up date | 18 April, 2013 | (校正2013年6月2日、6月24日、2014年3月25日、2016年6月30日、2018年10月30日、2019年12月8日、2021年10月6日、2022年12月2日) |
30-(8) トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年 (7)トッジャ地方を去る 2012年9月3日から9月14日(のうちの9月8日) |
1) | トゥヴァについて | トゥヴァ略地図 | 前回までのトゥヴァ紀行 | トッジャ地方を含む予定を立てる | ||||
2)9/3 | エニセイ川を遡る | クルタック旧石器時代遺跡 | ダム湖水没クルガン | チェルノゴルスク市泊 | ||||
3)9/4 | アバカン博物館 | エニセイ川をさらに遡る | 西サヤン山脈に向かう | エルガキ山中 | 救急事態救助センター | ウス川沿いのアラダン村 | シベリア最大古墳 | クィズィール市へ |
4)9/5 | トゥヴァ国立大学 | クィズィール市をまわる | トゥヴァ国立博物館 | 4輪駆動車ウアズ | 新鉄道建設 | エールベック古墳群 | ロシア科学アカデミー(抄訳) | 『王家の谷』キャンプ場 |
5)9/6 | トゥヴァ東北部略地図 | 小エニセイ川へ | トゥヴァの行政単位コジューン | ロシア移民起源の村々 | トゥヴァ東部の金 | 震源地の小エニセイ中流の村々 | トッジャ陸路の入り口で待つ | かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る |
6)9/6 | 3つの峠越え、トゥマート山脈 | 中国の紫金鉱業 | ミュン・ホリ(湖) | エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 | トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 | トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人 | ||
7)9/7 | トーラ・ヘム村史 | トッジャ郡の霊水 | アザス湖へ | アザス湖上 | 個人事業者オンダールさん | |||
8)9/8.9 | 緑の湖 | アザス湖を望む | ヴォッカ | 初代『アジアの中心碑』、ロシアから西モンゴルへの道 | ウルック・オー谷 | |||
9)9/10.11 | 獣医アイ=ベックさん | オットゥク・ダシュ石碑 | イイ・タール村 | アルティン・ブラク金の矢 | シャガナール市へ | シャガナール城塞 | 聖ドゥゲー山 | トゥヴァ最高裁判所 |
10)9/12 | コバルトのホブ・アクスィ村 | アク・タール(白い柳)村 | ヘンデルゲ古墳群 | チャイリク・ヘム岩画 | ||||
11)9/13.14 | 西回りの道 | チャダンの寺院 | ヘムチック盆地 | アスベクトのアク・ドゥヴラック市 | 西サヤン峠 | オン川とオナ川 | シャラバリノ岩画 |
国名 Тыва のトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、ロシア語の転記は Тува または Тыва で『トゥヴァ』『トィヴァ』となる。当サイトではロシア語転記に従って地名などを表記した。
緑の湖 ノガーン・ホリ (湖) | |||||||||||||
午前中は確かに寒い。水たまりも凍っていた。空は真っ青で、白いすじ雲が美しいと言うアンドレイさんに頼まれて写真を撮っていた。敷地にあるチュムにも入ってみた。このチュムは『アザス』社が建てたのだろうか、『トシュトゥク』社だろうか。オヴァーもあった。『トシュトゥク』の敷地は丁寧にも板塀で囲まれている。2008年のクィズィール(クズル)市調停裁判判決文によると、オンダールさんの権利が認められたのは2棟の未完の建物だけだった。地面などは、建物の建っている地面とその周囲の『適当』な領域は建物に自動的に付いたものらしい。 私たちが泊まった建物のポーチに、ポータブル洗面台があった。栓をひねると水道の水が出るわけではない。上の容器に水を入れ容器の下部にある栓をひねって水を出し、排水は下のバケツに行く、と言うロシアの田舎によくあるもので、ただ、ものが新しかった。食堂からやかんのお湯を持ってきて注げば、快適に顔も洗える。
ポーチには、『緑の湖』の広告も張ってあった。湖はここから4キロほど北東にあるそうだ。平均の水温は2.2度で、ペーハーは6.85とある。関節の病に聞くそうだ。立派なヘラジカの写真も横に掲示してあった。『トシュトゥク Тоштыг』のトシュ тошは、トゥヴァ・ロシア語辞典では、(1)若い(1歳の)アカシカ、(2)ヘラジカとなっている。 オーナーのオンダールさんの挨拶文もトゥヴァ語、ロシア語、英語で掲示してあった。 1時半になって、やっと、ロベルトさんの運転するウアズ(ワズ)に乗って出発した。オンダールさんの孫娘さんもアイポットを抱いて一緒に乗った。彼女はもちろん初めてではないだろうが、このアイポットで自分を映してもらうためだそうだ。トッジャ湖の南は低地で沼地が多いが、北岸は山がちだ。森の中のくるま道(けもの道からの類推)を通って進む。木の根が張っている所も乗り越え、深い水たまりもどちらかの車輪は岸辺近くになるよう用心深く進め、木々から張り出している枝をよけながら、ゆっくり進む。車が横転しなかったのは、この道に慣れたロベルトさんの腕のおかげだと思う。オンダールさんの孫娘さんは、もう降りると言って出て、車より早く歩いて行く。森の奥深く来たと言う感じだ。ウ・チョルト・クリチカッフ у чёрта на куличках(森の奥の小さな空地の悪魔のところ)と言うロシア語の未踏・未開拓僻地を表す言い回しがある。そんなところだ。 1時間近くも、ロベルトさんが『ハンドルに腕をふるって』、やっと『アルジャーン・ノガーン・ホリ Аржаан Ногаан Хол 緑の湖の鉱泉』と書いた標識が立っている小さな草原に出た。湧水は大木の根元のようなところから湧き、木をくりぬいたような樋を通って流れてくる。樋にはコケが生えていた。アンドレイさんが飲んでいた。私も一口飲んだ。冷たくて普通の味だった。ロベルトさんによると、ノガーン湖の水面はトッジャ湖よりずっと高いところにあるので、こうした湧水が湖に注ぐとのこと。この先は4輪車がやっとでも通れる道もなく、みんなで歩いて行く。ここから数歩の所からもうノガーン湖が見えた。本当に神秘的な緑色をしていた。周りの木々が映っているから緑色なのではない。 水浴者が岸辺の泥の間を歩かなくてもいいように、板でつくった桟橋のようなものが5メートルほど湖上に突き出ていた。板が折れそうであぶなかしい通路だが、先まで行ってみると、湖水に降りる階段もあった。周囲には私たちの他、誰もいない。板塀で囲った更衣室がある。水着に着替えて桟橋を進んで水中にジャンプもできる。ツーリスト基地『アザス』にトゥヴァ各地から青少年のグループが夏休みを過ごしにやってきた頃は、にぎやかだっただろう。トッジャ湖畔にあるこの緑色の湖も岸が入り組んでいる。岸辺近くまで木々の生えている向こう岸も近くに見える。ネルリさんは『エメラルド湖だわ』と言って感心していた。 湖岸に沿って小道があったので歩いてみた。板が敷いてあったので泥に埋まらずに歩けた。泥はうす緑色だ。ノガーン・ホリが緑色に見えるは、緑色の泥が底にたまっているからだ。緑色の泥の堆積は岸辺にもある。地元の人たちはこの柔らかい泥を体に塗って、関節痛をなおしているとか。 オンダールさんの孫娘さんも、アイポットで何枚も写真を撮っていた、写してほしいと言われて撮ってあげた。湖畔にはトナカイゴケのような白い苔で枝々がぎっしり覆われてしまった木もあった。白いレースの花が咲いているようでとても美しい。ネルリさんによれば、そんな木はもうダメになっているそうだ。 |
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アザス湖を上からも眺める | |||||||||||||
30分ほど眺めていたが、次の場所に移ることにした。ロベルトさんが見晴らし台に行こうと、みんなを促したからだ。車の通れる道はすぐ終わって、私たちは歩いて岬のような場所へ上った。オンダールさんの孫娘さんは軽々と登っていったが、太めのアンドレイさんはきつそうだった。
その峠は、下が湖面まで絶壁になっていて、眺めは抜群だった。入り組んだ岸辺のトッジャ湖や大小の島々が見晴らせる。アンドレイさんが、あの島はトゥヴァ共和国の形をしていると言う。本当に瓢箪を横にしたような形をしている。島々はどれも低く、やっと水面に陸地が出ていたが、どれもこんもりと木々が生えている。水につかりそうな岬の先まで木々が生えている。緑の向こうに見える青い山は、トッジャ湖南岸のカディル・エギ・タイガ山脈だろうか。その向こうの薄紫色の山々も、アカデミー・オブルチェーヴァ山脈の支脈だろうか。 トッジャ晴れのよい天気で、いつまでもそこにいてもよかったが、まだ日の暮れないうちに、トッジャ(アザス)湖遊覧をもう一度試みることになっていた。昨日の2人の男性が、今度はトッジャ湖の別の方面はどうかと、出発前に言ってきたのだ。お駄賃のヴォッカがよかったのかもしれない。 帰り道、とうとうウアズが壊れた。私たちは森の中の小道を歩くことになった。それもまたいい。黄色い落ち葉を踏み、深いわだちのある道を、水たまりをよけ、倒れている幹をまたぎながら歩いた。(ガソリン代の返金はなかった) |
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ヴォッカ | |||||||||||||
6時過ぎに帰ると、『トシュトゥク』では昨日のボートの主と助手が待ち構えていた。私たちはいい客だったのだろう。すぐに橙色の救命具を付けてボートに乗ったのは4時過ぎ。今度はオーナーのオンダールさんの孫娘さんも一緒だった。彼女は『トロイカ』と言う1箱25ルーブルのロシア煙草を4箱手に持っている。煙草もヴォッカと同様、お金の代わりになるらしかった。これで魚を買うのだと言う。 今度は最初からモーターボートだった。タヌキの泥船でなくてよかった。私たちが乗り込むとすぐ、親分がネルリさんにヴォッカを先に欲しいと言う。渡すと彼らはすぐに飲み始めるだろう。初めから酔っぱらい運転ではまずい。ネルリさんが上手に、 「いまではなく、コースの途中で上げましょう」と言って、同意してもらった。 湖上からの眺めは、昨日にも増して素晴らしかった。太陽の光が、湖面のひし形の波に反射して輝いていた。ネルリさんとオンダールさんの孫娘さんと私は見惚れていた。昨日の葦の茂みも岸辺近くに見えた。民族模様の綿入れ(裏毛)袖なしを着たトッジャ人男性2人の運転するこの古くて金属部分はすっかりさびているボートに乗って、昔は秘境と言われたトッジャ湖を、当たり前のように行くのは何だか不思議だが。
幾つか小さな島のそばを通り過ぎた。水面ぎりぎりにまで緑や黄や赤の木々が生えていた。紅葉の美しい時期に来たわけだ。黄色いのは白樺だろう。水面に木々が映っていた。波が立つと真っ直ぐなはずの幹がジグザグになる。 二人は木々の影を揺さぶりながらボートを島に着けた。すぐ、ヴォッカを要求される。約束だからネルリさんが瓶を渡すと、彼らは船底にあったペットボトルを割いてコップを作る。そうして、二人で満足げに飲み始めたのだ。コップに注いだヴォッカは、一気に底まで飲むことになっている。こうして。二人はかわるがわる飲んでいた。 この島は、歩き回ろうにも、中がすぐ険しい岩場になっていたので、『島内散策』から戻った私はこの2人の男性の横に座っていた。実においしそうに飲んでいるから、まあ、いいか。年配の男性の方は先が長くはなさそうな感じだったが、若い助手の方は寡黙で感じがいい。若いと言ってももう充分な歳だが。 「今、全部飲んでしまっては、今日のお駄賃が早めに消えてしまいますよ。少し残して、後で飲んだら」と、ネルリさんが言ってくれたので出発できた。時刻はもう7時をまわって、日はかなり傾いていた。雲の影から金色の日が斜めに差している。静かな湖面にはまだ白い雲と、青い空が映っている。 太陽を背にした森が暗く見える頃、モーターボートのエンジンが止まった。このモーターボートではありうると思っていたが、エンジン故障だ。船尾のエンジンのかじを握っていたのはボートの持ち主の年配のほうだ。酔って、握り方を間違えたのか、それともこのエンジンは恒常的に故障をおこすのか知らないが、二人でひもを引いて何度も動かそうとしていたが、ちょっと弱いエンジン音がしても、すぐに止まってしまう。エンジンが動かなくても、櫂はあるし、岸は一応見えているから遭難することもないと思って私たち3人は黙って座っていた。やがて、若い方の実直そうな助手の男性が、櫂をこぎ出した。ヴォッカをあんなに生で飲んで、よくこんな力仕事ができるものだ。 手漕ぎボートはゆっくり行くので、水中の中がのぞき込めた。茎をゆらゆらさせて水草が生えていた。実は、このトッジャ湖はスイレンの名所でもあるそうだ。群生しているのは東岸だそうで、私たちの2日間の遊覧は、『トシュトゥク』のある西岸をちょっと回っただけだから、たとえ花が咲いていたとしても、見られなかったのか。また、ビーバーの生息地だとも、サイトには書いてあるが、確かに、この水辺はビーバーが喜びそうな環境だ。事実、ビー・ヘム(大エニセイ川)とハムスラ川左岸支流との間に1985年、ビーバー禁猟区を基にして、このアザス自然公園ができたのだった。 若い方の男性が懸命にこいで、昨日も寄った見張り塔のある岸辺についた。ここが彼らの仕事の基地らしい。私たちは一旦降りて、別のもっと小さなボートに乗り換えた。ネルリさんによると、小さめのボートの方が手漕ぎなら楽だからだそうだ。親分格の年配の男性の方は、小屋に残った。時刻は8時近く、もう遠くの島は黒く見えた。私たちの『トシュトゥク』は西岸にあるので太陽の沈む方に向かう。金色の夕日が湖面にも映っている。ネルリさんが漕ぎ手と、最近の生活のことを話している。コルホーズが破産して、経済の混乱から立ち直れない、云々。私は、個人的なことを聞くのは遠慮したが、やはり、家族のことなど話せばよかった。 『トシュトゥク』や『アザス』の建物群がある岸辺が見えてきた。ちょうどその方向へ太陽が沈んでいる。岸辺の上の入り日と、湖面に映ってさざめいている入り日が素晴らしくて、何枚も写真を撮っていた。横から私のカメラの画面を見ていたオンダールさんの孫娘さんが 「電池がもうなくなりかけていますよ」と言う。大丈夫です、いつも予備の電池を3個と、予備の8ゲガの記憶媒体を2個持ち歩いているのですよ、と彼女の目の前で素早く電池を入れ替えた。 今日も、アンドレイさんが心配して船着き場に迎えに来てくれていた。蒸し風呂が炊けているから、すぐ入るといいですよと教えてくれた。この日、夜、トイレに外へ出ると、美しい星空だった。 (後記:再びトッジャ湖を訪れることができたのは2014年) |
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初代『アジアの中心碑』のサルダム村 | |||||||||||||
9月9日(日)、この日はクィズィール(クズル)市に帰ることになっているが、当初は、ここからトーラ・ヘム村まで行き、そこで、3日前のような乗り合いウアズに人数(8人ほど)が集まるまで待とう、と言う予定だった。しかし、ロベルト達がクィズィール市に帰るので、一人1000ルーブルで乗せてあげると提案された。アンドレイさんによると、トーラ・ヘム村でウアズを待たなくてよいので、これは渡りに船の提案だと言う。乗り合いではない専用車で帰るようなものだ。 朝は、また氷が張り、太陽がかなり高くなっても草々にぎっしりと付いた露は解けなかった。茎や葉の輪郭が白く見えて美しかった。9時近くになっても朝霧が立ちこめていた。隣の元『アザス』ツーリスト基地の建設途中で放置された建物の木造の骨組みが霧の中にぼやっと見える。
10時頃には出発した。オーナーの孫娘さんも同行した。来た時のようにトーラ・ヘム谷を通り、かつてのコルホーズ耕作地らしい草原を通り、かつての富豪コルホーズ村のアディル・ケジクの仏塔の前を通り過ぎ、トーラ・ヘム村にくるとオーナーの孫娘さんが降りた。彼女は村に用事があるらしい。トーラ・ヘム村ではさらに店の前で止まり、私たちは食糧を調達し、ロベルト達は修理部品を調達しようとしたらしい。目当ての部品はここにはなくて、隣のサルダム村の店にある。その店の案内に、地元のおばさんが二人乗り込んできた。もしかして、サルダム村に行くなら、ちょっと乗せてと言われたのかもしれない。 サルダム村については、 『山川のビー・ヘムはトーラ・ヘム川が合流すると、流れが穏やかになり、いかだで両岸を行き来することもできる。ここをサルダムというようになったのはそれほど昔ではないが、樹皮で覆ったチュムが、ごくごくまれに建つことがあるだけだった。わしの父親は、素晴らしい漁師で、多くのものを見聞きした。わしが、小さかった頃、よく話してくれたものだ。両岸には、家なんて全くなかった。それから、ロシア人がやってきたのだ。ちっぽけな小屋を建てた。わしらのチュム(円錐形の移動式小屋)よりみすぼらしかった。だが、その小屋からサルダム村が生まれてきたのだ。ほら、わしらのサルダム村はビー・ヘムの平らな川岸にできているだろう』と、トーラ・ヘム村から3キロほど川下のサルダム村出身の児童文学作家レオニード・チャマムバ Чадамба Леонид Борандаевич が、1985年発行の著作の中で描いている。 サルダム村はビー・ヘムにトーラ・ヘム川が合流した直後のビー・ヘム右岸にあり、トーラ・ヘム村はトーラ・ヘム川が合流する直前のトーラ・ヘム川右岸にある。今は2つの村を合わせてトーラ・ヘム村区として、メスティーチコ(小さい場)も含め人口は3千人弱だが、サルダム村だけには120人ほど住んでいる。 ここに、19世紀末、英国人の地誌学者で探検家のアレクサンドル・カッルテルス Александр Дуглас Каррутерс (1881-1962), がアジアの中心と定め、当時左岸にあったサフィヤーノフの屋敷の庭に立てたと言う初代アジアの中心碑があったそうだ。サフィヤーノフ(1850-1913)はミヌシンスクの商人で、ウリャンハイ地方のソイオート達と交易をして大富豪となったロシア人だ。当時、トゥヴァは清朝中国の領土ウリャンハイ地方で、そこの住民はソイオートとも呼ばれていた。サフィヤーノフは、各地にファクトーリと言う現地人との取引所を作り、巨額の富を得、『最後のコンキスタドール(スペイン語で征服者の意)』とも言われた。トッジャのサルダム村近くにも確かに彼のファクト―リがあった。砂金業、農業、牧畜業、漁業、林業と、多方面にわたり活動し、清朝の代官と並び、事実上のロシア側ウリャンハイ支配者でもあり、ロシアのミヌシンスク郡からサヤン山脈を越えてトゥヴァに入るウス街道も彼の主導でできたと言われる。 『アジアの中心碑』については、1964年、アジアの中心はトゥヴァ共和国首都クィズィール市のカー・ヘムとビー・ヘムの合流点にあるとされ、立派な碑が建てられた。1984年には、トゥヴァ自治共和国がソ連邦に合併した40周年記念としてさらに立派な中心碑が建ち、クィズィール(クズル)市の名所の一つとなっている。だが、新疆ウイグルのウルムチ市から30キロのユングフェンЮнгфен市では、こここそが本当のアジアの地理的中心地だと、立派な碑が立てられている。 今のサルダム村の大部分はビー・ヘムの右岸にあるが、左岸のサフィヤーノフの屋敷の庭に立っていた最初の碑は洪水で流されてしまったとある。ロベルトさんたちに必要な部品があるかもしれない店は、ビー・ヘムに沿った道沿いにある、と言ってもサルダム村は川沿いにしかない。店は閉まっていたが、持ち主を探して開けてもらった。村の通りには、どこでもそうだが牛たちがゆっくり歩いていた。川の向こう岸にも、緑の茂った丘陵の麓に家畜の姿が見える。サフィーロフの屋敷跡はどの辺かわからない。 初めのアジアの中心碑がこのサルダム村にあったとは、トーラ・ヘム村中央図書館の館員さんも言っていたし、『トゥヴァ・オンライン』誌のサルダム村の倶楽部員のインタビュー記事にも載っているが、本当は別のサルダム村かもしれない。根拠としている1912年版ロデビッチの『ウリャンハイ地方の記述』に載っているサフィヤーノフの屋敷と中心碑があったと言うサルダムは、ビー・ヘムとカー・ヘムの合流点より23露里下流にあったと記されているからだ。(つまり現在のクィジール市より西にあって、この去るダムとはかなり離れている.私が調べられる限りでは不明だ)) ロシア帝国から西モンゴルへの道 当時、トーラ・ヘム川より70キロほど下流でビー・ヘムに合流する右岸支流スィスティク・ヘム川(138キロ)はエニセイ県のミヌシンスクからトゥヴァに入る主要コースの一つだった。南シベリアのエニセイ川中上流のロシア帝国支配の中心地だったミヌシンスク市から、アムィール川をさかのぼり国境のエルガキ・タルガキ・タイガ山脈(西サヤン山脈の一つ)を越えると、スィスティク・ヘム川上流に出る。ウス街道がなかった当時、ミヌシンスクからのサヤン山脈越えが最も容易だったこのコースで、19世紀後半から、幾つかのロシア帝国調査隊がトゥヴァと西モンゴルへ行っている。当時、地質調査の目的は金で、19世紀半ばまでには、アムィール川の金が詳細に調査され、上流まで採掘場ができていた。次いで、ソ連時代にはスィクティク・ヘム川上流も調査され、上流にはオクチャブリスキー金鉱脈が発見された。ここは、現在でもトゥヴァ有数の金産地だ。当時、アムィール川やクラスノヤルスク南部の河川では砂金が採掘されていたのだ。事実、サヤン山脈のすべての河川は砂金が採掘可能だった。 ウリャンハイ地方では、ウユーク盆地のトゥランを拠点としていたサフィヤーノフがトッジャに経営していたファクトーリ(軽工場ではなく、現地民との物資の交換所)や、今のサルダムに屋敷があったことは、古い地図でも確かめられる。 |
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ウルック・オー谷、トッジャから帰路 | |||||||||||||
高台があったので、そこに上って、渡し船が行き来して私たちの順番が来るのを待っていた。馬で乗りつける人もいる。馬に乗ったまま、渡し船に乗っていた。これは簡単。トラックは小型でも、船から陸地へつけるぎりぎりの幅の桟橋を、タイヤがはみ出ないよう注意深く、ゆっくり登らなくてはならない。車が乗り込むと、桟橋は船に戻す。向こう岸に着くと、また桟橋を伸ばす。だから1報復にも時間がかかる。上手に乗せると2台運べる。 ビー・ヘム左岸に出たのは2時過ぎ、170キロ進みバヤロフカ村のガソリン・スタンド横についたのは8時過ぎだった。5センチ掘れば氷の頭が見えると言うツンドラのエーン・スク谷やウルック・オー谷、オー・ヘム谷も通り過ぎた。『谷』とロベルト達が言っていたが『高原』ではないだろうか。確かにどこか遠くに川は流れ、周りは沼地やピートモス草原、まばらに生えているみすぼらしい落葉松、薄緑のトナカイゴケや薄紫の矮小カバノキの繁みや、遠くの山並みで囲まれてはいるものの、この広さは谷よりも、盆地よりも、平原・高原と呼びたい。その中に、ルンシン社の援助でつくったらしい道路だけが、真っ直ぐ伸びている。左右が沼地でも、道路上には浅い水たまりがあるだけだ。 来た時に降りで眺めた峠にも、必ず止まり、オヴァーに敬意を表する。『キャンピング』と呼ばれているスィンナーク荘にも止まり、ロベルトさんたちが食事している間、ツンドラの植物を撮っていた。日が傾いたころ、コプトゥ(ホプトゥ)川下流に近づいた。この辺では、シベリアマツの森の中を通る道路脇などの開けたところにはヤナギランが群生している。盛りは過ぎていて、薄茶色に半枯れのまま立っていた。 コプトゥ川を2度渡ったところで、ロベルトは車を止めた。この近くで、見ておきたいものがあるとかで、森に入っていった。元のコプトゥ砂金場の一つかもしれない。 バヤロフカ村のガソリン・スタンド横にはアンドレイさんの息子さんのオルランがコロナ・エクジブで待っていてくれた。 |
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