クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 19 March, 2015 (追記2015年5月9日、6月13日)
再びトゥヴァ(トゥバ)紀行 2014年 (12)
    険路の先の最果てのクィズィール・ハヤ村
           2014年7月11日から8月13日(のうちの8月5日)

Путешествие по Тыве 2014 года (11.07.2014−13.08.2014)

年月日   目次
1)7/11-7/15 トゥヴァ地図、クラスノヤルスク着 アバカン経由 クィズィール市へ 国境警備管理部窓口
2)7/15-7/17 東部地図、古儀式派のカー・ヘム岸 ペンション『エルジェイ』 古儀式派宅訪問 ボートで遡る 裏の岩山
3)7/18-7/20 クィズィール市の携帯事情 シベリアの死海ドス・ホリ 秘境トッジャ 中佐 アザス湖の水連
4)7/21-7/24 ヤマロ・ネネツ自治管区(地図) 自治管区の議長夫妻と 図書館 バルタンさん アヤス君
5)7/25-7/27 トゥヴァ鉄道建設計画(地図) エールベック谷の古墳発掘 国際ボランティア団 考古学キャンプ場 北オセチア共和国(地図)からの発掘員 ペルミから来た青年
6)7/28-7/30 ウユーク山脈越え鉄道敷設ルート オフロード・レーサー達と カティルィグ遺跡 事故調査官 鉄道建設基地
7)7/31 南部地図、タンヌ・オラ山脈越 古都サマガルタイ 『1000キロ』の道標 バイ・ダッグ村 エルジン川 国境の湖トレ・ホリ
8)8/1 エルジン寺院 半砂漠の国境 タンヌ・オラ南麓の農道に入る オー・シナ村 モンゴル最大の湖ウブス
9)8/2 ウブス湖北岸 国境の迂回路 国境の村ハンダガイトゥ 国境警備隊ジープ 考古学の首都サグルィ 2つの山脈越え
10)8/3 西南部地図、ムグール・アクスィ村へ チンチ宅 カルグィ川遺跡群 アク湖青少年の家 『カルグィ4』古墳群
11)8/4 民家の石像 高山の家畜ヤク、ユルタ訪問 カルグィ川を遡る ヒンディクティク湖
12)8/5 湖畔の朝 モングーン・タイガ山麓 険路 最果てのクィズィール・ハヤ村 ハイチン・ザム道
13)8/6-8/7 解体ユルタを運ぶ ユルタを建てる 湧水 村のネット事情 アク・バシュティグ山 ディアーナ宅へ
14)8/8-8/11 西部地図、ベル鉱泉 新旧の寺院 バイ・タル村 チャンギス・テイ岩画 黒碧玉の岩画 テーリ村のナーディム 2体の石像草原
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、トゥヴァ語からロシア語へ転記された地名をロシア語に近い形で表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)、言語はハカス語、地名はハカス盆地など。
 湖畔の寒い朝、快晴
 8月5日(火) 朝、みんなが起きる前に用を足しに行った。草々には美しい霜が降りていた。離れたところの窪地に身を沈めれば、車やテントからは全く見えなくなる。だが、高所からは見える。木の陰なら高所からも見えないが、ここには木なんてない。どちらにしても誰もいない。用が終わって歩きだしたとき、いきなり話しかけられた。それまで、気がつかなかったが馬に乗った男性が傍まで来ていた。馬上は高いので、より遠くまで見晴らせるし、草はらを音もなく早く進められる。そして何か声をかけたようだ。うろたえた私は、えーとか言ったようだ。さらに、馬上の男性は
「煙草あるか」と聞く。「ない」と答える。日本出発の時、空港の免税店で買ったが、そんなのは今ポケットに入ってない。
「どこから来たのか」と言うので「ムグール・アクスィからよ」と答える。
「ムグール・アクスィから!?」とひどく意外そうだった。「遊びに来てるのか」と言ってくれる。つまり私たち(近くに2張りのテントや車があるから複数で来ているとわかる)は、牧童でも、漁師でもなく旅行者と言う訳だ。しかし、ムグール・アクスィ村人が仕事(遊牧か漁)でもないのに、こんな不便なところへ遊びには来ないだろう。私はトゥヴァ語を話さないから地元の女性でもなさそうだ。ロシア語しか話さないがロシア人でもない、と納得いかないようだったが、去って行った。

湖畔、窪地も多い
この岩の手前にも小さな湖がある
ツンドラの矮小灌木の中、生まれてきた毛虫たち
 朝食の茹でたソバ粒を食べながら、チンチのパパにその出会いのことを話すと、やはり不思議がっていた。馬上の男性がトゥヴァ語ではなくロシア語で私に話しかけたのが、不思議なのだそうだ。
 モングーン・タイガ・コジューン(コジューンはトウヴァ共和国内の地方自治体)は、面積4412平方キロ、人口は5643人(2012年)で、ムグール・アクスィ村とクィズィール・ハヤ村の2個しか集落はなく、道のりでは87キロ離れている。それぞれに自分たちの遊牧テリトリーがあって、ここはどうやらクィズィール・ハヤ村のテリトーリーらしい。だからと言って、もちろん立ち入ってはいけないわけではない。(参考、山梨県は4465平方キロで人口86万人)
 この日は快晴だった。昨夕の黒雲はツァガン・シベトゥ山脈の向こうへ消えたらしい。湖面は静かで、青色の湖水の底の石ころも青く見える。湖の中ほどには遠くの雪山の陰も映っていた。10時ぐらいまでチンチの両親は漁にいそしんでいたが一匹も獲れなかった。

 私たちがテントを張ったのは湖の南東だが、この日は南東から南へ、モングーン・タイガ山塊とヒンディクティク湖の間を通ってクィズィール・ハヤ村へ行く。ヒンディクティク湖の周りには小さな湖がたくさんある。ヒンディクティク湖の水位が今より数十メートルも高かった跡があるそうだから、昔はこれらの小さな湖はヒンディクティク湖に含まれていたのかもしれない、今はそれら湖をつないで流れる川はヒンディクティク湖には流入せず、南へ流れ去る。ヒンディクティク湖には周りの斜面から小さな小川は幾つか流れ込んでくるが、流れ出るのは西の端からのモゲン・ブレン川だけだ。モゲン・ブレン(126キロ)は、大小の湖から流れてきた大小の川を集め、南へ流れるトゥヴァ南東の最大の川で、モンゴルのアチト・ヌール(湖)に流れ込む。そこからホヴド川となって大湖盆地の淡水湖を廻るが、最後は内陸塩湖ヒャガス・ヌール(流出河川のない閉鎖湖)で終わる。(ホヴド川もヒャガス・ヌールもモンゴル領内)。
 私たちの行程は、このモゲン・ブレン川本流に沿って南下するのだが、その本流へ迷わずたどり着くまでは、ヒンディクティク湖の周辺の小さな湖の側を通ったり、小さな支流を越えたりしなければならない。
 湖は小さな岩山に囲まれている。岩山に上ると、一方に大きな青いヒンディクティク湖、他方に小さな青い湖、空も青くて遠くの山も麓は青い。夏のツンドラ地帯のような地面にも、生き物たちが活動している。トナカイゴケの間に生えている矮小灌木の枝には毛虫の巣(卵膜)がかかっていた。朝日を受けて毛虫たちが幕を破って出てきている。
 モングーン・タイガ麓
 湖の南東にそびえるモングーン・タイガは、2003年ユネスコの世界自然遺産に登録された『ウブス・ヌール盆地群』の12のクラスター・保護区の一つだ。保護動物には有名なユキヒョウモいる。15890ヘクタールあるそうだが緩衝地帯もあるからもっと広いだろう。
 その緩衝地帯に入ったらしい。ドゥルグ・スー川(ヒンディクティク湖南東の小湖をつないで28キロ流れモゲン・ブレンの左岸に合流する川)谷らしい(その支流かもしれない)。そこは、山に囲まれているが平坦でかなり広い草原だった。保護区と書いた表示板が立っている。と言うことは、私たちは道を間違えずに進んでいるのだ。人の通らないところに表示板もないだろう。草原の中にはかすかにタイヤの跡が見える。遊牧小屋もあった。冬営地なのかもしれない。
保護区内の遊牧小屋
積み上げられた家畜の糞
自家製沸騰ミルクを超している横で、
市販ヨーグルトも食べている
ユルタの中で、母親が住所を書いている間、
赤ちゃんをあやしてくれた

 その遊牧小屋は、今は無人だったのでチンチのママと入ってみた。家畜小屋には床に分厚く干し草が敷いてあり、屋根は家畜の糞で葺いてあった。小屋の周りには家畜の糞を積み上げた小さなピラミッドが何本も建っていた。乾燥糞は燃料になるのだ。しかも、ウシの糞でなければならない。ウシ科の糞は完全に消化されていて、乾燥糞は貯蔵しても燃やしてもほとんど糞の匂いはしない。ヒツジやヤギ、ウマの糞は、未消化の栄養物が残っているので、冬、全く食べ物がなくなった時には、牛は、それら動物の糞を食べるそうだ。(8892)

 私たちの通り道にあったのは1体だけだったが、この谷間・草原盆地にも石像が立っている。彫刻は見えなかったが、立て石で周囲を囲んであった。この高原からはモングーン・タイガの『弟』の『小モングーン・タイガ(と地元では呼ばれている、3494m)』がよく見える。この石像を立てた古代人もここで遊牧をしながら眺めていたのか。その頃より、人口密度は多くなっていないと思う。見渡す限り草原と山しか見えない。
 (追記) 帰国後サイトで調べたところ、ドゥルグ・スー谷はサルィグ・ホブーと言って、多数の古墳と石像がある。私たちの通り道にあったのは、その一部だった。古代には文明の一つの中心地だったかもしれない。ソ連時代に調査が行われたそうだ。詳しい調査報告書はネット上では見つからないが、遺跡一覧表には、いくつも載っている。

 しばらく進むと、草原の中、曲がりくねった流れが見え、その周りだけ緑が濃い。緑が濃いだけで、川の側なのに樹木の列もないと言うのは、気候が厳しいのだ。川向こうにユルタが建っていた。と言っても人里に近づいてきたわけではないが、ヒンディクティク湖周辺より温かみを感ずる。これがたぶんドゥルグ・スー川だろう。私たちは、まだホラシ川(ドゥルグ・スーの左岸支流で18キロ)も渡らなくてはならない。湿地に埋まらないで渡れるところはどこだろう、とチンチのパパが周りを見回している。
 馬に乗った牧童が2,3人遠くに見えた。ユルタも建っていたので、その住人に道を聞いてみることにした。私たちが近づくと、ユルタからかなり離れていた馬上の牧童も引き返してくる。外部の者を警戒しているのだろうか。しかし、こちらは話のわかる地元のチンチの両親が一緒だ。
 そこには、ユルタが1張り、小屋が2,3軒、車(と言えばジープしか使えない、しかも古い)も止まっていて、子供が数人遊んでいた。ミルク製品が製造中で、おばあさんが大きな釜で乳を沸騰させている。小屋の近くには沸騰させた乳を入れた大きな布の袋が垂れ下がり、下に大きな盥が置いてある。濾しているのだ。小屋の屋根には乳餅が干してある。なのに、ここの2歳くらいの子供は市販のヨーグルトを食べていた。フルーツと何語かで書かれ(つまりトゥヴァ製でないばかりかロシア製でもない)イチゴの絵を描いた日本のスーパーでも売っているようなプラスチック・カップに入ったヨーグルトだ。
 チンチのパパがこの家族の男性に道を聞いている間、私はユルタや小屋の周りをうろうろしていた。すると、おばあさんが、誰だ、どこから来たのかと聞く。今度は、ムグール・アクスィからとは言わず、日本からだと答え、写真を撮ってもいいかと尋ねた。
「いいが、撮った写真を送ってくれ」と言う。どこへ送ればいいのだろう。
「住所を書いてください」と言うと、私をユルタの中に案内して、そこで、乳製品のお団子を作っていた若い女性に、住所を書いてあげるよう言う。
 ユルタの中には女性が二人いた。おばあさんはロシア語ができる方の女性に頼んだのかもしれない。娘か嫁なのだろう。赤ちゃんもいて、泣きだした。女性がベッドを机代わりにして私の手帳に住所を書いている間、ずっと私の後についてきた10歳くらいの女の子がその赤ちゃんをあやしてくれていた。住所を書き終わって、女性(ボイガルさんと言う)は赤ちゃんを抱く。生れて1カ月だと言う。蒙古斑はあるだろうか、聞いてみた。
「ないよ」と言って、赤ちゃんのお尻を見せてくれる。そして、ベッドに座って母乳を与えたので、赤ちゃんは泣きやむ。その間、もう一人の女性は黙々と乳製品のお団子を作っていた。おにぎりくらいの大きさだ。
 帰国後すぐに郵便で写真を送ったが、返事はなかった。
 険路
1999年に完成されたこの険路の由緒を
書いた説明板も見える
下にモゲン・ブレンの流れが見える
「右 クィズィール・ハヤ コシュ・アガチ」
と書いた手製の看板
 私たちはいくつかの水場を通りぬけ、何とかモゲン・ブレン川岸に出た。1999年にモゲン・ブレン・ソフホーズ長のСаая Виктора Серээвича何某がКок-Одурукから Шын-Бажынまでつくったと言う道が川に沿ってできている。クィズィール・ハヤはモゲン・ブレン・ソフホーズ員の定住地としてできた村で、『モゲン・ブレン・ソフホーズ』村と言っていた。クィズィール・ハヤ村と改名したのは近くにクィズィール(赤い)ハヤ(岩)があったからだ。
 この貴重な道を1時間半ほどかけてゆっくり進んだのだが、奇跡の険路だと思う。モゲン・ブレン川谷を通る馬道は古くからあっただろうが、何とか車輪が通れる道ができたのは、そのソフホーズ長さんのおかげだ。崖の迫る川岸を通ったり、氷河が運んできたごつごつ岩を越えたりしてできている。道には所々山崩れの跡もある。何よりもありがたいのは、危なかしそうに見えても木の橋ができていることだ。半分壊れているようなのもあったが、ないよりまし。山川は流れが激しく川底も深い。険路はモゲン・ブレン川の右岸へ行ったり左岸へ行ったりして通じている。
 崖の上を通ることもある。崖の上はそれはそれで高原となり、立て石で囲った石像もある。こんなところにも!もしかして、古代は今より人口密度が高かったのではないかと思われるくらいだ。
 ずっと下にモゲン・ブレンの流れと沼地にでもなっているのか対岸の川岸がみえる。古代人は絶景をめでたのだ。
 (追記) 帰国後調べたところでは、この崖上の広い草原段丘はアルディー・ゥイマティ川(モゲン・ブレンの右岸支流)との間にあり、多くの古墳などの遺跡があると記されている。

 1999年に完成されたこの道路の由緒を書いた説明板もあった。トゥヴァ語なので読めなかったが、チンチのママに訳してもらう。ソフォーズ長の功績をたたえる説明板は、何箇所かに立っている。16年も前に建てられたのか、文字もやや禿げている。木と草と山と石しかない自然の中では、この人工の立て札に思わず目がいってしまう。 
 どうやら、今ではこの道は、クィズィール・ハヤからアルタイ共和国へ抜ける、一応、産業道路の一部なのだ。「右 クィズィール・ハヤ コシュ・アガチ(*)」と書いた手製の看板もあった。コシュ・アガチとはどんな村なのかスラーヴァさんも知らない。
「いっぱしの村なんでしょうね」と聞いている。こんなところに道路をつけると言うのはそれなりの経済的効果がないとできないと思ったのか。帰国後地図で調べたことだが、コシュ・アガチ区とはアルタイ共和国の最南にあってカザフスタン、中国、モンゴルと国境を接している。行政中心地コシュ・アガチ村はチュイ川畔にあり、チュイ街道(ノヴォシビリスクからモンゴル国境までの962キロの連邦道52号線の一部)の要所なのだ。クィズィール・ハヤからアルタイとの境の高度2600mのブグズン峠を越えて、コシュ・アガチ村へ出ればケーメロフ市やノヴォシビリスク市などへも容易に行ける。だが、モゲン・ブレン谷を行くのも容易ではなく、ブグズン峠越えももっと険路で、その先は想像もできない。しかし、踏破してみたいものだ。150キロほどの道のりだそうだ。しかし、このあたりは国境地帯。(外国人用の)通行許可証が、アルタイ共和国とトゥヴァ共和国の2か所の国境警備管理部で別々に取らなければならないとか。(残念ながら、トゥヴァ共和国なら知り合いがいるが、アルタイ共和国にはいない。)
(*)クィズィール・ハヤ、コシ・アガチ道 2001年にはトゥヴァ政府も資金援助して、クィズィール・ハヤとコシュ・アガチ間の70キロを整備して、現在のように高駆動車なら通行可能になったらしい。トゥヴァからはドゥス・ダッグの岩塩、チャダンの石炭を運べる。またコシュ・アガチからはウコック高原を通り、直接中国へ抜けられる。

 モゲン・ブレン谷を下って行くと、家畜の群れも見かけるようになる。しかし、道は相変わらず険路で、氷河の運んできた石がごろごろするモゲン・ブレン川の川床を走ったりする。この川床が道を兼ねているとは信じ難く、何度もスラーヴァさんに正しい行程をとっているのかどうか確かめたものだ。が、やっと家々が見えてくる。モゲン・ブレン川の幾段にもなった河岸段丘にできた新しい村クィズィール・ハヤだ。同じような平屋の家々が並んでいる。ソフォーズ員のために同時に建てられたものだろう。
 果てのクィズィール・ハヤ村
 村に入って行くと、みんなからじろじろ見られた。仕方ない。上の河岸段丘の見晴らしの良いところに仏塔も建っていて、その横にはこの村のシンボルなのかヤクらしい動物の像もある。もっと上の段丘にはオヴァーとチャラマもしつらえてある。村内の道路は広く、家々も広めの敷地の中に立っている。広い道路の一角には古墳らしい丘もいくつかある。土が持ち上がり、周りを大きな石で不揃いに囲ってある。いくら計画経済のソ連時代でも、この真上には家を建てなかったし、敷地にもしなかったようだ。
 クィズィール・ハヤは遺跡の宝庫のはずだ。まずは『文化宮殿』に行ってみる。しかし閉まっていた。チンチのママの情報では、この村の文化関係のトップ(女性)はトゥヴァでも有名な伝統文化研究者だそうだ。『文化宮殿』が休館でも、村に誰か『詳しい人』がいるかもしれない。と言うので村役場に向かう。村役場では受付の人が文化担当者の女性の携帯電話番号を教えてくれる。個人情報とかには神経をとがらせないのだ。それに、固定電話が普及する前に携帯が普及した。村内で固定電話のある個人の家はほぼないだろう。
高台から見たクィズィール・ハヤ村
『ここにもある』という大岩と案内してくれた男性
モゲン・ブレン発電所廃墟

 チンチのママが電話してくれたが、その女性は休暇で村を離れている。村役場の人がもう一つ教えてくれたのは病院の医師(女性)の名前だ。その人は遺跡のことに詳しいと言う。人口1000人くらいの村では、みんな知り合いなのだ。
 すぐに病院に行く。私たちは、ここまでで、この村に30分はうろうろしていたのだが、数人の人に話しかけられた。トゥヴァ語だったので私はわからない。チンチの両親は特に訳してくれなかった。彼らが特に何か教えてくれたわけでも、問題になることを言ったわけでもないからだろう。
 病院の入り口でも何人かの人に話しかけられた。目当ての医師は今、出張で村を離れていていないと言うことだった。クィズィール・ハヤには有名な岩画があるはず、その場所を知っている人はいないだろうか、とチンチのパパを通じて病院関係者に聞いてみる。「私の夫が知っている」と言ってくれる看護師さんがいたので、その夫さんを呼んできてもらった。
 スラーヴァさんの車にその夫さんも乗ってもらって、村はずれの岡に上り、オヴァーを通り過ぎ、古墳の高原も通り過ぎて、村から10分ぐらい行ったところだった。川岸のようだが、流れはかなり下に見える。「ここだ」と言われた岩には、モンゴル語かチベット語が浅くレリーフしてある。何が書いてあるのか、いつの時代かわからない。岩は亀裂の入った古いものだが、文字は美しく(もしかして模様かも)、古い時代には思えなかった。
 この段丘には氷河が運んで来たのか、浸食の結果、硬い岩だけ残ったのか、地面からむっくり突き出ている大岩がたくさんあった。「ここにもある」と言われた大岩を見ると、南シベリアの岩絵によく見かける大枝の角のシカのような動物や、大曲の角を持った動物が打刻してある。岩画と言えば必ずある動物たちとスタイルで、たぶん前スキタイ時代のもの。動物のほかにも描かれているようだったが、何かわからない、狩りの場面なのかもわからない。案内してくれた男性も全くわからないそうだ。岩画のあるところは古代人が神聖と思ったところだろうから、そんなところに近世の仏教遺跡が見つかることもある。前記、チベット語かモンゴル語のレリーフは多分近世の仏教関係遺跡だ。
「まだある」と言うので、車に乗ってさらに奥へ行く。その途中で通った高原草原(段丘)には石像がたくさんあった。立て石で囲ってあるものや列柱になっているものなどがある。古代ウイグル時代のものだろう。この高原も彼らの生活の場だったのだ。下には川が流れている。ちなみに、帰宅後調べたことだが、カルグィ川岸やムグール川岸ばかりか、モゲン・ブレン川岸にも、登録されているだけで実に多くの古墳群や石像がある。私たちが通り過ぎてきた上流モゲン・ブレン川の畔にも、私たちは気がつかなかったのだが、多くあったのだ。この段丘の石柱群もそのリストに入っているようだ。
 しかし、この古代遺跡高原には似合わない古びた細い電柱や、もはやその電柱もなくなって、土台の石が傾いて突き出ている杭が見える。もちろん電線もない。いったいどこから電力を引いてこようとしたのだろう。
発電所建設会社の
サイトから
2001年完成時のダム
上記廃墟の発電所内
2001年稼働時の
 彼が私達に見せたかったのはその高原から降りてまた川岸を進んだところにある大きな岩だった。大岩は川岸近くにあった。古代の石柱は縦長の直方体だが、これはコンクリートで角が埋められどっしりとして、面には規則的な穴が穿ってあった。コンクリート製の台座の上に乗っている。これは最近建てられた記念碑で、文字盤が止めてあったのだろう。確かに今まで見たどの石より重量がありそうだ。近くにはタービンでも作動していたような機械の残骸とそれを囲む直方体の建物の残骸があった。ここ一帯は、2001年に完成したモゲン・ブレン川ミニ水力発電所の廃墟で、大岩からもう取り去ってしまっていた文字盤には、年号や建設者の名前などが刻まれていたのだろう。2001年完成までは、村はディーゼルで発電していた。発電所がどのくらい稼働していたのかは不明。今また、ディーゼル発電のみに戻っただろう。モゲン・ブレン川をせき止めた木造ダム(8mの落差、もう残がいか)は残っている。
http://www.inset.ru/r_equ/Kisil_Haya.htm
 50キロワット・アワーの発電機が3基設置され、このミニ水力発電所は震度9に耐え、冬期零下50度でも稼働、運転は全自動化されていたそうだ。トゥヴァでは僻地はディーゼル発電だが、地利がよければ、こうしたミニ水力発電所を建てる計画が当時あった。(今もある。クィズィール・ハヤの発電所はなぜか早々と廃墟になっているが、トゥヴァ政府には、今、ビー・ヘムの流れるトッジャ・コジューンに建設計画があるらしい。)

 ちなみに、ムグール・アクスィ村には主要道路に水道の蛇口のようなパイプが地面からつきだしている。規則的ではないがかなりの数だ。チンチのパパによると、カルグィ川から水を引いた水道管が地中に通っているはずだが、設計の間違いで、稼働していないとか。ミニ発電所も水道敷設も資金と労力の無駄だったなあ。

 クィズィール・ハヤ村に戻ったのは4時過ぎだった。昼食を食べなくてはならないが、村の国立総合企業、つまりここでは農業会館(『ヤクの牧畜センター』)の食堂は閉まっている。村に一般の食堂やカフェはない。(村人のいったい誰が利用するのか)。だが、チンチのパパの遠い親せきの家があるそうだ。食材はチンチのママが用意して(たぶん店を探して買ったのだと思うが、カップ・ラーメンときゅうりとパン)、そこで台所を使わせてもらい、昼食をとることにした。(ここでも台所には、蛇口をひねると水が出てくる装置なんてない。ふた付きバケツに水が汲んであるだけ)
 どこも同じだが、その知り合いの家も板塀で囲まれた敷地の中に立つ平屋で、敷地内には物置小屋や、トイレ小屋などがあり、隅に薪が積んである。広い玄関の間を通って入る家の中は快適で絨毯を敷いた居間には長椅子やテレビがある。(シベリアの農家で玄関の間が広いのは、ここで冷気を遮断したり、外套を脱いだりするためだと思う)。ダライ・ラマの写真を飾ったガラス棚もある。台所には大きな暖炉や流し台セットはあるが、前記のように水道はない。
 この家の主人は、私たちの食事には加わらなかった。チンチのママが、場所だけを貸してと言ったせいなのか。初めはいぶかしげだったが、帰る頃になって、一緒に写真を写したいというと、にこにこ顔になって応じてくれた。

 5時半ごろ、クィズィール・ハヤ村を出ると、道は南へ流れるモゲン・ブレンと別れて、山の中へ通じている。10分も行ったところに見晴らしの良い草原があり『モゲン・ブレン(地区)(*)』と書いたオベリスクが立っていて、そばにはユキヒョウらしい動物の像やオヴァーがあり、そのオヴァーは石だけでなく動物の角が積んであった。羊の角だそうだか、なぜオヴァーの上に角なのか、チンチのパパにも不明。ユキヒョウは絶滅危惧動物でアルタイ・サヤン山脈などの高山に生息している。モングーン・タイガ山塊も、アルタイ・サヤン山脈の一部だ。
(*)クィズィール・ハヤ村はモゲン・ブレン農村地区にある村の一つだ。モゲン・ブレン農村地区にはクィズィール・ハヤ村しかない。同様にカルグィ農村地区にある村の一つがムグール・アクスィ村だ、それぞれ一つしかない。

 ハイチン・ザム道『石が原』
国境を示す鉄条網と しましまの杭も見える
  道は急坂を上り一層の高原に出る。この高原を『石が原』と名付けたい。高原の見渡すかぎりに大小の石が散らばっている。氷河が削ってここまで運んで来たものか。石だけでも巨礫だけでも草原だけでもなく、水玉模様のように、緑の中に灰色の大きな石が微妙に配置されている。大きな石の陰になって見えない石もある。誰がこんな見事な石庭を作ったのだろう。万年雪の残る高山を背景に。
 この『石が原』に大石を除けて道が通じている。こうした人手が入っていなければ、この高原は車輪ではとても通行できない。この道は『ハイチン・ザム』と言う古くからある小路だそうだ。エキゾチックな名前だ。『ハイチン・ザム』はトゥヴァとモンゴルの国境に沿ってある。あるいは『ハイチン・ザム』に沿って新たに(1935年*)国境ができたのか。
(*)1935年 モングーン・タイガ山塊は1935年までモンゴル領だったとの資料もある
 1953年ころはじめてモングーン・タイガ・コジューンの考古学調査がサンクト・ペテルブルクのアカデミーによってなされたそうだが、それ以後、何度か調査が行われている。『美はここにはない、素晴らしさと怖れが一つに合わさり、見えるのは石と空だけ、人はいない』とあるサンクト・ペテルブルク人が書いている。
 国境境を示す鉄条網としましまの杭も見える。雄大な自然の『石が原』の中では人工の鉄条網は弱々しく、やっとやっと目に入る。だから、あの南に見える雪山はもうモンゴルなのだとわかる。青い屋根のモンゴル国境警備基地の建物もある。青い屋根は軒が反っていて仏教寺院風だ。ちなみに、トゥヴァでもトゥヴァが立てたものはこの様式だが、トゥヴァの国境警備基地はロシア軍が建てロシア人が駐留しているので、屋根の様式にこだわらない普通の建物だ。

 この『石が原』高原も10キロほどいくと、下り坂になり、前方に川の流れを示す緑の木立の列が見える。オルター(アルタ)・シェゲテイ川(28キロ)と道標が立っている。モングーン・タイガ山の南麓から幾つかの小さな湖を作って流れ、『ハイチン・ザム』を横切るとすぐモンゴルに入り、名前が変わる。さらに、モングーン・タイガ南麓から流れてくる別のトライトィ川(78キロ、これもモンゴルに入ると名前が変わる)と合流してアルタンガラス川とかいう名前になってアチト・ヌール(湖)に流れる。また、前記のようにモンゴル領ではブへ・ムレンと名前を変えた先のモゲン・ブレン川もアチト・ヌール湖に流れ込む。アチト・ヌールは流出口のある淡水湖で、モンゴル北西の大湖盆地にある無数の内陸湖の一つだ。コブト川(の支流)を通じて最終にはヒャガス湖に流れ、そこで終わる(蒸発する)。
トライティ川の湖で、遠くにチンチのパパの姿
モンゴル国境警備隊吉の青い屋根
中立帯に入っている車
牛の乳を搾るチンチ

 オルター・シェゲティ川は半砂漠の中をやっと流れ、流れにそって低い草や矮小灌木を生やしている。周りを注意深く見晴らしているチンチのパパは「ここではない」と言う。さらにアク・ヘムと道標に書かれた小さな川も渡る。周りはまた『石が原』になる。道の前方に瓢箪型の湖が見えてくる。近づくとそれはトライトィ川で繋がった7,8個の湖で、そのうちいくつかはモンゴル領、いくつかはトゥヴァ領のようだ。
 地形は複雑でトライティ川もうねうねしているが、『ハイチン・ザム』道は川を一度しか渡らなかったようだ。そしてその橋の畔には元国境警備隊基地小屋があった。今は廃棄され無人だが、警備の方は定住的ではなく移動式らしい。国境警備隊らしい黒ナンバーのジープはこの道を往来してパトロールしている。
 チンチのパパが「ここだ」と言うので道を出て、湖の一つに向かう。国境に近づきすぎたり、知らない間に国境からはみだしたりしないようにと言われたが、私は湖畔を歩きまわることにした。チンチの両親はミミズを集めて魚釣り。スラーヴァさんは車の中で一休み。30分ほど釣っていたが、ここでも不漁。チンチのパパは、これら国境近くのトライトィ湖群の半分がモンゴル領になって、どこででも魚釣りのできないことが不満だ。モンゴル人は魚を食べないのだから湖は不要だと言っている。

 30分ほどであきらめて先に進む。ここからも30キロほどを、1時間ほどかけて『ハイチン・ザム』を2重の鉄条網と並んで走った。道はトライトィ川に沿って通じていたり、トライトィ川がつくった湖(こちらはモンゴル領の湖)の畔を進んだリ、山間の小さな地峡草原を抜けたり、丘を上ったり下ったり、荒野か半砂漠を横切ったりする。車の窓からはいつでもロシア側の鉄条網と国境を示す縞縞のポールが見えた。何メートルかの中立地帯を置いてモンゴル側の鉄条網も見える。地形によって、その中立帯は丘の向こうだったり、ほんの2mくらいの幅だったりする。すると、モンゴルの草原が見晴らせる。鉄条網の向こう側だからと言って、自然は変わらない。ユルタも見えた。この辺ではユルタのつくりも同じだろう。家畜も見えた。この家畜のためにも鉄条網を作ったそうだが。しかし、驚いたことにこの中立帯に入っている数人の地元民がいる。チンチのパパの言うには、中立地帯に入って、薬草を探したり、草を刈ったり、家畜を入れたりすることもあるそうだ。法律的にはどうなのだろう?
 この道路には高速道路の様なガードレールの代わりに、鉄条網があると思うくらい道路は鉄条網、つまり国境に沿って走っていた。あるいは国境が道路に沿ってできていた。国境の線引きをした時、道路がトゥヴァ側に入っていてよかった。でないと、クィズィール・ハヤへは陸路では決して行けない。(後年になって道路を建設しない限りは)
 『ハイチン・ザム』道はまたいくつかの(今は)枯れ川も超える。こうしたところには、モンゴル側にもトゥヴァ側にもユルタが建ち、家畜の群れが見えた。
 ハプシ峠(2614m)と言うところで、道は国境を離れ北の山へ入って行く。20キロほどでムグール・アクスィ村に着けるのだが途中でハンダガイトィからムグール・アクスィ村へ行く道路と合流する。その合流点の少しまえ、よく開けた高原(チンチのパパによるとБугалыгと言う『場』)に、石像が立っていた。立て石で囲いはあったが、彫刻はなかった。こういう石柱は墓石のようでもある。

 村に帰りついたのは9時でまだ明るかった。それで明るいうちに蒸し風呂に入ることができた。なにしろ、田舎の蒸し風呂小屋には明かりがないので、慣れない人には熱湯が怖い。
 チンチは庭で牛の乳を搾っていた。それを見たスラーヴァ先生は、ピアノを弾いている指だから、乳搾りも巧みなのだと一人合点している。
 この日の行程は、150キロくらいか。ヒンディクティク湖からクィズィール・ハヤまでは50キロを下らないと思う。クィズィール・ハヤからムグール・アクスィまでは90キロの道のり。
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