と滞在後記
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2007年10月27日
(校正: 2012年1月18日、2013年5月13日、2018年9月28日、2019年11月25日、2021年7月17日、2022年5月13日)
22−(3) ハカシア古墳群とクラスノヤルスク地方の僻地
( サヤン山脈の新興宗教共同体) 2007年6月21日から7月8日
Грушь Красноярского края. Курганы в Хакасии (с 21 июня 8 июля 2007 года)
7月2日(月)、ザスロン丸から降りて、クラスノヤルスクに陸路で戻ったのは夕方の5時過ぎでした。この日が最終日のドラッグレースがまだ終わっていないかもしれないと、直接競技場へ向かいました。去年は夕方の9時まであったので。
地元テレビ局でのインタビュー
寿司バー『7人の侍』
「これです」
ドラッグレース用車のチューニング
でもレース場は見物者の車もいっぱいで、おまけに雨で中止になったとか言う情報もあったので引き上げました。ナースチャのアパートに戻ったところで、ミーシャから電話があって、今クラスノヤルスクにいるから会えないかと言うのです。ミーシャと言えば、ゼレノゴルスクにいた頃(1992年から94年)日本語を教え、それから、音信が途絶えがちながらも続き、2年前には日本に来たこともあり、1年前は、彼の手引きで閉鎖都市ゼレノゴルスクに潜入したこともあります。
ぎっしり詰まった日程が大好きな私は、ナースチャのアパートに鞄を置いてすぐミーシャに会いに出かけました。まだ夕方の7時半です。クラスノヤルスクに来た時はいつも行くことにしているカラウリヌィ岡の上の見張り塔(今は礼拝堂)と、エニセイ川が眼下に見える高い河岸段丘(グレミャーチャ・ロッグのエニセイ側)へ、ミーシャの車で夕方のドライブをしました。いっしょに食事をしようと言うので、寿司バー『七人の侍』へも行きました。コックはロシア人ですが、日本に留学したロシア人コックに習ったそうで、それなりの形をした『国際料理スシ』が出てきました。値段は日本の回転寿司の5倍はします。
味噌スープも頼んだところ、味噌汁らしい味なので、何でだしを取ったのかとコックに聞くと、
「これです」と日本製『だしの素』顆粒1キロと書かれたかつおマークの箱を見せてくれました。
クラスノヤルスク・ドラッグ・レースにはロシア中からチームが参加していましたが、そのうちの2チームには日本からのチューニング技術者がついていました。そのうちの一人が知り合いだったので、連絡して、レースの終わった7月1日と2日にディーマたちと会うことになりました。そんな時、私は通訳として手ごろだったので動員されました。その日本からのチューニング技術者さんがほかのロシア人の車をチューニングする時も、テレビのインタビューされる時も、何となく動員されてしまいました。それなりに面白かったですが。
クラスノヤルスクの僻地探訪の合間にこんなエピソードもいいものです。
7月3日(火)11時にナースチャのアパートを出て、ディーマの会社のオフィスに入りました。当初のディーマの予定では、エニセイ紀行のあとは、去年行けなかったトゥヴァ共和国へ行く、と言うことでした。トゥヴァの首都のクィジールまででも、700キロはありますから、お昼ごろ出発したのではその日のうちにつけるかどうかもわかりません。が、私は案内される方なので、うやうやしくオフィスで待っていました。やがて現れたディーマから、
クラスノヤルスク地方南部、行程はピンクの線で
黒線は鉄道
「トゥヴァの知り合いとは連絡がつかないから取りやめにしたいが、代案としてヴィッサリオンの共同体を訪れることにしてはどうか」と言われ、即座に承知しました。3日半でトゥヴァを回るのはどうしても時間が足りませんし、トゥヴァならいつでも行けますが、新興宗教ヴィッサリオンの共同体へは知り合いを通じてでないと入りにくいでしょう。
そこは、クラスノヤルスク南東部にあります。同じく南部のアバカン市はクラスノヤルスクからエニセイ左岸の国道54号線を400キロほど行ったところにありますが、そこからエニセイを渡って東へ100キロほど行くとクラギノ町があり、さらにそこから東のサヤン山脈のほうへかなり行った所にヴィッサリオンの共同体があるはずです(途中までは、2002年 に行ったことがあります)。アバカン経由では、クラギノ村まででも500キロはあります。でも、国道(連邦道)53号線沿いのクスクン村から南下してビエジイ・ロック村経由で行くと350キロほどだそうで、そのルートは最近開通しました。国道54号線のほうは、今回も含めて何度か通ったことがありますが、国道53号線からクスクン、ビエジイ・ロック経由でクラギへ出たことはありません。地図で見ると、それまではところどころ道ができてないようだったので。
1時ごろ、ディーマの7歳になる娘さんのアリーナも後部座席に乗せて、いつものレガシーで出発しました。国道53号線を東に36キロでクスクン村があります。これはおなじみのルートです。そこを南に曲がるとナルヴァ村へ行くアスファルトの道が続いています。エストニアに(本物の)ナルヴァという古都がありますが、このマナ川ほとりの小さなナルヴァ村はスターリン時代エストニアからシベリアに強制移住させられた人たちの村だそうです。
クラスノヤルスクからの道が舗装されていて距離も100キロほどで手ごろなので、2004年までのクラスノヤルスク滞在中は、何度もナルヴァまでは一人でドライブしたことがあります。ナルヴァ村を通り過ぎ、マナ川の橋を渡ってしばらく行くとアスファルトは切れます。それで、かつての一人ドライブはここで引き返したことが多かったです。でも、さらにしばらく行って、シベリアで最も大規模といわれるオレーシノエ洞窟のあるオレーシノエ村のそばを通りすぎたころ、またアスファルトの道が現れます。喜んでいるとまた切れます。
ビエジイ・ロック村の出口でマナ川に再会
ミナ村
支線アバカン・タイシェット線にちょうど貨物列車が通る
そうして、60キロほどいくと、ビエジイ・ロック村に出ます。ここまで来たことは3回ほどしかありません。ビエジイ・ロック村でまたマナ川に会います。このマナ川畔で私たちは、4時半でしたが、サンドイッチのランチをとったり、川浴びをしている村の子供達の写真を撮ったりして、一休みしました。
以前、ここまで来た時にはマナ川に車の通れる橋がなかったり、あっても、その先の道の状態が不明だったり、普通の車ではいけない悪路だと言われたりして、引き返しました。でも、いつかは、この先に延びているはずの非舗装道を走破したいと思っていたものでした。そんな話をディーマとしながら、腹ごしらえのできた私たち3人はマナ川を渡り、道が真っ直ぐ通じているまま(ここで、私は右に曲がるべきだと主張しましたが)、その先の鉄道線路も渡り、3つほどの寂れた村(でも、こんな離れた村で農業をやるのも悪くないかもしれない)を通り過ぎ、家畜が川浴びをしている光景も過ぎ、比較的ひと気のあるミナ村に着きました。アリーナが店に入って何か買いたいと言います。村の『コンビニ(長時間営業ではないが、必要品はおおむね売っているから)』に入って、どんなものが果たして、こんなはずれ村で売っているのか見るのは、私も大好きです。
「クラギノまではまだどのくらいあるだろうか」とディーマが店員のおばちゃんに聞きました。
「クラギノですって。あんたたちぜんぜん反対側に来てるわよ。この先は悪路をさんざん行ってもパルチザンスカヤ村からウヤル村に出るのよ。まあ、その先ならいい道でカンスクまで通じているけどね」という答えです。
「クラギノへ行くんだったら、もと来た道をビエジイ・ロックの先まで、ここからでは30キロほども戻って、標識のあるT字路をクラギノと書いてあるほうに行かなくては」
「ビエジイ・ロック村のマナ川を渡って右へ行けばクラギノに通じるはずよ。だって地図ではそうなっているもの」と、これは地図の上では何度もドライブしたことのある私の反論です。
「そうよ、でも、その道はクロル川の橋が壊れて、まだ直ってないの、標識のあるT字路まで戻ったほうがいい道よ」
というわけで、私たちは先ほど通り過ぎたT字路まで戻りました。確かに『直進はビエジイ・ロックまで7キロ、パルチザンスカヤまで111キロ、ウヤルまで148キロ。右折はクラギノまで196キロ、ミヌシンスクまで279キロ』と示した標識が立っていて、標識などを写真に撮るのが好きな私が、わざわざ車を止めてもらって撮っていますが、ディーマも私も標識を撮るだけで読まなかったのです。往復60キロも余分に走ったのですが、おかげでビエジイ・ロックのマナ川岸でお弁当を食べたり、ミナ村まで来たりしたのですから、私は満足ですが。
T字路から右折する道が、新設のようです。ロシアでも、来るたびに新しい道ができているようになりました。しばらく行くと、ジャイマ村あたりで古い道に合流します。この道が、もしクロル川の橋が無事なら通ってくる道でした。
シベリア幹線鉄道にはところどころ分岐して、並行して走り、また合流するという支線がいくつかあります。アーチンスクでシベリア幹線鉄道と分岐し、南下してアバカンを通り、エニセイの小さな支流の作る谷間を順番にたどっていってサヤンスキーに出て、さらに平行して走り、イルクーツクのタイシェットで幹線鉄道と合流する『アバカン・タイシェット』線がクラスノヤルスク南部に走っています。国道53号線がシベリア幹線鉄道とほぼ並んで走っているように、ジャイマ村からの自動車道も「アバカン・タイシェット」線とほぼ並んで走っています。この鉄道には1日5本くらいしか(2007年当時。しかし2012年は2本)客車は通らないようです。
エニセイの小さな支流の作る谷間を順番に通る自動車道なので、小さな川にかかった橋をいくつも渡ります。山川は曲がりくねっているので、セイバ川などは3回も渡ったと思います。小さなシシム駅を通り過ぎ、懐かしいシシム川 も渡りました。『直進クラギノ』と示した道路標識も確認しながら進みました。クラギノに着いたのは夕方の9時を過ぎていました。アリーナは道々の店に入って何か買いたいと言いますし、私はすぐ車を止めて写真を撮りたがりますし、ディーマも走ったり止まったりと運転が大変です。
例外的に清潔な内部
ガソリンスタンドにあったトイレ
東側のイルクーツク州とは東サヤン山脈で、南側のトゥヴァ共和国とは西サヤン山脈で囲まれたクラギノ地区の中心クラギノ町は人口14,000人で、シベリア鉄道支線のアバカン・タイシェット線は急行でも止まります(急行は1日1本)。エニセイ右岸支流トゥバ川のクラギノ盆地の中心で、石器時代の遺跡も多く、古くはエニセイ諸語族(大概は死語になったが、ケット語だけは北方で話されている)が住んでいました。中世にはハカシアなどと同じチュルク系のトゥバ侯国がありました。18世紀はじめ、この地をロシア帝国領にすることに同意し(せざるを得なかった)、ロシア正教を受け入れたクラギという首長から、この町の名前がついたそうです。
私たちはクラギノ町を通り過ぎて、東から流れてくるトゥバ(ハカシア語でウプサ)川の右岸をさかのぼります。イルクーツク州から続く東サヤン山脈の針葉樹林の奥から流れてくるカズィール川 Казылと、南のトゥヴァ共和国との境のエルガキ山脈から流れてくるアムィル川 Амылが合流してトゥバ川になります。長さ388メートルのカズィール川はほとんど東サヤン山脈の中を流れ、クラギノ盆地に出てきてからは川岸にいくつかの村があります。これらはソ連時代、農業と林業コルホーズ村でしたが、今ではすっかり寂れています。
クラギノから東へ、トゥバ川の左岸からカズィール川の左岸の非舗装道を、がたがたと延々80キロほども行き、今晩の宿泊地ペトロパブロフカ村にやっと着いたのは、11時も過ぎていて、夏時間でもさすが暗くなっていました。人口440人のこの村は、ソ連崩壊後、働き口のなくなった古い村人は去り、今では半数以上が遠くから移り住んできた新興宗教ヴィッサリオン信徒が住む集落になっています。
教祖ヴィッサリオンは1992年から布教しています。93年頃からカズィール川に沿って最も奥地にある村々に信者の共同体ができはじめました。さらにその奥地のサヤン山中のチベルクリ Тиберкуль湖を見下ろす山頂の絶景地に『約束の地』または『太陽の町』または、象徴的な名前の『新エルサレム』が作られているという話です。そこには教祖ヴィッサリオンの住居や、教会、信者たちの住む『暁の町』があるそうです。そこまではディーマのレガシーでいけないばかりではなく、どんな車でもいけません(今のところは)。ヴィッサリオンの信者の一人がディーマの知り合いのスラーヴァで、今回のガイドになってくれます。
『ドイツ人の家』の前、スラーヴァに連絡を試みる
バケツはやはり使えなかった
朝食、手前はアリーナ
私たちはその日はひとまず、ペテロパブロフカ村の『ドイツ人の家』に泊まるそうで、暗くなった村のはずれで、何とかたずね当てました。3階建て新築の『ドイツ人の家』の住民はもう寝ていましたが、この家の管理人らしいドイツ人女性が出てきてくれました。この家は寄宿舎のように何人もの逗留者が住んでいるようです。後でわかったことですが、教祖ヴィッサリオンはヨーロッパ、特にドイツでも布教しています。それで、信者はドイツなどからヴィッサリオン教会のあるこの辺りの村や、山頂の『約束の地』に『巡礼』にやってきます。そんなときに山頂に登る前の宿泊所となるのがこの『ドイツ人の家』だそうです。ドイツ人だけでなく日本人でも誰でも泊まっていいそうです。私たちはヴィッサリオンの厚い信者のスラーヴァの知り合いなので、もちろん泊めてくれました。私には特によいシングル・ルームがあてがわれたようです(かたじけない)。でも、もちろんトイレはありません。トイレ小屋は外の菜園の端にあります。管理人の女性はひどいドイツ訛りですが、ロシア語が話せます。夜中にトイレに行くのは大変だからと、バケツをくれました。
「でも、このバケツには、ふたがないですね」と言ってみました。もう、ここまできたらふたなんかどうでもよかったのですが、中身が丸見えなのはどうも…。どこまでも愛想がいいドイツ女性はそれもそうだといって、
「では、これをかぶせたら」とアイロンのかかったきれいなナプキンをくれました。
「ほかに、まだ必要なものは」といってくれるので、ビスケットを何枚かもらいました。ミネラル・ウォーターとビスケットというのがこれから私の安全な食事になりそうです。ディーマ父娘は3階の2段ベッドのある部屋をあてがわれました。今日一日ずっといっしょだった彼らとは、心細かったのですが、別の部屋で夜を明かしました。
朝(7月4日)、食卓のある部屋に行ってみると、5,6人のドイツ人が座って菜食主義の朝食をとっています。みんなとても愛想がよく、私と話したがりましたが、ロシア語を知りません。ロシアでは英語を話さないことにしている私(実は、話せない)は、ロシア語のわかる管理人の女性に通訳してもらいました。
ディーマの7歳になる娘のアリーナはこの『ドイツ人の家』が全く気に入りません。言葉もロシア語らしくないし、菜食なんてちっともおいしくないと、ご機嫌斜めです。でも、この『家』は何かとこぎれいに整頓され、大きななべのある台所も清潔そうで、部屋のコーナーの、夜はカーテンで区切って個室のベッドになり、昼間はカーテンを開けて長いすになるスペースもすっきり片付いています。ピアノもあり、横のテーブルにはこの宗教のパンフレットが整然と並んでいます。ドイツ人たちは言葉で親愛を表せない分だけ表情で示そうと、笑みを絶やしません。私も負けずににこにこしていました。
ツーリスト・センターからのガイドとアリーナ
ヴィッサリオン教会内部
トドマツ(モミ)油抽出工房
黒パンを焼く
グリャーエフカ難所
ディーマは山頂近くの『暁の町』に住んでいる知人のスラーヴァに連絡をつけようと、ずっと携帯をかけています。接続が悪くてかからないことも多いのです。ここまできたのも、その『暁の町』と山頂の『天の住処』に行くためです。ペトロパブロフカまでは誰でも来れますが、この先の東サヤンの山中はそうは行きません。レガシーではとても通れないような道が50キロほどもあって、そこから先は2時間ほど歩くそうです。何度か呼び出しているうちにスラーヴァと連絡がついて、この日の夕方、運搬用ジープを都合できるということです。夕方まではペトロパブロフカ村とその周辺の見物をしたらいいとのことです。
やがて『ドイツ人の家』に、ツーリスト・センターからガイドが迎えに来ました。わずか人口440人のペトロパブロフカ村にあるツーリスト・センターはヴィッサリオン共同体の事務所や集会所、売店も兼ねています。その集会所に神父がいました。今だけ暇だから、何か質問があったら受けましょう、ということです。教義について長々しい説明をあまり聞きたくはなかったのですが、少しは話してみました。他人の信仰を尊敬はしますが、最近は、宗教について深く知ろうと思ったことはありません。ヴィサリオンは自分がキリストであると明言し、自分の教義などを記すのに、旧約聖書(『古い約束』)と新約聖書(『新しい約束』)を継いだという『最後の約』聖書を書きました。ペトロパブロフカにある教会の様式はロシア正教風です。でも、キリスト教もイスラム教も仏教も含んだ『唯一』の教えだといっています。
私たちと話した神父は、モスクワからやってきたそうです。元パイロットだったと言っていました。信者たちはこの共同体で自然と調和した手工業的な自給自足の生活を送るために、ロシアのあらゆるところから、自分たちの住居や仕事をなげうって(売却代金は教団に寄付か)家族でやってくるそうです。特に高学歴者が多いとか。
このペトロパブロフカ村のほかに、10キロほど奥地のチェレムシャンカ村(以前は農業コルホーズの中心地だった、今でも900人と人口は多い)、さらにその奥地のグリャーエフカ村(260人)など、ソ連時代の農業コルホーズが閉鎖され、仕事口のない村人が去って行ったこれらカズィール川奥地の村々に、信者たちが移り住んできて、手工業工房や工芸品アトリエなどを作っています。作品の程度も高く、地方庁のクラスノヤルスク市で展示即売会を開き、なかなか好評で、よい値段で売れているそうです。
ガイドが次に案内してくれたのはそのような工房でした。家具や木彫りの工房では、このあたりにふんだんにある針葉樹を使って手作りで製造しています。窯業の工房も見物しました。よい材料が近くにあり、私も粘土をこねることが好きなら、このやや文明からはなれた田舎に移って来て、毎日好きな仕事をして質素にすごしたいものです。
シベリアの伝統産業のひとつがトドマツ(モミ)油の抽出です。その工房に入るとトドマツ油のいいにおいがします。ここでは仕事をしている人から、
「日本では生活はどうかね」と尋ねられました。まあまあですが。
黒パンを昔風に焼いているベーカリーもあり、大きなペチカがあって、冬場は暖かそうです。焼きたての大きな黒パンを私たちに切り分けてくれました。おかげで、アリーナと私は『ドイツ人の家』の菜食主義の変わった味の料理をあまり食べなくてすみました。
信者たちは家族を連れてやって来るので、子供たちも多いです。幼稚園、保育所、手工業の基礎を教えるサークル(男女別)もそれなりに充実していて、ガイドが順番に案内してくれ、私も感心して話を聞き、まめまめしく写真を取りました。中国人の家もあって、そこにも特別に案内してくれました。中国系ロシア人女性が住んでいる立派な家です。物心がついてからは中国へ行ったことがないそうですが、精一杯中国製インテリアで飾り立て雰囲気を出しています。ダンサーで団員も持っていて各地を客演することも多いそうです。
カズィール川は夏場、筏での川くだり(ラフティング)のグループがいくつか訪れるようです。ラフテイング・グループは人里はなれた針葉樹林を流れる川が好きです。そんな川には難所の急流や岩場がいくつかあって、難度が数字で決められています。例えば、初心者でも通れる『難度1』や熟練者向け『難度5』とかです。388キロのカズィール川中流にも6箇所あります(あまり上流は愛好者でもたどり着くのも難しいのか、難度クラスは地図に載っていません)。上流から下ってきて最後の難所がここペトロパブロフカ村から奥へ20キロほどのグリャーエフカ村近くにあるグリャーエフカ難所です。その辺まではディーマのレガシーでもいけるので、ガイドと乗り込んで出かけました。途中のチェレムシャンカ村近くではチェレムシャンカ絶壁がカズィール川に張り出しています。そういう絶壁の斜面には家畜のヤギが遊びに来ています。
グリャーエフカ村には1番古いヴィッサリオン共同体の教会があるのですが、見物はパスして、難所の急流が見渡せる絶景でお弁当を食べました。
年季の入った運搬車
撮影のため私が降りてちょっとゆったりした助手席
ここからは徒歩で出発、スラーヴァは蚊を恐れない
ヴィッサリオンの信者夫婦が住む
途中にあった一軒家
『暁の町』
翌朝、マーシャと次男
マーシャの息子たちはスペイン風の名前だ
ここでも菜食のみ
『寺院のある山頂』から見えるチベルクリ湖
『地面の上に建つ祭壇』
第一の高弟ヴァジムとレーナ
木の実を摘み取る
黄色い救命ジャケットを着た男の子と
水に入らなかった私だけが湖上の風にも平気
『マツの実』島で
シベリア松の実をむしって食べる
夕方の8時過ぎごろ『ドイツ人の家』へ戻ると、スラーヴァが調達してくれた運搬車が待っていました。どんな悪路にも耐えて長年修理しながら使ってきたと言うような年季の入った車で、ドアも生やさしい力では閉まりません。私たち3人は運転席の横に身を寄せ合って座りました。後ろの荷台には私たちの荷物のほか、文明地ペトロパブロフカ村から『暁の町』や『天の住処』へ運ぶようなものが積んであるようです。
跳び上がって車の天井に頭をぶつけないよう、隣に座っているディーマをつぶさないよう、何かつかまるものを見つけて握り締めて座っているだけでも難しいのですが、それでも、横を流れるカズィール川やその右岸支流のタブラット川の美しさを撮ろうと何度もカメラを構えました。横のカズィール川は撮れましたが、いくらシベリアでも都市の近くでは姿を消しつつあるこれほどの悪路のほうは、車の中からではうまく撮れません。
この車の精一杯の速度で走って1時間半もかかるという道のりを、深いわだちの跡を乗り越え、道いっぱいに広がった水溜りの浅瀬を探りながら進みました。カズィール川最奥地で人口271人、子供の姿も見かけたジャーロフカ村は、電気が来ていません。
車の揺れのためパネルの引き出しが閉めても閉めても開いてきます。春の雪解け時は、きっとどんな車で通行不能でしょう。長髪を後ろで結わえた若い運転が、
「あなたにはここはなかなかエキゾチックでしょう」と言ってくれます。やがて車の通れるだけの幅のある道も終わりました。横に小屋があります。これは、後でわかったのですが、外部と『暁の町』の中継地で、部外者がやたらと入って行かないようチェックもしているようです。
私たちの車が着くと、すぐ小屋の中から待ちかねていたらしいスラーヴァが出てきました。運転手は荷台の荷物を小屋の住民に渡します。10時も過ぎて、周りが山で囲まれたこの辺りは薄暗くなりかけていましたが、スラーヴァの案内で、これから2時間ほどの山道を歩いていきます。私の荷物は持ってくれました。(クラスノヤルスクのナースチャのアパートを出発する時は、車でトゥヴァを回ると思っていましたから、トゥヴァの地図などスーツケースに入れて持ってきていたのが、そんなものは、もちろんレガシーのトランクに残してきた)。
7歳のアリーナには薄暗くなってからの山道2時間の行程はきびしそうですが、祖父母のいるハカシアの田舎で鍛えてあります。でも、スポーツ離れの久しい私には、覚悟はしていましたが、急な坂を登ったり、沼地を通り抜けたり、蚊の群れに悩まされたりと、道中は厳しいものでした。スラーヴァが懐中電灯で照らしてくれましたが、泥濘を避けてとなりの泥濘にはまってしまいます。アリーナも私も何度も足首まで泥につかりました。この辺はカズィール川の右岸支流タブラット川の湿地なのです。所々、よほどひどい沼地には木の橋がかかっていました。橋と言うより桁のある板を置いただけで、その上を歩けば沼に沈まない程度のものですが、それでもありがたい。外部から『暁の町』へ巡礼に行くとき通りやすいようにと、信者たちが少しずつ築いたのだそうです。1時間歩いたところで小屋がありました。そこで、タブラット川から引いたらしい美味しい水を飲みましたが、立ち止まって頭からかぶっていたネットをはずしたので、回りの蚊たちが喜びました。小屋の周りには菜園があって馬もつないであります。ヴィッサリオンの信者夫婦が住んでいて、自然に近い自給自足の生活をしているのでしょう。
やっと『暁の町』の入り口についたのは11時半も過ぎていました。スラーヴァの家は狭いので、マーシャの家に泊まってほしいそうです。マーシャの夫のキューバ人は今クラスノヤルスクに出稼ぎに行っています。『暁の町』は地形上、家々が散らばって建っているらしく、なかなか着かない今晩の目的地に、最後の力を振り縛って歩きました。
マーシャの家は都市風で真ん中に広間があり、そこからカーテンで仕切った台所や子供部屋、夫婦の部屋があります。お湯の出るシャワーや流し台があって、洗濯機もあります。弱いけれど自家発電の電力があるそうです。マーシャはウクライナのハリコフ出身ですが、大学でキューバから留学していた今の夫と知り合って結婚、その後、ドイツに住んでいましたが、前から惹かれていたヴィッサリオン共同体のあるクラスノヤルスクの人里はなれた山中に幼い二人の息子を連れて移って来たそうです。キューバ人とウクライナ女性から生まれたその10歳と5歳の二人の男の子は目鼻立ちも整い美しく利発そうです。すぐアリーナと仲良くなりました。
私は子供部屋の長男のベッドに寝て、子供たちとお母さんは夫婦の寝室で、ディーマとアリーナが広間の長いすで寝ました。
『寺院のある山頂』や『天の住処』に巡礼にやって来る人たちは、どの家に泊まってもいいのです。マーシャの家は大きいので、夏場は毎日のように誰かが滞在するそうです。私たちの後はドイツ人を泊めてあげるのだ、と言っていました。周りに菜園があり、家畜も飼っていて自給自足の生活です。ペテロパブロフカ村と違うのはトイレでした。ペテロパブロフカ村のは穴が掘ってあって、そこに落とし、いっぱいになると土をかぶせ、別のところに穴を掘って新しいトイレを作るというロシアの普通の田舎風ですが、ここのは、穴ではなく便座つきのバケツで、用を足すごとにおがくずをまぶし、多分いっぱいになると肥料として利用するらしいのです。私は自分の後はおがくずをたっぷりとまぶしておいたので、肥料としての価値はどうでしょうか。
次の日(7月5日)、『暁の町』からさらに1時間もかけて『天の住処』と『寺院のある山頂』へ、登っていきました。アリーナはもういやだと言ったのでスラーヴァとディーマの3人で登りました。『天の住処』には教祖ヴィッサリオンの家と、高弟の数家族が住む家々とその菜園があります。さらにもっと上の『寺院のある山頂』には『地面の上に建つ祭壇』というのがあります。下の世界のチェレムシャンカ村やペトロパブロフスカ村、グリャーエフカ村にもヴィサリオン教会がありますが、ここ『寺院のある山頂』にあるのが特に象徴的で、最も重要な典礼(クリスマス、つまりヴィッサリオンが生まれた1月14日)などが行われるようです。
スラーヴァの説明を私たちは礼儀正しく拝聴していました。聞いているとただの東サヤン山脈ではないような気がします。山頂からの眺めも神々しい感じです。1500メートルくらいのスヒヤ山(現地語で『神聖な山』と言う意味だそうです)はこの辺では最も高く、遠くまで広がる針葉樹林の間にチベルクリ湖が見渡せます。ここを『天の住処』にして教会を建て、信者たちの共同体を作るとは、ヴィッサリオンに示された天啓だったそうですが、それにふさわしい絶景です。
その後、スラーヴァは、ヴィッサリオンの第一の高弟ヴァジムの家に案内してくれました。ヴァジムは2度目の若く清楚な妻のレーナと二人住んでいます。先妻との子はチェレムシャンカに住んでいるそうです。ちなみに教祖ヴィッサリオンも再婚していて子供は7人いるそうです。ヴァジムはミュージシャンで、スラーヴァと共演したディスクもあって、私にくれました。ヴィッサリオンの方は画家で自分の静物画、人物画や宗教画を教会に飾ったり、ヨーロッパで売ったりしています。画集カレンダーも作っています。
レーナはワラビの塩漬けやブルーベリーのジャムをご馳走してくれました。1時間あまりもヴァジム宅にいましたが、宗教の話はしなかったです。後で知ったことですが、『最後の約』聖書(前述の、旧約聖書の次の新約聖書のさらに後で、これが最後)の作者がヴァジムです。新約ですとキリストの事跡が記してありますが、こちらもキリスト=ヴィッサリオンの事跡が記してあるのです。
『暁の町』への帰り山道、茂みの中にスイカズラやフサスグリがうざうざと生っています。7月初めはまだきのこのシーズンではないそうですが、野生の木の実は、もうこんなになっているのです。
午後からは(つまり3時も過ぎたころ)チベルクリ湖遊覧です。マーシャは行きませんが、二人の息子は私たちと一緒に行きます。スラーヴァの7歳の娘も同行します。浜辺には教会所属のモーターボートがつないであって、そこから湖を一周し、湖の中の小さな島で一休みする予定だそうです。モーターボートの燃料はそのつど、『暁の町』から運ばなくてはなりませんが、道と言えばぬかるんだ細い下り坂があるだけです。20リットルほどのタンクを棒に通して二人で担ぎます。スラーヴァともう一人の助人(信者)が担いでくれました。
ですから総勢8人で出発しました。木の根や枝が突き出てぬかるんだ道を私や小さな子供たちは早く歩けないので、燃料を担いだスラーヴァと彼の相棒は、慣れた足で先に行ってしまいます。重いものを持っているのでだらだらと歩かないほうが楽なのでしょう。10歳の長男がけなげに道案内をしてくれます。30分ほども歩きました。
浜辺に着くと、もうモーターボートは給油して準備完了です。駒に紐をぐるぐると巻いて紐の一方を持って投げると駒が回りますが、モーターのエンジンもそんな風に、巻いた紐を勢いよく引っ張ってまわします。紐がセルモーターの役目を果たすというレトロなモーターボートです(日本で古い耕耘機をそうやって回しているのを見たことがある。紐を引く早さや手を離すタイミングが難しいようだ)。これがなかなか始動できなくて30分ぐらいスラーヴァが苦労していました。スラーヴァにエンジンは任せて4人の子供たちとディーマはもう水浴びです。エンジンがやっとかかると子供たちは脱いだ服と靴を持って、ボートに飛び乗りました。体がぬれていたので、湖上を猛スピードで走るモーターボートの上で震えることになってしまってかわいそうでした。二人の男の子のほうは母親から救命ジャケットを持たされていたので、それを着て寒さをしのいでいました。
1時間も湖上を遊覧して、小さな島に上陸しました。ここでも私以外はみんな水浴びを楽しんでいました。クラスノヤルスク出発以来シャワーに入れなかったディーマは、ここで洗おうと石鹸まで持ってきたそうですが、私はお風呂に入らないくらいでは死なないと我慢しました。
この島は『マツの実』島という名前があるくらいで、大きなシベリア松が茂っています。アリーナとディーマが上手に松の実の見事なのを2個落としました。それをスラーヴァが焚き火で蒸し焼きにしてご馳走してくれました。指をやけどしながら、松の実を1粒ずつほじくって、食べるのがおいしいのです。こういうレジャーをシベリア人は楽しんでいるわけです。アミューズメント・センターよりずっと素晴らしい。
島で1時間あまり過ごして帰途に着いたのは、もう7時です。『暁の町』に着いたのは8時過ぎで、途中、10歳と5歳のりりしい兄弟と楽しくおしゃべりできました。『暁の町』の100人ほどの住民のうち半数以上は子供です。信者は受胎制限をしないので子沢山です。子供たちの学校もあります。高学歴者の多いヴィッサリオン共同体では教員探しに苦労はしません。住民はみんな若いので子供も低学年で、4年生のクラスになると生徒は一人しかいないそうです。
次の日(7月5日)朝早く『暁の町』を去って、帰りの車が待っている下界の小屋へ向かいました。早起きの蚊に悩まされながら、沼地を通り抜け、道端の小川にきらきら光って見える砂金を写真に撮ったりして、出発点の小屋にもどったのは9時ごろです。途中、今から『暁の町』と『天の住処』へ向かうドイツ人の巡礼一行ともすれ違いました。ペトロパブロフカ村の『ドイツ人の家』で知り合った人たちです。相変わらず愛想よくて、山から降りてくる私を見つけると、親愛の情いっぱいに抱きついて『寺院のある山頂』や『天の住処』、『暁の町』は気に入ったかい、と聞きます。
「すごく気に入ったよ」と答えると、満足そうでした。私は信者でも信者希望者でもないので、気が引けたくらいでした。
帰りの車が待っている下界の小屋に着き、泉の水をペット・ボトルに満たし、スラーヴァも一緒にペテロパブロフスカへ向かいました。来たときのように、いつ泥濘にはまって動けなくなるかしれないような道を、いつエンストするかわからないような年代ものの車で戻りました。ペトロパブロフカでディーマのレガシーに乗り換えて、クラスノヤルスクへ向かいました。途中のクラギノ村では、ヴィッサリオン事務所と宿舎があり、書籍なども売っています。ロシア語版新約聖書と同じ体裁にしてあるヴィッサリオン版『最後約束聖書』や、英語とロシア語併記のカラー版「ヴィッサリオン共同体」パンフレット版をプレゼントされてしまいました。
朝『暁の町』を出発して、その日のうちにクラスノヤルスクに着くなんて、初めてのことだとスラーヴァが感激していました。クラスノヤルスクでスラーヴァは教会のために日本車を受け取ります。ウラジオストックへ注文したデリカだそうです。日本車関係で仕事をしているディーマがそのための便宜を図ります。
後記 :ヴィッサリオン(Виссартон、本名セルゲイ・トロップ Сергей Тороп、1961年生まれ) の共同体は、その後、許可なしで森林伐採をしたとか、問題を起こしていたそうだ。2005年にはクラスノヤルスク地方知事候補の応援などしていたとネットなどには載っているが、2020年には、市民の人格と権利を侵害する組織の創設や詐欺の罪状で逮捕された。その時彼とともに、ヴァジム・レドキンとウラジーミル・ヴェデレコフも逮捕されたとあった。 ヴァジム・レドキンはもと音楽グループのドラマ奏者
だったとある。つまり、山頂で会ったあのレーナの夫で、私たちをもてなしてくれた親切なヴァジムさんのことか(2022年5月13日記)。
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ウラジオストク海浜公園
ウラジオストック海浜で酔っ払いを保護する警察官
エラダと5歳の息子
昆虫の入ったビンを放さない
7月6日は朝早くクラスノヤルスクを出発してウラジオストックへ向かいました。時差が3時間あるのでウラジオストック到着は午後3時過ぎです。帰りのウラジオストックでヴェニス・ホテルのような高いところに泊まらずに、どこか泊めてくれるような知り合いがいないだろうかとナースチャに相談したところ、エラダという人を紹介してくれました。エラダは、空港まで迎えに来てくれて、狭いけれど自分のアパートに泊めてくれるそうです。エラダは医学部の講師(つまり薄給)、夫は警察官で、長女が日本語を勉強していて、5歳の息子がいます。夫は留守でした。港で荷揚げした日本車を西に陸送する会社に、ガードマンとして同行しているそうです。これは、割のいい内職だそうです。本職の警察官の顔がものを言うでしょう。長女が日本語を勉強していると言っても、恥ずかしがって、私とは一言も日本語を話しませんでした。
知り合いの知り合いだと言うだけで泊めてくれ、町の観光までしてくれるロシア人も多くないでしょう。ナースチャはそういう貴重な知り合いをたくさん持っています。私もナースチャの知り合いの一人で、ナースチャが日本に来た時はずっと私の家に泊まってもらいました。
日本に帰っていつも残念がるのはロシア滞在中、知り合った人ともっとたくさん話をしてくれば良かったということです。ハカシアの古墳群の案内をしてくれたスラーヴァに、なぜもっと質問しなかったのでしょう。『ザスロン』丸の乗組員と、なぜもっと親しくならなかったのでしょう。『暁の町』のマーシャ一家とそこでの生活について、なぜもっと話さなかったのでしょう。
家に帰って旅行記を書いているうちに聞き忘れたことがたくさんあるのに気がつきました。ディーマがいつも私に、
「後で僕に聞いてもわかりませんよ。今のうちに(ハカシアにいるうちに、『ザスロン』丸で航行しているうちに、ヴィッサリオン共同体にいるうちに)ちゃんと聞いておいてくださいよ」と言っていましたが。
仕方がないので家からディーマに電話して、
「…はどうだったのかアリョーシャに聞いてみて」とか
「…の名前はなんだったのかスラーヴァに電話して」などと頼んで、やっと紀行文を書き上げました。
全くの他人なのに親切にしてくれたエラダには日本から昆虫の図鑑を送りました。5歳の息子が昆虫に凝っているからです。思いもかけない贈り物をありがとうと、エラダから返事が来ました。とてもいい気持ちです。