クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 April, 2013  (校正・追記:2013年5月24日、2014年3月24日、2015年6月15日、2016年6月30日、2018年10月29日,2019年12月7日、2021年10月6日、2022年11月27日) 
30−(6)   トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年
      (6)僻地トッジャ地方
             2012年9月3日から9月14日(のうちの9月6日
Путешествие по Тыве 2012 года(03.09.2012-14.09.2012)
1) トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 トッジャ地方も含む予定を立てる
2)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ダム湖水没クルガン チェルノゴルスク市泊
3)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
4)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミー(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
5)9/6 小エニセイ川へ トゥヴァの行政単位コジューン 小エニセイ川を遡る ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 震源地カー・ヘム中流の村々 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る
6)9/6 3つの峠越え、トゥメート山脈 中国の紫金鉱業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人
7)9/7 トッジャとトーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
8)9/8.9 緑の湖 アザス湖を望む ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 ウルック・オー谷
9)9/10.11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラク(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
10)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村  アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
11)9/13.14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドゥヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてロシア語の転記に従って表記した
 3つの峠を越える
トッジャ略地図 拡大
 トッジャ地方は、西と北は西サヤン山脈、東は東サヤン山脈、南はアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈に囲まれた『到達困難地』だった。今、南からアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈を越える『バヤロフカ~トーラ・ヘム』道には3つの峠があるとアンドレイさんたちは言う。一つ目はコプトゥ(ホプトゥ)川の水源近くの第1コプトゥ(ホプトゥ)峠(1999m)、2つ目は第2コプトゥ峠(1990m) またはスィナーク峠、3つ目はミュン峠(2011m)であると書かれたサイトもあるが、10万分の1の地図でも、グーグル地図でも、ウィキマップでも正確には確認できなかった。ウアスの運転手によると峠の高さは3000m級だと言うが(さばの読み過ぎだ)、アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈の最高峰でも2895mだ。
 
第1コプトゥ峠(高原)
運転手とその知り合いらしい乗客
唯一見かけた乗用車
スィナーク峠を越えたところの
『キャンピング・スィナーク』
ミュン峠のオヴァーとチャラマ
遠く眼下にミュン湖が見えた
 助手席から、懸命に撮っていた写真を後から調べて、名前や高度はともかく3つの峠が推定できた。石の塔オヴァーや木に布切れを結びつけたチャラマのあるところが峠だと思う。運転手は、外国人が乗っているせいかどうか、2回は峠に止まってくれた。
 その一つ目は、コプトゥ川上流とデルジグ川の分水嶺辺りある第1コプトゥ峠だと思う。峠と言うより高原盆地だが、ここまでは上り坂だった。道の側に低い丘があり、斜面は薄緑のトナカイゴケで覆われ、その間にぽつんぽつんとみすぼらしい落葉松が生えていた。裾野はツンドラ沼地なのか、薄紫の針山のよう矮小カバノキの茂みが拡がっていた。エルニック Ерник またはィヨールニック Ёрникと言って、背丈は50センチほどだ。ホッキョクヤナギも生えていたかもしれない。アンドレイさんによると、バヤロフカ村からコプトゥ川を45キロも遡ると、もう永久凍土帯になるそうだ。50センチも掘ると氷の頭が見えると言う。

 ここは、南アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈の一つトゥマート・タイガ山脈で、ここから北のオットゥク・タイガ山脈まで、木々の少ないツンドラ沼地高原が続く。だが、斜面は、シベリアマツ(ケードル кедр、シベリアスギとも言われているが、スギではなく、マツ科マツ属)の森で覆われている。
 トゥマートと言うのは勃興期のモンゴル帝国に故地の遊牧地を追われて、その一部が、現在のトゥヴァの地に移り住んだモンゴル系またはテュルク系氏族で、ホリ族とも連合してかつては強大な共同体だったそうだ。トゥマート族はここで、ソイオート族(**)と隣り合って住んだ。
(*)トゥマート(トゥメート) 
 ホリ・トゥマートとも言って、13から17世紀の文献にはたびたび登場している。バイカル湖近辺に住んでいた。『集史(イランを中心とした13,14世紀のモンゴル帝国の地方政権イルハン朝時代のラシードゥッディーンが編纂)』や『元朝秘史(モンゴル秘史)』などによると、当時、トゥマート、ホリ、トゥラス、バルグの部族は、連合してバルグジン(辺境の意)に住んでいた。ちなみに現在、その名のバルグジン川はバイカル湖東北から流れてきてバイカル湖に注ぐ大河で、バルグジン谷がブリヤート人の故地とされている。
 『集史』には、1217年ホリ・トゥマート(またはトゥマートのみ)がモンゴル帝国に対して反乱したと記されている。破られたトゥマート族は北のレナ川支流ヴィリュイ川中下流(現サハ共和国)に移動した。
 現在サハやアルタイでは民族グループとしてトゥマートの名が、ナイマン、メルキト、チョロスのモンゴル系の名前とともに残っている。ハカシアでは子孫の氏 родにその名が残っていたが、今ではトゥマート・チャーズィと言う地名に残っているのみだ。かつてはトゥマート族の大集団が住んでいたらしい。一方、トゥヴァでは、地名はトゥマートの名は一つの山脈の名にだけ残っているが、20世紀初めに地図によると、西タンヌ・オラ山麓、つまりウブス・ヌール(湖)北にはトゥマート氏族が住み、トゥマート・スモーンが記されている。現在でも、トゥマートはトゥヴァ人の苗字(氏族名 род,родплеменная группа)として残っている。

(**)
ソイオート語 フィン・ウゴール語派とともにウラル語族に入るサモディーツ語派のうち、サヤン・サモディーツ語は死語になっている。そのなかには、マトール語(タンジベイ村とカラトゥース町の間にあるマトールスコエ村はマトール族が住んでいたから)やカマシン語などがあって、フィンランドの言語学者たちによって完全に話し手がいなくなる前に調査できたそうだ。
ウラル語族
  ◎フィン・ウゴル語派
    ・フィン・ペルム諸語(フィンランド語、エストニア語など) 
    ・ウゴル諸語(ハンガリー語、ハンティ語など)
  ◎サモディーツ語派
    ・北部サモディーツ諸語(ネネツ語など)
    ・南部サモディーツ語(セリクープ語)
    ・サヤン・サモディーツ諸語 ー 死語
     (カマシン語、マトール語、ソイオート語、コイバル語など)

ソイオート語の担い手も古代サモディーツ人(サヤン・サモディーツ)の子孫だが、後にテュルク語化し、さらにサヤン山麓にブリヤート族が移住してくるとブリヤート語(モンゴル系)化。2010年の人口調査ではブリヤート共和国などに3000人。サヤン山脈麓に住んでいた住民は、現在のトゥヴァも含めて、かつて、ソイオート人と言われることもあった(ロシア人からトゥヴァ人全体をソイオート人と呼ばれていたこともあった)。
 トゥマート・タイガ山脈とその北のオットゥク(炎の意)・タイガ山脈の間の広い高原や谷間にはウルック・オー川が流れている。延長は130キロもあり、トゥマート・タイガ山脈北麓から流れ、クィズィール市より120キロ上流でビー・ヘム(大エニセイ川)に合流する。上流はツンドラ沼地帯で、一昔前まで地質調査隊を悩ませていただろう。

 2つ目の峠を越えると、道はウルック・オー川の支流でもスィナーク川の上流に出る。高駆動車でないと通行できないような泥沼も所々あった。大きな車体のブルドーザーがゆっくり走るので、すり抜けてはどうしても追い越せず、長い間、後ろについて行った区間もあった。
 石の塔オヴァーがあったところは、たぶん峠だっただろう。登りも下りも悪路だった。もう名前を書いた標識も立ってない山川を渡り、雪解け時期には川底にもなる道路を通り、地下資源調査隊の小屋を通り過ぎて、進んでいくと、アカデミカ・オブルチェーヴァ山中には似合わないこぎれいなカフェが道路横の空地に立っている。険しい雪山を背景に『スィナーク』と書かれた立派な看板が出ていた。ちなみに、2006年のウルック・オー川ラフティング・グループのサイトには、「スィナークと言うトナカイ遊牧小屋があって、地元の肉料理や木の実を食べた」とある。スィナークと言うのは、トナカイの母親とヘラジカの父親から生まれた仔のことだそうだ。
 今見ると2階建てで立派な看板のあるカフェで、自分たちのトナカイや野生イノシシの肉、まわりの森や原野で採れた木の実のジュースなどと言うメニューもあって、この旅篭(ロシア人旅行者は『キャンピング』という)は、最も険しいスィナーク峠を越え、道中のちょうど中ごろにあるので、乗客や運転手はみんな一休みするらしい。(後記:トナカイ肉などと言うのはメニューに書いてあるだけ、注文してもないといわれる)
 キャンピング『スィナーク』を過ぎると、ウルク・オー川谷を遡る。コプトゥ川は南北に流れているので、アカデミカ・オブルチェーヴァ山中を北へ進むが、ウルク・オー川は東西に流れているので、東へ進む。矮小カバノキの薄紫色の茂みやトナカイゴケの薄緑の原っぱ、シベリア・マツの繁みなどの中を通って進んで行った。沼地帯もあった。路面は砂利を引いて硬くなっているが、道の両側の地面は柔らかいのでキャタピラの跡がくっきり残っている。こうなるとツンドラの植物が生えるのは何年もの時間がかかるそうだ(もし生えるとすれば)。
 3つ目のミュン峠は、まだウルック・オー川の最上流の左岸だが、峠からミュン・ホリ(ホリは湖)が遠く見晴らせるので、この通称ができたのだろうか。車を止めてくれたので外へ出て、しばらく眺めた。峠なので、オヴァーや、布切れチャラマを巻きつけた木もある。これまでの峠の中で一番立派なオヴァーだった。峠から見晴らす起伏がトッジャ盆地に違いない。遠くに見える湖を、地元の乗客の一人に、
「あれがトッジャ湖なの?」と聞いてしまった。ミュンだと、教えてくれたはずだが、よく聞き取れなかった。『ヴュリ』と聞こえたくらいだ。手帳につづりを書いてもらって確認できた。ミュン・ホリ(湖)は4.7平方キロくらいで、トッジャ湖は51.5平方キロもある。眼下にシベリアマツの森の樹冠が並び、その向こうに広い茶色の低地が伸び、青色の低い山々の峰が遠くまで広がっている。山岳ツンドラの遠景も素晴らしい。数年前まではトナカイ遊牧民だけの、近代文化の手の入らない大自然で、まさに『秘境』だった。
中国紫金礦業の子会社が開発利権を買ったクィズィール・タシュティック・ポリメタル(多種金属)鉱山
 以前は、クィズィール市とトッジャ郡のトーラ・ヘム村間の物資の輸送は、前述した通り、ビー・ヘム(大エニセイ川)の航行を利用していた。バヤロフカ村からのコプトゥ川を伝ってのアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈(特にそのうちのトゥマート山脈)越えをしていたのは、トナカイ遊牧の現地民でなければ、山師(探鉱師)と採金師だけだった。つまり地質調査員と手工業的金採掘者だけだった。ソ連時代になって、トゥヴァの各地に金や、石炭、コバルト、アスベクトだけでなく多くの地下資源が地質調査隊によって発見されている。ほとんどの埋蔵資源は、まだ眠ったままだ。眠らせてある。ウルック・ヘム炭田や、アク・ドゥヴラックのアスベクト、ホブ・アクスィのコバルトの他は、埋蔵量が多く開発に有利ではあっても、あまりに通行困難な場所のため『貯蔵・保存』状態のままだった。
 その一つがクィズィール・タシュティック(赤い岩石)鉱山だった。発見は1946年で、1952-1962年、1981-1988年と本格的調査がされ、亜鉛、鉛、銅や、金、銀、カドミウム、希土類などの埋蔵が確認された。それで、このアカデミカ・オブルチェーヴァ山脈の一角が『トゥヴァ発展』有力候補地の一つにはなっていたそうだ。しかし、交通の便があまりに悪く、90年代の不況もあって、採掘は実現しなかった。が、2006年、中国のZijin Mining Group紫金礦業集団(ズージン・マイニング・グループ)の子会社ルンシン Лунсинが、採掘権を買った。コプトゥ川に沿った道が、大型車や高駆動車なら通れるように整備されていることもうなずける。今では冬場でも泥濘期でも通行可能だ。道中、工事中の個所がいくつもあった。常時整備作業が行われているのだ。トゥマート・タイガ山脈を越え、ウルック・オー川谷の道路の脇のピートモス湿原や、ツンドラのコケ類が生えている低地にブルドーザーの太いタイヤ跡やキャタピラの跡があちこちにあることからも、この通路が猛烈に発展中だとわかる。高山ツンドラ地帯では、太い車輪やキャタピラで一度植物が枯れるとその後は何年も回復しないのに。
ロシア語と中国語の標識
(WWFのサイトから)
建設中の鉱山関係建物(同サイトから)

 夏の山岳ツンドラを一望できたミュン峠を過ぎるとすぐ『鉱山コンビナート直進11キロ トーラ・ヘム左折68キロ』とロシア語と中国語で書かれた標識が見える。だから、この道路はルンシン社のためのものだ。当然ルンシン社はトッジャ郡のインフラ整備の補助、例えば、地元のトナカイ遊牧や、『バヤロフカ〜トーラ・ヘム』の道路建設に補助金を出しているそうだ。
 しかし、WWF自然環境保護団体によると、『ビー・ヘム(大エニセイ川)の水源の一つアク・ヘム川上流のシベリアマツ地帯にできる中国籍ルンシン社による鉱山コンビナートは深刻な環境汚染をもたらす』と言う。数百ヘクタールの貴重なシベリアマツを切り倒し、精錬工場、社員住居、鉱滓(こうさい・スラグ)堆積場(ダム)などを作っているが、大量の排水がアク・ヘムへ流れると警告されている。ルンシン社は20年間の採掘権を得ている。2013年操業開始なので2033年まで採掘できるのだが、会社側は12年で完了してしまうとしているそうだ。コンビナート建設で中国からの作業員1100人がすでに働いているが、建設ゴミ、生活ごみなどは、アク・ヘム川上流に山積みされているだけだそうだ。数百ヘクタールの樹齢豊かなシベリアマツの森林地がすでに伐採され、住宅、採掘場、精錬工場等が建ち始めている。トゥヴァ側には、開発利権料の他、就職難の現地に雇用をもたらすはずだとある。社員の半分はトゥヴァ人、特に地元トッジャ出身と決められてはいるそうだ。しかし、現地人に技術的職業訓練をすると言う契約の方はあまり守られていないとか。別の識者によれば、先祖代々トナカイ遊牧をしていたトッジャ人には、鉱山業は気性に合わないから、職業訓練に応じないとか。 
 トッジャばかりか、エニセイ下流のハカシアやクラスノヤルスクにも悪い影響を与えると言われているのは、鉱滓(スラグ、尾鉱)堆積場だ。鉱滓ダムになっているが、そこにはカドミウムやアンチモンなどの有害物質が蓄積され、また、それら有害物質がダムから流出する危険もある。紫金礦業ズージン・マイニング・グループの各地での操業によって、すでに、中国各地やタジキスタン、ペルーなどで深刻な環境汚染が指摘されているが、解決はしていない。アク・ヘム川は、オー・ヘム川の41キロ上流に注ぎこむ延長30キロの山川。オー・ヘム川はビー・ヘム(大エニセイ川)の350キロ上流に注ぎこむ延長82キロの山川。ビー・ヘムはカー・ヘムとクィズィール市で合流してウルッグ・ヘムとなり、ウルッグ・ヘムは西サヤン山脈を越えて北上するとエニセイ川と呼ばれる。つまり汚染物質はハカシアやクラスノヤルスク地方を北上して北極海に注ぐ。洗練工場では大量の地下水を使うが、その廃水も、鉱滓(スラグ、尾鉱)堆積場とともに問題だ。仮に違反しても罰金の額は低く、会社にとって支払いは全く問題ない。(以上、同サイトによる)
 一方、別のサイトでは、クィズィール・タシュティック鉱脈は地表に出ていて、アク・ヘム川は鉱脈の直接上を流れている。昔からクィズィール・タシュティックは現地民(トゥヴァ・トッジャ人)に恐れられ、神聖な場所、近づいてはいけない場所とされていた。現地から10キロほどの川には魚もいない、河川汚染は天然のものであると書いてある。いや、1960年代にかなり大がかりの試掘調査をしたので、その結果、すでに汚染されていたのだ、と言う説もあるが。
 さらに別のサイトでは、ルンシン社は巨額な利益、また中国側は自分たちの鉱業に不可欠な金属を得る一方、ロシア側は採掘権料の他は、エニセイの流れの汚染、シベリアマツが伐採され醜い採掘場と深刻な環境破壊と言う取り返しのつかない膨大な損害を得る、とある。

 トッジャ郡は四方を山岳ツンドラに囲まれ、ツンドラ沼地高原と針葉樹林帯のトッジャ盆地にある。盆地は海抜800メートル前後で、盆地の底は草原と沼地が拡がる。森林資源は全トゥヴァ共和国の41%におよび、トッジャ郡の62%が森林で、そのうち97%が針葉樹林である、と公式サイトにある。針葉樹のうちでも、シベリアマツが54%、落葉松が30%だそうだ。

 『鉱山コンビナート直進11キロ トーラ・ヘム左折68キロ』とロシア語と中国語で書かれた標識の曲がり角では左折する。直進の11キロ先の鉱山コンビナートの方へは、もちろん行かなかったが、ルンシン社についてはウェブ・サイトには多くの写真が載っている。樹齢のいったシベリアマツの伐採。アク・ヘム川の低い段丘に、電線が張られ、地面が剥き出ている中、建設重機やブルーシートで覆われた機材。すでにかなり建設されている建物、入り口の中国語で書かれた立派な門の写真などだ。(後記 2013年7月クィズィール・タシュティク鉱山まで行く)
ミュン・ホリ(湖)、トッジャ郡の湖
 ロシア語と中国語併記の標識が出ていたのは、バヤロフカ村から100キロで4時間ほど行ったところだ。そこはまだトゥマート・タイガ山脈中だが、左折して北へ、オットゥク・タイガ山脈麓を通り、トーラ・ヘム村の方へ行くにはビー・ヘム(大エニセイ川)の沼地化した無数の支流を渡り、ミュン・ホリ(湖)の横を通らなければならない。だが、意外と道路はグレーダーでならしたように平坦で、ここからビー・ヘム(大エニセイ川)の渡し場までは1時間半もかからなかった。ぬかるみはあっても、あのフォルクスワーゲンでも通れそうなくらいやさしいものだった。
ミュン・ホリ(湖)

 時刻は8時近くなり、今まで走った悪路のためフロント・ガラスは泥はねだらけなので、助手席からの撮影も、出来は悪くなってきた。それでも、一応撮り続けてはいた。峠の上からは遠くに見えたミュン・ホリ(湖)の光る湖面も、近づいた木々の間から今度は長い間見えていた。正しくはモーン湖と言うらしい。なにしろ、地図に載っている現地語の地名は、大部分がソ連時代ロシア人地理学者が現地人の発音を(ロシア人の耳で)自己流に聞きとって記したものだから。
 湖面4.7平方キロ(山梨県山中湖は7平方キロ弱)ほどのミュン・ホリ(湖)の西岸を行くが、東岸のほうは高原ツンドラ湿地帯だ。その湿地帯はビー・ヘム左岸に接している。ミュン・ホリ(湖)から流れ出るミュン川(延長8キロ)は湿地帯の北辺を流れ、ビー・ヘムに注ぐが(クィズィール市より上流319キロで)、湿地帯の中をくねくね流れるセディステール・ミュンとかジュン・ミュンとか、ブルン・ミュンとかの川は皆ミュン・ホリ(湖)に注ぎこむ。湿地帯の中にはビー・ヘムの三日月湖も多い。これら何々ミュン川の流れる東岸(左岸)沼地帯が全部、ミュン・ホリ(湖)だったとすれば、トッジャ(アザス)湖(51.5平方キロ)くらいの大きさになるか(トッジャ湖も南岸と東岸は沼地だが)。
 トッジャ郡には4万個以上の大小の淡水湖があるそうだ。トッジャは、最も水系の豊かな地方だ。これらは皆、東西サヤン山脈やアカデミー・オブルチェーヴァ山脈から流れてビー・ヘムに合流する無数の支流の源か、その途中にある。つまり、トッジャ盆地(トッジャ郡)のすべての河川湖沼の水分はビー・ヘムに集まることになる。これは、トッジャ郡はビー・ヘムの流域に納まっていて、分水嶺の東サヤン山脈の向こうはイルクーツク州(ウダ川などの流域)とか、もうひとつの分水嶺の西サヤン山脈の向こうはクラスノヤルスク地方(アムィル川などの流域)とか、ブリヤート共和国(オカ川などの流域)になると言うことだ。(もっとも、ウダ川もアムィル川もオカ川もすべてエニセイ川の支流か2次支流だ。ビー・ヘムももちろんエニセイの源流のひとつだ)
 ちなみに、今回のトゥヴァ東北のトッジャ盆地の湖は前述のようにすべて流出口を持つので淡水なのだが、一方、草原地帯、たとえば、中部のトゥヴァ盆地や南部のウブスヌール盆地の湖は流出する川がなくて、たいがいは塩湖だ。濃度が高くて沈まないと言うドゥス・ホリ(湖)もトゥヴァ盆地、クィズィール市の45キロ南にある。
 1500から3000m級の山脈に囲まれたトッジャ盆地に流れる河川の水量はトゥヴァ共和国全体の25%だそうだ。
エーン・スク寺院とダルがン・ダグ遺跡
 道ができているミュン・ホリ(湖)の西岸へも、オットゥク・タイガ山脈からの山川が流れ込むが、ルンシン社の資金援助でか、橋もでき、道路標識も現れる。ビー・ヘムの左岸を通り北上すると、エーン・スクと言う延長29キロの川を渡る。この川の上流に『薬効ある(エーム)水(スク)』が湧きでている所があった。それで、エーン・スクと呼ばれるようになったそうだ。

 バヤルスク村から始まったこの荒削りな道は、シベリアマツなどの針葉樹林の中、幾つもの峠を越え、トナカイゴケや細い落葉松の生える山岳ツンドラ高原や、矮小白樺や矮小柳などの低い茂み、沼地帯を通り抜け、小さな川を幾つも渡って来た。スィナーク川近くには、珍しく人気(ひとけ)のある『キャンピング』があったが、『バヤロフカ〜トーラ・ヘム』道はほぼ、無人地帯を通る。途中に幾つか、かつての金採集業者か地質調査隊の仮小屋が道端に見えたが、無人だ。地図で見ると、猟師小屋も所々立っているが、道からは見えなかった、と思う。ミュン・ホリ(湖)の畔にも、地図によると元コルホーズの小屋があるらしいが、車からは気がつかなかった。人がいても現在は定住していない。しかし、目的地のトーラ・ヘム村まであと10キロほどのところでエーン・スク川(前述のように、スクはすでに水・川の意だから冗語)を渡るのだが、この川の左岸には、20世紀初め頃には、チベット仏教のトッジャ本山があったそうだ。
 チベット仏教は17世紀からトゥヴァの地で信仰されていたが、僻地のトッジャ郡には、なかなか広まらず、シャーマン信仰がここでは中心だった。記録によると、1815年、トッジャの地にも木造で小さなフレー хурээ修道院が、正式のチベット仏教建築様式にのっとって建った。成人のラマは70人くらい住んでいたと言う。彼らはフレーの外に家族と住む家を持っていたそうだ。地元の古老によると、初め、寺院はビー・ヘム右岸のトルブル川(クィズィール市から304キロ上流、ミュン湖の北)の畔にあった。しかし、ある偉大なラマが「ここに寺院があってはならない、なぜならトルブル山があるからだ」といったので、寺院はダルガン・ダク Дарган Дагに移った。ここはエーン・スグ(川)の右岸のダルガン・ダグ山(1302m)の斜面らしい。
 このダルガン・ダクに移った寺院で、疫病がはやり出し、ラマたちが次々に死んでいった。それで、モンゴルから学者ラマを呼んだ。「フレーはこのような場所にあるべきではない。もっと広々としたところに移さなければならない」と言う訳で、メスティーチコ・エーン・スクに三度目の寺院が建てられたそうだ。ソ連邦時代には、エーン・スク寺院は破壊され、ラマ僧たちは粛清されたが、ひそかに持ち出され隠されていた調度品などは、今、アザス区のアディル・ケジク村中学の博物館に保管されているそうだ。

 メスティーチコ・トルブルは地図で見つけたが、ダルガン・ダクの地名は見つけられない。実は、エーン・スク川がビー・ヘム(大エニセイ川)に注ぐ2.5キロ手前の、このダルガン・ダク山斜面と言うところで、直径10mから12m、高さ0.5mから2mの土盛りのクルガンが半冷凍状態で多数発見されている。互いにやや離れて5群に別れ100基以上ある。バヤロフカからトーラ・ヘム村までの道路建設中に発見され、そのうちでも1基のクルガンの真上を道路が通っていて建設重機で半ば破壊されてしまっていた。それで、2006年7月8月には工事が中止され、サンクト・ペテルブルクのアカデミー関係者やトゥヴァの考古学者グループが入って緊急発掘調査された。(エールベクのクルガン調査も、同アカデミーのセミョーノフ先生やキルノフスカヤ先生だ。トゥヴァの考古学調査は、サンクト・ペテルブルクのアカデミーが主導してやっている)。
キルノフスカヤ作成の資料から
ダルガン・ダグ5−1からの発掘物、
青銅製バックル
ダルガン・ダグ4(同資料から)

 ダルガン・ダグ遺跡は、前記のように、5か所の互いにやや離れたクルガン群からなっている。調査されたのは、道路が真上を通るので地上部はすでに破壊されかかっていた第5群の7基のうちの1基と、道路から50mほど離れた隣の第4群の5基のうちの1基だけだ。
 第5群クルガン1(ダルガン・ダグ5−1)は、スキタイ時代(紀元前8−前3世紀)のもので、外観を復元して直径15mだった。地中に5個の墓穴が認められ、地表99cmのところに6体以上の人骨があった。クルガンは古代にすでに1度ならず盗掘されているのだが、木製の矢の柄と銅製の矢じり、革袋の破片を付けた青銅製の輪(クリップ)、青銅器具の一部、青銅製イヤリングの一部の他に、向かい合ったグリフォンが描かれた青銅のバックルなどが発掘された。人体は25歳くらいの女性、45歳くらいの男性、15から18歳らしい青年、左大腿骨先端に病態があり、第1脊椎が頭がい骨の方へ突き出て、平坦な顔、狭い額の30歳くらいの男性、及び、中年の男女の6体が確認されている。
 第4群クルガンのほうも、5基の中で道路に最も近い一基が調査された。土盛のクルガンが多い中、それは石で覆われていて、外観を復元すると4x5mの楕円形だった。中央には1mから50cmの穴が正方形の頂点のように4個あった(4本の柱跡)。底には鉄製のバックルや刃、ペンダントの様なものがあった。キルギス時代(8−9世紀)の建物跡のようだった。

(2006年の記事ではダルガン・ダクで寺院跡を発見したと書かれている。4本の木製の柱跡、鉄製の装具、軍旗(?)、火葬の跡などとある、http://www.pravda.ru/science/mysterious/past/11-08-2006/193507-tuva-0/?mode=print)。

 1910年英国の有名な旅行者カルテルスがトッジャを訪れ、『知られざるモンゴル』と言う旅行記を残している。彼はエーン・スクを訪れ、『ウリャンハイ人も多く住む、全く便利なところで、この地方の宗教の中心地』に、『中国様式とロシア様式が見事に調和したオヴゴン・フレー(寺院)』が建っていて、まわりには僧侶たちが住む木造の家がある。また、ノヤン(コジューン・郡など地方の支配者)の邸宅が建っている、と書いている。1930年代まで、トッジャ郡の行政中心地はエーン・スクだった。しかし、今、エーン・スク周辺をいく『バヤロフカ〜トーラ・ヘム道』の周囲は無人だ。

 薄暗くなってから到着、
ビー・ヘム(大エニセイ川)の渡し場
 エーン・スク川から10キロほどビー・ヘム下流に行くと、トーラ・ヘム村への渡し場に出る。アカデミカ・オブルチェーヴァ山脈を超えてからはずっとビー・ヘムの左岸を下って来たのだが、トッジャ郡では行政中心地トーラ・ヘム村を含めて6つの村はすべてビー・ヘムの右岸にある。
 渡し場の川幅は、さすがビー・ヘムだけあって広く、小型トラックなら2台ほどは乗れる渡し船が、太いローブを伝って運航している。私たちのウアズ(ワズ)が川岸についてみると、もう先着のトラックが3台ほどは待っていた。車を乗せるのも下ろすのも慎重にしなければいけないので、一往復には10分以上はかかる。冬ならば、氷が張るので氷上路となるようだが、アーカイブのニュースによると毎年何台かは、氷に埋まってしまうとある。引き出されることもあるが、来春の解氷まで待ちましょうと言うこともあるそうだ。今、9月初めの川は穏やかに流れていて、薄暗い中、川に腰までつかって釣りをしている人もいる。
 渡し船には真ん中にロシアの国旗が上がっていた。ビー・ヘム右岸についたのは8時半頃で、すっかり暗くなっていた。この渡し場の少し下流にトッジャ(アザス)湖から流れてきたトーラ・ヘム川が合流する。
 トーラ・ヘム村はトーラ・ヘム川の右岸にあるので、私たちのウアズはトーラ・ヘム川も渡らなくてはならない。だが、こちらの方には木造だが2車線もの立派な橋がかかっていた。今、渡し船で渡ったビー・ヘムにも、ルンシン社が資金援助して橋ができるそうだ。ちなみにルンシン社はトーラ・ヘム村に設備の(それなりに)良い病院、幼稚園、学校などの建設も約束しているとある。
トッジャ郡のトーラ・ヘム村泊
 ビー・ヘム(大エニセイ川)に右岸支流トーラ・ヘム川が合流するところにあるトーラ・ヘム村に到着したのは、9時を過ぎていた。ここのホテルで1泊するはずだった。ウアズ(ワズ)は、客が降りたいところで止まってくれる。村の道路はひどくぬかるんでいた。ホテルだと言う木造の建物の前で止まり、アンドレイさんだけが降りて、受付に行った。5,6部屋しかないのだろうか、今日は満室だと言って戻ってきた。予約しておかなかったのは、「満室になるとは思わなかった」からだそうだ。たぶん通常は空室が多くても、出張族などの一団が来ると、すぐ満員になるのだろう。
 アンドレイさんには、この村に親戚があると言う。いとこの娘さん宅とかで、そちらへ向かってもらった。この家で、お茶や、地元のジャム、パンをご馳走になり、子沢山の家族の人懐こい女の子と話している間に、アンドレイさんたちは今夜の宿を決めてくれた。
玄関ポーチにバケツのある家が夏屋

 アンドレイさんのいとこの娘さんの家は狭くて、私たちを泊められないが、自分たちの親戚に今は使っていない夏屋(離れのようなもの、壁が薄くて厳寒には住めないらしい)があるそうだ。そこへ、アンドレイさんのいとこの娘さんの夫さんが車で送ってくれた。
 かなり広い敷地内に、菜園、薪小屋などの他に自分たちの家や夏屋があって、夏屋の方は丸木小屋で窓が2つとポーチ付きのドア、つまり玄関と、へやの中ほどに暖炉があるだけの一間だった。だが家の中は壁紙も張られ、床にはマットが敷かれ、カーテンもかかっていて、大きなベッドがペチカ(ロシア風暖炉)の横にあり、電源もあり、一応テレビもあり、この村のホテルよりも居心地がよさそうだ。トイレは外だ。水もないから、玄関ポーチにおいてくれたふた付きバケツ(樽のような形で、村人は共同井戸から水を運ぶ時使う)から柄杓で汲んで使う。家の中には持ち主の当座の不用品もたくさん置いてあったが、みんなきちんと隅にまとまっていた。後で、宿泊費は要りませんよ、と言われた。
6村からなるトッジャ郡のトゥヴァ・トッジャ人というサブ・エトノス
 トッジャ郡は、周りが高い山々に囲まれ、平地は沼地が多く、夏の気温は17度から40度にも上り、冬は零下18度から58度にも下がる。トゥヴァ共和国の北東部(山岳地帯)全体を占め、面積は共和国全体の26.2%、44,800平方キロ(北海道は83,500平方キロ)だが、人口は約6000人しかいなくて、その約半数が行政中心地トーラ・ヘム村(スモーン)に住む。トッジャ郡にはスモーン(村)はトーラ・ヘム(サルダム村を含んで3000人弱)の他にはアザス(1200人のアディル・ケジク村)、イイ(1200人)、スィストィク・ヘム(100人強) ゥイルバン(300人。この近くにチンギス・ハンの墓があると言う説もある)、チャズィラル(100人強。ハム・スラとも言う。それは、もと魚類の多いハム・スラ川畔に漁師のファクトリア(現地民との交易所)として1960年代にできたことから。チャズィラルとは森の中の開けたところの意)と全部で6個しかないが、『メスティーチコ местечко場・地点』といって、地図では『зим.(冬営地)』とか『лет.(夏営地)』とかがついている地名が全部で81か所ある(放置された営地もある、地図に載ってないのもあるだろう)。メスティーチコは定住地ではない。伝統的にトナカイ遊牧業や狩猟に従事していたので、定住の村は元々なくて、上記6個の村もロシア時代に(19世紀末からはロシア人の移住地として、20世紀のソ連時代は定住させ集団農業政策から)できたものらしい。
 一方、81か所の『メスティーチコ・場・営地』には皆名前があり、全ロシア行政分類地区名簿(租税資料)ОКАТОにも登録され(番号は皆同じだが)、郵便番号もある(ほとんど同じ番号)。こうした『場・営地・メスティーチコ』は、ロシア移民の多かったカー・ヘム(小エニセイ)郡やタンディ郡、クィズィール郡などにはないが、その他のトゥヴァの各地には多くある。ちなみに、ハカシア共和国にも、サハ共和国(ヤクーチア)にもないが、トッジャ郡の東側に接するブリヤート共和国のオキン郡には、メスティーチコの付く地点が多くあって、前述の全ロシア行政分類地区名簿にも載っている。そのオキン郡には先住の少数民族ソイオート人(約3500人)が住む。トッジャ郡の北東に接するイルクーツク州のニジネウディンスク区の東サヤン山麓にも、先住の少数民族トファ人(約700人)が住む。メスティーチコは、ここではトナカイ遊牧民の宿営地のことらしい。
 トナカイ遊牧は、南シベリアのサヤン山脈で紀元前から行われていたとされる。ここの山岳ツンドラ地帯と気候に似ている極北ツンドラ地帯に住むネネツ人(北方サモディーツ人)たちもトナカイ遊牧を行っているが、発祥地はサヤン山脈とされている(別説もある)。ソ連時代、トナカイ遊牧もコルホーズ化されていたが、ソ連崩壊後はトナカイ頭数も激減(1980年代は12,000頭以上、1996年は2,000頭)。2010年になって、先住少数民族の生活様式保護の政策によって復活しつつあるそうだ。
* サヤン山麓の少数民族(再掲)
 古代には、ウラル語族のサモディーツ(サモエード)人やエニセイ語族(古アジア人)のケット人(エニセイ語族に中で唯一残っている)などがサヤン山麓やエニセイ流域に広く住んでいたが、紀元後千年紀末ごろまでにはテュルク語化された。トゥヴァ盆地にいる草原サヤン人(トゥヴァ人)と山岳の針葉樹林帯サヤン人(トゥヴァ・トッジャ人)は、生活様式や言語が、歴史的な事情にもよってやや異なるらしい。さらにその後、一部サヤン人はモンゴル化もした。草原地帯はテュルク語のトゥヴァ人の馬牛羊など五畜の遊牧地で、山岳地帯はサモディーツ語が残る先住民(しかし、トゥヴァ・トッジャ語はトゥヴァ語の一方言と今はされている)のトナカイ遊牧地となっている。
1.アリグドジェル村 2.上グターラ村 3.オルリク村 4.ソロク村 5.トーラ・ヘム村 6.クングルトゥック村 (以下はトッジャ盆地の住民村ではないが  7.クラギノ町 8.アバカン市 9.クィズィール市)
代サモディーツ人の子孫と言われる少数民族
(トゥヴァ・トッジャ,トッファ,ソイオート,
ツァータン)たちが 住むサヤン山麓
 今、東サヤン山麓西のトゥヴァ共和国のトッジャ郡にはトゥヴァ・トッジャ人(自称トジュラール)が住んでいる。
 一方、山麓北東のイルクーツク州には前記メスティーチコを含めウダ川源流のアリグドジェル村やビリュサ川源流グターラ川上流の上グターラ村などにトッファ人(トファラール)が住む。トッファと言うのはトッファ語で人を意味する。ハム・スラ川中流のチャズィラル村(トッジャ郡の最東北)でもトッファ語方言が話されているそうだ。
 また、山麓東のブリヤート共和国にはオカ川上流のオキン郡のソラク村、オルリク村などにはソイオート人が住む。ソイオート人は2002年まではブリヤート人とされソイオート語は完全にブリヤート語化されていた。
 さらに、山麓南東のモンゴルにはダルハド盆地のツァーガン・ヌール(湖)岸や山岳地帯に住むツァータン人(トナカイ飼育者の意、自称ドゥーハ人、スーハ人、数百人)が先住少数民族リストに載っている。ちなみに、ダルハド盆地は、トゥヴァも含めて1912年まで清朝中国の(モンゴル)領土だった。ダルハト盆地も1914年には現トゥヴァを含むウリャンハイ地方の一部としてロシア帝国の保護領となった。1921年にはトゥヴァがタンヌ・トゥヴァ共和国として独立した時はその一部だった。しかし、1925年にはモンゴル人民共和国へ譲渡され、現在もモンゴル国で、トゥヴァ語系ツァターン語を話す少数民族が住む。350-400年前にソイオート人の一部がツァータン人と呼ばれるようになったとされている。
 トッジャもトッファもソイオートもツァータンもトゥヴァ語のグループに入るが、トッジャはウリャンハイ地方の一部として清朝中国の領土であり、トッファは17世紀の早くからロシア帝国(モスクワ公国の後身)のイルクーツク州の一部であり、ソイオート人はモンゴル化してブリヤートとされていた。ツァータンは清朝時代、ロシア帝国保護領時代、独立タンヌ・トゥヴァ時代、1925年以後モンゴル領と所属が点々としてきた。

 トッジャ郡に主に住むトゥヴァ・トッジャ人が、トゥヴァ中央のトゥヴァ人と特別に区別して、サブ・エトノスとして登録されるようになったのは1994年からだ。(先住少数民族として登録されると、言語や生活様式などが保護される。補助金もでるル)。ちなみに、トゥヴァ共和国には、東北のトッジャ人だけでなく、中央や西、南に住むトゥヴァ人も生活様式や言語が少しずつ異なるそうだ。中央方言、西部方言、南部方言と言われる。少なくとも東部(カー・ヘム流域やトッジャ地方のビー・ヘム流域)と、中部・西部はかなり異なるらしい。ちなみに、1990年代(ソ連邦崩壊前後)トゥヴァ人とロシア人の民族紛争が先鋭化したのは人口の多い中部・西部で、過疎地の東部は平穏だったそうだ。
 歴史的には、南シベリア針葉樹林山岳地帯とエニセイ上流の住人は、他称ウリャンハイ人と呼ばれていた。その前はドゥファ(トゥファ)と呼ばれたらしい。

 ちなみに現在ウリャンハイ(モンゴル語ではウリアンハイ)人とは、1万人強のモンゴル語ウリャンハイ方言を話すアルタイ・ウリャンハイ人、約3000人のフブスグール・ウリャンハイ人や、テュルク語のツァータン・ソイオート方言のツァータン(ウイグロ・ウリャンハイ)人、モンチャク・ウリャンハイ人(トゥヴァからモンゴルや中国に移住してきた)などを指す。

 2002年、トゥヴァ・トッジャ人は約4500人で、トッジャ郡のアザス地区やイイ地区に各千人余、スィストィク・ヘム地区やチャズィラル(ハム・スラ)地区に各数百人、トッジャ郡以外のトゥヴァ・トッジャ人はトゥヴァ東部のテレ・ホレ郡のクングルトゥックに1700人余登録されている。地区外(メスティーチコなど)にも200人ほどいるそうだ。トッジャ郡の全人口は六千人余で、住民の半数は先住トッジャ人だ。ロシア人は1000人弱で郡全体の人口の10%以下。
 
 サヤン山麓の先住民は、当然のことながら、サモディーツ人ばかりではなかったらしい。ビー・ヘム(大エニセイ川)の右岸大支流ハム・スィラ川(325キロ)の最上流の支流でイルクーツク州境の分水嶺から流れてくるドドト川(118キロ)は、その名称がエニセイ語族(現在はケット語のみ)からきているそうだ。事実トゥヴァ・トッジャ人は古代サモディーツ人・ケット人・テュルク人の子孫とされている。

 トーラ・ヘム村は、トッジャ郡の他の定住点のように、19世紀末ロシアからの古儀式派の人たちが住んだのが始まりだが、古儀式派たちは、後に、カー・ヘム(小エニセイ川)沿いのシジム村やエルジェイ村に移っていった。トーラ・ヘム村にあるオベリスクには『トーラ・ヘム1893』とある。ちなみに、山川だったビー・ヘム(大エニセイ川)が『ここだけは穏やかに流れる』と言われるトーラ・ヘム川の合流する辺は、トナカイ遊牧の冬営地などのできる場所だったらしい。ビー・ヘム谷(つまりトッジャ盆地、標高790から840m)の中でも、住みやすい場所だったのだ。
 トッジャ郡は20世紀には、砂金採掘地のほかは、ロシア人の植民は進まなかった。(全トゥヴァではロシア人の人口が1910年は2,100人、1919年には12,000人で全人口の20%にもなっていた。1959年には70万人で全人口の40%だった。2010年は16%で5万人)
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