クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 March, 2015  (追記2015年5月25日、2018年11月21日,2019年12月14日、2021年11月7日)
32-(13)   再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (13)
    ユルタを建てる
           2014年7月11日から8月13日(のうちの8月6日から8月7日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 東部地図、古儀式派のカー・ヘム岸 ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国(地図)からの知人 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルとの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語に近い形で表記した。また、ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
 8月6日(水) 解体ユルタを運ぶ
 そこそこの村には文化宮殿があるものだ。そこそこの村には学校は必ずあるし、学校があれば、学校付属博物館があり、子供たちの教育のためにも文化センターがある。たいていの博物館や文化センターはそれなりに充実している。献身的に尽くす大人がいるからだ。
 この日はムグール・アクスィ村滞在の最後の日で、そうした文化施設を廻りたいと思っていたが、どれも閉館だった。チンチのママに各施設の責任者の携帯に電話してもらったが、どこも不都合だった。チンチのママは学校の音楽の先生で、家は学校の隣にある。夏休みと言うのは校舎の修理期間で、柵にペンキを塗っていたりする。行くところがなく、どうしても暇だったので、チンチのママとアヴィルガ坊やを抱いて隣のその学校を見に行った。村の設備で見物したのはここだけだった。休業中の学校見物は、廊下などの時間割表などの掲示物を見る程度だが、なんとなく雰囲気が伝わってくる。
ミミズを見つけて缶に入れる
左にユルタの丸い敷地跡が見える
大型トラックによじ登る
草原の風に吹かれて、ユルタの天窓の枠と
トラックの荷台に。聖山も見える
トラックの荷台の孫たち…強風

 チンチのパパの姉のユルタが、今日引っ越しだと言う。つまり、夏の遊牧地から冬の遊牧地へ、家畜をはじめ持ち物すべてを持って移るのだ。ぜひ参加、お手伝い、あるいは見物、お邪魔したい。昔は、解体したユルタや家財道具を家畜の曳く荷車に乗せて移動したが、今はトラックだ。
 2日前にも行ったことのあるチンチのパパの姉のダリヤさんの夏のユルタへ向かう。途中、カルグィ川岸により、チンチの両親は持参の缶にぎっしりおいしそうなミミズを掘り集めた。これを持ってチンチのパパだけはカルグィ川の彼の釣り場へ向かう。私とチンチのママはスラーヴァさんの車で、2日前にも行ったことのあるダリヤさんのユルタへ。
 2日前は孫たちしかいなくて、年長の孫アイラナさん(大学生)にご馳走してもらったのだ。私達が着いた時は、その時のユルタはもうすっかり解体されていた。ユルタの建っていた跡だけが地面に丸く残っていた。建物を退かしてみると敷地は小さく見える。ユルタや家財道具一式はもうロシア製大型トラック『カマズ КамАЗ』の荷台に乗っていた。『カマズ』と言うのはウラル山脈のカムКам川畔にある自動車Автомобильныйの工場Заводで生産された大型トラックやバスのことで、ロシアで国産大型車と言えば『カマズ』だ。4輪駆動車(ジープ、小型トラック)と言えばウアズУАЗ(ウリヤノフ市のУльяновский自動車Автомобильный工場Завод)と言うように。
 この『カマズ』は元のコルホーズ(今は『国立総合企業』とか言うそうだ、私は代表の権限が強い農協と理解する)から借りたそうだ。超高年式の『カマズ』だが、もしかして村に1台かもしれない。
 一家の長のダリヤさんや、2日前に知り合った孫たちや、たぶん彼らの両親、つまりダリヤさんの子供や嫁や婿たちが地面に座っていた。解体ユルタをカマズに積み込んで一休みしていたのだ。白黒の犬たちも周りで走り回っている。小型トラックも止まっていて、小枝を積んでいた。建築材料なのか薪なのかわからない。樹木のない地方だから小枝は薪にして燃やしてしまわずに、柵にでもするのか。
 『カマズ』の運転席は大人の男性の肩ほどの高さだ。運転席の屋根は私の背の2倍くらいあった。荷台に乗るにはその高さまでよじ登らなくてはならない。ステップなどはもちろんないので、大きな車輪に足をかけ、泥除け(バンパーだかタイヤハウスだか)に別の足をかけ、側面の出っぱていて触れるところに掴まり、おしりをダリヤさんの息子さんに押してもらい、先に上っていたチンチのママに手を持ってひっぱりあげられて、私にすればロック・クライミングのように、なんとか高い荷台に上がることができた。荷台には解体されたユルタや家財道具や、絶対に踏んではいけないユルタの明かりとりの窓枠などが雑然と積まれている。孫娘のアイラナと妹の女の子も登ってきた。
 荷台からのカルグィ谷草原の見晴らしは抜群だ。
 いつもは荷台に乗って移動するダリヤばあさんは、スラーヴァさんの車の助手席(いつもの私の席)に座り、小さな孫たちもみんな歓声を上げて後部座席に乗り込んだ(と後でスラーヴァさんが言っていた)。冬営地はアク・ホリ湖の畔で、あまり遠くはない。夏営地と冬営地はこれくらいの距離が普通だろう。みんな乗り込むと、『カマズ』はゆっくり出発した。ゆっくりでも、荷台の上では草原の風に震え上がる。チンチのママが前もってダウン・コートを貸してくれた。アイラナ達は毛糸の帽子までかぶっている。私は日よけの帽子しかないが、これでもないよりましだった。
 トラックは草原の向こうにそびえる雪のモングーン・タイガ山を見ながら進み、私は写真を撮り続けていた。オレンジ色のペンキの剥げかかった『カマズ』の荷台、ユルタの支柱、青いペンキの塗った丸い明かりとりの枠、風になびくアイランの髪の向こうに広がる草原、カルグィの流れがわかる木立ちの列、そして雪をかぶったモングーン・タイガ山などが、どの写真にも映っている。私たちの後からスラーヴァさんの小さなジープがついてきた。後で彼が言うには、この間中、後部座席の小さな孫たちが大声でふざけ合っていたとのこと。
 やがて、カルグィ川を渡る。川には木の橋がかかっているが、そんなちゃちな橋をこの大型トラックが渡ればつぶしてしまうので、浅瀬を渡る。スラーヴァさんの車でも渡れる浅瀬だったのでよかった。
 ユルタを建てる
 トラックの荷台で草原の風に震えていたのは、わずか40分ほどだった(素晴らしい眺めだったのでもっと震えていてもよかった)。冬営地のアク・ホリ(湖)畔に着く。『青少年の家』(ラーゲリ)は湖の西岸(鉱泉の近く)だが、ダリヤさんの冬営地は反対側の東岸だ。湖を挟んでかなりの距離は離れているが、遮るものがないのでお互いに建物が見える。人までは見えない。

ユルタの壁はできる。
背の曲がった老人が横に座っている
天窓の位置を決める
屋根の柱になる枠をさす
天井にフェルトをかぶせる
中心の炉を調整する
炉の大鍋でミルクをかき混ぜるダリアさん
鍋にパン、壺にクリーム、ミルクティーのやかん
私、ダリアさん、アイラナ、ダリアさんの嫁
 荷台から降りるのは登るよりずっと楽だった。男性たちは一休みすると荷物を下ろし、組み立てる準備を始めた。
 ダリヤさんと大人の男性が3,4人、大人の女性が4人(年長の孫娘と、ダリアさんの嫁、チンチのママ、それに私)、戦力にならない小さい子が2人と、戦力になる10歳くらいの女の子、大いに戦力になる12歳くらいの男の子(無口のアラシュ君)、それに餌をねだるだけの犬が数匹で、ユルタを建て始めた。まず、ユルタができる場所に大型家財道具を集める。なぜならユルタの戸口は人がやっと入れる程度で、後からベッドやタンスは入れられない。次いで側面になる幾つもの枠を丸く立てて順番に縛っていく。これは枠が倒れないよう支えている人と端を結びつける人の2人いるので、私も手伝いができてうれしい。10歳くらいの女の子は必要な荷物を必要な場所に運ぼうとしている。こうして小さい時から、学んでいるのだ。
 もっと小さい女の子たちも何となく手伝っているが、そのうち地面に落ちていた岩を舐めはじめた。岩塩だった。私も舐めてみると塩気のほかにも微妙に味が効いていて、少量ならおやつになるかもしれない。初めから落ちていたのか、ダリヤさんの食料品の一つなのかわからない。
 実は前記の『大いに戦力になる12歳くらいの男の子』のアラシュ君は、いったん小枝を運んできた小型トラックで去って、夏営地から家畜の群れを連れて戻ってきた。草原は見晴らしがいいので遠くまで見える。誰かがこちらに来ようとしているのか、そばを通りすぎて行くだけなのかもわかる。草原には道はないが、ユルタはその『ない道』を除けて建っている。だから、遠くからでも、自分たちのユルタに来ようとしているのか、その『ない草原の道』を通っている(つまり来客でない)だけなのかわかるのだ。
 馬に乗った男性もそうやって近づいてきた。その背中の曲がった老人は馬から降りると、近くの柵に馬をつなぎ、黙って布類などの入った大袋に背を丸めて座っている。彼は全く手伝わずに、誰にも挨拶もせず、誰にも話しかけず、みんなは彼がいないかのように自分の仕事をしている。みんなからすっかり無視されているこの老人はいったい誰なのだろう、とスラーヴァさんも不思議がっている。ダリヤさんの夫だろうか。軽度の認知症でも患っているのだろうか。(後で知ったことだが、彼はダリアさんの夫で、特に認知症も病んでない。妻や息子や孫たちは家族だから特に挨拶もしなかっただけ。ちなみにダリアさんは一族の長だ。みんなダリアさんの言うことに従う。背中の曲がった老人の夫も彼女の下だ。)
 ユルタは側面を組み立て、小さなドアをつけると、今度は屋根をのせる。中央に丸い明かりとり(煙突の出る天窓)の枠の位置を決め、側面から何本もの棒を伸ばして支える。これが一番難しそうだ。一番背の高いスラーヴァさんが、初めに空中に天窓を位置づけるため、台に乗って持ち上げていた。その天窓の枠にある窪みに向かって私たちは四方八方から棒を伸ばし、側面の枠に一本ずつ固定して行く。何十本もの棒で支えられるとスラーヴァさんが手を放しても、天窓は落ちてこない。骨組みがだいたいできると男性たちは微調整をする。
 ついで、側面にきれいな布をぐるりと巻きつける。この布はユルタの内側から見ると壁布になる。同じく天井にも花柄模様の布を置く。その上に分厚いフェルトの布をかぶせ、さらに大きな一枚のテントのようなものを巧みにかぶせ、最後にひもをぐるぐるまわしてすべてを固定する。ダリヤばあさんはみんなを指図して回り、自分好みに自分のユルタを調節している。
 『カマズ』から全部の荷物を下ろし終わってここまで1時間15分だった。主力の男性たちや10歳の女の子まで、自分のやることが初めから決まっているかのように手際よく動いている。
 ユルタが完成すると、みんなは中に入って道具類の組み立てをする。モンゴルに注文して作ったと言う民族模様のローチェストを組み立てる男性。ユルタの中心に煙突を立てて炉を作る男性。大物家具を動かす男性。女の子たちは台所道具や寝具、布類の入った袋などの整頓をしている。
 一番大切な炉ができると、大鍋をかけて火を焚く。湯がわくとミルクを足し、茶葉を入れ派手にかき回すのは女主人のダリヤさんの役らしい。男性の誰かが地面にフェルトを敷き、女性の誰かがパンを切り、クリーム(ヤクの乳からできたクリームかも)の瓶や茶碗をフェルトの上に並べ、大鍋からミルクティーをやかんにすくって横に並べてくれた。
 みんなそれぞれの仕事をし終わって、地面に引いたフェルトの上に座って、ミルクティーを飲み始めている。みんなひと働きをしたので御苦労さん会なのだ。私もパンに分厚くクリームをのせみんなと一緒に食べた。トゥヴァの男性たちはとても寡黙だった。私がクリームの壺に手を伸ばしてすくっていると、とりやすいように黙って壺を私の近くへ寄せてくれた。
 私はあまり働かなかったのに、おいしいクリームだけ食べて、何だか気まり悪い。これ以上は邪魔をしないで、挨拶をして引き揚げよう、と思って、女主人ダリヤばあさんの前に行き、丁寧にロシア語でお礼を言い(彼女がロシア語を話すかどうかわからないのだが)、何か記念品にと、また日本製ポールペンを指しだした。それまで難しい顔をしていたダリヤさんが、急にうれしそうな表情になった。ユルタにボールペンが役立つとも思えないが、私の感謝の気持ちが少しでも伝わってよかった。ダリヤさんはお返しに乾燥サワーミルク餅をくれる。日本まで持って帰れるかどうか聞くと、別の袋入りをくれた。(横にいたアイラナが通訳してくれたのかも)。こちらの方がよく乾燥してあるから日本まで持つとのこと。後でチンチのママが言っていたが、ダリヤさんは夕食会にも招待してくれたそうだ。夕食会はたぶん転居祝いで、羊かヤクを一匹料理する。

 アク・ホリ湖の古墳草原にかかる虹を見、馬の群れを追い越して帰途に着いたのだが、丘を上ったところでスラーヴァさんの車が壊れた。こんなに酷使したのだから、今までもったのが不思議だ。チンチの両親の家までは壊れて悲鳴を上げる車を騙し騙しでゆっくり戻ったが、この先の長旅は修理ができない限り不可能となった。クラスノヤルスクのディーマさんにメールを送って迎えに来てくれるよう頼んでもいいが、ここへはロシア人でも国境地帯通過許可証が必要だ。クラスノヤルスクからここまで1300キロはある。チンチのママによると、チャダン市やクィズィール市まで、乗り合いジープはあるそうだ(と、スラーヴァさんを捨てて自分だけクラスノヤルスクに戻るような冷たい計画を秘かに立てていた。)一方、スラーヴァさんは修理ができないことはないと、車の下にもぐっている。私にすることはない。まだ、夕方の8時前だった。
 湧水
 チンチのママと村はずれの泉に出かけることにした。泉の水を入れるために彼女はペットボトルを何本も持つ。私は小さいのを一本だけ。チンチのママは二人では寂しいからと、元同僚と言う友達の家に寄って御誘いする。その友達も分厚いコートを着てペットボトルを持ち、小さな娘を連れて、私たち一行に加わった。
カルグィ川にかかる歩道橋を渡って左岸を下る
チンチのママの元同僚の母娘

 泉は村からかなり離れていて、私たち4人はカルグィ川岸におり、砂利道を通り、湿地を除け、いくつもの窪地を通り抜け、川下のほうへ行く。また、草原を進んでいくと、小さな太鼓橋があった。もちろんきれいな半円形をしているわけではなく、危なっかしい階段を上って、川の中央に出て、また危なっかしい階段を降りて向こう岸へ出る。春の雪解け時期には水量が多く、流氷の塊で橋が壊されないように、橋げたをこんなに高く上げているのだろうか。泉に行く人にはありがたい橋だ。この橋のおかげで、足を濡らさずに済む。カルグィ川の左岸を木の根をまたぎ、枝の下をくぐって進む。なんとなく小路があるようだ。小路に沿って坂を登ると、そこに、地面から湧水が出ている。
 ここで、ペットボトルに入れてもいい。崖のもっと上には、トゥヴァ流の一通りの設備の整った鉱泉場がある。家畜が入らないように木の柵で囲って、湧水を受ける樋もあり、水浴のための板塀もある。木のベンチもあり、チャラマが張ってあった。泉は神聖な場所だ。私たちは水を汲む前に、お供え物をしてお祈りをする。チンチのママはちゃんとお供え用のビスケットを持ってきていた。私も自然を敬って手を合わせてから水を飲んだ。
 湧水、泉、つまり鉱泉場はカルグィ左岸の高台で、遠く蛇行して流れるカルグィ川や、その対岸のムグール・アクスィ村も見える。帰りは重たいペットボトルを持って歩かなくてはならない。が、村に近づいた頃、チンチのパパが車で迎えに来てくれた。
 こうした湧水は、トゥヴァ各地に多くあり、大抵はそれなりの薬効があり、シェベリングやウシュ・ベルディルのように全国から湯治客の集まる鉱泉場もあるが、どんな小さな鉱泉場にもチャラマが張ってあって、住民は敬意をもって接する。このムグール・アクスィ村人の鉱泉場はなんという名前なのだろう、と後にメールで聞いてみたところアルジャーンというという答え。アルジャーンというのはミネラル水、鉱泉という意味だから(つまり普通名詞)、ここは特別名前がないわけだ。村に一つしかなければ特に地名(固有名詞)はいらない。
 8月7日(木) ムグール・アクスィ村のネット・電力事情
 スラーヴァさんの車を修理するためには溶接装置が必要だそうだ。それはたぶん、村にはあるだろう。元、村の消防署長をしていたチンチのパパが知り合いを通じて探してくれることになった。消防署も車を使うから、使えるものがあるかもしれない。午前中は車の修理で、うまくいけば午後から出発と言う予定になった。私は、また、することがない。チンチの家でアビルガちゃんのお守でもしていた。
アビルガちゃんとサイルィクさん

 この日、村のチンチの家を含むたぶん半分が停電だった。村のディーゼル発電機の燃料を節約するため、燃料の減り具合を見て不定期に行われるのだろう。トムスク市で学ぶチンチは両親のために電気がま(炊飯もできるかもしれないが、スープや炒め物などに使うらしい)を買ってきているのだが、それも使えない。(トムスク市は大都会で何でも売っている)。定期的に購入しているらしいプロパンのガス・ボンベも、折悪く、空になった。そこで、チンチのパパは村中の知り合いをまわってプロパン・ガス・ボンベを都合することになった。そのパパの車にチンチの妹のサイルィクと一緒に私も乗って出かけたのだ。村に用事があったのだ。
 それはネットをつなげる方法だった。サイルィクはモスクワの医療専門学校で学んでいる。(後記:2018年11月に日本の我が家で数日間ホームステイしたチンチの姉のウラーナさんによると、彼女が働いているサンクト・ペテルブルクの学校に進むよう勧めたが、わざわざモスクワに行ったとか)。
 サイルィクの住むモスクワは大都市なので、ネット生活は当然だが、ムグール・アクスィ村に帰ればネットのできる環境ではないだろうがと思って、念のため聞いてみると、方法はあると言う。それはATMでお金をクレジット・カードをいれて容量を購入すればいいと言う。プリペイド・カードのように、たとえば300ルーブル分(1000円ほど)購入すれば、彼女には1か月は持つそうだ。そうだったのか!では、私のクレジット・カードで購入し、残りの容量はサイルィクさんにあげることにする。また、郵便局にはネットのできるパソコンが2台あって誰でも使えるそうだ。たった2台なら、長い順番待ちがあるだろうと思ったが、ネットの通じている時間がほとんどないので、順番はないとのこと。 
 もしかして、今通じているかもしれないと思って、まず郵便局へ行ってみた。新しい黒いノート・パソコンが置いてある机の周りには誰もいなかった。念のために郵便局の職員に聞いてみたが、今は通じていないとのこと。
 次いで、サイルィクさんと村役場に行く。ここは、住民のためのあらゆる窓口のほか、村で1台のATMが設置してある。見ると廊下の端までの長い順番がついていた。一人一人もとても長くかかっているようだ。やはり、今だにロシアで順番と言うと朝来ても、その日のうちに終わらないものがある。あきらめて家に戻る。
 チンチのパパの方はプロパン・ガス・ボンベを調達できたようだ。それで川魚のムニエルと言うメニューの食事ができた。ちなみに、チンチの家では、トゥヴァらしい肉料理は一度も出なかった。と言うのはチンチの家(苗字は、トゥヴァ人にもっとも多いヘルテックと言う)は遊牧をしていないからだ。自給自足の農村ではだいたい自家製のものを食べる。チンチのパパはどこへ行くにも釣竿持参だったが、それは趣味だけではない。
 いつも食卓に出たのはヒメマスだった。これを何匹もムニエルにして大皿に盛り、客の私たちに、どうぞと勧めてくれる。私は魚をナイフとフォークでは食べられないと言うと、引き出しからちょっと古めだが箸を出してくれた。スラーヴァさんがどうしてこの家にあるのかと聞いていた。中国からモンゴル経由で伝わったものか。
 ムニエルはとてもおいしいのだが、2匹ぐらいでやめる。私たちが食べなかったムニエルは、私たちが食卓をたった後、他の家族が食べる。客が優先して好きなだけ食べるというわけだ。だから料理の量は多い。私たちがたくさん食べると家族の分はなくなるではないか。スラーヴァさんはたっぷり食べていた。カッテージ・チーズのような乳製品も大きな茶わんに入って食卓に真ん中に置いてある。小皿にとることなく直接、自分のフォークですくって食べる。こうすれば洗いものが少なくて済む。
 アク・バシュティグ山
 幸い、スラーヴァさんの車は修理できた。消防署に溶接機があり、貸してもらったと言う。スラーヴァさんは消防署で、前年の春にあったと言うアク・バシュティグ山の雪崩遭難の話を聞いていたそうだ。村の若者7人が試合に備えてスキーの練習に上って行き、雪崩にあった。1人だけが雪崩の起きた斜面にはいかなかったので、村にたどりついて事件を知らせたそうだ。村の消防団をはじめ、首都のクィズィールやモスクワからの救助隊が駆け付け、ヘリコプターなどで捜索し、雪の中から6人の遺体を発見した。若者が持っていた携帯電話の電波で見つかった遺体もあったと、その話のときチンチのママが言っていた。今、遭難現場にはトゥヴァ共和国大統領の筆跡のある仏塔が建てられているそうだ。スラーヴァさんは、消防署で、救助の時や遺体発見の写真を見た、と暗い顔をしていた。村で葬儀の時の様子もチンチのママが話す。遺族の嘆きを見るのはつらかったそうだ。
アク・バシュティグ山(3253m) モングーン・タイガ山(3976m)

 モングーン・タイガ山は村から出てカルグィ川を少し遡らなくては見られないのに対して、村のどこからでも、3253mのアク・バシュティグ山の美しい姿がよく見える。ツァガン・シィベトゥー山脈の一部をなすアク・バシュティグ山はカルグィ川のすぐ対岸にあり、三角の切れ込みのある雪の渓谷が特徴的だ。ちなみに、チンチ達は私たちに額入り写真2枚のお土産をくれたのだが、それはモングーン・タイガ山とアク・バシュティグ山だった。
 ヘムチック畔のディアーナ宅へ
両親の家の前で別れる。背後の建物は村の学校
帰り道も国境近くを通る。
かつての検問所跡の開通状態の遮断機だけが
残っている。
 私たちは家の前で、懇ろに別れを告げ、2時前にはムグール・アクスィ村から出ていた。4日前に通った道をもう一度『味わいながら』通り抜け、6時頃には地方道163号線に入るハンダガイトィへの分かれ道まで来た。主要道の分岐点には必ず交通警察が見張っているものだ、と言うのは昔のことで、今は、見張り小屋の残骸だけがある。その広場でスラーヴァさんはタイヤの空気圧を調節する。なぜなら、ここからアスファルト舗装道に入るからだ。この地方道163号線の89キロは、今では『自動車道チャダン=ハンダガイトゥ』と言うが、2017年までは旧名の『地方道163号線』も通用する
 西タンヌ・オラ山脈を越え、ウルグ・ホンドレゲン川(ヘムチックの右岸支流85キロ)谷を通ってウルッグ・ヘム(エニセイ川)のつくるトゥヴァ中央にあるトゥヴァ盆地へ向かう。景色を楽しみたかったがスラーヴァさんはスピードを上げる。道路がいいことと、暗くなる前にアクスィ・バルルィク村のディアーナ宅に到着したいからだ。地方道163号線はチャダン市付近で地方道162号線(新名『自動車道クィズィール=テエリ』)と合流し、そこからは、162号線を80キロほど舗装道を言った後、クィズィール・マジャルィク町で自動車道を出て、砂利道(と言うより荒野)となり、アクスィ・バルルィック村に入る。この荒野を、石を飛ばしながらゆっくり進むのも悪くはない。特に夕焼け空の下では。
 ディアーナ・ヘルテック宅には、まだ明るい9時過ぎに到着した。1年前に来た時のように、ディアーナの両親、兄弟、その配偶者たち、その子供たちが、待っていてくれた。
 ディアーナは6人兄弟の3番目、既婚の兄と姉、妹と弟たちがいて、末の弟は10歳だ。ディアーナも既婚でテミルランと言う2歳の男の子がいる。だが、この子は生まれつきの水頭症だった。クィズィール市の病院で最近手術したそうだ。部屋の隅には歩行器が置いてあった。1年前と比べてテミルランはとても大きくなっていた。抱いて移動させるのは、ディアーナ達が若いからできる。これ以上重くなると、ディアーナたちでも抱き上げられない。テミルランは両親のほか、祖父母、おじさん、おばさん、多くのいとこたちに囲まれている。大家族でお互いに助け合っている。
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