クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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up date  2006年5月20日   (追記: 2008年6月21日、2011年1月16日、2018年12月29日、2019年11月18日、2020年10月5日、2022年3月28日)
15-(1) 北極圏のタイムィール半島、ドゥジンカ市からハータンガ村(1)
      2004年6月22日から7月3日
 Таймыр - полярные дни(с 22 июня по 3 июля 2004 года)
1) 2)ハータンガ村博物館  
  タイムィール自治管区  ハータンガ村を歩く
  ノリリスク空港到着  村の郊外
  世界で最北の自動車道と鉄道  孫たちと親戚の若夫婦
  ドゥジンカ市でのホームスティ  トナカイ
  ドゥジンカ港  『もっと田舎へ』
  凍土地帯の建築の不経済さ(と思う)  はじめの『もっと田舎』
  ツンドラ体験  さらに『もっと田舎』
  エレガントな公害都市  民族語女流作家
  ハータンガ区  11日間の『日帰り』旅行
  追記:タイムィール特別区  旅行の目的  ドゥジンカ市エニセイ川岸の氷

タイムィール(タイミール)自治管区について。どうしたらそこに行けるか
 もう8(10)年間も私が住むクラスノヤルスク地方の北部に、エヴェンキヤ自治管区という自治体があります。さらに北にタイムィール(ドルガノ・ネネツ)自治管区があり、その先は北極です。

 (後記: ロシアの地方行政区画は度々改変される 2007年、自治体の再編成で両自治管区はクラスノヤルスク地方に統合され、タイムィール自治管区はタイムィール(特別)区、エヴェンキア自治管区はエヴェンキア(特別)区となった。統合まではロシア連邦の構成主体の一つだった。現在のロシア連邦の85の構成主体には22の『共和国』、9の『地方』、3の(連邦)市、46の『州』、1の『自治州』、4の『自治管区』がある。

タイムィール自治管区全体が北極圏内にある
 タイムィール自治管区(以下旧称で)は面積が日本の2倍半ほどあり、人口は4万人あまりです(2004年) 。地図で見ると、ユーラシア大陸の最も北にあり、半島の北端チェリュスキン岬は北緯77度43分で、スカンジナビア半島や北米大陸の北端より緯度が高いです。そもそも、タイムィール自治管区全体が、北緯66度33分以上の北極圏内にあるのです。つまり、夏至の頃は太陽が沈まず、冬至の頃は太陽が上らないという(中緯度の日本に住む和足から見れば)不思議の国です。いつか、できるだけ北へ行って、夏至のころの夜中の太陽でも見ながら何日か過ごしたいものだと夢見ていました。でも、タイムィールは観光地ではないどころか、ロシア連邦保安部(旧KGB)?や国境警備隊の許可がないと近づけません。北極に向かう北の国境なので、多くの軍事基地が作られ国境警備隊が警備しています(北極海の向こう岸は北米大陸で冷戦時代は緊張したらしい)。さらに、半島にはロシア経済にとって重要なノリリスク・ニッケル銅鉱山があるため、ソ連時代から住民と関係者以外は出入りできないことになっています。
 ちなみに、人口20万余の鉱業都市ノリリスクは世界で最も北にある(北緯69度)都市で、タイムィールにあるのに、タイムィール自治管区(自治体)に属していなくてクラスノヤルスク地方(自治体)に直属しています。クラスノヤルスク地方では人口88万のクラスノヤルスク市が一番大きいのですが(2004年当時)、ノリリスク市が2番目です。
後記:クラスノヤルスク地方内の人口2020年統計ではクラスノヤルスク市が109万人、ノリリスク市が18万人、ノリリスクはピークは2006年21万人だった。一時人口減少したが、2012年から持ち直している。3位アーチンスク市11万人。4位カンスク市9万人。5位ジェレズノゴルスク市(原子力関係閉鎖都市)8万人。6位ミヌシンスク市6万7千人。7位ゼレノゴルスク市(原子力関係閉鎖都市)6万千人。ドゥジンカ市は2万人で13位。
 でも、最近は、外国からマンモスの研究者や、北極圏の動植物や人類学の研究者たちが訪れているだけでなく、北極点へ行くためのヘリコプターをタイムィールからチャーターする外国人旅行者もいるようです。私のような普通の旅行者も行けそうですが、やはり、担当機関の許可手続きが必要です。ロシア人でもタイムィール方面行きの飛行機のチケットは許可なしでは売ってもらえないのですから。
 旅行会社が手続きを代行してくれるかもしれません。そこで、クラスノヤルスクのいくつかの旅行社にあたってみましたが、「タイムィールは扱っていない。どうしてそんなところに行くのですか。黒海の保養地や地中海など他にいいところがいっぱいありますよ」と言われてしまいました。でも、旅行会社はたくさんあります。
 クラスノヤルスク地方をほぼまっすぐ南から北へ流れて、タイムィール自治管区内も通り、北極海に注ぐエニセイ川のクルーズは、外国人船客も受け入れています(そのクルーズは北緯69度のドゥジンカ市までしか行かない。私も一昨年クルーズして、エキゾチックな北極圏の夏が好きになった)。そのクルーズを企画している『エニセイ旅行会社』がそうした個人旅行の手続きができるかもしれません。
 冬休みの冬至の前、「北極圏の夜とオーロラを見に行きたいのですが」と、その旅行会社にあたってみました。地図で見ると、ドゥジンカやノリリスクよりもっと北の、タイムィール半島の東側のラプテフ海(北極海の一部)に注ぐハータンガ川の右岸にハータンガ村(北緯72度)があります。それより北にも小さな村がありますが、定期便の飛行機は飛んでいないようです。ですから、その最北のハータンガへ行きたいと言いました。でも、その旅行会社でも、「冬場は観光できるようなところはなく、外国人ツーリストを受け入れる機関も探せないから、個人旅行は超困難だ」と言われました。飛行機も冬は飛んだり飛ばなかったりかも知れません。
 それでは、夏至の頃の旅行ならどうだろうかと、半年後、また、同じ旅行会社を訪れてみました。「可能だ」ということです。訪問地をドゥジンカ、ノリリスク、ハータンガにしてもらって、フライトのダイヤを見て日程を組んでもらいました。
 ここで難しいのは、ドゥジンカにもノリリスクにもハータンガにも旅行会社はないので、私を個人的に受け入れる機関を捜さなければならない、と言うことらしいです。『エニセイ旅行会社』はドゥジンカの市役所に電話して、市の文化委員会青少年ツーリズム・センター所長に、私の受け入れ責任者になるよう頼んでくれました。ハータンガ村は、郷土博物館館長が、私の受け入れ責任者になることを引き受けました。つまり、この自治体の職員の人たちが、私の保証人となってくれたわけです。
 こうして保証人を立て、ロシア連邦保安部に申請をしてくれました。そして、出発の前日にファックスで『認可する』という印鑑の押された私の旅行日程表が送り返されてきて、やっと私の夢は実現できました。ただ、旅行会社に支払った金額は安くなかったです。クラスノヤルスクからノリリスク空港(そこからドゥジンカまでは、車で往復できる)までと、ノリリスクからハータンガまで、ハータンガからクラスノヤルスクまでの3種類の飛行機のチケット代が、全部で約500ドル、ドゥジンカの3日間(ノリリスクも含めて)の滞在費と食費、観光費(車代を含む)が300ドル、ハータンガ村8日間も300ドル、旅行会社の手数料も300ドル、合計で1400ドルでした。

 300ドルの手数料を受け取った旅行会社の人も、このファックスで送られてきた書類で、本当に、私がクラスノヤルスクからノリリスク行きの飛行機への搭乗が許可されるものかどうか、心配だったらしく、6月22日朝早い出発だったのですが、見送りに来てくれ、搭乗手続きもやってくれました。と言うことは、ちょっとまだ問題があったようです。

ノリリスク(アルィケリ)空港到着
 クラスノヤルスクからノリリスク空港までは約1500キロの距離があり、小型ですが地方便にしては上等な飛行機で2時間ほどです。
 着陸すると、内務省職員が機内に入ってきて乗客一人一人のパスポートを調べ、問題がない乗客はタラップを降りていきます。私はもちろん問題ありで、誰もいなくなった飛行機の座席に一人座ったままです。やがて、内務省の車に乗せられて、空港の一室に連れて行かれ、もう一度書類が調べられて、やっと放免されました。(旅行会社の人は書類をたっぷり私に持たせてくれましたから)。

 ドゥジンカでの私の保証人が、この空港まで迎えにきてくれているはずです。普通の乗客とは違う出口から出たので、私を見つけられないようでしたが、私の方から見つけました。ドゥジンカ市とノリリスク市は85キロほど離れていて、ノリリスク空港はその中間にあります。

 世界で最北の自動車道と鉄道
 『内地』(と、現地の人たちはタイムィール半島南のロシアのことを呼んでいる)からノリリスクへ入るには、ノリリスクリ・アルィケリ空港への航空便かドゥジンカ港への船便のみです。ドゥジンカ港からはノリリスク鉱山のニッケルや銅を積出し、ノリリスク鉱山会社や住民の必要物資を受け入れます。港からノリリスク市までの85キロは陸送しなければなりませんが、陸送というのがツンドラ地帯では簡単ではありません。凍土帯のため地盤が不安定なので、舗装道路が沈んだり浮いたりしないように、下に数メートルの厚さに砂利が敷いてあります。それでも道路がでこぼこしてスピードは全く出せません。道路と平行に走っている鉄道の方は、年に何度も修理しなければなりません。危険なので、今は貨物しか運んでいないそうです。以前は乗客も運んでいたのですが、85キロを走るのにまる1日もかかったそうです。このドゥジンカから(アルィケリ空港経由)ノリリスクまでの85キロが、世界で最北にある自動車道と鉄道です。 
ツンドラを走る自動車道
 
 現在の無人のアルィケリ町
 タイムィール自治管区には、この他に自動車道路はありません。夏のツンドラと言うのは、地表近くの氷が少し融けるのですが、その水分は、気温が低いのであまり蒸発しなくて、地下は氷なので地面にしみ込みもしないで溜まっています。つまり、一面の湿原と湖沼地になります。冬はまた一面の氷原で、普通でも零下40度50度と気温が下がりますから、ツンドラとは人の住める所ではないのです(原住民のほかは)。少なくとも、大きな町や道路を作って住むようなところではないです。でも、そんなところに、スターリン時代、鉱山を開いて、工場を築き、鉱山労働者たちの町や鉱物輸送のための港町を作り、鉱山と港を結ぶ道路や鉄道を敷き、ソ連経済発展に(むりやり)貢献させました。それらを作ったのは、無料の囚人労働力です。ですから、この辺のものはみんな『囚人の白骨の上に立っている』わけです。

 空港まで出迎えてくれた保証人のルービナさん(ロシア人)と一緒に車でドゥジンカへ向かいました。車の窓から見える景色がツンドラです。途中そのツンドラに縞模様のレーダーが4基、高くそびえています。冷戦時代は緊張していたでしょうが、今はなんだか寂れた感じです。空港からほど近い、ツンドラの中の道路わきに、数軒の高層アパート(9階建て)が立ち並び暖房設備のパイプが通っている小さな町が見えました。遠くから見るとなかなか近代的な町ですが、ここアルィケリ Алыкель 町は今は一人も住んでいません。近づくと廃墟なのがわかります。航空関係者(つまり空軍とその家族)が住んでいたそうです。
後記: ノリリスク空港 はまたアルィケリ Алыкель 空港ともいう。アルィケリと言う地名はその空港名の他に、アルィケリ湖(沼)と飛行中隊駐屯地だったアルィケリ町がある。ノリリスク市の西の端から35キロにあるアルィケリ町は飛行中隊の撤退の後ゴースト・タウンになっている。かつては航空関係者が家族と住んでいたため、陸の孤島の町らしく、自分たちの商店や娯楽設備などが整い駅もあった。アルィケリというのはドルガン語の『沼平野』の意。
 ドゥジンカ市でのホームスティ
 
 建物の壁に大きく描かれた北極圏の太陽を
背にした船舶と『ドゥジンカ-市、港、運命』
ズガナサーン語で「光」さんと娘さん
 知り合いになったエネツ人、ネネツ人、
ドルガン人の言語学者たち
 
 毛皮工房
 
ドゥジンカ河川駅 
 
ドウジンカ港の高台 
 
夏至の頃のエニセイ川岸(ドゥジンカ市で) 
 
ツンドラに詳しいニコライ先生 
 
 夏のツンドラ、通行可能地 
 
 永久凍土の氷の頭
 
ノリリスクの町、スモッグの晴れ間 
『ノリリスク・ニッケル』と会社のロゴ
(の下半分) 
ノリリスク(アルィケリ)空港から飛び立つ
 7月22日から3日間は、ドゥジンカ市に住む先住北方少数民族のひとつズガナサーン人(ガナサン人、нганасаны)の家庭にホームスティし、そこのディザールさん(ズガナサーン語で光と言う意味)と言う女性から、ズガナサーン人の伝統や習慣、祖先の事を教えてもらったり、ディザールさん執筆のズガナサーン語の初等読本を見せてもらったり、ディザールさんしか持っていないという古い時代の白黒ビデオ・フィルムを見せてもらったりしていました。ズガナサーン人の祖先は数千年前からこの地に住んでいた最も古い、最も北方の民族だと、ディザールさんが強調していました。その後、南から移動してきたツングース人(と彼女が言った、今ではエヴェンキ人という、単数はエヴェンク、彼らが住む土地をエヴェンキアという)やサモイェード(サモディツと今ではいう)人と交流して、今のズガナサーン人ができ、タイムィール半島中部で広く野生トナカイの狩猟をして暮らしてきました。17世紀、ロシア人が来るようになると、伝染病の抵抗力のなかったズガナサーン人に天然痘などが広まったりして人口が減っていき、今では800人くらいしかいません。それも、両親のどちらかが非ズガナサーン人だったりします。ディザールさん自身父親はロシア人で、夫もロシア人です。超少数民族のズガナサーン人はもうお互いが近い親戚のようなものなので、結婚しない方がいいそうです。
 エネツ人、ネネツ人、ドルガン人の人たちとは、ルービナさんのセンターでお茶会を開いてもらって知り合いました。私の会った少数民族の人たちはみんな年配の教育のある女性で、レニングラード民族大学やクラスノヤルスク教育大学出身者だったりして、民族語の辞書編集者でもあるそうです。少数民族の男性たちの方は、あまり教育を受けたがらないとか。
(タイムィールの少数民族についてはページ下の後記を)。

 ドゥジンカ港
 クラスノヤルスク市からエニセイ川に沿って下流へ2000キロほど行ったところにあるのがドゥジンカ港で、さらに、200キロほど北へ下ると、エニセイ湾へ出ます。エニセイ湾は、北極海の一部のカラ海に面しています。ですから、ドゥジンカ港はエニセイ川を通じてクラスノヤルスク市と結ばれ、北極海を通じてバレンツ海のムルマンスクや白海のアルハンゲリスクと結ばれるというシベリア北部の重要な港なので、冬でも営業をしています。
 大企業ノリリスク鉱山会社が港と船舶運行関係のすべてを経営しています。冬は、ムルマンスクから原子力砕氷船がやってきますが、『北洋航路号』などの原子力砕氷船は、世界中どの港からも寄港を断られているので、ロシアの国内輸送だけしているのだと、ルービナさんが言っていました。氷が張っていない今は、エニセイ川をさかのぼる河川艇、エニセイ川を下って北極海へ出る外洋船などの数隻が停泊しています。ドゥジンカ港は、毎年春先(つまり5月後半から6月)の増水期には埠頭が水に浸かるので、クレーンなどの港湾施設は高台に上げておきます。多いときでは水位は20メートル以上も上がるそうです。私の訪れた6月後半は、まだ春なので、クレーンは高台にあり、埠頭の半分は水に浸かっていました。
 ほんの1週間前にやっと緑の芽が出てきたそうです。北極圏の夏は短いので、植物たちは急いで芽を出し、急いで花をつけ、実を結び、枯れなければなりません。
「10日間もここにいると周りの景色ががらりと変わりますよ」と言われましたが、私はドゥジンカには3日間しかいなくて、春らしくなる前に、もっと北のハータンガへ行きました。そこではまだ春先でした。

凍土帯での建築の不経済さ(と、思う)
 タイムィール半島(自治管区も)の土地は凍土なので住宅建築は超困難です。昔の北方少数民族は、円錐形の組み立て移動式の住居チュムなどで暮らし、定住はしていませんでした。冬季だけ小さな集落で暮らしていました。でも、ドゥジンカは近代的自治体の行政中心地ですから、5階建てや6階建てのアパートが幾つも建っています。どの家も、下駄を履いたように、地面から2メートルも突き出た杭の上に建っています。普通の土台で建てると、夏に家の下の凍土の表面が融けた時地面が下がり家が傾き、冬凍りついた時地面が上がりさらに家が傾きます。凍土の中深くまで(岩盤までか)杭を何本も打ち込み、その杭の上に家を立てれば、表面の凍土地層が少し融けても家は傾きません。
 家の熱で凍土ができるだけ融けないように『縁の下』は囲ってあり、中はひんやりと冷たく氷が融けずにたまっています。杭をどのくらい深く地中に打ち込まなければならないのかは、家の高さ(つまり重さ)や、凍土の厚さ、その土地の地中の状態によって違うそうですが、数十メートルは打ち込むそうです。建築費の大部分は杭代に使われます。ドゥジンカの町づくりはとても高くつくわけです。ペレストロイカの後はほとんど新しい建物は作られず、人口も減っています。
 住民の中でロシア人は、『内地』から働きにきた人が多く、賃金の高い北方特別地で十分稼いだ後、戻っていくそうです。ルービナさんも、ずっと住むつもりはないといっていました。ドゥジンカは積出港としての経済的意味しか今はなくなったので、それに関係しない『内地』からの出稼ぎ者は戻っていき、人口は減っているのだそうです。
「若い資本家が新知事になったからね、儲からないようなことはどんどん省いていくのよ」と、ルービナさんが言っていました。


 ツンドラ体験

 旅行会社がわたしの注文で作ってくれた日程表の中には『ツンドラ体験』というのも入っていたので、ツンドラに詳しいニコライ先生という人と一緒に出かけました。ルービナさんの車にゴム長靴も忘れずに積み込みました。
 ツンドラへ行くといっても、町から一歩外へ出れば、ツンドラです。でも、車で20キロほどは離れたところまで行きました。舗装道路の両側にツンドラが広がっています。別の言い方をするなら、ツンドラという湿原と湖沼地の中にドゥジンカとノリリスクという人工島があり、その間を道路が橋のようにかかっているわけです。
 私たちは道路の端に車を止め、ツンドラに入るために長靴を履きました。ルービナさんは車の番です。ニコライ先生は
「ツンドラの匂いはいいな、久しぶりに来たな」と言ってタバコを吸いながら、先へ進みます。矮小の柳や、矮小のハンノキ、矮小の白樺が芽を出しています。バグーリニク(つつじの1種)の花はまだ咲いていません。これが一面に咲くと、いい匂いで頭がくらくらするそうです。コケや地衣類が分厚く生えていて、歩くとふわふわします。所々に融けた氷水がたまって、コケやビート(泥炭)の間で沼地になっています。そんなところを、ニコライ先生は沈みながらもずんずん進んでいくのですが、私は怖くて入れません。ためらっていると、ニコライ先生が、戻ってきて、
「凍土帯の氷はまだそんなに溶けてはいない」と、近くに生えているコケとその下の泥炭をどかして10センチほどの穴をあけ、底を触ってみています。
「ほら、硬くて冷たいでしょう」というので、私も触ってみると、かちかちです。土をこすってみると本当に透明な氷の頭が見えてきました。これが有名な永久凍土なのかと、感心して何度も頭を撫でておきました。
 底なし沼でないことがわかったので、ニコライさんの後について進んでいきました。もっと夏になると凍土がさらに溶けて、通行不能な沼地になるそうです。でも全部融けることはありません(だから永久凍土地帯です)。夏、ツンドラが通行不能になるのは、沼地のせいばかりではなく、蚊やサシバエが巨大集団で襲ってきて、防御装置などがなければ、すきまなく刺されて死んでしまうからです。ですから、野生トナカイも家畜のトナカイも夏はツンドラを避け、もっと北方か高山へ移動します。

 ドゥジンカは極寒ツンドラ地帯の中でも南部ですが、まだ、所々に雪が残っています。特に斜面の北側に多いです。融けないうちに新しい雪が降ります。

 ドゥジンカ滞在中に、連邦保安部ドゥジンカ国境警備部へ出向き、次のハータンガへ行く許可書をもらってきました。それには『8月31日まで有効、副司令官マトヴェエフ少佐』と署名されています。ずいぶん長い間、ハータンガ滞在が許可されているものです。

エレガントな公害都市ノリリスクから ハータンガへ

 25日はルービナさんの車でドゥジンカを出発して、ノリリスク に向かいました。ニッケルや、銅精錬工場の煙突の煙は遠くから見えてきます。聞いてはいましたが、公害の状況は厳しいようです。近づくにつれて、醜い工場の建物や、パイプ、廃水池が見えてきます。
 しかし、郊外の一群の工場地帯を通り過ぎて、市街地に入ると、そこは一転してサンクト・ペテルブルグ風の町並みです。ごみごみしたドゥジンカ市とも大違いの洗練されたミニ都会です。でも、その日は風がなかったので、スモッグで、隣の建物もぼやけて見えるくらいでした。長年生活していると健康によくないでしょう。
 歴史博物館も休みで、1921年探検家が始めて越冬したと言う『ノリリスク最初の家の記念館』として保存されている小屋・博物館というのだけを見学して、空港に直行し、ハータンガ行きの飛行機に乗り込みました。普通の搭乗手続きのほかに、迷彩服の職員がさらに許可書を調べます。
 飛行機は、ロシアの地方便ではよく見かける小型のおんぼろ機体でしたが、ドゥジンカから800キロを1時間40分という普通の速度で飛び、無事ハータンガに到着しました。ハータンガ行き機内の乗客は、ドゥジンカなどの学校で学び、夏休みを過ごしに両親のところに帰る少数民族の生徒や学生たちが大部分です。ちなみに、8日後ハータンガからクラスノヤルスク行きの飛行機に乗りましたが、その乗客は、夏期休暇を過ごしにクラスノヤルスク方面に帰る出稼ぎロシア人が大部分でした。

後記:ノリリスクは北極線(北緯66度33分)より300キロ北で、北極点より2,400キロ南、エニセイ川の80キロ東にある。15万人以上の都市ではノリリスク(北緯69度20分)はロシア連邦の最北にある。2020年の人口は18万人。外国人には訪問に許可が必要。ノリリスクの名はノリリスカヤ(またはノリルカ)川の名からきた。ノリルカ川は延長57キロでピャーシノ湖から流れピャーシナ川に注ぐ。ノリルカはエヴェンキ語またはユカギール語の沼地という意味かも知れない。1920年代ノリリスク鉱山が本格調査され、1935年囚人の労働力でノリリスク鉱山コンビナートが創設された。1953年ノリリスク市となる。住民は20世紀後半に移住してきたロシア人やその子女が大部分で原住民は極小。1953年スターリンの死後の恩赦で解放された元囚人やその子女も住む
 ハータンガ区
 タイムィール(ドルガノ・ネネツ)区
 空港に迎えてくれたのは、ここでホームスティすることになっているエヴドキヤ(ドルガン語ではオグドゥワ)・アクショーノワさんで、一面識もないのですが、すぐに私の方から見つけました。というのも、たった4000人ほどの村ですから(当時)、飛行機内で知り合った人に、
「博物館館長のエヴドキヤさんを見つけたら教えてね」と頼んでおいたのです。北極海に突き出たタイミール半島の西側の海にはエニセイ川が流れ込み、東側にはハータンガ川が流れ込んでいます。半島の付け根にあるプトラナ高原から、大回りして北へ流れていくカトゥイ川と、北シベリア低地を北東に流れてきたヘタ川が、クレスト村で合流してハータンガ川となります。長さは227キロですが、カトイ川とあわせると1636キロです。4000キロのエニセイより小さく、1870キロのヨーロッパ・ロシアのドン川と並ぶくらいですが、ツンドラ地帯の人口稀薄地帯を流れるので、ハータンガとその左岸源流のヘタ川や右岸源流のカトイ川に沿って、8個の小さな村があるだけです。
 タイムィール半島の最北を除く東半分は、全部ハータンガ区で、人口は約7500人です。日本より少し小さいくらいの面積(34万平方キロ)のハータンガ区には、区役所所在地のハータンガ村の他に、パピガイ川のパピガイ村、ハータンガ湾のノヴォリブノエ村とセンダスコ村、カトイ川のカヤク炭田村(最北の炭田)、ヘタ川のヘタ村など全部で10ヶ村があるだけです。ハータンガ村だけで人口のほぼ半分が住んでいて、その住民の中で、ロシア人が半数以上を占めます。他の村は数百人で、ノーヴァヤ村のほかは、ドルガン人の村です。ノーヴァヤ村はズガナサーン人が住んでいます。


<後記(2020年) タイムィール(ドルガン・ネネツ)特別区> 

   タイムィール区、赤線の北はタイムィール半島
川名:ドゥ川(ドウディプト川)、ボ川(ボガニダ川)
村名:ハータンガ川岸のス(スィンダッスコ村)、
ノヴォ(ノヴォルィブノエ村)、ジ(ジュダニーハ村)
エニセイ川岸のヴァロン(ヴァロンツォーヴォ村)、
ポタ(ポタポヴォ村)

地理
 タイムィール特別区(旧・自治管区)の面積は88万平方キロ、そのうち半分弱の40万平方キをタイムィール半島が占める。(日本は38万平方キロ弱)。タイムィール半島はユーラシア大陸でも最も北にあり、西はカラ海のエニセイ湾から、東はラプテフ海 море Лаптевых のハータンガ湾、南はプトラナ高地の北の北シベリア低地までの全面積は約40万平方キロある。タイムィール半島のつけねには幅600キロ、長さ1400キロ(その東はヤクーチア・サハ共和国に至る)の北シベリア低地が横たわる。その北は長さ1100キロのビルラーンガ Бырранга 山地が南西から北東に走り、その北にはカラ海とラプテフ海沿いの狭い平野が伸びている。チェリュシキン岬(*)が最北にある。
   *チェリュシキン岬(北緯77度43分、北極点まで1300キロ)。 チェリュスキン Семён Иванович Челюскин 達が1742年、旧ヴァストチノ・セヴェルヌィ(東北岬と当時は名付けられていた)に到着。1842年、東北岬はチェリュスキン岬と改名。1932年極地観測所が建てられた。チェリュスキンの名は1933年に進水し、ムルマンスクから北極海を航海した蒸気船にもその名がつけられた。そのチェリュシキン号はウラジオストックに向かったがチュクチ海で氷塊と衝突し沈没した。ソ連軍ばかりか米軍も乗組員救出に当たったことで有名。チェリュシキン岬の年間平均気温はマイナス14.5度、観測最低温度はマイナス48.8度。これは南の内陸ドゥジンカ市のマイナス56.1度や、ハータンガ村のマイナス59度より高い。

 大きな川は、西からエニセイ川(水源は4000キロ南のサヤン山脈。実はエニセイ川は本流も支流も半島内は流れてはいない.エニセイ湾の東岸からがタイムィール半島だから)、ピャーシナ川(818キロ、水源はプトラナ高原西、ピャーシナとはネネツ語で『黒い木』つまり石炭。最も調査がされていない川の一つ。地図によっては全長が記入されていないことも)、上と下タイムィール川(水源はビルラーンガ山地)、ハータンガ川(水源はプトラナ高原)などで、それらは多くの支流を集めてカラ海やラプテフ海に流れ出る。

 大きな湖はプトラナ高原西でエニセイ水系に属するハンタイスコエ湖(*)、そのすぐ北の同じくプトラナ高原西のピャーシナ川水系に入るピャーシナ湖(735平方キロ)、上タイムィール川(499キロ)が注ぎ込み下タイムィール川(187キロ)が流れ出るタイムィール湖(4560平方キロ)、ハータンガ川の左岸源流のヘタ川(604キロ)の左岸支流ボガニダ川(336キロ)の水源のラバズ湖(470平方キロ北シベリア低地の中央にあり、タイムィール半島ではタイムィール湖に次ぐ広さ)。
   *ハンタイスコエ湖 長さ80キロ、幅25キロ、822平方キロ、最深420メートル。ロシアではバイカル湖、カスピ海に次いで3番目に深い、元々延長174キロのハンタイカ川が流れ出てエニセイ川右岸に合流していたが、途中に2万9千平方キロのハンタイスコエ・ダム湖ができた。ハンタイスコエ湖とピャーシノ湖はプトラナ高原の西にあって半島内にはない。ピャーシナ川の方は半島内を流れてはいるが。

 タイムィール半島はタイムィール川から名付けられた。最も有力な説では、タイムィールとはエヴェンキ語・古代トゥングース語の『価値ある、(魚の)豊かな』という意味の『タムラ』からきて、19世紀のロシア人探検家は、全半島がその川の名で呼ばれていると記している。他の説ではヤクート語の『塩(トナカイ遊牧用に)』、ネネツ語では『(草が生えない)ハゲ地』、ズガナサーン語では『トナカイの群れ』の意味。
 タイムィール半島の住民は5千人以下で、かつては、特にエニセイ湾岸には多くの集落があったが、放棄され無人となり、現在はカラウール(人口800人で最大)、ディクソン、ウスト・ポルトなど7個の集落しかない。カラウール村は、またタイムィール・ドルガン・ネネツ特別区の4つの行政区(ドゥジンカ市行政区、ディクソン町行政区、カラウール村行政区、ハータンガ村行政区)のカラウール村行政区(旧ウスチ・エニセイ行政区)の中心で、60%はネネツ人。村はエニセイ湾の右岸、つまりタイムィール半島側(半島のつけね)にある。1616年にできたという越冬小屋からカラウール村ができたという。面積がもっとも広いディクソン町行政区には集落はディクソン(500人余)しかない。ディクソンはエニセイ湾の出口にあって、ドゥジンカから682キロだ。ディクソンというのは19世紀のスウェーデン商人の名。

 タイムィール半島どころかタイムィール特別区を縦断横断する道路はもちろんない。海路もカラ海からチェリュシキン峠を回ってラプテフ海に出るのは現在でも困難。半島の付け根、北シベリア低地の交通なら夏場は河川を利用するか、沼地も凍る冬場は陸上を通行できる。かつての探検隊は、エニセイ流域の集落からハータンガ流域の集落へ行くには、上流の支流から別の水系の支流へと渡るヴォロク道を通った。そのドゥジンカからピャーシナ川、さらにヘタ川、さらにハータンガ川、そしてハータンガ村へと言うルートは古くからあった。
 現在はピャーシナの支流のウスチ・アヴァム村(住民400人のうちズガナサーン人が半数使い)とヘタ川のヴォロチャンカ村(住民約400人のうちズガナサーン人が半数以上)のほかはルート上の集落は無人で、墓地のみが残っている。ウスチ・アヴァム村はドゥジンカから330キロ、人口300人余。住民はドルガン人とズガナサーン人。ヴォロチャンカ村は16世紀からあって、原住民との取引所だった。ドゥジンカから410キロで、人口は500人弱、ズガナサーン人とドルガン人が住む。カテルィク村は360人でほぼドルガン人。ヘタ村はハータンガから109キロ、川沿いでは132キロ。住民は360人でほぼドルガン人。ノーヴァヤ村はハータンガから80キロ、人口250人余のうちのズガナサーン人20%のほかはドルガン人。クレストィ村も住民300人余のほとんどはドルガン人。ハータンガから20キロで、航路のほか冬道もある。村の創立は公式には1924年国立交換所ができた時だが、18世紀からここには越冬小屋があった。十字(クレスト)という名は、このあたりでカトゥイ川とヘタ川が合流してハータンガ川になるからだとう説、またここに遠くから目立つように墓地の十字架を建てたからと言う説がある。以上がドウジンカからハータンガ村への陸上の冬道。

 ハータンガ川の左岸源流のカトゥイ川には集落はカヤク村のほかはない。かつて2,000年頃は住民は300人だったが、2020年には数人。1947年に開発されたカトゥイ炭鉱があって、ハータンガ区の需要を満たしていたが、2009年閉鎖され、2020年カヤク村も廃村になった、と『アルクティカ・グリネックス』というサイトに出ていた。
 ハータンガ村より下流のジュダニーハ Жданиха 村は 住民200人は大部分がドルガン人、数人のネネツ人とズガナサーン人。
ハータンガ川が流れ込むハータンガ湾頭岸にはノヴォルィブノエ村(後述)や、スィンダッスコ村 Сындасско村、コシスティ Косистыйがある。スィンダッスコ村は住民500人で漁労とトナカイ狩猟に従事、

 ハータンガ湾は長さが200キロ以上、もっとも広い幅は50キロ、最深29メートル。ハータンガ湾に流れ出すパピガイ川にはパピガイ村がある。パピガイ川は中央シベリア高トから流れてハータンガ川がハータンガ湾に注ぐ直前のところに流れ出る532キロの川だ。ズガナサーン語で『石の川』の意。パピガイ村の住民350人ほどはドルガン人。パピガイで有名なのは、川の中流左岸近くに残っている直径約100キロ、深さ200メートルの衝突クレーターで、大きさはユーラシア大陸最大。3500万年前の小惑星の衝突で生成された。クレーターの中心から30キロ北西には現在のパピガイ村があるが、そのほかはこの地方は無人。

歴史
 タイムィール半島に人類が現われたのは4万5千年前。エニセイ湾の右岸の半島で発見された4万5千年前のマンモスの骨に槍の跡があるとされたからだ。5-4千年前、現在のヤクートからヘタ川流域にトナカイを追って狩人(*)がやってきた。ピャーシノ Пясино 遺跡からは紀元前18世紀の青銅製品や鉄製品が発見されている。ノリリスク北100キロに古代の銅採掘跡と住居跡がある。

 *ヘタ川の遺跡 ヤクーチアで発見されたゥイムィヤフタフ Ымыяхтах 文化の担い手のユカギール人の祖先タヴギ тавгиが残した遺跡か。タヴギはサマディーツ(現在はネネツ人など)と融合してズガナサーン人になったとされる。ズガナサーン人は17-18世紀、ピャーシナ・サモディーツ、タヴギなどの融合でできたとされる。

 半島の東側のマカロフ湾岸には14世紀頃、つまりネネツ人以前の生活跡や崖下の神殿跡(シロクマ、トナカイ、鳥類を捧げた)が発見されている。
 16−17世紀にロシア人の狩猟者達が各地に作った越冬小屋跡が、後の(18-20世紀の)ロシア極地探検家や考古学者によって発見された。マンガゼヤ Мангазея市(後述)からの越冬小屋もあった。18世紀中頃には後にラプテフ海やチェリューシキン岬の名になったラフテヴィ兄弟やチェリューシキンが探検して最初の半島の地図ができた。半島とセーヴェルナヤ・ゼムリャ群島との間の海峡が発見されたのは1913年。

 1930年、タイムィール(ドルガン・ネネツ)民族管区ができる。民族管区とは1921年から1977年までソ連邦内の非ロシア人が主に住む地方に方にできた行政区。2種類があって、1つは1921年から1924年までカフカス山脈北麓に存在した山岳ソヴェット社会主義共和国の中の6民族管区.二つ目は1930年から1937年にソ連邦の北方少数民族が住む地方にできた15の民族管区。
 1978年、タイムィール(ドルガン・ネネツ)自治管区となる。1977年の法令で上記15の民族管区はすべて自治管区と改名。
 2008年自治管区は廃止され、クラスノヤルスク地方のタイムィール・ドルガン・ネネツ特別区となった。面積88万平方キロはロシア連邦の『区』としては最大の面積を持ち、クラスノヤルスク地方の3分の1を占める。半島部分の面積はその半分弱。(日本は37万8千平方キロ)(前記)
 
 タイムィール半島部分の人口は5,000人余だが、タイムィール特別区全体の人口は31,000人。タイムィール特別区には前記のように4行政区があり、全部で27集落のうちドゥジンカ市2万人、ハータンガ村2,700人、ノソク村(エニセイ湾近く左岸)1,700人。2002年の統計ではロシア人が58%、ドルガンが14%、ネネツ人(エニセイ・ネネツ)が7.7%、エネツ人が0.5%、ズガナサーン人が1,9%、エヴェンキ人が0.8%。

住民
 ドルガン人7,900人のうち5,800人がタイムィール区(のうちでもその70%は東のハータンガ川流域)に住み、残りはサハ共和国内のもっとも東北のアナバル(ドルガン・エヴェンキ)民族区に住む。ドルガン人が形成されたのは18−20世紀で現サハ共和国のレナ川やオレニョーク川からヤクート人やエヴェンキ人が東タイムィールのハータンガ川畔に移住して、現地のエネツ人やネネツ人、17世紀からの古くからのロシア人移住者・ツンドラ農民(*)達と融合してできた。つまり、ドルガンという民族名は1930年代にできたのだ。かつては、エニセイ・ドルガンとかドルガン・トゥングースとか呼ばれていた。新集団ドルガンはいくつもの文化を融合し、ドルガン語はテェルク語の一派のヤクート語の方言とされてきたのだが、エヴェンキ語ともヤクート語とも異なる言語とされ、1959年辞書ができ、独自の言語とされた。
 (*ツンドラ農民・タイムィールの古くからのロシア人移住者: クリヴォノゴフ著『タイムィールの民族』によれは、シベリアの他の場所ではすでに現地人がいて、そこへロシア人が乗り込んでいった。しかし、タイムィールでは、17世紀からの『ツンドラ農民』と言われているロシア人猟師、漁師(交易にも従事)が、むしろ原住民だった。そこへ、東からヤクート人、エヴェンキ人が移動してきて、少数の『ツンドラ農民』を飲み込んだと言う。
 16−17世紀にエニセイ川の西で北極海に通じるオビ湾に注ぐタズ川下流に、マンガゼヤМангазеяというロシア人(ポモール商人)入植地があって、アルハンゲリスク、イギルス、スカンジナビヤとの北極圏交易で栄え、オビ川やエニセイ川流域ともつながっていた。しかし、交易で栄えていたマンガゼヤも17世紀には北極圏貿易禁止令や大火事で衰退・消滅した。北極圏貿易は禁止されたが原住民との交易のため、エニセイ川中下流に新マンガゼヤができた。毛皮動物狩猟や交易に従事していたロシア人は新マンガゼア(現トゥルハンスク)からタイムィールまで広がっていた。

 タイムィールの東、ハータンガ流域の8個の村(ノヴォルィブノエやクレストィなど上記)は大部分がドルガン人で、ノーヴァヤ村のみ、ズガナサーン人が20%住む。タイムィール西のエニセイ流域では4つの村にドルガン人はエヴェンキ人やロシア人、ズガナサーン人と半々に住む。ノリリスクやドゥジンカといった都市に住むドルガン人は少ない。大部分のドルガン人はドルガン人が大多数を占める集落か、エヴェンキ人やズガナサーン人との混在集落に住む。
 ドルガン人は言語がよく保存されている。2,000年頃の統計では70歳以上では日常の会話はドルガンのみ、20台から60台ではロシア語のみは3分の1,ドルガン語のみは3分の1、残りの3分の1はロシア語とドルガン語の両方。10代以下では70%がロシア語のみ、ドルガン語のみは10%以下。(後述のオクドゥワさんの孫達も祖母のドルガン語は理解できるが、自分たちは話せない)

  ロシア連邦構成主体85のうち8
 
 (1)タイムィール特別区 (2)エヴェンキア特別区
(1と2と3)クラスノヤルスク地方
(4)ヤマロ・ネネツ自治管区 
(5)ネネツ自治管区 (7)アルハンゲリスク州
(8)ハンティ・マンシ自治管区ユグラ
(4と8と9)チュメニ州 (6)モスクワ州
(10)サハ(ヤク−チア)共和国

 ウラル語族サモディーツ(旧サモエード)語族のネネツ人はアルハンゲリスク州のネネツ自治管区や、チュメニ州のヤマロ・ネネツ自治管区などに元々住んでいて(地図)、17世紀にそこから東のタイムィールのエニセイ川流域に移住してきた。そのネネツ人をエニセイ・ネネツとも言って、移住元の西のネネツと民族がすでに異なるとされる説もある。エニセイ・ネネツはタイムィール特別区のウスチ・エニセイ区(行政中心はカラウール村)に主に住む(特別区の西部)。19世紀エニセイ左岸にはネネツ人が、右岸にはエネツ人が住んでいた。その後両岸に住むようになり右岸にはエネツ人とネネツ人、ズガナサーン人の集落ができた。
 サモディーツ語族のネネツ人は北方少数民族の中では最も多く、主にコラ半島からアルハンゲリスク州のネネツ自治管区、チュメニ州のヤマロ・ネネツ自治管区、タイムィール区などに、4万5千人は住む。ネネツとは『本当の人間』の意。ヤマロ・ネネツ自治管区に3万人、ネネツ自治管区に7,500人、タイムィール区に3,000人と主に、コラ半島からタイムィールまで極北にすむ。
 サモディーツ語族の出身についてはサヤン山脈説、つまり原住地サヤン山脈から、(テェルク系などに追われて)ウラルの北へ移動したという悦が有力だ。サヤン山麓の最近になって消滅してしまった少数民の言語がサモディーツ系だった。それらは南部サモディーツ語群(カマシン語やマトル語)と言うが20世紀には死語となった。

 エネツ人は統計では300人弱だ。17世紀エネツ人はタス川やトゥルハンスク川で遊牧していたが、西からネネツ人、南からセリクープ人の侵入で次第に北へ東へと移動し、現地人と融合してエネツ人ができた。エネツとは人間の意。シベリア学者によると18世紀エネツ人は3000人以上いた。現在、エニセイ湾右岸(東)のヴァロンツォーヴォ Воронцово村(ツンドラ・エネツ)や、エニセイ川右岸のポタポヴォ Потапово村(森林エネツ)に主に住む(地図)。しかし、それらの村でもエネツ人は少数派。20世紀の後半までエネツ人はネネツ人またはズガナサーン人の一部とみられ、エネツ語はネネツ語またはズガナサーン語の方言とみられてきた。1500年−1000年前にエネツ語はネネツ語と別れ、ズガナサーン語の影響も受けてできたとされる。エネツ語はサモディーツ諸語の中で最も古い形を保っているそうだ。20世紀後半までエネツ語には文字はなかったが、シベリア学者の考案した文字で、1995年始めてエネツ語の出版物がでた。それは『ルカによる福音書』だった。2002年の統計ではエネツ人の半数弱がエネツ語を理解できる。

 ヌガナサーン(ガナサン)Нганасаны人、最も北の民族で、2010年統計では862人。
 18世紀、タズ川からレナ川の間の森林ツンドラ地帯に野生トナカイ狩猟民がいた。その狩猟民達は言語と文化からサモディーツ系ではなく後にユカギール(現在東北シベリアに住む)とされた民族の西への延長かも知れない。18世紀にはそのユカギールの一部はサモディ−ツ系とトゥングース系に飲み込まれた。ロシア人はピャーシナ川岸にいたその原住民(ユカギールの他の一部)をピャシナ・サモディーツと呼んだ。レナ川とハータンガ川のユカギールはトゥングースに半ば飲み込まれ、一部はラプテフ海岸に他方はアナバル川やハータンガ川中流に去った(タヴギ)。18世紀ロシア人が毛皮税を原住民から徴収するために現われた頃、ピャーシナ・サモディーツやタヴギ達が溶け合ってアヴァム・ヌガナサーンができた。18世紀、東から来たヤクート人はタイムィールでトゥングースやロシア人(ツンドラ農民)と融合してドルガン人が形成されつつあったが、彼らはヌガナサーン人をタイムィールの北や東に追った。また西から移動してきたネネツ人はエネツ人の一部を融合し、ズガナサーン人をより北においやった。
 1940−1960年代、集団経営と遊牧民の定住化政策で、ヌガナサーン人は、自分たちの遊牧地より南のドルガン人の住む地のピャーシナ川の右岸支流ドゥディプタДудыпта川岸のウスチ・アヴァム村とヴォロチャンカ村、ヘタ川のノーヴャヤ村に大部分が住むようになった。(そこは、タイムィールの深部に当たる)。ドルガン人とヌガナサーン人は半々で住んでいる。また、半島おもにドゥディプタ上流にはトーチカ(点)と呼ばれる遊牧基地があり、そこにも100人ほどが住む。

 ドルガン人、ネネツ人、エネツ人、ヌガナサーン人達はそれぞれ主に自分たちの村に住む。ドゥジンカ市やノリリスク市のような都会、ハータンガ村のような行政中心地にはロシア人、ウクライナ人が大多数を占める。

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