クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 April, 2013  (校正・追記:2013年6月2日、2014年2月4日、2016年6月21日、2018年10月27日,2019年12月5日、2021年9月25日、2022年10月25日)
30-(1)    トゥヴァ(トゥバ)紀行、2012年
    (初めに) トゥヴァについて
           2012年9月3日から9月14日

Путешествие по Тыве 2012 года (03.09.2012-14.09.2012)

1) トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 トッジャ地方、ポル・バジン遺跡を含む予定を立てる
2)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ハカシア、ダム湖水没クルガン チェルノゴルスク市泊
3)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
4)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミー(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
5)9/6 トゥヴァ東北部略地図 小エニセイ川へ トゥヴァの行政単位コジューン ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 震源地に近い小エニセイ中流の村々 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る
6)9/6 3つの峠越え、トゥマート山脈 中国の紫金鉱業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人
7)9/7 トッジャとトーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
8)9/8.9 緑の湖 アザス湖を望む ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 ウルック・オー谷
9)9/10.11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラク(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
10)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村  アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
11)9/13.14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドゥヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてトゥヴァ語からロシア語への転記に従って表記した。ハカシア共和国は住民はハカス人(男性単数)で国名はハカシア共和国、地名はハカシア、ハカスコ・ミヌシンスク盆地だが、ハカシアに統一。

トゥヴァについて
アジアの中心にあるトゥヴァ共和国
 トゥヴァ共和国はアジアの中央部、モンゴルの北西にあり、私が長期滞在していたクラスノヤルスク地方や、よく旅をするハカシア共和国の南にある。共和国と言ってもハカシアもトゥヴァも両方ともロシア連邦構成主体、つまり地方行政体(自治体)の一つだ(*1)。エニセイ川はハカシア共和国からクラスノヤルスク地方を通って北極海に注ぎ出る4000キロもの大河だが、源流はトゥヴァにある。
 今はロシア連邦の一部となっているトゥヴァ共和国だが、1755年から1911年までは清朝中国の領土だった(*2)。辛亥革命後はロシア帝国の保護領となったが、ロシア革命後の1921年から1944年までは、トゥヴァ人民共和国(*3)という独立国であった(と言っても、事実上のソ連邦保護下で)。当時は、ソヴィエト社会主義共和国連邦(1922-1991)とモンゴル人民共和国(1924-1992)に次ぐ3つ目の『社会主義国』だったが、この国を独立国として認めたのは、そのソ連邦とモンゴル人民共和国だけだった(1924年にソ連邦が、1926年にモンゴルが承認)。ちなみに、清朝の領土を引き継いだという中華民国は、2002年までも、トゥヴァをタンヌ・ウリャンハイ(唐努烏梁海)と元朝時代からの古い地方名で呼んで、自国領としていた。(中華民国はパミールやモンゴルも自国領であるとしていた。ウリャンハイはモンゴルの一部であるから、自国領とする)
2012年の行程は、富山空港から北京経由クラスノヤルスク空港へ。クラスノヤルスクからはアバカン経由クィズィール
   
 主権国家、つまり独立国であったトゥヴァ人民共和国は1944年にはソ連邦に合併され(*4)、ソ連邦内の一つのロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国内のまた一つのトゥヴァ自治州になり、1961年トゥヴァ自治社会主義共和国に『昇格』した。1991年、ソ連邦解体後はロシア連邦を構成する主体の一つのトゥヴァ共和国となる(*5)。

 広さは約17万平方キロ(38万平方キロの日本の44%の面積)、全人口は31万人弱(その82%はトゥヴァ人)と小さな『主体』(自治体)で、ロシア人にすらあまり知られていない。『失われた世界』とすら言われていた。だが、最近の変化は著しい。
 清朝中国時代はウリャンハイ人と呼ばれたトゥヴァ人(元朝時代の前からトゥバスィ(複数)と自称してきた)は全人口が約30万人でトゥヴァ共和国に26万人強、モンゴルに3万人強、中国に約3000人、ロシアのクラスノヤルスク地方などに2000人住む。

 (*1) ロシア連邦構成主体 ロシア連邦は現在(2013年)、地域あるいは民族によって区分された州、地方、共和国、自治管区などの83の連邦構成主体からなる。それぞれ自治権の範囲が異なるとされる。(後記:2014年にはセヴァストポリ連邦市とクリミヤ共和国が加わったとして85の主体になったが、それは係争中)
 
 (*2)19世紀までのトゥヴァ ロシアの歴史の教科書では、トゥヴァの歴史は南部のタンヌ・オラ山脈南に発見された前期旧石器遺跡からはじまる。アジアの中心に位置するトゥヴァの地には古くから人類が住みつき、移動して行った道筋の一つであったのだ。タンヌ・オラ山脈南のタルガルィクやテス・ヘム流域では旧石器前期(アシュール文化)の遺跡や、同じくサグルィ谷とホンダガイトィ谷、中央部トゥヴァ盆地等では旧石器中期(ムスティエ文化)遺跡が多く発見されている。旧石器後期ではウルック・ヘム左右流域やその支流、デミル・スク、クイルク・ヘム、エイリク・ヘム、オルター・ヘム谷、ヘムチック川流域、タンヌ・オラ山脈南麓などが調査されている。エニセイ川のヘムチック川の合流点より5キロほど下流の右岸トーラ・ダッシュ遺跡は、3m以上の深さにわたって、13の文化層が見られ、下の第4層までが新石器時代、第5層は南シベリアにアファナシエフ文化として紀元前3000年紀に現れた金石併用文化層、第6と7層はアファナシエフ文化に代わって現れた牧畜を主としたオクネフ文化。続いては前スキタイ時代の層、第10層から13層はスキタイ時代からモンゴル時代の層とされている。
 トゥヴァ共和国人文学研究所編の『トゥヴァ史』によると、南シベリアで青銅器が使われ、牧畜が始まったのは紀元前3000年紀の初めとある。草原の強大な勢力として紀元前5世紀ごろの古代ギリシャの文献にも出てくるスキタイ文化は、黒海沿岸より南シベリアの方が古い可能性が高いとされるようになった。それは、トゥヴァの北部ウユーク盆地の紀元前9世紀初めとされるアルジャン古墳が発掘調査され、動物意匠模様のバックルや馬具をはじめ、スキタイ文化とされるすべての遺物が発掘されたからだ。
 紀元前2世紀ごろはトゥヴァも匈奴帝国の一部になり、6‐8世紀は突厥カガン国の一部。8‐9世紀は突厥を破ったウイグル国の一部。9世紀にはハカス・ミヌシンスク盆地のエニセイ・キルギスがウイグルを破って南シベリアを支配したので、トゥヴァもキルギスの勢力下となる。13世紀はモンゴル帝国の領土となり(1207年モンゴルのジュチ軍がエニセイ上流のトゥバスィ族などを征服)、帝国の崩壊後タンヌ・ウリャンハイと呼ばれていたトゥヴァの地はアルティン・ハン侯国の支配地となる。その時期にトゥヴァの地にチベット仏教が広まった。17‐18世紀は、最後の遊牧帝国と言われるモンゴル系オイラト族(ロシアではカルムィク人)のジュンガル・ハン国の支配下にあった。1755年ジュンガル・ハン国を滅亡させた清朝中国に併合される。古くチュルク語のドゥボまたはトゥバと言われた民族が現在のトゥヴァ人の直接の祖先と言われているが、民族として形成されたのはこのころから。
 アルティン・ハンやジュンガル時代、ロシア帝国は南シベリアにも進出し、併合していったが、ジュンガル・ハン国が滅亡すると、ロシア帝国と清朝中国が直接に接するようになり、サヤン山脈の北(現ハカシア共和国など)がロシア、南(トゥヴァ共和国など)が清国と、両帝国の勢力範囲を決めていった。しかし、ロシア帝国にとっては、現在のトゥヴァの地は、アムール領域と同様、当時の国境係争地だった。(後に、すべてロシア帝国領となる)

 (*3)トゥヴァ人民共和国の国名 1926年までの正式名称はタンヌ・トゥヴァ国と言った。

 (*4)かつてのソ連邦の15共和国 バルト3国のエストニア、ラトビア、エストニアや、東欧ルーマニアとウクライナの間のモルドヴァがソ連邦に合併(連邦構成共和国に)されたのがトゥヴァより前の1940年で、こちらの地域はすべて自治共和国より上のソ連邦構成共和国となり、ソ連崩壊後には独立国となっている。また、ウズベキスタンや、トルクメニスタン、タジキスタン等の中央アジアの諸ソヴィト社会主義共和国はすでに1920年代に、ソ連邦となっている。その後も、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア、カザフスタン、キルギスタンも1930年代に合併され、これら15のソヴィエト連邦構成共和国はすべてソ連解体後は独立国になった。

 (*5)ソ連解体時 この時、独立の動きもあった。それで、ロシア軍隊が国境近くで待機していたと言う。
 トゥヴァ略図(サヤン・リングも含む)
1.ミヌシンスク市 2.カザンツェヴォ 3.タンジベイ 4.アラダン 5.トゥラン 6.アルジャン 7.エールベック8.カー・ヘム 9.バヤロフカ 10.サルィク・ヘム 11.トーラ・ヘム 13.ウスチ・エレゲスト 14.イー・タール 15.シャガナール 16.ホブ・アクスィ 17.アク・タール 18.チャー・ホリ 19.チャダン 20.アク・ドゥヴラック 21.テエリ 22.大オン 23.チェデル湖 24.スト・ホリ湖 25.トレ・ホリ湖 26.テレ・ホリ湖 27.アザス湖 28.アバザ市 29.クラギノ 30.ムグール・アクスィ
エルガック山脈はエルガック・タルガック・タイガ山脈の略
 前回までのトゥヴァ紀行
 トゥヴァに初めて行ったのはクラスノヤルスク滞在中の1997年だった。その時は、クラスノヤルスク森林研究所、トゥヴァ林業省、新潟大学農学部などからのフォレスト研究グループ11人と行ったので、エニセイ川(トゥヴァではウルッグ・ヘム Улуг-Хемという)の源流の小エニセイ川(トゥヴァではカー・ヘムКа‐Хемという)右岸支流のモンゴル国境近いブリン Блин川畔で、1週間ほど滞在しただけだった。そこが目的の森林調査地だったのだ。
血を大地に流さない現地人の屠殺方法(1997年)

 だが、クラスノヤルスクからトゥヴァ共和国の首都(ロシア連邦を構成する主権国家なので自前の憲法、大統領、議会、それにもちろん首都を有する)クィズィール(クズル)市 Кызыл市までの800キロの道のりは(当時、ディヴィノゴルスク市でエニセイ川に架かる橋が工事中だったので200キロも遠回りした。だから往きは1000キロも走ったが)、南シベリアらしく茫漠たる草原あり、山岳ツンドラの山越えありで素晴らしかった。実は目的地以外にも、クィズィール市からヘリコプターが飛ぶ日和を待つ間、45キロ南のチェデル Чедер湖のペンションに(と言うと居心地がよさそうにも聞こえるが、最低限の宿泊ができるというだけで、ロシアでは旅行者用基地 туристские базаという)に1泊した。食事は近くのユルタ(トゥヴァ人の移動式住宅、パオ、ゲル)から羊を1頭買って、その場で屠殺してみんなで食べた。
 翌日、日和が回復してクィジール市に戻り、ヘリコプターでブリン川の水源ブリン湖から12キロ(と後でわかった)下流の川岸に到着し、地質調査隊用無人小屋を見つけ、そこを多少修理しながら、1週間ほど過ごした。持って行った食料が尽きると、ブリン川で釣った魚や狩りで仕留めたアカジカの内臓を食べていた。クィズィールからハンターも同行したのだ。ちなみに、傷みやすい内臓を先に食べ、おいしい肉の方は、なぜか食べた覚えがない。この豪快で現地的な食べ物や住みかは、あまり覚悟のなかった私には、ややきつかった。

 2度目は2004年で、クラスノヤルスクの旅行会社を通じて10日間ほど滞在したおかげで、トゥヴァの東西南北をまわり、有名な山、古代遺跡、鉱泉、聖地、湖と一通りの観光はできた。
 2008年にはディマさんと自分たちのランクルでクラスノヤルスクから出かけたが、トゥヴァのことは詳しくないというハカシアからのガイドが同行していただけなので、『サヤン・リンク』を2日で回ってしまった。これは最もポピュラーなハカシアとトゥヴァ観光コースではあるが、普通1週間以上はかけて回る。ハカシアの中心アバカン市を出発して連邦道54号線を南下し、西サヤン山脈を越え、ウユーク草原を通り抜けて、クィズィール市に入り、そこからトゥヴァ盆地を共和国道162号線で西進し、アク・ドゥヴラックАк-Довурак市で共和国道161号線を北進してサヤン峠で西サヤン山脈を越えて出発点のアバカンに向かうという、西サヤン山脈の南北をリング状に回るコースだ。このコースが最もポピュラーなのは、道路がよいことと、その道路沿いからせいぜい数十キロのところに、美しい湖、治験ある鉱泉、岩画のある丘山、鹿石が立つ草原、ダライ・ラマも訪れた聖地などの名所が一通り見られるからだ。たとえば、トゥラン・ウユーク草原(盆地)で20キロも寄り道すると、黄金が多量に見つかったことで超有名なスキタイ時代の古墳『アルジャン Аржан 2』遺跡がある。(追記:アルジャーン aржаанがトゥヴァ語では正しい)
 私たちのたった2日で回ってしまったサヤン・リングの『超短期ツアー』でも、その『アルジャン2』遺跡だけは、トゥヴァのことはわからないと言っていたハカシアのガイドでも案内してくれた。クィズィールで会ったそのガイドの知り合いの知り合いが、北西部のスト・ホリ(湖)が素晴らしいというので足を伸ばした。共和国道162号線から距離的には近いそのスト・ホリ(湖)へ、悪路をたどってやっとたどり着いたものだ。聖地スト・ホリは確かにすばらしかった。が、実は、まだソ連時代の1990年、ここでロシア人が殺害された。当時の民族紛争のホブ・アクスィやエレゲスト町などで先鋭化した民族紛争の一つだったとは、その時、知らなかった。トゥヴァで無数にあるはずの岩画や鹿石の場所は、ガイドは全く知らないと言っていた。だから、後から分かったのだが、多くの遺跡近くを素通りしていたのだ。
 アク・ドゥヴラックから北の西サヤン山脈越えは初めてだったが、国境(という、ハカシア共和国とトゥヴァ共和国の境界、どちらもロシア連邦だがリパブリックだから)のサヤン峠を越えたころは、夕方の8時を過ぎていたし、オン川の鉄橋を渡るころは9時で、8月半ばだったとは言え薄暗くなって、アスキースАскиз村を通る頃は真っ暗だった。『サヤン・リング』コースでは、普通は時計回りに回るので、サヤン峠超えは後になってしまう。だから、ここはいつも時間が足りなくなって、標高2206m(ハカシア側には2214mとあるが)の美しい西サヤン山脈の景色や、オン川やオナ川上流の高山地帯にもあるツンドラも薄闇で見て、少し下って樹海美のほうは、もうほとんど見えなくなってしまう。本当は、サヤン峠越えだけで1日が必要だ(そこは、今回も同じ日程だった)。
トゥヴァ考古学地図(拡大)

 この3回目のサヤン・リンク『早回り』ツアーは物足りないものだった。道路から数十キロも入れば『古代トゥヴァ史』に載っているような青銅器時代の古墳や岩画、古代ウイグルの城壁跡などを訪れることができたのだ。しかし、どこもガイドなしには見つけられない。現地まで行って現地ガイドを探すということはできるが、その2日間の間では間に合わなかった。現地に詳しいガイドとゆっくりトゥヴァをまわりたいものだと、それからずっと思っていた。

 トゥヴァの歴史や、考古学の本を読んでいると、訪れてみたいところがたくさん見つかるのだ。そこはたいてい道もない僻地にある。トゥヴァは広くはないが、舗装道路と言えば、サヤン・リングが利用している連邦道54号線と、共和国道162、161号線(一部未舗装)、163号線(後記:2014年に通ると新しい快適な舗装道だった)の他は数本しかない。舗装はしていないが、通年にわたって通行できる道もいくつかはあるが。
 トゥヴァは遊牧業の国だから自動車道の必要はなかったが、ロシア帝国時代から植民が行われ、ソ連時代にアスベストや銅、コバルト、石炭などの地下資源が開発され、産地とロシア(本土)を結ぶ道路ができた。それらの道筋も使えば、もっと近くまで行ける。もっとも、最近になって開発されている地下資源産地、たとえばトッジャ地方の有色金属のクィズィール・タシュティック鉱山へ通じる道路は、乗用車での通行は難しい。というのも、開発には道路が必要だが、さしあたって、ごついトラックが通れればよいからだ。
 遺跡は昔の川筋に沿ってあり、現代の道路は現代の集落を結んで通じている。道路は現代でも川筋を利用することが多いので、たどっていけば目的地の比較的近くへは行けるのだ。集落ならどんなに僻地でも何らかの道はある。集落と言っても、遊牧の国に、清朝中国時代からの行政中心地サマガルタイ村や、19世紀末からのトゥラン市やウユーク村などのロシア人植民村、交易のチャー・ホリ村以外で、遊牧基地ではないちゃんとした(村ソヴィエトなどの)集落ができたのはソ連時代からだ。
 トゥヴァに限らず、地図に載っている集落に、ロシア製の地図を頼りに行きつけるとは限らない。ましてや、エニセイ川の1次支流、2次支流の畔にあるような夏季用遊牧基地(夏営地)や何々ウローチッシャ(урочище 場、自然の境界、周辺とは異なる地域)とよばれている所へは地元の人でないとわからない。遺跡はそんなところに多い。行き方を探そうにも、どこも同じような草原と丘陵で目印もない。遺跡などはガイドがいないと見つけられない。地図に載っていたり、道路沿いに標識があったりする遺跡は、トゥヴァでは『アルジャーン2』くらいだ。
 古代ウイグル城塞遺跡と、トナカイ遊牧トッジャ地方を含む予定を立てる
 今回『ポル・バジン Пор-Бажын』遺跡にぜひ訪れたいと思った。17世紀末トボリスクの地図製作者 Ремезовの表わしたシベリアの地図にもエニセイ川の上流にあるという未知の町について言及されている。1891年に発見され(現地のトゥヴァ人以外にとっては『発見』だ)、遺跡発掘は1957年にサンクト・ペテルブルクの考古学者ヴァインシュテイン Вайнштейн(*)によって始まったが、最近の本格的発掘は2003年から2007年で、ひとまず終了。カラー・アルバムも出ている。ポル・バジン遺跡は、トゥヴァ南東モンゴル国境近くの湖テレ・ホリ(『ホリ』はすでにトゥヴァ語で湖の意、『テレ』はあそこにの意)の島の一つにある8世紀のウイグルの城跡だそうだ。
(*)セヴィヤン・ヴァインシュテイン(1926-2008) 民俗学、考古学者。1948年からパドカーメンナヤ・トゥングースカ川のスロマイ村のケット人について調査。古アジア人と言われるエニセイ語族のケット人とトゥヴァの結びつきから、1950年トゥヴァの国立博物館の館長となった。1951年には当時ロシア人には未知だったトッジャへも調査に行く。トッジャは全くの到達困難地だった。ヴァインシュテインについて興味深いインタビューがある。
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A0%D0%B5%D0%BC%D0%B5%D0%B7%D0%BE%D0%B2,_%
D0%A1%D0%B5%D0%BC%D1%91%D0%BD_%D0%A3%D0%BB%D1%8C%D1%8F%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87
テレ・ホリ(湖)のポル・バジン遺跡
(写真集から)
 そのテレ・ホリ(湖)へはクィズィール市から陸路はなく、普通はヘリコプターで行く。ところが、テレ・ホリはモンゴルとの国境近くにあって、国境から25キロ以内は許可なく立ち入り禁止地域なのだそうだ。(しかし、2004年6月のトゥヴァ旅行の時は、南端の7分の1がモンゴル領となっている湖トレ・ホリまで行ったが、実は同年4月からそんな法令があった。今はその規制が厳しくなったらしい)。
 トゥヴァは南と東南の半分がモンゴルと接していて、国境のある区(郡)は25キロ以上であっても立ち入りには許可証がいる。
 それで、クラスノヤルスク市の知人ネルリさんを頼って、そこへ行く方法を探ってみた。考古学者でクラスノヤルスク教育大学学長ドゥロズドフ氏を通じて、ネルリさんはトゥヴァ国立大学学長と連絡をつけ、その学長が推薦したアンドレイ先生が私たちのポル・バジン遺跡などトゥヴァ観光の専任となった。つまり、ガイドをつけてくれたのだ。ネルリさんが電話でドゥロズドフ学長に連絡を取り始めたのが5月末。電話が通じたのが6月初め。ドゥロズドフ学長がトゥヴァ大学の学長に連絡をつけ、アンドレイ先生の電話番号がわかり、直接話ができるようになったのは8月初めだった。トゥヴァ大学が招待する形をとって、テレ・ホレ湖へ行く許可を取るにはパスポートが必要とのことで、そのコピーを、アンドレイ先生に直接送ったのが8月4日。トゥヴァで手続きを始めたのはいつからかはわからない。結果を知ったのは到着後だった(不可だった)。
 アンドレイ先生によるとテレ・ホリ湖へ行くには、今はヘリコプターだけではなく、ウラル(ウラル自動車工場製)という軍用トラックのようなごつい車で1日半かければ行けるそうだ。いつ飛ぶかわからないヘリコプター(と、誰もが言っている)を待つより、往復で3日もの間、センギレン山脈の中を走る方がずっと面白い。

 アンドレイさんは、トゥヴァ観光はテレ・ホリ湖の他に東北の僻地トッジャТоджа地方もできると言う。実は『トッジャに行かなければ、トゥヴァをみたことにならない』という言い回しがある。トゥヴァで人口の多いのは、中央に東西に走るトゥヴァ盆地草原だが、トッジャ地方は北東の山岳森林地帯にあり、高山ツンドラと言われる樹木も生えない地帯も多く、人口は最も希薄。トゥヴァの中部や西部の草原は羊や馬、牛の遊牧が中心だが、トッジャ地方のある東北の山岳はトナカイ遊牧が伝統的で、地元の住民についてもトゥヴァ・トッジャ人(後のページに詳述)と言うサブ・エトノスを設け、人口の比較的多いヘムチック流域や首都のある盆地に住むトゥヴァ人と区分している。言語もやや異なる(方言以上に)とされている。トッジャ地方ではトゥヴァ・トッジャ人は3000人余、住民の半数を占める。
 ちなみに、トナカイを家畜化したのは紀元前後ごろの、南シベリアのサモディーツ人)たちで、サヤン山脈のトゥヴァ側に住むトゥヴァ・トッジャ人やサヤン山脈のイルクーツク州側の先住民トッファтофа人や、ブリヤート共和国側に住むソイオートсойот人、モンゴル側のダルハッド盆地に住むツァータンЦаатан人たちはそのチュルク語化した子孫とされている。ソイオートやツァータンはその後さらにモンゴル語化した。20世紀の初めごろまでは、それらサヤン山脈に住む『先住民』たちはトナカイ遊牧をしていた。が、今は頭数が激減している。西サヤン山脈と東サヤン山脈が合わさるこの一帯は (今のところ)人出の入らない広い地帯が広がっている。(トナカイの家畜化は紀元前1000年紀ともされている)
 トッジャ地方は、最南のトナカイ遊牧地だ。

 ()サモディーツ語系には、今は極北タイムィール半島やヤマロ半島に住むネネツ人、エネツ人、ヌガンサン人、最も南でもオビ川やエニセイ川の中下流のセリクープ人の言語が入る。さらに南のサヤン・サモディーツは前記のように周りのより大きいチュルク系やモンゴル系に同化されて、その子孫が辺境のサヤン山脈麓に住む。

 そのトゥヴァ共和国側のトッジャ地方も、世界の僻地トゥヴァのさらに辺境・僻地で、到達は超困難、日本から訪れる機会は極小だ。トッジャ地方ではトッジャ湖のみを訪れる。というのも、トッジャ地方にも遺跡はあるが、そんなところだからユーラシア式、つまり、トナカイでなければ馬で、何日も行かなければ到達できない。
 ポル・バジム遺跡ばかりか、トゥヴァの遺跡と自然をできる限り回りたいものだと思っていた。それで、クラスノヤルスクの知り合いネルリさんと、
自宅のネルリさん
 ・8月23日クラスノヤルスク到着。ネルリさんの友達のダーチャを訪れる。(というのも、秋口、8月後半にクラスノヤルスクを訪れることにしたのは、ダーチャ・シーズンに間に合うためだ。)
 ・8月24日から26日もダーチャ、またはクラスノヤルスク観光。
 ・8月27日からトゥヴァに向けて出発し、9月7日まで、トゥヴァ滞在。陸上を行くことにしたからクィズィールからテレ・ホレ湖までの道のりに往復3日間はかかる。だから国境地帯訪問許可を10日間申請。その期間ずっとテレ・ホレ湖にいなくてもよい、早めにクィズィール市に帰って、トッジャなどのトゥヴァの自然や遺跡をできる限り回る。
 ・トゥヴァから帰って、クラスノヤルスク地方の金採掘の僻地セーヴェロ・エニセイスキィ町へ行く。

 と言う8月22日に富山空港を出発して9月16日帰国の予定で、チケットも買ってあったが、8月14日から22日までイレウスで入院したので、出発と帰国を1週間ずつずらしてチケットを買いなおした。だから、8月30日早朝にクラスノヤルスク市に到着し、クラスノヤルスクからトゥヴァへ向けて出発したのは9月3日だった。(8月30日から9月2日まで4日間はクラスノヤルスク市のネルリさん宅に滞在、トゥヴァからクラスノヤルスクに戻っても、9月22日帰国便に乗るまでネルリさん宅に滞在)
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