クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 March, 2015 (追記・校正:2015年4月17日、6月3日、10月26日、2016年6月7日、2018年11月6日、2019年12月11日、2021年10月25日、2023年5月8日) 
32-(1)    再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (1)
    6回目のトゥヴァ紀行
           2014年7月11日から8月13日(のうちの7月11日から7月15日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

アジアの中心トゥヴァ共和国(赤色)
 トゥヴァ共和国はアジアの中心、モンゴルの北西、ロシア連邦のハカシア(ハカス)共和国(首都はアバカン)やクラスノヤルスク地方の南にある。サヤン山脈、アルタイ山脈、タンヌ・オラ山脈に囲まれたトゥヴァ盆地が中心。首都はクィズール市。昔は ウリャンハイ地方と言って、1911年までは清朝中国の領土だった。清朝崩壊後は、ロシア帝国保護領となり、ロシア革命後の1921年タンヌ・トゥヴァ人民共和国として独立した。(ソ連邦とモンゴル人民共和国のみ独立国として承認)。1944年にソ連邦に合併され、トゥヴァ自治州となった。(1961年、トウヴァ自治共和国に昇格)。1991年ソ連崩壊でトゥヴァ共和国と改名。現在、ロシア連邦の連邦構成主体(地方行政体、クリミア共和国とセヴァストポリ連邦市を含)85の一つである。面積17万平方キロ(日本は38万平方キロ)、人口は31万人で、人口密度は平方キロ当たり2人弱。
 トゥヴァ共和国地図
年月日    目 次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸 (地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖のスイレン
4)7/21-7/20 北極圏のヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と バルタンさん 図書館 またバルタンさん アヤス君
5)7/21-7/23 鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国(地図)からの詩人 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の連絡道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 ユルタ訪問、高山の家畜ヤク カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
クラスノヤルスクからの記者
 6回目となってしまったトゥヴァ旅行。トゥヴァの首都クィズィールで、クラスノヤルスクからの記者に、「どうしてそんなに何度も来るのか」と、インタビューされてしまった。自然が美しいからとか、古代遺跡があるからとか、謎のような国だからとか、なぜか惹きつけられるからとか、質問が定型なので、月並みなことを答えたが、どれも、言い得ていない。私にはトゥヴァは日本とあまりにも違うように思われ、もっと知りたい、もっと知りたいと、何度も足を運んだのだ。多分世界中のたいていの国は日本と違うだろうから、それだけでは理由にならない。あっさりと訪れて帰ると言うことは苦手で、くどく知りたがる私はたまたま、クラスノヤルスク地方から近かったトゥヴァにかかりつけになったのかも知れない。草原の中に開けてくる古代遺跡はもちろんはじめから引きつけられた。古代遺跡がなくても遊牧のトゥに引きつけられた。芋づる式に知り合いができていくことも面白かった。

 今回も早めに、自宅からクラスノヤルスクへの行き方について検討した。途中1泊のソウル経由にして、チケット代を合計152,360円で購入。
 7月11日(金)小松からソウル(仁川)(大韓航空)
 7月12日(土)ソウルからウラジオストック(大韓航空)
 7月12日(土)ウラジヴォストックからクラスノヤルスク(アエロフロート航空)
 8月11日(月)クラスノヤルスクからウラジヴォストック(アエロフロート航空)
 8月12日(火)ウラジヴォストックからソウル(仁川)(大韓航空)
 8月13日(水)ソウル(仁川)から小松(大韓航空)
と言う日程。成田からハバロフスク経由で、その日のうちにクラスノヤルスクまで行くコースもある。実は、成田(羽田、または中部)から北京経由でクラスノヤルスクまで行くのが最も安い。ソウル・ウラジヴォストック間をアエロフロート航空で飛ぶと少し安い。だが、飛行機の延着や自宅からの交通も考えて上記のようにした。結局、飛行機はどの便も定刻に飛んだので、空港で長く待ち、仁川のホテル事情(一泊7000円と4000円)を視察体験するということになった。(それ以外にメリットはなかった)。
オリガ・ピーシコヴァさん
スラーヴァさんと『M72』

 ロシア内での約4週間の行程については、もっと早くから考えていた。クィズィールの新しい知り合いのオリガ・ピーシコヴァさんがトゥヴァを案内してあげると言っているので、前半は彼女宅に滞在することにした。彼女宅にホームステイしながら、2013年にも参加した古墳発掘キャンプ場でも過ごす。
 後半は、2013年にもトゥヴァ西とハカシアを案内してくれたスラーヴァさんと一緒にアルタイ山脈近くでモンゴルとの国境にも近いヒンディクティク湖へ行く。スラーヴァさんとの行程の費用は私が負担。ガソリン代の他に、彼に日当として2000ルーブル(当時のルートで約6000円、前の年の1500ルーブルが500ルーブルも値上がりして今年は2000ルーブルとなった)を支払うと言うものだった。あとで1日1500ルーブルに負けてもらえた。
 クラスノヤルスクでは、たびたび日本へ行くので円が必要なディーマさんに2回に分けて18万円分をルーブルに換えてもらった。結局、2500ルーブル(約7500円)余ったが、初めから手持ちしていたルーブルもあったので、全費用は35万円を下らなかった。これには、日本から買って行ったお土産代は含まれていない。アバカンとクィズィールで購入した本代(約15000円)は含まれるが、クラスノヤルスクの書店でカードで購入した分は含まれていない。
 クラスノヤルスク着、予定の確認
 7月12日(土)、クラスノヤルスクに定刻より早く22時過ぎに着いて待っていると、個人招待ビザを出してくれたいつものディーマさんが迎えに来てくれ、市から30キロ離れた空港から市内へ走った。この夜は満月だった。トゥヴァでは草原にテント泊をしたため、欠けて行き、また膨らんできた宵(午後10時11時頃)の白い月を眺めたことがたびたびあったのだ。4週間後クラスノヤルスクに戻った時にはほぼ満月になっていた。
 『ドーム・ホテル』と言う3階建で『コの字』型、石畳の中庭のある感じのいいホテルに案内された。市の中心にあるが、大通りからは入ったところにあるので、昔、滞在中(1997年から2004年)には気がつかなかった。あるいは最近できたのか。前年の『アグニャ・エニセイ・ホテル』より高くて1泊5900ルーブルだった。予約済みで、ディーマさんがカードで支払ってくれた。ホテルの表側は優雅だが、裏には古い木造小屋があり、その向こうには建設中止の骸骨のような建物が見えた。

 翌朝13日9時30分ぴったりに、スラーヴァさんが来て、日程の確認をする。今年、モンゴルとの国境地帯に近いムグール・アクシィ村のチンチ(日本語では珍奇に聞こえるが、トゥヴァの女の子によくある名前、ビーズ玉の意)のところへも行けるのは、スラーヴァさんの知り合いのヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさん(トゥヴァ人の名前は、名字の種類が少ないせいか、やたら長い)の助力で国境地帯への許可証が取れるからだ。外国人がこの許可証を取るのは難しい。2012年と2013年に申告はしたが、交付されなかった。ヴァレーリー・オンダールさんは3ヶ月間の余裕期間があれば(何らかのルートで)取得できるだろうと、2013年に言ってくれた。そして、本当に取れたのだ。
 ホテルの部屋から、スラーヴァさんとそのヴァレーリーさんに確認の電話をする。私の許可証はもうできているが本人が出向いてサインしないと渡してくれない(これは、前からメールに書いてあった)、スラーヴァさんのは、もう受け取ってある、とのことだった(ヴァレーリーさんが代わりにサインしたのか)。
 実は、前々から、スラーヴァさんは、1台の車で行くより2台で行こうと、改造高駆動車愛好家の友達アナトーリーさんを誘っていた。その友達のために国境地帯の許可証を、ヴァレーリーさんに追加で用意してもらうことにしてあったが、その友人は、後になって妻の分も必要だと言ってきた。アナトーリーは妻同伴でないと、出かけられないと言っているからだ。その追加の追加のアナトーリー夫人用の許可証も早急に取得してほしいと頼んだが、オンダールさんは「自分はこれから忙しくなるので申請はできない。外国人は国境警備隊に見つかれば、その地帯に入れないが、ロシア人は500ルーブルの罰金を払えば放免される」かもしれないと言う。アナトーリーの分は申請済みなのでやがて出来上がるはずだ。(後で、アナトーリーさん夫妻は行かないことになった)
 ヴァレーリーさんはクィズィール市の音楽学校の打楽器の教師だが、夏場は旅行業もやっている。彼のツーリストたちが14日にアバカンに到着するので、空港まで迎えに行くが、そこで私と会い、ツーリストと一緒にクィズィールまで送ってくれ、15日早朝、一緒に許可証を受け取りに行ってもいい、と言うことだった。これも、出発直前にメールで打ち合わせておいたことだが、電話で確認する。
 ピアニストのスラーヴァさんは、1950年代製造の『M72』(*)と言う車を改造して、オフ・ロードを走らせるのが趣味なのだ。彼はこの夏中、私とトゥヴァのオフ・ロードを走らせるつもりでいた。だが、それでは燃料代と日当を払わなければならない私の資金が持たないので、結局、後半の12日間だけにしてもらった。12日間のガソリン代18,720ルーブルと日当18,000ルーブルで最後の日に4万ルーブル(12万円)渡した。オフ・ロードを走らせることは、彼の趣味でもあるので、趣味と実益がかなって悪くもないはずだと、思う
 スラーヴァさんは、ホテルでの私との確認が終わって30分ほどで帰った。

(*)『M72』 ロシア初の国産量産乗用車『M20パヴェーダ』と『GAZ69』から造ったという『M27』は1955年から58年まで4677台しか製造されなかったというクラシックカー。
 アバカン経由
 10時には、ディーマさんの会社の運転手パーシャが部屋に来た。彼の車は、今年は韓国製だった。これでパーシャと連邦道M54号線(『エニセイ道』とも言う。『連邦道R257』と改名された。2018年までは連邦道M54と言う名も併用)を南下するのは3回目になる。
 去年と同じく、パーシェンカ川畔のカフェのクマの檻の前でひと休み、そこから1時間程のカフェで昼食、2時ごろ、3回目となるクルタック村へも寄ったが、前年同様、クルタック旧石器遺跡キャンプ村は、ただクラスノヤルスク教育大学経営のキャンプ村になっているだけで、旧石器時代発掘跡なんて全く残っていない。
 クラスノヤルスク地方のハカシア共和国との境界近くにノヴォショーロヴォと言う村があるが、そこを過ぎると連邦道54号線にハカシアの有名な保養地シラ湖から来る道が合流する。この日は日曜日でシラ湖観光から帰るクラスノヤルスク・ナンバーの車で大渋滞だった。警察官が出て交通整理をしていたくらいだが、対向車線を通って順番抜かしをしようとしている車が多いのは、さすが。
 パーシャにはハカシア共和国首都のアバカン市に急いでもらった。博物館に間に合えば今日中に見ておいて、売店で本も買っておいて、次の日は、早朝にアバカン空港に行ってヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんに会おうと思った。ヴァレーリーさんはトゥヴァ人で、電話では彼のロシア語がよくわからない。直接会って、15日は私が単独ではなく、彼といっしょに許可証を受け取ると言う確認をしたかった。一人でロシア連邦治安部トゥヴァ共和国国境地帯管理部なんて役所の窓口に行くのは苦手だから。確実に15日朝受け取るために、彼と一緒にアバカンからクィズィールへ行った方がいいかもしれない。
 この日、博物館には間に合った(5時頃着)。博物館から出ると、ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチさんに電話して、翌朝空港ではなく、この日に彼の都合のいい場所と時間に会いたいと伝えた。
 6時過ぎ、アバカンの『ホテル・シベリア』前で白いワンボックス・カー『ガゼル』運転席にいる彼に会う。日本からは和太鼓の撥が欲しいと言われていたので、購入しておいた撥をこの時彼に渡す。この車に乗ってトゥヴァまで行ってもいいよと言われる。パーシャによると、自分の韓国車の方が軽トラに座席を付けたような『ガゼル』よりはるかに乗り心地がいいと言う。ヴァレーリーさんのツーリストはフランス人が6人、モスクワからの通訳が一人で、聞いてみると私は助手席に座ってもいいそうだ。助手席に座れば走っている車の窓からでも写真がとれるし、運転のヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんとも話ができ、親しくなれる。パーシャとはあまり話ができない。これは乗り心地より何よりも旅行では大切なことだ。だから、パーシャには暇をやった。つまり翌日、私をトゥヴァまで運ばなくても、ここアバカンでクラスノヤルスクに引き返してもいいと言うことだ。しかし、時間も遅いので一晩泊まってから帰ることにした。
巣密を切り取ってくれるサーシャ

 ハカシアでは、いつものチェルノゴルスク市郊外のサーシャ宅に泊まる。サーシャとレーナはベア村(100キロほど南)の母親宅から、私たちを迎えるために早めに帰ったばかりだった。菜園の世話をするサーシャ夫妻(合法的には結婚してない)の横でビールを飲んでいるパーシャを残して私だけ先に寝る。
 サーシャ宅には、ベア村の母親の連れ合い(つまりサーシャ達のパパではない、継父)が作った豚の脂身(ロシア語ではサーラ)がある。ベア村の農家で豚も飼っているのだ。去年(2013年)もこのサーラをもらって途中の道で食べた。クィズィールに着いてホームステイ先のプルドニコーヴァさん宅の冷凍室に残りを入れて、忘れてきてしまった。(実は今年も、もらったのだが、途中の道で半分ほど食べたが、やはりホームステイ先のオリガ・ピーシコヴァさん宅の冷凍室に残りを忘れてきてしまった)。一方、レーナの父親はベア村近くのデハノフカ村に住んでいる(母親は離婚して、チェルノゴルスク市近くのゼリョーノエ村に)。父親は養蜂業もやっていて、今回、サーシャ家の台所には、蜂蜜の他に貴重な巣蜜もあって、少し切ってもらった。脂身サーラといい巣蜜といい、サーシャは得している、と思う。
 クィズィール市へ
 7月14日(月)、早朝には、パーシャは起きてクラスノヤルスクへ帰って行った。私を、ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんグループが待つカフェへ送ってくれたのはサーシャだ。
 11時半ごろ、私とフランス人ツーリストも乗せた『ガゼル』はアバカンを出発。聞いてみると彼らツーリストたちはフランスのブザンソンやブルターニュなどから来ていて、シャマニズムを研究している夫婦がリーダーなのだそうだ。ロシア語はしゃべらない。私の日本語風フランスの地名はなかなか通じない。略地図を書いて教えてくれた。
イチゴを買うフランス人旅行者達
ビー・ヘム畔の『ユルタ村アイ』

 途中のオイスキィ村に休憩した時、彼らは道端で売っていたイチゴを買っていた。バケツに一杯もイチゴを買ってどうするつもりなのだろう。ジャムも煮れないし。私にも勧めてくれたが、バケツのイチゴはなかなか減らない。
 タンジベイ村ではいつものように食事休憩。皆あまり食欲がなさそうだった。村には上下水道などなさそうだったからか。
 エルガキの『眠れるサヤン』は車窓からみただけ。ウシンスク村への分かれ道で、今年も車の横でバケツに入れた収穫物を売っていたが、それも車窓からみただけ。パーシャ車では止まってほしいところで止まってもらうが、ツーリストを乗せたオンダール車では遠慮しなくてはならない。この道の景色は何度も見て、写真にも撮っているから、オンダールさんとの会話の方を選んだのだ。トゥヴァの国境を通り過ぎたのは5時半ごろ、ビー・ヘム(大エニセイ川)のツーリストたちの宿に着いたのが7時頃。
 その宿は2004年に私が泊まったことのある宿泊施設『ユルタ村アイ』だった。クィズィール市近くのビー・ヘム畔にある。フランス人たちの宿泊の手続きや部屋割に長くかかっていたので、私はぶらぶらしていた。職員らしいトゥヴァ人にアルチュール(2004年には支配人で、従業員は彼の一族だった)はいるかと聞いてみた。今の支配人はそのころとはもう別の人で、誰もアルチュールのことは知らなかった。赤ちゃんをあやしている女性がいたので、「ここに滞在なさっているのですか」と聞いてみる。彼女はポーランド人で、トゥヴァ人の夫がここで臨時に働いているとか。『ポーランドからトゥヴァへ』か…。
 みんな(フランス人やユルタの職員たち)は私がここに滞在すると思ったらしいが、ヴァレーリーさんを促してクィズィール市で待つオリガ・ピーシコヴァさん宅に急いでもらった。着いたのが8時過ぎだった。ヴァレーリーさんとは翌日のことをしっかり約束して別れる。
 オリガ・ピーシコヴァさんとは実は初対面だった。前年、クラギノ・クィズィール新鉄道建設遺跡調査隊『ツァーリ(王家)の谷』キャンプで知り合った調査隊お抱え運転手ユーリー・ピーシコフさんの奥さんだ。ユーリー・ピーシコフさんは、元、連邦刑罰実行施設(刑務所)管理部の職員だった。中佐で退職して、今は年金を受領し、趣味をかねてか、ロシア製ジープ・オアジスの愛称『セメノチ車』のオーナー運転手をしている。私を気に入ってくれて奥さんのメール・アドレスを教えてくれた。その奥さんのオリガさんは、現役の大佐だ。ロシアでは、連邦保安庁や内務省、非常事態省などの関係(税関、検察、出入国管理、麻薬取り締まり、警察、消防、緊急事態、刑務所など)にも軍隊と同じような階級がある。オリガさんはユーリーさんより10歳以上若いので、まだ現役だ。(夫より既に上位になっている)。オリガ・ピーシコヴァさんとは、ずっと1年間文通をしていた。夏に、トゥヴァに着いたとき、発掘キャンプ場へ行くまでの1,2日泊めてもらうつもりだったが、そのことを頼んでみると、長期に泊まってもいい、トゥヴァを案内しましょうと言われた。文通で、クィズィール到着後10日間ほどの予定が打ち合わせてあったくらいだ。予定と言っても、トゥヴァ流のオリガさんによると『様子を見て』、と言うことだったが。一応こんなものだった。
15日(火)から18日(金)はエルジェイ村(予約済み)
19日(土)休息
20日(日)から21日(月)はドス・ホリ(湖)
22日(火)から23日(水)はトッジャ地方
24日(木)から25日(金)はトレ・ホリ(湖)
26日(土)から私は鉄道建設地発掘場(エールベック谷)へ向かう
 こんな日程だったが、残念ながら、この通りにはいかなかった。
 国境警備管理部の窓口
 前日かたく約束してあったので、約束の午前8時前、ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんが電話をくれた。ロシア連邦治安部トゥヴァ共和国国境地帯警備管理部は8時に開くと思っていたが、9時に開くので8時50分に迎えに行くと言う。9時過ぎには到着したが、受け付けは10時からだった。それまで外で順番をついて待たなければならない。雨が降っても、トイレに行きたくなっても外で待つ。あまり傘を持ち歩かない彼らは、濡れて立っているか、近くの街路樹の下で雨宿りする。トイレの方は家まで戻った方がいい。
 国境地帯へ行くための申請書を出す人や、許可証の交付を受け取る人で、もう数人が順番をついていた。後からオリガ・ピーシコヴァさんと26歳の息子オレークさんも来て順番をついた。私と一緒に国境地帯のトレ・ホレ(湖)へ行くためだ。前から計画はしてあったのに、あくまで様子を見ましょうと言うことだったのだが、今から申請したのでは間に合うかどうか。それとも、オリガ・ピーシコヴァさんは連邦刑罰実行施設(刑務所)管理部の大佐なので、いざとなったら使えるルートがあるのだろうか。(いや、いざとならなくても。彼女にとっては普通に)。
国境地帯管理部前の列、まだ9時ごろ
ピーシコヴィさん一家

 国境地帯管理部の窓口へはヴァレーリーさんといっしょで助かった。10時近くなると、順番は長く幅が広くなり、入り口近くでは人垣が密になった。ヴァレーリーさんはドアのまん前に立ち、自分達は申請ではなく、もう既に交付されてそれを受け取るのだから(優先である)と言うような態度で、まわりを威圧していた。中に入り、知り合いの係官(女性)の名前を言って、私が署名するべく保管してあった書類を待った。雨の降っているドアの外ではあんなに人々が待っているのに(ホールや待合室と言うものはない)、私の書類はなかなか探し出せなかった。しかし、もう中にいて、署名しようとペンを片手に机の前に座っている以上、気の毒な外の人々の方は見ないで、横に立っている若いロシア人男性の係官だけを眺めていた。やがて、書類が見つかり、既定の欄に署名すると、はさみで切り離し、半分が渡された。若いロシア人男性係官が、念のため、こんな規則ですよ、と両面印刷した紙きれをくれた。
 後から知ったことだが、この種の職員は必ず遠隔地からのロシア人と言うことになっているそうだ。地元のトゥヴァ人ではコネで不正が行われるからとか。
 係官がドアの鍵を開けて、私たちを出そうとすると、ドアの向こうでは、中に入れてもらおうと、人々の顔が緊張する。その中の誰がまず入れてもらえたのか、知らない。交付された許可証をパスポートに挟み、急いでその場を去る。
 追加で申請してもらったスラーヴァの友達のアナトーリーの許可証が出来上がるのは22日とか。ヴァレーリー・ディルティ=オーロヴィッチ・オンダールさんはその頃ツーリスト・グループを案内して留守なので、私一人で受け取るか、彼の妻のナターシャさんに頼めばいいと言うことだった。トゥヴァのようなオフ・ロードは2台で行った方が確かに安全だ。だが、私は実は、その友人アナトーリーさんやその妻との同行は、実現可能とはあまり思わなかった。ロシア人の休暇の過ごし方と言えば、水場で体を焼きながら、またはウォッカなどを飲みながらバーベキューをして、歌って踊ってゆっくり何日も過ごすというものだ。彼らの目的地は、ドス・ホリ(湖)らしいが、私は海水浴(塩湖水浴)より、古代遺跡を探し廻りたいし、トゥヴァ人とも知り合いになりたい。夫妻に古代遺跡廻りにつき合ってもらうのも気が引けるし、ドス・ホリ(湖)で私は何日も過ごそうとは思わない。

 オリガ・ピーシコヴァさん親子は、あんなに順番があったのに、午前中に申請を済ませて帰ってくる。エールベック谷の古墳発掘現場で運転手をしている夫のユーリー・ピーシコフさんはシャワーなど浴びに時々自宅に帰ってくるらしい。そのユーリー・ピーシコフさんと4人で昼食をとり、ピーシコヴィ夫妻に、懇ろに招待のお礼を言うことができた。
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