15-(2) 北極圏のタイムィール半島、ドゥジンカ市からハータンガ村(その2) 2004年6月22日から7月3日 |
Таймыр - полярные дни(с 22 июня по 3 июля 2004 года)
1) タイムィール自治管区 | |
2) ハータンガ村博物館 | |
ハータンガ村を歩く(役場、病院、図書館) | |
村の郊外へピクニック、現地のグルメ | |
孫達と親戚の若夫婦 | |
トナカイ | |
『もっと田舎へ行って 少数民族の生活や文化に接する』へ出発 |
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はじめのもっと『田舎』 | |
さらに『もっと田舎』体験 | |
民族語女流作家のオグド・アクショーノワ | |
11日間の『日帰り旅行』 | |
旅行の目的は | 夏のツンドラ、ふわふわのトナカイ苔の上 |
タイムィールには2千年前までジャコウウシが住んでいたのですが絶滅しました。が、グリーンランドとカナダのツンドラにだけには生き残っていました。それで、1974年にまずカナダのバンクス島(北緯74度)から、ハータンガ区の北、タイムィール湖東のビカーダ・ヌグオマ Бикада-Нгуома 川流域(同緯度)とウランゲリ島に10頭のジャコウウシが試験的に空輸され、次いで1975年にはタイムィールとウランゲリにさらに20頭ずつ移住させました。1978年には繁殖にも成功し、1994年には千頭を超えました。その経過のビデオが30巻もありました。
ハータンガへは、観光旅行で来たというより、できるだけ北へいってしばらく住んでみたいというのが目的ですから、郷土博物館で時間を過ごすのもいいものでした。 でも、マンモス博物館の方は閉館でした。展示物の冷凍マンモスがいないということです。
私の希望で作成した旅行会社の日程表に、『もっと田舎に行って少数民族の生活や文化に触れる、魚つり』と、書いてあります。タイムィールでは各集落は、湿原と湖沼地にぽつりぽつりと散らばっていて、陸の孤島です。隣村と100キロ以上離れていることもあります。ハータンガ中流の地帯でも、隣の集落へは空路でなければ、川に沿ってボートで行くしかありませんが、燃料が高くて、個人的に調達したのでは、オグドゥワさんへの謝礼分の300ドルが飛んでしまいます。トップの区長が「努力する」といったので実現するでしょう。 村のロシア人といえば、病院の医師はほとんどがロシア人です。滞在中、病院見学もさせてもらいました。オグドゥワさんが院長(ロシア人女医)に申し込むと、「日本に帰って、ここの病院のことを悪く書かれたら困るのですが」とちょっと渋ったそうです。カナダ人が見学に来て、そんなことがあったそうです。でも、許可してくれたので、ロシア人外科医(本当は麻酔医)に案内されて見学しました。クラスノヤルスク医科大卒業で経験豊富な医者が、なぜ、北方僻地のハータンガ病院へ来たかというと、クラスノヤルスクの5倍の約1000ドルも給料が出るからだそうです。最近、娘さんが私大へ入って巨額な教育費がかかり、普通の医師の給料ではとても払いきれないからだそうです。 ここは、もちろん医療設備の水準は高くはなく、緊急用手術でなければ、大きな手術はしなくて、設備のある病院へ送るそうです。ロシア人はクラスノヤルスクなどの病院に行くので、患者は現地人が多いです。アルコールを飲んだための事故も多いそうです。 ハータンガ村で博物館や病院の他に訪問するところというと、他に図書館が興味深いです。館長はロシア人でした。私が日本人だというので、1996年2月28日付の現地新聞の『日本人冒険家』という記事のコピーをくれました。よくそんな古いものがとってあったと驚いたところ、最近の北極ツーリズムについて調べているからだそうです。 「日本人冒険家の大場満郎氏が、2度目の北極点踏破挑戦に、エニセイ湾のディクソンから北極海のスレドヌィ島(地図)に飛び、そこからスキーで出発した。去年は失敗し、凍傷で指先を切断するところだった」と書いてあります。 タイムィール半島のディクソンやハータンガは北極圏探検ツアーの基地でもあります。例えば、ここハータンガ飛行場はツンドラの中でも地盤のよいところを選んで造られ、かなり大型の飛行機でも離着陸でき、さらに、北極海用飛行機やヘリコプターもあり、専門のパイロットもいるそうです。ここでヘリコプターなどを調達し、北緯80度のセーヴェルナヤ・ゼムリャー諸島のスレドヌィ島の氷上基地に行き、そこからヘリコプターか、スキーで北極点に向かうのだそうです。1991年以降、かなりのツーリスト・グループがハータンガ経由で極へ出発したが、最近は、客をスピッツベルゲン諸島にとられて、ここ2年間は、誰も来ていないと言っていました。ハータンガから北極点まで1956キロあるそうです。(1956年に館長が生まれたからよく覚えているそうだ)
しかし、そうした景色はここに住んでいる人たちにはありふれたもので、私たちオグドゥワさんや友達のドルガン人グループは、白い珊瑚のようなトナカイゴケのふわふわ生えた夏のツンドラを沈みながら歩き、バグ―リニク(ツツジ科)の匂いをかぎ、トナカイ肉の串刺しを焼いて食べました。 タイムィールの地元民族はトナカイの毛皮を着て、トナカイ皮のブーツを履き、トナカイの喉のところにある長い毛を撚って糸にして皮を縫い合わせ、トナカイの皮で移動式住宅の屋根を覆い、トナカイの引くそりで年中移動し(夏の湿原もトナカイぞりなら移動できる)、トナカイの肉を食べていました。他には、夏にやってくる渡り鳥のガンやカモ、年中タイムィールに生息している雷鳥を撃って食べていました。今でも、このあたりの村の少数民族の人たちは、そうした自給自足に近い生活をしています。 私がホームスティしている間、牛肉や豚肉や鶏肉は一度も出ませんでした。トナカイ肉の他は、ハータンガ川で取れる生か塩漬けか燻製か干物のチィルやオームリ(サケ科)などの魚です。トナカイのタンは珍味で、脂肪分が多く柔らかいです。
ところで、雷鳥は(罰があたるかもしれませんが)食べてみると、チキンと似た味ですが少し固めです。羽をむしってスープにする前に胃の中身をお皿に出しました。ツンドラの草や小さな石ころが出てきました。オグドゥワさんによると、雷鳥の胃の中からかなり高価な石が出てくることもあるそうです。 他の食べ物は、全部空輸されたものです。野菜や果物は、質が悪い上、目の玉が飛び出るくらい高いです。ドゥジンカでも、そうでした。牛乳がクラスノヤルスクの6倍もしたのです。でも、ハータンガではそもそも牛乳は売ってもいませんでした。トナカイの乳が利用できそうですが、ドルガン人に聞いたところ 「飲まない、飲まない。とても濃いのが、ちょっとしか出ないからね」と言っていました。 トナカイの関節の軟骨が、赤ちゃんのおしゃぶりになります。 また、北方民族は、もともと穀物や野菜は食べない民族です。私のために、オートミールや米などを作ってくれましたが、オグドゥワさんの孫たちは食べたがりません。みんなでツンドラへ行くと、苔桃などのベリーをたくさん摘んできます。これは去年の実で、冬の間雪の下で冷凍保存されていたわけです。やはり、みんな、生まれた土地で取れる物を好んで食べるようです。
聞いてみると、1歳半の子供がいるそうです。カティルィク村まで、モーターボートで8時間以上かかります。数日後、マーシャがもう待ちくたびれた頃、21歳の夫が迎えに来ました。ハータンガ村の店でたくさん買い物をして、帰りのモーターボートの燃料も入手して、帰っていきました。 ドルガン人は、早婚で多産です。(前記のように)ドルガン人は東隣のサハ共和国のヤクート人の一派といわれています。ですから言語はテュルク語です。タイムィール自治管区は、以前は『ドルガン・ネネツ』自治管区と呼ばれていました。 (後記: カトゥルィク村はハータンガから175キロのヘタ川岸にあって、ほとんどドルガン人の人口300人。かつての越冬小屋の跡に、1936年試験的トナカイ・コルホーズができ、カトゥルィク村となった。小学校、幼稚園、産院などがある)
タイムィールには、野生のトナカイが70万頭(別の資料によると110万頭)とたくさんいるので、家畜にしないで、狩猟したほうが簡単なのだそうです。野生トナカイは、冬は南に、夏は、蚊の大群を避けて、北、または高地へ大集団で移動します。途中、川や湖沼がたくさんあるので、そこを泳いで渡ります。そのときに銃で撃つのだそうです。撃たれて流れてきたのを川下にいる仲間が受け取ります。(別の狩の方法もあります) オグドゥワさんの知り合いのノヴォリブノエ村にいるドルガン人は、始め、もとのコルホーズから50頭のトナカイをもらい受け(購入し)、さらに、ヤクーチアから70頭も買って、120頭を連れて遊牧していたのですが、この冬、半分が狼に食べられたそうです。 さらに、家畜のトナカイを、野生のトナカイがさらっていくことも多いそうです。野生のトナカイと家畜のトナカイは色が違うそうです。 後記:トナカイは北方民族にとって生活の糧。ドルガン語でトナカイはタバ таба 、野生のトナカイはクィイル кыыл と言って全く違う言葉だ。もちろん1歳未満と、2,3歳の若トナカイにも全く別の名がある。
北極圏内では、寒さを我慢するか、蚊の巨大群を我慢するか、どちらかです。暖かい日が二三日続けば、蚊の大群が発生するでしょう。寒さを我慢した方がましです。 ハータンガ区長が助力してくれてモーターボートが調達できたばかりでなく、クレスト村のさらに上流のトーチカ(『点』という意味)に両親が(夏だけ)住んでいるという、秘書課のマリアというドルガン人の感じのいい女の子も同行させてくれました。ですから、マリアは、私の案内をするために、クレスト村に出張することになり、同時に両親にも会えるわけです。 朝10時半頃、出発しました。真夜中の12時に出発しようが、いつだろうと1日中昼間なので、「暗くなるまでに帰らなくては」という問題はありません。 よく故障するモーターボートで、エンストなどした時は、海のように広いハータンガ川の上を漂いながら、運転の男性二人が長い間かけて修理するのでした。私はと言えば、ちょっと不安になって、 「難破船みたいだわ」というと、同乗の4人が笑っていました。ハータンガ川は彼らにとって、自分の家の庭のようなものなのでしょうか。
クラスノヤルスクで買っていった旅行案内書によると、この村が有名なのは、1996年タイムィール訪問中のWWF(世界野生生物基金)会長でイギリスのフィリップ殿下が、ここを訪れたそうです。村人も口々にそのことを言っていました。殿下の次の次くらいに訪れた外国人が、もしかして私かもしれません。 (後記:ハータンガから航路20キロ、ハータンガ・クレストィ間の冬道の古道もある。元々原住民との交易所があった。人口275人(2020年)で、50軒の家があり、50人の児童が学ぶ保育園兼小学校がある。コトゥイ川とヘタ川との合流点近くにあるから、クレストィ(十字架)と名付けられたのか、最初に訪れたロシア人探検家が到着して最初に、木製の十字架を立てたからなのか。
ちなみに、タイムィールの他の民族は、チュムという組み立て移動式住居で、数本の柱を円錐形に立て、それにトナカイ皮をかぶせて住んでいました。遊牧のため移動する時は解体します。住居や衣装など民族固有のものがあるわけです。 マリアの両親は私たちを迎えるとすぐ、その日の朝、網で漁獲した魚を見せ、オームリとチィル(どちらもウスリーシロサケに似たサケ属の魚)の手ごろなのを選び、古板の上に載せ、スプーンの丸くなったところですばやく鱗を剥いで、ここで唯一のタオル兼ぞうきんで手やナイフを拭ながら、あっという間に3枚におろし、古板に載せたまま、箱家の中のテーブルに置きました。 一人一人の前には小さめの古板とナイフが置かれました。一応伝統的な生活をしているドルガン人が、トーチカで皿やフォークを使ったりはしないようです。ナイフで切って、指でつまんで食べます。しかし、生の川魚は寄生虫がいるということはないでしょうか。あまり衛生的な料理の仕方ともいえませんでした(ばい菌も栄養になるか)。この珍味の刺身を目の前にためらっていると、マリアや、マリアの両親、オグドゥワさんたちは、おいしそうにぱくぱく食べています。それで、私も小さく切って、食べてみると、さすがに鮮魚はおいしいです。菌や寄生虫は胃酸が殺してくれるかもしれません。満腹しては胃酸がよく働いてくれません。おいしかったですが、少なめに食べておきました。それにツンドラは寒くて(希望的としては)有害菌や寄生虫は少ないでしょう。 このトーチカの周りのツンドラには雷鳥の巣があるらしく、何羽か飛びまわっていました。体が白く目の周りだけ赤いのや、首まで黒いのや、もう羽が生え変わって枯葉色の雷鳥などが、私たちを巣から遠ざけるためか、わざと見えるように飛んでくれました。雷鳥が止まっていたあたりを探してみましたが、巣は見つかりませんでした。 ずっと遠くに野生のトナカイの群れがいたので写真に撮ってみました(が、写っていませんでした)。そのトナカイの群がハータンガ川を渡るかと持っていたのですが、反対の方向へ消えていきました。今年は、春が遅く、子供のトナカイがまだ泳げるほど成長していないからだろうと、マリアの両親が言っていました。 また、物置用ボロックからわざわざだしてくれたマリアの祖母のドルガン衣装を、試着させてもらいました。今は亡きマリアのおばあさんも、自分が愛用していた服を、同じアジア人だがはるか遠くから来た私なんかが着ているのを見てびっくりしていることでしょう。毛皮を縫いつけ、伝統的な刺繍がしてあり、ボタンまでついています。ソ連軍の星印のや、何かの制服のボタンなどが大きさだけそろえて並んでいます。この辺では金属製ボタンは、貴重品だったのでしょう。 予定の魚釣りはしませんでした。この辺では川に網をはり、それに引っかかった魚を集めてくるだけです。網の目が太いのか、大きな魚ばかりかかります。普通は1日1回網を見回りますが、この日は私のために2回見てくれました。小さなカヌーのようなボートにトナカイの皮を敷いて座ります。一人用ですから、私は岸辺で見ていました。 たくさん捕れましたから、オクドゥワさんとマリアのママは魚の干物を作っていました。ロシア語では極北の干し魚はユコラ юкола ですがドルガン語ではディクラ дькула です。
(後記:ノヴォリブノエ村 ハータンガ村より165キロ下流(北)のハータンガ川右岸にあって人口571人(2019年)ほぼドルガン人、ヌガンサンとエヴェンキ人の家族もいる。ノヴォリブンスキィ(新漁業)ソフフォース村としてできた。かつてはトナカイ飼育業が繁栄していた。中等学校もあり、そこでドルガン語の最初の詩人オグド・アクショーノヴァが教鞭を執っていた。アクショーノヴァが生まれたのはボガヌダ Боганида 川(386キロ、ハータンガ川の左岸源流は田川の左岸支流で、水源はラバス湖)畔の村で、カトゥルィク村(マーシャの実家がある)、ジュダニハ村(ハータンガに北27キロ、小学校あり)、ノヴォルィブノエ村で教員をしていた。本名のエヴドキア Евдокия はドルガン語ではオクドゥワ、またはオグドと言うらしい.自然と民族学博物館館長のオクドゥワさん(エヴドキア・アファナーシエヴァ・アクショーノヴァ)と同じ) ちなみに、オクショーノワの『ドルガン語原文、日本語、ロシア語の3カ国対訳作品集(東京大学文学部言語学研究室発行)』という分厚い学術書を、私はドゥジンカ市文化部からもらっていました。その本には、日本語訳はヤクート語とドルガン語専門の言語研究者の藤代節による、と書いてあります。ヴァレンチ―ナさんによると、数年前、その藤代節さんという先生がノヴォリブノエ村に3週間滞在していたそうです。藤代節さんとヴァレンチ―ナのおばあさんはお互いにドルガン語で話していたそうです。 ヴァレンチーナさんは『ドルガン人』という民俗学の2巻本をくれました。オクドゥワさんさんはアクショーノヴァ編のドルガン露語、露語ドルガン語の約4000語収録の辞書をくれました。4月にエヴェンキア自治管区を旅行した時はエヴェンキ人からエヴェンキ語の辞書をもらっています。どちらの言葉も私はまだ話せません。
夜中の1時ごろ(サマータイム実施中なので)太陽は真北で一番低くなって、それからまただんだん高くなりながら、朝方に東の方に動きます。最後に見た夜中の太陽は7月2日で、夏至から10日過ぎていますから、最も低くなった時の高度は10度くらいです(90日で高度は23.5度下がる)。 私はタイムィールへ11日間の旅行をしましたが、太陽が沈んで夜になることはなかったので、つまり、『日帰り』の旅行をしたということになります。ハータンガでは夏至の日をはさんで前後42日間、合計84日間は太陽が沈んで夜になることはないので、その間の旅行は、何日行っても『日帰り』旅行です。
「旅行の目的は」と聞かれた時は、 「できるだけ北へ行ってしばらく住んでみる。北方少数民族の文化や伝統を知る。北方少数民族の人たちと知り合いになる。日本にはない北極圏の自然を味わう、たとえば、ツンドラを歩く、永久凍土に触る、ツンドラの動物や植物を見る。ハータンガで魚を釣る。夜中の太陽を見る。それから、トナカイに乗る、冷凍マンモスを見る」と答えました。最後の2つ以外は成就できたので、私は大満足です。 <HOME ホーム> <←BACK 前のページ> <ページのはじめ↑> |