クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 18 April, 2013  (校正・追記:2013年5月29日,2014年12月16日,2016年6月30日,2018年10月31日,2019年12月8日、2021年10月11日、2022年12月9日) 
30−(11)  トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年
      (11)ヘムチック盆地、シャラボリノ岩画
             2012年9月3日から9月14日(のうちの9月13,14日

Путешествие по Тыве 2012 года(03.09.2012-14.09.2012)

1) トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 トッジャ地方を含めた予定を立てる
2)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ハカシア水没クルガン チェルノゴルスク市泊
3)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
4)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミー(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
5)9/6 トゥヴァ北東部略地図 小エニセイ川へ トゥヴァの行政区コジューン ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 震源地小エニセイ川中流の村々 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る
6)9/6 3つの峠越え、トゥマート山脈 中国の紫金鉱業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人
7)9/7 トーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
8)9/8.9 緑の湖 アザス湖を望む ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 ウルック・オー谷
9)9/10.11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラク(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
10)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村  アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
11)9/13.14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画

Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、ロシア語の転記は Тува または Тыва で『トゥヴァ』『トィヴァ』となる。当サイトではロシア語転記に従って地名などを表記した。

  トゥヴァ盆地を西進する
 出発点クィズィール市は(1)の川上
1.エスチ・エレゲスト 2.ホブ・アクスィ 3.アク・タール 4.シャガナール 5.チャダン 6.新チャー・ホリ 7.バズィン・アラーク 8.クィズィール・マジャルィク 9.アク・ドゥヴラック 10.アク・スク峠 11.エンゲ・ベリディル 12.『ユキヒョウ』 13.大オン 14.旧オナ関所 15.クバイカ 16.アバザ 17.アラダン 18.トゥラン 19.アルジャン 20.テエリ 21.アルバトィ 
青字は川、赤字の共和国道161号線はクィズィールから20まで、162号線は9から16まで。赤字の54は連邦道
 西回りの道をとる
 9月13日(木)出発の日の朝、アンドレイさんへの謝礼は初めの約束の1万ルーブルを8千ルーブルにして、ネルリさんと割り勘にする。8日間のトゥヴァ滞在中、ずっと案内をしてくれると言うことだったが最後の2日間は朝から連絡がつかなかったから勝手に値引きしたのだ。その8千ルーブルを渡そうにも、電話が通じない。息子さんのオルランには通じたので来てもらって渡す。気が利くオルラン君はお返しにトゥヴァのお土産品をくれた。
1.クィズィール
2.アク・ドヴラク 
3.アバザ 4.アバカン 
5.チェルノゴルスク
6.ミヌシンスク
7.クラギノ 
8.シャラバリノ
9.イリインカ
10.クスクン
11.クラスノヤルスク
  黒線は鉄道、
  赤線は自動車道

 宿を引き払って出発したのは10時半と言う遅い時間だった。パーシャは10日前に来た道を戻ろうと連邦道54号線の方へ行く。実は、昨夜、西回りのアク・ドヴラック経由でアバカン(ハカシア共和国)へ行こうとネルリさんと決めていたのだ。だから、エニセイの橋を渡かけた時、
「パーシャ、こっちじゃないよ、ほら昨日と同じシャガナールの方向だよ」と二人で言う。地図を見せてくれと言うので、トゥヴァの全地図を見せる(パーシャは地理を知らなすぎる)。
「ほら、この162号線をアク・ドヴラックまで行って、161号線をアバカンまで行くのよ」
「アバカンはこの地図でどの辺になる?」と聞くので
「ほら、ここ」と地図の欄外を指さす(トゥヴァのみの地図だったので)。アバカンからサヤン山脈を越えてクィズィール(クズル)市へ行くには連邦道54号線を行くコースと、共和国道161号線からアク・ドヴラックを通り162を通っていく道のりとあるので、『サヤンリンク』旅行会社なんかは、行きと帰りを別の道にしている。私の指差したアバカンの場所は、本当はかなり東にずれていた。だから、西回りのアク・ドヴラック経由の方がむしろアバカンには近くに見えたのか、サーシャは承知して、ウルッグ・ヘム(エニセイ川)左岸の162号線の西回りコースを進んでくれた。
 しかし、実際は、東周りの54号線なら380キロ、西回りのアク・ドヴラック経由で162号線と161号線でアバカンまで行くと728キロもあるのだ。私としては、その時は、来た道とちがう景色を見ながら帰る方がいいと思っただけだ。それにチャダンのウストゥー(上の)・フレー(ラマ教寺院・修道院)に寄り、ヘムチック盆地も見て、サヤン峠越えもしたい。
 パーシャが私たちから言われてとった道は、トッジャからクィズィール市に戻って3日間、毎日通る共和国道162号線だ。前日はウスチ・エレゲストを過ぎて山手に曲がりタンヌ・オラ山中へ、その前は、100キロほどのシャガナール市まで行き、そのまた前日はシャガナールまで行こうとしたが途中のイイ・タール村まで行ったのだ。この日はシャガナールも過ぎて、700キロ以上かなたのアバカンまで行かなくてはならない。途中220キロのチャダンのウストゥー・フレーに寄ろう。

 共和国道162号線はシャガナールを過ぎると北西に流れるウルック・ヘムを離れ、ヘムチック川中流のアク・ドゥヴラックへ向かう。昔の主要道は、ウルッグ・ヘムを離れることなく左岸を進んで行った。古代チュルク時代もそうだったし、スキタイ時代も青銅器時代も、もしかして新石器時代もそうだったに違いない。この川岸近くに遺跡が集中してある。19世紀末から20世紀初めは、シャガナールより30キロ下流のウルッグ・ヘム左岸のチャー・ホリ村がウリャンハイ地方の商業の中心地だった。ロシア帝国がトゥヴァを保護国とした時には、行政中心地を、チャー・ホリに置こうとしたくらいだ。だが、ベロツァールスクと当時名付けられた今のクィズィール市がビー・ヘム(大エニセイ川)とカー・ヘム(小エニセイ川)の合流点に建設され首都となった。
7本幹落葉樹とその向こうの仏塔
仏塔裏の丘から望む
 当時20世紀初め、チャー・ホリはジャクリと呼ばれていて、これは中国商人が名付けたらしい(チャー・ホリを中国語風に発音)。ジャクリは当時トゥヴァ人の多くが住んでいたヘムチック盆地の入り口にあり、また、ロシア商人が冬凍ったエニセイを遡ってきたところにある。つまり当時は、シベリアとモンゴルの合流点だった。ロシア商人や中国商人の数軒の家の周りにソイオート(当時のトゥヴァ人の呼び方)のユルタが建っていたそうだ。
 1970年代、サヤノ・シューシェンスカヤ発電所ダムに水没するため、チャー・ホリは、ウルック・ヘムに合流してくる川のもっと上流に新チャー・ホリ村ができた(人口3000人余)。(後記:2016年、渇水期にチャー・ホリ村からダム湖の方へ行く)。実は、サヤノ・シューシェンスカヤ・ダムで水没したのは古いジャクリ村だけではなく、ウルッグ・ヘム(エニセイ川)川岸近くにあった貴重な遺跡、特にムグール・サルゴンなどの岩画も水面下になった。そのうちのいくつかの岩画は、クィズィール市の大学に移動された。
 オルラン君が、岩画を見たいなら、ここへ行けばいいと教えてくれたところだ。ダム湖の水位が低い時は見られるそうだ。
 共和国道162号線から右折して新チャー・ホリ村までは舗装道がある。しかし、私たちは共和国道162号線を先に進み、ウルッグ・ヘムから遠ざかり、ヘムチック盆地へ進んだ。ヘムチック盆地はトゥヴァ盆地の一部、西半分ともいえる。ヘムチック川はウルッグ・ヘムの左岸支流で、タンヌ・オラ山脈北斜面からや、アルタイ山脈東斜面からの多くの支流がほぼ北上して集まってくる320キロの大河だ。
 ヘムチック盆地にはチャダン市や、アク・ドヴラック市がある。
 チャダンまで31キロというところに、『サヤン・リンク』社などのコースでは、一休みする仏塔のある広場がある。そこに仏塔が立っているのは、1つの根から7本の幹の出ている神聖な落葉松が生えているからだ。『聖7人姉妹』と言う。仏塔は広場の奥にある小山の前に建てられている。小山の上にも、『聖7人姉妹』落葉樹のまわりにも、チャラマやオヴァーが張ってある。小山に上ると、岩の上に人形のお供え物があって、そこからは仏塔とチャラマを張った神聖な落葉松と、少し向こうに今まで通ってきた道路が見える。元気な落葉松も一面に生え、遠くには岩肌の出ている山。足元には『ウサギのキャベツ』と言う草。
 ここで30分程休んで食事をした。2004年に来た時ほどゴミがなかったが、7本の落葉松の幹のうち、生きているのは2本だけになっていた。
 共和国道162号線沿いにも、クルガンが至る所残っているはずだが、気がつかなかった。草原に張ってあるユルタの方が目を引いた。何とか招き入れてほしいものだとは思ったが。
 チャダン(トゥヴァ語ではチャダーナ)の寺院
 チャダン市の手前でウストゥー・フレー(上手の寺院)への曲がり角を見つける。地図を見ていた私は、この辺でチャダン川上流方向に曲がる(エニセイ川の反対方向)とわかるし、曲がり角には立派な標識『バズィン・アラーク13キロ、ウストゥー・フレー5.2キロ』も立っている。クラスノヤルスク地方にしても、トゥヴァにしても、宗教関係設備の復興はかなり早い。ウストゥー・フレー寺院は2008年新築工事が始まり、もう完成しているかもしれない。
旧寺院の廃墟、中央写真はダライ・ラマ
敷地内のラマたちの住居や仏塔
新築大寺院内部
完成模型(ガラスケース内に展示)
僧オンダールさんと新築寺院

 ちなみに、バズィン・アラーク村には、ウイグルの城塞跡があったと考古学のテキストにある。シャガナール城塞のようにほとんど跡形もなくなっているのかどうか、今回は、確かめなかったが。
 『ウストゥー・フレー 右』と言う標識がすぐ表れた。トゥヴァで最も大規模なチベット仏教寺院ウストゥー・フレーはこの場所に20世紀初めにコジューン(当時トゥヴァには4個あった区)の支配者によって建てられたのだ。1930年トゥヴァ人民共和国政府は、ウストゥー・フレーを閉鎖し、1937年には、ソ連邦内の多くの宗教施設と同様建物の破壊を決定した。しかし、ウストゥー・フレーは完全には破壊できず、当時の製法で、きりわらなどを混ぜた厚く高い壁は残った。ラマ僧たちは銃殺されたそうだ。ソ連崩壊後の1999年になり、復興が決定、ウストゥー・フレーの名をあげ、復興資金を集めるためチャリティー民族音楽祭が毎年その場所で開かれることになった。この民族音楽会の方が寺院より有名なくらいだ。お祭りの方が面白い。
 トゥヴァの『現代の英雄』セルゲイ・ショイグ(1994-2012年の長きにわたってロシア非常事態相、2012-ロシア連邦国防相)の支持もあり、2008年に着工、2012年完成したそうだ。新寺院は半破壊された20世紀初めの寺院を修理する形ではなく、少し離れて新たに建てられた。だから、トゥヴァ自慢の新築の寺院と、それなりの趣のある廃墟になった寺院の両方で拝観できるのだ。
 廃墟の方は天井もなく、中には草も生えているが、幾重にもチャラマに囲まれてダライ・マラの大きな写真が飾ってある。粘土の壁の隙間には、御祈り(お願い)を書いた紙やコインが至る所挟んであった。ネルリさんによるとエルサレムの嘆きの壁もそうだとか。
 広い敷地に、4年前に来た時にはユルタの仮寺院の他に、ラマ僧たちのフェルトの住居ユルタや仏塔があったが、今は木造の小屋が点々と建っている。

 敷地内の木造の平屋の一軒から赤い服を着た僧侶が一人出てきたので、話をしようと近づいて行く。日本から来たのだと言って、また遠い日本を強調する。話の相手にはなってくれたが、チベット仏教について教えてもらえるほどの会話はできなかった。私はロシア語での質問を必死に考えた。僧侶になったのは人々を助けるためだ、という答えも得た。私のロシア語がわからないこともあるし、彼のロシア語が分からないこともある。トゥヴァ人の中には、クィズィール市の博物館のオーリャのようにほとんどロシア人のようにロシア語を話す人もいれば、全く話せない人もいる。ラマ僧と話せるというこの機会をとらえて、生の声を聞きたいものだと思ったが。
 新築寺院を案内してもらった。何体もの小さな仏像が安置してあったが、名前は知らないそうだ。お賽銭箱にルーブル紙幣を入れる。お供え物のお菓子の深皿があり、食べてくださいと言われる。チベット仏教で最も尊い言葉は、その僧も『オン・マニ・パド・メー・フン』だと、私の手帳に書いてくれた。ドゥゲー山にある観世音菩薩の慈悲を表現した真言の観音六字と同じだ。
 寺院の中にはウストゥー・フレー完成模型もケースに入れて飾ってあった。模型では正門、廃墟の旧寺院、この大寺院の他、僧やラマたちの住居、食堂、事務所、畑、干し草置場、ゴミ置き場、発電設備、井戸、ホテル、迎賓館、ユルタ寺院(移動式か)、地域の子供たちの学校や、ラマ教の神学校、経典実習所、自習所、施療所、仏塔、菜園、浴場などの建物がチャダン川右岸に建てられることになっている。
 私たちを案内してくれた僧侶はオンダールさんというそうだ(モングーシュさん同様、よくある姓だ)。日本の寺院は、これより大きいかと何度も尋ねていた。建物の高さ20mと言う。日本で名のある寺院は、たぶんウストゥー・フレーより大きい。普通の町中のお寺の御堂も、かなり広いものだ。
 40分ほど、ウストゥー・フレーにいた。オンダールさんには自分のメール・アドレスはない。私のメール・アドレスをメモした紙片を快く受け取ってくれたが、文通ができるとは思ってはいない。
 ヘムチック盆地
 チャダン市の共和国道162号線沿いにはもうひとつ寺院がある。アルディ(下の)・フレー(寺院・修道院)という。それは外から眺めた。形はクィズィール(クズル)市のフレーと同じで、正面から2階に上る階段があり、2階が本殿となっている形だ。こちらは1870年代からあって、ウストゥー・フレーより古い。
 チャダン市は古い集落だ。1870年大ロシアの商人によって、現地民との取引所ファクトリア(ヨーロッパ人から見て現地商館)としてできたそうだ。
チャダン市『アルディ・フレー』
家畜の大群は砂煙をあげ、延々と続いていた
ヘムチック盆地に張ってあったユルタ

 ロシアの道路ではよくあることだが、アルディ・フレーの近くで交通警察に止められ、長い間パーシャが調べられていた。待っている間、クラスノヤルスクのナースチャに電話して、この先、クラスノヤルスクに戻ってからセーヴェロ・エニセイスクへ行く計画のことを話した。
 3時半ごろ、道端のカフェでお昼もすませ、トゥヴァ盆地の西半分に当たるヘムチック流域盆地を、羊や馬の群れを見ながら走っていたのは、4時半も過ぎてしまっていた。牛の大群がゆっくり道を渡ると、その間、最後の牛が渡りきるまで待っている。ヘムチック川沿いには集落はあるが、川岸を離れ、アク・ドゥヴラックに向かう共和国道162号線にはほとんどなくて、道はただ草原丘陵の中を走り、時々見えるのは家畜の群れとユルタだけだ。

 クィズィール・マジャルィク(赤い丘の意)村を通る。5000人のかなり大きな村でバルーン・ヘムチック郡(コジューン)の中心だ。チャダン市がヘムチック盆地の入口の中心だとすれば、クィズィール・マジャルィク村は、新興アク・ドゥヴラック鉱山町をのぞけば、盆地の奥の中心と言えるかもしれない。バルーン・ヘムチック郡は平方キロに5人と言うトゥヴァでは最も人口密度の多い地方で、大部分がトゥヴァ人だ。古代から人口密度が多かったに違いない。アルタイ山脈の東斜面(支脈なのでシャプシャリ山脈と言う名もある)から320キロもほぼ北へ流れてウルッグ・ヘム(エニセイ川)に合流するヘムチック川は、ウルッグ・ヘムの『弟』とトゥヴァ人はみなしている。左岸右岸に多くの立派な支流があり、その支流にも大きな支流が合流してくる。右岸支流で134キロのバルルィク川も流域が広い。そして、ヘムチック盆地には実に多くの遺跡があり、一部はクィズィール・マジャルィク村の郷土博物館などに保管されているそうだ。また『チンギスカン像』と地元の人々から呼ばれている石像は、見つかったところに立っている。ウイグルの城塞を結ぶウルッグ・ヘム(エニセイ川)南岸を行く、(だからにチャー・ホリ川流域もいく)古代の道が『ジンギスカンの道』と呼ばれているように、この戦士の石像も13世紀のジンギスカンよりずっと古い8世紀ぐらいの古代チュルク(突厥)か、ウイグルの時代のものだが『チンギスカン』の名がある。何でも立派そうなものはこの名をつけるようだ。このチンギスカン像はトゥヴァ観光の表紙になるくらい有名で、2004年の旅行時にも、草原の中に立っているのを見た。今回もできたら訪れたかったが、クィズィール・マジャルィク村から南へ10キロ以上行って、草原の中で探さなくてはならない。5時半になっていたし、クィズィール(クズル)市から300キロは来たが、アバカンまではサヤン山脈を越え、まだ400キロ以上はあるので、先を急ぐことにした。ヘムチック盆地はもっとゆっくり見るために再訪しなければならない。(追記・2013年と2014年に訪れた)
 アスベクトのアク・ドヴラック市
 クィズィール・マジャルィク村から4キロほどでアク・ドヴラック市だが、共和国道162号線は市を迂回して、さらに40キロのテーリ村まで通じている。だが、北のアバカンへ行くには、アク・ドヴラックで、共和国道161号線にのる。『白い土(石)』の意のアク・ドヴラックはアスベクト鉱山城下町だ。ヘムチック左岸から4キロほどのカラ・ダッシ山にロシア人移民がアスベクトを見つけたのは19世紀末。しかし、地元のトゥヴァ人は、もちろん古くから知っていて、『山の羊毛(のような繊維)』といって、暖炉の部品などに使っていたそうだ。当時のその地方の支配者からアスベクト採掘の利権を買おうとしたのはポーランドの技師だったが、不成功。結局はロシアの企業家イヴァニツキィが1912年に大金で買ったそうだが、革命の政権交代のため、採掘は成らなかった。1932年トゥヴァ政府の『要請』によりソ連政府が調査、1950年代には鉱山開発のため、『コパイ(掘れという意)』村ができ、1964年には(改名して)アク・ドヴラック市になった。ソ連邦崩壊前の1989年ごろは1万5千人のトゥヴァ第2の大都市だった。また、1990年には、ホブ・アクスィ同様大規模な民族紛争が起きたそうだ。
アスベクト露天掘りの白くなっている山
拾ってきてしまった『山の羊毛』石

 アク・ドヴラック市を迂回して共和国道161号線に出ると、草原の中に異様に白いカラ・ダッシ山が見える。アスベクトは露天掘りで採掘している。蛇紋石系クリソタイル(温石綿、白石綿)と言う最も上質の石綿で、ソ連邦内唯一の鉱山なのだそうだ。2008年に来た時も同じ道を通った。その時、石綿が有害であることを同行者に言ったが、そんなことは知らない、石綿は有益な鉱物だ、と反対された。今回は、もう、ネルリさんたちは有害さを知ってはいた。が、このアスベスト城下町の住民や、採掘に直接携わっている人たちの健康はどうなのだろう。コバルトのホブ・アクスィ村と同様、ロシアの技術と労働でできた町で、ホブ・アクスィの方は工場が閉鎖されたため大部分のロシア人は去って、今の人口は1989年の3分の2くらいだが、アク・ドゥヴラックの方は工場が稼働しているので、人口減少は少ない。ちなみに、トゥヴァ全体では2010年のロシア人の人口は1989年の半分の5万人。トゥヴァ人は1.5倍増加。
 アスベクトを運搬するために、アク・ドヴラックからアバザまで、何本もの急流の山川を渡り、険しい永久凍土の峠を越え、原始林を通り、今の共和国道161号線となる300キロにわたる道路建設が始まったのは、だから採掘が始まってすぐの1961年だそうだ。アバザはハカシア共和国にあり、シベリア幹線鉄道の支線がここまで来ている。アク・ドゥヴラックからアバザまで集落らしいものはない。そして自然は美しい。
 白い山肌のカラ・ダッシュ山を過ぎて30分も草原盆地を行くと、行く手に次第に高い山が見えてくる。道は、ヘムチックの左岸支流アラーシ川(172キロ、『青い』の意)を渡り、しばらく丘陵草原地帯を行く。ここにもユルタを張っている草原がいくつかあった。アラーシ川河岸にも張ってある。車を降りて一休みすると、珍しい石を探すのが大好きなネルリさんは、はやくも繊維の見える石を探し出す。石綿ってこんな風に石ころの中に入っているのか。あまりに珍しかったので、記念にひとかけら持って帰ってしまった。
 西サヤン峠
 道はアラーシ川を離れ坂道を上り、峠に出ると、眼下にアク・スク川(160キロ)の流れが見える。高度1000mほどだが、アク・スク垰と言って、チャラマも貼ってあり、困難だった道路建設の碑も立っている。山川アク・スクは、ここからはかなり広い谷間を作って流れていて、下流域は灌漑農業が発達しているそうだ。2008年に通った時も同じ峠からアク・スク谷を眺め、感心したものだ。
アラーシュ川の対岸で見かけたユルタ
かつての『前衛』村か。 今は無人となって
いるが、ユルタが張ってあって家畜もいる。

 この峠で越した方が、アク・ドヴラックからアラッシュ川を渡ってアク・スク川岸に出られ、さらにアク・スクを遡ってサヤン山脈を越える道路を造ればいいと、161号線の設計者は考えたのだろうか。161号線は確かに大胆な近道だと思う。昔、アバザの鉄山も、アク・ドゥヴラックのアスベクト山も近代的採掘をしていなかった時代は、ハカシア盆地とトゥヴァ盆地とを結ぶサヤン山脈越えの西側の道は、アルバトィ村からジェバッシ川を渡っていたとも聞いたことがある(ジェバッシ川岸のタムガ・岩画)。その頃は、車輪の通れる道ではなく、せいぜい馬の道、遊牧の道だった。(8世紀、突厥軍がエニセイ・キルギスを攻めるときも、このジェバッシ川ルートだったらしい)
 アク・スク垰を超え、アク・スク川の岸辺に出ると、道はこの先、穏やかなアク・スク谷を上っていく。古代遺跡もありそうだ。時々、ユルタが見える。アラーシ川とアク・スク川を分けるクィズィール・タイガ山脈の奥に入ってくると、深いアク・スク川にかかった橋を何度か渡って、西サヤン山脈を越える峠に向かっていく。谷の少し開けたところには昔ペレドボイ(前衛)村、今はエンゲ・ベリディルと言う集落があるが、無人と言うことになっている。が、数張りのユルタと家畜の群れが見え、その近くには、交通警察の詰め所もあった。トゥヴァからの大麻の密輸阻止のためだと聞いたことがある。
 ここを過ぎると、高い山に囲まれた草原谷間があり、ここにも、ユルタと家畜の囲い場のある夏営地があった。こんな高いところにまで遊牧してくるのだ。近年トラックで移動しているから、夏営地といえども4輪車の通れるところにしか張らない。そのユルタを最後に、もう人の気配は消え、両側のそびえる山の間、送電線と並んで道は続く。高度を増し、やがて、落葉松しか見えなくなり、薄紫の針山のような背丈は50センチほどの矮小カバノキの繁(ィヨールニックЕрник またはЁрникとも言うそうだが、矮小柳かもしれない)の広がりが見え始め、山岳ツンドラに差し掛かかっているとわかる。へこみには沼のような池がある。
 石と苔しか見えなくなった頃、2214mの西サヤン峠(ソーティ峠とも言うそうだ)に差し掛かる。ここは国境であり、2214mと言うのはトゥヴァからハカシアに向かう標識に書いてある数字で、ハカシアからトゥヴァに向かう標識には2206mとなっている。測り方の違いだろうか。急いでいても、ここでは車を降りて、寒さと強風に震えながらでも、ほとんど木の生えていない周囲の山々や谷間を見回したい。トナカイゴケにもそっと触りたい。

 少し峠を下ったところに、ハカシアとトゥヴァの旗が経ち『東の偉大な文化の後継者たち…』と言うようなわかりにくい文字の看板があった。ネルリさんによるとラマ僧の庵があるそうだ。帰国後調べてみると、その白いラマは、神学修士で、普段はモスクワに住んでいるが、夏中は、庵に弟子が住んでいるとある。
 オン川、オナ川
 舗装道が続く。夕方7時半も回っていたが、まだ明るい。だが、もう、動く車の窓からは写真は流れて映りは悪くなった。クィズィール市からアバカン市へこのルートで観光しながら1日で行こうとすると、トゥヴァ盆地をゆっくり西進してしまって、サヤン峠の辺りで薄暗くなってしまうものだ。
 西サヤン峠を越えると、ヘムチック川のすべての支流は姿を消し、アバカン川の上流支流が現れる。まず橋があるのはボリショイ(大)・オン川(52キロ)で、ここまで来ると、ツンドラの矮小灌木の茂みに代わって、目にしみるはずの樹海美が現れる(薄闇だったのでしみなかった)。しばらくオン川に沿った舗装道を進むと、川岸へ下りる小路があり、美しい散歩道に通じていると言うので、先を急いではいたが車を止めて、オン川へ下りてみる。せせらぎの音がして、小さな木の橋がかかっていて、向こう岸にはテーブルとベンチがあり、『愛の橋 エコロギー小路マランコリ 休憩所 2』と書いた立て札があった。この一帯は『ロドニック』社の占有地らしく、こうした設備も同社が宿泊客用散策コースの一つとして作ったのだろう。
オン川
オン川の歩道橋を渡ると先客が
『愛の橋』とある看板近くのベンチに

 『ロドニック』社は、この近くに『ユキヒョウ・バンガロー村』と言うホテル設備を持っている。ベンチには先客もいた。アバザ市からちょっとやってきた男女の5人だった。サンドイッチや、キュウリのピクルス、チョコレート菓子などを広げていて、私たちを見つけると、ご馳走してくれた。この時間(8時少し前)、この場所で誰かに会うなんて珍しいことだ。ここからアバザまで130キロはある。
 ボリショイ・オン川は南のサヤン峠のすぐ近くから北に向かって流れ、東から流れてきたマールィ(小)・オン川と合流するとすぐ、オナ川(157キロ)に流れこみ、その合流点にボリショイ・オン村と言う廃村寸前の集落がある。戦後バルト海地方や西ウクライナからの強制移住者村だった。一時は食堂、ホテル、学校や簡易医療設備もあったが、今は数人しか住んでいない。が、近年の旅行ブームで、有利な場所を占めているとか。もっとも、上流には『ユキヒョウ・バンガロー村』がもう10年以上前から運営しているが。
 ボリショイ・オン村を過ぎると、道路はオナ川沿いになる。ちなみに、オナ川はアバカン川(514キロ)の最も大きな右岸支流で、その名は、8世紀の突厥碑文にも載っているそうだ。Тоньюкук (暾欲谷) (646-724)碑文。
 道はオナ川の右岸へ行ったり、左岸に出たりしながら進んでいるのだが、この辺からは暗くなってしまい『マールィ・アバカン』保護区のユキヒョウもいると言うシベリア・スギの森の中、舗装のない曲がりくねった坂道を、今夜の宿のアバカン(のさらに20キロ向こうのチェルノゴルスク)までたどり着かなくてはならなかった。途中に『オナ関所』村が地図には載っている。ロシア帝政時代の関所跡にでもできた集落かもしれない、地図では無人。さらにボリショイ・アンザスと言う左岸支流の合流点にはクバイカと言う村がある。アンザスという地名は、すでにショル語で、ケメロフスク州南トミ川上流にもアンザスと言う川が何本かある。クバイカは1960年林業基地として栄えた村だそうだが、今は数十人の住民しかいない。こちらも、観光業でこれから発展するかもしれない。
 オナ川はさらに北上してアバカン川に合流するが、道は、小さな右岸支流ハラスク川の方へ曲がる。周りは真っ暗、砂利道で曲がりくねる坂道で、パーシャの運転では数回ひやりとしたものだ。暗くて見えなかったがハラスク村や、スレドニャヤ・カラシボ村などの廃村のそばを通って行ったはずだが。カラシボ川は、すでに、ジェバッシ川の左岸支流で、アバザに近い。
 アバザを通り過ぎる時、今夜泊めてもらうチェルノゴルスク市のサーシャに電話した。私たちがまだアバザだと聞いてサーシャは、
「呆然自失だ обалдеть(アバルディーチ、喜び、驚き、失望などで茫然とするの意味という表現、皮肉をこめて素晴らしいと言うこと)!!」と叫ぶ。まだ200キロはあるからだ。

 サーシャのチェルノゴルスク市には12時も過ぎてから到着した。サーシャとレーナはご馳走を作って待っていてくれたようだが、アバザからの私の電話があって、朝の早いレーナはもう寝てしまっていた。温めなおさなくてもいいサラダだけをいただいて、すぐ寝る。ネルリさんは先にベッドに入って「電気を消して」とか言っていたが、相部屋なのでそうはいかなかった。外でサーシャとビールを飲んでいるパーシャに、シャラバリノ岩画へも行きたいと言うが、車がもう駄目だから、行けないと言われる。そこは道が悪いのだろうと。
 シャラバリノ岩画
 実はここからまっすぐクラスノヤルスクに戻るつもりはなかった。アバカン川右岸のクラギノ町近くにあると言う『世紀の岩画群』を、絶対見てからにしようと思っていたのだ。前年や前々年のタシュティップ博物館や、クラスノヤルスク教育大学博物館でも、シャラボリノ岩画の大規模なことが語られていた。今回、シャラボリノへ行くことは私の予定にはしっかりと組みこまれていた。だから、運転手のパーシャが行きたくない、真っ直ぐ帰る、と言っても承知しなかったのだ。
 9月14日(金)、朝起きるとすぐ、クラスノヤルスクの知り合いの考古学者(の卵、その当時ディーマの会社でバイトをしてクラスノヤルスク大学歴史学・考古学卒業のスラーヴァ)に電話して、シャラボリノ岩画への道の状態を聞く。道は悪くない、最後の300mくらいは歩かなくてはならないが、と言うことだった。実は、そんなことはパーシャは知っている。クラスノヤルスク出発前に(正確には私の日本出発前から)、すでに同じ考古学者から、パーシャは道順を教わっている。ここまで来たのだから、今寄らなかったらまた出直してこなくてはならない、とネルリさんも巻き込んで言い張った。無愛想に拒否される。サーシャが、クラスノヤルスクにもう帰ってきているディーマに相談するのも一つの手か、と助言してくれる。それで、電話して、ディーマにパーシャを説得してもらって、クラギノへ寄ることにした。
 サーシャの家を出発したのは10時も過ぎていた。エニセイ川を渡り、ミヌシンスク市を通り過ぎ、クラギノ町についたのは12時近い。途中、パーシャは
「まだ、そこへ寄ろうと言う気を変えないのか、天気も悪くなってきたぞ」と言い続ける。クラギノで、ガソリン・スタンドへ寄った時には
「車の調子が悪いから、自分は絶対行かない」などと言う。仕方なく、またディーマさんに電話しようとすると、
「電話するな」と言う。今回のクラスノヤルスクからトゥヴァへの旅は、運転手がパーシャのようなロシア人であることも、面白みの一つだと思っていた。尊大にかまえるのが好きなパーシャは、道中何を頼んでも嫌がった。このパーシャをなだめすかして旅を続けたのだが、この最終日には私も彼の怒鳴るようなしゃべり方と、言い分が不快になっていた。だが、車と運転手がいなければ旅は続けられない。ネルリさんは盛んにパーシャの機嫌をとっている。しかし、彼は、ディーマさんの会社で働いているのだから、直接話がすすまないときはディーマさんを通じるしかない。それで、ディーマさんに電話してまた説得してもらった。
シャラボリノ村のトロイツカヤ教会
イリインカ村
このような岩の上や下に岩画がある
上の岩にあった岩画
岩画の一つ、大きさを示す指標もある
岩画のある段丘からトゥバ川を見る
クラスノヤルスク教育大のテント
エーデルワイスが咲き、イリインカ村と
トゥバ川が望める高台

 クラギノ町は、アバカン市からは100キロほどで、エニセイ中流右岸の大支流トゥバ川(ハカシア語ではウプサ川)右岸の穏やかで豊かな草原地帯の中にある。エニセイ中流両岸のハカシア・ミヌシンスク盆地は16,17世紀にはエニセイ・キルギスの4候国連合があって、ロシア帝国の進出を防いでいた。エニセイ右岸支流トゥバ(ウプサ)川畔のトゥバ候国は周辺のサヤン山麓のトファラル人や、アルタイ山麓のトゥバラル人などから貢納を受ける大きな候国の一つだった。しかし、クラスノヤルスク砦からのコサック屯田兵たちの攻撃に屈して、トゥバ侯国のクラギ侯が、1709年ロシア正教に改宗し、エニセイ軍部のアバカン砦の下に入ることを承知した。つまり、トゥバ候国をロシア帝国に『捧げた』。
 クラギ侯の天幕の張ってあったところに、やがてロシア移民の村ができ、クラギノ村となったそうだ。村の歴史は1625年からとみなし、2000年には375年祭も祝った。現在、クラギノ町はクラギノ区の行政中心地で人口1万5千人。このクラギノ駅からクィズィール市までの鉄道が今、敷かれようとしているのだ。と言うのは、シベリア幹線鉄道のアーチンスク駅から分かれ、タイシェット駅で合流する支線がクラギノ駅を通るからだ。
 アバカン市(チェルノゴルスク市)からクラギノ町までは100キロある。岩画は、そこから30キロ戻ったところにある。トゥバ(ウプサ)川にはクラギノ町まで橋がないのだから、この遠回りしか道はない。シャラボリノ村は、トゥバ(ウプサ)川の小さな右岸支流シュシ川畔に、18世紀初めにコサック屯田兵たちの集落からできたという古い村だ。寒村には似合わない19世紀中頃建立と言う立派な丸屋根のあるトロイツカヤ教会が復興されて建っていた。ここで荷車に乗ってきた地元に人にイリインカ村への行き方を聞く。旧約聖書のエリアから名前からとったこの小さな村も古いのだろう。
 パーシャは「道がない!作れって言うのか!」と悪態をついていたが、イリインカ村への舗装はしてないがまずまずの道はちゃんとあって、1時過ぎ、到着。岩画はトゥバ(ウプサ)川岸にあるときいていたので、イリインカ村の入り口でパーシャの車から降り、ネルリさんと歩いて探し始めた。村入口のすぐ右手に山があって、そこが絶壁になっていたからだ。その先がトゥバ(ウプサ)川になっている。ネルリさんがここに岩画があるかもしれないと、車から出た。仏頂面のパーシャに、もうこれ以上頼むのは止めたのだ。村外れの川岸を自力で探しても見つからない。イラクサが茂っていて、こんなところに埃を巻き上げて大型トラックが行き来している。『シャラボリノ電気』という会社らしい。トラックを止めて運転手に聞いてみたが、自分は出稼ぎだから土地のことは知らないと言う返事だった。
 イリインカ村は100人くらいの小さな村で、シャラボリノ村からの道とトゥバ(ウプサ)川に平行な通りしかない。住民に聞いた方が分かると、ネルリさんに村はずれの家に入って、岩画の場所を聞いてもらった。私たちが探していたのとは反対側にあり、
「あの丘の向こうで、歩けばかなりあるが、村はずれにタクシーが1台いるから、運転手がいれば案内してもらえるかもしれない」と言うことだった。それで、反対側の村はずれまで村唯一の通りを歩いて行くことにした。家の前に車らしいのが止まっていれば、戸を叩いて、頼んでみること2軒。どの車も現在運行不能とかで断られる。
 ちょうど道を走ってきた車を見かけたので、追いかける。村唯一らしい店で止まっていたので、ネルリさんと店に入り、ビールと煙草を買っているその男性に、案内してくれるようにしつこく頼む。その男性は、自分はこの村に住む友達を訪ねてきただけで、場所も知らない、友達も待っている、と断るが、店員の女性が
「シャラボリノ岩画ね。あのトラクターが止まっているところを通り過ぎて上っていくと一本道よ。近くにあってすぐ見つかるわ」と横から言ってくれた。
「しばらくだけでもいいのよ。謝礼はするから」と、ネルリさんと私が食い下がる。しばらくだけだよと、しぶしぶ承知してくれて、モスクヴィッチと言うロシアの田舎道を走るにぴったりの、乗り心地最悪の車に乗せてくれる。
 20分ぐらいも探し回った。小高い丘の上に出ると、トゥバ(ウプサ)川の流れと幾つもの緑の中洲、盆地にひろがる牧草地が見える。やっと、クラスノヤルスク教育大学のテントを見つける(もうたたむと言うので屋根がなかった)。ここでモスクヴィッチを降りて、男子学生に案内してもらう。岩が突き出ている灌木の茂みの間を、木の根に躓かないよう、蛇を踏まないよう歩いて行くと、真っ直ぐに切り立った岩の上方に牛らしい打刻画が見えてきた。その下にもよく見ると打刻画が多い。女子学生が一人、写真を撮っていた。もう9月中旬なので、学生たちは少ないのだ。この先にも3,4キロにわたり、トゥバ(ウプサ)川右岸に、6000年前の新石器時代から18世紀ごろの近代までの、動物、人物、架空の動物などの岩画が続いているそうだ。地元の人たちは古くから知っていたが、学術論文に載ったのは19世紀前半という。岩画のすぐ下の段丘には埋葬された人骨もみつかっている。
 モスクヴィッチの運転手を長く待たせるわけにはいかないので、シャラボリノ岩画を一目見ただけで引き揚げることにした。ここは、トゥヴァほど遠くはないからまた来られるかもしれない。戻ってみると、モスクヴィッチの運転手は、前より愛想よくなっていて、帰り道、エーデルワイスが咲き、トゥバ(ウプサ)川の流れと幾つもの中州が見下ろせる高台で車を止めてくれた。

 不機嫌なパーシャのところに戻ったのは3時半。クラギノ町からクラスノヤルスク市へは、アバカンに戻って連邦道54号線を走るより(550キロ)、地方道『ミヌシンスク〜クスクン』線(400キロ)を通る方が距離的には近く、また行きと帰りは違った道を通る方がいい。地方道『ミヌシンスク〜クスクン』線は、1965年開通のアバカン=タイシェット鉄道沿いに途中まで走っていて、クラスノヤルスク南部、エニセイ右岸の針葉樹林の中を通る快適な道だが、全線アスファルト舗装はされていなかった。2007年の夏、ディーマとレガシーで走ったことがあって、その時は全線が開通したばかりで、未舗装部分も多かった。5年もたっているのだから、アスファルト舗装されているだろうと、パーシャに保証して進んだのだが、途中100キロほどは砂利道だった。それで、パーシャが
「タカコサン。アスファルトはどこだ?ん?」と意地悪そうな声で何度も聞く。この道を通ろうと言ったネルリさんも
「まあ、本当にあの辺からアスファルトが始まる、この曲がり角を曲がったら始まると思ったことが何度もあるわ。本当にアバカンに戻って54号線を行けばよかったですね。私はこの道が『良い道』だと聞いていただけですよ」などとすべての責任を私一人になすりつけるようなことを言う。ここまで来ると、車内の雰囲気は最悪だ。それで、
「私に、降りれっていうの」と言わざるを得なかった。
「とっくに降りるべきです」などと言うので、本当に荷物を持って降りればよかった。もちろん電話の通じるところで(途中、携帯の通じない所が多かった)。
 針葉樹林の中、鉄道を何度も渡り、山川を渡り、空に虹すら見て、ひとえに走った。車内の雰囲気は悪かったが、この、エニセイ右岸のまだ『生』の道も素晴らしい(『生』の道もそのうち料理が完成して完全舗装道になる)。針葉樹の間に生えている白樺は黄金色になりかけていた。
 クスクン村で、連邦道53号線に合流し、そこから40キロほどで、ネルリさんの家についたのだ。今回、さらに8日間クラスノヤルスクに滞在していた。

 そのうち3日間はセーヴェロ・エニセイスキィ町に、またパーシャ運転だったが、今度はレンタカーのトヨタ・ピックアップで出かけた。もちろんその前に、握手して仲直りはした。ネルリさんと共通の知り合いの音楽家リュドミラ・シャラバイさんとも、再会した。2002年エニセイ・クルーズの時知り合ったのだ。その音楽家を通じて、昔、クラスノヤルスク滞在中に通訳をしてあげたことのあるピアニストのスヴャトスラフ・オヴォドフさんとも再会した。ネルリさんを通じて、やはり、昔知り合っていたディヴノゴルスク市の歴史の先生イーゴリ・フョードロフさんとも再会した。今回、クラスノヤルスク大学で日本語を教えていた時の教え子の一人オーリャとも再会できたのだ。今では、みんなメールがあるので、連絡は絶やさないようにしている。スヴャトスラフさん(愛称はスラーヴァ)とは2013年トゥヴァ旅行することになった。(追記・2014年2015年も彼の改造高駆動車でトゥヴァを回った)
HOME  ホーム ВАСК 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ