クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2008年6月15日  (校正・追記: 6月24日、2013年5月29日、2018年9月30日、2019年11月27日、2021年7月23日、2022年5月24日)
23 −(4)  氷のバイカルと極寒のサハ・ヤクーチア(4)
             2008年2月8日から2月22日
Ольхон на Байкале и Мирный в Саха
1)冬のシベリア2週間計画 2)民宿『ニキータの館』 3)ミールヌィ市へ 4)ビルチャン・バンガロー・ビレッジ
ハバロフスクで最終準備 透明な湖上でスケートなんかも サハ共和国 ミールニィ市に戻る、滞在手続
イルクーツク、バイカルへの中継点 北端ハボイ岬とドイツ人たち サハ人とエヴェンキ人たちのビリュイ川中流 ダイヤモンドのミールニィ市
オリホン島フジール村への道程 島内の湖と島の東側 博物館のスンタール郡 ストロガノフ、ドルガン人宅、学校見学
陸とオリホン島の間の『オリホン門』海峡 蒸し風呂、スタッフ、韓国人団体客 子馬肉10キロ ついに救急車で
バイカル湖最大の島オリホン ハランツィ村とハランツィ島 スンタール紀行2日目 こんなときにヤクーツクまで往復

氷上コースでオリホン島を去る 『アルチャの家』
もう1週間...

 ビルチャン・バンガロー・ビレッジ
ジャコウウシ(羊牛)
野生の狐が逃げ去った雪原
オオライチョウ(リーリャさんのカメラから)
サハ・ヤクート風に作った食堂ホール棟
博物館にあった『ヤクート・バラガン』(住居)の絵
サハ・ヤクート式歓迎式に欠かせないヤクート式暖炉
エヴェンキ人(毛皮)とオーナー
ヤクート・スキーは記念写真のみ

 この間、ガソリンを満タンにしたり、知り合いを訪ねたり、自分の用事で村の方へ行っていたユーラも私たちを迎えに戻ってきたので、2泊目の宿泊所に向けて出発しました。スンタールからもと来た道を通ってビリュイ川のクレストィ村まで戻り、そこで土地の人に道順を確認して、いよいよ安全なビリュイ国道(正しくは連邦道)を出て、車の跡もあるかないかの脇道に入りました。安全でないのは、万一車がエンストしたら、人里離れたところで凍え死にするかもしれないと言うことで、人口希薄なシベリア奥地ではありそうなことでしょう。事実、目的地までただの1台の車ともすれ違わず、追い越しもされもしませんでした。猟師の道なのかもしれません。ユーラは、このプラドなら大丈夫だと言っていました。
 行っても行っても新雪のように跡のない雪の中、ふと気がつくと、車の前方を犬のような動物が走っています。
「こんな人里離れたところに犬が」と思ったとき、その動物は車の前方の道を離れて林の方へ走りました。
「狐だ!」とユーラが叫んだので、リーリャもアンナも私も一斉にカメラを取り出しました。構えたのは私が一番素早かったのですが、写せなかったです。後でそのときのスナップを拡大してみましたが、狐の姿はなかったのです。
 その後、何度も何度もアンナさん達は、
「野生の狐に会うなんて、それだけでもサハの神様(霊)はタカコさんのことを歓迎しているのだ」と、繰り返しました。野生の狐は森の奥深く住んでいて、道路に出てくることはないが、サハの神様(霊)が特別に見せてくれたのだそうです。そればかりか、しばらく行くと、オオライチョウが木に止まっているのまで見かけました。それも、3匹もいて、よい被写体になってくれました。(確かに、スンタール郡ではどこへ行っても歓迎されました。アンナさん達が「日本人だ、日本人だ」と宣伝しましたし、今、サハは日本ブームのようですから。さらに、神様たちの間でも日本ブームらしいです)
 そろそろ見えるはずの案内板がなかなか現れなくて、やきもきしましたが、かなり行ったところでやっと『観光基地ビルチャン』と書いた案内板が雪も除けられた見やすいところに立っていました。「そこにはカラオケだってあるそうよ」とアンナさんが言っていました。私は日本でもやらないカラオケをこの辺境まで来て…。
 案内板通りにしばらく行くと何軒かの大小のバンガロー小屋の建った『観光基地』が見えてきました。都市型ホテルではなく、自然の中で(たいていは学校から集団で来る)ツーリストが寝泊りし、ここを基地に、周りの自然を見て歩くための最低限の宿泊設備が『観光基地』で、ソ連時代からピオネール・キャンプ場と同様、ちょっと人里はなれたところや、水浴びできるところ、つまり健康にいいところなどに多く作られ、学童団体客には低料金で宿泊できます。もちろんシングル・ルームなどはなく、昭和時代、日本の山辺にあった『青少年の家』か『合宿所』のようなものです。
 しかし、最近はソ連版『青少年の家』も個人経営で、施設が整い、高価なところもできました。
 冬場なので『ビルチャン・バンガロー・ビレッジ(と訳してもいいでしょう)』には観光客の姿はありません、管理棟らしい建物の前に毛皮で重装備した男性が立っていたので近づいてみました。リーリャがすぐ
「彼はエヴェンキ人よ」と言ってくれたので、早速いっしょに写真を撮りました。やがてオーナーが出てきて、私たちが泊まるバンガローに案内してくれました。数軒あって、1軒には2段ベッドが4台ほどあり(つまり8人用)、バイカル以来久しぶりの『吊るし手洗いタンク』もあります。このバンガローはサハ・ヤクート風に建てられていますが、暖房は電気です。一方食堂ホールになっている大きなバンガローの方は本物のサハ・ヤクート暖炉があり、私たちはまずそこに集まりました。
 インテリアもサハ・ヤクート風で、アンナさんとオーナーが懸命に説明してくれました。リーリャがこれもあれも写真に撮ったらどうかと言ってくれます。火力の大きそうなサハ・ヤクート暖炉に火を燃やし、サハ・ヤクート風の歓迎式をやりました。
「よく火が燃えるのは、サハの霊が歓迎してくれているのだ」そうです。次は食事です。オーナーも一緒に食卓に座りサハ・ヤクート料理の説明をしてくれましたし、写真も撮りましたが、後で写真を見ても、その味や食感は思い出せません。
 ここは、夏場は生徒たちのエコロジー・キャンプ場としてにぎわうそうです。近くに恐竜の化石も見つかっているというので、ぜひ見たいというと
「200キロほど離れている」ということでした。
 オーナーは経営の難しさを語っていました。大勢の子供を宿泊させるので、衛生管理も厳しく監督されるというのです。それを聞いて少しだけですが、安心しました。
 食後、まだ明るいうちにヤクート馬の引くそりでドライブというアトラクションも用意されています。ハバロフスクで買った私のテフロン綿コートはこのドライブの寒さには耐えられないということでオーナーが自分の防寒着を上から着せてくれ、私たち全員を乗せてたった一匹の馬が引いてくれました。それからヤクート・スキーをしようということになったのですが、私のブーツに合わず、暗くなりかけてきたので取りやめでした(ほっとしました)。
 私たちは、カラオケとヴォッカでどんちゃん騒ぎをやることもなく、夕食を少し食べて、バンガローに入って寝ました。『吊るし手洗いタンク』とその横の予備水用バケツにはできるだけ新鮮な水を満タンにしてもらい、歯磨きと飲み水用には、透明というには程遠くても沸騰したという水を大きなコップに入れてベッドの横に置き、私たち3人の女性が使うライトの置き場所(3人のベッドの近くのテーブルの)も確認しておきました。ライトとは、バンガローから離れたトイレ小屋に行って、穴に落ちないための例の炭鉱夫のようなライトのことです。
 翌日は、『ビルチャン・バンガロー・ビレッジ』で飼われているというジャコウウシ(ロシア語訳では羊牛)の小屋へ行きました。マンモス時代にはシベリアにもいましたが、絶滅。だが、その仲間が現在もカナダに生息していたので、1979年代、タイムィール半島や東シベリア海のウランゲリ島に輸入したところ、繁殖に成功したそうです。そこで、タイムィール半島から一部をサハ・ヤクーチアの北極海沿岸地方に移しました。ここのジャコウウシもタイムィール半島から空輸されてきたのですが、一頭は着地に失敗したそうです。見たところ、4、5頭は元気そうなのがいました。

 ミールニィに戻る、すぐ滞在手続きを
ロシア・サハ・ダイヤモンド会社の直営店
ハミス(口琴)を演奏するリーリャさん
 ミールニィ地区労働課の課長と
二人の息子さん

 この日、午前中に『ビルチャン・バンガロー・ビレッジ』を出発しました。ちなみに食費と宿泊費は一人が1万円くらいで、ユーラによると最近は『観光基地』といっても、こんな高いのも珍しくないそうです。帰り道でも、またオオライチョウを見かけ、ヤクート馬が放牧されているのを遠くに眺め、ビルュイ地方サハの典型的な風景とユーラが言うのを眺め、ビルュイ川をわたり、ビリュイ国道を西へと、私たちの家のあるミールニィ市へ、もと来た道を戻っていきました。ミールニィ市の外部への出入り口はひとつで、そこにはダイヤモンドをシンボルしたというオベリスクに『ミールニィ』と刻まれていて、その横にはトナカイに乗ったサハの老人とロシア人探検家の像が立っています。1955年、このサハ老人の案内で後のミールニィ・ウールス(地区、郡)のダイヤモンド鉱の第一号が発見されたそうです。
「どうして、サハ人はそんな貴重なもののあるところをロシア人に教えてしまったの?」と、私は思わず言ってしまいました。

 ミールニィ市のアンナさんのアパートについたのはまだ3時前で、ユーラはすぐ仕事に向かい、私とアンアさんは外国人滞在手続きをするため中央郵便局へ出かけました。それほど長い順番ではありませんでしたが、窓口はひとつで、ロシアでは小包の包装は局員がやることになっているため、長い間順番を待ちました。やっとたどり着いても、書き間違いがあったとかで、また、用紙を買ってきて書き直し、順番につきなおしました。その頃は、順番の先着をめぐってほかの市民が口論さえしていました。申請書にはコピーを添付しなければならないと言われて、私たちはまた順番のつき直しです。オリホン島で手続きは済ませてあって、出入国カードの裏書もあるから、ミールニィでまた手続きをする必要はないと思いましたが、アンナさんによると、各都市で必要だそうです。ちなみに、後のことですが、郵便局でもらう半券は出国パスポート検査のとき係員が要求するのですが、今回は何も言われなかったので、そのまま持って帰りました。郵便局での手続きは個人招待の場合で、今回私は旅行会社のバウチャーで行ったので、それで要求されなかったのでしょうか。

 郵便局の手続きが終わった頃はもう夕方で、ミールニィ市の博物館見物は明日にして市の『繁華街』を廻りました。ロシア・サハ・ダイヤモンド会社の直営店で、まずは高価なのを見ました。店内には、店員一人とガードマン、客は私たちだけです。東京銀座のサハ・ダイヤモンド直営店より安そうでした。それから町の貴金属店、アンナさん経営の衣料品店、ユーラの事務所など、一通り廻って帰ってくると、リーリャが来てハミス(口琴)を演奏してくれました。今日のプログラムはこれで終わりではなく、下の階に住んでいるミールニィ・ウールス(地区)労働課の課長(女性)宅へお客に行きました。二人息子がいてヴェランダに保存してあったシベリアマツのマツカサをどっさりくれました。美味しそうなマツノミがカサの間から見えますが、日本にまで持ち帰るには荷物になるので2,3個以外はアンナさんのアパートに置いておくことになりました。

 ダイヤモンドのミールニィ市見物
見晴台の反対側には掘った土を積み上げた山
ミールニィ市(博物館に掲示してあった地図)
ミールニィ市、遠くに教会の丸屋根が見える

 次の日は朝から芸術博物館、民族博物館と廻ります。アンナさんが電話して日本人が来るからと伝えてあったので、どこも丁寧に案内されました。

スターリン胸像

 帰りにはミールニィ市長が建てたというスターリン像も見ておきました。『2005年戦勝記念日にソ連軍大元帥スターリンを記念して』『大戦参加者と感謝している子孫たち』の名で建てられた、と彫ってありました。レーニン像ならまだ各市町村に残っているのですが、スターリン像は珍しいです。ミールニィはスターリンの死後建設されたので、スターリンの大粛正や強制収容所にはかかわらなかったとされているのでしょうか。一方、スターリンの圧制の犠牲者を悼む記念碑や博物館はロシアのいたるところ、特に囚人労働をさせられた辺地などに建っています。
 午後からは有名なダイヤモンド露天掘り坑跡を見に行きました。町から東に数キロのところに、直径1200メートル、深さ525メートルの有名なミールニィ坑のすり鉢のような巨大な穴があります。そして当然のことながら掘った土を積み上げた山もあり、穴と山の間の道をさらに東へ行くと空港があり、天候によって空港への道は臭気が漂っているそうです。この日、私には硫黄のにおいがしました。巨大な穴を掘り、大量の土を異動させたのですから、地下深く眠っていたミネラルもかき乱されたことでしょう。
 穴の横に小さな見晴台があり、そこから不気味な穴の底までが見えます。穴の底の最小直径は160メートルで、底まで降りていくためにすり鉢状の壁に螺旋形に道(遠くからだと刻みに見える)ができていて、長さは7.7キロと、横の掲示板に書いてありました。このすり鉢を降りる螺旋状の道を往時は大きなトラックが行き来したわけです。アンナさんによると墜落したトラックもあったとか。それよりも、今もこの巨大な人口の穴はそのまま開いていて、もちろん柵もないので、誤って落ちる(酔っ払いの)見物人や遊んでいて落ちる子供がたまにいるとか、ということです。
 50年前まではシベリアの未踏地だったところを開いて、レンスクから機材を運んで人工的に出来た町と穴です。巨大な穴のかなたに建ち並んでいるアパート群も掘った土を積み上げた人口の山も一望で見渡せるところが異様です。

 穴の向こうの遠くにマッチ箱のように見えるのは市街地

 穴の横に立っている記念碑によると、1955年ダイヤモンド鉱(キンバリー管状鉱脈)が発見され1957年から2001年までこの露天掘りで発掘されました。今は別のところのインターナショナル地下坑道と言うところで採掘しています。

 ミールニィ・ウールス(地区)はサハ共和国の西部にあり、面積16万5千平方キロ(北海道の2倍)に集落は9個しかありません。行政中心地のミールニィ市(4万人)の他、550キロ北にあって今では最もダイヤモンド産出量の大きいウダーチニィ市(1万5千人)、その60キロ南にアイハール・キンバリー管状鉱脈のアイハール町(1万6千人)、サハ西部地区の電力をまかなうビリュイ発電所の町チェルニシェフスキー、イレリャフ川でダイヤモンド選鉱用の浚渫船(ドレッジャー)の町アルマズニィ、ミールニィ市から120キロ南西の古いエヴェンキ人の村タス・ユリャフТас-Юрях(400人)などがあります。

 旧ソ連は1965年から1988年まで百回以上(124回とも、186回とも)の産業目的の核爆発を起こしたとありますが、そのうちの12回はサハ共和国で、また、その9回はミールニィ・ウールス(地区)で起こしています。1974年ウダーチニィ市の北2.5キロ深さ98メートルで選鉱用工場のためにダムを作るという目的の連続8回爆発(を起こす予定だったが事故のため1回だけ)、さらに、1978年アイハール町から東39キロ深さ577メートルで地震波で地殻を探る目的で広島級の核爆発(事故で被害大)、また、1976年から1987年タース・ユリャフ村で6回も石油ガス探査目的で核爆発が行われています。
 これらの情報は、この日、午後から行った『(サハ・ダイヤモンドの)キンバリー岩』博物館から得たものではありません。帰国後のウィキペディアからの情報です。
 世界のダイヤモンドの20%を産出するロシアで、大部分はミールニィ・ウールス(地区)から採掘されています。今は、その80%はミールニィ市より若いウダチヌィ市が占めていますが、『ロシア・サハ・ダイヤモンド(アルローサ)』会社(1992年からロシアンダイヤの輸出独占)の本部は行政中心地ミールニィ市にあります。
「アルローサってお金持ちだろうね」とアンナさんに言うと
「いや、ロシアでは20番目くらいよ」とのことです。石油、天然ガスのほうが儲かるでしょう。ちなみに、タス・ユリャフの石油・ガスはアルローサの子会社がやっています。

 ストロガニナ、ドルガン人宅、学校見学
選択教科(つまり別枠で有料)の
日本語講座の生徒たち
ユーラの会社のオフィスでストロガノフ試食
左から環境保護委員長、エヴドキヤさん。
一人おいて日本人に会いに来た男の子とその母親
2年生のクラス
9年生のクラス

 この日は、博物館のはしごの後、ユーラの会社の同僚と事務所でストロガニーナ Строганинаのお味見をしました。ストロガーロ строгалоとはカンナのことです。ストロガニナは凍らせたサケ科などの魚を薄く削り、塩コショウをまぶして食べます。ヴォッカの肴にするとおいしいのでしょうが、私たちはビールとミネラルウォーターでつまみました。
 これでこの日の夕食も終わり、予定も終わったのかと思いましたが、アンナさんは、まだ、招待されているところがあるといいます。リーリャさんの友達でエヴドキヤさん宅です。もう8時も過ぎていましたが、ユーラ運転のプラドに乗ってアンナさんやリーリャさんと訪れました。
 エヴドキヤさんはドルガン人です。そういえば、2004年に旅行したタイムィール半島ハータンガ村でホームステイした郷土史博物館の館長さんも、エヴドキヤさんと言いました(民族語詩人もエヴドキヤという。ドルガン人の間に多いロシア語の名前のようだ)。ハータンガ川(タイムィール半島東)や、その東のアナバル川流域(サハ共和国北西部)はドルガン人の地です。
 エヴドキヤさんの夫は、ミールニィ・ウールス(地区)環境保護委員会の委員長だそうです。環境保護委員会編集の冊子も2冊くれました。私が2004年にハータンガに行ったことがあるというと、信じられないような様子でした。そこは外国人が訪れるような観光地でないばかりか、ロシア連邦北方国境特別地帯で許可なしでは立ち入り禁止区ですから、無理もありません。私はクラスノヤルスクの旅行会社で有料で許可を取ってもらったのでした。
 環境保護委員長宅にいたのは1時間半ほどでした。オオライチョウの肉など民族料理のご馳走を(よくかんで)食べたり、日本人に会いたいからと特別にこの時間にこの場所に現れたエヴドキヤさんの知り合いの男の子の相手をしたりしていたので、委員長の環境保護についての話をゆっくり聞けなかったのは残念です。
 次の日は、最後の日なので、昼間は学校見学などして夕食は、町に最近開店したとかいう寿司・レストランに行く予定でした。ユーラが、本物の日本人を連れて行くからと予約したそうです。
 学校は新築で、今までロシアで見たどの学校よりも、私たちがイメージする教育設備の整った学校に近かったのが驚きでした。まず、新築の学校というのは初めてです。校区はあるのでしょうか。アンナさんの長男ミーシャがここの3年生です。アンナさんによると入学は普通では難しいそうです。ミールニィ市には『ロシア・サハ・ダイヤモンド(アルローサ)』の本社がありますから、モスクワなどから(長期出張で)来ている(エリート)社員の子女にための学校のようで、生徒の大部分はロシア人でした。アルローサ社幹部にはミールニィや地元出身者は少ないのでしょう。大部分の幹部はこの北方辺境へ出稼ぎに来ているので永住はぜず、同伴の子女も大都会の大学に進学しますが、それまでは親元で通学できるような学校を、と言うことでできたらしいです。地元民のサハ人のミーシャが入学できたのは、アンナさんの長兄が、サハ共和国首都ヤクーツクで科学及び職業教育省の主要ポストについているからだ、と言っていました。
 学校見学のはじめに、立派な校長室に案内され、まずは校長に挨拶し、記念写真なんかも撮っておきました。それから、教頭の一人が、校内を順に案内します。英語を中心にやっているそうで、リンガフォン教室も一応あり、コンクールに優勝すればアメリカやイギリスに留学できます。驚いたことに、選択教科に日本語もあるそうです。日本語コースの授業料は有料で、10人余生徒がいるそうです。その先生と生徒が、私たちの見学隊に合流してきました。講師は、ウラン・ウデ大学の日本語科を卒業したばかりのブリヤート人女性カーチャ先生でした。なぜ、ミールニィで日本語を教えているかというと、ここ出身で両親もここに住んでいるからだそうです。サハ西部はサハ人、エヴェンキ人、ブリヤート人たちの地でした。生徒が10人余の選択科目で週2回くらい教えているだけでは生活できないので、この学校で教員補助のようなこともやっているそうです。カーチャ先生の生徒は全員ロシア人で、ロンドン留学帰りという子もいました。
 お昼は学校の食堂でピロシキなどの給食を召し上がってくださいということでしたが、この頃から、私の消化器官は異常となっていたので、お茶だけにしました。

 ついに救急車で

 午後、ユーラが車で、1時間ほど、町を一回りしてくれました。2時半ごろ帰ってくると、とうとうベッドに寝込んでしまいました。日本から持ってきた胃腸薬は数日前から飲んでいますが、効きません。心配したアンナさんが知り合いの医師に電話で薬を教えてもらって、薬局で買ってきてくれました。苦いのも味のないのもみんな飲みましたが、効きません。アンナさんたちがタイに行った時、胃腸を壊したが飲んだら治ったという薬をくれましたが、私には効きません。何も食べずに横になっていれば治るかと、夜まで休んでいましたが、治りません。次の日早朝の5時にミールニィを出発する飛行機に乗らなければならないのですが、この調子で乗れるでしょうか。病院へ行こうとアンナさんは言うのですが、日本信仰の私にはロシアの病院は怖くていけません。(クラスノヤルスクにいた時、皮膚湿疹で行ったことはあります。皮膚科なら)
 とうとう、アンナさんはヤクーツクにいる医師のお母さんに電話をかけて相談したらしいのです。救急車で病院に行かなければならないとお母さんに言われたそうです。必要ないとあくまで私は主張しましたが、
「ひとまず、診てだけはもらいましょう。注射でもすればよくなるかもしれないでしょう」とアンナさんは説得するので、同意しました。救急車といっても、急病ではなく、ロシアなので、数時間後の夜の11時も過ぎた頃、医師(女性)が現れました。
「10分毎にトイレですって。そんなのにどうして飛行機に乗れるのですか。入院しなければだめです」と、その医療関係者に即座に言われました。ミールニィからハバロフスクへの飛行便は週2回ですし、次の便に乗っても、ハバロフスクに着いたときには新潟への便が出発した後になり、結局は帰国が1週間遅れます。もちろん、帰りのチケットは買いなおさなくてはなりません。アンナさんは、もう1週間うちで滞在してもいいのよ、と言ってくれますが、帰国を決行しなければなりません。以前のように出国パスポート検査でストップされたわけでもないのに、消化器不良くらいで予定を変えたくないものです。
「ともかく、ここで治療はできないので病院へきてください」と、膨らんだ医療カバンを持った医師が言います。行きたくないと答えました。隣のリーリャまでが来て、病院へ行こうといいます。アンナさんは、
「私たちは絶対あなたを病院に置き去りにはしないから、一緒に行こう」と説得します。救急車の医師は
「今日の病院の宿直医師は特別優秀な医師だから、きっと治してくれますよ、ねっ」と子供を説得するように優しい声で言います。
 治療してもらえば、明日早朝の飛行機の乗れるくらい回復するかもしれません。アンナさんもリーリャも一緒に救急車に乗って病院へ向かいました。大都会でリッチ階層を有料で治療する水準の高い医療機関がある一方、田舎では最低限の設備しかない(それすらない)のがロシアです。ハータンガ村の病院でも、クラスノヤルスク市から僻地手当てを支給されたロシア人麻酔科医が外科手術もやっていました。ハータンガ在住のロシア人は治療にはクラスノヤルスク市まで出かけます。北方僻地の先住民すらまばらに住んでいたところに地下資源が見つかり、ロシア人がやってきて近代的な町ができたというようなところは少なくないのですが、町の発展に応じて水準の高い医療施設ができているかも知れません。ミールニィは『ロシア・ダイヤモンド王国の首都』と自称しているくらいですから、生活基盤はかなり整い、アルローサ社の管理職や社員が安心して働けるように、子女のためのエリート校『第12学校』を始め、水準の高い病院(社員以外は全額自己負担か)もあるはずです。

処置室で。腕は動かせない

 しかし、それは、後で、アンナさんの話などを総合して得た知識で、救急車の中ではクラスノヤルスクで数年前に見たような病院を描いていました。実際についてみても、日本でのイメージとは程遠い外観でした。3階まで上がるよう言われて、アンナさんがここだといった事務室のようなところで、女性医師の診察を受けました。ロシアでは、病院は医療施設らしくない外観をしていても、医師は信頼できるでしょう。が、いくら腕のある医師でも機器や医薬品が乏しければ日本のようには期待できないというのが、ロシア人の前では話さないけれど、私の意見です。
 こんども、そのミールニィの医師は、急いで日本に帰りたいという私に最も安全な救急処置をしてくれたのだと思います。少し離れた処置室のような部屋でリンゲル液のような点滴を3瓶打ちました。日本では点滴中も身動きでき、点滴液スタンドを転がしてトイレにもいけますが、こちらではひじの内側に針を差し込むだけなので、動けません。点滴液もチューブではなくガラス瓶に入っていました。
 アンナさんとリーリャも横に座って待っていてくれました。3本もあったのにすぐ終わったので、タクシーを呼んで家に帰ったのは2時前でした。

 こんな時にヤクーツク市まで往復。 もう1週間・・・

 2月21日、早朝の5時55分発と言うヤクーツク経由ハバロフスク行きに乗るために、家を出発したのは4時45分です。空港が町から近くにあって、小さな空港なので搭乗手続きが遅くまでやっているからでしょう。食事はしていません。水を飲んでもトイレに行きたくなるので、ハバロフスクのホテルに着くまでは絶飲食にしました。空港に着いた頃憔悴しきった様子でしたが、お別れの写真を撮ろうというのでユーラやアンナさんとかわるがわる撮りました。同じ便で彼らの知り合いがハバロフスクまで行くというので、その人に私は託けられました。また、アンナさんのアパートの下の階に住んでいて、2日前に自宅に招待されたミールニィ・ウールス(地区)労働課の課長(女性)も同じ便でした。首都ヤクーツクでの会議に出席するそうです。ミールニィ発が5時55分というのも、その日の首都の会議に出席できる時間です。

ミールニィ市の航空写真(絵葉書から)
飛行機の窓からはこんなには見えない、

 離陸して軽食が出されましたが、のどがからからの私は熱いお茶を半杯そっと飲んだだけで、前日よく寝てなかったので一眠りしました。8時ごろ着陸したので、まずは途中寄航のヤクーツク市についたのかとタラップを降りました。バスが2台止まっています。ヤクーツク止まりの乗客とハバロフスクへ行くトランジット客用に分かれているはずです。どちらがトランジット客用かと係員に聞いて、怪訝な顔をされました。空港出口でバスからぽいと下ろされると、『ダイヤモンドの首都ミールニィ』と書いた看板が建っていました。サハ共和国首都のヤクーツク市でもミールニィのダイヤモンドの宣伝をしているのか、と思いました。降ろされた乗客は皆同じ方向に歩いていきます。私も必死でついていきますと、見たことのあるような建物に入っていきます。そこで、私の悪い予感の通り、飛行機がユー・ターンして元のミールニィ空港に戻ったのだと、私の臨時保護者になったユーラの知り合いから確認しました。ヤクーツクの空港の天候が悪くて着陸できなかったそうです。いつ再度出発できるか、11時にお知らせしますというアナウンスでした。2階の待合室で待ったらいいというので、空いている席を見つけ、しかたがないので、カバンを枕に外套の襟を立てて一休みすることにしました。空港の待合室では、いすをいくつも占領して堂々と寝ている男女を見かけますが、私は2つほど使って小さくなって休んでいました。 
 しばらくすると「タカコさん、タカコさん、カウンターまで来てください」というアナウンスが流れてきたので、びっくりして起き上がりました。これは、飛行機が引き返してきたことを知ったユーラが、家で休むよう迎えに来てくれたのです。2階の待合室も探したが、襟を立てて休んでいた私を見つけられなかったのでしょう。ユーラの車で家に戻り、家のベッドで2時間ほども休み、空港に電話をかけて再出発の時間を確かめてもらって、またユーラの車でアンナさんと送ってもらいました。本当に迷惑をかけたものです。アンナさんによると、ヤクーツク空港に着陸できずに戻ることはよくあって、そんなときは何時も家で待つそうです。搭乗手続きをしてあるので、再出発便は全員が集まるまで待ってくれるそうです。
 早朝便では見かけたミールニィ・ウールス(地区)労働課の課長(女性)は、もうヤクーツク市での会議には間に合わないので出発しないそうです。 

2012年サハの夏祭り
Ысыэхのとき、
アンナさん手縫いの
民族衣装を付けた二人

 やっと着いたヤクーツクのトランジット客用待合室は、イルクーツクの新空港程度には近代的だったので、助かりました。景気のいいロシアなのでここ数年で地方空港が整備されています。ハバロフスクに着き、行きと同様ゲーナさんに迎えてもらい、ホテルに着いたときはほっとしました。そのホテルも、ゲーナさんの車で廻った2軒目でした。一軒目は1万8千円のデラックスしか空いてないといわれ、2軒目は1万円のデラックスしかなかったのです。これは、宿泊するには誰でもパスポートが必要というロシアのホテルで、外国人を宿泊させるにはホテル側が面倒な手続きをしなければならないから、とゲーナさんの説明です。といっても、2つ目のヴァスホード・ホテルはゲーナさんのパスポートでゲーナさんの名前で泊まったのですが。相部屋でなくてシャワーとトイレがついているなら、値段はいくらでも良かった私は、もうそれ以上詮索しませんでした。

 アンナさんにはすっかり迷惑をかけた後半でしたが、サハ共和国について体験と知識が豊富になった旅でした。1996年ユネスコ自然遺産のバイカルに、冬訪れることもできたことですし。
 アンナさんの好意に甘えてもう1週間ミールニィに滞在すれば良かったと思ったくらいです。(それは帰国後、すっかり調子が良くなってから思ったことですが)。アンナさんからサハ・ロシア語の辞書を贈呈されたくらいですから。

 2018年5月22日送付された写真
日本で買っていった服を着た孫の
スチョーパと長女ナターシャ



後記;その後、アンナさんに日本へ来てくださいと何度もメールを出し、招待状も送ったが、来られないと言うことだった。しかし、2018年5月二人は旅行者ビザで日本へやってきた。5月11日から15日までは私の家に宿泊して、市内や近郊を案内した。こうして、10年後に、かつて歓迎されたことの恩返しができてうれしい。私達は10年の歳をとっていた。彼らの長女のナターシャは結婚し、ひとまずアンナさん達のマンションに住んでいる。スチョーパと言う男の子も生まれたばかりだ。ナターシャの夫はミールニィの村出身だが(つまりサハ人)、アルローサで働いている。ミーシャはモスクワの大学で学んでいる。付き合っている女性を連れて、ミールニィに来た。10年前知り合った何人かは、すでに故人になっているそうだ。

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