クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 March, 2015  (追記・校正:2015年5月2日、11月14日、2016年6月24日、2018年11月8日,2019年12月11日、2021年11月4日、2023年5月20日)
32−(6)   再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (6)
    エールベック谷発掘(2)
           2014年7月11日から8月13日(のうちの7月28日から7月30日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目次
1)7/11-7/15 トウヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸(地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国からの兄妹 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート(エールベック谷) オフロード・レーサー達と 再びカティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名を、ロシア語の発音に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
 ウユーク山脈越えの鉄道敷設ルート (地図は前ページ
 7月28日(月)。朝9時頃、昨夕、オフロード・レーサーたちのジープや改造車を見かけた広場に行ってみると、レーサーと同行の家族達が、焚火の湯でお茶を飲んだりしていた。ユーリーさんがキャンプ場の厨房から朝食を運んであげていた。試合の参加者はトゥヴァやクラスノヤルスクからばかりでない。モスクワからもいるそうだ。ユーリーさんは彼らに古墳発掘見物ツアーをオプションで組織したらしい。昼食を済ませると出発する。私はユーリーさんの車に乗る。
レーサーたちと同行の家族などが朝食中

 エールベック上手の古墳群を廻ると言うのでセミョーノフさんも乗った。エキ・オトックの考古学者キャンプ場からも国際ボランティア・キャンプ場からも遠く、普通の車では通行困難地にある最も上流のカティルィグ住居跡遺跡に帰るためにクシューシャと言う女の子も同乗した。カティルィグ住居跡遺跡は、この考古学キャンプ場からは10キロほど、サウスケンの国際キャンプ場からも6キロほどしか離れていないが、まともに車輪が通れる道がない。最僻地にあるので、自分たちのキャンプ場がある。発掘員や研究者が遠くのキャンプ場から通わなくていいように、適所に各キャンプ場が設営されているのだ。
 下流から順に、バイ・ダッグ考古学者キャンプ場、エキオトック考古学者キャンプ場、サウスケン国際ボランティア・キャンプ場、カティルィグ考古学者キャンプ場と今年は4か所運営。カティルィグ遺跡へは高駆動車なら、天候や状態によっては通行できるが、一応、食料などの輸送のために馬をレンタルしてある。

 新鉄道はクラスノヤルスク地方のクラギノ駅を出て南へ延び、クラスノヤルスクとトゥヴァの境のクルトシュビン山脈を越えるとウユーク盆地の遺跡の宝庫『王家の谷』を通り、ウユーク山脈を通りぬけ、ウルック・ヘム岸に出る、と言うのが全コースだ。そのウユーク山脈の南斜面(ウルック・ヘム側)にエールベック川が流れる。エニセイ川右岸の多くの支流の中でも、エールベック川は、古代から枯川にもならずほぼ川床も変えずに流れてきた。エールベック谷を通って鉄道を敷くのが、ウユーク山脈越えには最も地の利がよい。古代人も豊かなウユーク盆地草原からウルック・ヘムに出るにはこのエールベック谷を通るのがもっと条件がいいと知っていたので、ここに住み、ここに墓地(古墳)を築いたのだろう、と考古学論文にある。つまり、エールベック谷は古来から河岸段丘や川岸の牧草地では遊牧に適し、同時に、交通の要路でもあったのだ。
 だから、エールベック谷全体にスキタイ時代、キルギス(クルグス)時代などの古墳が多い。また、エールベック川がエニセイ川の合流する右岸一帯にも、岩画をはじめ多くの遺跡がある。(右岸も鉄道敷設予定地だ。右岸を遡るとクィジール市がある。ちなみに、エールベック川合流点よりエニセイの川下は鉄道敷設予定地ではないが、1980年代、自動車道敷設のため、前スキタイ時代、スキタイ時代、フン・サルマート時代、テュルク時代、キルギス時代の古墳が調査された。また、岩画、鹿石、オルホン文字、仏教遺跡などが『発見』されている。
 鉄道敷設予定地は事前に考古学調査をしていて、おかげでウユーク山脈のかなり奥深くまで遺跡が発見されている。が、カティルィグより上(北)のウユーク山脈には、向こう側のウユーク山脈の北斜面のアルザク川(ウユーク川右岸支流)上流(オルグ・ホヴー)まで遺跡はないらしい。
 オフ・ロード・レーサーたちと
 オフロード・レーサーたちはなかなか出発の準備ができない。私たち3人はユーリーさんのウアジック『セメニチ』車で待っていたが、セミョーノフさんは、待ち切れないと戻って行った。10時も過ぎてから、一行は出発した。主催者ユーリーさんの車は最後尾だ。
 『サウスケン』発掘見学
このくらいのぬかるみでは通行可
カティルィグ遺跡、調査用の地図 
茶色は鉄道敷設ライン、
数字は始発のクラギノ駅からの距離。1は372.1q
カティルッグ住居跡遺跡
ウユーク山地を越えていくレーサーたちの車
沼地にはまった車を助ける
鉄道線路建設予定ラインを示すポール
散歩する七面鳥の家族
別荘の管理人さんとアルビーナさん

 サウスケン遺跡のある国際キャンプ場までは、オフロード・レース用の改造車でなくとも普通のジープでも通れる。5か所ほど古墳集中地点があり、一行は車を止めて見物した(車を止めたのは発掘現場5か所のうち2か所ほどだ)。古墳群の責任者が出てきてみんなに説明してくれた。おかげで、私も古墳の説明が聞け、質問までできた。ここで、レーサーや家族たちは、私の訛りのあるロシア語を聞いて、外国人で日本人だと(ユーリーさんから)知ったらしい。
 『サウスケン2』を過ぎると道は一層悪くなった。エールベック右岸高地の森を切り開いて狭い通路ができていたが、地面はぬかるみ、倒木が道をふさいでいる。急斜面が増え、ぬかるんだ地面に深い轍の跡が見える。落とし穴のような轍を通りやすくするために倒木が敷いてある。沼地を抜けるために道が枝分かれしている。先頭の車が止まり、男性が降りる。2台目、3台目の車からも降りる人がいる。この先の道が通行可能かどうか歩いて調べてくるためだ。ユーリーさんも下りる。彼は道をよく知っているので、先頭に走って行って説明してあげている。
 途中で乾いた道に出たところに狭い平坦地があり、地所を囲った中に小屋とユルタが建っていた。この道に詳しいユーリーさんによると、それはトゥヴァ人の遊牧基地ではなく、クィズィールのあるお金持ちの別荘(と言っても建物は小屋)とか。帰り道ここへ寄ることになった。

 悪路を30分ほど走り、一番端のカティルィグ遺跡に着く。ここはエールベック上流右岸の高い河岸段丘の上でかなり広くなった草地だ。発掘現場の近くにはトゥヴァ人のユルタも2張り見える。古代でも現代でも、牧草地として適したところには(遊牧基地として)人が住むものだ。
 ここには古代の住居跡が2か所、古墳群が3か所ある。この時は『カティルィグ5』(4000平方メートルと資料にある)と言う住居跡の発掘をしていた。全容はまだ分からない。柱跡らしい穴と住居の周りに掘られた溝の一部が現れている。土器のかけらや骨製の鏃(やじり)などが時々見つかる。今までのところ、紀元前2世紀から紀元後5世紀(L.R.クィズラソフによる。ヴァインシュテインによれば紀元前1世紀から紀元後4世紀)のコク・エリ期ごろかと推定されている。
 (より正確には紀元後3世紀末から4世紀初めらしい。コク・エリ期の文化についてはあまり知られていない。これまでのところでは墳墓の調査は行われていて、副葬品からコク・エリ人についてわかっている程度だ。どこから来てどこへ去ったか、どのような民族系だったのか、全く不明だ。コク・エリ人の住居跡は今回初めての発見。住居跡と言うより工房だったようだ。1キロ半の距離に700以上の穴があることから製鉄所だったかもしれない)。
 草原地帯でもなく、草原と森林の境界地帯でもなく、ほとんど山岳森林地帯とも言えるウユーク山脈の奥地に発見されたカティルィグ住居跡(と工房跡の)ような遺跡は、他では見つかっていない。(次の日もカティルィク遺跡を訪れる。下記)
 この遺跡発掘を仕切っているチムール・サディコフ(2013年に知り合った)が出てきて、住居跡の周囲に掘られているらしい謎のような溝の説明をしてくれた。オフロード・レーサーたちやその家族には悪路を走り、その果てにある遺跡まで行きつくことに興味はあるが、遺跡を前にして考古学者の詳細な説明を聞く時間はあまりない。ざっと一通りの説明が終わったところで、みんな自分たちの車に戻って、先へ急ぐ。
 元来た道を少し戻り、ウユーク盆地へ出る方向へ曲がり、小川に沿った農道(ではなく遊牧道)を走り、小川の畔の数張りのユルタの横を通り、家畜を囲っておく柵の側を通り、散歩中の牛たちの横を通り、小山を抜け、急斜面の下を通り、鋭いV字形の谷を横断し、岩山の斜面を通り、川床を水しぶきをあげて遡り、鉄道線路建設予定ラインを示すポールの横を通り、おいしそうな木の実が茂る川岸を通り、ヤナギランの群生する草地を通り抜けた。車を通すために森の中の倒木をみんなで持ち上げたこともあった。こうして、本当のオフロードを1時間半も慎重に進んだところで、やっと開けた草原に出た。周りに木がなく開けていると思ったのは、実は足元が一面の沼地だったからだ。迂回路も沼っているようだ。この地帯を抜けるのは容易ではない。全員がひとまず休憩し、歩いて下見をした後、自信のある車から出発する。首尾よく抜けられると、乾いたところで後続の車を待つ。後続の車が泥沼にはまりこんで動けなくなると、助けに行く。ロープをかけ、より高駆動車で引っ張ったり、引く方向を、泥だらけになった男性たちが指示したりしている。そこをビデオに撮っている家族もいる。自分の番がくるまで高み(沼地は低地にあるから)で見物しているレーサーもいる。その一人が
「日本にも沼地はあるか」と聞く。今の目の前のようなところはないと思う。尾瀬は、沼地と言うより国立公園だし。
「いや日本にも広い沼地がある」と別のレーサーが遮る。釧路湿原のことらしい。そこは自然保護区域だし、ここは天然のオフロード・レース場ではないか。本当はどちらも貴重な自然だが。
 ユーリーさんは、自分のグループをここまで見送り、元のキャンプ場に帰る予定だ。なにしろ、2,3日は試合のためエルガキへ行って留守にしていたが、夏季期間中は発掘調査の運営機関『ロシア連邦地学協会』に専属オーナー運転手として雇われているわけだから。オフロード・グループの方は、この先に幾つもの沼地(ユーリーさんによると、もっと大規模な)を通り、レニンカ村からトゥラン市に出て、連邦道54号線でサヤン山脈を越えてクラスノヤルスク方面へ戻るらしい。
 
 ユーリーさんの車で元来た道を帰る。今、通っている山道の近くに新鉄道が敷設されるらしい。ユーリーさんが近くの小山を指差して、あれは爆破されて平たんにするのだ、と言う。トンネルも幾つか掘るらしい。
 途中の木の実の茂る小川のほとりでは、スグリ属らしい赤い実を摘み、鉄道線路建設予定ラインを示すポールの横では車から降りで写真を撮る。
 一旦、カティルィグ遺跡のキャンプ場に戻り、時刻は2時も過ぎていたので食事をとる。カティルィグの様な小規模のキャンプ場でも、いつでも飛び入り客のためにパンとスープとお茶と甘いもの(大好き、これを食べないと食事が終わった気がしない)はある。通行不便で天候によってはいつ孤立するかわからないカティルィグにはたぶん保存食もかなりあるのだろう。

 来るときに見かけたダーチャ(別荘)の持ち主はユーリーさんの知り合いらしくて、そこへも寄ってみた。いくら、土地の価格の低い国だからと言って、ずいぶん広い地所だ。柵で囲ってあるが、農業のできないところだから、今は草がぼうぼうと生えているだけだ。その中を七面鳥の家族が散歩していた。母屋に近づくと男性が出てきた。後でわかったことだが、彼は別荘の管理人で、持ち主はアルビーナさんと言う女性だ。七面鳥の家族は彼が近づいても逃げないが、私だと逃げていく。ウサギ小屋もあり、母屋の近くではニワトリやひよこが走り回っていた。生まれたばかりのひよこは特別室で保護されていた。と言っても3方が金網で囲ってある小屋だが側面だけでなく上部にも金網が張ってある。これは鷲に食べられないようにということ。野生の鷲も飛んでくるような自然の中の、水道も電気もない丸太小屋に、七面鳥やいろいろな種の鶏に囲まれて住むのも、慣れると、きっと素晴らしいに違いない。この日のディナーは赤鹿の肉のメニューだからと御誘いを受けたが、次回と言うことにした。しかし、ユーリーさんと、また行くことはなかった。

 今朝出発した私たちのエキ・オトック・キャンプ場に4時頃帰って、途中の小川の岸で摘んで来た木の実(スグリ属)を、みんなにご馳走してあげた。
 キャンプ場の中央広場には食堂とユルタがあり、少し離れてキルノフスカヤさんたちやスタスさん、ラザレフスカヤさん、私たちのテントが張ってあり、私たちが集まるテント(客間と居間と受付と研究室を兼ねる)があって、その近くには蒸し風呂小屋がある。少し離れて、若い考古学者や発掘員たちのテントは思い思いの場所にそれぞれ個性的に張ってある。そろそろお風呂にも一度入っておかなくてはならない。仮設蒸し風呂と言うのは窓がなく、ドアを閉めると真っ暗に思えた。下見の案内してくれたカーチャによると、目が慣れれば隙間からの光で、ものが見えると言うが、熱湯のある蒸し風呂で、この暗さは怖い。電灯はあるが、今は電気がないから点かないと言う。7時頃だったが、まだまだ明るかったからだ。それで備品係り(キャンプ場運営主任、明け方寒いと言う私に予備の寝袋をかしてくれた)の男性に頼んで特別に、発電してもらうことにした。  
 カティルィグ遺跡
 7月29日(火)。エールベック川上流の発掘現場へ行くと言うキルノフスカヤさんに同行してユーリーさんのウアジック『セメニチ』に乗って出かけた。毎日のように出かけられてうれしい。主に、サウスケン遺跡だ。骨が出てきたと言うので見に行った。2mほど掘ったところで木の枠が現れ、その内部に土に埋まった骨の断片が見える。
 普通は、周りの土を丁寧にどけて骨を出して、キャンプ場に持って帰る。断片を組み合わせて一体の人にできることもある。副葬品もある。盗掘されていなければ、副葬品も多く見つかるが、たいていは古墳を作った時代と近世の最低は2回、盗掘にあっていて、金銀などは見つからない。しかし、ワン・シーズンに数十基もの古墳を発掘する今回のような企画の時には、幾つか未盗掘のものがあるそうだ。今回、シーズンの終わりに発表された報告によると、小さな黄金製の装身具も数点発掘されたそうだ。
土器があった場所
位置を測定
土器の破片などを
箱に入れる

 サウスケン遺跡を過ぎ、また昨日の泥道を通ってカティルィグに行く。そこへ届ける食料品なども車に積んでいる。私は昨日来たが、キルノフスカヤさんは久しく来てない。住居跡なので土器が時々見つかるようだ。スコップを持って掘っている男の子が、
「発見物あーり」と叫ぶと、正確な位置を測定する機器を持った係りがやってきて、その機器を地面に刺して、場所を特定する。その後、発掘物の土器破片などを箱に入れて持ち去る。1時間ほど働くとみんな一斉に休憩する。
 車の通行不可の時の運搬用の馬が、この日は休憩で、草を食んでいた。それで、乗せてもらう。馬にすれば私のおかげで15分ほど余計な仕事をさせられたことになる。降りると、私が日本人と知って女の子が寄ってきて話しかけた。サンクト・ペテルブルクからやってきた29歳のヴァレリアと言って、大学では日本史を専攻したとか。20世紀日本映画を研究していたそうだ。

 12時頃、カティルィグを出て、キルノフスカヤさんは国際キャンプ場に用事があり、長くそこの責任者と話していた。2時ごろには、私たちのエキ・オトック・キャンプ場に戻ってきた。
 私はその日、何もすることはなく、退屈だったので、一人歩いて一番近くにある発掘現場へ行ってみた。5時も過ぎていたのでこの日の仕事は終わって、一部ブルー・シートなどが被せてあったが、サングラスの男性が一人、焚火に当たってお茶を飲んでいた。それは、母親が中国人(後で私の誤解と分かる)で反日のセルゲイさんだった。数日前焚火をしていたグループに呼び止められ、何人かの青年と知り合ったが、その一人だった。彼らは(彼らに限らず)ロシア語を話す日本人がいるとわかると質問を持ちかけてくるのだ。731部隊のことを追及されたので謝罪する。私が関わったわけではないが。だが、彼は親切な青年だ。お茶を飲みながら、この『エキ・オトック2』遺跡の話など聞いていると突風が吹いてきた。セルゲイさんは天候が急変しないうちにキャンプ場に戻った方がいいと言うので、砂嵐の道を必死で戻ったが、やがて嵐はおさまった。
 キャンプ場裏の岩山に上って、クラスノヤルスクのスラーヴァさんに電話をかける。国際キャンプ場近くのメガフォン社仮設アンテナの電波は、この岩山の中腹まで上らないと届かない。私の携帯はビー・ライン社なので、キルノフスカヤさんにメガフォン社のシム・カードの入った携帯を借りて登って行ったのだ。スラーヴァさんとは7月31日か8月1日に、クィズィールのオリガ・ピーシコヴァさんのアパートに迎えに来てもらって、トレ・ホリ(湖)やムグール・アクスィ村方面へ行くと決めてある。エールベック谷では『特別参加』で働いていない私は、あまり長居はしない方がいい。7月30日夕方には去り、31日朝にはクラスノヤルスクからスラーヴァさんに迎えに来てもらい、後半の旅を続けようと、もう前々日には決めてあった。
 スラーヴァさんは正確なロシア人ではあるが、時々連絡して確認しておいた方がいい。30日夕方にはユーリーさんにキャンプ場からクィズィールに送ってもらうとは約束済みで、キルノフスカヤさんたちには、トレ・ホリやムグール・アクスィ方面の遺跡の場所は聞いてあった。トレ・ホリからウブス・ヌール湖北岸(タンヌ・オラ山脈南麓)やムグール・アクスィでは古墳や石像、岩画は車の通る道路からでも簡単に見つかるとも聞いておいた。
 ユーリーさんは発掘員の中にはムグール・アクスィ村出身のトゥヴァ人もいると、紹介してくれた。それはビターリー・オンダールさんと言って、村の中学の生物・化学の先生だった。ムグール・アクスィ村にはスラーヴァさんの教え子のチンチもいる。しかし、彼女に連絡が取れなかったときのために、ビターリーさんの知り合いの電話番号を書いてもらった。さらに、ユーラ・ダシュトゥグ-オールДоштуг-щщл Юрий Донгаковичさんと言う村の先生が遺跡に関しては詳しいと言うので電話番号も書いてくれた。彼からも、私と言う日本人から数日後連絡がいくかもしれないと、そのユーラさんに伝えておいてくれるそうだ。(ユーラさんは多分連絡できなかった)。
 明日は夕方、キャンプ場を去ってクィズィール市に戻る、と思ってテントで寝る。
 事故調査官
 7月30日(水)。朝から、キャンプ場内が緊張していた。いつも、みんなが時間を過ごしているテーブルのあるテントへ行って座っていると、見かけない中年の役人風のトゥヴァ男性が入ってきて、キルノフスカヤさんと深刻そうに話を始める。外国人の私が同席していてもいいのかと心配になったので
「ここにいてはお邪魔ですか」と聞いてみる。男性は愛想よく
「構わないですよ。どうぞ、どうぞ」と言ってくれたので、座り続けた。やがて若い女の子が二人来て、その役人風トゥヴァ人の質問に答えている。後でわかったのだが、彼は鉄道敷設事業の管理という役職で、たぶん、治安も担っている。
仕事を終えた調査官
ヴァラーモフ、セミョーノフ、
シャピーロ、キルノフスカヤ、私

 彼らの話を聞いていて、事故死があったらしいと分かった。数日前の休日に、バイ・ダッグの発掘を行っていた(多分)ボランティアの若い3人はエルガキ登山に出掛けた。ここで先ほどの調査官(としておこう)は、それは発掘指導部の許可を得たのかと尋ねる。肯定の返事。彼らはエルガキに登山し、テントを張って夜を過ごしたところ、男性がトイレに行ったきり戻らなかった。夜が明ける前から同行の二人の女性が探していたが、見つからなかった。夜が明けて救助隊員も呼んで探してみると、ようやく、深い谷の途中の崖にひっかかった死体が見つかったそうだ。ヘリコプターで持ち上げたと言う。トゥヴァ人調査官は、その時彼は飲んでいたのか、と尋ねる。かなり酔っていたらしい。
「飲んでいたなら、自分の死刑宣告書に自分で署名したようなものだ」とつぶやく。確かに足場の悪い山頂を、夜中泥酔して歩いていれば、どこへ落ちるかわからない。調査官は事故死と決め、キルノフスカヤさんや同行の二人の女の子を開放する。二人の一人は墜落男性の妻(合法的でない)だそうな。
 ユーリーさんがやってきて、今日は夕方になって、クィズィール市に送れるかどうかわからないから、今出発する。すぐに荷物をまとめるように言われた。そんなわけで、予定より半日ほど早かったが、みんなに別れを告げて、10時頃、ユーリーさんの車で出発した。車には、先ほどの調査官も乗った。彼を、エールベック村の鉄道建設基地に送らなければならない。
 エールベック谷を下っていくと、山並みが切れ、道は低い丘の連なる平地に出る。そのやや遠くのなだらかに波打つ草原丘陵地に、真っ直ぐ、水平に延びる線が一本見える。ユーリーさんが、
「ほら工事がここまで来ている」と教えてくれる。水平に伸びている線の上や下にはクレーン車や大型トラックが群がっている。考古学発掘調査が終わったところから敷設工事をしているのだ。
 エールベック鉄道建設基地
 クィズィール市近くにはクィズィール乗客駅を作るが、クィズィールから16キロ離れたエールベック村近くにはクィズィール貨物駅を作る。クィズィール貨物駅こそは新鉄道敷設の目的となるものだ。鉄道は乗客を運ぶためでなく物資、特に今のところは、トゥヴァの石炭を運ぶために作られている。エールベック炭田ばかりか、本当はその対岸のエレゲスト炭田やチャダン炭田も狙っているので、今では『クラギノ・クィズィール・エレゲスト新鉄道企画』と呼ばれている。(さらに、鉄道は西モンゴルから北京へも抜けるとも、一応は言われている)。
基地、コンテナ小屋街
教母のターニャさん、パソコンの部屋で

 クィズィール貨物駅の準備は、エールベック村郊外の草原の中、2012年から始まっていた。今、見ると大型トラックやクレーン車、タンク車が何台もずらりと並び、その奥には大型のコンテナ小屋『街』がある。煙突のあるコンテナで、多人数が住める仮設住宅と言ったところ。トラックなどの車体やコンテナは青色、クレーン車は全体が黄色、トラックの荷台はシルバー、やはり整然と並んで駐車しているジープもシルバーと、この荒野(と今は見えるが、かつての遊牧地)の直中にできた人工村の色はすっきりと3色だけだった。タイヤや重機の部品も並んでいて、その間には人物も見える。私たちが近づくと振り返って眺めている。
 この基地が物資輸送の始点となって、エールベック谷を上り、ウユーク山地を抜け、ウユーク盆地の遺跡の宝庫『王家の谷』を縦断し、クルトシュビン山脈からクラスノヤルスク地方に入り、クラギノ駅まで400キロを走ると、シベリア幹線鉄道の支線(クラギノ駅まで来ている)に入ると言うわけだ(幹線鉄道側から来ればその逆)。
 調査官は愛想よく私に挨拶をして車を降りて行った。そして、12時頃には、クィズィールのオリガ・ピーシコヴァさん宅へ着いたのだ。

 彼女の家のディスク・パソコンはインターネットにつながっているので時間がつぶせる。夕方、教母(*)のターニャさんが、菜園で採れた野菜を段ボールいっぱい持って訪れた。実母と教母は親戚以上の付き合いをすることになっているそうだ。ターニャさんはオリガさんと同じ連邦刑罰実行施設(刑務所)管理部だが、やや若く中佐で、なかなかの美人だった。
 (*)教母 名付け親とも言って、子供が生まれると両親の他に教父(クム)、教母(クマ)を決め、その教父母が、子供の成長を見守り、万一の時は実父母に代わって養育する。
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