クラスノヤルスク滞在記と滞在後記  
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home up date 2007年10月27日  校正・追記:07年12月9日,2010年9月16日、2011年11月6日、2012年1月17日、2018年10月7日、2019年11月25日、2021年3月11日、7月16日、2022年5月10日)
ハカシア古墳群と
22-(1)  クラスノヤルスク地方の僻地
エニセイ川を下る、サヤン山脈の新興宗教共同体)(1)
 
       2007年6月21日から7月8日

Глушь Красноярского края. Курганы в Хакасии (с21 июня по 8 июля 2007) 

1)航空券も高くなった 2)トゥングース川のボル村 3)僻地短報の合間に
 僻地が面白い  密漁監視船『ザスロン』丸  全線開通の近道350キロ
 ウラジオストック経由  3本のトゥングースカ川  東サヤン山脈のクラギノ地区
 いつものクラスノヤルスク  超少数民族ケト人村  『ドイツ人の家』
 ハカシア共和国へ  石のトゥングースカ川絶景  ヴィッサリオン信者の村
 『ツァーリ(帝王)の谷  キャビアの隣スマロコーヴァ村  『暁の町』へ
 ボロジノ洞窟  迷路の奥の隠れ村  天啓の地
 先史時代都市跡ゼンヒール  洪水のヴォロコヴァ村  チベリクリ湖
 大きな石のばあさん  寂れたフォムカ村  下山
 在留証明書の手続き  密漁者   ウラジオストック
 1996年から2004年までクラスノヤルスクに滞在していた頃は、日本へ帰国するには新潟まで往復600ドルくらいでした。ところが、最近はそれだけの値段では、所要時間にかかわりなく一番安いコースの、さらに期間限定格安航空券を買っても、往復航空券はとても購入できません。
 去年の夏のように、新潟からウラジオストクに飛び、乗り換え便に乗ってその日のうちにイルクーツクに着いて、すぐ列車に乗ってクラスノヤルスクに向かうという往復98,400円(去年は88,000円だったが)のコースは、乗り換え便のほうに空席がないとかであきらめました。ハバロフスク経由のダリアビア便ではクラスノヤルスク行きの乗換えが、金曜日便以外、スムーズに行かないという不都合があります。
 結局、新潟からウラジオストクに飛び、そこで1泊して翌日、毎日運行のクラスノヤルスク便に乗るということにして、新潟からウラジオストクの国際便は日本で購入し、ウラジオストクからクラスノヤルスクのロシア国内便は知り合いを通じてロシアで買ってもらうことにしました。現地で購入したチケットをウラジオストクの空港前のホテル『ヴェニス』に届けておいて貰います。815ドルでした。これは日本の旅行会社を通じるより安いはずです。ちなみに日本のどの旅行代理店でも、ロシア国内便の発券ができるとはかぎらないようです(当時)。できても、ロシアのどこの航空会社のチケットでも発券できるというわけではないようです。
 新潟からウラジオストクの国際便が、往復期間が2週間を超えたので87,200円と割高でした。つまり、87,200円と815ドル(当時約98,000円)に、ヴェニス・ホテル1泊2,208ルーブル(約一万円)の合計20万円近くが最低必要だったのです。その他、17日間の滞在費と観光費は6万円くらいで、合計26万円でした。これは、高かった前年の『冬至の頃クラスノヤルスクの2週間』の旅費より12万円ほども高いものでした。

 僻地が面白い
 夏至の頃クラスノヤルスク地方の北部へ行くという計画は、春ごろからありました。エニセイの下流のカラウル村へ行けるかも知れないと言うことでした。北緯70度のカラウル村はドゥジンカ市から180キロも下った(つまり、北上した)エニセイ湾の手前にあります。エニセイ湾はカラ海に開け、カラ海は北極海の一部です。
 私の招待者ディーマさんの友達のアリョーシャさんが乗っているエニセイ川密漁監視用小型船が当初カラウル村まで行く予定だったので、それに乗せてもらって私もカラウル村まで行けるということでした。でも、今年その船はエニセイ中流域のストレルカ村(クラスノヤルスクの北330キロで、アンガラ川が合流する地点)からボル村(クラスノヤルスクの北889キロで、ポドカーメンナヤ・トゥングースカ川の合流地点)の間を往復して仕事をすることになったので、その船にディーマと便乗することにしていた私も、ボル村より北へは行けないことになったのです。
 6月初めごろアリョーシャの船の運行プランが決まったので、私は電話とメールでディーマと相談して、急いで日程を決めました。アリョーシャの船に合流できるのは、出発点のストレイカ村に停泊中か、折り返し点のボル村に停泊中だけです。ストレイカ村停泊日は6月20日だそうですが、それに合わせるためには6月18日以前にウラジオストクに着いていなければなりません。でも、招待状に示してあるビザ開始日が6月20日なので、18日入国はできません。それで、アリョーシャの船がボル村に2日停泊する日に合わせて、合流することにしました。それは6月26日のようです。しかし、ボル村出発の前に、クラスノヤルスクで外国人逗留手続きをしなければなりません。これが数時間ではできないところがロシアの難しい点です。
 新潟ウラジオストク便があるのは日曜日と木曜日ですが、6月24日の日曜日に日本出発しても、ぎりぎりには間に合いそうです。23日(土)と20日(水)は富山空港からウラジオストクに便がありますが、これはチケット代が高いうえ、日程に余裕ができすぎます。結局、21日(木)の新潟ウラジオストク便に決めたというわけです。 
 クラスノヤルスク市は観光都市ではないので、仕事以外の日本人旅行者はまれです。クラスノヤルスク地方といえばそこまで足を伸ばす日本人は、シベリア抑留者墓参団か、鉱物資源または材木関係者でなければ、レスリング試合などスポーツ関係者か、(愛知県のような)友好都市関係者か、考古学関係者か、そういう何か仕事に関係した人ぐらいのようです。私のように特に用もなく訪れる人は多くないかも。
 モスクワやサンクト・ペテルブルグのように観光旅行者が多くない、ということがこの町で動きやすい点でもあります(外国人旅行者用割高システムがない)。さらに、そんなクラスノヤルスクの、ロシア人でもあまり行かないような人里離れた僻地に行ってみるというのが、興味深いのです。前年の冬は人口超希薄なアンガラ川中下流や、エニセイ河川港イガルカ市ができる前にあった旧イガルカ村へ行きました。今回、エニセイ中流のポドカーメンナヤ・トゥングースカ川合流地点の村々や、エニセイ川上流のトゥヴァ、それに、今まで近くまで行ったのにまだ見たことのないハカシア古墳群を訪れる予定でした。

 ウラジオストク経由
 ウラジオストクは日本とほぼ同じ子午線上にあるのに日本より時間が1時間早く設定され、サマータイムなのでさらに早くなって、時差が2時間です。それで、新潟出発が15時50分で飛行時間が2時間もないのに、ウラジオストク到着は現地時間で19時30分になります。
 ウラジオストク空港はウラジオストク市から離れているうえ、翌日のクラスノヤルスクへの出発が9時ですから、宿泊地は空港に近い方がいいです。去年は空港向かいの(サナトリウムと呼ばれているらしい)1泊1,800円ほどのホテルで4時間ほど休憩したものでした。そこでもよかったのですが、行きがかり上、1泊1万円のヴェニス・ホテルにしました。日本から直接自分で電話をかけて予約しておいたので、たぶん旅行代理店を通じるより安かったでしょう。予約料金の25%も不要で、カードも使えました。
 ウラジオストク空港についてから荷物が出てくるのを待つ間に、ホテルのフロントに確認の電話をかけておきました。フロントのおねえさんは「チケットもちゃんと届いていますよ」と、愛想よく答えてくれました。空港から荷物をごろごろ転がして歩いて行けるところがいいです。清潔なビジネスホテルで、たまにはこんな『高価な』ホテルに泊まるのもいいものです。
 空港ターミナルからこんな近いところにあるホテルですから、翌日のクラスノヤルスク便が9時に出発するなら、8時半にホテルを出てもいいのではないか、とフロントに尋ねたくらいでした。いや、せめて8時に出たほうがいいです、と言われたので8時20分に出ました。これで、いつものように空港でだらだらと待たされて退屈することもなく、すぐ搭乗できました。
 前部サロンと後部サロンに別れているロシアの飛行機は、もし、両サロンの最後尾の座席に座ると、背もたれが倒れません。20年間以上もの間、何度も乗っていますが、この寝心地の悪い席に当ったのはこれで2度目です。スチュワーデスさんに頼んで換えてもらいました。まだ、換えてもらえる席があってよかったです。これで、サロンの真ん中ぐらいの好都合な通路側席になり、4時間あまりの飛行時間、まどろんだり、雑誌を読んだり、食べたりとぼんやり過ごすことができました。時刻表によるとウラジオストクを9時発で、時差が3時間のクラスノヤルスク着が11時10分ですから、実は飛行時間(広義には機内か、またはその周辺にいる時間)は5時間10分になります。ちなみに帰りの便は8時5分発11時55分着ですから4時間50分です。

 いつものクラスノヤルスク
 いつもの懐かしいクラスノヤルスク空港で飛行機から出ると、クラスノヤルスクまでの乗客と、1時間ほどの待ち合わせでモスクワに向かうトランジット客に分かれてバスに乗ります。私たちはそのまま出口用ゲート前で降ろされ、場外に出ます。出たところで客待ちタクシーの運転手に声をかけられるが、それを無視して出迎えのディーマとワジムを探すというのが、ここ2、3年の私のクラスノヤルスク到着スタイルになります。(列車でクラスノヤルスクに着いたこともあります)
 いつもながら長々と待って荷物をターンテーブルから取り、ディーマの車に乗りました。半年ぶりのクラスノヤルスク市に入ると、ひとまず昼食を取ることにします。食事しながら、ディーマが明日からの私の滞在予定を話してくれました。 
ナースチャのママ、ペリメニを作る

 23日(土)と24日(日)、ディーマとアバカン市へ。ハカシアの古墳(クルガン)見物。
 25日(月)、内務省クラスノヤルスク地方外国人課で私の滞在手続き。これに1日かけるというのがロシアらしい。
 26日(火)からたぶん30日(土)、パドカーメンナヤ・トゥングースカ川がエニセイ川に合流するところにあるボル村に行き、そこでアリョーシャの船に合流する。このクルーズが今回のメイン。
 そのあと数日間、去年計画したが、行けなかったトゥヴァへ行く。

 この程度の日程でも、ぎっしり詰まっていると言えます。これで今回のクラスノヤルスク滞在2週間も、毎日パソコンで日本宛メールを送っているというような旅行者らしくない日程にならなくてすみそうです。私の希望にかなった日程をたててくれたディーマさんに大感謝でした。
 レストランを出ていつものように彼らの事務所へ行き、夕方にはナースチャのアパートに送ってもらいました。クラスノヤルスク滞在中は、最近では、2部屋の彼女のアパートに泊めてもらうことにしています。私が1部屋を占領するので、彼女と両親の3人は、居間で寝るということになってしまいます。でも、いつも快く泊めてくれると言うところがロシアらしいです。
 ハカシア共和国へ
境界
クラスノヤルスク地方とハカシア共和国との境界
 6月23日(土)朝6時にディーマ運転のレガシーに乗り、国道54号線を南下していきました。54号線は延長1069キロで、クラスノヤルスクからモンゴルとの国境まで通じています。(シベリアでは南北に走る陸路は多くないです)。今回は、クラスノヤルスクから400kmほど行ったところのハカシア共和国の首都アバカンまで行きます。ちなみにロシアからモンゴルに入る正式の道は6本ほどあるようですが、この54号線から入るのが最も一般的では『ない』ようです。という訳で、いつかは通りぬけてみたいものです。
(2021年後記:実は、そこは第三国人、つまりロシア連邦国籍者でもモンゴル国籍者でもない外国人は通過できない)
 クラスノヤルスク市から250キロほど行ったところでハカシア共和国(というロシア連邦の連邦構成主体、つまり一自治体)に入ります。一応国境です。『ハカシア』と大きく書いた道標が立っていて、ここを通る時はこれを背景に写真を撮ることにしています。5回以上はクラスノヤルスク側から通っているでしょうし、6回以上は反対側から通ったでしょう。(ハカシアに入る道は2本あるから)
 最後に通ったのは2005年12月、やはりディーマとアバカンへ行ったときでした。アバカンへ行く用事があるなら私も乗せていってほしいと頼んだのでした。その折はアバカン市内見物と郷土史博物館に行っただけでしたが、そこの博物館のガイドが、
「ここに展示してある先史時代の石柱などの記念物はごく一部で、もっと雄大なものを見るにはハカシア草原に行ったらいい」と言っていました。事実、国道を通ってくるだけでも、遠くや近くに先史時代の古墳跡の石柱が見えます。ハカシアが『青空の下の博物館』と言われるゆえんです。でも、国道などの舗装道から見えるような古墳群でない(手つかずの、とは言わない、考古学者が手をつけただろうから)古墳群をぜひ訪れたいものです。
 2006年夏にもクラスノヤルスクに行った時、ディーマと古墳群見物の計画はあったのですが、北のイガルカからの帰りの便が遅れたため、南のハカシアまで足を伸ばす時間がなくなったのです。
 その時のイガルカ滞在はよいガイドがいなかったために、ディーマさんは退屈したようです。それからは、ディーマは確かな知り合いのいるところに私を案内してくれるようになりました。アバカンにはディーマの兄サーシャの家族が住んでいて、兄嫁のマリーナが図書館に勤めているそうです。彼女が古墳群の案内をしてくれるスラーヴァ・ミノールを紹介してくれることになりました。

 ハカシア古墳群『ツァーリ(帝王)の谷
二柱の巨石が2つの世界の境界門のように立っている
1954年以前の調査前の『大サルビック古墳』
古墳上にいるのは騎馬の人
今の『大サルビック古墳』↑↓
今では墳丘が取り除かれた内部から
割れて崩れた巨石
青銅の鏡と剣
未発掘の古墳の上に上がって、古墳を囲む
巨石の頭と眼下に広がる草原を見渡す
 朝6時にクラスノヤルスクを出発したディーマと私は、10時過ぎにアバカン市に入り、(ビジネスマンの)ディーマの用事を済ませた後、12時過ぎにはスラーヴァと合流して、食事をとる時間も惜しんで、古墳群に向かいました。北西に向けて草原の中を通っているなだらかな上り坂のアスファルト道を走ります。
 70キロほど行ったところで道から出て草原に入ります。車の後に土埃をあげて5キロほど行くと『ツァーリの谷(エジプト・ピラミッド群の王家の谷からの『あやかり』名称。ツァーリはカエサル、つまり英語読みでシーザーのロシア語読みから来たロシア皇帝の称号)』と旅行案内所などには書いてある草原の中の開けた盆地に出ます。
 
 ハカシア共和国の中学校の歴史教科書によると、南シベリアでいちばん古い人類の跡は30万年以上前の旧石器時代のもので、アルタイ共和国(ハカシアの西、同じくロシア連邦の構成主体つまり一自治体)でみつかっているそうです。エニセイ川中流のハカシア盆地では、4〜5万年前の中期旧石器時代の洞窟、3万年前の後期旧石器時代の生活跡、1万6千年前の後期旧石器時代の土偶、約8千年前から始まったという新石器時代の土器や石画などが見つかっています。約4500年前から始まった金石併用文化(アファナーシエヴォ文化)、4000年から3500年前からの青銅器文化(オクネフ文化)、約3500年前に西方から来たというアンドロノヴォ文化、その後の高度な青銅器の担い手のカラスク文化などの遺跡があり、考古学の宝庫だそうです。先史時代の石像、石画、発掘中の墳墓、発掘された青銅器などの写真やイラストが、教科書ばかりでなく旅行案内書にもたくさん載っています。
 青銅器時代に続いて、約2700年前から、早期鉄器文化(タガール文化)が始まります。この南シベリアのハカシアのタガール文化は、黒海北岸のスキタイ文化と共通点が多いと書いてあります。しかし担い手は、黒海スキタイではイラン語系であり、シベリア・スキタイのタガールは不明だが、たぶんサモエード(サモディーツ)諸語系で、中国史で言う『ディンリン・丁零』と関係あるとされています。(教科書ではタガール人はディンリンとされていて、ディンリンはヨーロッパ系だとしています。また考古学の本によると当時南シベリアにはヨーロッパ人種がアジア人種と同様、広く住んでいたとなっています)。
 ガイドのスラーヴァも、『スキタイ時代』の文化と言っています。このタガール文化人は、多くの巨石記念物を残しました。石柱なら、その前の時代から多く残っていますが、このタガール時代のものは何トン、何十トンもの巨大な石も使っているので、その前後の時代とちがうところです。ハカシアの草原のあちこちにこうした立ち石の墳丘墓が残っていて、私たちが目にするのはこの時代のものが多いそうです。
 その中でも特に巨大な記念物が多く残っているのが、スラーヴァの案内してくれたサルビック草原にある『ツァーリの谷(前記)』で、そこには50以上の巨石群があります。
 はじめに車を停めて見物したのは二柱の巨石が門のように立っている所で、観光バスでやってきたグループもいました。二柱の石門はタガール文化人がこの世とあの世を分ける境界に立てた門かもしれないということで、バスで来ている団体(神秘主義者かもしれない)の皆が、石柱にぴたりと背中をくっつけて瞑想したり、お祈りしたりしていました。神聖なものに身体を触れると、その力が移ってくるからだそうです。その人たちが離れるのを待って、スラーヴァの見せてくれた石柱には石画が見えました。
 そこから大小の石柱が遠くや近くに見える草原を車で数分行ったところが、現在、国指定保存物になっている『大サルビック古墳』です。高さ12メートル、直径500メートルの墳丘がありその周りを3メートルから7メートルの石柱で囲んだものだったのですが、1954年からモスクワ大学考古学グループが発掘調査をしたため、墳丘は取り除かれて、石柱で囲まれた広場が残っています。考古学者によると、紀元前4−5世紀のタガール人の有力者(つまり、ツァーリ)の墓で、墳丘の高さは、築かれた頃は30メートル近くあったようです。これら50トンもするような巨石がどうやってこの草原に運ばれ墳丘の周りに立てられたのかは謎です。
 スラーヴァが、ここで見つかった遺品というのを持ってきていて、この場所で鞄から出して特別に見せてくれました。錆びた青銅製の剣と、裏側に取っ手のついた青銅製円盤です。これは鏡だとすぐわかりました。東京国立博物館にも展示してありそうなものです。
 大サルビック古墳が国指定保存物になっているといっても、割れたり崩れたりした巨石や、すっかり倒れてしまったのがあるばかりか、落書きすら見かけられます。保管して観光地にする計画があるそうで、最近は景気のよいロシアですからやがて実現されるでしょう。6月20日付『夕刊クラスノヤルスク』誌によると、将来『大サルビック古墳センター』は記念物を保全し、ツアー客をガイドつきで見物させるそうです。さらに、道路を敷設し、駐車場や見晴台、トイレ、キャンプ場も設置し、売店で土産も売るそうです。住民の雇用にもつながると書いてありました。そうなる前に見ておいてよかったです。

 『大サルビック古墳』の近くにも古墳が20個ほどもあります。未発掘のものは小高い墳丘が残っていて、その周りに墳丘から落ちてきた土をかぶった巨石が頭を出しています。そのうちのいくつかに上ってみました。数メートルの高さからも見えるのは草原ばかりです。
 途中、乾燥した荒れた草原の中の砂地にはスゲ属の草が生えていて、これで草ぼうきでも作ろうと、少し刈り取りました。前々から。草原を通る度にやりたいと思っていたことです。

 ボロジノ洞窟
フラッシュをたいた洞窟内の鍾乳、石筍
写真奥に入口が見える洞窟から出て
日向で温まっているディーマとスラーヴァ
 スラーヴァがこの近くに洞窟があるから見物しないかと言いました。近いといっても悪路なので、注意深く1時間も行ったところで車を止め、絶壁を20分も登ったところに洞窟の入り口があります。古代人も住んでいただろうという石灰質の洞窟で、長さが1120メートル、深さ72メートルだそうです。
 ロシア人の国内旅行といえば、保養地滞在、魚釣りやハンティング、筏での川くだり(ラフティング)などの定番の他、洞窟ツアーも人気があります。明かりもあって、足場のしっかりした階段や通路もついているという洞窟は、ウラル地方のペルム市近郊のクングーン洞窟ぐらいしか知りません。シベリアではそうした一般向け洞窟はまだ少なく、専門家が探検しただけとか、未調査とかの洞窟しかありません。急流筏くだりと同様スリルがあって愛好家が多いそうです。
 スラーヴァの案内してくれたのはボロジノ洞窟といい、元は洞窟ツアー客がよく訪れたのか、入り口近くだけは未装備の観光客でも見物できるように階段をつけてあります。しかし、当てにならない階段で、壊れかかってぐらぐらしています。スラーヴァもディーマも若くて元気なロシア男性ですが、私はそうでもないので、そろそろと両手両足を使って降りていきました。底の知れない裂け目に落ちてしまわないよう、スラーヴァの持って来た強烈な懐中電灯に照らされて注意深く先に進みます。天井から垂れ下がった鍾乳石、床下からもりあがっている石筍などの美しさが洞窟ツアーの魅力なのでしょう。しかし、洞窟内は冷えていて、未装備の私たちは長くはいられません。1時間ほどで切り上げて外に出て、暖まりました。

 プリゴルスク町の奥にある金石併用文化時代の都市寺院跡と言う『ゼンヒール』
半ば土に埋もれた岩の列,ゼンヒール遺跡
乾いた草原の遺跡とやせた犬
ゼンヒール遺跡の地図(案内書から)
ディーマの兄サーシャの家、バーベキュー
アスキース村への道のサーシャ
アスキース地区では道祖神のような
コノヴァースをよく見かける
新『ウルク・フルツヤフ・タス』博物館全景
この石の魔術的な力を受けるマリーナたち
博物館裏手にある石柱群
博物館の野外トイレ
以前は手前に小屋が立っていたが穴がいっぱいに
なったので土でふたをかぶせて横へ移動したそうだ
 次にスラーヴァの案内してくれたところは、先史時代都市跡ゼンヒールと言うところで、プリゴルスク町の北の台地にあります。この近くの岡がゼンヒール(高さ400メートル、ハカシア語で『長い連峰』という意味)と呼ばれているからです。
 プリゴルスクというのは全体が人口3千人余の矯正労働者入植地(コロニー)で、アバカンから北へ国道54号線を30キロほど行ったところの、国道沿いの周りが草原の中にぽつんとあります。矯正労働施設(つまり懲役監か)は、ハカシア共和国には4箇所ほどあるようです。そのうち30というのがプリゴルスクの施設です。このあたりは炭鉱が多いので、石炭関係の労働をしているのかもしれません。クラスノヤルスクからアバカンへ出入りする時はいつもこのプリゴルスク・コロニーのそばを通ります。
 プリゴルスクを通り過ぎて2キロほど行ったところで、アスファルトの自動車道を出て草原の中に入り岡を上っていくと、ゴミ捨て場があり、そこに住んでいるらしい犬が私達の車の後を走ってきました。やがて、乾いた草の間に、半ば土に埋もれた岩の列が見えるところで止まりました。金石併用文化(この地では4000年前のアファナーシエフ文化)時代には、堅固な都市は建てられず、川のそばに小さな村を作っていたというのが定説だったのですが、1998年、このゼンヒールがその時代のものだと特定されたので、考古学に大センセーションが起こったそうです。

 この荒野には、先史時代都市跡だと言う土に埋もれたりした多くの岩が遠くまで見えます。地面から突き出た岩が通路のように2列に並んでいたり、不規則に円形に並んでいたり、ただ、石柱がかたまって立っていたりします。まだ、本格的な調査はおこなわれていないのですが、都市の面積は数十ヘクタールで、そこにあった寺院の高さは15から20メートルと、2006年7月12日付『夕刊クラスノヤルスク』誌の記事に載っています。でも、新石器時代に続いて現れた金石併用のアファナーシエフ文化というのが考古学では謎に包まれているそうです。ゼンヒール遺跡が発掘調査されれば、多少解明されるのかもしれません。その担い手はヨーロッパ系で東方に広がったアーリア人のグループの一つとも言われています。
 ゴミ捨て場からついてきた痩せた犬が盛んに私たちに餌をねだりました。
 考古学の謎ゼンヒール遺跡に私たちがいたのは20分ほどです。岩の並んだこの荒野はアファナーシエフ人が去った後、たぶん何千年も打ち捨てられたままで、岩と草の他は何もありませんし、発掘調査に来たわけでもありませんから。
 スラーヴァも詳しいことは知りません。
 彼をアバカンまで送って別れる時、ディーマはガイド料として500ルーブリ払っていました。約2300円です。知り合いの知り合いだからサーヴィス値なのだとディーマが言っていました。ちなみに、数ヶ月前、スラーヴァは日本人考古学者を大サルビック古墳に案内したそうです。
 その日私たちは、ディーマの兄のサーシャ家で泊りました。

『ウルク・フルツヤッフ・タス(大きな石のばあさん)
  次の日に、ディーマの兄一家と5人で出かけたのが、アバカンから92キロ南西にあるアスキース村の『ウルク・フルツヤッフ・タス(大きな石のばあさん)』記念館です。すでに1722年、その4千年から5千年前の、高さ3メートル、重さ2.6トンもある石柱は見つかっていたそうです。ずっと土地の人たちの信仰の的になっていました。その後1954年にアバカンの郷土史博物館に移管されたのですが、この威力のある石像は本来あった場所に戻すべきだということで、2003年、発掘場所のアスキース村近くに移されました。2004年、私が『ユキヒョウキャンプ場』の帰りに見たのは、戻されたばかりで、仮の小屋に安置してある石像でした。しかし、今回行ってみるとユルタ(遊牧民の移動住居)風の立派な屋根があり四方がガラス張りになっている建物の中にあって、入場も大人1人20ルーブル(90円)と有料でした。外国人は5倍の100ルーブルとか書いてあって、腹が立ちます。ガイドを頼むと一人で25ルーブルします。私たちは5人ですから150ルーブルです(外国人は一人50ルーブルと、また高い)。ガイドらしいハカシア人の女性がいました。試しに、これはいつの時代のものかと聞いてみると
「とても古い時代のものだ」ということです。作ったのは誰かと聞くと
「私達の祖先のハカシア人よ」という答えなので、その時代にこの地に現在ハカシア人の祖先はたぶんまだいなくて、もしかしてスキタイ人とか言うのではないか、と言うと、
「あっ、そうそう、そんな名前だったわ」ということでした。もしかして、このガイドは石像のどこを触ればどんな悩みが解決するか、この石柱にはどんな魔術的力があるかとか、どんな病気に効くかという説明というようなことならそれなりに『ガイド』できるのかも知れません。あとで、他の入場者にガイドが説明している声が聞こえました。
 歴史の教科書によると、4千年から5千年前と言うと、金石併用のアファナーシエフ文化人の次の時代くらいですから、この石柱を作ったのは青銅器と鉄器のスキタイ系(ハカシア・ミヌシンスク盆地ではタガール人と呼ぶ)でもなく、ましてや、紀元頃からヒャカス人として出てくるハカシア人でもないでしょう。しかし、せん。
 もっとも、今のハカシア人はこの地に現れ、去って行ったすべての先史時代人のうちの、やむなく残存した少数が多数民族に融合した子孫の一部かもしれませんが。

 6月25日(月曜日)は特別に、私の滞在手続きのための日でした。招待された者が招待した者の決めた住所に確かに滞在しているという『在留手続』を、到着3日以内に、内務省の外国人課に出頭して長い順番をついて(または順番抜かしをして)登録しなければなりません。今度も順番抜かしをするためにディーマが内務省の知り合いに電話したところ、招待者の住居地を管轄する郵便局で『到着通知』を受け付けるということに代わったということです。郵便局に行くと、申請書を2部提出すること、申請用紙は1部しかあげられないから自分でコピー屋へ行ってコピーして、自筆で2部書いてもってくるように、というロシアらしいものでした。この手続きにだいたい1日かかりました。


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