up date | 2006年11月12日 | (追記・校正: 2008年6月23日、2008年7月4日、2010年5月30日、2013年5月30日、2019年11月15日、2020年7月28日、2022年3月15日) |
(7) ハカシア共和国、サヤノゴルスク市へ 2003年11月7日から11月11日 |
Саяногорск в Хакасии с 7 -11 ноября2003
この年度は大学の授業の合間をぬってエネルギッシュに旅に出ていました。私の持ち時間は週に18時間程度だったので、授業時間を寄せて時間割を作ってもらえば、週休3日や4日も可能です。途中に祭日があれば、日曜日とあわせて5,6日位の旅へは出かけられます。 ロシアで秋の祭日といえば、11月7日の旧革命記念日があります。ソ連時代は7日ばかりではなく翌日の8日も祭日でした。ソ連解体後は『同意と和解の日』と名前を変えました。(その後、改名しても11月7日では『社会主義』革命を連想させるとして、2005年には11月4日に変更になり名称も『国民結束の日』となった)。 追記:ロシアの祝日(2005年当時) 1月7日 クリスマス(ロシア正教会公認のユリウス暦の12月25日) 1月14日 旧正月(ユリウス暦の1月1日、2020年以降の祝祭日にはない) 2月23日 祖国英雄の日・祖国防衛の日(元ソ連地上軍とソ連海軍の日) 3月8日 国際婦人デー 5月1日 春と労働の日(旧メーデー) 5月9日 対ドイツ戦勝記念日 6月12日 ロシアの日(1990年にロシア共和国がソ連に対して主権宣言・独立宣言をした日) 11月4日 国民団結の日(1612年ポーランド干渉軍からモスクワを解放した日、2022年の祝祭日にはない) 12月12日 憲法記念日(1993年ロシア連邦が施行された日、2020年の祝祭日にはない) 12月31日ー1月1日 年末年始の休日(振り替え休日を転用して1月8日まで)
サヤノゴルスク市はクラスノヤルスク地方の南のハカシア共和国にあり、クラスノヤルスク市から520キロほども離れています。ハカシア共和国の首都アバカンまでは鉄道が通じていますが、その先のサヤノゴルスクへはバスで行くしかありません。クラスノヤルスク発サヤノゴルスク行きの直通長距離バスが日に2,3便出ています。ロシアの長距離バスは快適とは言えないでしょうが、ぜひ体験したいものです。トーニャという道連れもいることですし。 トーニャは夜行バスで行きたそうでしたが、それはきつそうなので、11月7日の朝出発するバスに乗りました。目的地のサヤノゴルスクまで、エニセイ川にだいたい平行してアバカン市まで国道54号線があり、その先は411号線という地方道がさらにエニセイ川に沿ってサヤノゴルスクまで伸びています。道に沿って村々があり、新主要道は村を迂回して通じているが、バスはそれらの村の中に入って一回りしながら乗客を下ろしながらゆっくり進みます。サービス・エリアのようなところでトイレ休憩をしたりしながら9時間もかけて行きます。 『サービス・エリア』には食べ物を売っている店や食堂のようなところと公衆トイレがあって、長距離を行くには便利そうに聞こえます。でも、食べ物は衛生上の保障はまずないでしょうし、ロシアの公衆トイレはロシアを旅行したことのある人の間では超有名です。板に丸い穴が開いていて、普通はドアがありません。ドアのあるところは閉めると真っ暗になって、危険です。穴に落ちるべきものが周りに散乱しているからです。冬は内容物が凍っているので、まだ耐えられますが、滑って穴に落ちないよう、注意深くポーズをとらなければなりません。複数の穴が開いていて、数人が同時に用をたせるトイレもあります。(ここで、ロシア人は『小』の時はペーパーを使わないこともあると発見しました)。 自分の車で郊外に行った時などは、誰もいないところで青空の下でできますが、バスの時はそうもいきません。恐怖の公衆トイレに、他の乗客と一緒に順番をつかなくてはなりません。
アバカンの郷土博物館に中学生用ハカシア史が売っていました。それには、南シベリアでは紀元前2500年頃金石併用時代に入り、エニセイ中流のハカシア・ミヌシンスク盆地には青銅器文化や初期鉄器文化の遺跡が多く残っている、と書かれています。中国の文献にも有名な紀元前の匈奴や、6世紀の突厥帝国も、このあたりも勢力範囲でした。その頃、チュルク系古ハカシア人の国家が作られ、オルホン碑文で有名な突厥文字とは平行して、エニセイ(古ハカシア)文字が作られ、その碑文が150点は残っているそうです。これは、バスの窓からは見られません。 サヤノゴルスクのバス停には、トーニャのママが車で迎えに来ていました。家は郊外にあって完成はしていませんが、立派な2階建て1軒屋で西洋風暖炉もあります。母親はアバカンのテレビ局で働いていて、父親はロンドンに出稼ぎに行っているそうです。兄は中等職業専門学校卒業後家にいます。
サヤノゴルスク市のこのあたりはトーニャの家だけでなく新築の1軒屋が並んでいます。以前、これらの住宅を建てようと基礎工事をしていると、ここでも古代人の墓地が現れたそうです。それで、モスクワから考古学者たちが来て調査をしていきました。考古学者たちが丁寧に発掘物の土などを払って研究しているのを見て、まだ小さかったトーニャは将来考古学者になろうとさえ思ったそうです。 サヤノゴルスクの隣のマイナ村の旧石器時代遺跡からは、数年前、焼き粘土の人物像が発見されました。土器が出てくるのは新石器時代ですから、マイナ村の人物像は世界で最も古い土偶のひとつということで、今、サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ博物館に保存されているそうです。
サヤン山脈の峡谷を通って流れてくるエニセイ川に大発電所を作るにはこの辺がぴったりの地形だというので、1965年、この村にサヤノ・シューシェンスカヤ発電所の建設基地が作られました。建設予定地のもっと近くには建設労働者、建設後は発電所員村としてチェリョームシカ町ができ、サヤノ・シューシェンカヤ発電所から放出される水量の調整のため少し下流に小さなマイナ発電所ができました。 到着した次の日の11月8日にはトーニャのママたちとサヤノゴルスク見物をしたり、トーニャの出身高校へ行ってトーニャの恩師と写真を撮ったりしました。 9日はサヤノ・シューシェンスカヤ・ダム見物です。町からダムまで30キロほどあり,道路わきには、まず『1926年,ヴォルホーフ水力発電所(レニングラード州)、66メガワット』と書いた看板が現れ、次に『1933年、ドニエプル発電所、660メガワット』、さらに『1972年、クラスノヤルスク発電所、6000メガワット』と出て、さらい5分も行くと『サヤノ・シューシェンスカヤ発電所、6600メガワット』という看板が上がっていました。この国の巨大化志向がわかります。 途中のマイナ村近くには18世紀発見の銅を採掘する坑道入り口があり、今は採り尽くされて閉鎖になっている、とトーニャのママが説明してくれました。 さらに、このあたりは大理石の産地で、このサヤノゴルスクからダムまでの道路の下にも大理石の鉱脈があるそうです。つまり、この道路は大理石の上にできている(高価)な道ということになります。 しばらく行くと、道は突然高さ245メートル、幅1066メートルのコンクリート壁のダムに突き当たるように終わってしまいます。下から見上げるばかりではなく、エニセイ右岸には見晴台があり,ロシア第一のこの発電所を高所から見渡せます。そこへ行く道には検問所があり、車の中に武器など持っていないか調べられます。ダムを爆破すると人口5万のサヤノゴルスクが水没してしまうばかりでなく、このような発電所は戦略的にも重要建造物だからだそうです。 見晴台から降りると、私たちはもと来た道を戻り、マイナ村の対岸にあるシーザヤ村へ行きました。ここにはソ連時代から1990年代にかけて新たに建てられた唯一の教会があります。シーザヤ村は有名なレスリング選手ヤルィギンの故郷(生まれは1948年ケーメロフ州だがすぐシーザヤ村に移った)で、彼の主導で自分の母親と同じ名前の『聖エウドキア』教会が立てられました。シーザヤ村にはヤルィギンの出身学校の一部が国立『イヴァン・ヤルィギン』博物館となっています。事故死の2年後の1999年にできたそうです。職員は4人いてそのうち一人はヤルィギンの姉妹だそうです。入館者は私たちだけだったせいか、ガイドが丁寧に説明してくれて一回りするのに1時間以上かかりました。(『聖エウドキア教会へは2002年11月1日に訪れているが、博物館については知らなかった。地元の人と一緒でなかったから。クラスノヤルスクの古くからのスポーツセンターは、ヤルィギン名称だ。その名がついている戦闘機Tу-160もある)
アバカン川中流とエニセイ川の間は降水量が少なく背の低いヨモギやハネガヤなどの草の生えている草原(ステップ)です。トーニャのママの車でよく通りました。ちまちまとした島国の耕地に見慣れている私にはこうした果てしなく続く草原はエキゾチックです。夏なら放牧されている家畜が見えるでしょうが、今は荒野のようにも見えます。はるか地平線から、冬なので遅く昇ってくる太陽も、その太陽の光に照らされて枯れた草々についている霧氷が一面に光っているのも、はっと息を呑むほどの美しさでした。 帰りのバス代金が少し高かったのは、車内にビデオがあったからでしょう。途中に寄った『サービス・エリア』は行きの時と同じで、珍しい体験が、再度できました。でも、当分これ以上は体験したくないです。 <ホーム> <ページのはじめへ> ≪以下 後記> |
その後、トーニャは学生結婚をしたと 日本の私に便りをくれた |
女の子が生まれたと写真を送ってくれた | 2008年6月18日付メールで | |
<さらに後記> 2009年8月のサヤノ・シューシェンスカヤ発電所事故ののち、サヤノゴルスク市社会支援というところでで働いているトーニャからメールがあって、『自然災害の多い日本で、被災者や遺族を心理的にケアするプログラムがあったら教えてほしい』と書いてあった。死亡者のうち発電所職員はわずかで、外注の工事者が多かったという。 |
2012年夏、トーニャは2人の娘を連れて、クラスノヤルスクの同級生カーチャのところに遊びに行った。カーチャに2013年1月1日に女の子が生まれたそうだ。 | |||
≪後記、14年後≫ 2016年にはファイスブックで左のような家族写真が送られてきた。新しい家族(夫)かもしれない。モスクワから600キロのウリヤノフスク市(ロシアの自動車工場の町)に住んでいるとあった。夫は『ブリジストン』で日本語通訳として働いているそうだ。同級生の動向も書いてあって、日本人と結婚したナターシャにはタケルという男の子が生まれたとか。 2017年のフェイスブックの年賀状にはクリミアのヤルタ市に引っ越ししたとある。 |