クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 10 September, 2010(校正 2002年4月18日)
冬道のクラスノヤルスク、氷のエニセイ川とアンガラ川
(6)ドゥプチェス川のヴォーログヴォとサンダクチェス
           2009年2月15日から月14日(のうちの2月26日から28日

На зимнике в глушь Ангары и Енисея( 15.02.2010-05.03.2010 )

アンガラ川へ エニセイ川へ
(1) ハバロフスクからクラスノヤルスク (4) エニセイ街道を北上、レソシビリスク市
アンガラ川へ出発 新ナジーモヴォ村泊
アンガラ松のグレムーチィ村 悲劇のオビ・エニセイ運河
(2) アンガラ川中流、水没のケジマ区 運河跡のアレクサンドル・シュルーズ村
アンガラの支流チャドベツ川の密漁 運河跡の『名無し』村
アンガラ北岸の僻地、古い歴史のヤルキノ村 (5) 1605年からのヤールツェヴォ村
(3) アンガラ下流の先住民、バグチャニ区のバグチャニ村 スィム川の新しい村マイスコエ
アンガラ針葉樹林帯を下流へ リョーハの銃
『憂愁』村と呼ばれていたオルジョニキーゼ村 (6) この旅の目的地ヴォーログヴォ村 村の歴史
モティギノ町、郷土博物館その2 旧儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス村
エニセイを渡ってクラスノヤルスクへ (7) ヴォーログヴォ『多島海』の漁業基地
クラスノヤルスクで 帰りの冬道、オーロラは見えなかったが
地図 アンガラ川下流 ロシア帝国のシベリア『開拓』地図
ヴォーログヴォ『多島海』地図 エニセイ中流地図
シベリアの町々の父エニセイスク市
帰国

 ヴォーロゴヴォ村、この旅の目的地
 クーチン氏は村では名士なのだろう。村外れだが設備のいい新築の1軒屋に住んでいた。家の半分は物置兼ガレージになっていて、玄関から入ったばかりのまだチルドの温度の物置軒ガレージを通って、本当の住居用玄関に入ると、広い玄関の間に出るが、まだあまり暖房は効いてない。夏用応接室になるのか豪華なソファセットが並んでいる。さらにドアを開けると、半袖でも過ごせるほど暖房の効いたて3室と、廊下、ペチカのある広めの台所があって、そこには都会のマンションのようなシステムキッチンが備え付けてある。暖房があまり効いていない玄関の間の反対側には、2つ目のペチカのある広い予備部屋があって、バス・トイレが続いている。ありがたいことに水洗トイレだが、シャワールームは形だけで水も湯も出ない。
今から保育園へ行くクーチン氏の長男と
子供部屋のおもちゃの一部
学校の女子トイレ
カラコリニィ・ヤール村
村の家を入ると、玄関土間は貯蔵小麦粉袋、
保存飼料などある広い物置になっている
カラコーリニィ・ヤール村横のドゥプチェク川
網を繕っている
教会跡
クーチン氏宅近く
ヘリコプター発着場
空港の『ターミナル・ビル』小屋
『ヴォーログヴォ370年』と書かれた河川駅
ターミナル
『ヴォーログヴォ1637-1987』と白いエニセイ川
マリアさんの大きな屋根の家の玄関物置
まつ毛にも氷滴がついたマリアさん

 クーチン氏は、40歳前だが、クラスノヤルスクの大学で学んでいる娘と5歳の男の子がいる。漁業関係の個人企業を経営しているそうだ。ということはアリョーシャの仕事と関係が深い。何人かの漁師を雇って、冬なら氷に穴をあけて魚を網で採っている。最大漁獲量は役所で決められる。例えば、ネリマ(サケ科サケ亜科コレゴヌス属)、オームリ(同属)、シーク(同属、ウスリーシロサケの一種)のような高級魚なら2から3トン、ナリム(タラ科カワメンタイ)、シューカ(カワカマス科ノーザンパーク)、コイ科ウズイ亜科のサローガ、レーシ(ブリーム)、スズキ目のオークニ(パーチ)なら5トン、サケ科のコレゴヌス属のペリャジ、リャプシカ、トゥグンと言った魚は1トン、という風に、らしい。

  (ちなみに) 長野水産試験場ではコレゴヌス属のシークの亜種からシナノユキマスと言う流通名で呼ばれる魚の養殖に成功したそうだ。「シナノユキマス物語、コレゴヌス養殖技術開発の記録」http://www.pref.nagano.lg.jp/xnousei/suishi/yukimasu/story.htm
ペリャジも同じ名前で流通しているそうだ


 ヴォーロゴヴォのクーチン氏の家で、2月25日の夜から3月1日の朝まで4泊した。また、この家の5歳の男の子のダーニャの部屋をあてがわれた。ということはダンプカーやレーシングカーなどのおもちゃの山の中で寝ることになり、ダーニャの遊び相手になるということだった。
 翌、2月26日(金)は8時半にこの家の家族3人は仕事や保育園に出かけてしまい、10時頃起きてきたアリョーシャもリョーハを連れて、車の調子を見てくると去って行き、私一人、知らない家に残された。この日は3時ごろまで放置されてしまうことになったので、私は、昼寝をしたり、窓から見える雪景色を撮ったり、家の中のペチカを撮ったりしていた。
 台所は食洗機こそないが、アレクサンドルスキィ・シュリュース村の古儀式派(スタロヴェール)のおばあさんの家と比べて、普通に現代的だ。上の棚に大きな無線機が置いてある。これはクーチン氏がエニセイ川中洲にある自分の漁場基地と無線で連絡を取り合うためだ。ヴォーロゴヴァ村は、携帯電話がまだ通じていない。固定電話でやっと市外通話ができるようになったばかりだ。玄関にヴォーロゴヴォ村電話帳があった。それは冊子ではなくA4伴コピー用紙4枚に約150軒の個人の電話番号と、14の公共機関(農業ソヴェト、郵便局、警察、消防、病院、住宅公営事業、林業事業部、ガレージ、学校、図書館、幼稚園『白樺』、ガソリン・スタンドなど)の番号があるだけだった。ちなみに2006年の村の人口は924人だ。
 クーチン氏の物置兼ガレージには、マイクロバスのようなロシア車の他に、私たちのランクルよりグレードが上の左ハンドルのランクルがもう1台あった(1台はその日クーチン氏が乗って出かけている)。アリョーシャがクラスノヤルスクからトレーラーに積んできたより大きくて年式の新しいスノーモビール『ヤマハ・ヴァイキング・プロフェッショナル』もある。
 3時ごろになって、アリョーシャ達やクーチン氏が戻ってきてくれた。アリョーシャの方はリョーハを連れてこの先100キロのボル町まで、今から仕事に行くという。パドカーメンナヤ・トゥングースカの合流地点にあるボル町にはエニセイ川自然保護委員会ボル町支部もあって、この旅行が出張(公用)であるという証明も必要だし、またボル町付近で密漁者を捕まえられるかも知れない。ここヴォーロゴヴォに帰るのは翌日になると言って、去って行った。

 クーチン氏は、私の村見物につきあうことになった。まず学校に行く。マイスコエの校長が今一番の問題は校舎建て替えであるといった意味が、ここで分かった。ヴォーロゴヴォの学校はマイスキーより一足早く新築したのだ。今、この国では教育にかなりの予算が割かれ始めていると旅行者の私でもわかるのは、2002年をすぎたころからどんな辺鄙な田舎の学校でも衛星アンテナを立ててインターネットができるようになり、教職員の研究に(スポット的だから、多額の)褒賞金を出し、村の木造の古い校舎が順番に新築されているからだ。
 ヴォーロゴヴォ村の新築の学校は、2年前ダイヤモンドのミールニィ市で見たエリート学校の、デスクトップ・パソコンが十数台並んだコンピュータ室があるような『近代的な』学校だった。驚いたことに女子トイレには水洗便器が3台並んでいた。便座やふたがついたタンク付きの真っ白い便器を学校で見たのはこれが初めてだ。便器にはメーカーのロゴや5年間保証のマークさえ貼られたままだ。仕切りもドアもなくて3個が並んでいるのはロシアらしい。
 クーチン氏に急がされて30分ほどで学校を出て、クーチン夫人の勤める住宅公営事業の事務所で軽食を取ってから、アレクサンドルさんと言うクーチン氏の知り合い(村中が知り合いだろうが)もいっしょに、左ハンドルのランクルに乗って近場に出かけた。ヴォーロゴヴォ村の奥のドゥプチェク川を少しさかのぼったところのカラコーリニィ(鐘の)・ヤール(崖)という古儀式派が住む部落へ行ってみると言う。そこへは30分ほどの道のりで、途中若い木しか生えていない雪原があり、ここはヴォーロゴヴォ村への流刑者部落があったところだと言う。スターリン死後、住民は故郷に戻ったりヴォーロゴヴォ村に移ったりして、今は小屋跡も崩れて若い木も生え始め、雪が積もるとただの雪原にしか見えない。
 なぜ『カラコーリニィ(鐘の)』なのかは知らないが『ヤール』(崖のような急な坂道)を降りると、数軒の家が建つ『鐘崖』部落に着いた。このあたりの家は、同じような作りで、大きな一つ屋根の下に広い物置スペースや家畜用の一角、飼料用のコーナーなどが大部分を占め、その先に小さな住居部分がある。家の前にはクマの毛皮を敷いた橇が置いてある。ここで、古儀式派の若者と知り合いになろうとしたがうまくいかなかった。村の横を流れるドゥプチェク川の写真だけ撮って引き上げた。
 同行のアレクサンドルさんも、村の個人企業のオーナーで、材業や漁業などいろいろやっているらしい。カラコリニィ・ヤール部落からヴォーロゴヴォ村に帰ると自分の仕事場に案内してくれた。そこにはソ連の赤い星マークの軍用トラックもあった。第2次大戦に活躍したようなクラシックものだった。アレクサンドルさんは軍関係者だったのかもしれない。彼ら、制服を脱ぐと、本当に愛想のいい人たちだから。仕事場には数人の男性が網を繕っていた。というより、網のそばで座って何かを飲んでいた。

 村唯一レンガ造りという古い教会(跡)があるというので、クーチン氏のランクルにまた乗って、行ってみた。入口のアーチだけが廃墟趣向で残っている教会はエニセイ川ほとりの高台にある。教会はどこの村でも、陸路からも水路からでも遠くから見える高台に立っているものだ。だから、1999年の(流氷の)大洪水のときも水がつかなかった。
 ヴォーロゴヴォを始めシベリヤの大小の川のほとりにある村々は、春には必ず洪水に見舞われることになっている。小さな川でも、かなり水かさが上がることもあるそうだが、エニセイ川のヴォーロゴヴォでは10メートルくらいは例年だそうだ。1999年も流氷の到来は5月15日と予報が出ていたそうだ。しかし、9日の晩には川の流れに乗って多数の氷塊が1時間足らずの間に村に押し寄せてきた。住民はヘリコプターでエニセイスク市やボル町に避難したそうだ。しかし、家畜は全滅し、家にも水がついた。毎年予報が出ていて、2010年は、『時期は5月6日で、洪水の高さ12メートルだった前年とほぼ同じ』と出ている。
 ヴォーロゴヴォはエニセイ沿いの他の村より洪水に弱い、というのも村があるのは、本当は中洲だからだ。エニセイ川岸にあるようにみえるが、村の背後にはシャール川と言う側流が流れているので、確かに流れてきた氷塊水の挟み撃ちにあってしまう。
 クーチン氏は1999年に水かさがどこまで上がったか、印のある家を示してくれた。ちょうど屋根の下までで、だから家の中のものは全部水につかってしまい、流れて行ったものもあるだろう。その年の大洪水の後、村の人口は激減した。より水害から安全で、仕事先も見つかるような、例えば、レソシビルスク市のような町に移住していったからだ。また、クラスノヤルスク地方庁も移住を援助しているそうだ。

 村の空港にも案内してくれた。つまり、ヘリコプターの発着所で、ここに着陸するのだという地点には赤白縞模様の3角柱が4隅に置いてある。一応の『ターミナルビル』小屋は、この日は無人で入口に閂がかけてあった。

 2007年2008年の夏、エニセイを航行した時、ヴォーロゴヴォ村船着き場に寄った。その時は、『ヴォーロゴヴォ370年』と大きく書かれた河川駅の写真を水中翼船『日の出』号から撮ったものだ。この日、冬にその船着き場に行ってみると、河川駅の窓ガラスも割れて寂れた様子だった。河川運行が始まる夏場までには修理するのか、しないのか。ソ連時代に立てられた『ヴォーロゴヴォ、T637-1987』と書かれた塔は、当時の『労働者と農民』のシンボルマークにデザインされている。夏は広く滔々と流れるエニセイ川は、今は白い平原でそこに向かって船着き場があるとは、奇妙な感じだった。教会跡、河川駅、村役場、戦勝記念碑広場(戦没者慰霊碑)、公民館(文化の家)などは、村の中心にまとまってあるらしい。特に降りてみるほどでもないと言うが、一応、ランクルから出て写真を撮った。

 この日6時半頃、クーチン氏の岳父(舅)さんの家に行った。この家も、大きく、一つ屋根の下に物置も薪置き場も家畜小屋も蒸し風呂もあって、その奥に暖房のきいた居住空間(3LDK)がある。この大きな屋根の家の、初めの玄関を入った広い物置は、屋根もあって暖房も伝わってきているから、外が零下50度のときでも、零下5度くらいの温かさだと思う。家畜の牛もわら敷きの部屋に住んでいる。温度緩衝地帯にもなっている広い物置を、ずずっと進むと本当の玄関があって、ここはドアが2枚くらいしかない。寝泊まりするところにはペチカもあり、クーチン氏ほどではないが都会風の家具やキッチンセットがあって、それなりに裕福そうだった。アリョーシャたちは仕事でボル町に言っているし、クーチン夫妻も仕事があるので、この日と次の日、私のお相手をしてくれたのは、クーチン氏の姑のマリヤさんだった。
 マリヤさん夫婦には娘が二人いる、長女はクーチン夫人だから、ヴォーロゴヴォ村の親の近くに住んでいるが、次女はボリショイ・ムルタ村(クラスノヤルスクより150キロほど北のエニセイ川沿いの村)で夫と夫の家族と暮らしている。マリヤさんの話によると、もうこんな北で過ごしたくはないそうだ。村人のなかには、特にここで生まれたような人の中には、南の都会では過ごしにくい、と言う人も多いのだが、マリヤさんはここ北の村を嫌がっている。彼女が言うには、冬はこんなに寒いし、夏は夏で蚊の大群に悩まされる。どこかへ移りたいが生活の基盤がない、そうだ。ここよりずっと南で暮らしている次女の家も、そこには次女の舅姑が同居しているから、自分は移れない。ヴォーロゴヴォのこの家を修理しようと思っても、また数年前の大洪水のように家財道具が全部水に浸かってダメになることを考えると、それもできない、とこぼしていた。
(ちなみに)ボリショイ・ムルタ村。この村で、有名なソ連スパイ・リヒャルド・ゾルゲ(1895-1944)の妻、エカチェリーナ・マクシーモヴァが流刑中の1943年病死した。ゾルゲはマクシーモヴァと1927年モスクワで結婚したが、数ヵ月後、上海から日本へ行き1941年逮捕されるまで伝説的なスパイ活動を行ったことで有名だ。一方妻のマクシーモヴァは、1942年、モスクワでスパイ容疑で逮捕され、1943年、5年の刑期でボリショイ・ムルタ村へ送られ、同年7月に病死し、1964年11月23日名誉回復(政治犯ではなかったと)された。有名なゾルゲの方も、逮捕されて以降、ソ連のスパイであることを自供したものの、ソ連政府はゾルゲが自国のスパイであることを否定し、その後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていたが、1964年11月5日、ソ連を勝利に導いた諜報活動員としてソ連邦英雄勲章が授与された。
http://www.memorial.krsk.ru/Articles/Popov/07.htm
 ヴォーロゴヴォ村の郷土博物館へマリヤさんと一緒に行ってみたが、鍵が閉まっていた。館長(職員一人)の家に行ったがそこも鍵が閉まっていた。マリヤさんによれば、館長はつまらない人間で妻にも捨てられたくらいだが、トゥルハンスク区会議員に立候補しているそうだ。博物館には何もめぼしいものがなく、見る価値はないそうだ。しかし、ヴォーロゴヴォ村でヴォッカも飲まずカラオケも歌わなければ、ほかにすることもない。一応、招かれていたのでクーチン氏の母親の家にもお客に行った。
 毎日よく晴れていて 北の青空の下、白い雪道を歩くと、眩しくはないが雪道は光っている。一緒に歩くマリヤさんはまつ毛にも氷の粒が付いていた。それを言うと、
「あなたもよ」と言われる。喜んで写真を撮り合った。彼女にとっては、こんなもの普通のことよ、というところかもしれないが。
 
 1614年からのヴォーログヴォ村
 クラスノヤルスク地方の古い村と同じく、ヴォーロゴヴォも、コサックが建てた。どの柵から来たコサックかと言うのは、村の歴史にはたいてい記されている。ここから航路110キロ南のヤールツェヴォ村がオビ・ケッチ川経由のコサックが建てたに対し、北のここヴォーログヴォでは、マンガゼヤからのコサック兵や毛皮商人たちが、1614 年、エニセイ語族のケット人やサモイエード語族のセリクープ人から毛皮税を徴収するための基地を置いたのが始まりだと書かれている。そして1636年には開墾して農作物も作って定住できる村の基礎が置かれたそうだ。初期の住民の一人イヴァン・ヴォーロゴヴォから村の名前がついたとある。
ロシア帝国のシベリア『開拓』(拡大図
ポモール人 12世紀ごろから白海沿岸に入植したロシア人が現地のフィン・ウゴル語族とのかかわりで独自の文化伝統をはぐくみ、漁業、海運業、造船業などで北海沿岸で活躍した。ロシア人に吸収されずにポモール地方=白海沿岸に残ったサブ民族、とされる。2002年国勢調査でポモール人と自称したのは6571人。ロシア語のポモール方言を話す。または、独立のポモール語とされる。フィン・ウゴル語やスカンディナ語の借用多い。宗教はロシア正教か古儀式派ポモール教会、または、ルーテル教会(ウィキペディアから)

 12世紀ごろからロシア西北部白海沿岸に住んでいたポモール人は、西のノルウェー人、イギリス人、オランダ人と盛んに交易していたのだが、15世紀には東のシベリヤ沿岸航路も開拓して、バレンツ海を通り、ウラル山脈の東、ヤマル半島をまわりオビ湾沿いにシベリヤ産物交易拠点を築いていた。一方、中央政府は税を徴収するため、コサックを派遣して、1601年ポモール人の開いたオビ湾のタス川沿いにマンガゼヤ『城塞都市』を築いた。
 このタス川のマンガゼヤからトゥルハン川を上って東のエニセイ川に出て、1607年『新マンガゼヤ』、つまり、今のトゥルハンスクを作った。この新マンゼガヤ柵を拠点に、北のタイムィール半島やエニセイ上流をロシア帝国に『併合』していったのだ。
 ちなみに、この白海からバレンツ海とオビ湾経由のマンガゼヤ航路は中央政府によって禁止された、と言うのは、政府による徴税ができなかったこと、イギリス商人などがこの航路を通じてシベリヤに進出してきたからだと、シベリヤ『開拓』史には載っている。航路を失ったマンガゼヤは衰退し、原住民からの徴税の拠点は新マンガゼヤ(1780年にトゥルハンスクと改名)に移った。
 また、東シベリヤへ出るコースは、北のマンガゼヤ・コースではなく、オビ川中流のケッチ川を通ってエニセイの左岸支流に出るほうのコースが主流になった。
 どちらにしても、当時のロシア『開拓者』踏破地は主にシベリヤ中部以北で、トゥルハン川のトゥルハンスク柵は1607年だし、南のエニセイスクはその後の1619年だし、さらに南のクラスノヤルスクは北の柵を南の原住民から防御するためにできたので、1628年と時期が遅い。当時南シベリアに住んでいたチュルク系候国は手ごわかったのだ。
 旧儀式・礼拝堂派の中心サンダクチェス
 ヴォーロゴヴォから67キロのサンダクチェス村に行くことが、今回の旅のメインでもある。サンダクチェスはヴォーロゴヴォ近くでエニセイ川に流れ出ている左岸支流のドゥプチェス川(『チェス』はケット語で『川』の意だから『ドゥプ川・川』となってしまう)ほとりにある。ドゥプチェス川は長さ433キロと短くはない。他のエニセイ左岸支流と同様、オビ川とエニセイ川の間の湿原から流れてくる。(オビ・エニセイ運河のカス川もそうだった)。カーメンヌィ(石の)ドゥプチェク川とボリショイ(大)ドゥプチェク川が合流してドゥプチェス川となり、サンダクチェス川、トッチェス川などの支流がある。ドゥプチェス川は5月や6月の雪解け増水時期、1週間から3週間は河口から70キロほどまで航行可能だ、とエニセイ河川運行会社のサイトにある。30キロは筏流しも可能と書いてある。この川が実は有名なのは上流に古儀式派の大修道院(スキット、隠舎)があるからだ。私たちが行こうとしているサンダクチェスは、その修道院の外部基地であり、そのずっと奥、源流の『石の』ドゥプチェク川の畔に3千人とも5千人ともいわれる大修道院がある、とアリョーシャとクーチン氏が話しているのが聞こえた。
「おっ、5千人とはすごいな」とアリョーシャ。
「アメリカに亡命した古儀式派も訪れる(寄付も多いだろう)、だが、外部の者は入れない。自分たちもそこまでは行かない」のだそうだ。
 この地の果てシベリヤの湿原に5千人の居住地なんてありえない、とその時私は思った。しかし、ドゥブチェス修道院はサイトによると、旧儀式礼拝堂派の中心と書かれている。1937-40年ウラル東のクルガン州の村で暮らしていた礼拝派信徒たちは、ソ連政府の農業集団化から逃れて、トムスク州のオビ川左岸支流の上流の針葉樹林地帯に移り、農業に従事していたが、農業集団化がさらに進む中、そこも捨てて、ドゥプチェク川上流の湖沼針葉樹林帯を開墾して修道院(隠舎)を作り、教義を守って来た。しかし、1951年、そこも上空から当局が知るところとなり、不法反ソ建造物(修道院のこと)建設などにより一斉逮捕となった。建造物、聖画などは焼却。(ソルジェニーツィンの『収容所列島』にも記述)。という歴史を持つそうだ。

ドゥプチェス川(拡大図
2台のランクル,2台のスノーモビール,橇が1台
シャール側流に舫いであるセルゲイの船
ランクルを乗り捨て、スノーモビールの準備
装備万全のリョーハ
休憩中で装備を外したアリョーシャとクーチン氏
そりから降りて休憩
使い捨て不職布マスクのおかげで顔は助かった
着ぶくれの私の後ろはクーチン夫人
 ヴォーロゴヴォ村からサンダクチェス村までの半分の行程は雪道を車で行き、後半は林の中の細道をスノーモビールで行く。
 ランクルなら快適だが、スノーモビールで風を切って何十キロも走るなんて、耐えられることだろうか。サンダクチェ村へ行くためにアリョーシャはクラスノヤルスクからトレーラーにスノーモビール(メーカー不明)を積んではるばる牽引してきた。年式の新しいヤマハ・ヴァイキングのスノーモビールがクーチン氏のところにあって、それと2台で、私たち男女5人の他にサンダクチェス出身のセルゲイ(またセルゲイと言う名前だ)も一緒に行く。セルゲイは、髭は蓄えてはいないが古儀式派の信者で、当然、サンダクチェス村に親せきが大勢いる。
 前日、姑のマリヤさんが
「何の用事でそんなところに行くの」と聞いていた。ひとえに私が奥地へ行きたいと言ったからだ。それにみんなが便乗し、ヴォーロゴヴォの役所関係に勤めるクーチン夫人は、ついでに、サンダクチェスの住民に未払いの給料を届けに行くそうだ(臨時に働いて、まだ支給されていなかった。それを届けるのだから出張扱いになるのかな)。クーチン氏はドゥブチェク川上流の漁場や猟場に関心があるのかもしれないし、アリョーシャ達は自然保護監視員として奥地を見ておいても悪くなかったのだろう。エニセイの本支流はどこも回ったアリョーシャだが、ドゥプ゙チェクはまだだと言っていたから。
「特に用もないのに、そんな遠くまで、行くなんて。途中でスノーモビールが故障したらどうするつもりなの。誰もいないところで」とマリヤさんは反対。それを聞いた娘のクーチン夫人は、
「だって2台で行くし、うちのは新しいから壊れないわ」と乗り気。実は私も心配していた。クラスノヤルスクから防寒具は借りて持ってきているが、零下40度や50度で風を切って走るスノーモビールには、不十分かもしれない。

 2月28日、いつものように朝遅くから準備を始めて、11時ごろ、やっと2台のランクルが2台のトレーラーをけん引して、物々しくヴォーロゴヴォを出発した。エニセイの側流シャール川を渡ったところで、氷に閉じ込められている(氷の中に浮かんでいる)船を指しサンダクチェス村出身のセルゲイが、
「あれは自分のだ」という。つまり彼は古儀式派の信者だが、人里(アンチ・キリストの悪の世界)から離れた自然の中で自給自足の生活を送っているわけではなく、今は公務員で、その船で自然監視員の仕事をしているのだ。ちなみにアリョーシャの船『ザスロン』丸はクラスノヤルスク河川港に舫いである。
 ヴォーロゴヴォから70分ほど行ったところでランクルの通れる道は終わった。森林伐採しながら開いたような、この辺には普通の冬道だった。なぜここまで道がついていて、なぜここで終わるのかよくわからない。サンダクチェスはヴォーロゴヴォ農村ソヴィエトに入っているので、一応将来的に陸路(冬道)ができるのだろうか。
 先に進んでいたクーチン氏のランクルが道の終わりで止まったので、私たちも雪煙をあげて横付けし、おかげで2台のランクルと2台のトレーラーで雪を踏みかため、ちょっとした広場ができた。ここで15分ほどかけて、トレーラーからスノーモビールを下し、調整し、防寒服の残りをつけた。見ていると、みんな毛糸の分厚い頭巾を頭からかぶり、テロリストのように目だけ出している。そのうえ毛皮の耳付き帽子をかぶりっている。クーチン氏は黒い頭巾で顔の周りが囲まれて、弓矢を持たせるとロビンフットの手下のようだ。アリョーシャはひさし付きの帽子でゴーフルもかけている。
 私はと言えば。そんな毛糸頭巾は持って来なかった。もちろんゴーフルもない。クラスノヤルスクから借りてきたのは毛皮がふさふさした普通の帽子、足首で何回も折り返す長いズボン(男性用、貸してくれた人が男性で背が高く足が長かったから)、人造毛が着いたチョッキ、大きな(私が着ると本当にぶかぶかの)綿入れ上着、シベリヤの田舎では昔は誰もがはいたフェルトの長靴(私には膝の上まで来たので、歩くのは難しかった)と言うものだった。クーチン氏が手袋と靴下を貸してくれ、自分のと2枚重ねてはめ、日本からこの日のために持ってきたホッカロンを上着やズボンの裏にべたべた貼ったが、顔だけ無防御だった。かばんの中に、使い捨てマスクが入っていたので、ないよりはましかとそれでもはめた。シベリヤ旅行中は、夜寝るとき空気の乾燥で悩まされないよういつも持ってきているのだ。意外と、こんな薄い不職布マスクのおかげで鼻も頬も無事だった。みんなからは心配そうに憐れむように見られたのだが、マスクの中は温かい息を絶えず吐くので温かいのだ。
 着膨れでぶくぶくの私は足も自力では曲げられなかったので、リョーハに手伝ってもらってアリョーシャのスノーモビールの後部席に乗ったのだが、顔をアリョーシャの背中にくっつけていた。それだけでも風はよけられる。一方、クーチン氏は後ろに妻を乗せ、リョーハとセルゲイを乗せた橇を引っ張る。道を知っているクーチン氏のスノーモビールと橇が先に行き、アリョーシャ運転のスノーモビールが続いた。
 森の中に幅1メートルくらいの雪道があって、橇なら通れるのだ。だから、出発して30分くらいたった頃、1台の橇を引く旧型のスノーモビールとすれ違ったときは、お互いに半分は雪の中に入らなければならなかった。橇がひっくりかえるのでリョーハとセルゲイは降りたくらいだ。サンダクチェスの方から来た橇には、頭にプラトーク(ネッカチーフ)をまいたスカートの女性が乗っていた。もちろん古儀式派の信者だ。ちなみに、行きも帰りも、道中で出会ったのはその橇だけだった。

 スノーモビールの後輪はエンジンで駆動するキャタピラーになっているのだからスピードは40や50キロくらいは出せるのだが、それは下が川(らしい)とか湖沼(らしい)などの障害物の少ない雪上だけで、大部分の道のりは森の細道だったし、枝が左右から張り出しているので、よけながら注意深くゆっくり行かなければならない。大小の枝が行く手に何本も張り出している。大きな枝はだれかが降りて持ち上げてくれるか、迂回する。細い枝はそのまま前進するが、枝がそり返って戻るとき、鞭のようにぴしっと体に当たる。アリョーシャが突っ切った細枝が私の顔に跳ね返って来ることもあった。だから何度も頬を細枝の鞭で打たれることになった。顔全体をアリョーシャの背中にくっつけていれば打たれずに済むのだが、それでは周りの景色も見られないから肩越しに斜め前方など眺めていると、すぐ、ぴしっぴしっと打たれる。腕や帽子も打たれただろうが、厚着だったので気にならなかった。
 打たれるようになったのは、本当は、スノーモビールにも少し慣れてからで、出発したばかりのときは、景色なんて見る余裕はなく、ひとえにアリョーシャの背中にしがみついていたのだ。それでなくとも借りた毛皮の帽子のふさふさの毛が私の顔のマスクの上に風で倒れて、前方が見えにくかった。帽子を後ろに押しやると顔が寒い。
 『忍耐』とエキゾチックいっぱいの行程を1時間ほどすると、休憩だった。橇から降りたセルゲイを見ると見事に雪男だ。橇の前席に座っていたセルゲイにはクーチン氏のキャタピラーが立てる粉雪をまともに浴びていたのだ。セルゲイの後ろに座っていたリョーハはそれほどでもないが、やはり全身が雪で覆われていた。
 やがて先を行くクーチン車が見晴らしの良いところに泊まった。休憩ではヴォッカを飲むのが普通だ。肴には黒パンの他、キュウリのピクルスやソーセージがある。私以外のみんなはヴォッカを飲んだ。その量がかなりあったというのは、休憩が終わってから気がついた。アリョーシャがやたらスピードを出すのだ。見晴らしのいい川の上を行く時は、前を行くクーチン氏とは別の方向へビューンと行ってしまう。素面の私はハラハラして、スピードを出した時は思いっきりぎゅっとアリョーシャの胴体にしがみついていたが、これで、後ろの私が怖がっているとわかってくれただろうか。
 前を行く橇の後ろ席にはリョーハが座っていた。アリョーシャがその橇の後ろを自分のスノーモビールの前輪のスキーの先でつつく。つつくとリョーハは振り返って怒った様子を見せる。それが酔ったアリョーシャには面白いのか、またつつく。そのうちリョーハは走っている橇から腕をのばして、通りがけの雪の積もった枝の根もとをゆする。すると、ちょうど私たちが通る時、雪がバサッと落ちてくるタイミングなのだ。頭のいい仕返しだなあ。罪のない私は頬を細枝で打たれ、頭から粉雪をかぶって、マスクの上に垂れてくるふさふさの毛の隙間からシベリヤの大自然を眺め、わくわくしながら(本当は無事に日本に帰れることを祈りながら)アリョーシャにしがみついていた。

 休憩後1時間ほど行くと、村の建物が見えてきた。このサンダクチェス村にはセルゲイの親せきがいるので、私たちはよそ者ではない。何か用事があるらしいクーチン氏たちが、村に着くとどこかへ行ってしまったので、私は一人歩いていると、セルゲイが地元の髭の男性たちと1軒の家の前で話しているのに出会った。
この家の主婦とたぶん身内の男性
髭の男性の後ろに貼ってあった聖人の絵
窓の外ではなんだか面白いことが
毛皮を売りに来た村人と集まって来た子供
旧儀式派では女性はスカートをはく
赤い旗で囲まれたヘリコプター発着場
 家の窓のガラス越しに小さな男の子がのぞいている。その家に入ってもいいということだったので、入れてもらい、そこでやっと防寒具を1枚だけ脱いで、ほっとできた。小さな男の子が二人いて、幼い方がこの家の男性(もしかして父親か、いや祖父か、ただの身内か)に抱かれて私の方に握手の手を差し伸べてくれた。大きなペチカがあるところがLDKで、その奥の部屋は寝室で、ドアはなくてカーテンで半分しきってあるだけだった。北方でよく見かける田舎家の間取りだ。もちろん聖人の絵と古いスラブ文字で書かれた古儀式派の祭壇はあった。
 この家の主婦らしい女性は白い肌、若くてとても愛らしく穏やかな顔をしていて、薄い色の頭髪を束ねてスカーフで巻き、茶色のロングドレスという19世紀ロシア文学のヒロインのようだった。思わず、
「どうしてここに住んでいるの」と、聞いてしまった。彼女はヴォーロゴヴォの普通の家庭に生まれたのだが、この教派に改宗したのだそうだ。教員免状を持っているので村の学校の先生をしているそうだ。その点、サンダクチェスはパドカーメンナヤ・トゥングースカのクズモフカ村の古儀式派より教義が守れるだろう。クズモフスカ村の学校は2008年訪れたが、ニーコン派宗徒の教師(アルビナ先生、その後もメールで文通が続いている)が教えていたから。
 『ニコニアーニン(ニーコン派宗徒)』というロシア語をここで初めて耳にした。17世紀中ごろの大司教ニーコンと皇帝アレクセイが宗教改革(儀式の方法の変更)を行い、その反対者が改革派から見れば分離派、つまり、古儀式派なのだが、古儀式派にすれば自分たちこそがロシア『正教』で、改革派は『ニーコン派』なのだ。ここでサンダクチェス学校の先生ともっと話したかったところだが、セルゲイが入ってきて、私を呼ぶ。窓から外を見ると村人が集まってきている。村も見たかったので、また防寒具をつけてロボットのように歩きながら外へ出た。
 村人は手に黒貂の生の毛皮を持っている。クーチン氏に売ろうというのだ。子供たちも群がっていた。どの子もどの子も着膨れして愛くるしい顔だけが眉が隠れるほど深くかぶった帽子の下からみえる。私の方を珍しげに見ているので、カメラを構えるとポーズを取ってほほ笑む子やら、ふふっと笑って仲間の背後に隠れ回る子もいる。女の子はちゃんとスカートをはいていた。お姉ちゃんのお古でまだ自分にはサイズが合わないような長いダウンコートの下から長いスカートが見える。
 クーチン氏は毛皮の色が薄いし(黒色に近いほど高価)、質も悪くて駄目だと言って誰からも買わない。そのうち男の子が
「自分の家に黒いのがある」と言う。
「急いで取っておいで、黒いのなら検品しよう」というようなことをクーチン氏が言ったのか、その男の子が走って去る。急いで持ってきた毛皮は黒かったが、古くて質が良くなかったとかで、クーチン氏はけんもほろろだった。私が聞いてみると、8歳くらいのその大きな瞳のかわいい男の子は、値段は2000ルーブルと言う。6500円ぐらい出して、シベリヤ記念のお土産を買ってあげても良かったが、リョーハは
「黒貂を1匹だけ、それも加工(ヴィデルカ)してないのをそんなに高い値段で買ってどうするのか」と言う。
「記念に飾っておくのだ」、とやや自信なげに答えると、
「肉を落としてあるだけだから臭いがきつくなる」と言う。「黒貂の毛皮がほしいのなら自分の知り合いに紹介してあげる。そこでは今シーズンに捕れた加工してある上質な毛皮がいい値段で手に入る」そうだ。今がシーズン直前なら、自分が撃って肉を剥いで加工してあげようと言わんばかりだった。
 25匹でコートを1着作っても、ここサンダクチェスでは材料費は20万円弱か。
 日本人だと言ってシベリヤを旅行すると誰からも黒貂の毛皮を買わないかと言われる。日本は亜熱帯の国だって知らないのかな。それに、私が日本で黒貂のコートを着て歩くはずがないではないか。
 16世紀のロシア人シベリヤ進出の目的の1つは黒貂の毛皮を求めてだ、とは有名だが、そのために生息数が極度に減ったことも有名だ。黒貂は、西シベリヤでは17世紀に、東シベリヤでは18世紀に、ヤクーチアやオホーツク沿岸では19世紀に、アムールやウスリー川沿岸では20世紀初めに絶滅寸前までいったそうだ。しかし、ネットの資料
http://www.dikiezveri.com/sobol2.html
によると、1935年全面禁止と、特別保護区のおかげで、1960年代には奇跡的に、例えば、クラスノヤルスク地方ではほぼ以前の数に回復したそうだ。猟をするのは冬毛になるシーズン、つまり、初雪が降ってから厳寒が終わるまでだが、クラスノヤルスク地方の条例では解禁は11月15日で、1月15日まで猟ができるが、トゥルハンスク区では特別に2月末まで許可されている。リョーハによれば、狩猟によってこそ、黒貂などの個体数が調節されて、自然界に有効なのだそうだ…

 アリョーシャがスノーモビールでドゥブチェク川を一巡り乗せてあげると言うので、リョーハに手伝ってもらって後ろの席にまたがる。そして、村を通り過ぎ、広いドゥブチェク川の雪原を川の畔に舫いである(氷中)船を眺めながら純白の新雪にびびゅんびびゅんとキャタピラーの跡をつけて回り、ヘリコプターの離着場を示す赤い旗を通り過ぎてほんの数分でドライブは終わった。
 そして、4時には、もう帰途に就き、その40分後には行きのときにも休憩した地点に着いた。たぶんそこは川の上で、森の中より広々としているので、クーチン氏は休憩所に選ぶのだろう。そこで、旧儀式派の私たちの同行者セルゲイが村の住民からもらったという黒パンを食べた。
「えっ、何でくれたの?」と驚くと
「ただ、ほしいと言ったらくれたのだ。村ではいつでもそうだ」とのこと。セルゲイが言うにはサンドクチェスのパンは格別においしいのだそうだ。確かにおいしいような気がした。食べ終わると、リョーハのイズマッシュ・サイガ銃でみんな遊び始めた。なんだかよくわからないがかわりばんこに撃って、当たったとか外れたとか言っている。的は幸い動物ではなくて、梢のようだった。流れ弾に当たった鳥もいないだろうから、災難だったのはたまたま松の横に生えていた白樺だったようだ。
 ここからランクルを乗り捨てた地点までは1時間弱だった。スノーモビールの後ろシートに座って森の中を走るのにも慣れたので、もうあまり頬を細枝で打たれることもなくなった。風で押されてくる毛皮の帽子のふさふさの毛がマスクまで垂れて前方がよく見えないので、何度も帽子を上にずらした。そうしているうち風で帽子が飛んでいってしまったので、止めてもらって取りに行き、かぶりなおした。
 もしかして、後ろの私がこんなふうにもじもじしていたせいかもしれない。スピードを上げて走っていたスノーモビールは平衡を失って横転し、私もアリョーシャも雪の中に投げ出されてしまった。街をバイクで走っている時ならけがをしたかもしれないが、そこはどうやら川の上だったらしく雪の起伏の他は何もなかった。それで、勢いで埋まってしまった雪の中からもぞもぞと起き上がり、お互いに無事そうなのを確かめ、アリョーシャは散らばった荷物を寄せ集めた。本当にびっくりした。スノーモビールでシベリヤ奥地の森の中を行くだけでもわくわくすることなのに、横転までするなんて、おまけつきだ。旅行保険はいつもかけないので、それ以上おまけはない方がいい。
 この時、前を行くクーチン氏は、私が帽子を取りにいっている間にずっと先に進んでしまい、転倒したことは知らなかった。もし、いつまでも私たちが追い付かなければ、見に戻ってくれただろうが。

 ランクルの場所まで戻り、トレーナーにスノーモビールを積み込み、出発したのは6時過ぎていた。黄色の太陽が地平線にかかり、雪の影は青白く、素晴らしい北緯62度地点(カムチャッカの付け根と同緯度)の冬の終わり(2月28日)だった。
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