up date | 2006年12月7日 | (校正・追記: 2008年月20日、2018年9月23日、2019年11月22日、2020年12月24日.2022年4月9日) |
クラスノヤルスクからモスクヴァ、シェレメチェヴォ空港、 19-(2) また国境の話(2) 2005年12月7日から12月24日 |
(1)国境 | (2)ハカシア共和国アバカン市(追記) |
日本からモスクワ、さらにロストフ・ナ・ダヌ | 帰りのモスクワ、インナばあさんと |
追記 モスクワからロストフ・ナ・ダヌ | シェレメチエヴォ空港へ |
追記 ロストフ・ナ・ダヌ | 出国できない |
追記 ドンコサックの大村 | 出発できるはずだった日の次の日 |
追記 クラスノヤルスク着 | いつ出国できるだろう、モスクワ生活 |
ロシア居住許可証の延長 | 『だめもと』作戦 |
後日、夢 |
ハカシア(ハカス)共和国アバカン市 (追記) | |||||||||||||||||||||||||||
ロシア到着後1週間が過ぎた2月15日(木)と16日(金)はクラスノヤルスク市でヴァジムたちと連絡を取りながら、元の大学へ行ったり友達と会っていた。土曜日と日曜日はディーマと400キロほど離れたハカシア共和国へ車で行った。 また、途中の道に立っている黒い白樺も見た。ハカシア人にとっては神聖な自然物なのでチャラマ(元々は通りがかった人が、ここを通ったという印に自分の服を裂いて結ぶもの。今はリボン)がしつらえてあった。数年後に通ったときには、なぜか伐採されていた。
ディーマと一緒にハカシアにドライブ(と私は思っている、目的地に着くことだけが目的ではなかったから)した時も、車は停められて調べられることが多く、同乗者もパスポートなしではまずいのだが、今回は何事もなかった。聞かれたら家に忘れた、私はディーマの姑のハカシア人だ、ハカシアに向かっているのだから。ということに口裏を合わせておいたのに。
本屋で買った『アバカン市の地図と名所』というカードには教会が3つの他、おなじみの戦勝戦記念碑、鉄道駅、バス発着駅、空港、中央郵便局、テレビ塔、スタジアム、中央銀行、大学、共和国政府役所、カジノ、動物園、アバカン川に架かる橋、青年会館、中央市場、劇場、人形劇場、子供公園、広告会社、映画館、文化センター、卸売市場、展示会館、オフィイス・ビル、噴水、並木道、さらにホテルが2軒と、デパートが3軒が載っていた。ディーマの親戚の地元アバカンの人も、「こんなものが名所になるのかねえ」と言っていた。車でアバカン市をぐるぐる回ったので、たぶん、上記の建物はみんな窓から見ただろう。わざわざ降りて写真を撮ったところも2、3箇所あった。 |
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帰りのモスクワ、インナばあさんと(ここから追記ではない) | |||||||||||||||||||||||||||
クラスノヤルスクとモスクワの時差が4時間、飛行時間も約4時間ですから、クラスノヤルスクを夕方7時に出発すると、モスクワへはやはり夕方の7時頃に到着します。朝9時クラスノヤルスク出発の便もあり、値段はクラスノヤルスク朝出発便が片道約8000ルーブル(32000円)で、夕方出発便が4800ルーブルです。こんなに差があるのは、クラスノヤルスクのビジネスマンが朝モスクワに着けばその日1日仕事ができるが、夕方ではそうは行きません。モスクワからクラスノヤルスクの帰りの便は夕方モスクワを出発すれば朝クラスノヤルスクに着くという便の方が値段が高いのです。そうすればモスクワで無駄な1泊をしなくてすみます。 でも、私は夕方着いてその日はモスクワに泊るだけなので、安い方の便でモスクワに立ちました。前回2月に来た時は機中泊で、次の日のモスクワ滞在がかなり疲れたからです。モスクワでは13日前に日本から着いた時と同様、ナターシャ・ベンチャーロヴァが私のために空港へタクシーを差し向けアパートも用意してくれていました。彼女のおかげで、モスクワ滞在が1泊増えても、あまり心配しなくてもいいのです。 前述のように、ナターシャはニキータとイルクーツクに住んでいますが、モスクワに自分のアパートを持っていて、それを賃貸ししていました。でも、イルクーツクにアパートを買うため、今それを売ろうとしているのです。昔ですと、アパートは交換するものでしたが、今では個人財産になった不動産は売却することができます。 アパートは、シェレメチエヴォ国際空港とは、町の反対側にあります。インナばあさんが言うには、この雪空、道はラッシュで行き着くまでに何時間かかるかわからない、3時ごろ出発せよ、ということです。タクシー会社に電話してみると5時半頃でいいだろうということです。 |
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シェレメチエヴォ空港へ | |||||||||||||||||||||||||||
5時半にアパートの下に下りて待ちますが、普通は定刻より早く現れるはずのタクシーがなぜか現れません。タクシー会社に電話しても、近くまで来ている、と言うばかりです。実に6時を過ぎても現れません。インナばあさんがタクシー会社に電話しろというので、かけました。何度も電話しろというので、何度も何度もかけました。 6時半になって、もうすっかり外気に冷えて憔悴している外国人の私を見て隣人のばあさん達が、流しのタクシーを拾った方がいいと言います。7時近くなってやっと、インナばあさんが近くの街角に客待ちしていた流しのタクシーと話を決めてくれ、何とか、10時少し前、シェレメチエヴォ空港にたどり着いたのでした。ああよかった、間に合った。この慢性渋滞で遅れるかと思って、車のスピードメーターと時計ばかり見ていました。 搭乗手続きはまだ続いています。大韓航空機でしたから韓国人の社員もいて韓国人乗客の手続きをしていました。私の搭乗手続きはロシア人女性で、 「座席は通路側にしてね、できたら隣の席を空にしておいてね」という私の願いを愛想よく聞いてくれました。もう、サービスのいい韓国にいるような対応です。 出国パスポート検査の順番につきました。ここはいつも長い長い順番です。でも、今日はそれほど長くはなく、カレリア地方にいるナターシャに携帯で、ありがとう、無事出国しますという電話をかけた頃、もう私の順番になっていました。無事出国できることを微塵にも疑わず、入国した時と同じように、パスポートとロシア居住許可証、それから番号照会のため旧のパスポートも出しました。 「マダム、ちょっと、こちらで待ってください」といわれ、窓口から少しはなれたところで待たされていた時も、出国できないとは露ほども思いませんでした。 |
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出国できない | |||||||||||||||||||||||||||
長く待たされました。 窓口の横には事務室があり、中国人男性が入り口に立って、中の制服の女性に何か頼んでいます。そのうち別の上役らしい制服の女性が来て荒い言葉で彼らを追い払いました。場所が開いたので覗いてみると、私のパスポートとロシア居住許可証が机の上に載っています。そっと入っていって、中の制服の男性のほうに聞いてみると、ロシア居住許可証に旧パスポートの番号が書いてあるから、これでは出国はできない。ロシア居住許可証を発行したクラスノヤルスクに戻り、新パスポートにある番号に訂正してくれば問題ないのだ、とのことです。 「ロシア居住許可証を延長したいとクラスノヤルスクで手続きしていたのですが、できなかったのです」私は必死で説明しようとしました。
私「今、クラスノヤルスクで働いていないからです」 職員「なぜ日本人がソウル経由で帰るのかね」という問いにも、まじめに答えていました。「責任者が来て、(私の件を)決定する」とのことです。やがて、制服のボタンがピチピチ(太ったため)でやっと止めているような、それらしい上役の女性が入ってきたので 私「どう決まるのかしら」と言うと、彼女は 「否定的に」と短い言葉を投げて去っていきました。 時差が4時間のクラスノヤルスク(だからクラスノヤルスクは夜中の2時過ぎ、だとは動転していた私には思いつかなかった)のヴァジムに携帯で電話し、苦境を訴えました。クラスノヤルスクの外国人課との連絡役はヴァジムでしたし、ロシア居住許可証について彼が一応引き受けてくれてましたから。 そのうち、そこの責任者、つまり国境警備隊シェレメチエヴォ空港課の課長らしい男性が来て、不可と決定して、A4判の紙半分にсправка(照会。通知書)と書いた紙片を渡しました。 その通知書の訳文 (訳文の下線部分は手書きで)
「どうして不可なのですか。東京のロシア大使館の館員も出入国できると言いましたし、クラスノヤルスクの方でも、出国に関して問題ないと言っています、この電話の人(つまりヴァジム)と話してください」と、頼みました。始めは、いやそんなことはできないといっていたその責任者も、私から携帯を受け取って、ヴァジムと話してくれました。事が係官の恣意次第で決まることがある国ですから、説得できるかと期待したのですが、ヴァジムの力には及ばなかったようです。 私のほかに、この時刻出国で問題があったのはアルメニア女性でした。旧ソヴィエト連邦時代に作ったパスポートしかなかったからです。彼女は私のように無駄にあがかず、静かに去っていきました。 搭乗券(日本で買った往復空港券が62,800円、空港税や燃油特別運賃を合わせて80,730円は、だから帰りの分は無効になってしまった)が戻された大韓航空の機内から、私のスーツケースが下ろされ、私の出国は絶望的のようでした。ヴァジムとディーマによれは、今日はこれ以上何もできないから、空港近くにホテルを取って泊るほかないとのことです。 搭乗手続き口まで戻って、大韓航空の職員に私のチケットを見せると、そのロシア人職員はこれは格安航空券なので日付の変更はできない、でも一応ここに電話してはどうかと、番号を書いてくれました。 スーツケースを引きずって、とぼとぼと空港の出口へ向かいました。出口には『タクシー受付』と書いた窓口がありました。そこへ目を向けたとたん、 シェレメチエヴァの近くにあるホテルはめちゃ高いから、そこに泊るくらいなら、タクシー代を使ってモスクワに戻りそこの知り合い(インナばあちゃんだ)の家に泊った方が安いよとは、行きのタクシーの運転手が言っていたことです。
次の日、起きると、日本大使館(領事部)に電話しました。これがモスクワのありがたいことです。ザバイカリスクやブレストにはそんなありがたい機関がなかったですから。長々と説明すると、 ロシアのホテルらしく、12時にお願いしますと言ってあったのに、タクシーが来たのは1時でした。フロントの女性の知り合いの個人タクシーを呼び出していたらしいです。ホテルからモスクワ中心地にある大使館のあるアルバート通りまで1000ルーブルだと言われました。(ほら、昨日の運転手どもがいかに、悪徳だったかよくわかります)。 |
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いつ出国できるのだろう モスクワ生活 | |||||||||||||||||||||||||||
23日(金曜日)朝、ピョ−トルから電話があって、もし、自分のアパートに住むようなら、鍵を隣人に預けておくから、と言うのです。私はいつ出国できるのでしょう。もし、長期になるようなら、インナばあさんではない頼りになる知り合いがいたら心丈夫です。 「アパートのお世話になるかどうかわかりませんが、ピョートルさんのお知り合いを紹介してもらえないでしょうか」というと、奥さんの知り合いのスヴェータの電話番号を教えてくれて、何かあったらここへ連絡するように、と言ってくれました。 クラスノヤルスクのヴァジムから、クラスノヤルスク外国人登録部の電話番号と責任者の名前を言ってきました。それを大使館員の新保さんに伝えようと、電話してみましたが、今日は日本の祭日で休館日なので、ロシア語と日本語で 「月曜日におかけ直しください」という自動応答が流れてきます。でも、その録音の後にありがたいことに日本語だけで、 「緊急の場合は…におかけください」と流れます。遠慮なく緊急の方にかけました。 電話に出てくれた新保さんによると、そのクラスノヤルスクの番号に電話して、結果をまた知らせるとのことです。自分の携帯電話番号も教えてくれました。 宙ぶらりんのモスクワ生活は続きます。ホテルを出て、一人でモスクワ見物する気分にもなれません。いつ大使館から呼び出しがかかってくるかわかりません(進展があるかも)。第一、モスクワ中心部へ出るにも、時間とお金がかかりそうです。 |
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『ダメモト作戦』 | |||||||||||||||||||||||||||
日本で買うと東京モスクワのアエロフロートの片道の正規のチケットは20万位だと言われたことを覚えています。ロシアで買えばそれより安いかもしれませんが、いやな金額です。新保さんに聞いた番号に電話してみると、その日の業務は終わったと自動音声(ロシア語)が流れていました。 それで、2日前、空港で一旦は機内に乗せた私のスーツケースが下ろされた時、電話番号を書いてもらった大韓航空に電話かけて、値段とフライトスケジュールを聞いてみました。今日の22時50分発で、片道は730ドルくらい(日本で買う格安往復チケットと同じくらい、だから倍の値段だけど)、空席はあって、チケットは空港の6階事務所で買えるということです。シェレメチエヴォ空港のターミナルビルに6階があるとは知りませんでした。部外者は入れないのではないでしょうか。 「どうやって事務所へ行けばいいのですか。」 「エレベーターがあります。」つまり、誰でも行けると言うことか。 配達ではないアエロフロートのチケットのほうは1階に売っているでしょうか。 そのときはもう4時過ぎでしたし、アエロフロートだと、東京行きは19時40分出発でしたし、大韓航空は22時50分でしたが、『だめもと』作戦を実行するために第一にしたことは、まずはタクシーを呼ぶことでした。それもホテルのフロントに頼んだのでは、1時間も2時間もかかるので、部屋にあったタクシー会社の一覧表の上から順に電話してみました。ホテルの名前と行き先を聞くと、 「車が近づいたら電話します」といって、相手は電話を切ってしまいました。料金はいくらか聞く暇もありませんでした。ホテルは、もし出発できてもできなくても、引き払う予定です。出発できなかったら、もう慌てることなく、せめてレチノイ・ヴァクザール地下鉄駅の近くにあるソユーズ・ホテルに行こうと思いました。電話で料金も聞いておいたのです。(そのホテルの電話番号は、モスクワに一人住んでいるクラスノヤルスク大学での元の教え子が、電話で教えてくれたのです。) 30分より早くはタクシーから電話がかかってこないだろうと思いましたが、手早く荷物をまとめました。20分ぐらいで電話があって、もう玄関先で待っていると言うのです。ですから、シェレメチエヴォ空港に着いたのはまだ5時前で、アエロフロート航空便の出発にも間に合う時間でしたが、エレベーターで6階まで上がりました。6階は航空会社の事務所で、日本航空の事務所もあります。 大韓航空の事務所を探して入り、 「今日のチケットを買いたいのだけど」と言うと、前々日、出発できなかった私にスーツケースを返してくれた男性ロシア人職員がいて、すぐ私を思い出しました。 「書類はちゃんと準備できたの?ちょっとパスポートを貸しなさい。僕が国境警備隊に聞いてくるから」。そんなことをされたのでは、だめに決まっています。 「いや、大使館の人も、クラスノヤルスクも大丈夫だといってるから」と私。 「いやいや、大使館は大使館、空港の国境警備隊は警備隊だからね。また、出発できなかったらこちらも困るからね(機内への荷物運搬会社に罰金を払わなくてはならないのか)」 「チケットを一応買って、もし今日、出発できなかったら、日付を書き換えます。」 「あ、それならいいですよ。」 私はいつかは日本に帰るでしょうし、帰る以上は航空券(1年間有効)は必要ですから。 大使館の新保さんが言ったようにカードで買えました、クラスノヤルスクでは買えないのに。 下へ降りるとまだ6時前です。搭乗手続きが始まるまでにまだまだ時間があります。空港内をぶらぶらして時間をつぶしました。念のためアエロフロートの窓口で料金を聞くと、モスクワ成田便は往復で1100ドル、片道で1050ドルだそうです。もっと安いのはないかと尋ねてみましたが、これが一番安いのだそうです。当日の直行便ではそうでしょう。(先ほど購入したチケットの730ドルは、ソウル経由関西空港です) 1階の売店の中に本屋があって、そこでモスクワ詳細地図を買いました。もしかしたらのモスクワ長期滞在に備えたのです。クラスノヤルスクなら何がどこにあるかよくわかるのに、モスクワではどの方向にあるのかもわかりません。 7時50分、大韓空港の搭乗手続きが始まったので、順番に並びました。先般の男性ロシア人職員がすばやく私を見つけ、私の手続きをしていた同僚に、 「この人の荷物は機内に乗せないように。ちょっと書類に問題があるからね。一度乗せてしまうと下ろすのは有料になるから」と、絶望的なことを言っています。私には 「パスポート審査がパスできれば、ちゃんと乗せますよ」とウインクするのですが。 搭乗手続きが終わると、パスポート審査の長い順番につきます。前々日に私に意地悪をした国境警備員が窓口を出たり入ったりしています。同じ顔ぶれです。前々日と同じパスポートとロシア居住許可証ですから出国できない可能性が大きいのですが、もし、これで出国できるとすると、前々日の不可は何だったのでしょう。出国できてもできなくても腹が立つことだと思いました。新保さんはもう勤務時間は終わっているのに携帯にかけるのは気の毒だとは思いましたが、 「今、パスポート審査の順番です。審査員の顔ぶれは一昨日と同じなのでたぶんだめでしょう」と言うと、 「だめでもだめでなくても、結果を知らせてほしい」という、力強い励ましの言葉です。 窓口は、なるべく前々日とは違う職員のところを選びました。古いパスポートなんて出さない方がいいのです。そんなものを出すから、ロシア居住許可証の番号が古いパスポートのものだと強調されてしまうのです。だめもとなので気が楽です。今回は時間もかけず、すぐにばたんばたんとスタンプを押してOKです。拍子抜けしたような、腹が立つような複雑な気持ちで通り抜けました。 さて、搭乗手続きのカウンター近くに置かれたままの私のスーツケースはどうなったでしょう。 先ほどの大韓航空のロシア人職員がトランシーバーを持って、待合室を通り過ぎ搭乗口のほうへ行ったり、また戻ってきて、搭乗手続きカウンターの方に消えたりしています。呼び止めて、 「私の荷物、忘れないでね」というと、 「おっ、(パスポート審査窓口を)通れたんですか」と、私のことをしっかりと思い出したようですから、荷物も大丈夫だと思いました。でも、荷物を運ぶ時、おせっかいにも私のことを国境警備隊に念を押して、また、彼らを悩ませることがないように。 10時も過ぎた時刻でしたが、大使館の新保さんに電話して、なぜか、今度は簡単に通ってしまったことを知らせました。なぜ通れたのか知りたかったのですが、新保さんもわからないそうです。窓口の審査員によって違うとしか理解できません。 どうせ、航空券を買いなおして、ソウル経由で帰国するのなら、ソウルから大阪にしないで(乗継がうまくいけば)小松にすればよかったです。それどころか、私のことをロシア国外に出したくないと言うのなら、いっそ、モスクワにあと1週間も滞在すればよかったです。ピョートルの知り合いのスヴェータに連絡して、スヴェータと親しくなるとか、ピョートルの留守宅を気ままに使って、モスクワ生活をゆっくり楽しむとか、いっそ、ロシア国内旅行をやり直すとかすればよかったのに、なぜ、あんなに急いで、帰国便に乗ってしまったのでしょう。 もし、滞在しようとすれば、いつまで滞在できたでしょうか |
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後日 | |||||||||||||||||||||||||||
後でナターシャ・ベンチャーロヴァに、モスクワ体験の話をしました。彼女の知り合いのシリア人も、シェレメチエヴォ空港で苦しんだそうです。彼は、あるテロリストに顔が似ていると言うことで、飛行機を降りた後の入国パスポート審査の前で停められました。そして、まる2日間、飛行機到着口と入国審査窓口の間の空間で、食料もお金(ルーブル)もなく座っていました。彼の妻が100ドルを出すと、彼に水とサンドイッチが届けられたそうです。 今回のクラスノヤルスク滞在中、私のロシア居住許可証延長はできませんでしたが、ヴァジムは私の帰国後もエレーナ・ザハロヴナを通じて、彼女が勧める3年間の臨時ロシア居住許可証をとると言っています。 そのための書類の、日本パスポートのロシア語訳(ロシア領事館の認証つき、手数料が3000円)、白黒写真6枚、銀行預金証明書(英文つき、文書料500円)、県警発行の無犯罪証明書(英、独、仏、西語つき、無料)などを、郵便で送りました。ヴァジムは英文の2通をクラスノヤルスク商工会議所の法定通訳にロシア語に翻訳して貰ったそうです(翻訳料1100ルーブル4500円)。また、クラスノヤルスク大学に連絡して、私の2001年から2004年までの在職証明書(その前は1年契約講師だった)も入手してもらいました。エレーナ・ザハロヴナによれば、彼女のルートを通じれて、私がクラスノヤルスクにいなくても取得できるそうです。 ロシア居住許可証にこだわらず、旅行会社を通じてビザを取って行ったほうが、面倒がないかもしれません。が、国境で問題起きたのはたった3回です。今まで何度国境を出入りしたか知れません。特にリスクを求めているわけではなく、ほぼ万全と思って出かけるのに、ハプニングが起きてしまいます。 今回帰国して数日間は朝起きる前に、ロシアであちこちの役所の窓口を駆け回ったり、電話をかけまくったりしている夢をたびたび見ました。よかったのは対応の職員が皆親切で、ほとんど友達のように私の説明を聞いてくれ、親身になって教えてくれたことです。寝言はたぶん言わなかったでしょう。 (後日の後日)『外国人のロシア居住許可証』は結局延長はされませんでした。普通の個人招待ビザ(3ヶ月も有効)でロシアへ往復するようになり、4週間以内ならば観光ビザを取っています。(2020年) |