up date | 2004年1月9日 | (校正・追記:2006年6月7日、2008年6月22日、2012年3月17日、2018年12月27日、2019年11月16日、2020年7月30日、2022年3月16日) |
エニセイ川支流、 (9) 針葉樹林帯を流れるシシム川辺でのお正月 2003年12月30日から2004年1月3日 |
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1.シシム川 | |
2.超旧型飛行機 | ||
3.飛行決行 | ||
4.キャンプ小屋 | ||
5.シシム川観光 | ||
6.狼 | ||
7.銀色のスマートなヘリ |
川は長ければ長い程、下流になって汚れてきます。特に幾つもの都市や工場地帯を通って流れるヴォルガ川の下流は全く泥川になっているそうです。630キロというそれほど長くないカン川も、東サヤン山脈から流れ出し、イルベイスク村を通る時はまだ飲料水にできるくらいの清流ですが、工業都市カンスクを通り、ウラン精製都市ゼレノゴルスクなどを通るうちにすっかり汚染された川になってしまします。 目的のキャンプ小屋は、クラスノヤルスクから直線距離では150キロ程東南の方向にありますが、もちろんそこまで道路なんてあるはずがないので、空路か水路を取ります。だいたい、シベリアでは陸路で行きつけるところは少ないのです。 クラスノヤルスク市から国道53号線を40キロほど東に行って南へ折れ、村から村へと通じる道を200キロほど行くと、住民数十人くらいのチシェチンキノという山村があります。そこはシシム川の上流近くなので、マイクロバスから降りて、夏ならシシム川をボートで下って目的地までいくか、冬なら凍ったシシム川の上をスノーモビールで行きます。 今は冬ですから、スノーモビールで凍ったシシム川の上を寒さに震えながら、80キロ程下ると目的地のキャンプ小屋につくはずです。スノーモビールはバイクのようなものですから、冷たい風や雪煙がまともに顔に当るだろうと、私は防寒着の下に着るセーターの数枚や使い捨てカイロの他、額も耳も隠れる帽子、大きなマスクや幅広のマフラーを数枚用意しました。
パイロットのおじさんが、今日は天気が悪くて飛べないが、一応、シシム川方面の天候を見てみると言って、毛布をとってエンジンをかけ、暫くすると、ふわっと空に舞い上がりました。長いコンクリートの滑走路は必要ありません。80メートル程の原っぱがあればいいそうです。ひとまわりして、また、ふわっと降りて来て、気圧の状態が悪く視界も悪いため、今日は飛べないと言って、ペチカのある小屋に入っていってしまいました。 仕方なく、3組の夫婦と、カンスクから来た家族連れの3人と、ひとりぼっちの私という旅行グループ客10人に、添乗員のおばさんと、レクレーション係のアコーデオンのおじさんと、シシム川の宿泊小屋のオーナー夫婦の計14人はナルヴァ村の空き家で雑魚寝をして、飛行日和を待つことになりました。何もすることがなかったので、私達14人は食べたり飲んだり歌を歌ったり、レクレーション係のおじさんの司会でゲームをしたり、冗談を言い合ったりしていたので、キャンプ地到着の前からすっかり親しくなりました。 村は下水がないので、トイレは家から離れた小さな小屋まで行かなくてはなりません。夜は電燈もないので、トイレの穴に落ちる危険があります。夜だから誰にも見られないだろうと思って、戸外の目立たない陰になったところを探していると、犬に吠えられます。穴に落ちるのも嫌ですが、犬も狂暴ですし…。ここが田舎生活の厳しいところでしょう。
でも、行くのを止めるとは、誰も言いません。私も、ここまで来たことですし、落ちない可能性もありますし、落ち方によっては死なない可能性もあると思いましたから、黙っていました。一年前の事故も、乗客の全員が死亡したわけではありません。太めの知事は死亡しましたが、軽傷ですんだ新聞記者もいました。 添乗員に聞いたところによると、旅行期間中の事故については一人最高1万ドルの保険金がおりるそうです。120万円ぼっちでは、日本の遺族も大変です。ロシアならそれなりの金額ですが。 さて、パイロットの息子の少年が飛行機の上にのって、ほうきで雪を掻き落とし、荷物も積み込んで、準備が整いました。さあ、出発です。私達はふわっと空中に舞い上がり、雪の積もった針葉樹林の上をふわふわ飛び始めました。私はどの辺に落ちたら軽傷ですむかと、窓から眺めていました。
目的地まで100キロもないので30分くらいの飛行時間だ、と言われていましたから、時計を見ながら我慢していました。頭を機体に付けて飛行機の動きに身を任せれば、あまり酔わないかと、必死で嘔吐を堪えました。30分を過ぎても、まだまだ、低い山々や、先の尖った樅の木の森がどこまでも続き、飛行機は上下左右に気持ちの悪いゆれ方をしています。こんな状態が続くくらいなら、落ちた方がましだとさえ思ったほどでした。 やがて、40分も飛んだ頃、小屋のオーナーが、もうそろそろだと言いました。飛行機は上がる時と降りる時が危険なはずです。特に、キャンプ小屋近くはシシム川の谷間になっていて、そこの気候は着陸用飛行機にとって一段と不利のようです。でも、飛行機がやっと高度を下げてくれた時は、どうなってもいいから早く地上に降りたいと思いました。 シシム川の川辺の小さな原っぱに無事着陸すると、私達は飛行機から転がり出て来て、雪の上に座り込んで吐きました。毛糸の帽子の中に吐いた男性は、雪の上に内容物を空けています。
暫くすると、飛行機の音を聞き付けたのか、そりをつないだスノーモビールがキャンプ小屋からやってきて私達の荷物を運んでいってくれました。スノーモビールのガソリンのにおいをかいて、私は気持ちが悪くなってまた吐きました。
台所の後ろを流れて飲料水と生活用水として利用されているこの小川の上流をたどってみたのですが、10メートルも行ったところで雪にかぶさった岩山で終っていました。雪の下にもっと細い小川が流れているかもしれません。下流をたどってみると、これはどこまでも流れていました。凍っているシシム川に合流しても、その小川のせせらぎはシシム川の隅を流れていました。なぜ、凍ったシシム川の端っこを凍らない小川の水が数キロも流れていくのか不思議です。せせらぎの水(の暖かさで)でシシム川の氷がとけるのでしょうか。でも、いくら暖かめのせせらぎの水にせよ凍り付いたシシムに接すれば、冷えて氷が張るはずです。しかし、オ−ナーの説明によると、プラス4度のせせらぎの流れが早いので、かなり先までも凍らないそうです。でも、零下30度40度になると、さすが、湧き出たばかりの小屋の近く以外は凍ってしまうそうです。
暖房は、すべて白樺の薪のペチカです。バンガロー小屋には、一軒ずつ夫婦や家族連れが泊まりました。自分達で薪をくべなくてはなりません。眠りこけていると夜中に燃え尽きてしまって寒さに震えて目を覚まし、もう一度ペチカを焚き付けなくてはならないと言うことになります。薪の調達以外はセルフサービスです。 私は食堂の2階の小さな一人部屋を当てられました。食堂の暖炉の熱はなぜか2階まで登ってきません。部屋には小さな電気ストーブがおいてあるだけでした。自家発電の電力は弱いのでストーブの火力も弱く、さらに、昼間と深夜は自家発電が止まるのでストーブも冷たくなります。 「寒くてたまらない」と言うと、大きなガスボンベを一本くれました。でも、室内ではさすが凍え死にはしないでしょうが、ガス漏れや酸欠になってはそれこそ危険だと思って睡眠中は消したので、夜中は寒かったです。結局、ふとんを何枚ももらことになりました。隣の夫婦は寝袋をもらったようです。
私は3日間の滞在中それらを一通り試みました。何と言っても凍った川の上をスキーで走ったり歩いたりと言うことは日本(私の住んでいた北陸)では体験できないことです。そればかりか、凍っているかどうか分からない川の上を歩くと言うことも日本ではしません。
しかし、これは体重にもよるようで、私達の通った跡をたどってかなり太めの女の人が通った時、その人の足下が沈んでいって水に浸かってしまいました。 「ぎゃっ」と叫んだのに、当人の夫が 「無理して、こっちへ来なくてもいいぞ」と言って知らん顔をして魚釣りをしていたので、後で大変な夫婦喧嘩になりました。実は私も知らん顔をして魚釣りを見ていました。夕食の時、みんなでその人に謝って機嫌をなおしてもらいました。 実際、キャンプ小屋から下流へ2キロ程スキーを履いていったところでシシム川の氷がだんだん水っぽくなっていきます。これ以上いくと足下の氷が沈んでいきそうです。流れが早くても、この程度の低温では十分な氷は張らないのだそうです。 ちなみに、魚は釣れませんでした。シシム川に美味しい魚がいっぱいいると言っても、場所を選ばなくてはなりません。上流へ2キロ程言ったところがよいと言うので、私も道具を持って、スノーモビールの運転手の後ろの席に座って出発しましたが、途中で氷がなくなったため、通行不能で引き返してきました。小屋の近くは凍っているので、穴を空けてつりましたが、誰も一匹も釣れませんでした。小屋の近くの川の氷の厚さは10cm程です。私も「穴空け機」で穴を空けて調べてみました。10cmもあればその上を通行するのに十分なのだそうです。
オーナー夫人がある時スキーでシシム川の上を走っていると、狼に襲われたばかりでまだ息をしているアカシカが倒れているのを見つけたそうです。急いで小屋に帰って夫とスノーモビールで駆け付けてみると、狼が内臓を少し食い破っていました。狼を追い払った夫婦はスノーモビールにアカシカを積んで小屋に持ち帰り食糧にしたそうです。ですから、その冬は肉を買わなくてもよかったくらいでしたが、狼にとってはせっかく仕留めた獲物を人間に横取りされて悔しかったのか、長い間その小屋の周りを吼え回っていたということです。 その話を聞いたあと、この辺を一人で遠くへ行くのが恐くなりました。特に夕方ちょっと離れたところに行って、雪の上に獣のまだ新しい足跡を見つけた時は、びっくりして後ろも見ずに走って帰ってきてしまいました。小屋で飼っている犬の足跡にしては大きいと思ったからです。後で聞いてみると、それはやはり犬の足跡でした。でも、狼のではないかと思ったのは私だけではなかったようです。もう一人の女の人も走って帰ってきて足跡があったと言っていましたから。
私はあと1日ぐらいならここにいてもいいと、自分の部屋で本を読んでいました。するとヘリコプターの音がするではありませんか。窓から見ていると、あの超旧式飛行機とは比較にならない銀色のスマートなヘリコプターが、雪煙を建てて小屋(母屋)の後ろの空き地に降りて来ます。これはお金持ちのハンティング・グループがチャーターしたヘリコプターで、この辺のどこにどんな獣がいるかよく知っているこのキャンプ小屋のオーナーを呼びに来たものでした。
ハンターはハンティングだけでなく、針葉樹林の空気を味わって、食事をしたりヴォッカを飲んだりするのも、目的なので、私たちは長い間待ちました。 ヘリコプターの定員は24名ですが、ハンティング客は10人しかいないので、帰りに私達が便乗する余裕がありそうです。それで、私達はいつでも出発できるように荷物をまとめ、待機しているようにと言われました。 でも、便乗が断られるかもしれませんし、私達全員が乗れないかも知れませんし、もし、何頭も獲物をしとめれば、ヘリコプターに空席がなくなるかもしれません。そんなことをみんなで話していると、遠くで銃声が聞こえました。可哀想なアカシカが射止められたのです。厳寒に耐え、狼にも食べられずに生き延びてきたのに。 ヘリコプターに乗せてもらえました。でも、座席はなくて、獲物のシカの横です。血の染まったシカが1頭、大きなビニール袋に包まれて床の上に置かれていました。 市の中心にある緊急用ヘリポートにつくと(緊急でもないのに)、外車(日本製右ハンドルではない)が寄ってきてハンティング客の方を乗せて去っていきました。生死を共にした私達12人はお互いの住所や電話番号を手帳に書き留め、再会を約束して、それぞれの方向のバスに乗って家路につきました。一番近くのバス停までは、ヘリコプター所属のマイクロバスが運んでくれました。ヘリコプターが、市の中心に着陸してくれて助かりました。でも、こんなところに乗り付けられるのは、緊急用病人を輸送する時や要人到着などの特別な場合だけのはずです。普通は市からかなり離れた小型機用飛行場につきます。ハンティング客が大物なのでしょうか。おかげで、着陸して1時間も経たないうちに、タクシーも使わず帰宅できました。
「今、ヘリコプターで帰ってきたところなの」と言うと 「よほど険阻なところへ行ってきたのね」と、感心してくれました。険阻だっただけではありません。トドマツの松葉の匂いのよかったこと、雪の積もった針葉樹林や、シシム川の自然が美しかったことは言うまでもありません。 <追記: 戦前、当時のクラスノヤルスク市中心から4キロ北に『クラスノヤルスク・セヴェルニィ』という戦略的にも重要な飛行場ができた。しかし、その後クラスノヤルスク市は膨張し、その飛行場は市内にはいってしまったので1988年閉鎖した。その後、かつての空港前広場はバスセンターとなり、滑走路のある飛行場はそのまま残っていて(経済不況のためか)、緊急用のヘリなどの離着陸に使われていた。現在はかつての滑走路は直線の道路となり両脇には、マンションが建ち並んでいる> <HOME ホームへ> <このページのはじめへ> |