クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 March, 2015 (追記2015年4月21日、6月23日、9月10日、2018年11月7日,2019年12月11日、2021年10月28日、2023年5月11日) 
32−(3)   再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (3)
    シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ
           2014年7月11日から8月13日(のうちの7月18日から7月21日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日  目 次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸 ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ、地図 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 北極圏のヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国からのアレクサンドル ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤクとユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
 クィズィール市の携帯事情
 7月18日(金)、前日のエルジェイからの帰り道、途中の大きな村では私の携帯(ビー・ライン社)が通じるはずなのに、通じなかった。クィズィール市のオリガ・ピーシコヴァさん宅に戻っても通じない。シム・カードに不具合があるらしく、認識しない。オレーク君の女性友達がビー・ラインのディーラー店で働いているそうだ。彼女に電話して、この日は休みなのに店に出てきてもらって、見てもらうことになった。
 
国立博物館 手前の広場にはユルタが立つ
 朝、彼女のアパートまで迎えに行き、市の中心にある店に入る。番号を変えずに新しいシム・カードを無料で入れてくれた。ロシアでは、携帯電話機器そのものは高価、シム・カードはとても安く、通話はプリペイドで行う。しかし私のはディーマさんの会社が契約しているシム・カードなので、プリペイドではなく、残金を気にすることなく通話できるものだ。それは、ディーラー店のパソコンで調べられるのだろう。オレーク君の女性友達はエリヴィラという素敵な名前だ。私の携帯が無事通話可能になってほっとする。エリヴィラさんに大感謝。この交換が無料だったばかりか、彼女は自分の財布を出してオレーク君に1000ルーブル支払っていた。以前、彼女は彼にレストラン代をたて替えてもらっていたのだとか。
 その後、オリガ・ピーシコヴァさんと合流して国立博物館に入る。何度も見ているが毎年少しは変わっている。私の目的は、考古学ホールにあるアルジャン発掘関係のものと、近世トゥヴァのホールにある20世紀初めの地図を写真に撮ることだ。去年も撮ったが、ぼけていた。ガラス越しに取るからだ。実は、今回も、帰国後パソコンで見ると、ぼけていた。しかし、6日後に、再度一人で訪れた時にはよくピントを合わせて撮ったのでかなり読める地図が撮れた。
 シベリアの死海ドス・ホリ
 ドス・ホリ(湖)へは、当初の予定では次の日から1泊で行くことになっていたが、宿泊はしないことにした。さらに昼間はとても暑くて「いられたものではない」そうで、夕方の数時間でいいことになった。ドス・ホリは塩分が多く、シベリアの死海と言われているほどで、水上に寝そべって新聞も読めると言うことだった。途中から道が悪くなるとも。
 結局、この日5時頃4人で出発した。クィズィール市の南へ、モンゴルとの国境へ向かう連邦道54号線を行く。30キロ余アスファルト道を飛ばす。『ドス・ホリ』と標識の出ているところで右折しても、アスファルトは続く。オリガ・ピーシコヴァさんによると、ここも、昔は有名な悪路だったそうだ。観光客が多くなったのでインフラも少しずつ整ってきた。が、しばらく行くと、アスファルトはなくなった。遠くに青色の山々が見えるだけの乾燥したトゥヴァ盆地で、ハディン湖やドス・ホリ(ホリは湖の意)のある場所は、乾燥地帯で木も生えていず、草もまばらな砂地なので、ミニ砂漠を味わえる。
ドス・ホリ(湖)、手前の屋根の下は湧水
日影を作って休む

 サヤン山脈、タンヌ・オラ山脈、アルタイ山脈に囲まれているトゥヴァ共和国の中央に横たわるトゥヴァ盆地は、東西400キロ、南北25から70キロ。標高は600から900m。トゥヴァ盆地は高い山脈の陰になって雨量は少なく、草原地帯と半砂漠草原地帯になっている。クィズィール市の南は盆地の幅が広く、ここに大小の湖、チェデール(高度706m)、ハディン(高度706m)、チャグィタイ(高度1003m)、カーク(高度707m)、ドス・ホリ(高度707m)などがある。小さな川が湖に流れ込むが、湖は低地にあるので、最も南でタンヌ・オラ山脈ふもとにあるチャグィタイ湖(*)以外は流れ出る川がない。それで、塩湖となる。カーク湖の塩分度は220‰とあるが、沼地化して水浴には適さないそうだ。チェデール湖は場所によって200‰、ドス・ホリ(湖)が127.5‰とある。(地図はこの紀行文(1)(2)参照)
(*)チャグィタイ湖 草原地帯(トゥヴァ盆地)と山岳森林地帯(タンヌ・オラ山脈)との境にあり、もっとも大きく、ソ連時代からペンションが建っていた。しかし、ここに仏教(瞑想)寺院を建てることになり、サンクト・ペレルブルクから考古学者V.A.キーセリが、事前の発掘調査をした。湖畔には多くの遺跡があり、『チャグィタイ1』から『チャグィタイ10』までの遺跡群が確認されている。キーセリが2014年調査したのはそのうち『チャグィタイ10』で古墳は31基あった。時代は初期鉄器時代(紀元前8世紀から紀元後5世紀)のもの。
 ドス・ホリはトゥヴァ語で『塩の湖』と言う意味だが、ドス・ホリと呼ばれている湖が3か所はある。サマガルタイ近くのドス・ホリは339‰、エルジン村近くのドス・ホリは25.2‰だ。トゥヴァ盆地のこのドス・ホリが最も有名で長さ1400m、幅500、最大深度4mと言う小さな塩湖に、クラスノヤルスクからでも水浴客が来る。流れ込む川はないが南岸と東岸に鉱泉があるため、そのミネラルが湖の底にたまっていて、その泥浴が神経痛、筋肉痛、皮膚病、女性の病などに効くとされていることや、南岸と西岸に砂浜があって水浴に適していることから、トゥヴァでは最も有名な観光地の一つとなっている。ロシア人はスヴァチコヴァ湖と呼ぶ。これは、19世紀末から20世紀初めの塩商人(ロシア人で、ドス・ホリ湖の塩の利権だけでなく、トゥヴァの商品を広く扱っていた大商人の一人)の名前だそうだ。

 私たちは人の余りいない西岸へ廻り、日影になるテントを建て、トイレや更衣室にもなるボックスを建て、水着に着替えて入っていった。塩分はたぶん12%もないと思う。海より少し濃いくらいで、トーニャは上手に浮いていたが、コツがいるらしく、私は沈む。
 もう夕方だったせいか、暑くはなかった。濡れた水着で瓜を食べていると寒いくらいだった。それで8時ぐらいには引き上げた。
 秘境トッジャ
市の中心アラート広場
 7月19日(土)、オーリャ・モングーシさんは国立博物館の考古学ホール責任者となっている。普通の来館者のガイドもするが、特に高名な来館者のガイドは、彼女がするようだ。トゥヴァの考古学に詳しいオーリャさんに、博物館だけでなく、トゥヴァの遺跡も案内してもらいたいものだ。2012年に博物館を再訪した時ばったり会い、8年前に博物館の案内をしてもらったことを、お互いに思い出し、それからずっと文通している。今年彼女は7月初めから休暇だと、メールに書いてあった。私は「車を用意するから古代遺跡を案内してほしい」とメールに書いておいた。
 私たちとトレ・ホリ(湖)へ一緒に行けないだろうか。トレ・ホリも、古代遺跡の集中している半砂漠地帯にある。オーリャ・モングーシさんとはクィズィールへ到着してからも、毎日のように電話で連絡し合っていた。
 この日彼女は休暇中だが、個人的にか、特別出勤か、クラスノヤルスクからの記者を案内しているそうだ。その記者が私にインタビューしたいと言うので、10時に市の中央のアラート広場で会うことにした。実は、この日はトッジャへ行くことにしていたのだ。クィズィールから250キロも(そのうち170キロは有名な悪路)行くのに、1泊しかしない。なぜなら21日にオリガ・ピーシコヴァさんの目の手術が入ったからだ。
 インタビューなんて余計なことだ。記者は、私が何度もトゥヴァに来ているとオーリャさんから聞いて、トゥヴァのどこがそんなにも日本人の私を惹きつけるのか、聞きたいそうだ。美しい自然とか、謎のような国とか、古代遺跡が多いからとか、また答えなくてはならない。
 だが、オーリャさんが是非と頼むのでそのインタビューを引き受けた。約束のアラート広場でクラスノヤルスクからの記者に会った。記者はロシア併合『100年祭(*)』前夜のトゥヴァの取材に来たのだろう。たまたまオーリャ・モングーシさんから、何度もトゥヴァに来ていると言う私のことを聞いて、ついでにインタビューでもする気になったのだ。(前記)
(*)100年祭 1914年ロシア帝国がトゥヴァ(当時はウリャンハイ地方)を保護国とした

 インタビューには30分もかからなかったが、また家に帰って昼食、ガレージによって悪路に必要なもの(けん引ロープとか)など積んで、4日前と同じカー・ヘム(小エニセイ川)の橋を渡って右岸へ出たのは、もう1時過ぎだった。
 3回目となる『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道を通る。トゥヴァで生まれたオリガ・ピーシコヴァさんたちのガイドもできるくらいだ。オレークは『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道への入り口も知らない、通り過ぎようとしていたところを教えてあげる。オリガ・ピーシコヴァさんは20年以上前に飛行機でトッジャへ行ったことがあるきりだ。
トゥヴァ東北 トッジャ地方

 『バヤロフカ=トーラ・ヘム道』ではまず、コプトゥ(ホプトゥ)川に架かる橋を何度も渡る。いつも車を止めて写真を取ることにしているところではちゃんと止めてもらう。2013年に食事を取ったところで、今回も食事にする。そこはコプトゥ川に架かる橋のあるところで、急勾配の上から降りてくる道がここで急カーブしなければならないので、『悪魔の橋』と運転手たちが呼んでいる。曲がり切れずに川に落ちた車の残骸すらある。急勾配を上る車と下る車が、たまたまいれば衝突しそうになるのだろう。古い橋の少し下流に新しい橋がかかっている。その下を急流が流れ、流木が岩に引っ掛かっている。橋の手前に小さな広場があり、火を焚いた跡もある。コプトゥ(ホプトゥ)川を流れる水音も激しく聞こえ、川辺に降りて、トマトやきゅうりも洗えるいい場所だ。
 この小さな広場の草の上に茶色の小山が見える。砕いた松かさのようだ。オレークによると杉・ケードルКедр(マツ目マツ科ヒマラヤスギ属でベニマツのことかもしれない。杉はマツ目だがヒノキ科スギ属)の松かさをここに集め、機械でマツの実を取ったあとの空の松かさだと言う。アカデミカ・オブルチェヴァ山脈はシベリアマツの森が多い。
 シベリアベニマツの実は、町中の道端でも売られていて安価で栄養豊富、ロシア人なら誰でも器用に歯で割って舌で吸い取って実を食べる。それは暇人の仕事の代表のようにも言われている。私は何度も教えてもらったが、殻がどうしても口の中に残り、実が殻からはがれない。
 やがてコプトゥ(ホプトゥ)峠を越え、スィンナーク峠を越えると、ウルッグ・オー(パドパロージナヤ)(120キロ)川谷に出る。谷と言っても幅が広く、高山なので山岳ツンドラ地帯になっている。夏場は一面の沼地で、ウルッグ・オー川の流れもあり、低い草が生え広がっている。夏のツンドラは草原沼地となるのだ。地面を5センチも掘って、氷の頭があることは確認しなかったが、沼地の中、行けるところまで入っていって写真を撮ってもらった。トッジャへ行く時は、この広く全くひとけのないウルッグ・オー谷が一番印象的だ。
 ウルッグ・オー川谷

 ミュン・ホリ峠を越え、ミュン・ホリ(湖)沼地沿いに最近できたよい道を通り(後述の中国鉱山会社のルンスン社が作った)、エーン・スク川に出る。トッジャ区(コジューン)の考古学調査はあまり行われていないが、1965年にデヴレットДэвлетが行っている。2006年には『バヤロフカ=トーラ・ヘム』道建設のためキルノフスカヤКилуновская Марина Евгеньевнаが発掘調査を行ったのが、このエーン・スク川近く、ダルガン・ダッグ山麓だ(10万分の一の地図でもその名の記入はない、ウルグ・ダッグならある)。その発掘跡でも見たいと思ったが、今では全く分からない。わざわざ、車から降りて探してみたがわからない。低い山々が見えるが、どれがダルガン・ダッグなのかもわからない。しばらく行ったところにチャラマが結んであり、小屋もあった。あっと思ったが通り過ぎた。帰り道で必ず見よう。

 1年前や2年前と違ったことは、ビー・ヘム(大エニセイ川)の渡し場の手前で交通警察が張っていたことだ。『バヤロフカ=トーラ・ヘム道』の交通量が増え、トッジャへ行く旅行者も増えたのか。たまたま、オレークは免許証を忘れてきていた。服を着替えたせいだ。オリガ・ピーシコヴァ大佐も援助したおかげでか、罰金なしで叱責のみとなったそうだ。
 中佐のワーニャさん
ビー・ヘムの渡し場、対岸に中佐の車
中佐の新築の家、下にあるのは蒸し風呂小屋
 ビー・ヘムの渡し場の対岸には、オリガ・ピーシコヴァさんと同じ組織(懲罰実行監督局、刑務所)で働いているワーニャと言う(姓は忘れたが身分は中佐)同僚が、ニーヴァ(ロシア製小型ジープ)で待っていてくれた。オリガ・ピーシコヴァさんが早速、私にだけ言うには、ニーヴァはその職(中佐という地位)に局から貸し出されているもので、私有物ではないそうだ。ワーニャさんは何年か前からトーラ・ヘム村の懲罰実行監督局(刑務所)の責任者になっていた。彼が、私たちのトッジャでの案内人となってくれる人で、オリガ・ピーシコヴァさんが出発前から連絡を取っていたのも彼だ。オリガ・ピーシコヴァさんの当初からの予定には、トッジャも入っていたが行けるかどうかは天候を見て、と言うことだった。雨の後では悪路は泥沼化して通行不能になる。ましてや、4輪駆動とはいえ、普通車のフォード・クーガでは難しい。

 数日前からの電話連絡で中佐が大丈夫と言ったので、トッジャ行きが実現したらしい。中佐は、渡し場の対岸で私たちを迎えてくれると、ニーヴァ先導でトーラ・ヘム川に架かる橋(*)を渡り、村に入り、役場などの並ぶオクチャブリー通りを通り過ぎ、サルダム村へのビー・ヘム沿いの道へと導いた。この村外れのビー・ヘムの畔に彼の新築の家があるからだ。自分で建てたのだと言う。2階建て(2階は普請しないそうだが)のワン・ルーム丸太小屋で、敷地内にはトイレ小屋も蒸し風呂小屋も、菜園さえある。この新築の洒落た家を見てもらいたくて、ここへ寄ったかのようだ。オリガ・ピーシコヴァさんは、土地はどうしたのかと聞いていた。ロシアの土地の私有権に関しては、私はよくわからない。中佐は借地しているらしい。この場所はビー・ヘムを望む高台にあって抜群のロケーションではないか。ワン・ルームも仕事スペースと生活スペースに分かれていて、家具も新しく、トーラ・ヘム村とは思えないほど瀟洒だ。
(*)トーラ・ヘム川に架かる橋 中国のZijin Mining Group紫金礦業集団(ズージン・マイニング・グループ)の子会社ルンシンЛунсин社が資金を出したと言われている。ルンシン社はアカデミカ・オブルチェヴァ山中のクィズィール・タシュトィク。ポリメタル(鉛・亜鉛・銅鉱石)鉱山の利権を買って採掘中。トッジャへ陸上から入る『バヤロフカ=トーラ・ヘム道』が整備されたのも同社の産業道路としてだ。
アドィル・ケジク村のランドマーク
中佐が魚の皮をむいてくれたが…

 トーラ・ヘム村からトッジャ(アザス)湖畔までは、もっと悪路を1時間近くいかなければならない。『バヤロフカ=トーラ・ヘム道』は産業道路だが、トーラ・ヘム村からトッジャ湖までは、ルンシン社も補助していないだろう。トッジャ湖の漁業コルホーズは崩壊しているから、漁業個人営業者(つまり普通の漁師さん)も利用するが、ほとんど観光道と言ってもいい。雨が降ると泥沼になり、晴れると土煙りを上げて通らなければならない。が、観光客は増えている。
 だから、途中のアドィル・ケジグ村の手前には新しく、立派な標識が建っていた。この地のシンボルとしてトナカイの像(レリーフ)も付いている。トッジャでは伝統的にトナカイ遊牧に従事していたので、今では頭数はめっきり減ってはいるが、トナカイはシンボルなのだ。『バヤロフカ=トーラ・ヘム道』のトッジャ郡への入り口にも、トナカイ遊牧の家族像がレリーフしてある。トッジャと言えば、トナカイ遊牧とチュム(円錐形の移動式住居。円筒形のユルタより単純)だ。アドィル・ケジグ村の標識の形も円錐形のチュムを表している。
 アドィル・ケジグ村は、かつてソ連時代は優秀コルホーズ村だったそうだ。また、オリガ・ピーシコヴァさんは、若い頃の半年間、化学生物教師として教生実習をした村でもある。
 トゥヴァの仏教関係サイトによると、この村の博物館に、エーン・スク寺院の残存物が保存されているそうだが、中佐や大佐はそんな話は知らない。
 中佐が私たちに、もう一か所、見せたいのは、アドィル・ケジグ村とトッジャ(アザス)湖の間にある小山の上に立つオヴァー(石積塔)だ。この小山は平坦な草原にあるので頂上からの見晴らしがいい。こんなところは聖地とされオヴァーが建ち、チャラムが結ばれている。

 トッジャ(アザス)湖畔に着いたのは9時半も過ぎ、薄暗くなりかけているころだった。中佐はツーリスト用ペンションの方へは行かないで、柵で囲ってある領地内へ入る。トッジャ湖の一部とアザス川(165キロ)周辺は自然保護区になっていて、許可がないと入れない。漁業できるのは免許のある、例えば、元コルホーズ員だけだろう。トッジャ湖の面積は51平方キロ。(琵琶湖は670平方キロ。)アザス川が流れ込み、トーラ・ヘム川(延長34キロ、ビー・ヘムの285キロ地点の右岸支流)が流れ出す。
 この私たちが案内された敷地内には数軒の小屋があった。持ち主は一家族らしい。そして、その主人と中佐は知り合いらしく、私たちを敷地内に宿泊させてほしいと頼んでくれたようだ。私たちは小屋の横の空地に車を止め、すぐ横にテントを張った。中佐によるとペンションは酔っぱらいの旅行者が多く、付きまとわれて、うるさくて泊まっておられない。ここは静かだから、と言う。確かに遠くでボリュームを上げた音楽が聞こえる。と言う訳で、小屋の家族と、中佐、私たち一行の夕食が始まった。オリガ・ピーシコヴァさんが手土産に持ってきたヴォッカを開けると、ここでもやはり、無理を言われた。湖でとれたという魚の皮を手で剥いで差し出されたが、私にはこの手づかみで食べる生魚は食べにくかった。ヴォッカを私は飲まない。飲んだのはここの主人と中佐だけだった。ロシアと日本の友好の話になったが、私はコメントなしで賛成するだけ。
 アザス湖のスイレン
 7月20日(日)、 私たちが宿泊した場所は、元トッジャ(アザス)湖漁業コルホーズ基地に違いない。敷地内には数軒の小屋があるが、住居用は1軒だけのようだ。板をつきだした船着き場があり、岸辺には大小の古いボートが乗りあげてあった。半壊のボート小屋や、ひどく錆びたコンテナなども岸辺近くに見える。半壊であろうと、ボートを入れておくにはないよりいいし、錆びていようと、かごに入れた魚などを一時保管できる。
朝捕った魚
孫娘と船着き場
トッジャ湖のスイレン
『エーン・スグ』と書かれた小屋

 朝早く、この基地の主人が網をかけに出たのだろうか。私たちが朝食を食べ終わった9時半ごろ、満杯の魚かごを積んで、ボートが戻ってきた。
 対岸の漁師夫妻がボートでやってくる。ここは、長さ20キロ、幅5キロのトッジャ(アザス)湖の東岸の端で、対岸が近い。彼らは燻製の魚を籠にいっぱい運んでいる。旅行者達の施設・ペンションへ行って、売ってくるのだろうか。途中の私を見かけると1匹くれた。おいしそうで、これなら食べられそう。お礼に日本製ボールペンをあげる。後で、小屋の家族の主婦から、
「日本人だってこと、全然知らなかったのだって。とても喜んでいたわよ」と言われる。実はきれいなデザインの3色ボールペンなどを何本もお土産用に持参していたのだ。この先、機会があると、お礼に上げて喜ばれた。最後のボールペンがなくなったのは、まだ8月7日のムグール・アクスィ村近くのユルタでだった。

 中佐はトッジャ湖で魚釣りをしたがっていた。釣竿も持参していたのだ。私たちは湖のスイレンが見たかった。10時過ぎ、この一家の幼い孫娘も乗せて、モーターボートで出発した。例年なら8月に咲くと言うトッジャ(アザス)湖の有名な白いスイレンが満開なのだそうだ。トゥヴァではこの湖だけにスイレンが群生する。
 1時間余もボートで遊覧した。中佐は一匹も釣れなかった。一方、私たちは満開のスイレンを心行くまで堪能できた。ボートに乗ってスイレン観賞とは、豪勢ではないか。豪勢の言葉には似合わない錆びたボートだったが。
 岸辺に戻って来ると、別のツーリストが寄って来て、ボート遊覧したいと主人に言っている。燃料がないからだめと断られていた。また別のツーリストが寄ってきて、魚を買いたいと言う。オークニ(スズキ目)は5キロで300ルーブル(約1000円)。シーク(サケ科)は1キロで200ルーブルだそうだ。
 トッジャでは湖の遊覧や魚釣りの他、観光客は近くの鉱泉も出る『緑の湖』にも案内される。私たちも勧められたが、オリガ・ピーシコヴァさんは道中が9時間もかかるので、引き揚げると言う。新鮮な魚の昼食を食べて、1時頃出発する。中佐は残っていた。

 トッジャ湖からトーラ・ヘム村までも、20キロの道のりがたいへんだ。土煙をあげて通る。または対向車の土煙の中を通り抜けなければならない。2時半にはビー・ヘム(大エニセイ川)の対岸に渡る。ビー・ヘムの渡し場から10分のところにチャラマが結んであり、近くに小屋(あずまや)がある。来るときにあっと思ったが通り過ぎてしまった。帰り道では止まってもらって、小屋に入ってみる。2009年7月6日の日付と『エーン・スク』、『ダルガン・ダック』と側面や柱一面に書かれていた。落書きかもしれないが、20世紀初め頃まではコジューンの地元支配者の居住地(ユルタ)だった、つまりトッジャの首都だったエーン・スクや、チベット仏教トッジャ本山の修道院ダルガン・ダック(1815年創設と言う)があったところだった。現代の道路筋にあったわけでもないだろうが、四方を見ても、今はその小屋と草丘の他は何もない。
 帰り道でも、峠毎に車を止め、降りてトナカイゴケの写真を撮っていたが、オレークは車の調子を調べていた。エルジェイ村、ドス・ホリ(湖)、トッジャと悪路を走ったので、車の調子も悪くなる。
  <追記;トッジャ郡(区、コジューン)でわかっている遺跡は多くない。このエーン・スグ川のダルガン・ダッグ近くには多数の古墳がある。ほかにはアザス湖畔に古墳と住居跡、アディル・ケジグ村、バトル・ブル、ダルグ湖、イイ川左岸など>
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