up date | 2002年12月5日 | (追記:2006年5月31日、2008年6月24日、2012年4月9日、2016年1月6日、2019年11月13日、2020年7月3日、2022年3月7日) |
ハカス・ミヌシンスク盆地シリーズ(1) クラスノヤルスク南部エニセイ川ドライブ紀行 2002年10月30日から11月3日 |
На юг Красноярского края на автомобиле
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クラスノヤルスク地方(白)南部地図 赤い線が今回のコース→ 国道54号線はクラスノヤルスクから モンゴル国境まで通じている→ ロシア・ミニ・マップ ↓ピンクがクラスノヤルスク地 |
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晩秋の頃、5日間かけて、クラスノヤルスク地方南部へ車で行ってきました。方々へ寄ったので、全行程は1500キロ程になりました。でも、この1日平均300キロは、シベリアにしてはとても少ない距離です。というのも、路面凍結の日があったりして、スピードを出せなかったからです。 |
クラスノヤルスク市を午後出発し、エニセイ川の左岸に沿ったり離れたりして通じている国道54号線(2018年からは連邦道R257と名称変更)を南下していきました。南下すればする程、半乾燥地帯に入っていき、森林は少なく、代わって草原が多くなります。途中で、秋の早い太陽が沈み、草原のすばらしい夕日を何枚も写真に撮りました。もっとすばらしい星空のほうは、ため息をついて、目の奥に焼き付けておきました(写真が撮れないのはとても残念)。私の住むクラスノヤルスク市ではスモックがあって、ここで見られるような銀河などはとても見られません。 400キロほど南下したところの、ハカシア共和国首都アバカン市(人口15万人)で1日目は泊りました。ハカシアはソ連時代、クラスノヤルスク地方に属する自治州でしたが、ソ連邦が崩壊して、今ではロシア連邦構成共国になっています。ロシア連邦には89の主体(つまり自治体、当時)があって、ハカシアはそのうちの1つで、『州』『地方』『共和国』などのうちで『共和国』の形をとっているわけです。首長は大統領ではなく『共和国政府首長』と言います。内閣や法律や国会もあります。ハカシア人のための国ですが、住民の中でハカシア人は今では12%しかいなくて、80%がロシア人、首長もロシア人です。ハカシア人はモンゴルの北から南シベリア、中央アジアに古くから住んでいたチュルク系民族の子孫だそうです。
エニセイ川の上流の峡谷は、手づかずの自然が残っていて、絵のように美しいのです。シベリアにはこのような自然がたくさんあり、ソ連時代にはそうした地に、例えば、発電所を作ったりしました。発電所を作るためには、そこへ行くまでの道路をまず作らなければなりません。また、その発電所を建設する労働者、そして、建設後はそこで働く労働者のための新規の町を築かなくてはなりません。そのようにしてできたのが、サヤノ・シューシンスカヤ発電所のためのチェリョームシキ町です。(人間の経済活動のために自然を破壊したわけです) アバカン市を出発し、さらに、南へ南へと草原の中に走っている鋪装道路を100キロ程行くと、右手遠方に、煙をもくもくと吐き出す巨大な工場が見えてきます。草原で遮るものがないため遠くから見えるのです。これは、サヤノゴルスク市という新興の工業都市で、サヤノ・シューシンスカヤ発電所からの電力を使うアルミ工場町です。公害対策は万全とはいえないようです。人口5万人だそうですが、その人たちの健康はどうなのでしょう。ソ連時代は、このような環境の悪い所で働く人は、年間休暇が多く、長期に黒海沿岸などのリゾート地、保養地などへ旅行できると聞いたことがあります。今は、どうなっているのでしょうか。 この公害都市を抜けると、突然、美しいエニセイ川沿いの道に出ます。そこは、山の中の絶壁に囲まれた山道なので、山国日本の『スーパー林道』などと少し似ていますが、エニセイのような太い川が流れていることが違います。また、周りの山々が、温帯地方の日本のように樹林に被われているのではなく、半乾燥地帯のため、木はあまり育たず草ばかり生えていて、その向こうの高い山々は森林も草原もなく、ただ雪に被われていることなどが違います。そうした半乾燥地帯の荒涼とした山々を見ると、私はいつも、『西遊記』の孫悟空でも飛んでないだろうかと思ってしまいます。 このあたりのエニセイ川は、エニセイ川より若い西サヤン山脈を(太古から)侵食しながら流れ通るため、川幅は狭く、右岸も左岸も絶壁です。川に沿ってところどころ道をつくるために絶壁を爆破したような跡も見えます。そんな道を50キロも走ると、突然、高さ240メートル(エッフェル塔でも300メートル)のサヤノ・シューシンスカヤ発電所ダムにぶつかるように、道は終わります。 今年の夏には、クラスノヤルスクから出発して船で、エニセイ川を下りましたが、今回は、車で、上流へ行ってみたわけです。サヤノ・シューシンスカヤ発電所より上流は、長いダム湖が西サヤン山脈の中にできています。この先の西サヤン山脈の中には、道路はありません。地図でエニセイ川の流れをサヤノ・シューシンスコエ(ダム)湖をさらに遡っていくと、トゥヴァ共和国(ロシア連邦構成共和国の一つ)との国境を超え、東に曲がり、シャゴナール市の辺りまでダム湖らしく太い川が続いています。その先は普通の太い川の幅になって東へ流れ、トゥヴァ共和国首都のクィズィール市で、大エニセイと小エニセイに別れ、さらに南東へと、モンゴル高原に続く山岳地帯にのびています(以上、水の流れと逆のコース)。アバカン市からクィズィール市に出るには、峡谷を流れるエニセイ沿いの道ではなく、別の、東方面の峠を越え盆地を横切る国道54号線を通ります。 サヤノ・シューシンスカヤ発電所には博物館がありますが、見学のためには、前もってパスポートのコピーを送って許可をもらわなくてはなりません。発電所そのものも、部外者は近付くことはできません。ロシアは発電所に限らず、あちこちに禁止地区があります。誰かがその発電所を爆破すると、6400メガワットもの発電力のダムがなくなるだけでなく、チェリョームシキや、多くの『戦略的に重要な(と言う言葉をロシアではよく耳にする)』工業都市がエニセイ川の水に押しながされてしまうからだそうです。確かに、チェリョームシキは数秒後に、水面下240メートルの水中都市になってしまいます。 今回、ファックスで博物館見学の許可申請をしておいたのですが、行ってみるとモスクワのテロのため見学禁止と言われました。エニセイ川左岸に見晴らし台があると聞いて、砂利道を車で登って行きました。かなり登った所にある少し開けたところが見晴らし台でしたが、それでも、ダムの高さより低いので、ダムの向こう側の広いダム湖は見られませんでした。途中検問所があって、車の中など調べられました。検問所は、ロシアでは要所要所に設けられてあって、防弾チョッキを着て自動小銃を持った兵士が、「武器は持ってないか!」と質問します。 チェリョームシキは、発電所のためだけにできている人口1万人程の小さな町で、ロシア不景気のリストラのため失業者が増えているそうです。大都市なら他にも産業はあるでしょうが、ここは、発電所しかありません。耕地もありません。発電所を解雇されたら、どうするのでしょうか。他の町も失業者が溢れていますし。 袋小路にある町なので、三方が自然の絶壁に囲まれた要塞都市のようです。戦国時代だったら、きっと堅固だったでしょう。市のホテルと言っても、観光客のためと言うより発電所関係の出張者のためにあるので、アパートのように台所付きでした。これは、家具付きアパートを日割り制で貸している形で、出張族が来るような町に多いです。 チェリョームシキのすぐ横を流れる狭いエニセイ川を見て、1000キロ下流の大河は想像できません。この辺のエニセイは、狭い絶壁の間を流れているので、超巨大ダムを作るのによい条件です。これは、その当時、首都の学者が全ソ連邦を地理的に見て決めた地点です。場所もクラスノヤルスクから600キロと、シベリアにしては短い距離です。 前記のように、エニセイは、地史的に自分より若いサヤン山脈を通り抜けて流れるため、深い峡谷を作ったわけです。西サヤン山脈の向こうのトゥヴァ盆地を流れるエニセイは広いのです。
そのダム(堤防)の上は通行できて、エニセイの右岸に出られます。右岸は、ハカシア共和国ではなくクラスノヤルスク地方で、まず、シーザヤ村で車を停めました。シーザヤ村は比較的古くて19世紀に、他のシベリアの多くのロシア人集落と同じように、コザック隊が作ったそうです。 この人口5千人の小さな村に、大理石をふんだんに使った白と青の美しい教会があります。対岸のマイナ村からもよく見える高台に建っています。これはソ連時代に新築された唯一の教会だそうです。というのも、シーザヤ村は有名なレスリング選手ヤルィギンの故郷で、彼は自分のお金で(さらに、たぶん体育会系官僚を動員して)、自分の母親と同じ名前の「聖エウドキヤ」教会を建てたのです。エニセイの自然に囲まれた童話の中の小さなお城のような教会でした。(追記:新興の教会・モスクは、多くが個人または個人の息がかりで建てられ、自分の父親または母親の名前をつけたのが多い) シーザヤ村を通り過ぎ、エニセイ右岸の道も川岸から離れ、「シベリアのイタリア」と言われるほど温暖なミヌシンスク盆地を北上し、盆地の中心地ミヌシンスク市(人口7万人)にむかいました。 古代文明は大河の近くで発展しました。エニセイ川も大河ですから、古代文明が発達してもよさそうです。でも、下流の北極圏は勿論、クラスノヤルスクがある中流地帯も気候が厳しくて(旧石器時代は今より温暖だった時期もあったと言う、しかし農耕はできなかったし、遊牧も針葉樹林帯ではできなかっただろう.狩猟採集には好適な場所だったが)、農耕牧畜文明らしいものは発達しませんでした(旧石器のアフォントヴァ遺跡は2万年前)。でも、過ごしやすい気候のミヌシンスク盆地には、数万年前からの旧石器時代遺跡のほか、6,7千年前からの新石器時代遺跡が残っていて、4,5千年前から青銅器文明が発達しました。紀元前数世紀に鉄器文明が生まれました。また、中世の紀元16,17世紀には、現ハカシア人の祖先達が封建国家を作りました。それら先史時代や古代、中世の墓跡(クルガン)もたくさん残っています。シベリア(エニセイ)・スキタイ文化の青銅器遺跡(約2800年前から)や、匈奴青銅器遺跡(約2200年前)、タガルスカヤ鉄器文化など発掘調査中です。墓は巨石で囲まれていて、発掘物は、ミヌシンスク博物館に保存されています。
ミヌシンスク市では、「アムィール」ホテルと言う19世紀末に建てられた古いホテルのデラックスルームに泊まりました。デラックスルームにしかバス・トイレがついていないからです。一泊2000円でした。1年前に、来た時も同じホテルに泊まりました。ホテルの管理人が私達を覚えていました。と言うのも、ホテルに泊まる時はパスポートを見せなければなりません。きっと、日本人が泊まるなんて、珍しいことだからでしょう。
クラスノヤルスク地方南部の中心地ミヌシンスク市からもそうした袋小路にいたる道が数本、放射状にのびています。その中でもチェリョムシャンカ村には、新興宗教の共同体があると聞いていました。 昔、ロシア正教の分派で、正統派から迫害されたスタロベーリイ(旧儀式派)は、ウラルを超えシベリアの未踏の地に自分達だけの村を作って住みました。今でも、人里離れた自然の美しいシベリアの小さな小川沿いにそうした古い村で、もう、住む人も少なくなっているか、または、廃村寸前の村があります。中には本当に文明から忘れ去られた村もあって、偶然現代文明に発見されたと言う針葉樹林(タイガ)の中の数家族の集落もあったそうです。(しかし、なかなか繁盛している旧儀式派の村もあります) しかし、チェリョムシャンカ村は、旧儀式派ではなく、1961年生の『現代のキリスト』と名乗る教祖が組織した新しい宗団で、シベリアの中でも、最も美しいクラスノヤルスク南部の、気候の比較的温暖なミヌシンスク盆地のはずれ、東サヤン山脈のふもとの寒村に本拠地をおくことにしたそうです。信者達は、元の生活を捨て、ここへ来て、自分達の教会をたて、自給自足の共同生活をしています。以前の生活に持っていたものは、提供して、共同のものとなるそうです。 宗祖ヴァッサリオン=キリストは、ドイツ伝導中とかで留守でした。 (追記:2007年、ヴィッサリオンの『天啓の地』を訪れる機会があった。) たまたま村の道で会って話をし、自分達の建設中の家まで見せてくれたモスクワ出身の信者リューバさんが、昼食に招待してくれたのもお断りして、2時頃、そこを出発しました。午後からは、一気にクラスノヤルスクに帰るつもりだったからです。 チェリョムシャンカ村の側を流れるカズィール川の上流は東サヤン山脈のイルクーツク側までさかのぼります。カズィール川にも、その大きな支流のカジール川にも、もう氷が流れていました。あと数日ですっかり凍ってしまうでしょう。カズール川の橋の上から、下をゆっくり流れていく氷を眺めていると、周りの景色の美しさに引き込まれ、寒いのも忘れてしまうくらいでした。 しかし、ぱらっと雨が降った後が大変でした。雪なら、新雪の上を気持ちよく走れたかもしれませんが、いったん雨が降り、そのあと気温が急に下がったのでたまりません。地面に降った雨水が凍り、スケート場のようにつるつるになりました。アバカン市まであと80キロ、クラスノヤルスクまで500キロと言う所で、もうほとんど通行不能なくらいの路面凍結になりました。こちらで、路面凍結と言うと長距離バスも運行をストップします。つまり、道路交通が途絶えるくらい深刻です。と言っても、どうしようもないので、ホテルのあるアバカン市までの道を時速20キロ以下でそろそろと運転して行きました。途中、霧が出て、5メートル先も見えなくなったりしました。 夜遅く、やっとアバカンに着き、ホテルを捜しました。『アバカン』ホテルは、一泊2000円と言われたので、断り、1400円の『ハカシア』ホテルに泊まりました。三日前、来る時泊まったホテルも『ハカシア』でした。その部屋はゴキブリが這い回っていたので、本当は600円高くても、『アバカン』の方がいいと思ったのですが、ホテル代が高いからと言ってにゴキブリがいないという保障はありません。『ハカシア』ホテルの窓口で 「ゴキブリのいない部屋にしてちょうだい」と一応言ってみました。 「うちは、定期的に殺虫剤を撒いているから大丈夫よ」と言われました。部屋に入って恐る恐る洗面所を見てみると、本当に今度はゴキブリの姿は見えませんでした。人間には無害な殺虫剤だったかどうか、気になりましたが。
しかし、ハカシア共和国を北上してチュリム川盆地に出ると、道路状況はよく、少し安心しました。ここも、半乾燥地帯の草原で、国道54号線沿いにまで、昔のクルガン(古代の墳墓)が残っているので、時々車を止めて写真を取りました。
検問所といっても、サヤノ・シューシンスキー発電所のような立ち入り禁止地区はありませんが、ロシアでは、国道の要所要所にこのような検問所があるのです。江戸時代の関所のようなもので、『手形』のパスポートや免許証などを調べることもあります。調べないこともあります。 ロシアで新しい道ができるなんて珍しいことです。次回の長期ドライブは、ぜひ、新発見のコースを試してみたいものです。 5日前に通った道を戻り、家に帰り着いた時は、暗くなっていました。 (追記:2007年ヴィッサリオンの『天啓の地』を訪ねたとき、その新道を通った)
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ハカスコ・ミヌシンスカヤ盆地 Хакасско-Минусинская котоловина は南シベリアにあって、クズネツック・アラタウ山脈の南東、東サヤン山脈の北西、西サヤン山脈の北にあり、エニセイ川とアバカン川、その支流が流れている。かつては、ミヌシンスク盆地と言われた。ミヌシンスク市が、18−19世紀から帝政ロシアの交易・行政中心地だったからその名がついたのだ。しかし、盆地(草原)はミヌシンスクのあるエニセイ川の右岸よりハカシア共和国のある左岸に広まっている。だからハカシアでは『ハカシア・ミヌシンスク』盆地と呼ぶ。その形容詞形がハカスコ・ミヌシンスカヤ盆地だ。盆地は女性形なので『ーカヤ』となる。ハカシアは国名(女性形)、ハカスはその民族男性の単数、ハカスカは女性単数、ハカスキィは形容詞男性形、ハカスコは形容詞の連結形。日本語表記では地名の語尾は省いた、ハカス・ミヌシンスク盆地へはこの先も何度も訪れた。2002年は実は2度目だった。(追記) |