クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 March, 2015  (追記2015年5月10日,5月28日、2018年11月20日,2019年12月12日、2021年11月5日)
32-(10)   再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (10)
    遺跡に囲まれたムグール・アクスィ村
           2014年7月11日から8月13日(のうちの8月3日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図 クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 北東地図 古儀式派のカー・ヘム岸 ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国からの詩人(地図) ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルとの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西地図 ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川谷の遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図 ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語の発音に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。

   トゥヴァ南西のモングーン・タイガ区 
南と南西はモンゴルと国境を接し、北はツァガン・シベトゥ山脈にかこまれたモングーン・タイガ・コジューン(区)の
面積は4412平方キロ、人口は5643人(2012年)。
4日間の行程は、ドウス・ダッグ⇒ハンダガイトィ⇒、サグルィ⇒ムグール・アクスィ⇒ヒンディクティク・ホリ⇒
クィズィール・ハヤ⇒ハイチン・ザム道⇒ムグール・アクスィ⇒サグルィ⇒、地方道163
ムグール・アクスィ村周辺 (赤実線は公道、点線は自然道)↓
 ムグール・アクスィ村へ
 昨夜、ズボンを3枚、セーター、カーディガンなどあるだけ着こんで、寝袋に入り、厚さ10センチの空気マットの上で寝たのだが、明け方は寒くてたまらなかった。体を丸めて、もうひと眠りと頑張ったが、もうすっかり明るくなっていたのでテントの外に出てみる。明るいところでよく見ると、地図には名前も載ってないような枯れ川の流れている(流れていた)小さな谷間の草はらで、低く霧の垂れこめた山に3方が囲まれていた。草はらにはところどころ落葉松も生えている。この谷を遡って行くと、昔の遊牧基地の一つでもあるかもしれない。だが、車では無理だ。スラーヴァさんが明け方は零下の気温になったと言う。
ツァガン・シベトゥ山中で夜を明かした
急な坂を下りてカルグィ川谷へ

 ここは、もう、ムグール・アクスィ村にかなり近づいているので、出発を急ぐ必要はない。チンチの家にお昼ごろ着けばいい。バルルィク川(すでにその支流かもしれない)に沿って遡る道に出たのは9時すぎだった。標高が高いせいか、天気が変わりやすく、雨と思ったら、青空が見えだす。
 20分ほど行くとチャラマの派手なリボンが見えだした。オヴァーもある。つまりここは峠で、後で地図を見てわかったのだがコゲ・ダバ峠(2400m)だ。ここでツァガン・シベトゥ山脈を越えて、南西麓を下って行く。コゲ・ダバ峠では、車から降りて、眺めを楽しんだ。ツァガン・シベトゥ山脈は、北東側はなだらかだが、南西側は険しい。つづら折りになって急坂を下って行く道がはるか眼下に見晴らせる。もちろん、こんな立派な道ができたのは最近で、古くからあった馬道を広げて均したものだろう。馬道は狭くても谷間に沿ってあり、谷間には流れていてもいなくても川が通っている。
 空は青く白い雲が浮かび、低い草だけで木々のない のっぺらぼうの山肌は、緑色の絨毯でも敷いてあるようだった。この峠までで、地方道163号線から分かれた道が、ハンダガイトィ村近くで分かれたから、そこから124キロ来たらしい。まだ、40キロはあるが、道は下りだ。事実、その下り方は豪快だった。だが、帰りはこの道を上らないといけないとスラーヴァさんがつぶやく。
 10分ほどで平地に出た。高度差は700mくらいか。ツァガン・シベトゥ山脈南麓を西から東へ92キロ流れ、モンゴルのウーレグ・ヌールに注ぐカルグィ川谷に出る。カルグィ川はモンゴル領に入るとハリギィン・ゴルと呼ばれ、ウレグ・ヌール湖へ注ぐ(*)。川は大河だが、この辺はずいぶん細い(深いのかもしれない)。
(*)ウレグ・ヌール湖 モンゴル領の大湖盆地の北西にある流出口のない塩湖。高度1425m。幅18キロ、長さ19キロ。
 ちなみに、大湖盆地内の最長河川はモンゴル内を流れる808キロのザフハン・ゴルЗавхан Голで大湖盆地の中央部のアイラグ・ヌールАйраг-Нуур(海抜1030m)を通り、ヒャルガス・ヌールХяргас-.Нуур(海抜1028m、キルギス民族からついた名)に注ぐ。

稼働していないモンゴルへの国境ゲート
国境警備隊(イミグレ・コントロール)の駐屯地
『ソ連邦は平和の砦』と彫られたポール
 カルグィ川を渡るとすぐに、国境検問所(出入国管理施設イミグレーション・コントロール)跡の小屋と、分かれ道への遮断機(これが旧イミグレ・ゲート)があった。ここはモンゴルの国境まで14キロしかない。しかし、この『ムグール・アクスィ=ハリギィン・ゴル』検問所は2003年6月4日から一時閉鎖されている(『ロシア新聞』のアーカイブに依る)。もっとも、この検問所からモンゴルに入っても、遊牧地しかなく、ウラーン・ゴムまで、たぶん悪路で150キロもある。昔は、国境は無視して遊牧していた。モンゴル側とトゥヴァ側の家畜の越境(つまり、昔ながらの牧草地の遊牧)が問題となって検問所ができたそうだ。だが、もっと昔は、遊牧に国境はなかった。境界があいまいな勢力範囲ならあっただろう。

 後でわかったことだが、このゲートはかつてはトゥヴァ中央(首都クィズィール市など)からモンゴルを経由して(せざるを得ない)、モングーン・タイガ・コジューンに入る唯一の陸路だった。つまり、モングーン・タイガ・コジューンのムグール・アクスィ村などはトゥヴァ共和国の超僻地にできた比較的新しい村で、交通手段は空路か、陸路なら、一旦サグルィ検問所などからモンゴルに出て、再び『ムグール・アクスィ=ハリギィン・ゴル』検問所から入って来るしかなかった。私たちが通って来たツァガン・シベトゥ山脈を越えるような自動道は新しくできたのだ。新道を通って、モンゴルに越境しなくてもモングーン・タイガ・コジューンがトゥヴァのほかの地方と繋がれるようになって、国境検問所は(一時)閉鎖されたのかもしれない。
 ゲートが閉鎖とは、ここを通過して今は越境できないと言うことで、ゲートは稼働していないが、密入国、家畜の密輸出入などを監視する国境警備隊の駐屯所が近くに建っている。連邦道54号線のツァガン・トルゴイのゲート近くでも見た緑色の屋根の2階建て庁舎だ。きっとそれら駐屯所の建物は同じ規格で立てられているのだろう。この先もモンゴル国境のロシア警備隊庁舎を幾つか見かけたが、みな同じ色で同じ形をしていた。(後のことになるが、国境線の向こう側にモンゴルの庁舎も何度か見かけた。こちらもどの庁舎も同じ色と形で、ただ、屋根が青色となっていて下端が上向きに反っている寺院のような様式だった。)
 ちなみに、この国境警備隊駐屯所には、相応の住民(警備隊員)が住んでいて、この場所はムグール・アクスィ村の一部と言うことになっている。だからモングーン・タイガ・コジューン会議の議員にはここの隊員もいるらしい。2013年の会議員選挙管理委員会の一人が、ウラジオストック出身というクラフツォフ何某と言うロシア人将校で住所はムグール・アクスィ関所(検問所)とある。
 道端に『ソ連邦は平和の砦』とレリーフされた立派な杭が建っていた。閉鎖される前は、こんなところから入国するモンゴル人もいて、自分は今モンゴルから『平和な』ソ連邦に入ったと実感できたのだろう。このゲートはたとえ稼働していても、ロシア人とモンゴル人以外の国籍者は審査しない。
右の白い山(雲ではない)がたぶんモングーン・タイガ

 谷間の草原をいく。山が近くなった頃、『直進ムグール・アクスィ18、左折クィズィール・ハヤ69』と言う標識が見えてくる。直進はカルグィ川を遡るように続き、左折道は、モンゴルとの国境を西進するように続いている(最果てのクィズィール・ハヤ村に通じる)。どちらも山の中に入って行く。私たちは直進し、山へ入り、山を越えなくてはならない。峠にはオヴァーが積んであり、チャラマが張ってある。トゥヴァ語で書いたランドマーク、と言うより装飾標識があり、『牧民こそが国の唯一の代表である』と言う当時のスローガンがあらわされている(訳は後に辞書を繰ったり、現地の人に聞いてわかった。トゥヴァは労働者の国ではなく牧民の国だ)。峠に立って見晴らしても、草原と山しか見えない。遠くの青い山は雲をかぶっていて、近くの緑の山は木がない。草原の中には細い道が1本伸びている。
 峠を越えると、木のない山々に囲まれている広い草原に出た。今まで山の中ばかり走ってきたので、ここで車を降りて草原へ入ってみた。中ほどには家畜(遠くてわからないがたぶん牛)が数十匹いる。遠くの青い山のさらに向こうに真白い山が見える。これがツァガン・シベトゥ山脈の南にあるモングーン・タイガ山塊かもしれない。カルグィ川はその山脈と山塊の間を流れてくる。最高峰モングーン・タイガ山は3970mで東シベリアでも最高峰。
 トムスク音大で学ぶピアニストのチンチ
 道路に戻ると、対向車もくる。村が近づいたのかと思う。やがてムグール川(35キロ、モングーン・タイガ山から流れてカルグィ川右岸に注ぐ)に沿って走ると、村のランドマークのタルバガン(シベリア・マーモット、ネズミ目リス科マーモット属)の大きな像が2体ある広場に出る。ムグール川に面していて、村はムグール川とカルグィの合流点にある。だからムグール・アクスィ(ムグールの河口、合流点の意)という名がついた。
 タルバガン広場で、約束の時間より早い11時だったが、スラーヴァさんがかつての教え子チンチに電話する。チンチはトムスクの音楽大学でピアノを学んでいるが、今は夏休みで実家に来ている。しばらくして、チンチが夫と両親の車に乗って迎えに来てくれ、自分たちの家に案内してくれた。村外れにある新築の家で2LDK,隣家とは入り口は別だが壁が繋がっている。後でわかったことだが、数軒の同じ規格の家が並んでいて(外見が同じ、たぶん屋内も)、どれも2家族で1軒、テラスに上がって入り口のドアを開けると玄関の間があり、入ると台所兼食堂、その奥に2室ある。台所の暖炉は家の中央にあって、台所で調理するほか壁向こうの2部屋も温める。電気は来ているが水道はなく、どこかの井戸(川)から汲んで来た水がバケツに入っている。村に水道はないし、たぶん自分の井戸を持っている家もない。
ムグール川を渡る歩道橋
ムグール・アクスィ村左岸の広場
チンチの両親の家の台所
チンチの母、妹、私、チンチと息子

 チンチのその新しい家は、ダイニング・テーブル・セットと、奥の部屋の大きなダブル・ベッドしか家具がない。チンチと夫は、それまではチンチの両親の家に住んでいたが、最近、僻村の若者優遇政策で、新婚夫婦に家が支給されるようになり、取得できたらしい。チンチの夫のヘレル・コジューン=オーロヴィチ・イルギトさんが孤児のため、特に優先して支給されたのかもしれない。彼はスポーツ・トレーナー、つまりモンゴル相撲の力士で、無口だが広い胸を持っていてたくましい若者だ。私たちが滞在中はこの新居を提供してもらい、夫婦は元の両親の家にいるそうだ。私たちがいなくても、家具の少ない新居ではなく両親の家に住んでいるのだろうが、新居にまったく1年以上も住まないと没収されるそうだ。
 ヘレル君が暖炉を焚いてくれ、水を運んでくれ、チンチと彼女の母のアイランマー・アレクセーヴナさんが用意してくれた食事をみんなでとる。ちなみに、名前が『マー』で終わるのはトゥヴァの女性名によくあるそうだ。父称のアレクセーヴナはロシア語、つまり彼女の父親の世代はロシア語の名前を付けた方がよかったらしい。チンチはトゥヴァ語。彼女の父親はホイトパク=オールが名前、フナイ=カラエヴィチが父称と、本人もその父もトゥヴァ語。私とスラーヴァさんはこの舌の廻らないトゥヴァ語の名前プラス父称に悩まされた。本来は、敬意を表すためには名前と父称を続けて呼ばなければならない。が、トゥヴァでは父称のみで呼び掛けても十分敬意を表していると言うので、スラーヴァさんはお母さんをアレクセーヴナと呼ぶようになった。彼自身の父称はアレクセーヴィッチだから、同じ名前から来ている。
 食事の後、アレクセーヴナさんが村を案内してくれる。ムグール・アクスィ村は人口3000人くらいで、学校も最近2校目ができたそうだ。アレクセーヴナさんは第1学校の音楽の先生だ。村はムグール川が幾筋にも分かれてカルグィ川に合流するところにある。道はムグール川右岸を下ってきて、橋を渡り左岸のより広い平地に出る。しかし、右岸にも、チンチたちの新居をはじめ、家が建つようになったので、村の中心へ、遠回りの橋(自動車道通行可)を渡らなくても行けるように、広い河原のムグール川に歩行者用橋がかけられた。村の自慢の橋らしかった。役場や学校、店、そしてアレクセーヴナさんたちの家もみんな左岸にある。私たちは、この階段の多い歩道橋を渡って左岸に出た。今、渇水期なので橋の下は乾いた河原が広がっていて、馬などの交通手段では河原通過が便利だ。橋がなければ、私たちも河原に降りて湿地をよけながら渡ってまた向こう岸を上がればよい。左岸の村の中心地にはこの町出身の英雄らしい人の碑や、ソ連様式の彫像や、その横にはチベット仏教寺院が建っていた。ラマは常駐していないそうだ。両親の家はカルグィ川右岸に沿って長い通りの端にある。だからチンチの新居とは徒歩だと40分はかかるそうだ。
 両親の家も、隣家とは壁を共有している。シベリアの国立の家はみんなこうだ。(昔は、住居の建設はすべて国が行った。今でもそうだ。都会で不動産会社が団地をつくるようになったのはつい最近だ)。入口や庭などは全く別なのでプライバシーが守られるうえ、壁一枚の建設が節約できる。今、この家には、両親のほか、サンクト・ペテルブルクで学んでいるが夏休みで帰ってきている妹と、中学生の弟、チンチ夫婦と7か月の息子のアビルガが住んでいる。アビルガとはモンゴル語で、闘士、勇者、だから横綱の意味だそうだ。チンチの姉はサンクト・ペテルブルク住んでいて既婚。
  (後記:姉のウラーナは2018年11月に私を頼って来日。2019年5月には、ウラーナと彼女の夫、チンチの3人が来日、私宅に宿泊)
 居間には古いがピアノがあった。3室はあって広めの廊下もあるが、水道はない。村でディーゼル発電しているので電気はある。後でわかったことだが、節約のため地区ごとに不定期に停電する。暖炉はあるが、料理はガスでもやっている。ガス・ボンベを定期的に購入しているらしいが、たまには早めに切れる。停電中でガスも切れた時は村を走り回って、ボンベを探さなくてはならない。しかし、そんなことは慣れたものだ。
 カルグィ川谷の遺跡群
 チンチの両親の家でもう一度食事をしてから、まだ3時半だったので近場に出かけることにした。ムグール・アクスィへ来た以上はヒンディクティク・ホリへ行く。そこは日帰りではいけないから翌日にする。一方、20キロほどのところにアク・ホリと言う鉱泉もある小さな湖があるそうだ。近くに古代遺跡も多いらしい。
 3時半頃、チンチの両親と4人で村を出て西へ向かう。両岸ともに3000m級の山脈に挟まれたカルグィ川谷は遺跡の宝庫だ。左岸は峻厳なツァガン・シベトゥ山脈に川岸近くまで迫られて入る。村は右岸にあり、しばらくは右岸の河岸段丘を走る。数分も行ったところに、もう古代(中世)テュルク時代の石像が何体か見えてくる。石像は縦石で四角く囲った中に必ず立っている。周りにはたいてい石積みの古墳がある。この場所から今来た村が見える。たぶん1.5キロほど西(カルグィ川上流)に来たのだろう。モングーン・タイガ・コジューンの考古学調査は1955年、ソ連邦科学アカデミー民俗学研究所のサヤン・アルタイ考古学調査隊のグラーチたちが行った。写真入りの文献をネットで探してみることはできるが、その写真や場所の説明が、今回私が見たのとはあまり一致しない。状態の良い石像は博物館に運んでしまったのかもしれない。私が訪れ、写真も撮ることができたのは車が通れるような道端だったが、学術隊が調査したのは、そればかりではない。 
 グーグル地図では6基ほどの古墳がこの場所に見える。http://tyva-map.ru/1432904.html
村の1キロほど西にあるチュルク時代の石像の一つ
アク・ホリの西の段丘にあるチュルク時代の石柱列

 村から西へ比較的平らな河岸段丘(第2段丘と言うらしい)を、石像群のところまで行くと、その先の道は険しくなった。川岸近くへ(第1段丘と言うのか)降りたり上がったりして一度カルグィ川を渡り右岸へ出る。右岸にも小さな草原広場があって、1台のジープの横に十数人の男性が車座になっていた。鞍に荷物を乗せた馬も何頭か近くにいる。これは、バイ・タル村から来たナーディム(モンゴル語でナーダム)の参加者たちだと、チンチのパパが教えてくれた。ナーディムは牧民の夏祭りで歌や踊り、競馬やフレッツ(モンゴル相撲)、さまざまなコンクールがあり、全トゥヴァ共和国規模としては、例えば去年はサルマガタイで開催された。首長も参列する。地方規模では、今年はムグール・アクスィ村、去年はバイ・タル村だった。そのナーディムが昨日終わったので、バイ・タル村からの参加者たちが今帰る前に仲間たちと楽しんでいるのだろう。バイ・タル村はバイ・タイガ・コジューンと言う別の自治体にあり、もし、車で行くなら、ハンダガイトゥから地方道163号線でチャダンに出て162号線でテエリまで行き、そこからさらに16キロほどヘムチック川に沿って石道を遡ったところのヘムチック最上流にある村だ。つまり車で行くなら全行程400キロほどある。しかし、直線距離ではツァガン・シベトゥ山脈の向こう側にある近い村で、山脈の谷間を馬で通って行くと50キロかそこらで行きつける。競馬にやってきたバイ・タル村の男性たちは、お祭りも終わり、家に帰る前に一杯やっているのかもしれない。
 トゥヴァは全体に山国で、馬が主な交通手段で、馬ならばたいていの場所へ行けるし、馬道はトゥヴァ各地に網の目のように通じている。季節によっては通れなくなる馬道や、交通量が少なくて消えた馬道、より頑丈になった馬道などの情報は地元の人たちが知っている。ここ数年、馬道を利用して高駆動の車が乗りこんで行き来しているうちに、幅が広がって地面がやや硬くなり、車がなんとか通れるような道になることもある。すると、車がよく通るようになり、ますます幅がひろがる。
 トゥヴァ南東のこのコジューンでは、ハンダガイトィからムグール・アクスィへの新しい道と、ムグール・アクスィの手前で分かれてクィズィール・ハヤ村へ行く道、クィズィール・ハヤからアルタイへ抜ける山道の一部以外は、人の手の入らない(動物の足とたまにの車輪で均しただけの)自然道だ。(アスファルト舗装は皆無)
 ムグール・アクスィを離れると、この自然道を行く。この道にも峠があって、チャラマとオヴァーがしつらえてあった。時々山の斜面、または高い河岸段丘の小さな広場の草はらに出る。そんな場所ではたいてい石積みの古墳があった。対岸の小さな広場にも石像が、「ほらあそこに」とチンチのママが教えてくれる。言われなければ、あるとわからない。
 ふと雪をかぶった高い山が近くに見える。富士山のように美しい円錐形はしていなくて、ここ(標高2000mくらい)からはずんぐりした台形に見える。これが東シベリア最高峰の聖山モングーン・タイガ(3970m)だ。カルグィ川はツァガン・シベトゥ山脈とモングーン・タイガ山塊の間を流れてくる。ヒンディクティク・ホリも、ムグール川もその間にある。だから、この先3日間は、モングーン・タイガ山をあらゆる角度から眺められた。写真もたくさん撮った。そしてまた古墳。石像。
 今度は丸太を横に並べた新しい橋を渡って、またカルグィ川の右岸に出る。川に橋がかかっていると言うのは珍しいことなので、スラーヴァさんが感心する(自然道に普通は橋はない)。チンチのパパが「軍隊がかけてくれた」と言っていた。
 右岸の河岸段丘を上って行くと高原に出た。石像と古墳が散らばっているほかは何もない広い草原だった。2列にならんが石像群が何列かあるが、これは古代テュルク戦士の記念碑。立て石で四角く囲まれた中に大きくて人物の彫像のある石像があり、その先に何個もの彫刻のない小さめの立て石が何体も2列に並んでいる。奥の彫刻のある戦士像に向かって続く廊下のようだ。1列のこともある。カーブを描いて並んでいることもある。7,8世紀にできたものだから1000年以上も、誰も住まないばかりか、訪れる人も少ないこの見晴らしの良い高原の草地に立ち続けているのか。こうした石像群は、必ず、見晴らしの良い高原か盆地にある。私はいつも、つくられた時代の人々のことを想像する。同じ場所に同じ時代の古墳もあるが、スキタイ時代や、あるいは前スキタイ時代の古墳と同じ場所にあったりする。だから7,8世紀の突厥人(テュルク人、さらにその中のウイグル族)はその千年程前にあったスキタイ人の古墳の近くに自分たちの古墳を作ったのか。ロケーションのよい場所は、新石器時代から、青銅器時代、スキタイ、匈奴、テュルク、ウイグル、キルギス、モンゴル、近世と記念碑がある。
 カルグィ谷の遺跡については1953-1960年にグラーチたちの考古学者によって調査された。グラーチのモングーン・タイガ・コジューンの遺跡についての著作をウェブサイトから読むことはできるが、そこに載っている古代チュルクの石像と私の見たものとはなかなか一致しない。 
 アク・ホリ青少年の家
アク・ホリ(湖)
ラーゲリの広場で
ラクダ岩のある山からアク・ホリを望む
ラクダ岩
 目的地の湖アク・ホリと鉱泉は、この高原から小さな山一つ越えたところにある。村の『水浴び大好き族』には、ここが近場の遊び場らしい。数グループが来て、岸の近くで水浴びをしていた。水はきれいだ。汚水源はないから。よく見ると小さな赤いエビのような生き物が湖岸近くの浅瀬にゆらゆらしている。手ですくって捕まえられた。もっとよく見ると、たくさんいる。チンチのママがくるぶしまで水につかって捕ってくれた。ちょうど持っていたナイロン袋に、ここの砂利や水と一緒に何匹も入れた。後のことだが、このエビたちを瓶に入れてチンチの家の玄関に置いておいたが、3日ぐらいは生きていた。日本に持って帰るわけにもいかないし。
 湖の周りをぐるりと回ってみた。向こう岸には、鉱水の湧きだし口と、サナトリウム兼ピオネール・キャンプ(ラーゲリ)、つまり夏場の『青少年の家』がある。鉱水は地面を這って湖に流れ込む。家畜が踏まないように湧きだし口には柵がしてある。サナトリウム兼ラーゲリには、夏以外は地元の成人が住んで療養することもあるとか。

 『青少年の家・ラーゲリ』の敷地内には宿舎や管理棟、食堂など建物が数棟と中央がスポーツ広場になっていて、子供たちの姿が見えた。村一帯はみんな知り合いどうしなので、チンチのママが、入ってみようかと言う。広場では、たぶん地元の子供たちだろうが、ボールやマットで遊んでいた。チンチのママに促されて建物の一つに入る。女子用宿舎で、ベッドが8台ほど並びそれぞれに小さな棚があり、テレビやミュージュック・コンポもあった。女の子たちがギターを弾いたりおしゃべりをしたりしている。日本から来たと言うので珍しがり、喜んでくれた。一応記念写真も撮った。私たちがここにいると言う情報が広がって、所長さんがお茶に招いてくれる。所長さんはチンチのママの知り合いだそうだ。
 食堂は別の建物だ。ここがホールともなっていて、展示品も並べてあり、どこでもこの種の設備にはそうだが、プーチンとロシア国旗、紋章の写真、トゥヴァの首長と国旗、紋章の写真も掲示してあった。その横にはこの『青少年の家(常設ラーゲリ)』の由来を描いたポスターもある。それによると、
 「1975年、モングーン・タイガ・コジューン『マルチン(牧民の意)コルホーズ』長の何某が、コルホーズ員のために、バルバク・アルィグ(と言う場所)にラーゲリを作った。(当時牧民を集団農場化してコルホーズができていて、そのコルホーズ員の定住場所が村だったので、村の事実上のトップは村長ではなくコルホーズ長)。2棟の宿舎と食堂からなっていて、床は土のままだが鉄製のストーブがあり、またバレーボールやバスケットボールのできるスポーツ広場もあった。だが、水は2キロ離れたカルグィ川から桶で運ばなければならなかった。そのため、1993年地区党(つまり自治体・コジューンの党)は、何某の主導でラーゲリをアク・ホリ近くへ転居させ、名前も『マルチン』から『アク・ホリ』と換え、地区(コジューン)教育委員会が運営することになった。アク・ホリはバルバク・アルィグより、『青少年の家』の場所としては適している。近くの湖で水浴もできる。湖は泥浴や蛭治療という薬効がある…トゥヴァ共和国政府教育省の資金援助もあり、宿舎や食堂などが建て替えられ、医療棟や倉庫、食料保存用半地下倉(年中チルドで冷蔵庫代わりになる)も新規に建てられた。2011年には湖に水浴用浜辺が整備され、『青少年の家』に滞在中の子供たちばかりか、コジューンの住民、(観光)客にもお気に入りの場所となった。多くの著名人、何某、何某…が訪れた。2014年某社社長がミュージュック・コンボを寄付する。同年、モンゴルの青少年も参加して国際エコロジー・スクールも開催される。・・・」
 この最近できたらしい掲示を読んでいるうちに食卓が整って、私たち4人はテーブルを囲む。お茶やパンにチーズ、ソーセージ、それにスイカも並んでいた。
 アルバイト大学生らしい指導員の一人(アクサーナ・セデプと言う、後に文通する)が、この近くに『ラクダ岩』があると教えてくれる。トゥヴァでは各地の残丘にラクダの形をした岩があるようだ。湖はアク・ホリ・ダ山脈(モングーン・タイガ山塊の一つ)とカルグィの川岸の間の高原にあり、ラクダ岩は、そのアク・ホリ・ダ山脈にある。湖から山脈に初めは緩やかで次第に急になる草原斜面が続いている。タイヤの跡もあったので、登れるところまで車で行き、あとは歩いた。確かに、こちらも足を折って座っているラクダに見える。首を高く持ち上げて、下の草高原、その先のアク・ホリ湖が窪地を占める高原、その先のカルグィ谷、向こう岸のツァガン・シベトゥ山脈の山々をも見ているかのようだ。ラクダ岩は湖面より300mほどの高所にある。アク・ホリの周りには小さな湖が2,3個あって、元はつながっていたのだろう。今、小さい方は沼になっている。後でその側を通ったのだが、かなり乾いた沼で、スラーヴァさんが車で通ってみようと言いだしかねないほどだった。
 『カルグィ4』古墳群
上から見るとドーナツ古墳が見えるクィシカシュ遺跡、その向こうにカルグィ川
 湖から小さな山一つ越えた高原にも古墳がたくさんあるとチンチのママが言うので、行ってみることにした。まだ7時半にもなっていなくて空は真っ青だった。カルグィ川に沿ってさらに上流へ行ったことになる。そこは高原と言うより、カルグィ川の広い河原の緩やかな草原斜面だった。川向こうにも小さな丘はあるがツァガン・シベトゥ山脈の麓まで広い草原が続いているので小盆地と言えばいいのか。(全部カルグィ谷と言えば簡単)。上から見ると大小の古墳が20基は見え、どの古墳も真ん中がへこんだドーナツ型をしていた。盗掘の跡かもしれないし、中央に玄室のための空間をつくったため年月とともに天井が落ちてきて凹んだのかもしれない。草原広場の隅、つまり山の麓にユルタが建っている。トゥヴァのたいていの古墳は上空から見るとドーナツ型をしているが、普通は近くで同じ高さから見るので、凹みのある石塚に見えるだけだ。この場所はクィスカシュКыскаш(釘抜・ペンチ)と言うそうだ。『カルグィ4古墳群』と考古学資料に出ているのがこれかもしれない 
 カルグィ谷にはこうして何千年も前から牧民が住み、記念碑や墳墓を残してきたところなのだ。こんなに深い山奥で、耕作には全く適さない土地のこんなに厳しい自然であっても、牧民は生活していたのか。周りの地域からへだたっているように見えても古代から人々は越えやすい峠や、多くの川筋を伝う小路を利用して、他の地と交通していたばかりか、東西の交通路の一つだったかもしれない。
 チンチのママによると、自分たちの祖先(必ずしも直接ではなく、古墳を残した民族・スキタイは移動して去ったただろうが、一部は残って新たにここへ移動してきた民族に融けたかもしれない)が残した古墳は小さい時から敬うように言われてきたと言う。触ることはもちろんその方向へ目を向けることも憚れたと言う。
 この草原からモングーン・タイガの雲を頂き、白い万年雪が長く筋状に延びている山肌がよく見えた。
 聖山モングーン・タイガは、2003年ユネスコの世界自然遺産に登録された『ウブス・ヌール盆地群』の12のクラスター・保護区の一つだ。(トゥヴァ内に7か所、モンゴルに5か所ある)。国際ウブス・ヌール生物圏研究所2011年発行の写真集によると。。。
 聖山モングーン・タイガを見上げるカルグィ川谷で、何千年も繰り返し生えてきて、家畜を養っていた牧草にもさわってみる。厳しい気候の牧草はよりおいしいと言う。

 帰り道、また小さな山の峠からドーナツ古墳の草原を眺めてみた。空はまだ青いが時刻は8時に近く、日はかなり傾いていたのか、曲がりくねって流れるカルグィ川の川面が白く光って見えた。
 ムグール・アクスィ村に近づくと、馬に乗った男性たちと何人も行き違った。ナーダムの参加者たちが自分たちの村に帰るところだ。もともとが馬がつけてくれた道なのに、車が通ると道端の草の中に除けてくれる。
ユーリーさんが案内してくれた岩画のある山

 チンチの両親の家に帰ったのは8時半も過ぎて陰も長くなっていたが、まだ明るい。エールベックの考古学キャンプ場でムグール・アクスィ村からの中学校の先生が教えてくれたユーリー・ドシュトゥグ=オールさんに郷土の遺跡を案内してもらおう。電話番号ももらってきたので、チンチのママに連絡してもらう。
 ユーリーさんは今だけ時間があるからと、岩画の場所へ案内してくれた。その場所は村の背後にある小高い山の中で 遠くに村とその前に流れるカルグィ川が見晴らせた。垂直の小さな岩がいくつもむき出しになっている場所があり、その岩の幾つかに岩絵が残っている。角のある動物が打刻されているのがやっと分かる。むき出し岩は石ころだらけの、つまり岩がはがれて落ちたような斜面の上にあり、斜面の下には狭くても小さな緑の原っぱがあるから、ここは古代人の祈りの場所でもあったかと思う。この岩画についての考古学論文はウェブサイトを探しても見つからない。
 9時過ぎにユーリーさんをまた彼の家に送り届け、スラーヴァさんと私はチンチの新居に戻った。昼間ヘレル君が焚いてくれた暖炉の熱気が残っているのか、暖炉を囲む2DKは暑くて布団をかぶって寝ておられなかった。前夜は寒さで眠れなかったのに。
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