クラスノヤルスク滞在記
と滞在後記         Welcome to my homepage
up date  2006年5月27日  (校正:2008年6月20日、2011年11月26日、2012年1月17日,4月24日、2016年6月29日、2018年12月29日、2019年11月19日、2020年10月7日、2022年3月29日)
16-(1) アジアの中心トゥヴァ(TYVA)共和国(その1)
                  2004年8月9日から8月21日

     Центр Азии - Тыва、 с 9 по 21 августа 2004

1)トゥヴァ共和国について                
  旅行会社を選ぶ
  クラスノヤルスクから首都クィジール市へ
  ユルタ村『アイ』
2) 小エニセイ川に沿って (地図)
  大エニセイ川の川くだり
  日本人観光グループ
  モングレーク山麓の鉱泉場へ
  『ジンギスカン』像
  青銅器時代の石画
3)南へ。タンヌ・オラ山脈を越えて(地図)
  国境のトレ・ホレ湖
  昔の首都サマガルタイ
  クィジール市見物
  ユルタ訪問
  トゥヴァ人民大学
  トゥヴァ再訪、再々訪
(2008年8月)、
(2012年)(2013年)(2014年)(2015年)(2016年)
 クィジール市の入り口に立つ牧夫像、
絵葉書から
 トゥヴァ共和国について
 トゥヴァ共和国はあまり知られていません。モンゴルの北で、クラスノヤルスク地方の南にあって、今はロシア連邦の『連邦構成主体』の一つ、つまり自治体です。
 私の住むクラスノヤルスク地方はロシアのほぼ中心にあって南北に長く、北は北極海から南はサヤン山脈まで続いています。サヤン山脈を越えるとトゥヴァ共和国です。クラスノヤルスク地方を南から北へ流れて北極海に注ぐエニセイ川も、サヤン山脈の奥(南) のトゥヴァ共和国に源を発します。東サヤン山脈(*)から流れてくる大エニセイ川(ビー・ヘム)とモンゴル(**)から流れてくる小エニセイ川(カー・ヘム)が、トゥヴァの首都クィジールで合流して『偉大なエニセイ川(ウルグ・ヘム)』となります。この合流地点がアジアの地理的中心と言われています。これは、19世紀末イギリス人の探検家によって測定されたのですが、その時は、ヨーロッパとアジアの境界がはっきりしていなかったので、正確には、クィジールからずれるかもしれません。でも、この辺にアジアのお臍がありそうです。合流地点に『アジアの中心』碑が建っていて、観光スポットになっています。
ロシア連邦の自治体
クラスノヤルスク地方とトゥヴァ共和国

黄色と黄緑は当時は自治管区だったが、2007年からはクラスノヤルスク地方の一部となった。
   (*)東サヤンの東部、トゥヴァ東北部のトッジャ高原
   (**)カー・ヘムの源流は北モンゴルのトゥヴァ国境付近、モンゴル内を流れるときは別名
 
 第1次世界大戦から第2次世界大戦までの間、『独立』の社会主義国だったのは、ソヴィエト社会主義共和国連邦とモンゴル人民共和国とトゥヴァ人民共和国の3国だけでした(と言っても、トゥヴァをすべての国が独立国と認めた訳ではない。トゥヴァを独立国としたのはソ連邦とモンゴルだけだった)。これも、あまり知られていないことの一つでした。1944年にトゥヴァはソ連に編入され、ソ連で最も新しい自治州になりました。その後、自治共和国になり、ソ連邦崩壊の1991年にロシア連邦を構成する共和国になりました。ロシア連邦は21の共和国と、6つの地方、49の州、10の自治管区など89の『主体(つまり、行政区・地方自治体、しかし、その後併合があり2011年には83、2015年には85)』からなっています。クラスノヤルスク地方やイルクーツク州のような『主体』とトゥヴァ共和国やエヴェンキ自治管区(当時)のような『主体』との違いは、歴史的な事情などによります。現在、それら自治体の自治性にも差があるのかもしれません。
 ちなみに、トゥヴァとクラスノヤルスクとの間の『国境』に税関と入国検問所が置かれていていますが、あまり税関らしくありません(1998年に通った時はかなり国境らしかったが)。先日、トゥヴァから大量のマリファナがトラックでクラスノヤルスク地方に流れたのですが、税関ではチェックされず、たまたま交通事故があって露見したというくらいです(テレビ・ニュースによる)。マリファナを採る大麻はクラスノヤルスクでもトゥヴァでも、雑草のように道端や野原に生えていますが、トゥヴァのが美味しいのだそうです。
 トゥヴァ共和国の面積は日本の半分弱で人口は30万人です。そのうち68%の約20万人がトゥヴァ人です(当時)。トゥヴァ人はモンゴルに約3万人、中国にも約5千人と合計23万人余もいます。クラスノヤルスクの南西でトゥヴァの北西にあるハカシアでは、先住民のハカシア人はたった13%の7万人しかいなくて、首長もロシア人、宗教もロシア正教で公用語もロシア語なのにハカシア『共和国』(ロシア連邦の1)です。それに比べ、奥地にあるトゥヴァは大統領もトゥヴァ人、公用語もトゥヴァ語(とロシア語)、宗教も仏教(正しくはチベット仏教)とシャマニズムというふうに、『共和国』らしいです。
 エニセイ川上流のトゥヴァの地には、やはりエニセイ川流域にあるハカシアと同様、古代遺跡が豊富なことでも有名です。動物や人間の姿が打刻された先史時代の石画がエニセイのほとり、草原の中や丘の斜面などで見かけます。さらに、紀元前に栄えたエニセイ・スキタイ文化のクルガン(墳墓)も多く残っています。その中でも、トゥヴァ北部で最近発掘された紀元前7世紀の『アルジャン2』遺跡は、盗掘されていなかったこと、スキタイ文明がよくわかる出土品の多さ、金細工の美しさで有名です。
 また、この地がテュルク人のウイグル帝国やキルギス帝国の一部だった6世紀から12世紀の遺跡として、ゴロディシュ(城壁)が、エニセイ川やその支流のヘムチック川が流れるトゥヴァ盆地に沿って点々と残っています。宗教儀式用の杯と剣を持ち、立派なひげを生やしたテュルク人の石柱も多く、一部は博物館に保存され、他はもともとあった場所に立っています。

 13世紀は、他の中央アジアの国々と同様、トゥヴァもモンゴル帝国に征服されました。モンゴル帝国没後も、中央アジアのモンゴル系ハン国(汗国)の支配下にあり、1757年から1911年までは清朝中国の一地方でした。辛亥革命後、清朝の支配を離れて、こんどはロシア帝国の保護国になりました。1921年、ロシア革命政府は帝政ロシアが結んだすべての不平等条約を廃棄したので、1944年の再合併までの23年間トゥヴァは独立国でした。その間に発行された切手は、トゥヴァらしい民族的図柄で、収集家の間では珍重されているそうです。未知の国トゥヴァのことを、この切手から知ったという人も少なくありません。

 旅行会社を選ぶ
 トゥヴァ旅行は早くから計画していました。数年前までは、トゥヴァ旅行と言えば時刻表の不正確な公共交通機関を乗り継ぎテントを担いで回るか、資金があるならヘリコプターをチャーターし、ガイドを雇って、大自然の中の川辺や湖へ行くといったイメージでした。でも、最近ではトゥヴァを扱う旅行会社も見つけられます。それで、手ごろな値段のツアーはないかと、首都クィジールの『シベリア・ヤマネコ』という旅行会社や、『サヤン・リング』というクラスノヤルスクの旅行会社と、電話や電子メールで交渉してみました。どちらも主に外国人観光客相手にハカシア、トゥヴァ地方を扱っています。
 トゥヴァのようなところは、普通のロシア人観光客には人気がないようです。自然を楽しむスポーツ派のロシア人たちは、旅行会社を通じないで自力で、サヤン山脈(トゥヴァの北)のトレッキングをします。トレッキング・コースは1970年代から開発されていて、山小屋(もともと地質探検家用の基地)もあります。旅行会社を通じるのは、ほとんど外国人団体客で、それも、ここ数年「世界中どこでも回ったから、どこか珍しいところを探している」というツーリストが多いとか。ですから、旅行業も発展しつつあります。旅行会社は、そうした大きめの団体を受け入れる他、5、6人の小グループ客も扱っていて、ガイド付きでマイクロバス(ワンボックス)かジープで回るというコースも宣伝しています。『サヤン・リング』社が、「7月17日から26日までの『トゥヴァの真珠』というコースなら、すでにモスクワから2人の希望者が申し込んでいるので、ここに合流したらどうか」と勧めてくれました。9日間の食費付きで滞在費と観光費が全部で8万8千円と、ロシアにしては高かったのですが、申し込みました。その後、さらにウクライナから2人の申し込みがあり、5人という少人数で旅行できることになりました。

 クラスノヤルスクから首都クィジール市へ
 クラスノヤルスク市から、『トゥヴァの真珠』コースの出発点クィジール市までは自力で行かなくてはなりません。クィジール市は、東西に伸びるシベリア幹線鉄道から800キロも離れていて、幹線鉄道からの支線もそこまでは伸びていません。ハカシア共和国の首都アバカン市までなら、アーチンスク・タイシェット分岐線が通じています。それで、アバカンまでは寝台車で行き、あとはバスで行きました。クラスノヤルスクから直接クィジールまで、飛行機で行くこともできますが、特に急ぐ旅でもないので陸上交通を利用することにしました。
オヤ湖と(ここでは雑草の)ヤナギラン
 
 クラスノヤルスク市からアバカン市まで自動車道では410キロですが、鉄道では遠回りで585キロになります。急行でも10時間半(普通列車では16時間)もかかります(片道2500円)。これは、寝台車で行くのにちょうどよい時間です。夕方8時にクラスノヤルスク駅を出発して、まだ明るいのでシベリアの景色を眺めています。暗くなった頃、寝て、起きた頃はアバカン駅です。アバカン市からクィジール市までの436キロは長距離バスが1日に3本出ています(片道1200円)。朝一番のバスは、列車が到着して30分後発車と言う都合のいい時間です。
 ところが、その日の列車はなぜか(ロシアではよくあることですが)、1時間遅れたので、ちょうどいいはずのバスには間に合いませんでした。昼のバスまでは何時間も待たなくてはなりません。でもタクシーで行くこともできます。このタクシーというのは乗合タクシーで、乗客が4人集まると出発します。すぐに集まれば、すぐに出発できますが、タクシー乗車希望者がいないような中途半端な時間だと、何時間も待たなければならないことがあります。今回は、列車が遅れてバスに間に合わなかった乗客がたくさんいたので、運転手は素早く他の乗客3人を集めてきました。一人2200円とそれほど高くはありません。相客がいやなら、一人で4人分の8800円払えばいいのです。確かに一人で貸し切ると、好きなところに止まってもらって写真を撮ったりできます。一人でなくても助手席に座って運転手と仲良くなれば、頼んだところで止まってくれますが。
国境での検問
 
 飛行機にしなかった理由は、アバカンからクィジールまでの、西サヤン山脈の山越えの景色が素晴らしいので、ゆっくりと眺めたかったからです。私たち乗客4人を載せた車は、オヤ川の水源で、年中冷たいことで有名なオヤ湖のそばを通り、ウス川に沿ったウス街道を登っていきました。遠くに巨人が横になって寝ている形の『眠れるサヤン』の山並を眺め(たかったのですが、残念ながら、その日は霧が出ていて視界が悪かったので、見えるはずのところを眺めただけ)、さらに山道を登っていくと、トゥラン盆地が見渡せる峠に出ます。その峠を越えるとトゥヴァ共和国で、(形式的)な国境があります。警備員も休憩中なのか検問所の周りに人影もありません。 
 トゥラン盆地
 
ユルタ村『アイ』 遠景↑、 中景↓ 
 
 
本物のユルタ、最後の日に訪問する 
 
 『アイ』の近くの川岸、運動会場で。オユマーと
 
 法曹界組合の運動会、綱引き
 
 腕相撲競技
 
 ちなみに、帰りは、運転手がわざわざ「外国人が乗っている」と警備員のところに報告に行ったので、呼び出されてパスポートを調べられたり、旅行日程を聞かれたりしました。これは10日以上滞在する旅行者はトゥヴァ共和国内務省パスポート・ビザ課に出向いて登録しておかなければならないと言う規則があるからです。でも、私が何日に入国したか記録がないのですから、これは形式的なものでしょうか。一通り聴取した後、トゥヴァ人の若い国境警備員が、「あんたに娘さんいるかね」と聞きます。「いるわよ」と言うと「仲人してくれないかな」などとかなり本気で言っていましたた。日本女性の夫になると、どんないいことがあると思っているのでしょうか。

  アバカンからクィジールまではいくつも山を越えたり、国境があったりするので、バスでは11時間かかりますが、タクシーでは6時間弱で行きます。トゥヴァに入ってすぐ通るトゥラン盆地でも高度千メートルはあります。さらに山を越えると、東西に400キロ、南北に25キロから75キロの広いトゥヴァ盆地にでます。盆地を囲んで高い山脈がそびえています。トゥヴァは山国です。
 

ユルタ村『アイ』   
 クィジール市から大エニセイ川(ビー・ヘム)に沿って20キロほど上流にいったところの風光明媚な河岸段丘に、私が8日間宿泊するユルタ村『アイ』があります。ユルタは遊牧民の移動式組み立て住居で、モンゴルではゲルと言い、直径数メートルの丸い形で円錐形の屋根があります。木の枠の外側を何枚ものフェルトの毛布で覆い、紐でぐるぐると縛ってあります。中は地面の上に直接じゅうたんが敷いてあります。東側に低いドアがあるだけで、窓はありません。真ん中に煮炊き用と暖房用のかまどがあり、その上の天井はフェルトをずらして開閉ができ、煙が出て行ったり、明かりを取ったり、空気の入れ替えができるようになっています。ドアの右側は女性用スペース、左側は男性用で、正面に長持ちがあり、その上に祭壇があります。本物のユルタは家財道具がたくさん置いてあり、羊などの料理のにおいがしますが、『アイ』のユルタは清潔で、かまどもダミーです。トゥヴァ風長持ちと、トゥヴァ風模様の布団のベッドが2台あって、電気蚊取り線香もついていました。

 『アイ』にはそんなユルタが16棟と食堂厨房とトイレ・シャワー棟があります。トイレはバイオ・トイレットという薬品で処理する簡易水洗トイレです。深い穴があって板が渡してあるだけというようなロシア田舎風トイレ小屋では、外国人が困惑するので、この『アイ』にあるようなバイオ・トイレットは、シベリアで下水道や汚水槽の発達していない郊外や山奥のちょっと値の張る宿泊設備で度々見かけるようになりました。ちなみに、シャワーの湯は横のエニセイ川の水を電力でくみ上げて沸かします。
 私たちのグループと言うのは、モスクワからのターニャ(女性35歳)とその息子ワーニャ(14歳)、ウクライナからのアントンとサーシャ(30歳くらいのカップル)と、クラスノヤルスクからの私の5人です。私以外の4人は飛行機便の都合で、前日、『アイ』に到着していて、その日は朝から体が沈まないくらい濃いという塩湖へ出かけていて留守でした。夕方到着した私はと言えば、到着日の観光プログラムはないので、一人で大エニセイの写真を撮ったり、ユルタ村を見て回ったり、部屋係のオユマー(トゥヴァ人女性)と親しくなり、ユルタのたたみ方や組み立て方を教えてもらったり(実地にではない)、近くの岸辺で司法官組合の運動会をしていたので見物したりしていました。
 そこでは法曹界の裁判長から普通の職員までがテントを持って泊まりこみ、3日がかりで区対抗運動会をしていました。トゥヴァには全部で17の行政区があるので、17のグループのトーナメントでした。オユマーと一緒に見ていました。司法官はロシア人よりもトゥヴァ人のほうがずっと多いと、オユマーの友達の法律事務所見習の青年が言っていました。1991年トゥヴァが共和国になると、ロシア人の多くはトゥヴァから引き上げたそうです。最高裁裁判長は太めの男性で、さすが、そのチームは綱引きで準決勝までいきました。
 
  トゥヴァの民族競技『フレッシュ』
(絵葉書から)

 腕相撲競技でも優勝者はトゥヴァ人です。そのあとフレッシュという相撲によく似たトゥヴァ独特の競技があるのですが、なかなか始まらないのでユルタに帰って寝ました。初日に区対抗運動会を見たおかげで、トゥヴァにはどこにどんな地方があるのかだいたい覚え、トゥヴァ語の地名に少し慣れることができました。

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