と滞在後記
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2008年6月15日 |
(校正、追記 : 2011年3月12日、2018年9月29日、2019年11月26日、2,021年7月21日、2022年5月18日) |
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23−(2) 氷のバイカルと極寒のサハ・ヤクーチア(2)
2008年2月8日から2月22日 |
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Ольхон на Байкале и Мирный в Саха
ここに2004年夏、泊まった事があります。そのときも建て増しをしていましたが、今もそうです。創立の頃からの1階建て小屋のほか、バルコニー付の2階建て木造建築がもういくつか建っています。百人くらい収容できるそうですが、ウィンター・シーズンは空室が多いはずです。フジール村をはじめ暖かい『小バイカル』海峡南岸辺やオリホン門海峡沿いにはたくさん民宿やバンガロー小屋がありますが、どれも夏季だけの営業です。『ニキータの館』だけが、冬場に耐えられる家のつくりで、通年営業しています。
私が到着した日の泊り客はドイツ人など4、5人でしたが、前日までフランス人の団体客が泊まっていて、3日後には韓国人の団体客80名が1泊だけ泊まるそうです。ですから、冬季でもそれなりに泊り客がいて繁盛しているわけです。でも、私の到着した日はがら空きでしたから、どの部屋に泊まってもいい、好きな部屋を選んだらいいと、ニキータがいくつか案内してくれました。
ニキータ、ドイツ女性ニコラ、フランス人コリン
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吊るし手洗いタンクと頼もしいまきストーブ |
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使いやすいトイレのある部屋がいいです。ニキータお勧めは新築の2階で、3部屋で1ブロックになったうちの真ん中の広い部屋で、ベッドが3台あり、窓からはバイカルが見渡せます。隣の部屋もかなり広くて布団の敷いてないベッドまでありますが、ここに上等の移動式トイレを置くからといわれました。つまり、イルクーツクで見かけたと同じトイレで、固形物が落ちる後部と液体が落ちる前部とに分かれているものです。すぐそのビオ・トイレがもってこられました。しばらくして便器の中からちゃんと外に通じる煙突もつけられました。ペーパーを捨てるバケツにふたがあったほうがいい、などとはもう言いません。泊まることになった部屋は枯れ枝やドライフラワー、古いサモワールなどで奇妙に(しかし、バイカル風と言われるのかも知れない)飾り付けてありパッチワークの布団のかかった広いベッドが3台のほか、大きなまきストーブがあって、周りには頼もしい太めの薪が積み上げてあります。ニキータがすぐ火をつけてくれました。
この薪ストーブを、そのうち大好きになりました。乾燥しているのでノートを2、3枚ちぎってマッチで燃やすだけで、太い薪を燃え上がらせることができ、空気の入り口をどの程度絞るかで、火加減ができます。薪はどれもぶっといので長く燃えていて、3本も入れるとそのうち室内がうだるような暑さになります。
いつでもお茶が飲めるよう、ニキータが電気ポットを置いてくれました。しかし、水はふたなしバケツに入れて部屋の隅においてあるのを使います。何度も沸騰させてから飲めば安全でしょう。手や顔を洗うときも、このバケツの水をひしゃくでくんで手水器(ちょうずき、吊るし手洗いタンクのようなもの)に入れてつかいます。下についているピンを突くと水がちょろちょろと流れ出るというロシア田舎でおなじみの洗面道具です。ピンを突かなくても水が少しずつ漏れているので、タンクの中は使いたいときはたいてい空でした。
バケツの水は、民宿の従業員の誰かを捕まえて頼まなくては補充されません。
敷地内に厨房と食堂の建物があります。テーブルに黙って座っているだけで時刻に応じた食事を運んでくれ、お茶、インスタントコーヒー、砂糖はセルフサービスで好きなだけ飲めます。食堂にも吊るし手洗いタンクの大き目のものが置いてあります。テーブルで長期滞在らしい年配のドイツ人が何時もお茶を飲みながらノートに何か書き込んだりしていました。日記か旅行記か、またはロシア語の勉強らしいです。というのも、ロシア語が少し話せるフランス人のコリンが、そのドイツ人から質問されたというロシア語の単語の意味を(コリンよりロシア語を知っていそうな)私に聞いたからです。
コリンはモスクワのフランス大使館で正規の外交官ではないが、働いているそうです。ドイツ人女性の感じのいいニコラとよく一緒にいるので連れだと思っていましたが、ここで知り合っただけで、私が去る前日ニコラは次の旅行地のウラン・ウデに向けて出発しました。ニコラは35歳、前年の冬、オリホン島から大バイカル湖上を自転車で渡ったそうです。
民宿『ニキータの館』の泊り客でロシア語が話せるのはこの二人だけでした。普通、ロシア人は冬にバイカルに来ないそうです。北国のロシア人は冬に寒いところへ行くより、常夏の国へ行きたがります。でも、去年の冬、モスクワからリッチ官僚グループがやってきて、ヘリコプターでこの辺を飛びまわり、『ニキータの館』で豪遊したとか、ニキータが言っていました。
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鋸歯のような氷 |
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校長室のメルツ先生と奥さん |
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セルゲイたちはスケートも慣れていて上手 |
到着した次の日は、朝からニキータとバイカル湖上を歩きました。波打ち際だったところの湖上は無数に立っている鋸の不規則歯のようで、車どころか二本足でも難しいところを、ニキータに遅れながら、よろよろと歯を踏み外し踏み外し必死でついていきました。岸からかなり離れると突然湖上は鏡のようになり、こんどはすべって転ばないように歩かなくてはなりません。しばらく行くと、またぎざぎざになったりします。波で押し上げられたのか透明なガラス板のような氷片が垂直に立ち並んでいます。冬のバイカルに来たという実感がわきます。
湖上をしばらく歩いて村の別の岸から地面に上がりました。そして島で唯一の学校へ行き、メルツ校長に挨拶しました。1989年夏、始めて島へ来たときメルツ校長の家に泊まったのです。その時、島に来た初めての外国人だと言われました。カラー写真がここにはまだなかった頃で、後で郵送して喜ばれました。その後1990年と2004年に会ったので、今回が4回目です。メルツ校長に1990年に会ったときは「去年より老けたな」と言われ、今回会ったときは「前に会った時よりロシア語が下手になったな」と言われました。
カラー写真もなかった90年とくらべて、今では校長室にインターネットのできるパソコンがありますが、学校教育用特別ネットにしか繋いでないので、普通のURLはブロックされています。ロシアのかなり田舎でもインターネットと携帯電話があって、上下水道はないのが私には不釣合いな感じです。浄水施設がないにしても蛇口くらいはあってもいいではありませんか。(地方の集落にとって、インダス文明の頃からあった上下水道の設置は、大都市のハイテクのインターネット用アンテナより高価か、と思った)。固定電話はもちろん一般にはありません。ソ連時代から役所にあっただけです。
午後からは、ニキータの副支配人のセルゲイ、彼の末の子のディーマとニキータの末の子のチーシャの4人で湖上へスケートをしに車で出かけました。
ニキータとセルゲイは二人とも若い頃テニスの選手で、一緒に1988年ごろ札幌へ行ったこともあるそうです。1989年と1990年に私がバイカルに行った時、セルゲイには奥さんと2人の小学生くらいの息子がいました。一緒に焚き火でジャガイモを焼いて食べたりしたものです。その後、彼の奥さんはバイカルで溺死したとか、彼はフジール村村長になったとか、やがて島を去ってカザフスタンへ行き再婚したとか、その妻とも別れて再々婚したとか、その結婚もうまくいかないで島に戻り、成功した『ニキータの館』の副支配人になっているが、(今のところ)最後の結婚から生まれた子供の養育のことで元妻と争っているとかいう話です。
その子供が、スケートをするために一緒に来た6歳のディーマでニキータの次男のチーシャは4歳です。二人で一足のスケート靴を交代ではいて滑ります。私用にはサイズもデザインも異なる何足かのスケート靴が車の中に用意されていて、場所についてから、自分の足にぴったりのを選びます。小さな男の子たちはスケート靴を履いているときも履いていないときも歩いては転び、起き上がっては歩き出し、そうやって滑っていました。
バイカルでスケートなんて、聞く人が聞いたらうらやましがるに違いないと、氷の上をわくわくしながらスケート靴を履いて、ただ歩いていました。少し滑るまねをするとすぐに転んで、これもバイカルでスケートをしたという実感のひとつです。
その日夕方は、セルゲイの車で村から少し離れた森に行き、焚き火を炊いて一休みしました。ニキータや、フランス大使館のコリンも一緒でした。みんなで歩き回って燃えそうな枯れ枝を拾ってきて、ぱちぱち燃える炎に投げ入れたり火を囲んでただ話したりするだけです。
ピクニック食はシャシュリクBQと
じゃがいもスープ
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現地語で『セルゲ』と呼ばれる馬の手綱を繋ぐ杭 |
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湖上を吹き荒れる暴風でツララも横に伸びる、
右下はニコラ |
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サガン・フシュン岬のあたり |
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岬の足元の洞窟 |
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洞窟の中から |
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北端ハボイ岬 |
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オリホン島の東岸を少し走る |
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長い亀裂(凍って不動) |
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ロシア語を話さないドイツ人とも親しくなる |
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シャラ・ヌールから窪地を下りていくと
東岸のバイカルが見えてくる |
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窪地の先にできた小さな湾、チーシャ |
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電池が切れてしまったので |
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ロシア製オフロード車オアジス |
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次の日は、『ニキータの館』の宿泊客6人とマイクロバスに乗って40キロほど北東にある先端のハボイ岬への観光です。マイクロバスというのはロシア製ジープの『オアジス』で、乗り心地はともかく、ロシアでオフロードといえばたいていこれが現れてきます。私以外の参加者は2千円ほど参加費を払ったようです。ロシア語のわからない年配のドイツ人が3人いて、自転車走破のドイツ女性ニコラが彼らにガイドのロシア語を通訳していました。ガイドというのは地元の運転手です。冬でもニキータのところで週1、2回くらいバイトしているのでしょう。
オリホン島には舗装道路はありません。南西の端のフェリー付場からフジール村まではかなりスピードも出せる固めの道路が走っていますが、フジール村を過ぎ、島内第2のハランツェ村も過ぎ、北上すると状態が悪くなってきます。ということは、この辺は草原なのでどこでも通ったところが道です。
バイカル(実はその一部の『小バイカル』海峡)を左下に見て、30分ほど走ったところが始めの観光地点です。『小バイカル』海峡のオリホン島近くに浮かんでいる小さな島が、ここからはライオンの形に見えるというのです。ライオンでも子犬でも、この高台から見える冬のバイカルは見応えがあります。遠く向こう岸の環バイカル山脈が薄い青色に見えます。ドイツ人たちは無言で写真を撮りまくっています。
また30分ほど走り、布切れを巻いた柱が4本立っているところで止まりました。雪が薄く積もった広い草原のなか、バイカルを見下ろすところにぽつんと立っている2メートルほどの柱は、馬の手綱を繋ぐためのものです。自分たちの祖先たちの霊が集まり、この世の人たちと交流できるような美しい場所に立てられ、ここを通ったブリヤート人は必ず何かお供え物をします。タバコや銅貨が置いてあります。また、掲示板の代わりにもなります。というのは、ここで馬の手綱を繋いで休んだブリヤート人は自分の着ていたものの一部を裂いてこの棒に結んでいきます。すると、後から来た人はその布切れを見て、誰がいつごろここを通ったかわかるわけで、文字を知らなくても伝達できます。
さらに数十分行くと、道は湖の水面近くに下り、周りは砂浜のようなところに出ます。ガイドによると、ここにスターリン時代の強制収容所があったとかいうことです。でもここなら、幅10キロほどの『小バイカル』海峡を冬場の凍ったときに歩いてわたり、向こう岸の環バイカル山脈に逃げられる、とドイツ人女性ニコラと話していました。スターリンの死後(強制収容所閉鎖)、小さな集落に数人が住んでいましたが、今では無人村です(一人暮らしのおばあさんが住んでいるということですが)。
その砂浜の船着場のようなところから私たちのロシア製オフロード車『オアジス』はバイカル湖上に出、右に島を見ながら北上(正確には北東へ)していきました。島の近くの氷は打ち寄せる波がそのまま凍ったような鋸歯状ですが、島から離れたところは通行可能に滑らかです。あまり離れても遠回りになるので程ほどに離れます。以前車が通ったようなタイヤ跡が氷の上にかすかに見えるようです。この時期、湖上で厚い氷が張ってないようなところはありません。氷がばりっと割れて車ごと冷たいバイカルに沈むなんてことはないのです。でも、氷がいつ割れるかもしれないという気持ちはやはり拭いきれず、『亜熱帯(北緯35度程度の日本はロシアから見れば亜熱帯)』の国から来た私にはスリルのあるドライブでした。
オリホン島の北東は、この辺から先端まで絶壁が続きます。北部島内には道はなくて、夏はボートで、冬は車でバイカル湖上を通らないと先端までは(乗り物では)たどり着けないそうです。バイカルから見えるのは岩の切り立った厳しい壁ばかりで、降った雪も風で払われるのかむき出しの岩肌です。ただ下のほうはバイカルの波に洗われて氷が白く盛り上がっています。打ち寄せる波がそのまま凍ったような氷柱が無数に横に伸びています。
島の先端まであと4キロのところにサガン・フシュンという岬があります。地名はブリヤート語で白い岬という意味だそうです。岩のくぼみなどが赤や茶色の地衣類で覆われているので、大理石でできているという絶壁が特に白く目立ちます。ここに3兄弟という岩がそびえていて足元には大小の洞窟があり、夏ならボートで、冬なら歩いて中に入れます。洞窟の中から見るバイカルに落ちる夕日が絶景だ、と旅行案内書に書いてありましたが、そこにいたのは、まだお昼ぐらいでした。私たちの車は岸辺から少し離れたところに止まっています。ドイツ人たちはまた無言で写真を撮りまくっています。岩から水平に伸びている氷柱を撮っていたかと思うと、洞窟の中に入り、出てきてまたバイカルを撮っています。きっと氷の一枚一枚を撮っていたのでしょう。私は、仲良くなったニコラと写真を撮り合っこしていました。
先端のハボイ岬(ブリヤート語で『牙』)は背中を岩に貼り付けた女性の横姿に見える、と言うことですが、湖上のどの地点から見るかによります。ブリヤートの伝説によるとその女性は島の主の妻だったが欲張りだったために神に岩にされてしまったのだ、とガイドは話していました。
ここでオリホン島と陸との間にある『小バイカル』海峡は終わり、車の窓から見える氷原は左右とも大バイカルになります。この部分のバイカルの幅が最も広いので東岸(ブリャート共和国)が見えるのはよほど良い天気のときだけだそうです。この日は見えませんでした。私達は岬をぐるりと回って島の東側へ出ます。氷に穴を掘って魚釣りをしている漁師小屋の跡が見えてきて、ドイツ人たちが近づいて見たいと言ったので、そちらへ回りました。氷と空しか見えないバイカルに漁師小屋の跡は目立ちます。開けた穴はもうとっくに凍っていました。小屋といってもあるのは枠だけで、実際にここで漁をするときはこの枠に毛皮でもかぶせるのでしょう。ストーブも薪もありました。
大きく迂回したせいか、島のほうへ戻ろうとして鋸歯畑に迷い込んでしまったようで、長い間氷の板に乗ったり降りたり、車は苦しそうに進んでいました。ドイツ人たちは懲りずに写真を撮っています。確かに盛り上がった氷の一枚一枚が美しく、大バイカルに延びる長い亀裂跡も印象的で、湖上から見上げる岬の岩はそれだけでも絶景です。崖の中腹には赤や黄色の地衣類が生え、ふもとにはバイカルの波に浸食された洞窟が白い氷柱のひげを下まで伸ばし、いくつも並んでいます。写真を撮ると、なんとなく記憶に固定したような気がするので、実物をあまり丹念に見なくなります。また、実際の景観を堪能していると写真を撮ったりするのがいやになります。
北端のハボイ(牙)岬をぐるりと回って大バイカルを島に沿ってしばらく行ったところで東岸唯一の集落ウズィルに出ます。これは気象観測者村だそうです。ここで湖上から陸に上がり、林の中を通りぬけ、草原のもと来た道に出て、薪ストーブの待つ家に帰りました。
淡路島より少し大きいくらいのオリホン島は、バイカル湖に浮かんでいるのに、自分の湖があります。降水量も少なく、川のほとんどないオリホン島ですから、そのシャラ・ヌールは塩湖です。
翌日の宿泊客用観光は同じオフロード車で、その塩湖のある島の中央部へ向かいました。ニコラ、コリン、ロシア語を話さないドイツ人が一人、ニキータと彼の末息子チーシャと、民宿のスタッフが乗っていました。私たちはブリヤート人の小さな集落を通り過ぎ、彼らの牧草地をぬけてしばらく登り、高原のようなところにでました。ここに塩湖があるそうですが、湖というよりは枯れた水草に覆われた凍った沼で、冬場はここが湖だとは気がつきません。そこを無言で通り過ぎて、もうこの先は道がないというところで車は止まりました。ここからは歩いて島の反対側へ行くそうです。窪地を流れていたが今は凍っている小川をたどっていけば、小川が流れ出るところ、つまりバイカルに出られます。オリホン島の幅はこの辺では13キロほどですから、島の中央部の塩湖から東岸までは6キロほどです。凍った小川の上は滑ります。小川の岸辺は雪が深く歩きにくいので、その中ほどをニコラやコリンと歩きました。道案内のニキータはずっと先に行っています。やがて森も遠くなり草原に出たところで、はるか下のほうに大バイカルが見えてきました。
窪地の先にできた小さな湾で、私たちは氷のバイカルを飽きずに眺め歩き回り、一番大切なことですが、写真を撮りまくりました。湾内には波の力でバリバリと割れたような大きなガラス片の氷が縦横斜めに山積みになっています。小さな湾の外には広い大バイカルの鏡のような湖面が、見えない向こう岸まで広がっています。ここで私のカメラは電池切れになりました。でも、世界中に流布している日本製デジカメのことですから、合う電池を持っている人もいるかと、ニコラやコリンに聞いてみました。自分のはちょっと古い型だが、と出して見せてくれたコリンの電池は合わなかったのですが、記録媒体のフラッシュカードが入ったので、コリンのカメラを借りて自分のフラッシュカードを入れ、アザラシのまねをして氷の上に寝そべった姿をニキータに撮ってもらいました。これでまた、冬のバイカルに来たという気持ちが強まりました。コリンにカメラを戻した後は、ニコラに撮って貰いました。国に帰ったらメールに添付して必ず送ってあげると言われました。
帰りは窪地を登って車の待っているところまで行くので大変でした。小さなチーシャはもうダウンでパパのニキータに肩車してもらっています。ニキータも疲れてコリンに代わってもらっています。かなり歩いたころ、車で待っていたスタッフの一人が、みんなの帰りが遅いと迎えに来ているのに出会いました。魚とじゃがいもスープも煮え、シャシュリクの肉も焼けたのに、まだ湖岸へ行った一行が帰ってこないからです。
たっぷり歩いてお腹がぺこぺこの私たちは、運転手とスタッフの用意したピクニック食をおいしく食べ、観光プログラムを楽しくこなしました。ここでもコリンが自分のカメラに私のフラッシュカードを入れて撮ってくれ、帰りの車の中でも撮って、カードを返してくれました。後でパソコンで出してみると、入力機種名はCanon Power Shot A95となっていました。悪くないカメラです。
その日の夜、蒸し風呂に入りました。ロシアの蒸し風呂といえば、どこもたいてい独立の小屋です。その小屋に入ったところに脱衣室があり、その奥に洗い場があって、さらにドアを開けると灼熱した石にお湯をかけて蒸気を発生させる蒸し部屋があります。脱衣室には靴のまま入るので、洗い終わって服を着るとき、日本の銭湯の習慣の私には裸足の置き場に困ります。洗い場には水が入ったドラム缶と熱湯の釜があって、両方から柄杓ですくってブリキ製の浅くて広い楕円形の洗い桶に入れます。日本のように持ちやすい小さなプラスチック製や木の桶でもなく、ブリキ製で洗濯桶くらいも大きいところが、こちらの伝統です。両側に取手がついていますが、この桶にいっぱいお湯を入れると持ち上げるのが大変です。頭も体も洗うとゆすいだりするのにたくさんのお湯がいるので、たいていはドラム缶や釜の水やお湯はなくなってしまいます。次に入る人に悪いなと思いながらほとんど空にしてしまいます。(スタッフに湯水を足すように頼んでおきます)。
蒸し部屋には白樺の枝を束ねた小型ほうきがブリキ製の桶に漬かっています(そのためにここの洗面器は幅広だ)。これで体を叩くと白樺の葉のいい香りとマッサージ効果で、蒸し風呂好きの人にはたまらないのだそうです。蒸し風呂小屋は民宿『ニキータの館』には幾つかありますが、冬、炊くのは1軒だけで、たいていは夜炊きます。一人1時間使えるそうですが、私には9時から10時というゴールデンタイムに毎日入っていいといわれましたが、入浴もなかなか重労働なので2日に1回入りました。
次の日、朝食後、部屋を替わりました。この日は80人もの韓国人団体客が来るのですから、客室を開けます。
替わって私の部屋になったのは、イルクーツクから来たフランス語通訳のナージャの隣、つまり同じ小屋で入り口やトイレ、居間などが共有で寝室は別々という部屋です。窓からバイカルこそ見晴らせなかったのですが、実は、ここのほうが快適でした。ナージャがきれい好きで、その小屋の中のトイレや居間もきちんと整頓されてあったからです。私が部屋にいるときはお茶を入れてくれて話し相手にもなってくれました。
ナージャは黒海沿岸の町で生まれ、大学はフランス語科を卒業して何度もフランスを旅行したばかりでなく数年住んだこともあるそうです。今は夫のセリョージャとイルクーツクからオリホン島に来ているが、数年前には考えられなかったことだそうです。これが、オリホン島は美しいがずっと住むには不便なことが多くはないか、という私の問いの答えです。確かに不便です。生活インフラが悪いですから。
『ニキータの館』のスタッフはオーナー一家を含めロシア正教の熱心な信者らしく、ナージャの夫も神父見習いのようです。この小屋に普通はナージャと夫のセリョージャが住み、宿泊客が多くなったときだけ私が泊まった寝室を空けるそうです。このように『ニキータの館』内の幾つかの建物はスタッフが住んでいます。でも今度のサマー・シーズンまでに、スタッフ用の宿舎が島の教会の隣に建てられるそうです。
ブルハン岬のシャマーン岩
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午後、韓国人の80人の団体が到着しました。80人ですから添乗員はマイクを持って案内をしています。食堂は団体客でいっぱいになり、売店も大繁盛です。一人の韓国人の男性が「日本人ですか」と私に尋ねかけました。どうして私が日本人とわかったのでしょう。もっとその韓国人と話したかったのですが、あまり日本語を知らなくて、ロシア語はぜんぜん通じません。私はハングルが話せません。
部屋割りが一段落すると、韓国人たちはフジール村はずれにあるブルハン岬に向かいました。この岬はバイカルにぐっと突き出ていて先端にピラミット状のシャーマンの岩があり、バイカル湖の絵葉書セットには必ず入っている名所です。岬には洞窟もあります。アジアにある9つの聖所のひとつだそうです。オリホン島の主の神様が住んでいるとも言われています。シャマニズムの儀式が行われていたところでもあるそうです。
この韓国人の団体は毎年のようにやって来るので、民宿のスタッフの一人によると、きっと何かの宗教団体で、この神聖な場所に祈りにやってくるのだろうとのこと、また別のスタッフによると、オリホン島のこの岬の岩が彼らの祖先の発祥の地なのでやはり祈りに来るのだろうとのこと。
韓国人たちが出発して少し暇になったニキータ一家と運転手付車で隣村のハランツィへ行きました。帰ってきても、まだ韓国人の一団がシャーマンの岩に向かって岬に立っているのが遠くから見えました。
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ハランツィ村近くの湖岸 |
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『小バイカル』海峡に浮かぶハランツィ島 |
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島から島への途中、氷片に座って一休み |
ハランツィ村にはウクライナ人と結婚したドイツ女性が住んでいるそうです。ドイツで給付される老齢年金で、1年の半分はハランツィ村、半分はドイツに住むという悠々自適の生活を送っているのだと、ニキータが言っていました。私もそんな生活をしたらどうかと言われましたが、悪くないです、半年毎なら。でも、私の年金の額がちょっと(いや、 0かなり)少なめですが。
そのドイツ人女性の家にお客に行こうとニキータは前日電話をかけたのですが、ちょうどドイツに帰っていて留守でした。それでハランツィへはただ湖岸へ行って焚き火を燃やし、お茶を沸かしてチーズパンを食べるというピクニック形式でした。焚き火に近づきすぎたせいか、ハバロフスクで買った私のテトロン製のコートに小さな穴が開き中の白いテトロン綿が見えてきてしまいました。サインペンで似たような色を塗っておけば目立たないでしょう。
お茶を沸かしたりチーズパンの準備をしたりというのは運転手がやってくれます。これも車を持っている地元の住民のアルバイトです。民宿『ニキータの館』は地元の雇用を促進しています。昔は漁業コルホーズがあったのですが、今はその魚の加工工場の残骸があるだけです。別のところに水産工場があるのでしょうか。(バイカル湖での漁労は禁止された?)
運転手さんが準備している間、私たちは湖に下りていき、またあざらしごっこをしたり、飽きずに氷の写真を撮ったり、垂直に立っているガラス板の破片のような氷を踏み外しながら少し離れたハランツィ島まで歩いたりしました。ついに島から島へ徒歩でバイカル湖上を渡ったわけです。極小のハランツィ島には大小に割れた岩と去年の草原があるだけで、上陸はしませんでしたが。
次の日はオリホン島出発の日です。ミールニィ行きの飛行機は夕方6時20分に出ると言っても、オリホン島からイルクーツクまでは300キロもあり、道程は非舗装路と氷上ですから、余裕を見て10時頃にはもう出発しました。帰りの車の運転車も行きと同じヴィクトルでしたが、今度は、乗客は私一人なので小型車でした。ヴィクトルは実は、『ニキータの館』のスタッフの一人の夫で、イルクーツクで運送業をやっているそうです。でも、予約があれば、宿泊客の運搬もして、特に夏場は毎日往復するそうです。往復するごとに妻にも会えます。
それで、私の出発を見送ってくれたのは、コリンと後から合流した彼の婚外の妻(合法的な婚姻は少ないフランス人だから)、ニキータ一家の他にヴィクトルの奥さんもいました。
今回時間もあるので、私の好きなコースを取って帰ろうと言ってくれました。もちろん氷上コースが良いです。それで、フジール村を出発すると、しばらくしてバイカルに出ました。『小バイカル』海峡側です。こちら側なら大抵の場所の氷の状態を知っていると言っていました。「しかし、バイカルは畏敬しなければならない」と繰り返していました。
氷が割れて湖に沈んだ車は今までなかっただろうか、と聞いてみました。
「もちろんある、1日に何台も沈んだことがある」
「でもそれは、今頃の季節ではなくて4月とかでしょう。乗っていた人も溺れて死んだの」
「いやいや、しらふでちゃんと判断できれば、大丈夫だ。酔っぱらいの運転手なら溺れることもあるね。車はすぐ沈むわけではないからね。しらふなら、車から出てきて硬い氷の上に避難できるのだ」
私のイメージとすれば、走っているとき突然車の重荷に耐えかねた氷がバリバリ割れてドアを開けると冷たい水がどっと入り込み、助かるとすれば、泳いでまだ割れていない氷の縁にたどり着けた場合だけというものでした。が、実際はそうではなく柔らかくなった氷の上でゆっくり沼地に落ちるように沈むので、車から脱出できた素面の人は溺死しないのだそうです。
4月ごろのある時、そんな柔らかくなった氷のそばでヴィクトルたちが穴を掘って釣りをしていたそうです。すると、ずんずん先に進んでいく車があります。案の定、車は沈みかけました。すると酔っぱらいのドライバーが出てきてドアを持って沈みかける車を救おうとしています。みんなは、駆け寄ってドライバーを説得し始めました。酔っぱらいはなかなか愛車のドアを離そうとしません。このままではその人の足元も沈んでしまうと、ものの3分ばかり説得して、やっと人間だけは救ったそうです。
先日のホボイ岬へ行ったときとは逆に、左にオリホン島を見て、右に『小バイカル』海峡のかなた遠くバイカル西岸を縁取る険しい山地を見ながら、島の南端へ進んでいきました。途中小さな水面から高くそびえるオゴイ島にはブリヤート人の仏舎利が見えました。よくこんな孤島に建てたものだと感心していると、氷の時期なら機材は簡単に運び込めるからな、とヴィクトルが言っていました。
オリホン島には、来る時通ったカチュク街道の近くと同様、多くの先史時代の遺跡が残っていると、後で分かりました。例えば、帰りにすぐ横を通ったハルゴイ半島には7、8世紀のクリカン人(ヤクート人の先祖ともいわれている)の長さ185メートル、高さ2メートルもあるという石の壁跡が残っているそうです。そんな歴史遺跡は地味で、きっと観光客をわざわざ連れてくるほどの名所ではないと島のガイドは思っているのでしょう。道も悪いですし。(後記;2018年2月に訪れた時は観光コースに入っていた)
目印の杭も立つ正規の氷上路
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バイカル西岸とオリホン島を結ぶ正規の氷上路は教えてくれました。わざわざ止まって写真を撮ったくらいです。8キロほどあり、平坦で頑丈そう、一方通行になっています。スケート場のような滑るところではハンドルをほとんど切らず進みますから、対面交通は危ないです。シベリアのエニセイ川でもアンガラ川でも、対岸への渡し船が通行しない冬場には必ず正規の氷上路があり、杭などで印があるほか、両岸には番人小屋があり、安全の確認をしてくれています。今回私たちはバイカル湖上の『非正規氷区』を縦横に走り回ったわけでした。
この正規路を通ると、安全ではあるが大幅な回り道になり、その回り道をした場合、陸に上がってからの方が大変な悪路だそうです。そのせいか、私たちが横切ったときは、正規路を通る車は見あたらなかったのですが、太いタイヤの跡が透明な氷の上についていました。大型車はやはり安全な正規路を通るのでしょう。
イルクーツクに着いたのは2時頃で、仲よくなった運転手のヴィクトルは南からアンガラ川に流れ込むイルクット川の河口でも写真休憩を取ってくれました。ここに1652年にできたイルクット柵(砦、ロシア帝国のシベリア侵略の基地)からイルクーツクができたように、シベリアの都市は大河に流れ込む小さめの川の合流口にコサックの柵ができ、それが発展したものが多いです。そんなところは元々は先住民の冬期基地だったり先住民との交換所だったりしました。
ミールニィ行きの飛行機が出発するまでの間イルクーツクのニキータの知り合いの家で一休みします。昼食を出してくれ、お風呂もどうぞと勧められました。ふと見ると、その家の18歳になる息子さんがパソコンをやっています。インターネットにもつながっているというので、オリホン島ではチェックできなかったメールを見ようと、貸してもらいました。快く貸してはくれましたが、申し訳なかったです。日本から動画が送られてきていて、開けるのに何十分とかかったからです。