました。この村に1時間半もいましたが、美しい景色も見つけることができず、『ザスロン』丸に戻りました。

 密漁者
 この日の夜、12時過ぎ、密猟者を見つけたようです。監査官のアリョーシャとヴァシーリーがモーターボートに飛び乗って現場に向かいました。密猟者は網を捨てて逃げたとか。その網を後で乗組員のジェーニャが見せてくれたのですが、大きな鈎がいっぱいついていました。チョウザメ用です。
監査官の出動

 次の日の30日も、10時ごろアリョーシャとヴァシーリーの出動がありました。
 お昼ごろには『ザスロン』丸の折り返し地点、アンガラ川河口ストレルカ村に近づきます。アンガラ川合流地点からパドカーメンナヤ・トゥングースカ川の合流地点までの間の560キロのエニセイの密漁取締りが『ザスロン』丸の任務なのです。近くのパトチョーサヴォ村に入港するようです。ここは、船の修理に適した入り江があるので、一周してきた『ザスロン』丸をチェックするようです。また、乗組員はみんなこの村出身で、航海の後の休暇をとります。31歳のオリガも、この村の母親のところに12歳の息子をあずけています。
 私たちはパトチョーサヴォ村のかなり手前で、モーターボートに乗り移り、左岸の材木工場のレソシビリスク市や古都エニセイスクを見ながら、2時間も行ってアブラコーヴォ村に着きました。ここに、クラスノヤルスクからの迎えの車が待っています。
 アリョーシャと別れてディーマと私はアブラコーヴァ村で軽食を取り、車で一気に300キロ離れたクラスノヤルスクに向かいました。

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