クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2008年6月15日  (校正、追記: 2009年4月13日、2010年9月26日、2017年6月18日、2018年9月29日、2019年11月26日、2021年7月20日、2022年5月16日)
23−(1) 氷のバイカルと極寒のサハ・ヤクーチア(1)
                   2008年2月8日から2月22日
     Ольхон на Байкале и Мирный в Саха

(1)冬のシベリア2週間計画 (2)民宿『ニキータの館』 (3)ミールニィ市へ (4)ビルチャン・バンガロー・ビレッジ
ハバロフスクで最終準備 透明な湖上でスケートなんかも サハ共和国 ミールニィ市に戻る、滞在手続
イルクーツク市、バイカルへの中継点 北端ハボイ岬とドイツ人たち サハ人とエヴェンキ人たちのビリュイ川中流 ダイヤモンドのミールニィ市
オリホン島フジール村への道程 島内の湖と島の東側 博物館のスンタール郡 ストロガノフ、ドルガン人宅、学校見学
陸とオリホン島の間の『オリホン門』海峡 蒸し風呂、スタッフ、韓国人団体客 子馬肉10キロ ついに救急車で
バイカル湖最大の島オリホン ハランツィ村とハランツィ島 スンタール紀行2日目 こんなときにヤクーツクまで往復

氷上コースでオリホン島を去る 『アルチャの家』 もう1週間...


 冬のシベリア2週間計画
 冬のバイカルに行ってみたいと長い間思っていました。『厳寒』体験なら、前年の冬に北極圏内のイガルカ市へ行って、太陽の上らない昼も見てきました。イガルカ市の岸を流れるエニセイ川はもちろん冬は凍り、凍った大河も素晴らしかったですが、バイカル湖の氷原は何かきっと特別に壮絶に違いありません。バイカル湖のオリホン島、フジール Хужир 村で民宿をやっているニキータ夫妻もずっと前から招待してくれています。
1990年バイカル、オリホン島で、中央がニキータ

 ニキータは1986年卓球の全ロシア・チャンピオンだったそうです。翌年、イルクーツクと姉妹都市の金沢市の招待で卓球親善試合するためにやって来た時、知り合ったのです。その後、ニキータの招待で3回バイカルに行ったことがあります。2度目に行った時は、ニキータはオリホン島の唯一の学校で卓球のコーチをしていました。ニキータも私の個人招待で金沢に来たことがあります。1992年、私がクラスノヤルスク45市(現ゼレノゴルスク市)に2年間いた時も、共通の友人の手引きで検問所を潜り抜けて会いに来てくれました(クラスノヤルスク45市は閉鎖都市で許可がないと出入りできない)。その後の便りでは、ニキータは結婚して子供ができ、オリホン島に民宿を開いたというようなことが書かれてありました。実際、当時私の住んでいたクラスノヤルスク45市の住民の一人から、バイカルに旅行してその民宿に泊まった時、ニキータからバイカルのオームリ(というサケ科の魚)の塩漬けを託ったから渡したい、と電話がかかってきたこともありました。しかし、その後は便りが途絶え、失敗した内モンゴル旅行でザバイカルスク市からの帰り突然思い立って寄ってみたのが2004年でした。それが3回目です。

 バイカルの自然がいくら美しいからといっても、ただ眺めて暮らすのも5、6日くらいまでがちょうどいいでしょう。そこに住んで毎日読書三昧に明け暮れるとか、エコロジー関係の仕事で自然の中を毎日歩き回るとか、地域の人々と交流し、すっかり親しくなるには、5、6日は少ないかもしれません。せめて2、3ヶ月ほど滞在して、日常から逃れた退屈で優雅な生活を送るのも悪くはありません。事実、ニキータの民宿にはそうした逗留者がいます。でも、2、3ヶ月の逗留は次回にして、今回は5、6日のほうにしておきましょう。
 
 とすれば、いつもロシアは2週間程度の旅行を予定していますから、バイカルのほかに訪問地をもうひとつ選んでもよさそうです。そこで、まだ行ったことのないサハ・ヤクーチア共和国(ロシア連邦構成主体の1)が思い当たりました。首都のヤクーツク市には知り合いがいませんが、人口第3のミールニイ市には、文通友達がいます。ロシア版出会い系サイトで知り合った45歳くらいの元教師のアンナさんと言ってサハ・ヤクート人、家族もみんなサハ・ヤクート人だそうです。
アンナさんから送られてきた新年の写真

 その出会い系サイトに写真とロシア語で書いた自己紹介文を載せると、ロシアをはじめヨーロッパやイスラエルなどから老若男女のロシア語話し手の便りがどっと届くようになります。また、サイトに載っている紹介文を選んでこちらから書いてもいいです。その中で気のあった相手(圧倒的に女性)を何人か見つけることができ、対話が楽しめ、ロシア語の作文力も上がるかも知れないのも、インターネットのおかげです。アンナさんはその一人です。
 ミールニィ市は53年ほど前ダイヤモンドの露天掘りのためにできたロシア人の町です。1956年から2001年まで露天掘りで採掘された直径1200メートル、深さ525メートルの漏斗状の巨大な穴も今は観光スポットとしてあるそうです。アンナさんによるとダイヤモンドを売っているよい店もいくつかあるとのことです。
 12月の中ごろ電話でアンナさんに旅行計画を話してみました。アンナさんにしても、
「首都のヤクーツクなら観光するところも多いが、ミールニイ市はダイヤモンドの露天掘りのほかにあまり見るものがない」と予告はしても、日本からわざわざ会いに行きたいという人を断ると言うことはしません。招待状を出せるかどうかも調べてくれました。個人招待ビザのための招待状はロシアに住所のある人なら誰でも出せるでしょうが、地域によっては手続きの仕方が違うということもありえます。ミールニィ市で作るには私のパスポートのオリジナルとそのロシア語訳が必要らしいとか言うことでした。
 実は招待状については、民宿を何年もやっていて、外国人旅行者を多く受け入れているニキータが観光ビザ用招待状(旅行確認書とバウチャー)を都合してくれると言っていました。
 イルクーツクとミールニィを廻るコースですが、新潟からウラジヴォストク経由イルクーツクへは、乗り継ぎ便利で往復運賃格安な飛行機便があります。でも、ミールニイにも寄るとなると、ミールニイからウラジオストックへの便はありません。一方、ミールニィからハバロフスク便はありますが、ハバロフスク経由イルクーツク往復便の格安チケットも、ミールニィを入れると使えません。結局ロシア国内便はすべて片道の割高チケット(約2千ドル)になってしまいました。
 インターネットで飛行機のダイヤを調べると、ハバロフスクで無駄な滞在が少ないのは、先にイルクーツクに飛び、そこからミールニィ、そしてハバロフスクへ戻るというコースです。そこでこんな日程表を作ったのです。
 今回は『新潟→ハバロフスク→イルクーツク→
ミールニィ→ハバロフスク→新潟』のコースだった

2月8日(金)14時40分新潟発、17時50分ハバロフスク着
2月9日(土)23時40分ハバロフスク発、翌日1時5分イルクーツク着
2月15日(金)18時20分イルクーツク発、21時15分ミールニィ着
2月21日(木)5時55分ミールニィ発、11時45分ハバロフスク着
2月22日(金)12時ハバロフスク発、13時10分新潟着

 ニキータが観光ビザ用招待状を都合してくれるなら、もちろんバイカルに先に行って、出入国カードの裏書はイルクーツク州でやったほうがよさそうです。アンナさんの個人招待状でビザを作るなら、ミールニィへ先に行かなくてはなりません。
 一方、ニキータが都合してくれた招待状(旅行確認書とバウチャー)の旅行日程によると、
2月6日ウラジオストック着、2月6日から13日までウラジオストック滞在
2月13日ハバロフスクへ列車で移動、2月13日から17日までハバロフスク滞在
2月17日からイルクーツクへ列車で移動、2月19日から25日までイルクーツク滞在
2月25日ウラジオストックへ列車で移動、2月28日ウラジオストック着、2月29日ウラジオストック発
となっていて、これは、私が万一のために前後に余裕のある滞在日数にしてほしいといったからでしょう。この旅行確認書とバウチャーで、期限内ならミールニィにもどこへでも行けるそうです。
 インターネットで調べた格安国際航空券サイトでは、新潟ハバロフスクの往復便は6万7千円でした。格安といってもこの便はどこの旅行会社で買っても同じような金額ですが。そして、どこの旅行会社もミールニィ行きは扱っていないようでした。日本国内で国際便と連動していないロシア国内便チケットを買うのはいつでも割高なので、ハバロフスクからイルクーツク、イルクーツクからミールニィ、ミールニィからハバロフスク便のほうは、ハバロフスクの知り合いのゲーナさんに買ってもらいました。ハバロフスクを通ったときに受け取ればいいです。代金はルーブルでもドルでも円でもいいと言われました。
 ゲーナさんやロシア人の知り合いは、冬場にわざわざ北のサハ・ヤクーチアに行くというのが不可解のようでした。そんなところに冬に行ったら寒さで死んでしまうという日本人もいました。

 ハバロフスクで最終準備
 問題なのは防寒着です。3年前、冬のモスクワ用に安いけれど暖かい羽毛コートを買いました。それで毎年冬のシベリア旅行に耐えていました。イガルカで凍ったエニセイをスノー・モビールで渡った時だけは、もっとしっかりした防寒着を着せてもらいました。今回、2月は寒さの峠を越しているとは言え、氷上のバイカルとサハ・ヤクーチアへはもっと暖かいものを着て行ったほうがよさそうです。長期間滞在するのではないで高価なものは不要です。そこでハバロフスクへ行ってから、当地の中国市場で買うことにしました。
 案内してくれたのは、毎週のように国境を越えて中国に買い物に行くというハバロフスクの知人ゲーナさんの娘ヴァーリャさんです。ハバロフスクの中国市場より、一歩でも国境を越えた中国のほうが安いでしょうが、外国人の私はそうもいきません。
 ヴァーリャさんは中国で買ったという紫に染めたミンクのショート・コートに、左ハンドルのカムリを運転して、ハバロフスク中心から外れた広大な敷地にある市場に連れて行ってくれました。以前は青空に屋台を並べて食料品から衣料品などあらゆるものを売っていたそうですが、最近、敷地の一角に新築の数棟が建ちました。きっと将来を見越して広げたらしい駐車場には、この日、わずかしか駐車していません。10店舗ほどが一棟になった長屋のような建物がいくつもあって、各店には番号がついています。どこも同じような入り口で、番号がないと区別できません。建設中の棟もあって、将来、広い敷地に中国製品と中国人店員であふれるのでしょうか。衣料品と靴を売っている店が開店しています。 
 ヴァーリャさんによると、すぐに買ってはいけなくて何軒もまわって散々値切らなくてはならないそうです。腕前を拝見していましたが、なかなかのものです。店員が男性なら「カリファン(ロシア語隠語で友達)」と呼びかけ、「冬用の靴はないの」と切り出します。カリファンが見せる靴の裏側が本物の皮がどうか調べるからライターを持ってきて、と言います。焦がしてにおいをかぐそうです。
 店に入って対応に出てくるのが女性なら「クーニャ(美人さんという意味に違いない)」と呼びかけ、「冬用のコートはないの」と聞きます。2月はもう春ものが出始めているので、零下40度にも耐えられるコートはもう売れ残りしかないようでした。それでも1万9千円ほどのポリエステル中綿、襟は本物の毛皮でフード付の暖かそうなコートを買いました。靴のほうは、表はなめし皮の裏は起毛で約6千円のものです。
 この日、イルクーツクへの出発は夜中の11時40分でしたから、買い物の後、時間がたっぷり残りました。ヴァーリャさんのボーイフレンドと3人でシャシュリック(長い金属製の串で焼いた肉)を食べ、ゲーナさんのオフィスに戻って仕事のお手伝いをして(通訳)、夕方ホテルに戻ると、大都市ハバロフスクでのような上下水道、温水シャワー付の文化的生活もこの先はできなくなるので、ゆっくりお風呂に入り、スーツ・ケースの中身も整頓して、これからの旅に備えました。
 イルクーツク、バイカル湖への中継点
 ハバロフスク空港では、新潟の免税ショップで買ったお土産の日本酒入り徳利セットが引っかかってしまいました。免税ショップで買ったものはその空港発の便なら機内へ手持ちできますが、別の便になれば、当然液体の入った容器類は機内に持ち込めません。割れないようにということだけを考えて、機内持ち込み用のカバンに入れたのでした。では機内持ち込みしないで、そのカバンを手荷物として出せばいいのですが、そのままでは出せないところがロシアらしいです。旅行用の硬いスーツ・ケースでない場合は、ビニールで包み込んでテープでぐるぐる巻きのパックにしなければ預かってくれないのです。空港には150ルーブリ(約700円)でかばんをパックする業者の窓口がありますが、深夜だったので閉まっています。一緒に空港まで送ってくれたヴァーリャのボーイフレンドが買い物用特大ビニール袋と太目のセロテープを売店で買って、手早くパックしてくれたので大助かりでした。
 ハバロフスクを23時40分に出発して3時間あまり飛び、時差2時間のイルクーツクに到着したのは予定よりちょっと早めの午前0時50分でした。乗客が少なかったからでしょう。早く到着したせいか、荷物を受け取っても迎えは現れず、昼間も寒いのに夜はもっと寒い空港の外で待つことになりました。
 たいていのロシアの地方空港では、到着した乗客は飛行機から降りてバスに乗せられ、空港の出口前で降ろされ、ぽいと場外に出されます。そこに出迎えの人や客引きタクシーが待っています。荷物は隣の小屋のターンテーブルからとります。
 こうして寒い場外で待っていると、しばらくしてひげもじゃの男性が私のほうへ走ってきました。「タカコサン、遅れてすみません。セリョージャです」といって、荷物を持ってくれました。もちろん、以前に会ったこともない人です。セリョージャの知り合いという、こちらもまたひげもじゃ男性の運転する古くて小さな車に乗って、ニキータのイルクーツク宅へ向かいました。聞けば、スズキ・エスクードだとのことです。

 都会の中にあるのに集合住宅ではなく、個人の一軒家です。ソ連時代のイルクーツク集合住宅建設都市計画に取り残されたような一角でエスクードが止まりました。ロシアの地方都市にはこのような一角がところどころ残されていて、古い平屋が置き去りにされたように並び、貧しそうな都市景観ですが、ごく最近ではリッチなロシア人がこのような中心地にある土地を買って(正しくは家を買う、土地は国有(当時)。家を買うということはその家が建っている地所やその周りも含めて使用権を買うということらしい)大邸宅を建てたりしています。イルクーツクのこの一角は、まだ、古くて倒れかかったような家が数十軒と並んでいて、舗装もしてない路地がつづき、車も入れません。
 車の入れないような路地をしばらく歩いて行ったところの新築の2階建ての家がニキータの持ち家です。数年前にただのような値段(2500ドル)で、やっと建っているような家を買い、土地(使用権)を買い、最近ほぼ完成したそうです。この一角が都市計画に外れているということは、家がいくら立派でも自前で設置しない限り上下水道がないということです。ロシア・シベリアの田舎では例外なく上下水道はなくトイレは外の小屋です。それも敷地内の一番遠いところにあります。穴の中に落とすことになっていて、その穴がいっぱいになれば、少し離れたところに新たに穴を掘って小屋を建て、新トイレ小屋となります。
イルクーツクのセリョー
ジャとナージャ
(民宿のスタッフ)

 しかし、ニキータの一軒家にはそうした敷地内の余裕を使わず、ロシアの田舎の高めのホテルにあるようなポータブル・トイレが入っています。それも臭気抜け煙突つきでした。ふたを開けると固形物が落ちる後部と液体が落ちる前部とに分かれていて、座ると固形物が落ちるところが開きます。液体は漏斗状の先のザルのようになっているところから下の容器に流れ出ます。たまった固形物や液体がにおわないように背中に煙突がついています。上手に座らないと両者が正しい行き場所にたどり着かず、固形物が境界線に接して落ちると跡がつきます。ペーパーはもちろん横にあるバケツに入れます。汚れたペーパーが目に付くのはいやだわ、せめてふたでもあればいいのに、と言うと、セリョージャは、そのとおりだとダンボールを切り抜いて作ってくれました。(私が去るとそのダンボールのふたはすぐ捨ててしまったことでしょう。だって、ちゃちでしたから)
 二階建てのニキータの一軒家は、玄関ドアを二枚開けると廊下と物置、左にトイレと風呂場があって、右にまた二重のドアのついた部屋があります。部屋の中には階段があって2階にはベッドがいくつもある部屋があります。1階と2階を貫いてロシア暖炉がついていますが、電気暖房もしていました。セリョージャと奥さんのナージャは1階に寝て、私は2階に寝ました。空港についたのは夜中の1時でしたから、寝たのは2時を過ぎていました。ひげを伸ばしているのは、彼はロシア正教神父見習いだからかもしれません。
アンガラ川近くの教会

 翌朝10時、ニキータのオリホン島へ私と一緒に行くためニキータのお母さんがいっぱいの荷物を持ってやってきました。イルクーツクからフジール村までは300キロもありますから、私を送るついでにできるだけたくさんの荷物や人を運んだほうが、無駄がないでしょう。私の行く日は決まっていたので、それにあわせてニキータが組み合わせたのでしょう。私を迎えてくれたセリョージャや奥さんのナージャも、ニキータの民宿のスタッフで、ナージャはフランス語の通訳などをやっているそうです。セリョージャは何でしょうか。ナージャは私やニキータのお母さんと一緒にオリホン島に行き、セリョージャは一足遅れて行くそうです。ニキータの民宿には、旅行者でない宿泊者が何人もいて、ロシア各地から(多分)何か一芸に秀でた人が旅行者としてやってきて、そのまま、スタッフとして働き、飽きると去っていくそうです。画家、音楽家、脚本家、詩人などもスタッフとして逗留していたそうです。
このマンホールに消える

 都市計画外れの路地近くの、昨夜エスクードから下りたところにはトヨタ・タウンエースのような車がもう待っていました。運転手も入れて4人は、予定より少し遅れて出発しました。
 途中、アンガラ川近くの教会にナージャが、用事があるとかで消えた間、3人でしばらく車の中で待っていました。その教会はソ連時代でも閉鎖されたことがなかったそうです。という話をしていると、車の近くを貧しい身なりの男性がふらふらと歩いてきたと思ったら、すっとマンホールの中に半身入り込み、次の瞬間には見えなくなっていました。つまり、そこに住んでいるわけです。
  
 オリホン島フジール村への道程
 イルクーツクからフジール村まで個人の旅行者が行くのは容易ではありません。夏場ですと、毎朝イルクーツク8時出発のバスに乗ると8時間後に目的地に到着するそうです。バスはイルクーツクから260キロほどのオリホン島連絡フェリー船乗り場サフュルタ村までしか行きません。そこで80分に1本しかないフェリーを待ち、オリホン島についても、また島内用バスを待って、さらに30キロも舗装されていない道を行かなくてはならないからでしょう。
イルクーツク→バランダイ→『オリホン島門』海峡→フジール

 でも、私たちのトヨタバンは、食事休憩も入れて5時間で着きました。イルクーツクから、まず北東に伸びる国道418号線を走ります。これはカチュック街道ともよばれていて、ウスチ・オルディンスキー・ブリャート(民族)旧自治管区を縦断し、レナ川上流にある古くからの船着場の村カチュックに通じる257キロの、今では舗装された道です。終点のカチュック村からレナ川を下っていけばヤクーチア・サハに出られるからか、『ヤクーチア(郵便)街道』とも呼ばれています。
 ちなみに、バイカル湖から流れ出るのはアンガラ川だけで、流れ込む川はモンゴルから流れてくるセレンガ川(延長992キロ)をはじめ、300本以上もあるそうです。バイカル湖やセレンガ川の近くの水分はみんなバイカルに流れ込み、そこからアンガラ川(からエニセイに、だから、バイカルはエニセイ水系)のみに流れ出ます。バイカルの特に北西岸は、高さ2千メートルほどのバイカル山脈が囲んでいて、その東斜面を流れる短い川だけがバイカルに注ぎます。湖岸からわずか9キロしか離れていないけれども、西斜面を流れる小さなレナ川が、バイカル山脈から西の水分をアンガラと分けあって集め、北へ、北東へと流れて大河レナ川になります。ですからこのあたりがレナ川とエニセイ川の分水嶺にあたります。
 この車には、ロシアでは始めてみたのですが、ナビゲーションがついていました。もちろん外付けで、画面もとても小さいのです。それでも、ウスチ・オルディンスキー区に入ったとか、バイカルはどちらの方向にあるとかわかります。運転手は1998年の橋本・エリツィン会談の後、いくつかの研修グループが日本へ1ヶ月ほど派遣されましたが、そのうちの運輸問題研修グループの一員だったそうです。東シベリアと極東地方の各地から数人ずつ選ばれた10人ぐらいのグループで、毎日、日本語の講義を通訳付きで聞いていたそうです。退屈だったこともあるが、休日にはグループで富士山や日光に行ったとか、そのときどんなハプニングがあったとかを話していました。
 私はといえば、走る車のガラス越しにせっせと写真を撮り続けました。地上を車で移動するのはロシア旅行の楽しみのひとつです。いつも、できれば助手席に座らせてもらって、できれば時々止まってもらって、カシャカシャと写真を撮ります。止まって外へ出て撮ったり、私を撮って貰ったりできるのは、よほど運転手さんと仲良しになったか、他の乗客がいないときだけです。今回イルクーツクからオリホンへは後ろのシートにナージャとニキータのママが座っていて、彼らにはこの行程はちっとも珍しくなく、できるだけ早く目的地に着きたそうでしたから、車を止めて外へ出てまで撮るのは遠慮しました。
タジェランスキー塩湖群のひとつ

 でも、イルクーツクからカチュック街道を、イルクーツク州に囲まれたウスチ・オルダ(オルディンスキー)・ブリャート(旧自治)管区を縦断し、中心のウスチ・オルド町(人口1万人、イルクーツクから65キロ)のすぐそばをただ通過してしまったというのは、もったいない話です。ウスチ・オルド町見物もよかったでしょうし、街道からすこし離れたところには、石器時代人の石画や集落跡などの遺跡がたくさんあるそうですから、一箇所ぐらいは寄ってみたかったものです。ちなみに同管区は2006年末まで自治管区、つまり、連邦構成『主体』のひとつでしたが、クラスノヤルスクのタイムィール自治管区やエヴェンキア自治管区などの『ロシア連邦構成主体』が2007年クラスノヤルスク地方に合併され同地方の地区のひとつになったように、ウスチ・オルド・ブリャート自治管区もイルクーツク州に合併され、ウスチオルダ・ブリヤート管区になりました。人口14万人のうち37パーセントがブリヤート人、55パーセントがロシア人です。
 カチュック街道を128キロ走ってバランダイ村でアスファルト舗装の国道を出て、東のバイカルのほうに進みます。すると森林が遠くになり、周りが草原になります。さらに80キロも走り、オリホン地区の中心エランツィ村を過ぎると、有名なタジェランスキー草原にでます。バイカル湖岸に沿ってオリホン島まで続く細長い乾燥地帯で、道路からタジェランスキー塩湖群が見えます。探検もできる洞窟もこのあたりには多い、と後で旅行案内書を読んで知りました。

 陸地とオリホン島の間の『オリホン門』海峡
『オリホン島門』海峡を渡る
こんな滑らかなところにも氷の歯が
 この道は、バイカル湖のオリホン島に向かって突き出たサフュルタ村へ通じます。夏場には、そこから最小幅1キロもない『オリホン門』海峡を横切って、オリホン島の最南西端ザブロ岬にフェリー船が出ています。フェリー船はシーズン中には1日12便出ていますが、乗用車13,14台しか運べないので、長い順番待ちで1昼夜もかかることがあるそうです。フェリー船の運行が危険になる春や晩秋には水中翼船が運航され、車両は渡れませんが乗客だけならオリホン島に渡れます。1月後半、バイカルに氷がしっかり張ってしまえばトラックでも自由に通れます。でも、この『オリホン門』海峡は冬の風が強く波が高いため湖上は波状に氷が張っていたり割れ目があったりするので、正式の氷上路は何十キロも遠回りして、静かな『小バイカル』海峡を通ります。
 しかし、私たちはオリホン門海峡の別の航路を通りました。
 風が強いところでは、氷が少し張った頃、波で動きぶつかり合い、そのまま凍りついて、湖上は鋭い鋸歯か瓦かボードを縦に並べたようになり、乗用車は通行できません。風の強い岬の近くは特に深い鋸歯になり、波の寄せる岸辺も鋸歯になります。湖上の波もなく静かに凍ったところでは、つるつるな平面ができます。毎年、どの辺りはいつ頃どんな凍り方をするか、私達の運転手が精通しています。
 『オリホン門』海峡でも、湾内だと風が弱く比較的平坦に凍るので、海峡の広くなったところは風の弱い地点を通り、向こう岸へもまた湾内へ入るという行路を取れば、ほぼ無事にたどり着けます。それでも、ところどころに鋸歯群が見えるので、運転手は車を降りて、歯の間の通行可能な箇所を調べていました。9キロほど氷上を走りましたが、浅い鋸歯群やつるつる氷の上に薄く粉雪が積もった箇所のほか、まったく透明な氷が続いているところもあって、そんなところでは降ろしてもらって、透明な氷の底を覗き込んでみました。氷の厚さは1メートル弱と言いますから、底を泳ぐ魚でも見えないかと思ったのですが、閉じ込められたような泡と、透明な氷を垂直に区切る不規則な面のほかは何も見えません。
 バイカル湖最大の島オリホン
バイカル湖西岸にあるオリホン島
 最深1637メートルと世界一深く、地球上の凍っていない淡水の17-20%を蓄えるという有名なバイカル湖は、長さ600キロ、幅30キロほど(琵琶湖のおよそ46倍)の湖水面を持ち、北東から南西にかけて細長い三日月形をしています(上の地図)。
 湖には20以上の島々がありますが、一番大きいのは縦に70キロ、幅15キロとやはり三日月形で、バイカルの中ほど西岸近くほぼ平行に浮かんでいるオリホン島で、面積は淡路島より少し大きいくらいです(横の地図)。バイカル西岸とオリホン島の間を、長さは島と同じ70キロで最も広い幅は17キロ、最深200メートルの狭く浅い『小さな海』海峡(海というのはバイカルという意味、つまり『小バイカル』海峡)が隔てています。またオリホン島の南端(正確には南西端)は、陸地から突き出たタジェランスキー草原と最小幅1キロ、長さ7キロのオリホン門海峡で隔たっていて、ここにフェリー船が通っています。
 南北(正確には北東から南西)に細長いオリホン島の『小バイカル』海峡側(西側)は低地で降水量が少ない草原が続き、オリホン島の東岸には千メートル以上の森林山地が『大バイカル』湖の上に絶壁となってそびえています。中でも北西にある1276メートルのジマ山絶壁のすぐ下がバイカル湖の中でも最深の地点です。
 オリホン島の人口は1500人ほどですが、山地の大バイカル側には集落はなく、低地草原の『小バイカル』海峡側に1200人のフジール村、その10キロ北の小さなハランツィ村などがあります。浅く暖かい『小バイカル』海峡はよい漁場だからです。観光業が今ほど発達していなかったほんの15年ほど前までは、羊などの放牧と漁業だけがこの島のブリヤート人やロシア人たちの生業でした。
 オリホン島は『太陽の島』と言われるくらい雨が少ないことでも有名です。朝、イルクーツク市を出発するころは憂鬱そうな冬空でしたが、『オリホン島門』海峡を渡るころは真っ青な空に真っ青な湖面が見られました。そして、フジール村の民宿『ニキータの館』に泊まっていた4泊5日の間も、毎日晴天でした。
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