クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2006年12月7日  (校正・追記: 2008年月20日、2018年9月23日、2019年11月22日、2020年12月24日.2022年4月9日)
 クラスノヤルスクからモスクヴァ、シェレメチェヴォ空港、
19-(2)   また国境の話(2)
               2005年12月7日から12月24日
В Шереметьево-II. Ростов-на-Дону и Красноярск(с 7 по24 декабря 2005 года)

 (1)国境  (2)ハカシア共和国アバカン市(追記)
  日本からモスクワ、さらにロストフ・ナ・ダヌ   帰りのモスクワ、インナばあさんと
 追記 モスクワからロストフ・ナ・ダヌ  シェレメチエヴォ空港へ
 追記 ロストフ・ナ・ダヌ  出国できない
 追記 ドンコサックの大村  出発できるはずだった日の次の日
 追記 クラスノヤルスク着  いつ出国できるだろう、モスクワ生活
 ロシア居住許可証の延長  『だめもと』作戦
 後日、夢


 ハカシア(ハカス)共和国アバカン市 (追記)
 
見晴台から エニセイ川
 
 クラスノヤルスクダム湖上。中景には舫ってある船
 
 立石で囲まれた古代人の古墳があった
 
 サーシャ宅、貯蔵穴倉のジャガイモ
 
 ナースチャ、台所
 
 ダイニング・キッチン。サーシャとナースチャ
 
 先史時代、タガール文化時代の岩画
 
 上の写真。背後の岩画
 
 草原の日没。木がないので草に樹氷が見える

 ロシア到着後1週間が過ぎた2月15日(木)と16日(金)はクラスノヤルスク市でヴァジムたちと連絡を取りながら、元の大学へ行ったり友達と会っていた。土曜日と日曜日はディーマと400キロほど離れたハカシア共和国へ車で行った。
 ハカシアのアバカン市へは、1998年夏に森林研究グループと行ったのが初めてで、2度目は、その後2002年晩秋に、当時の同居者のセルゲイと『エニセイ川上流の旅』に車で行き、3度目は次の年の冬、車でまたセルゲイと行き、凍ったクラスノヤルスク・ダム湖を見て、4度目は2003年11月アバカンのまだ向こうのサヤノゴルスク市に実家のある学生と一緒に行き、5度目は2004年一人でトゥヴァ旅行の時通った。今回は6回目だが、クラスノヤルスクからアバカンまでの道のりが私は好きだ。
 クラスノヤルスクから数キロのところにある見晴台から見下ろすエニセイ川も好きだ。この道を通るときはたいてい見晴台まであがったものだ。昔は足場がすごく悪かったが、この頃では観光客が普通に通れる程度に整備されてきた。以前はクラスノヤルスクから南へ出るときはこの旧国道54号線しかなかった。旧国道54導線はクラスノヤルスクからクラスノヤルスク発電所町のディヴィノゴルスク市を通り、エニセイ川にほぼ並行に遡ってハカシアを通り、トゥヴァを通ってモンゴルとの国境まで行く主要道だ。しかし、クラスノヤルスクから数十キロのエニセイ沿いの道が狭く起伏があり曲がりくねっているので、後(2010年頃か)にバイパスができた。
 エニセイ川とほぼ並行に離れたり近づいたりして南下する国道54号線(2018年以降は連邦道257号線)の緩い起伏の草原の道路が好きだ。時々エニセイにずっと近づく。最も近づくのはクラスノヤルスク・ダム湖岸にあるノヴォショーロヴォ村近くだ。夏はここから対岸まで定期フェリー船が出る。冬は氷上路を走れるようだ。
 ハカシア共和国に入ると、樹木のない草原を見ながら走るのも好きだ。4度目の時は冬の太陽が遅く昇るハカシアの草原の写真がよくできて、その年の年賀状に使った。今回は、途中の道に立っている古代人の塚や石柱のあるところで撮った写真をその年の年賀状に使った。

 また、途中の道に立っている黒い白樺も見た。ハカシア人にとっては神聖な自然物なのでチャラマ(元々は通りがかった人が、ここを通ったという印に自分の服を裂いて結ぶもの。今はリボン)がしつらえてあった。数年後に通ったときには、なぜか伐採されていた。

 クラスノヤルスク滞在中は、モスクワ行きの飛行機のチケットを買うからと、(飛行機や列車のチケットを買うときはパスポートが必要と言う怖い法規があるので)パスポートを一時戻してもらった他は、ずっとエレーナ・ザハロヴァかもう一人の表機関の女性のもとにあった。
 パスポートを持たずに外出することは、外国人はしてはいけないことだ。ロシア人も携帯が義務づけられているのかも知れない。日本からの旅行者たちは、ちょっと外を歩いていてもすぐ警察官に呼び止められてパスポートや入出国カードを調べられるのに、私は8年間滞在していて路上で呼び止められたことは一度もなかった。私なんかはどこから見てもアジア系ロシア連邦人に見えるのだろうか。
 ちなみに、後のことになるが、モスクワでタクシーの運転手にしつこく乗車を勧められた時、
「あんた、トゥヴァ人かね」と言われたくらだ。
「違うよ」と答えると、
「じゃ、ハカシア人かね」と言わた。その運転手には、自国ロシア連邦の民族構成についてなかなか知識があるではないか。ヤクート人やブリヤート人かと言われなかったところがいい。何せ、私は長い間クラスノヤルスクに住んでいたので、クラスノヤルスク近郊のアジア人に似てきたのかも。私がハカシア人でないと知ると、
「韓国人かね」と尋ねたくらいだ。かなり近いところまできたわけだ。日本人かとはついに言われなかった。日本人が夜一人で荷物を持って、自信なげに空港でうろうろしていることはないからか。

 
 黒い白樺
 
 キリスト変容大聖堂(2005年完成)

 ディーマと一緒にハカシアにドライブ(と私は思っている、目的地に着くことだけが目的ではなかったから)した時も、車は停められて調べられることが多く、同乗者もパスポートなしではまずいのだが、今回は何事もなかった。聞かれたら家に忘れた、私はディーマの姑のハカシア人だ、ハカシアに向かっているのだから。ということに口裏を合わせておいたのに。
 前期のように、ロシアにはパスポートなしではホテルに泊まれないという、これもまた(中世のようなと私には思わる)法規があるので、ハカシアではディーマの兄さん一家の家に泊った。その家はアバカン市にあるのではなく、アバカンの隣のチェルノゴルスク市のはずれの第9村とかにあって、もちろん都市型住宅ではない。ロシアで都市型住宅ではないということは、上下水道がないということだ。
 ここで日本ぼけを切り捨て、台所の床板をめくり2ートル下の貯蔵穴倉(常にチルドの温度か)にはジャガイモが一面に積み重なっていることに驚いたり、夜間にトイレに行きたいときには、零下30℃の屋外へコートをはおって行ったり、お風呂に入りたいときには、物置小屋の戸を開けて凍った牛の足が並べてあるのを見てぎょっとしたり、さらに奥の戸を開けると蒸し風呂兼脱衣室で、脱いだ服を釘にかけてその横で蒸気にあたったり、というような田舎生活を楽しむ方がいいのだ。
 ナースチャという10歳の目のパッチリした女の子がいて、珍しがって、私の後をずっとついてくる。コンタクト・レンズをはずしたら面白がっていた。
 次の日、ディーマの親戚達がアバカン市見学コースを考えてくれたが、私はアバカン市で旅行者が見るようなところは大体見ている。ロシアの地方都市で名所と言えば、ロシア正教会か、郷土博物館だ。その教会も復興教会が多い(スターリン時代に取り壊されているから)。アバカンの郷土博物館は実は3回目だ。しかし、私はロシアの郷土博物館と言うのが好きで、たとえば、地元クラスノヤルスクでは10回以上入っただろう。ガイドがいて、有料で45分くらい説明してくれるが、それが、いつも興味深い。

 後記 郷土博物館
 郷土博物館なのでハカシア共和国の自然、郷土の動植物、地形などの展示コーナーがあるが、ここはやはり考古学のホールがメインだ。ハカシアには紀元前10世紀より古くからの前期青銅器時代から中世頃までの遺跡があって、特に岩画が私には興味深い。古代人が岩山の斜面に彫った岩画はその場所にあるが、立石に彫られたような岩画や岩像は博物館や公園に展示してあることもある。後日のことだが、私は何度もハカシアへ行って遺跡を回った。しかし今は、博物館の展示物の写真を撮っただけだ。
 古代史だけでなく現代史のコーナーもあった。ハカシアはスターリン時代の流刑地でもあり、政治犯の収容所・ラーゲリのあったところだ。炭鉱もあって日本人抑留者も働かされていた。ソ連はスターリン時代『収容所群島』と呼ばれていたくらいあらゆるところに収容所が群れていた国だから、ラーゲリのあったのはハカシアだけではなく、もっと有名なラーゲリは北方にいくつもあった。それらの北部の町には今はラーゲリの博物館、または展示コーナーがある(あった)(私はイガルカ市とウフタ市で見た)。
 アバカンの博物館にも、当時の一部を再現したようなコーナーと1927年から1961年まで施行されていた憲法58条の一部が掲示されていた。58条と言えば、反革命を取り締まる条文ということだが、反革命というより反政府の範囲は驚くほど広い。58条1は1ーa、1-б、 1-в、 1-гまであって、反革命行動、祖国への裏切りなどの罪状で程度によって銃殺から自由剥奪8年まである。たとえば、1−вは裏切り者の成年の家族で、裏切りを通報しなかったという罪。58条2は武装蜂起(銃殺)など。58条14まである。
 憲法の長い条文は略されて例えばАСАとあれば、『Антисоветская агитация 反ソヴィエト扇動』で58条10で1934年から1936年なら3年から5年の収容所、1939年から1940年なら10年とかだ。ВАТは 『Восхваление Американской Техника アメリカの技術の賞賛』なら1947年から1953年で10年から25年の収容所だ。ЖВНは『 Жена Врага Народа 祖国裏切り者の妻』罪で5年から10年。ПЗは『 Преклонение перед Западом 西欧崇拝』で1947から53年では10年。産業スパイは10年。人民の敵の親戚は10年。祖国裏切り者の家族は10年から25年など。そこには25項目の略語一覧表が掲示してあった。また、帝政時代とスターリン時代の懲役囚の待遇の違いの表まであった。食餌は1日につき、帝政時代はライ麦パン819グラム、肉106グラム、油は216グラム、挽き割り穀物50グラムというのに対して、スターリン時代はノルマ(作業量)を100%成し遂げたものにのみライ麦パン750グラム、肉21グラム、マーガリン9グラム、挽き割り80グラム与えられる。帝政時代は日曜日とロシア正教の祭日は休みだが、スターリン時代は休日なし。労働時間は帝政時代は夏場は11時間、冬場は7時間だが、スターリン時代は一律11時間半。外部との交流(文通)は帝政時代は条件付きで可、スターリン時代は一切不可。
 1921年から1953年までロシア内務省による(公式)反革命的犯罪者は 3 777 380 人。そのうち最高刑(銃殺)されたのは642 980 人だ。
 その後、何度かその博物館へ行ったが、スターリン時代の掲示コーナーもアフガニスタン戦争のコーナーもなくなっていて、あったのはどこの博物館にもあるような第2次大戦にいかに勝利を得たか、や功労者の掲示ばかりだった。

 

 
 アバカン市の地図と名所
 
 拡大するにはここをクリック

 本屋で買った『アバカン市の地図と名所』というカードには教会が3つの他、おなじみの戦勝戦記念碑、鉄道駅、バス発着駅、空港、中央郵便局、テレビ塔、スタジアム、中央銀行、大学、共和国政府役所、カジノ、動物園、アバカン川に架かる橋、青年会館、中央市場、劇場、人形劇場、子供公園、広告会社、映画館、文化センター、卸売市場、展示会館、オフィイス・ビル、噴水、並木道、さらにホテルが2軒と、デパートが3軒が載っていた。ディーマの親戚の地元アバカンの人も、「こんなものが名所になるのかねえ」と言っていた。車でアバカン市をぐるぐる回ったので、たぶん、上記の建物はみんな窓から見ただろう。わざわざ降りて写真を撮ったところも2、3箇所あった。
 暗くならないうちにクラスノヤルスクに帰ろうと、早めに引き上げた。途中で草原の日没を見た。樹氷はない。木がないからだ。草原の草々に氷の塊が着いたのは草氷といえばいいのか。緯度が高いので黄昏は長い。だがクラスノヤルスク地方に入る頃には真っ暗になった。確かに暗がりの草原道路のドライブなんて面白くない。だが、遮るもののない星空がきれいなはず。降りて見ようと思ったが、数分で体ががちがちに凍り始めて、あわてて車に戻った。車の窓から、満天の星空って見えないものだ。

 12月20日(火)は、夕方モスクワに向けて飛行機で立つ日だった。その日までパスポートなどを『知り合い』に、裏で事情を知るために預けてあった。「可能であろう」と言う答えだけで、どの程度『知り合い』が動き、どの程度の進展があったのかさっぱりわかりません。何しろ間に何人かが立っているので、「可能であろう」のニュアンスも少しずつ変わってきているのか。
 エレーナ・ザハロヴナからの電話を待っていたが、飛行場へ出発間際になっても知らせがなかったので、こちらから電話して進展のなかったパスポートとロシア居住許可証を受け取って、その足でクラスノヤルスクを飛び立った。  

 帰りのモスクワ、インナばあさんと(ここから追記ではない)
   クラスノヤルスクとモスクワの時差が4時間、飛行時間も約4時間ですから、クラスノヤルスクを夕方7時に出発すると、モスクワへはやはり夕方の7時頃に到着します。朝9時クラスノヤルスク出発の便もあり、値段はクラスノヤルスク朝出発便が片道約8000ルーブル(32000円)で、夕方出発便が4800ルーブルです。こんなに差があるのは、クラスノヤルスクのビジネスマンが朝モスクワに着けばその日1日仕事ができるが、夕方ではそうは行きません。モスクワからクラスノヤルスクの帰りの便は夕方モスクワを出発すれば朝クラスノヤルスクに着くという便の方が値段が高いのです。そうすればモスクワで無駄な1泊をしなくてすみます。
 でも、私は夕方着いてその日はモスクワに泊るだけなので、安い方の便でモスクワに立ちました。前回2月に来た時は機中泊で、次の日のモスクワ滞在がかなり疲れたからです。モスクワでは13日前に日本から着いた時と同様、ナターシャ・ベンチャーロヴァが私のために空港へタクシーを差し向けアパートも用意してくれていました。彼女のおかげで、モスクワ滞在が1泊増えても、あまり心配しなくてもいいのです。
ナターシャのアパートのあるモスクワ南部

 前述のように、ナターシャはニキータとイルクーツクに住んでいますが、モスクワに自分のアパートを持っていて、それを賃貸ししていました。でも、イルクーツクにアパートを買うため、今それを売ろうとしているのです。昔ですと、アパートは交換するものでしたが、今では個人財産になった不動産は売却することができます。
 しかし、ここでは簡単ではありません。売却という仕事を完遂するために、数ヶ月の予定で、ナターシャはイルクーツクからモスクワに出て自分のアパートに住み込んでいたのです。不動産売却のためにどんな書類が必要なのか、私には意外なことも多いです。たとえば、病院へ行って自分は精神的に正常な人間であるという診断書まで必要なのです。ナターシャはそれらすべてをそろえ、買い手である銀行(か、その代理者)へ提出したようです。銀行がナターシャからアパートを一旦購入して、居住希望者にクレジットで売るわけです。
 私が12月7日に日本からモスクワについた頃は、まだ書類が審査中で、ナターシャはアパートに住んで結果待ちの状態でした。結果が出るのは年末になるようで、それまでずっとナターシャはモスクワにいるのは退屈だから、私がモスクワに戻ってくる12月20日頃はカレリア地方へ行っているが、アパートはまだ売却されていないので、私が使ってもかまわない。それで、ナターシャのお母さんのインナさんに来てもらって、私と一緒に住んでもらうよう段取りをたてておいてくれたのです。

 モスクワ経由でロシアに出入りする目的の1つは、今はモスクワにいるセルゲイに会うことでしたから、前もってクラスノヤルスクから電話で連絡をしておこうとしました。でも通じません。それなら、電報を打てばいいよと、クラスノヤルスクで私の宿主のニーナ・フョードロフさんに言われました。なるほど。でも、電報を打つには郵便局の電報窓口へ行かなければなりません。ロシア人の若い友人と散歩していた時、クラスノヤルスク中央郵便局へ入って窓口を探しました。やっと見つけた窓口はやはり順番ができています。用紙を取ってきて、その友人に口述筆記で書いてもらいました。宛先の住所なども電文内容に含まれるというところが変わっています。自分で書けないこともないでしょうが、そうすると、どこか不備があったりして、ようやく自分の順番が来て窓口にさし出しても、書き直しさせられ、また順番をつきなおしたりして時間がやたらかかるでしょう。
 電報は電文を宛名人に届けるのでしょうか、それとも宛名人近くの電報局が電話で読み上げるのでしょうか。自分の家に電話がなかったり、あってもその電話が市外通話できなかったりする時には、電報は通信手段として『便利』なのでしょうか。
 第一、こんなに順番がついているところを見ると、かなり利用されているのでしょう。友人に手伝ってもらったおかげで無事、打つことができました。

 さて、モスクワ、国内線ドモジェドヴォ空港に着いて、ナターシャの代わりにインナさんがいてくれるというアパートに入ってからは、彼女とお付き合いすることになりました。インナさんは、
「ナターシャが都合悪いなら、私が面倒見ましょう」と言ってくれたそうです。ナターシャから
「私のママは、なかなか性格が難しいわよ」と予告は受けていましたが、何日も同居するわけでなく、私は外国人ですから平気です。
 しかし、自分の意見とやりかたを絶対的に人に押し付ける、自分の過去の履歴をあからさま自慢する、言い出したら人の意見を聞かないなど、確かに付き合うのに難しそうでした。私が、
「明日11時にセリョージャと会う予定です。電報を打っておきましたから、届いていれば来るでしょう」とモスクワ滞在中の予定を言うと、
「あんた、何か、顔に塗るもの持ってるの。モスクワっ子がどんなに上手にお化粧してるか知ってるでしょう。あんた、それでは負けるわよ」だって。無理もないです。クラスノヤルスク飛行場でディーマたちに分かれるとコンタクトをはずし、分厚いガラスのめがねをかけ、化粧気なしで『着たきりすずめ』だったのですから。モスクワっ子と張り合おうとは思わなかったのですが、一応コンタクト・レンズをはめ、ちょっと化粧しました。着たきりすずめは仕方がありません。
 しかし、インナばあさんが私の『デート』に付き添っていくと言うのにはちょっと驚きました。ロシアでは拉致されることもあるし、それではナターシャから依頼されたことを成就することができないではないか、と言うのです。言い出したら聞かない人のようなので、好きなようにさせました。もしセルゲイが現れれば、この二人は釣り合いが取れると思ったくらいです。
 現れセルゲイは、例によってインナばあさんのことを『国家保安部』の手先だとかなんだとか言うことでしょう。約束の11時よりかなり前に、約束の場所に着きました。なぜなら、その日はそれ以外の予定がなかったからです。しかし、インナばあさんの期待に反してセルゲイは現れませんでした。なぜでしょう。私も待ちくたびれてもう一度電話してみました。すると今まで通じなかった電話が、ふと、通じました。それまで通じなかったのは、電話代不払いか、電話局の機械の故障か、電話線が壁から抜けていたかで通話不能になっていたか、呼び出し音にあえて答えなかったからでしょうか。
「電報読んだ?待ってるのにどうして来ないのよ」と言うと、読んでない、もし私が望むなら、空港まで送っていってもいい、ということです。夕方5時にここに来られると言うのです。それより早くはどうしても着けないのだそうです。私の飛行機は10時50分発ですから、それまで話す時間もありそうです。

待合場所の地下鉄駅近くのショッピングセンタ
セリョージャを待ちくたびれたインナさん

 アパートは、シェレメチエヴォ国際空港とは、町の反対側にあります。インナばあさんが言うには、この雪空、道はラッシュで行き着くまでに何時間かかるかわからない、3時ごろ出発せよ、ということです。タクシー会社に電話してみると5時半頃でいいだろうということです。
「この雪道では、3時に出発しなければ絶対間に合わない。心の中で神様に雪が止むように祈るがいい」とインナばあさんは不満そうです。さらに、5時には、その待ち合わせ場所に、また私に付き添っていくと言うのです。なぜなら、セルゲイ私を拉致するかもしれないし、または、私がセルゲイと別れられなくてタクシーに遅れるかもしれない、それではナターシャに対して責任を果たせられないから、と言って聞きません。
 インナばあさんの好奇心はまたも裏切られ、5時15分になってもセリョージャは現れませんでした。インナばあさんのお許しでは、待っても5時15分まで、なのでした。そこからアパートまでは10分ほどかかるので5時30分のタクシーに間に合うためには絶対に5時15分までしか許せない、5時半に来るタクシーに乗らなければ、この雪道の渋滞に飛行機には間に合わない、ということです。セリョージャは来ると嘘をついたのだ、という断罪です。
 結局12月21日はモスクワ観光もなく、インナばあさんにお付き合いをお願いしただけで過ぎることになりそうです。クラスノヤルスクにもう1日いたほうがましなくらいでした。

  シェレメチエヴォ空港へ
  5時半にアパートの下に下りて待ちますが、普通は定刻より早く現れるはずのタクシーがなぜか現れません。タクシー会社に電話しても、近くまで来ている、と言うばかりです。実に6時を過ぎても現れません。インナばあさんがタクシー会社に電話しろというので、かけました。何度も電話しろというので、何度も何度もかけました。
 6時半になって、もうすっかり外気に冷えて憔悴している外国人の私を見て隣人のばあさん達が、流しのタクシーを拾った方がいいと言います。7時近くなってやっと、インナばあさんが近くの街角に客待ちしていた流しのタクシーと話を決めてくれ、何とか、10時少し前、シェレメチエヴォ空港にたどり着いたのでした。ああよかった、間に合った。この慢性渋滞で遅れるかと思って、車のスピードメーターと時計ばかり見ていました。
 搭乗手続きはまだ続いています。大韓航空機でしたから韓国人の社員もいて韓国人乗客の手続きをしていました。私の搭乗手続きはロシア人女性で、
「座席は通路側にしてね、できたら隣の席を空にしておいてね」という私の願いを愛想よく聞いてくれました。もう、サービスのいい韓国にいるような対応です。
 出国パスポート検査の順番につきました。ここはいつも長い長い順番です。でも、今日はそれほど長くはなく、カレリア地方にいるナターシャに携帯で、ありがとう、無事出国しますという電話をかけた頃、もう私の順番になっていました。無事出国できることを微塵にも疑わず、入国した時と同じように、パスポートとロシア居住許可証、それから番号照会のため旧のパスポートも出しました。
 「マダム、ちょっと、こちらで待ってください」といわれ、窓口から少しはなれたところで待たされていた時も、出国できないとは露ほども思いませんでした。
  出国できない
  長く待たされました。
 窓口の横には事務室があり、中国人男性が入り口に立って、中の制服の女性に何か頼んでいます。そのうち別の上役らしい制服の女性が来て荒い言葉で彼らを追い払いました。場所が開いたので覗いてみると、私のパスポートとロシア居住許可証が机の上に載っています。そっと入っていって、中の制服の男性のほうに聞いてみると、ロシア居住許可証に旧パスポートの番号が書いてあるから、これでは出国はできない。ロシア居住許可証を発行したクラスノヤルスクに戻り、新パスポートにある番号に訂正してくれば問題ないのだ、とのことです。
「ロシア居住許可証を延長したいとクラスノヤルスクで手続きしていたのですが、できなかったのです」私は必死で説明しようとしました。
 
 陸軍中佐から渡された通知書
職員「なぜだね」
私「今、クラスノヤルスクで働いていないからです」
職員「なぜ日本人がソウル経由で帰るのかね」という問いにも、まじめに答えていました。「責任者が来て、(私の件を)決定する」とのことです。やがて、制服のボタンがピチピチ(太ったため)でやっと止めているような、それらしい上役の女性が入ってきたので
私「どう決まるのかしら」と言うと、彼女は
「否定的に」と短い言葉を投げて去っていきました。
 時差が4時間のクラスノヤルスク(だからクラスノヤルスクは夜中の2時過ぎ、だとは動転していた私には思いつかなかった)のヴァジムに携帯で電話し、苦境を訴えました。クラスノヤルスクの外国人課との連絡役はヴァジムでしたし、ロシア居住許可証について彼が一応引き受けてくれてましたから。
 そのうち、そこの責任者、つまり国境警備隊シェレメチエヴォ空港課の課長らしい男性が来て、不可と決定して、A4判の紙半分にсправка(照会。通知書)と書いた紙片を渡しました。

          その通知書の訳文  (訳文の下線部分は手書きで)
ロシア連邦保安庁 国境警備隊 赤旗勲章授与『モスクワ』支部
2003年12月21日 613 (2003年は5と手書きで修正) 
 通行証検査所КППという日付付きのパスポートにも押すはんこ
                      通知書
この通知書を誰に交付するのか。国籍と姓名、生年月日私のこと)
その人が提示した書類。外国人のロシア滞在許可証とその登録番号
その人にロシア連邦の国境を通過することを拒否されたのは 05年12月21日22時00分、その場所は通行証検査地 シェレメチエヴォ-2
その理由はロシア連邦法11条の『ロシア連邦国境について』に基づいている。(その後の空白に手書きで)、ロシア滞在許可証がパスポート1055xxx(私の新パスポートナンバー)に有効ではない
 検査所長の軍人の階級
陸軍中佐
 署名  Детриянин В.Н 
名字と名と父称の頭文字

 「どうして不可なのですか。東京のロシア大使館の館員も出入国できると言いましたし、クラスノヤルスクの方でも、出国に関して問題ないと言っています、この電話の人(つまりヴァジム)と話してください」と、頼みました。始めは、いやそんなことはできないといっていたその責任者も、私から携帯を受け取って、ヴァジムと話してくれました。事が係官の恣意次第で決まることがある国ですから、説得できるかと期待したのですが、ヴァジムの力には及ばなかったようです。
 私のほかに、この時刻出国で問題があったのはアルメニア女性でした。旧ソヴィエト連邦時代に作ったパスポートしかなかったからです。彼女は私のように無駄にあがかず、静かに去っていきました。

 搭乗券(日本で買った往復空港券が62,800円、空港税や燃油特別運賃を合わせて80,730円は、だから帰りの分は無効になってしまった)が戻された大韓航空の機内から、私のスーツケースが下ろされ、私の出国は絶望的のようでした。ヴァジムとディーマによれは、今日はこれ以上何もできないから、空港近くにホテルを取って泊るほかないとのことです。
 搭乗手続き口まで戻って、大韓航空の職員に私のチケットを見せると、そのロシア人職員はこれは格安航空券なので日付の変更はできない、でも一応ここに電話してはどうかと、番号を書いてくれました。

 スーツケースを引きずって、とぼとぼと空港の出口へ向かいました。出口には『タクシー受付』と書いた窓口がありました。そこへ目を向けたとたん、
「タクシーが必要かね」と何人かの怖そうな男性に呼び止められました。
「タクシーもいるけど、ホテルもいるのよ」と言うと、一番偉そうで、取り仕切っているような男性(彼が前述の私の民族性をいろいろに推測した人だ)が、
「隣にホテルはあるがそれは1泊300ドルもする。シェレメチエヴォNo.1(主に国内線)の近くのホテルなら1890ルーブルだ、そこに電話して空いている部屋があるかどうか聞いてあげよう」と、すぐ携帯を取り出します。

シェレメチエヴォの隣にあるホテル
(ホテル案内書の写真、この日の夜もそんな光景だったので)

 シェレメチエヴァの近くにあるホテルはめちゃ高いから、そこに泊るくらいなら、タクシー代を使ってモスクワに戻りそこの知り合い(インナばあちゃんだ)の家に泊った方が安いよとは、行きのタクシーの運転手が言っていたことです。
 私が去った後、インナばあさんはナターシャのアパートを閉めて、自分のアパートへ帰ったに違いありません。それでなくとも、インナばあさんのところへ戻ると言う気分にはなれませんでした。アパートと空港はモスクワの端から端と、遠いことですし。
 先ほどのボスのような男性が携帯で調べたところ、シェレメチエヴォ1の近くにある1890ルーブルのホテルは今のところ空きはあるということです。
 さてそこまでのタクシー代はというと、その男性がわざとらしくプライス表を出して言うには、
「空港からホテルまでは、ほら、1700ルーブルと書いてあるだろう。でも、領収書が必要ないなら1500ルーブルでどうかね」。何と言う事だ。先ほど、流しのタクシーでモスクワの反対の端からここまで来て1500ルーブルだったというのに、シェレメチエヴォ2から隣のシェレメチエヴォ1へ行くのに1500ルーブルだって? 馬鹿にしてるわ!怒って先に進みました。
 すると、別の男性が寄ってきて、
「あの人には内緒だけど1000ルーブルでどうかね」と言います。ぐっとにらみつけて、
「500ならまだいいわよ」と言うと、
「この空港では駐車料だって500するんだからね。では900ではどうかね」
「シェレメチエヴォ1まではここからすぐ近くではないの。それなのに900とは高すぎるでしょう、900も出したら都心までもいけるわよ」と相手にしなかったのです。
 しかし、この夜、雪の中、荷物を持って歩いて行くわけにもゆかず、ひとまず出口まで来て、客を乗せてきたタクシーを捕まえて値段を聞いてみると、500と言うので、それでも高くふっかけているのでしょうが、承知して乗り込みました。
 1890ルーブルと言われたシェレメチエヴォ1近くのホテルに行ってみると、満室なのでした。ホテルとタクシーは嫌な関係だ。受付に
「じゃ、この近くに、別のホテルはないの?」と聞き返します。
「オリムピエツというのがあるわ、そこへ行くにはね…あ、あんた、運転手がいるんなら、その人に説明するわ」と言うわけで、また、タクシーに乗り込み、そのオリムピエツ・ホテルに向かいました。
 タクシーの運転手なのに、道順まで教えられたホテルをなかなか見つけられず、同じ道を行ったり来たりして、通行人に聞きながらやっと探し当てた時は、夜中の12時でした。人里離れたところに建っています。
 タクシーに荷物を置いて受付に言って聞くと、シングルの部屋が空いていて、2100ルーブルだとのことです。チェックアウトは正午だけど、もう夜中の12時を過ぎているから次の日の正午でいいとのことです。つまり1日半が2100ルーブルと言うことです。
「あなたの飛行機はいつ出発するの。ここからシェレメチエヴォまでタクシーの注文は早めにね、500ルーブルですよ」と言ってくれました。わたしの乗る飛行機がいつ出発するかその時わかっていたら、もっと明るい顔つきをしていたでしょう。
 待たせてあったタクシーに戻って、
「部屋はあったわ、はい、これね」といって500ルーブル渡しました。
「シェレメチエヴォ1近くのホテルまでが500だったでしょうが。その後、どれだけ、このホテルを探して走り回ったことかね。」つまり、500では足りないと言うことですが、
「すぐ見つけられなかったのは私のせいではないわ。それに(高めの)相場は500なんだから」といって、納得させました。
 こうやって21日がやっと終わりました。

 出発できるはずだった日の次の日、渋滞のモスクワ

 次の日、起きると、日本大使館(領事部)に電話しました。これがモスクワのありがたいことです。ザバイカリスクやブレストにはそんなありがたい機関がなかったですから。長々と説明すると、
「クレジットカードはありますか。では、来られるようでしたら、こちらに来てもらいましょう」と言われました。でも、このオリムピエツというホテルがどの辺にあって、どうやったら都心にあるらしい大使館に行けるのかわかりません。ホテルがとても不便なところにあることは昨日のタクシーで私にもわかります。とにかく、ホテルのフロントに電話してタクシーを呼んでもらいました。

 後で、フロントの女性から聞いたことですが、もし、自力で行くとすると、ホテル近くのイワキノ村から昼間は2時間に1本のバスに乗り、電車のヒムキ駅前まで行きます。ヒムキ駅からレチノイ・ヴァクザール行きのバスに乗り換えます。レチノイ・ヴァクザールはモスクワ北東のはずれで、一番シェレメチエヴォ空港に近い地下鉄の終点駅です。地下鉄の駅まで来れば、地下鉄網を利用してどこへでも行けます。でも、ホテルからレチノイ・ヴァクザールまでが乗換えがうまくいかないと時間がかかりそうです。フロントの女性は、
「そんなことないわ、私たち、そうやって、モスクワから通ってきてるのよ。帰りは、そうやって来たらいいわよ」と言います。タクシーよりも地元の人が利用する公共交通機関のほうがずっと面白いです。こんなハプニングの後でなければ、ばかばかしいタクシー代を節約できるようせっかくフロントの女性が薦めてくれた味のある『乗り換えコース』を、もちろん試してみるのですが。

モスクワ市と近郊

 ロシアのホテルらしく、12時にお願いしますと言ってあったのに、タクシーが来たのは1時でした。フロントの女性の知り合いの個人タクシーを呼び出していたらしいです。ホテルからモスクワ中心地にある大使館のあるアルバート通りまで1000ルーブルだと言われました。(ほら、昨日の運転手どもがいかに、悪徳だったかよくわかります)。
 その運転手は訛りがあったので聞いてみると、グルジア出身だそうです。オリムピエツ・ホテルのあるヒムキ市に家族と住んでいるそうです。グルジアとロシアの問題について彼の話を車の中で拝聴していました。
 モスクワ中心部は慢性的な渋滞なので、地下鉄のほうが確実で速く、彼も中心部にはあまり行きたくないそうです。それで、地下鉄の駅のレチノイ・ヴァクザールまで、700ルーブルでどうかと言われました。帰りも電話してくれれば、レチノイ・ヴァクザールまで迎えに行く、その時は500ルーブルでいい、と言うのです。
「レチノイ・ヴァクザールから、アルバート駅までどうやって行ったらいいのかなあ」とつぶやくと、モスクワの地下鉄網の地図をくれました。
 そんなわけでレチノイ・ヴァクザールの地下鉄駅の前で降りました。モスクワの地図は家にたくさんあるのに、必要ないと思って今回の旅行には持って来ませんでした。グルジア人の運転手がくれた地図は、本当に助かりました。地下鉄アルバート駅で降りて、大使館までの道のりは、大使館の人に携帯電話を通して案内してもらいました。

 大使館(領事部)へ行けば、簡単に解決するかと思っていたのですが、そうはいきません。館員の新保さんは私の話をもう一度よく聞き、パスポートとロシア居住許可証を持って中へ入り、長い間出てきませんでした。
「時々、出国できないケースがあります。たとえば長期滞在員がビザを作ったのと違う新しいパスポートで出国しようとして許可されなかったということもあるのです。そんな時は、特別な出国ビザを出してもらうのですが、あなたの場合はビザではなく、ロシア居住許可証で入国しているので出せないと言うのです」
「なぜ、入国できたのでしょうか」と私。
「見逃されて、入国できたのでしょうか」と館員。
「日本出発前に、ロシア大使館にちゃんと聞いたところ、可能だと言われたのですよ」
「機関によって矛盾したことが言われるのですね」

 新保さんは何度か奥に入り、電話をかけたりしていたようですが、4時も過ぎた頃、
「最悪の場合はクラスノヤルスクに戻らなければならないかもしれません。そうならないようにこちらも努力しますが、正規のルートでは、今日はこれ以上無理のようです」
「では、『正規でない』ルートではできないのですか」とは、少しロシアぼけした私です。もちろん、正規の外交官の新保さんは笑っていました。
「明日は、日本は祭日(天皇誕生日)で、あさっては土曜日ですから、わかるのは月曜日ですか」と聞いたところ、日本が祭日でも一応仕事をしているそうです。ロシアは祭日ではないので、明日、もしかしたら解決するかもしれません。
 でも、ホテル代もタクシー代も必要ですから、大使館の帰り道、アルバート地下鉄駅の近くにあるビリヤード場で100ドルほどルーブルに替えました。オリムピエツ・ホテル滞在も不便です。モスクワに誰か知り合いはないかと考えました。ピョートルがいます。電話してみました。
「明日からお正月休みにカナリア諸島へ家族と一緒に行くが、アパートは空いているから、どうぞ、住んでください。アルバート街に今いるのですか。そこからの来方は…」と説明してくれます。
 道端で電話したので、周りの騒音のため、相手の声がよく聞こえません。100ドル両替した先ほどの薄暗いけど、時間が早くてまだ客がいないビリヤード場に入って、電話を続けました。ビリヤード場のガードマン(か主人)が、どうぞここにおかけくださいと、いすを勧めてくれます。ピョートルが自分の住所を言うのですが聞き取れません。そのガードマンに聞き取ってもらいました。

 ピョートルは親切に自分のアパートを提供してくれましたが、そのアパートはアルバート街からもシェレメチエヴォ空港からも、もちろんオリムピエツ・ホテルからも遠くで、モスクワの反対側にあります。今からホテルに戻り、荷物を持ってピョートルのアパートに行き、帰国の折にはまたシェレメチエヴォに行くのは、タクシー代だけでも大変だと思いました。
 ひとまず、買い物をして地下鉄に乗りました。ホテルの近くには自然の他は店も何もないです。ライ麦ビスケットと紅茶、個装のチーズ、チョコレートと言うのが私のいつもの旅行食です。厳しい条件でもこれで数日は生き長らえることができ、お腹も壊しません。

 グルジア人の個人タクシー運転手がくれたモスクワ地下鉄地図のおかげで、レチノイ・ヴァクザールにまで戻りました。終点地下鉄駅のレチノイ・ヴァクザールから出てみると、夕方の通勤者でごった返しています。いくつもあるバス停には長い列ができています。ヒムキ行きのバスもきっとこのうちどれかから出ているのでしょう。みんな着膨れしているので、こんな長い列では並んでいる人全部が乗れず、次のバスになる人もいるでしょう。
「あのう、ヒムキ行きのバスはどれでしょう」と道行く人に聞いて、列の最後に並び、この泥雪の中長い間待つ元気があるはずないと思っていたので、アルバート街を出発する時から、もう電話であの500ルーブルといったグルジア人のタクシーを呼んでおきました。

 オリムピエツ・ホテルというのはモスクワ・オリンピックの時建てられたホテルで、観光旅行者用ホテルやビジネスホテルと言うより、遠征スポーツマン用宿泊所で、ジムやプールなどがあります。でもそんなものより泊り客が使えるインターネットでもあったほうがよっぽど便利でした。
 全くここは一旦ホテルに入ってしまうと、部屋で電話をかけるか洗濯をする以外何もできません。
 クラスノヤルスクに電話して、大使館の話を伝えました。クラスノヤルスクのどこに問い合わせたらいいか大使館員が尋ねていたというと、調べて、明日すぐ連絡すると言うのです。

 こうやって22日も終わりました。

 いつ出国できるのだろう モスクワ生活
   23日(金曜日)朝、ピョ−トルから電話があって、もし、自分のアパートに住むようなら、鍵を隣人に預けておくから、と言うのです。私はいつ出国できるのでしょう。もし、長期になるようなら、インナばあさんではない頼りになる知り合いがいたら心丈夫です。
「アパートのお世話になるかどうかわかりませんが、ピョートルさんのお知り合いを紹介してもらえないでしょうか」というと、奥さんの知り合いのスヴェータの電話番号を教えてくれて、何かあったらここへ連絡するように、と言ってくれました。

 クラスノヤルスクのヴァジムから、クラスノヤルスク外国人登録部の電話番号と責任者の名前を言ってきました。それを大使館員の新保さんに伝えようと、電話してみましたが、今日は日本の祭日で休館日なので、ロシア語と日本語で
「月曜日におかけ直しください」という自動応答が流れてきます。でも、その録音の後にありがたいことに日本語だけで、
「緊急の場合は…におかけください」と流れます。遠慮なく緊急の方にかけました。
 電話に出てくれた新保さんによると、そのクラスノヤルスクの番号に電話して、結果をまた知らせるとのことです。自分の携帯電話番号も教えてくれました。
オリンピエツ・ホテル(ホテル案内書の写真から。夏ならここは気持ちいいかもしれない)

 宙ぶらりんのモスクワ生活は続きます。ホテルを出て、一人でモスクワ見物する気分にもなれません。いつ大使館から呼び出しがかかってくるかわかりません(進展があるかも)。第一、モスクワ中心部へ出るにも、時間とお金がかかりそうです。
 モスクワ市の北、モスクワ州ヒムキ市に町村合併された元イワキノ村とかのはずれにあるこのホテルのとりえといったら周りが静観としているということだけです。夏なら、このモスクワ郊外の夕べを散歩するのも快適でしょう。シーズンオフで車なしでは、ただ不便なだけです。外へも出ず、ホテルの中をくまなく見て回りました。スポーツ施設のほかに、大団体が一度に食事が取れるようなだだっ広い食堂もあります。うろうろと見て回っていると、
「お食事ですか」と意外に愛想のいいウエイトレスです。愛想のよいのに気をよくして暇つぶしに食べてみることにしました。メニューは紙にタイプしてレジの横に置いてあり、それを見ながら注文します。レジのおばさんも愛想がよくて、
「スープは注文しないの?これが美味しいわよ」とか
「今日のクレープは美味しいわよ」とか言ってくれます。レジのおばさんに貰ったレシートをウエイトレスに渡すと(つまり支払いは済んでいると言うこと)、すぐに、まあまあの外観の料理を運んできてくれました。

 12時がホテルのチェックアウト時間なので、フロントへ行ってこの先の半日分のホテル代だけ払いました。半日分だからといって割高になるわけではないので、先の予定が決まらない時は少しずつ払った方がいいです。入国できないということはあっても出国できないとうことは絶対にないと思っていたので、あまり余分に持ってこなかった常備薬もなくなりかけています。

 4時近くになったのに、大使館から電話がないのでこちらからかけてみました。
「うーん。一口に言って、今打てる手はすべて打ったのに、だめですね。外務省経由の特別出国ビザを頼んでも居住許可書で入国した人には出せないと言われたし、あちこちに電話をかけても受話器を取らないところもあるし、クラスノヤルスクの外国人課に電話しましたが、そこでは絶対通過できると言っているし、今のところお手上げですね」といわれても困るではないですか。頼みの綱の大使館なのに。いつまでも滞在していては、私のロシア居住許可証の有効期限さえも切れるではないですか。
「いや、そんなに延びることはないですよ。月曜日にモスクワの外国人登録部へ行ってみましょうか」
「私一人で行くんですか。」と、私。一人心細げに順番についている自分を想像しました。
「いや、そんなことはないですよ」。大使館員の誰かが付き添ってくれるなら寂しくはないです。
「月曜日まで、何もできないわけですね」
「いや、もう一度(出国を)やってみたらどうですか」
「でも、航空券を買いなおさなくてはなりませんよ。もし、まただめなら、その航空券が無駄になります」
「格安航空券でないなら、日付変更ができますよ。だめもとでやってみたらどうですか」
「モスクワから日本へ正規の片道航空券って高いでしょうねえ」
「安くはないですよ。クレジットカードはありますね。それで買えますよ」
「また、シェレメチエヴォ空港のパスポート検査のところを通るのですね。彼らのコンピューターに私の名前がチェックしてあって、通れないのではないですか」
「いや、そんなことはないですよ、犯罪者ではないのですから」
「では、だめもとでやってみますか」
「アエロフロートのモスクワ東京便は19時40分発なので間に合うかもしれませんよ」
「チケットをいそいで買わなくてはなりませんね。どこで買えばいいでしょうか」。これがクラスノヤルスクなら、どこで航空券を買えばいいか、どの便ならどこで買えば安いかよく知ってますし、足もあります。新保さんはこの広いモスクワで、知り合いもなさそうな私をかわいそうと思ったのか、
「日本語がわかるところがありますよ。配達してくれるかもしれません」と電話番号を調べて教えてくれました。日本語は通じても通じなくてもいいが、配達してくれるとはありがたい。

  『ダメモト作戦』
  日本で買うと東京モスクワのアエロフロートの片道の正規のチケットは20万位だと言われたことを覚えています。ロシアで買えばそれより安いかもしれませんが、いやな金額です。新保さんに聞いた番号に電話してみると、その日の業務は終わったと自動音声(ロシア語)が流れていました。
 それで、2日前、空港で一旦は機内に乗せた私のスーツケースが下ろされた時、電話番号を書いてもらった大韓航空に電話かけて、値段とフライトスケジュールを聞いてみました。今日の22時50分発で、片道は730ドルくらい(日本で買う格安往復チケットと同じくらい、だから倍の値段だけど)、空席はあって、チケットは空港の6階事務所で買えるということです。シェレメチエヴォ空港のターミナルビルに6階があるとは知りませんでした。部外者は入れないのではないでしょうか。
「どうやって事務所へ行けばいいのですか。」
「エレベーターがあります。」つまり、誰でも行けると言うことか。
 配達ではないアエロフロートのチケットのほうは1階に売っているでしょうか。

 そのときはもう4時過ぎでしたし、アエロフロートだと、東京行きは19時40分出発でしたし、大韓航空は22時50分でしたが、『だめもと』作戦を実行するために第一にしたことは、まずはタクシーを呼ぶことでした。それもホテルのフロントに頼んだのでは、1時間も2時間もかかるので、部屋にあったタクシー会社の一覧表の上から順に電話してみました。ホテルの名前と行き先を聞くと、
「車が近づいたら電話します」といって、相手は電話を切ってしまいました。料金はいくらか聞く暇もありませんでした。ホテルは、もし出発できてもできなくても、引き払う予定です。出発できなかったら、もう慌てることなく、せめてレチノイ・ヴァクザール地下鉄駅の近くにあるソユーズ・ホテルに行こうと思いました。電話で料金も聞いておいたのです。(そのホテルの電話番号は、モスクワに一人住んでいるクラスノヤルスク大学での元の教え子が、電話で教えてくれたのです。)

 30分より早くはタクシーから電話がかかってこないだろうと思いましたが、手早く荷物をまとめました。20分ぐらいで電話があって、もう玄関先で待っていると言うのです。ですから、シェレメチエヴォ空港に着いたのはまだ5時前で、アエロフロート航空便の出発にも間に合う時間でしたが、エレベーターで6階まで上がりました。6階は航空会社の事務所で、日本航空の事務所もあります。
 大韓航空の事務所を探して入り、
「今日のチケットを買いたいのだけど」と言うと、前々日、出発できなかった私にスーツケースを返してくれた男性ロシア人職員がいて、すぐ私を思い出しました。
「書類はちゃんと準備できたの?ちょっとパスポートを貸しなさい。僕が国境警備隊に聞いてくるから」。そんなことをされたのでは、だめに決まっています。
「いや、大使館の人も、クラスノヤルスクも大丈夫だといってるから」と私。
「いやいや、大使館は大使館、空港の国境警備隊は警備隊だからね。また、出発できなかったらこちらも困るからね(機内への荷物運搬会社に罰金を払わなくてはならないのか)」
「チケットを一応買って、もし今日、出発できなかったら、日付を書き換えます。」
「あ、それならいいですよ。」
 私はいつかは日本に帰るでしょうし、帰る以上は航空券(1年間有効)は必要ですから。
 大使館の新保さんが言ったようにカードで買えました、クラスノヤルスクでは買えないのに。

 下へ降りるとまだ6時前です。搭乗手続きが始まるまでにまだまだ時間があります。空港内をぶらぶらして時間をつぶしました。念のためアエロフロートの窓口で料金を聞くと、モスクワ成田便は往復で1100ドル、片道で1050ドルだそうです。もっと安いのはないかと尋ねてみましたが、これが一番安いのだそうです。当日の直行便ではそうでしょう。(先ほど購入したチケットの730ドルは、ソウル経由関西空港です)
 1階の売店の中に本屋があって、そこでモスクワ詳細地図を買いました。もしかしたらのモスクワ長期滞在に備えたのです。クラスノヤルスクなら何がどこにあるかよくわかるのに、モスクワではどの方向にあるのかもわかりません。

 7時50分、大韓空港の搭乗手続きが始まったので、順番に並びました。先般の男性ロシア人職員がすばやく私を見つけ、私の手続きをしていた同僚に、
「この人の荷物は機内に乗せないように。ちょっと書類に問題があるからね。一度乗せてしまうと下ろすのは有料になるから」と、絶望的なことを言っています。私には
「パスポート審査がパスできれば、ちゃんと乗せますよ」とウインクするのですが。
 搭乗手続きが終わると、パスポート審査の長い順番につきます。前々日に私に意地悪をした国境警備員が窓口を出たり入ったりしています。同じ顔ぶれです。前々日と同じパスポートとロシア居住許可証ですから出国できない可能性が大きいのですが、もし、これで出国できるとすると、前々日の不可は何だったのでしょう。出国できてもできなくても腹が立つことだと思いました。新保さんはもう勤務時間は終わっているのに携帯にかけるのは気の毒だとは思いましたが、
「今、パスポート審査の順番です。審査員の顔ぶれは一昨日と同じなのでたぶんだめでしょう」と言うと、
「だめでもだめでなくても、結果を知らせてほしい」という、力強い励ましの言葉です。

 窓口は、なるべく前々日とは違う職員のところを選びました。古いパスポートなんて出さない方がいいのです。そんなものを出すから、ロシア居住許可証の番号が古いパスポートのものだと強調されてしまうのです。だめもとなので気が楽です。今回は時間もかけず、すぐにばたんばたんとスタンプを押してOKです。拍子抜けしたような、腹が立つような複雑な気持ちで通り抜けました。

 さて、搭乗手続きのカウンター近くに置かれたままの私のスーツケースはどうなったでしょう。
 先ほどの大韓航空のロシア人職員がトランシーバーを持って、待合室を通り過ぎ搭乗口のほうへ行ったり、また戻ってきて、搭乗手続きカウンターの方に消えたりしています。呼び止めて、
「私の荷物、忘れないでね」というと、
「おっ、(パスポート審査窓口を)通れたんですか」と、私のことをしっかりと思い出したようですから、荷物も大丈夫だと思いました。でも、荷物を運ぶ時、おせっかいにも私のことを国境警備隊に念を押して、また、彼らを悩ませることがないように。
 10時も過ぎた時刻でしたが、大使館の新保さんに電話して、なぜか、今度は簡単に通ってしまったことを知らせました。なぜ通れたのか知りたかったのですが、新保さんもわからないそうです。窓口の審査員によって違うとしか理解できません。

 どうせ、航空券を買いなおして、ソウル経由で帰国するのなら、ソウルから大阪にしないで(乗継がうまくいけば)小松にすればよかったです。それどころか、私のことをロシア国外に出したくないと言うのなら、いっそ、モスクワにあと1週間も滞在すればよかったです。ピョートルの知り合いのスヴェータに連絡して、スヴェータと親しくなるとか、ピョートルの留守宅を気ままに使って、モスクワ生活をゆっくり楽しむとか、いっそ、ロシア国内旅行をやり直すとかすればよかったのに、なぜ、あんなに急いで、帰国便に乗ってしまったのでしょう。
 もし、滞在しようとすれば、いつまで滞在できたでしょうか
  後日
  後でナターシャ・ベンチャーロヴァに、モスクワ体験の話をしました。彼女の知り合いのシリア人も、シェレメチエヴォ空港で苦しんだそうです。彼は、あるテロリストに顔が似ていると言うことで、飛行機を降りた後の入国パスポート審査の前で停められました。そして、まる2日間、飛行機到着口と入国審査窓口の間の空間で、食料もお金(ルーブル)もなく座っていました。彼の妻が100ドルを出すと、彼に水とサンドイッチが届けられたそうです。

 今回のクラスノヤルスク滞在中、私のロシア居住許可証延長はできませんでしたが、ヴァジムは私の帰国後もエレーナ・ザハロヴナを通じて、彼女が勧める3年間の臨時ロシア居住許可証をとると言っています。
 そのための書類の、日本パスポートのロシア語訳(ロシア領事館の認証つき、手数料が3000円)、白黒写真6枚、銀行預金証明書(英文つき、文書料500円)、県警発行の無犯罪証明書(英、独、仏、西語つき、無料)などを、郵便で送りました。ヴァジムは英文の2通をクラスノヤルスク商工会議所の法定通訳にロシア語に翻訳して貰ったそうです(翻訳料1100ルーブル4500円)。また、クラスノヤルスク大学に連絡して、私の2001年から2004年までの在職証明書(その前は1年契約講師だった)も入手してもらいました。エレーナ・ザハロヴナによれば、彼女のルートを通じれて、私がクラスノヤルスクにいなくても取得できるそうです。
 ロシア居住許可証にこだわらず、旅行会社を通じてビザを取って行ったほうが、面倒がないかもしれません。が、国境で問題起きたのはたった3回です。今まで何度国境を出入りしたか知れません。特にリスクを求めているわけではなく、ほぼ万全と思って出かけるのに、ハプニングが起きてしまいます。
 今回帰国して数日間は朝起きる前に、ロシアであちこちの役所の窓口を駆け回ったり、電話をかけまくったりしている夢をたびたび見ました。よかったのは対応の職員が皆親切で、ほとんど友達のように私の説明を聞いてくれ、親身になって教えてくれたことです。寝言はたぶん言わなかったでしょう。

(後日の後日)『外国人のロシア居住許可証』は結局延長はされませんでした。普通の個人招待ビザ(3ヶ月も有効)でロシアへ往復するようになり、4週間以内ならば観光ビザを取っています。(2020年)

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