クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 March, 2015  (追記:2015年5月27日、2018年11月20日,2019年12月14日、2021年11月6日)
32-(11)    再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (11)
    荒涼としたヒンディクティク湖
           2014年7月11日から8月13日(のうちの8月5日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図 クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 古儀式派のカー・ヘム岸(地図) ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国からのウルイマグティさん(地図) ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ ロシアとモンゴルとの国境 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 南西地図 ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川谷の遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 コプ・コジェ遺跡、高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図 ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地。
 民家の石像
 8月4日(月) 今日はヒンディクティク・クリ(湖)へ行く。湖の畔で1泊する予定なので荷物が多い。まずはチンチの両親の家に行く。チンチのパパが道案内をしてくれるからだ。ママも同行してくれるともっといい。チンチの新居と両親の家は村の端と端だから、ムグール川の橋を渡り、いつも豚の親子がたむろする角を曲がって行く。
民家の石像を教えてくれたドンチャクさん

 チンチの家では、彼女の7か月の息子のアビルガと遊びながら、準備ができるのを待っていた。その後、チンチが買い物があると言うので村の中央商店街へ向かう。といっても数軒の小屋が並んでいて、各店のオーナーが仕入れることのできた雑多なものが売っている。チンチが買い物している間、私は通りをうろうろしていたのだが、一人のおじさん(あとで、ドンチャク・メルゲン-オール・セレリヴィッチДончак Мерген-оол Серельвычと私の手帳に書いてもらった)が寄ってきて石像があるよと言う。そして案内してくれたのは、だれかの家の庭にある立派な石像だった。トゥヴァでは、現在は村のあるところでも、ほんの50年前は野原,牧草地だった。ムグール・アクスィ村のあるこの場所に定住の家が建つようになったのはやはり数十年ほど前だから、千年以上も前はテュルク人(ウイグル人)の遊牧基地、聖所、または墓地だったかもしれない。事実、村の中に幾つかの古墳がある。(現代人が住居地として選ぶところは古代人も住居地、墓地として選んでいたのだ)
 トゥヴァ大学が2007年、ムグール・アクスィ村の歴史・民俗学調査を行った。そのトゥヴァ大学の大学通報によると、カクシャル=オーラ通りとコムナリノイ通りの間の個人の家の敷地内に石像があった、とある。「テュルク時代のもので、この場所には古墳があったが、住居が立てられた。石像には青色の塗料が塗られていたが、これは住民が悪霊除けに塗ったものだと言う。近くの住民を集めて古代遺跡の保管について説明をしなければならなかったと」書いてある。(ВЕСТНИК Тывинского государственного университета 2009.1)事実、その個人敷地の石像には顔の輪郭を描いたような青い塗料が残っていた。

 ちなみに、アルタイ共和国からトゥヴァへ入る超難コースをロシア人のサバイバル・グループが数台の車を連ねて走破したこともあるらしい。その時の紀行文がウェブサイトに見つかった。彼らはムグール・アクスィ村にも寄ってパンを買おうとした。すると、罵言を浴びせられたり車に石を投げられたりしたので、急いで立ち去ったそうだ。トゥヴァ人はあまりロシア人を好きではない。ムグール・アクスィ村にロシア人は住んでいないし、日常会話はトゥヴァ語のみだ。ロシア人が車を連ねて村に入ってきたりするのは不快なのだろう。
 しかし、私たちと言えば、車は今は走っていないような高年式、ロシア人はスラーヴァさん一人だけ、私はアジア人、私たちの周りには地元民のチンチや彼女の家族がいる、と言う訳で石は投げられなかった。それどころか、トゥヴァのどこへ行っても、私もスラーヴァさんも遠いところから来たと言うので親切にされたのだ。私は日本人と言うことで、スラーヴァサンはすごい車の持ち主だと言うことで。
 コプ・コジェ遺跡。高地の家畜ヤクユルタ訪問
モングーン・タイガ山の見える石像草原
石像の列
石像の一つ
ヤクの群れ
ヤクの赤ちゃん
ユルタの前、
ダリア伯母さんの孫4人とチンチのママ、私
 4人分のテントや寝袋を持ち、後部座席には窮屈だがチンチの両親に座ってもらって出発したのは11時過ぎだった。昨日のように村を西の方角へ出て、カルグィ川を遡り、橋を渡り、左岸の自然道を進む。途中で登山グループに会う。『アク・ホリ』ラーゲリ(青少年の家)で夏休みを過ごしている地元の子供たちと指導員だった。
 橋を渡って40分ほど行ったところで広い草原に出る。高原のように見えるが、高山の間で、カルグィ川の第2河岸段丘と言うところだ。ここはカルグィ谷でも最も多くの遺跡が集中しているようだ。村から直線距離で20キロくらいか。前記グラーチ А.Д.Грач の『トゥヴァの古代チュルク石像』(1961)にも載っている。...西トゥヴァでは最も多く見つかった場所でコプ・コジェКоп-Кожээ(石像の多い場所の意)といい、西には6体の石像とそれらを囲むように並べられた立石がある。東には3体の石像と1つの石囲いがある。ヘラクスル(石の記念物、古墳)。。。石像はどれも南東を向いている。。。
 1200年以上も前に古代テュルク人の一団が万年雪のモングーン・タイガの麓のカルグィ川畔にユルタを張り牧畜を営み、墓地や記念碑を作り、やがて去って行ったのだ。厳しい気候ほどよい牧草が育つと言う。今もカルグィ川の横、野原の端、ツァガン・シベトゥ山麓近くには家畜の群れが見える。
 その家畜がチンチのパパの姉さんのダリヤ・フナン-カラエヴナ・チュルドゥム-オールさんの夏営地にいるらしい。双眼鏡でのぞいていたチンチのパパはヤクもいると言う。その山麓はウローチッシャ(場)・チャル・ゥイシュ(урочища Чал-Ыяш山岳針葉樹林・カラマツ林の意)という。
 ヒンディクティク・ホリへ行く前に、姉さんのダリヤさんのユルタでお茶をよばれることにして、山麓へ車で向かう。まず、ヤク達とお近づきになろう。山の斜面に湧水が出て、石ころの間をちょろちょろと流れていくほとりにヤクのハーレムが構えられていた。この小川は枯れ川のチャル・ゥィッシュだろう。幾筋にも分かれ、ところどころで、地上に出たり、地下にもぐったりして流れ、最後にはカルグィ川に合流する。つまり、山にたまった地下水が斜面のある地層のところから地表に出るが、流れ下るうちにまた地下水になったり(伏流水)、地表の流れになったりして、最も低いカルグィ川へ下ってゆくような枯れ川。自然な水の流れを追う。湧水なのでチャラマがしつらえてある。湧き出たばかりの水は、ユルタに運んで生活水になるのだろう。ヤク達が飲むのは湧き出てから地上を流れている水だ。
 黒く長い毛におおわれた尊大な雄ヤクと黒や白や茶の長い毛の妻たち、白や茶の子どもたちが20,30匹が、やや高い山麓のウローチッシャ・チャル・ゥイシュで、はるか下に流れるカルグィの流れとその向こうにはモングーン・タイガの見える絶景の地で、おいしい水を飲み、おいしい草を食んでくつろいでいる。私たちが近づいてきたため、人間とは一定の距離を保とうとそろそろと移動した。好奇心旺盛な子供のヤクは近づいてくるが、手を差し伸べるとはじかれたように遠ざかる。
 ヤクはチベット原産で、牛の仲間。高山の草原で飼われていて、トゥヴァには2012年には1万頭が生息。トゥヴァではヤクはサールルィク сарлыкとも言われているが、それはモンゴル語のサールラック сарлагのなまったものだそうだ。

 そこから車で2.3分の姉さんのダリヤさんのユルタへ行ってみる。ダリヤさんは村に用事で出かけたとかで、孫が4人留守番をしていた。年長の孫のアイラナさんはウラン・ウデの大学生で経済学を学び、今夏休みで戻ってきている。小さい女の子二人(アイディザナちゃんとユリアちゃん)は、ロシア語はわからない。中学生くらいの男の子(アラシュ君)は恥ずかしがって一言もしゃべらなかった。
 ユルタの中央には柱と煙突付きの炉と大鍋があり、入り口と反対側には民族模様のローチェスト(モンゴルに注文を出してつくったものだと後で知った)、それに並んでユルタの外枠に沿ってベッドが2台、床には草の上に絨毯が敷いてある。奥に行くほど上席なのでよい絨毯が重ね敷きしてある。入り口近くには炊事用の棚がある。桶の中には醸造中の乳製品が見えた。
 奥の上席には、派手な色のプラスチック製の組み立てかごがあり、これだけが伝統的で必要最小限のものしか置いてないユルタに似合わない。
 年長の孫のアイラナさんがお茶やパン、ビスケット、乳製品を出してくれた。ヤクの乳からできたクリームかもしれない。パンに分厚く塗って食べるとおいしかった。(その後、生乳を飲んだ時に起こる胃腸の障害もなかった。私は牛乳は飲めない)
 ユルタの低い屋根には、クルト(脱水サワーミルクを短冊状に切ったもの)が干してあった。チンチのママによると、この「ミルク干し餅」はチンチが幼い時いつも手に持ってしゃぶっていたそうだ。硬いのでひとかけら食べるのに時間がかかりそうだ。(事実、モンゴルではこれに味と香りをつけてキャンデーのように食べる。クルトというのはチュルク諸語で乾燥という意味)
 カルグィ川を遡る
 ユルタで1時間ほど一休みをして、私たちはこの先のヒンディクティク・ホリへ向かった。万年雪の聖山モングーン・タイガを見上げ、曲がりくねったカルグィ川の白く光る水面を見下ろしながら数キロ行ったところに、カルグィに合流してくるオユク・ヘム(10キロ、左岸支流)と言う川がカルグィに合流してくるので。が、今は全く枯れ川で石ころの河原しかなかった。増水期には立派な流れとなるのだろうか。
 川を過ぎるとまた平坦な草原が広がっていた。ウローチッシャ(場)・ブーレと言うらしい。そしてここにも、大小の石積みの古墳があった。立て石もあったが、彫刻されているか調べなかった。彫刻されているか見届けるには、近づかなければならない。古墳はそれなりにお互いに距離をとって営まれていて、歩いて見て廻るには広く、この時、雨が降っていたからだ。
カルグィ川を渡る前
チンチのパパが指差した石像

 ムグール・アクスィ村から40キロほどカルグィ川を遡ってきたらしい。標高は2100mくらいで、頭上は黒雲に覆われたり青空が見えたりと、めまぐるしかった。こんなところにも、古代からの生活の場があるのか。ちなみにこの枯れ川ウズン・ヘム・アクスィの支流に沿って登って行く小道はウズン・ヘム峠に通じ、ツァガン・シベトゥ山中のウズン・ヘム川の上流に出られる。ウズン・ヘムはシュイ川の支流で、シュイ川はヘムチックの支流のバルルィクの支流だ。バルルィクの合流点は昔からトゥヴァの行政中心地の一つで、今でももっとも多くのトゥヴァ人の住むところだ(首都のクィズールなどには今でも20%近くのロシア人が住む,つまりトゥヴァ人は80%弱しかいない)。川の支流から支流へたどって行き、全く別の川の流域に出ると言うこのルートも古代から通じていたのだろう。カルグィ谷からヘムチックへ出る小路(馬道)、つまりツァガン・シベトゥ山脈を越える馬道は幾つもあるが、ここが最も上流になる。(地図)
 ウズン・ヘム・アクシ枯れ川の辺りの古墳群は『カルグィ8』と言うらしい。
 カルグィ川(92キロ)はさらにまだ20キロも先の雪山や高山湿地帯から流れてくるのだが、私たちは、ここで川を渡り右岸のモングーン・タイガ山塊に向けて進む。ここでは川の水は底の石がよく見えるくらいに浅く、何本かに分かれていた。川を渡ると見晴らしのよい段丘(高原・斜面)に出た。高い木はもうほとんど生えていないので、地面の起伏が緩いところはどこも見晴らしがいいのだ。
 チンチのパパが指さしたところに一人ぼっちの石像が立っていた。立てられた時はどうかわからないが、今は、まわりに古墳もなく仲間の石像もなく、普通は石像を囲っている立て石もなく、緑色だが荒涼として見える草原に白くやや傾いて立っていた。側を通る人は多くないが、それでも建ってから千年以上経っていて、その間ずっと、さまざまな時代の地元の牧人にはよく知られているのだろう。ヒンディクティク・ホリには数回しか来たことのないと言うチンチのパパも、ここに石像のあることを知っていた。きっと後世だろうが、目鼻立ちを白い塗料でなぞられてあった。ムグール・アクスィ村の個人の家の石像は青色の塗料だったが。
 チンチのママは2度しか来たことがないそうだ。確かに、この辺は、もう彼らの遊牧テリトリーではない。
 実は、この石像は一人ぼっちではなかった。しばらく行くと、石柱がもう1本立っていた。こちらは人の形にではなく、三角の立て石だったが、周りには石囲いがあった。有力者の墓だろうが、一体どんなテュルク人がこんな高山に囲まれた半氷原・半草原で眠っているのだろう。
 道は一層悪くなって地面から突き出た岩を除けて続いている。不思議なことに救急車を1台追い越した。この日ムグール・アクスィ村を出て、次の日クィズィール・ハヤ村近くまでの2日間の行程で、出会った2,3台の車のうちの1台だった。関係者が救急車を私用に運転して、ヒンディクティク・ホリに魚釣りに来ているのではないか、と私たち4人は思った。(後で、本当に救急車の出動要請があったのだとわかった。しかし、こんなところから、どうしてムグール・アクスィ村の消防署に連絡をとったのかは謎だ、元消防署長だったチンチのパパが後でスラーヴァさんに語ったところによると、誰かが何かで死亡したそうだ)。
 ヒンディクティク湖
 カルグィ川を渡ってから、悪路を上ったり下ったりして、ゆっくり50分も進んだころの山向こうにヒンディクティク・ホリの水面が見えてきた。『地の臍』と言う意味の湖には臍にあたる大きな島も見える。
ヒンディクティク湖に近づく
チンチのパパ、上はチンチのママ
車の側面に取り付けたテントで食事
手前は私のテント、奥はチンチの両親のテント

 この峠にはオヴァーもあり、足元には白い花が一面に咲いていた。花ではなく綿毛かもしれない。
 運転しているスラーヴァさんにとってはここからが大変だった。もう道は草に隠れ、どこが硬い地面でどこが柔らかい地面、つまり湿地帯なのはわからない。深い轍も見えた。どうも、泥沼にはまって動けなくなった車もいたようだ。マットを敷いて何とか動かしたらしく泥だらけのマットも落ちでいた。1時間もかかって湖面近くへ下り、風当たりの弱い場所を見つけてテントを張ったのは夕方7時過ぎ。魚はまだ起きているだろうから、チンチのパパが早速釣竿を垂れた。
 ヒンディクティク・ホリはアルタイ共和国との境のシャプシャリン山脈(長さ130キロ、幅20キロ、最高峰3500m)と、ツァガン・シベトゥ山脈、モングーン・タイガ山塊との間の小さな盆地にある66平方キロ(浜名湖が65平方キロ)くらいの、氷河が削ってできた湖だ。湖面の標高は2305mで、中にあるヒンディクティク島(湖とその中の島は同名)の最高点は2458m、その横に名無しの小さな島もある。
 湖は透き通っていて、湖岸には白い石ころの狭い波打ち際があり、その上の草原には紫や白い花が咲き、人の気配は全くない。周りは万年雪の高山に囲まれ、冷たい風の吹く中で、私は、釣竿を垂れているチンチのパパの側へ行ったり、きれいな石を探しているママのところへ行ったり、テントの補修をしているスラーヴァを眺めたり、私たちのずっと前にはどんな人たちが訪れたりしただろうかと思いを巡らせたりしながら、ただ歩き回っていた。広い空の一方には暗い雲が立ち込めていた。
 チンチのパパは不漁のようだ。この湖に昔、漁業コルホーズが営業していて、今も漁業組合か個人が漁はしているらしいが、彼らは網で獲る。釣竿ではあまりかからないようだ。チンチの両親はミミズをもっと捕ろうとして、丘の地面を掘っているうちにナイフをなくしたとしょげていた。(ナイフは翌日、日の光の反射のおかげで見つかった)
 9時を過ぎて私たちは『屋根だけテント』の中で食事する。大漁を期待していたのか、チンチの両親には食料がなく、みんなでスラーヴァさんのカップ・ラーメンを食べた。スラーヴァさん常備のガス・ボンベのコンロでお湯を沸かせるのがいい。ヒンディクティク・ホリの水を沸かして熱いお茶が飲めた。テントで寝る前に、チンチのママがラクダの広い毛布を貸してくれた。スラーヴァさんから貸してもらっている10センチの厚さの空気マットの上に、あるだけの服を着て寝袋に入り、そのラクダの毛布をかけて寝たが、明け方、寒さで目が覚めた。地面からの冷気が厳しい。ラクダの毛布で蓑虫のように包んで寝なおしたが、地面からの冷気は防ぎきれなかった。スラーヴァさんの車の温度計は零下2度だったそうだ。
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