クラスノヤルスク滞在記
と滞在後記
   
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up date  2006年5月20日   (追記: 08年6月21日、10年9月15日、18年12月29日、2019年11月18日、2020年9月16日、2020年10月5日、2022年3月28日)
15-(2) 北極圏のタイムィール半島、ドゥジンカ市からハータンガ村(その2)
2004年6月22日から7月3日

     Таймыр - полярные дни(с 22 июня по 3 июля 2004 года)

1) タイムィール自治管区
2) ハータンガ村博物館
  ハータンガ村を歩く(役場、病院、図書館)
  村の郊外へピクニック、現地のグルメ
  孫達と親戚の若夫婦
  トナカイ
  『もっと田舎へ行って
  少数民族の生活や文化に接する』へ出発
  はじめのもっと『田舎』
  さらに『もっと田舎』体験
  民族語女流作家のオグド・アクショーノワ
  11日間の『日帰り旅行』
  旅行の目的は 夏のツンドラ、ふわふわのトナカイ苔の上

 ハータンガ村博物館
民族衣装も着せてもらって、
博物館で時間を過ごす
 閉鎖中のマンモス博物館、
地下にあるらしい 
 オグドゥワさんは郷土博物館の館長ですが、博物館には私以外の訪問者もいないので、毎日、朝ごはんをゆっくり食べたあと、近くにある博物館の鍵を開けて二人で入りました。マンモスの牙、タイムィールの自然の資料、民族衣装や道具など、見るものはたっぷりありました。
 タイムィールには2千年前までジャコウウシが住んでいたのですが絶滅しました。が、グリーンランドとカナダのツンドラにだけには生き残っていました。それで、1974年にまずカナダのバンクス島(北緯74度)から、ハータンガ区の北、タイムィール湖東のビカーダ・ヌグオマ Бикада-Нгуома 川流域(同緯度)とウランゲリ島に10頭のジャコウウシが試験的に空輸され、次いで1975年にはタイムィールとウランゲリにさらに20頭ずつ移住させました。1978年には繁殖にも成功し、1994年には千頭を超えました。その経過のビデオが30巻もありました。
 ジャコウウシの、赤は存続していた生息地、
青は移住に成功した地方
 (後記:2015年にはタイムィールのジャコウウシは1万頭を超え、いくつかの群れは自力でプトラナ高原へ移動した。その後、タイムィールのジャコウウシはヤクーツクやマガダンに空輸され保護区などに放たれた。2015年には1万5千頭前後のジャコウウシがロシアに生息している。そのうち80%はタイムィールに、12%はヤクーチア(サハ)に、6%はウランゲリ島に、ヤマロ半島に2%、マガダン州に0.5%。そのほかノルウェー(そこから自力で)スウェーデンなどにも生息している)。2008年にサハ共和国のヴィリュイ川(レナ川左岸支流)に行ったとき、タイムィールからきたというジャコウウシを見たものだ。

 ハータンガへは、観光旅行で来たというより、できるだけ北へいってしばらく住んでみたいというのが目的ですから、郷土博物館で時間を過ごすのもいいものでした。
 でも、マンモス博物館の方は閉館でした。展示物の冷凍マンモスがいないということです。

 ハータンガ村を歩く(役場、病院、図書館
 プレゼントの児童画集にあった絵
 チュプリン・ディマ 7歳
 ジェルコフ・ロマ(パピガイ村)2年生
 ハータンガでの私の身元引受人はドルガン人のオクドゥワさんでしたから、オクドゥワさんを通じてハータンガで知り合いになったのはほとんどドルガン人でした。そうでなくとも、ハータンガにいたロシア人の多くは、夏期休暇で、クラスノヤルスクなどへ行っているので、道を歩いてもアジア風の顔つきばかりです。ただ、ハータンガ区の区長ニコライ・フォーキン Николай Фокин とハータンガ村の村長はロシア人です。オクドゥワさんに連れられて、到着の翌日、ちゃんと挨拶に行ってきました。ついでに、隣村のクレストへ行くためにモーターボートの調達も頼みました。(区役所でハータンガ区の児童の書いた画集がプレゼントされました。右写真。.ツンドラの暮らしを描いた子供らしい絵、美しいツンドラの自然を描いた絵が素晴らしい)
区長に挨拶
病院の訪問者はこんな「白衣」を着せてもらう
手術室
1956年生まれの図書館長

 私の希望で作成した旅行会社の日程表に、『もっと田舎に行って少数民族の生活や文化に触れる、魚つり』と、書いてあります。タイムィールでは各集落は、湿原と湖沼地にぽつりぽつりと散らばっていて、陸の孤島です。隣村と100キロ以上離れていることもあります。ハータンガ中流の地帯でも、隣の集落へは空路でなければ、川に沿ってボートで行くしかありませんが、燃料が高くて、個人的に調達したのでは、オグドゥワさんへの謝礼分の300ドルが飛んでしまいます。トップの区長が「努力する」といったので実現するでしょう。

 村のロシア人といえば、病院の医師はほとんどがロシア人です。滞在中、病院見学もさせてもらいました。オグドゥワさんが院長(ロシア人女医)に申し込むと、
「日本に帰って、ここの病院のことを悪く書かれたら困るのですが」とちょっと渋ったそうです。カナダ人が見学に来て、そんなことがあったそうです。でも、許可してくれたので、ロシア人外科医(本当は麻酔医)に案内されて見学しました。クラスノヤルスク医科大卒業で経験豊富な医者が、なぜ、北方僻地のハータンガ病院へ来たかというと、クラスノヤルスクの5倍の約1000ドルも給料が出るからだそうです。最近、娘さんが私大へ入って巨額な教育費がかかり、普通の医師の給料ではとても払いきれないからだそうです。
 ここは、もちろん医療設備の水準は高くはなく、緊急用手術でなければ、大きな手術はしなくて、設備のある病院へ送るそうです。ロシア人はクラスノヤルスクなどの病院に行くので、患者は現地人が多いです。アルコールを飲んだための事故も多いそうです。

 ハータンガ村で博物館や病院の他に訪問するところというと、他に図書館が興味深いです。館長はロシア人でした。私が日本人だというので、1996年2月28日付の現地新聞の『日本人冒険家』という記事のコピーをくれました。よくそんな古いものがとってあったと驚いたところ、最近の北極ツーリズムについて調べているからだそうです。
「日本人冒険家の大場満郎氏が、2度目の北極点踏破挑戦に、エニセイ湾のディクソンから北極海のスレドヌィ島(地図)に飛び、そこからスキーで出発した。去年は失敗し、凍傷で指先を切断するところだった」と書いてあります。
 タイムィール半島のディクソンやハータンガは北極圏探検ツアーの基地でもあります。例えば、ここハータンガ飛行場はツンドラの中でも地盤のよいところを選んで造られ、かなり大型の飛行機でも離着陸でき、さらに、北極海用飛行機やヘリコプターもあり、専門のパイロットもいるそうです。ここでヘリコプターなどを調達し、北緯80度のセーヴェルナヤ・ゼムリャー諸島のスレドヌィ島の氷上基地に行き、そこからヘリコプターか、スキーで北極点に向かうのだそうです。1991年以降、かなりのツーリスト・グループがハータンガ経由で極へ出発したが、最近は、客をスピッツベルゲン諸島にとられて、ここ2年間は、誰も来ていないと言っていました。ハータンガから北極点まで1956キロあるそうです。(1956年に館長が生まれたからよく覚えているそうだ)

 村の郊外へピクニック。現地のグルメ
レーダーのそばまで行けないこともない
 
 郊外の疎林へピクニック
トナカイ肉のバーベキュー、オグドゥワさんの孫と
 ある日、ハータンガ村郊外へ行けるところまで車で行き、そこでピクニックをしたりしました。しかし、郊外はどの方角へ行っても軍事基地(跡)ばかりがあるのでした。巨大な縞模様のレーダーが数台放置されたまま、朽ちないでそびえています。赤く錆びた石油缶が延々と並んでいます。なかなか見ごたえのある廃墟です。骨だけになっている何かの設備跡があります。雪が融けたので、ごみが目立ちます。
 しかし、そうした景色はここに住んでいる人たちにはありふれたもので、私たちオグドゥワさんや友達のドルガン人グループは、白い珊瑚のようなトナカイゴケのふわふわ生えた夏のツンドラを沈みながら歩き、バグ―リニク(ツツジ科)の匂いをかぎ、トナカイ肉の串刺しを焼いて食べました。
 タイムィールの地元民族はトナカイの毛皮を着て、トナカイ皮のブーツを履き、トナカイの喉のところにある長い毛を撚って糸にして皮を縫い合わせ、トナカイの皮で移動式住宅の屋根を覆い、トナカイの引くそりで年中移動し(夏の湿原もトナカイぞりなら移動できる)、トナカイの肉を食べていました。他には、夏にやってくる渡り鳥のガンやカモ、年中タイムィールに生息している雷鳥を撃って食べていました。今でも、このあたりの村の少数民族の人たちは、そうした自給自足に近い生活をしています。 私がホームスティしている間、牛肉や豚肉や鶏肉は一度も出ませんでした。トナカイ肉の他は、ハータンガ川で取れる生か塩漬けか燻製か干物のチィルやオームリ(サケ科)などの魚です。トナカイのタンは珍味で、脂肪分が多く柔らかいです。
 
オクドゥワさんが食用のガンを持つ
 手に持っている鳥をこれから料理する
テーブルにはマーシャ
 オグドゥワさんの台所で、雷鳥の料理
 雷鳥の胃の中身、
今回は残念ながら普通の小石のみ
 また、この辺では雷鳥(北極雷鳥またはアルプス雷鳥、日本では特別記念物かもしれない)は年中見かける鳥で、食用です。北極フクロウも渡りをせず、年中見かける鳥ですが(私は見なかった)、食用だとは聞きませんでした。渡り鳥のガン・カモ類は、普通は食用です。
 ところで、雷鳥は(罰があたるかもしれませんが)食べてみると、チキンと似た味ですが少し固めです。羽をむしってスープにする前に胃の中身をお皿に出しました。ツンドラの草や小さな石ころが出てきました。オグドゥワさんによると、雷鳥の胃の中からかなり高価な石が出てくることもあるそうです。
 他の食べ物は、全部空輸されたものです。野菜や果物は、質が悪い上、目の玉が飛び出るくらい高いです。ドゥジンカでも、そうでした。牛乳がクラスノヤルスクの6倍もしたのです。でも、ハータンガではそもそも牛乳は売ってもいませんでした。トナカイの乳が利用できそうですが、ドルガン人に聞いたところ
「飲まない、飲まない。とても濃いのが、ちょっとしか出ないからね」と言っていました。
 トナカイの関節の軟骨が、赤ちゃんのおしゃぶりになります。

 また、北方民族は、もともと穀物や野菜は食べない民族です。私のために、オートミールや米などを作ってくれましたが、オグドゥワさんの孫たちは食べたがりません。みんなでツンドラへ行くと、苔桃などのベリーをたくさん摘んできます。これは去年の実で、冬の間雪の下で冷凍保存されていたわけです。やはり、みんな、生まれた土地で取れる物を好んで食べるようです。

 孫たちと親戚の若夫婦
 オクドゥワさんの孫たちは両親のいるノリリスクから、夏休みに田舎で暮らすために来ています。オグドゥワさんが孫にドルガン語で話すと、孫はそれを聞いて、ロシア語で答えます。
 オクドゥワさんの2人の孫、ハータンガ川
マーシャと、1日がかりで迎えに来た彼女の夫
 家には、はじめの間、孫達の他に、私と同じ飛行機でドゥジンカから来た親戚のマーシャという18歳の女の子も同居していました。マーシャはドゥジンカの教育短大で学んでいるのですが、夏休みで帰ってきているのです。マーシャの家は、ハータンガの上流のヘタ川を更に上ったところのカトゥルィク村 Катырык にあります。そこまで行く交通手段がないので、ひとまず、ハータンガの親戚のオクドゥワさんの家で、迎えのモーターボートが来るまで待っているわけです。
 聞いてみると、1歳半の子供がいるそうです。カティルィク村まで、モーターボートで8時間以上かかります。数日後、マーシャがもう待ちくたびれた頃、21歳の夫が迎えに来ました。ハータンガ村の店でたくさん買い物をして、帰りのモーターボートの燃料も入手して、帰っていきました。
 ドルガン人は、早婚で多産です。(前記のように)ドルガン人は東隣のサハ共和国のヤクート人の一派といわれています。ですから言語はテュルク語です。タイムィール自治管区は、以前は『ドルガン・ネネツ』自治管区と呼ばれていました。
 (後記: カトゥルィク村はハータンガから175キロのヘタ川岸にあって、ほとんどドルガン人の人口300人。かつての越冬小屋の跡に、1936年試験的トナカイ・コルホーズができ、カトゥルィク村となった。小学校、幼稚園、産院などがある)

 トナカイ
 ハータンガで家畜のトナカイは見ませんでした。今はずっと北にあるハータンガ川下流のノヴォリブノエ村センダスコ村カシストィ村のほかはトナカイ遊牧をやっていません。ですから、ハータンガ村にはトナカイは一匹もいません。 ソ連時代は、村々に、トナカイ遊牧コルホーズやソホーズがあり、生産物は国に買い上げてもらっていたそうです。ソ連崩壊後ソホーズなどがつぶれ、ハータンガ川上流の村々のドルガン人は、遊牧を止めて、野生トナカイなどの狩猟と漁労を生業にしているそうです。
 タイムィールには、野生のトナカイが70万頭(別の資料によると110万頭)とたくさんいるので、家畜にしないで、狩猟したほうが簡単なのだそうです。野生トナカイは、冬は南に、夏は、蚊の大群を避けて、北、または高地へ大集団で移動します。途中、川や湖沼がたくさんあるので、そこを泳いで渡ります。そのときに銃で撃つのだそうです。撃たれて流れてきたのを川下にいる仲間が受け取ります。(別の狩の方法もあります)
 オグドゥワさんの知り合いのノヴォリブノエ村にいるドルガン人は、始め、もとのコルホーズから50頭のトナカイをもらい受け(購入し)、さらに、ヤクーチアから70頭も買って、120頭を連れて遊牧していたのですが、この冬、半分が狼に食べられたそうです。
 さらに、家畜のトナカイを、野生のトナカイがさらっていくことも多いそうです。野生のトナカイと家畜のトナカイは色が違うそうです。

  後記:トナカイは北方民族にとって生活の糧。ドルガン語でトナカイはタバ таба 、野生のトナカイはクィイル кыыл と言って全く違う言葉だ。もちろん1歳未満と、2,3歳の若トナカイにも全く別の名がある。
『もっと田舎へ行って少数民族の生活や文化に接する、魚釣り』へ出発
ハータンガ川の上は寒い
たびたび、中洲につけて修理する
クレストィ村の住民と(茶髪の)私
村の学校
 
 クレストィ村マリアの親戚の家
 
マリアの両親の夏場の根拠地に建つボロック 
 ボロックの中は今は毛皮製品が。
その一つ、マリアの祖母の毛皮を試着
 
遠くの野生のトナカイの群れを撮った(つもり) 
 
捕れたばかりという手ごろなのを選ぶ 
 
スプーンで鱗をそぎ、あっという間に捌く 
 
さあ、どうぞ、召し上がれ、と言われるが 
 
下記『アクショーノヴァ詩集』にあった挿絵 
 
 隣はマリアの父
 
仕掛けた網を見に行く 
 
大きいのばかりが捕れる 
 
魚の干物をつくる 
ヴァレンチーナさん宅 
 私の滞在中、ハータンガ村はほぼ毎日、プラス5度という普通の気温でした。モーターボートに乗ってハータンガ川の少し上流、クレスト村へ『もっと田舎に行って少数民族の生活や文化に触れる体験、魚つり』をしに行った日も、5度でしたが、よく晴れて気持ちのよい日でした。
 北極圏内では、寒さを我慢するか、蚊の巨大群を我慢するか、どちらかです。暖かい日が二三日続けば、蚊の大群が発生するでしょう。寒さを我慢した方がましです。
 ハータンガ区長が助力してくれてモーターボートが調達できたばかりでなく、クレスト村のさらに上流のトーチカ(『点』という意味)に両親が(夏だけ)住んでいるという、秘書課のマリアというドルガン人の感じのいい女の子も同行させてくれました。ですから、マリアは、私の案内をするために、クレスト村に出張することになり、同時に両親にも会えるわけです。

 朝10時半頃、出発しました。真夜中の12時に出発しようが、いつだろうと1日中昼間なので、「暗くなるまでに帰らなくては」という問題はありません。
 よく故障するモーターボートで、エンストなどした時は、海のように広いハータンガ川の上を漂いながら、運転の男性二人が長い間かけて修理するのでした。私はと言えば、ちょっと不安になって、
「難破船みたいだわ」というと、同乗の4人が笑っていました。ハータンガ川は彼らにとって、自分の家の庭のようなものなのでしょうか。

 始めの『もっと田舎』
 作品をプレゼントして
くれた村の学校の女の子
 まず、クレストィ Кресты 村に上陸しました。ここにはマリアの両親は冬場だけ住みます。マリアの親戚の家や、学校、村役場など見せてもらいました。そのうち、村人が私の周りに集まってきたので、写真を撮らせてもらいました。私も入っていっしょに撮ってもらいました。後で写真を見てみると、私は村人と外観は同じで、「ドルガン人です」といってもいいくらいです。ちなみに、ドルガン人の幼児にも蒙古斑があるそうです。
 
 クラスノヤルスクで買っていった旅行案内書によると、この村が有名なのは、1996年タイムィール訪問中のWWF(世界野生生物基金)会長でイギリスのフィリップ殿下が、ここを訪れたそうです。村人も口々にそのことを言っていました。殿下の次の次くらいに訪れた外国人が、もしかして私かもしれません。
(後記:ハータンガから航路20キロ、ハータンガ・クレストィ間の冬道の古道もある。元々原住民との交易所があった。人口275人(2020年)で、50軒の家があり、50人の児童が学ぶ保育園兼小学校がある。コトゥイ川とヘタ川との合流点近くにあるから、クレストィ(十字架)と名付けられたのか、最初に訪れたロシア人探検家が到着して最初に、木製の十字架を立てたからなのか。

 さらに『もっと田舎』体験
 クレスト村からさらに上流に行ったところが、マリアの両親のいるトーチカ(点)です。ここで、トーチカというのはその家族が先祖代々から持っている猟場、漁場の根拠地だそうです。以前は、ボロックという、木の四角い枠組みにトナカイの皮を何枚も並べてかぶせて、そのままそりに乗せてトナカイに引かせるという、移動式箱家に住んでいたのですが、今は定住の箱家に住んでいます。
 ちなみに、タイムィールの他の民族は、チュムという組み立て移動式住居で、数本の柱を円錐形に立て、それにトナカイ皮をかぶせて住んでいました。遊牧のため移動する時は解体します。住居や衣装など民族固有のものがあるわけです。

 マリアの両親は私たちを迎えるとすぐ、その日の朝、網で漁獲した魚を見せ、オームリとチィル(どちらもウスリーシロサケに似たサケ属の魚)の手ごろなのを選び、古板の上に載せ、スプーンの丸くなったところですばやく鱗を剥いで、ここで唯一のタオル兼ぞうきんで手やナイフを拭ながら、あっという間に3枚におろし、古板に載せたまま、箱家の中のテーブルに置きました。
 一人一人の前には小さめの古板とナイフが置かれました。一応伝統的な生活をしているドルガン人が、トーチカで皿やフォークを使ったりはしないようです。ナイフで切って、指でつまんで食べます。しかし、生の川魚は寄生虫がいるということはないでしょうか。あまり衛生的な料理の仕方ともいえませんでした(ばい菌も栄養になるか)。この珍味の刺身を目の前にためらっていると、マリアや、マリアの両親、オグドゥワさんたちは、おいしそうにぱくぱく食べています。それで、私も小さく切って、食べてみると、さすがに鮮魚はおいしいです。菌や寄生虫は胃酸が殺してくれるかもしれません。満腹しては胃酸がよく働いてくれません。おいしかったですが、少なめに食べておきました。それにツンドラは寒くて(希望的としては)有害菌や寄生虫は少ないでしょう。

 このトーチカの周りのツンドラには雷鳥の巣があるらしく、何羽か飛びまわっていました。体が白く目の周りだけ赤いのや、首まで黒いのや、もう羽が生え変わって枯葉色の雷鳥などが、私たちを巣から遠ざけるためか、わざと見えるように飛んでくれました。雷鳥が止まっていたあたりを探してみましたが、巣は見つかりませんでした。
 ずっと遠くに野生のトナカイの群れがいたので写真に撮ってみました(が、写っていませんでした)。そのトナカイの群がハータンガ川を渡るかと持っていたのですが、反対の方向へ消えていきました。今年は、春が遅く、子供のトナカイがまだ泳げるほど成長していないからだろうと、マリアの両親が言っていました。

 また、物置用ボロックからわざわざだしてくれたマリアの祖母のドルガン衣装を、試着させてもらいました。今は亡きマリアのおばあさんも、自分が愛用していた服を、同じアジア人だがはるか遠くから来た私なんかが着ているのを見てびっくりしていることでしょう。毛皮を縫いつけ、伝統的な刺繍がしてあり、ボタンまでついています。ソ連軍の星印のや、何かの制服のボタンなどが大きさだけそろえて並んでいます。この辺では金属製ボタンは、貴重品だったのでしょう。

 予定の魚釣りはしませんでした。この辺では川に網をはり、それに引っかかった魚を集めてくるだけです。網の目が太いのか、大きな魚ばかりかかります。普通は1日1回網を見回りますが、この日は私のために2回見てくれました。小さなカヌーのようなボートにトナカイの皮を敷いて座ります。一人用ですから、私は岸辺で見ていました。
 たくさん捕れましたから、オクドゥワさんとマリアのママは魚の干物を作っていました。ロシア語では極北の干し魚はユコラ юкола ですがドルガン語ではディクラ дькула です。

民族語女流作家のオグド・アクショーノワ
 最後の日、ハータンガ区教育委員長のドルガン人女性のヴァレンチ―ナさんの家に行きました。区役所の要職の大部分はロシア人が閉めていますが、ヴァレンチ―ナさんはドルガン人の中では最も指導的な地位にいるそうです。オグドゥワさんより立派なマンションに住んでいました。ヴァレンチ―ナさんはノヴォリブノエ村出身で、同じ出身地の親戚の女性を養女にしていました。ノヴォリブノエ村と言えば、ドルガン人の最初の文学者で、民族語の作品を始めて文字化した女流詩人のオグド・アクショーノワ Огдо (本名 Евдокия) Егоровна Аксёнова(1936−1995)がいます。アクショーノヴァがロシア文字にドルガン語特有の文字を加え、ドルガン語で書いた作品の表記法が基礎となって、ドルガン語の正書法ができあがりました。ドルガン語の書き言葉にした詩集を始めて世に出したのがアクショーノフです。ドルガン語の辞書も編集したアクショーノワはノヴォリブノエ村で教師をしていました。今、そこに妹が住んでいます。
 アクショーノヴァ
(ウィキより)
 1991年 タイムィール
 藤代節の撮影

 (後記ノヴォリブノエ村 ハータンガ村より165キロ下流(北)のハータンガ川右岸にあって人口571人(2019年)ほぼドルガン人、ヌガンサンとエヴェンキ人の家族もいる。ノヴォリブンスキィ(新漁業)ソフフォース村としてできた。かつてはトナカイ飼育業が繁栄していた。中等学校もあり、そこでドルガン語の最初の詩人オグド・アクショーノヴァが教鞭を執っていた。アクショーノヴァが生まれたのはボガヌダ Боганида 川(386キロ、ハータンガ川の左岸源流は田川の左岸支流で、水源はラバス湖)畔の村で、カトゥルィク村(マーシャの実家がある)、ジュダニハ村(ハータンガに北27キロ、小学校あり)、ノヴォルィブノエ村で教員をしていた。本名のエヴドキア Евдокия はドルガン語ではオクドゥワ、またはオグドと言うらしい.自然と民族学博物館館長のオクドゥワさん(エヴドキア・アファナーシエヴァ・アクショーノヴァ)と同じ)

 ちなみに、オクショーノワの『ドルガン語原文、日本語、ロシア語の3カ国対訳作品集(東京大学文学部言語学研究室発行)』という分厚い学術書を、私はドゥジンカ市文化部からもらっていました。その本には、日本語訳はヤクート語とドルガン語専門の言語研究者の藤代節による、と書いてあります。ヴァレンチ―ナさんによると、数年前、その藤代節さんという先生がノヴォリブノエ村に3週間滞在していたそうです。藤代節さんとヴァレンチ―ナのおばあさんはお互いにドルガン語で話していたそうです。
 ヴァレンチーナさんは『ドルガン人』という民俗学の2巻本をくれました。オクドゥワさんさんはアクショーノヴァ編のドルガン露語、露語ドルガン語の約4000語収録の辞書をくれました。4月にエヴェンキア自治管区を旅行した時はエヴェンキ人からエヴェンキ語の辞書をもらっています。どちらの言葉も私はまだ話せません。

 11日間の『日帰り旅行』
 北緯72度のハータンガ市では、6月22日の夏至の日の南中高度は41.5度(90−72+23.5)です。最も低くなる夜中の太陽の高度は、私の計算では12.5度(90−18×2−41.5)です。台所の窓からハータンガ川がよく見えたので、いつも家中が寝静まった後、何時間も台所のテーブルに座り、広いハータンガ川の上を西から東へ、北の青空の中を動いていく太陽の番をしながら『タイムィールの諸民族』というような本を読んだり、北極地方詳細地図帳のページを繰ったりして過ごしていました。12時、1時、2時といつまでも西日(というより北日)が差し込み、明かりをつける必要はありません。こんなに明るいのに通りには誰もいません。起きているのは私と台所のゴキブリぐらいです。
オグドゥワさんのアパートの台所の窓から
毎夜見ていたハータンガ川、深夜1時

 夜中の1時ごろ(サマータイム実施中なので)太陽は真北で一番低くなって、それからまただんだん高くなりながら、朝方に東の方に動きます。最後に見た夜中の太陽は7月2日で、夏至から10日過ぎていますから、最も低くなった時の高度は10度くらいです(90日で高度は23.5度下がる)。

 私はタイムィールへ11日間の旅行をしましたが、太陽が沈んで夜になることはなかったので、つまり、『日帰り』の旅行をしたということになります。ハータンガでは夏至の日をはさんで前後42日間、合計84日間は太陽が沈んで夜になることはないので、その間の旅行は、何日行っても『日帰り』旅行です。
 11月10日から2月1日までは太陽が昇らない北極夜が続くので、夜が明けないことになります。つまり、ハータンガは1年がたった200日間くらいしかありません。地球外の惑星に行ったような気になれます。

 旅行の目的は
 郷土史博物館で地元テレビのインタビュー
 今回は観光旅行というより、田舎のおばあさんの家でしばらく過ごしてきたという感じでした。滞在中、地元テレビ局からのインタビューで、
「旅行の目的は」と聞かれた時は、
「できるだけ北へ行ってしばらく住んでみる。北方少数民族の文化や伝統を知る。北方少数民族の人たちと知り合いになる。日本にはない北極圏の自然を味わう、たとえば、ツンドラを歩く、永久凍土に触る、ツンドラの動物や植物を見る。ハータンガで魚を釣る。夜中の太陽を見る。それから、トナカイに乗る、冷凍マンモスを見る」と答えました。最後の2つ以外は成就できたので、私は大満足です。

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