up date | 18 April, 2013 | (校正・追記;2013年5月17日、2014年7月9日、2016年6月29日、2018年10月27日,2019年12月6日、2021年10月4日、2022年11月5日) |
30-(3) トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年 3)サヤン山脈を越えてトゥヴァ盆地へ 2012年9月3日から9月14日(のうちの9月4日) |
1) | トゥヴァについて | トウヴァ略地図 | 前回までのトゥヴァ紀行 | トッジャ地方も入れて予定を立てる | ||||
2)9/3 | エニセイ川を遡る | クルタック旧石器時代遺跡 | ハカシア水没クルガン | チェルノゴルスク市泊 | ||||
3)9/4 | アバカン博物館 | エニセイ川をさらに遡る | 西サヤン山脈に向かう | エルガキ山中 | 救急事態救助センター | ウス川沿いのアラダン村 | シベリア最大古墳 | クィズィール市へ |
4)9/5 | トゥヴァ国立大学 | クィズィール市をまわる | トゥヴァ国立博物館 | 4輪駆動車ウアズ | 新鉄道建設 | エールベック古墳群 | ロシア科学アカデミー(抄訳) | 『王家の谷』キャンプ場 |
5)9/6 | 小エニセイ川へ | トゥヴァの行政単位コジューン | 小エニセイ川を遡る | ロシア移民起源の村々 | トゥヴァ東部の金 | 震源地カー・ヘム中流の村々 | トッジャ陸路の入り口で待つ | かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る |
6)9/6 | 3つの峠越え、トゥマート山脈 | 中国の企業の子会社 | ミュン湖 | エーン・スク寺院とダルガン・ダク遺跡 | トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 | トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人 | ||
7)9/7 | トーラ・ヘム村史 | トッジャ郡の霊水 | アザス湖へ | アザス湖上 | 個人事業者オンダールさん | |||
8)9/8.9 | 緑の湖 | アザス湖を望む | ヴォッカ | 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 | ウルク・オー谷 | |||
9)9/10.11 | 獣医アイ=ベックさん | オットゥク・ダシュ石碑 | イイ・タール村 | 『アルティン・ブラク(金の矢)』 | シャガナール市へ | シャガナール城塞 | 聖ドゲー山 | トゥヴァ最高裁判所 |
10)9/12 | コバルトのホブ・アクスィ村 | アク・タール(白い柳)村 | ヘンデルゲ古墳群 | チャイリク・ヘム岩画 | ||||
11)9/13.14 | 西回りの道 | チャダンの寺院 | ヘムチック盆地 | アスベクトのアク・ドゥヴラック市 | 西サヤン峠 | オン川とオナ川 | シャラバリノ岩画 |
Тываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてロシア語の転記に従って表記した。また、ハカシア共和国は国名がハカシア。ハカス人(男性単数)、ハカスキィ語、ハカスカヤ盆地などだが、ロシア語の国名ハカシアで統一。
アバカン博物館 | ||||||||
「今日は国際ローミングをしよう」として、1日1980円の定額業者『ビーライン』(ロシアではこの会社のみgが私のスマホからローミングが可能)をとらえようとするがうまくいかない。ソフトバンクに電話してもうまくいかない。 この日、レーナは菓子工場の早番で7時には家を出ていった。早く出勤して遅くまで働き、超過勤務料をもらっているそうだ。私たちが起きた時、サーシャはまだ寝ていたが、電子レンジの電源を入れる方法をそっと聞いて起こしてしまった。 9時半ごろサーシャ宅を出発。いつも、もっと早く出発したいと思うのだが、この日は、トゥヴァへの道をとる前に、前日行こうと思っていたアバカン博物館に行く予定なので、早くついてもまだ開館してはいないだろう、と思って遅出にしたのだ。だが、探し当てたのは10時過ぎ。この博物館も、長い間修理中だった。今も、一部は修理中だが、郷土関係と考古学部門は完成していた。実は、この日は休館だったが、外国人は外国人料金を出すとガイド付きで案内するということだった。ロシア居住証明書があるが、家に置いてきたとか言って、少しは安い料金にしてもらう。ネルリさんはロシア人で年金生活者だから全く安い料金だった。 いつも博物館ではガイドを頼むのだが、本当は、説明書きを読めば、ガイドなしでもいいのだ。読んでいるより、聞いていた方がよくわかるかもしれないし、説明書き以上のことを言ってもらえるかもしれないと期待するのだが、ガイドが考古学者とも限らないし、端折って説明することもあるので、期待はいつも外れる。説明書きを読んでいる代わりに写真に撮っておくのだが、ガイドの話を聞き、歩きながら撮るのでたいていはピンボケだ。ガイドは既定のことを早くに話してしまおうとするので、質問を挟む間を見つけにくいし、質問しても、知らないと言われてしまう。それでも、いつも博物館では、必ず、ガイドを頼む。そして、ガイドの説明をなるべく長引かせて、この博物館は見たことにするのだ。 アバカンの郷土博物館でいいのは、ここの売店の本屋は アバカン市の中でも、読みたい本が一番そろえてあることだ。毎年のように来ている私を店員さんも覚えていて、新刊や新到着の本を出してくれた。12時過ぎに博物館を出る。 |
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エニセイ川をさらに上流(南下)へ |
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アバカン市を出るとエニセイ川を渡り、右岸に出る。クラスノヤルスク市から40キロ上流のディヴノゴルスク市の橋からこのアバカンまでの340キロのエニセイ川(全長3487キロ)には橋は1本もない。連邦道54号線は
クラスノヤルスク市を出ると(バイパスを通らなければ)、終点のモンゴル国境まで4回エニセイの橋を渡る。クラスノヤルスク市とディヴノゴルスク市とこのアバカン市とクィズィール市の橋だ。連邦道のクラスノヤルスク市の始発は左岸にあって、終点も(そこはモンゴル国境で、もうエニセイ川水域ではないが、場所的には)左岸だ。 ハカシア共和国のアバカン市を出て連邦道54号線の道なりに『兄弟橋』という2004年にできた橋を渡ってエニセイ川右岸へ渡ると、またクラスノヤルスク地方になる。クラスノヤルスク地方の知事がアレクサンドル・レーベジだった時(1998-2002)、その弟のアレクセイ・レーベジもハカシア共和国の首長で(1997-2009)、兄弟が協力してできたというので、その名前がついたと、ここを渡る度にガイドは言うことになっている。が、実際には1986年から建設が始まっていた。1991年ソ連邦崩壊で、建設が凍結し、『兄弟が協力して』1999年再開したのだった。それまでは、やや下流に1959年完成の鉄道兼自動車道の橋があったが、老朽化し、片側通行で車を通していた。かつて1999年に私が初めてトゥヴァへ行くために通った時は、時間制の片側通行の橋を通るために長い間待ったものだ。元々は鉄道のための橋で、シベリア幹線鉄道から枝分かれするがタイシェット駅で合同するアバカン・タイシュット線(647キロ、1965年完)着工の1959年の完成だった。その翌年には自動車も通れるようになったというものだ。
ロシアでは橋は戦略的に重要な施設なので、両岸に必ず監視小屋がある。 右岸に出ると、そこはエニセイ本流とミヌシンスク側流で囲まれている中州で、タガルスキィ島と言う。エニセイ中流では、このハカス(ハカシア)・ミヌシンスク盆地中央部にある長さ11キロで幅6キロもある中州は、この辺では最も大きく、北東の一部はミヌシンスク市街地になっている。このタガルスキィ島の名前が有名なのは、1920年代はじめてこの島で、紀元前8世紀から3世紀の後期青銅器と初期鉄器文化の学問的な発掘調査がテプラウーソフによって行われ、後にキセリョーフがその時代の文化をタガルスカヤ(タガール文化)と名付けたからだ。 タガルスキィ島には連邦道54号線もアバカン・タイシェット鉄道線も通りぬけている。アバカン・タイシェット線は北東のタイシェット市に向かうが、私たちの道路はエニセイ川と平行に右岸を遡る。この盆地の名前にもなっているシベリア南部でも最も古いロシア人の町ミヌシンスク市から15キロほどのところにある小さな湖も、タガルスキィと呼ばれている。 ミヌシンスク市から55キロ来たところにあるのがカザンツェヴォというオヤ川畔にある村だ。2011年にオヤ川の河岸段丘でレンコヴァ岩画を見た。オヤ川はカザーンツェヴォ村近くでエニセイに合流するが、西サヤン山脈の冷たく美しいオヤ湖から流れ出た254キロもの長い川だ。 |
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ウス街道を通り、西サヤン山脈に向かう。小ケベジ川のタンジベイ村、大ケベジ川の新道 | ||||||||
この先の連邦道もオヤ川に沿って、しばらくはこの連邦道54号線は森林草原地帯と言われる見慣れた緑の中を進む。ハカス・ミヌシンスク盆地を通りぬけ南東に向かいうこの道は、上り下りしながら西サヤン山麓に向かって進む。遠くに見えていた山並みが次第に近づいてくる。 道はカザーンツェヴォ村を過ぎると、オヤ川を遡ってクラスノヤルスク地方最南端のエルマコフ区のエルマコフスコェ村を通りオイスキィ村まで行き、そこからはオヤ川の右岸支流のケベジ川に近づく。ケベジ川畔のグリゴリエフカ村(後記)に来ると、連邦道とはいえこんな遠くの小さな村で交通量も少ないはずなのに、渋滞していた。それは葬列にぶつかったからだ。村の故人の家から、村はずれにある墓地まで荷台に棺を乗せたトラックが、参列者たちの先頭をゆっくり進むのだ。棺の横の荷台には近親者が乗っていて、道々、花を落とす。葬列を追い越してはいけない。だから、連邦道に5分くらいの渋滞ができたのだ。先頭が墓地の方へ曲がると、渋滞はすぐに解け、道は西サヤン山麓のタンジベイ村に向かって登っていく。タンジベイ村にネルリさんの知り合いがいるということで、そこで持ってきたお弁当を食べることにしていた。
タンジベイ村がサヤン山脈越えでは、ほぼ最後の集落となる。ここから先、100キロは全く集落がない。西サヤン山脈の向こう側のトゥヴァ共和国のトゥラン市までの180キロは、ガソリン・スタンドもない。2008年にディーマたちとトゥヴァへ行く途中で通った時も、ここで食事をとり、車の燃料も補給した。連邦道54号線ではタンジベイ村は重要拠点だ。 ここは西サヤン山脈が本格的に始まる手前で、ケベジ川の源流小ケベジ川にいくつもの山川が合流してくる低地、湿地帯になっている。この低地(沼地)には19世紀末から20世紀初めころには、もう集落ができていたそうだ。つまり、その頃からトゥヴァへの植民がはじまっていて、後には、ロシア帝国のエニセイ県からロシア帝国保護領ウリャンハイ地方(今のトゥヴァ)へ抜けるウス街道が通るようになったのだ。1910年の頃、トゥヴァへの国境までウス川沿いに開通したウス街道には、1日の行程ごとに、換馬を準備し旅人にサービス提供のできる宿場町ができていた。鍛冶屋も必須だ。1914年のロシア帝国によるウリャンハイ地方の保護領化後も、ウス街道の建設・整備は続いた、現在も。 1969年の地図にはチョールナヤ・レチカ村やパクロフカ村は載っているが、タンジベイ村の名前はない。その地図では、道路はチョールナヤ・レチカ村を通り、白タンジベイ川や黒タンジベイ川などが流れる低地帯を通りぬけ、小ケベジ川を遡り、クルミス山脈の西を大迂回してオヤ川の源流大オヤ川からオヤ湖に出る道が載っていて、当時までは、これがトゥヴァへ抜ける唯一の道だった。 ところが、1984年作成地図では、突然、タンジベイ村が白や黒のタンジベイ川河口の小ケベジ川に沿って大きく載っているばかりか、この村を始点としてトゥヴァへ行く道が2本記されている。タンジベイ村で別れた2本の道はオヤ湖の近くで合流するから、つまり、近道の新道ができたのだ。 タンジベイ村の歴史によると、1948年にこの地にバルト地方からリトヴィア人たちの強制移住村ができた。その後もベロルシア人などの強制移住者たちで人口が増え、移住者たちは林業の他、道路建設に従事させられていた。タンジベイ村は、ここを始点として大ケベジ川を遡り、クルミス山脈をオヤ峠で越えて、オヤ湖に出る新道建設基地だったのだ。新道はずっと近道でより安全なので、1978年開通と同時にこちらの方が連邦道となった。今は、旧道はクィズィールへ向かうこの実用道から外れ、整備されていないので、通りぬけられるかどうかも不明だそうだが、特別にこちらを通るツーリストもいる。そのブログもあって、帰国後読んだのだが、時間があったら試してみたかった。 タンジベイ村は林業と道路建設と保全で、1984年ごろには地図に載せてもらえるくらいの村になったのだ。2008年にここで一休みした時、村の名前の響きが面白いので覚えていて、帰国後ウェブ・サイトを調べてみると、地元の学校が出している詳細な記事を見つけた。学校の博物館の先生たちが発行しているサイトで、サヤン山麓のこの地の地形、河川、湖、動植物など、この村の周囲ではふんだんにある自然について説明してあり、読むと面白かった。今回、できたら、その学校博物館によって説明を聞きたいと思ったくらいだ。しかし、寄ったのはネルリさんの知り合いの旅篭だけだった。『蒸し風呂と宿』という名前のその旅篭は、タンジベイ村の手前の街道筋にあり、すぐ見つけられた。
ネルリさんの知り合いというのは、つまり、ネルリさんがここで食事したことがあるということだった。タンジベイの村に入ると、食堂やガソリン・スタンドが並んだサービス・エリアはあるが、ここはカフェらしくもモーテルらしくもない普通の民家で、村から少し離れているので林に囲まれている。入っていくと女主人が菜園の手入れをしていた。菜園の片隅にはひよこ小屋がある。家の裏庭は林に囲まれた空き地で、ピクニック客が食事できるよう長いテーブルがあって、日よけ屋根も付いていた。主人夫妻が言うには、この日は停電で食事は出せないとのこと。それで、私たちは、自分たちが持ってきたお弁当、魔法瓶のお茶、主人夫妻が出してくれたジャムやミルクで食事した。 タンジベイの学校か文化宮殿(地域の文化発展の公民館のような施設)にできたら寄ってみたい、この村を一回りしたいと考えていたがここの主人夫婦と村のことを話せただけでも満足だ。 (後記、翌2013年、再びこの村を通った時、ついに、サイト発行の先生と会うことができた) タンジベイは確かにウス街道を作るため(だけに)にできた村だ。旧道だけの時も保全をしてきたし、並行して新道を建設し、今は保全している。西サヤン山脈越えの拠点であるタンジベイ村の重要さは増すばかりだ。最近は、ミヌシンスク盆地のクラギノ町からカラトゥース町(*)経由の道路が延び、タンジベイまで通じた。タンジベイからクラギノ町へいくには、連邦道54号線でミヌシンスクまで出るより50キロほど近道になる。 クラギノは最近注目の町だ。なぜなら、シベリア鉄道の支線アバカン・タイシェット線のクラギノ駅からトゥヴァのクィズィールまで鉄道を伸ばすという念願の大工事が実行に移されているからだ。今や、タンジベイは、連邦道54号線が村を通り抜けるばかりでなく、クラギノ・トゥヴァ新鉄道も近くを通ってくれることになり、この辺の田舎では交通の要所になっているのだ。
旅篭『蒸し風呂と宿』を出たのは3時も過ぎていて、タンジベイ村の連邦道を進んで行った。村の初めに別れ道を示す大きめの道路標識がある。『右折クラギノ140、直進クィズィール250』とあって、この『右折クラギノ』が通じたばかりの道らしい。 タンジベイ村のガソリン・スタンドに寄る。ところが、ここも停電のため営業中止。再開は18 時過ぎだとのこと、と言ってももっと遅くなるかもしれない。この先はサヤン山脈の向こう側まで180キロはスタンドがない。山越えもできるかどうかわからない。暗くなるまでここでガソリンを待っているわけにもいかないので、途中で何とか見つかるだろうと、先へ進むことにした。 |
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エルガキ山中 オヤ峠、ブイバ峠 | ||||||||
ガソリンをあまり食わない速度で進めるのも、しばらくだけだ。道は急な上り坂になり、ヘヤピンカーブも何度も現れる。道路からサヤン山脈のぎざぎざの頂上が見え隠れする。ここはもうエルガキ自然公園で、クラスノヤルスクの登山愛好家なら必ず来る。最近は山小屋も多く、スキー場もできた。エルガキ自然公園というのは、ほぼ東西に650キロの長さで横たわる西サヤン山脈の東の支脈エルガック・タルガック・タイガの中でも連邦道に近い34万ヘクタール(3400平方キロだから鳥取県くらい)で、エルガキ山脈とアラダン山脈やオヤ山脈などの一部があり、最高峰は2265mと手ごろで、突き出た無数の山頂の形が美しい。連邦道近くにあって交通に便利なのか、登山者が多い。連邦道54号線は、自然公園を通り抜けるこの60キロが最も素晴らしいのだ。頂上の山並みが巨人の寝ている形に見える『眠れるサヤン』という雄大なシルエットも、雲がかかっていなければ見わたせる。どの辺から見え始めるだろうかと、時々止まっては車から出て、谷向こうの白い山頂の連なりを眺めていた。もう、ガソリン切れが心配なほど急な上り坂だ。
この先にオヤ湖という冷たく美しい湖があって、この湖からカザンツェヴォ村近くでエニセイに合流する254キロのオヤ川が流れでている。54号線は、オヤ川の支流ケベジ川を遡って来たのだが、この分水嶺で、オヤ川流域は終わり、別のウス川流域のブイバ川に近づく。 オヤというのはハカシア語で『谷』、トゥヴァ語で『崩落』という意味だそうだ。オヤ湖は道路からもすぐ見つかった。有名な名所を見逃さなかったので、喜んで湖の方へ下りて行くと、駐車場もある。湖岸はかなり沼地になっていたが、それでも足場を選びながら水に触れるくらいまで近づいて写真を撮った。年中冷たいので、底の石を数えられるくらい透明だと旅行案内書に書いてあるが、覗き込むほどには近づけなかった。寒かったからかもしれない。対岸には樹冠のとがった美しい形の木々が生えていた。きりっとした湖面の青い水平線、その上には垂直に立ち並ぶ幹々と、その奥のなだらかにうねる山並み。此岸のヤナギランはもう枯れて色はなかった。オヤ湖を見逃したのでは、エルガキを通ったことにならない、と思う。 オヤ湖を過ぎるとすぐ分かれ道がある。これが、タンジベイで別れた旧道の合流点だ。今、この旧道でタンジベイまで、天候によっては行けるかもしれないが、もちろん舗装はされていない。本当はタンジベイから、こちらの道を通ってきたかった。今、旧道をこちら側から2キロほど行ったところに、オヤ山脈やアルダン山脈(どちらも西サヤン山脈)への登山基地の一つになっている山小屋があるらしい。さらに、道路標識によると28キロのところにカーメンニィ・ゴーラッド(石の町)、つまりクライミング用の美しい形の岩山群があるそうだ。 |
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緊急事態救助センターМЧС(エム・チェー・エス) | ||||||||
この分かれ道を過ぎたばかりのところがブイバ垰で、スノーシェードと礼拝堂のあったオヤ峠と同様約1470メートルの高度。連邦道54号線中では最も高いところで、オヤ川水系とウス川水系の分水嶺となっているのもうなずける。ここにロシア緊急事態救助センターМЧС(エム・チェー・エス)があるので、そこでガソリンを分けてもらったらどうかというネルリさんの提案だ。なにしろ、そこは救助センターではないか。 センターはロッジ風で、感じのよい高台に立っていて、木の香りがしそうなほど新築だった。玄関前の石段の横には大きなクマとイノシシの彫刻まである。ちょうど出てきた隊員に燃料切れなので少しでもいいから売ってほしいと、ネルリさんと私で頼みこんだ。
「上司に聞かないとわからない」の一点張りの若い隊員に、 「では聞いてください」と食い下がって、一緒に建物の中に入る。デスクに座っていたちょっと偉そうなに上司にネルリさんは、 「ほら日本から来た旅行者が困っていますよ、日本から、日本から」と『日本』連発する。私にはこうは言えない。呆れられたのかどうか、 「じゃ、5リットルなら分けてあげよう」と言ってくれる。それでも50キロぐらいは持つかもしれないので、大感謝して、私は日本から持ってきた日の丸の扇子(百円ショップで買ったものの一つ)を、その上司の大尉さんに進呈した。扇子は女性の持ちものだと思っている隊員たちに、日本ではサムライが持つこともあると説明する。軍用ジープのような緊急事態省の 「車のフロントに飾っておくか」と、横の隊員が冗談を言ってくれる。 ブイバ峠には、道路脇にしゃれた山小屋が何軒か建っている。エルガキ登山客やスキー客の基地になり、過疎地の収入源になっているのかもしれない。運転手のパーシャもここまでは来たことがあると言っていた。私も以前何度か誘われたことがあるが、今までのところ苦しい(と思われる)登山はパス。車で通り過ぎたことなら5回。巨人『眠れるサヤン』のシルエットを見られたのは、1998年の初回のみで、期待した今回も、結局雲がかかって見られなかった。2000メートルもない尾根だが、めったに姿を現さないようだ。 |
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ウス川沿いのアラダン村 | ||||||||
道はブイバ川に沿って下って行き、いくつもの小川を渡り、ブイバ川を何度も渡っていくと、ウス川(236キロ)に合流する。連邦道54号線のトゥヴァに近い区間は、このエニセイの右岸支流ウス川と、ウス川の右岸支流ブイバ川に沿って建設されたので、特別に『ウス街道』と呼ばれているくらいだ。しかし、その後、2通りの新道ができたので、今ではウス川沿いは24キロだ。ウス川の支流ブイバ川沿いも30キロとそれほど長くない。2014年開通(予定)とか言うクラギノ・クィズィール新鉄道も、ウス川沿い24キロだけは連邦道と並んで走る。
そのウス川の右岸に建設途中で廃墟になった建物が見えてくる。ここアラダン村はソ連時代にウス街道建設と保全のため計画的につくられた村だった。が、今はこんなに寂れていると、後ろの席のネルリさんが嘆いている。あとで調べてわかったことだが、将来はここにクラギノ・クィズィール新鉄道のアラダン駅ができる。 「まあ、でも、住民も少し戻ったみたいだわ」。ネルリさんはガイド業なので、たまにはここまでも仕事で来ることがあるのだ(2010年の人口は200人)。スタンドはもちろんないが、ガソリンを売ってもらえるところがあるかもしれない。緊急センターで分けてもらった5リットルでは、まだ70キロも先のトゥラン市のガソリン・スタンドまでは持たない。 幸い、小さな食堂横の空地でポリタンクから20リットル買うことができた。質はわからないが燃料を手渡しのように買えたり、味は悪かったがピロシキなんかが売っているミニ食堂があったりして、田舎のサービス・エリアと言えるではないか。 道路はウス川の畔を川面と同じくらいの高さで通じていたり、樹海の中に入ったりして進む。ブイバ垰の南斜面を流域とするウス川は、大小の支流を集めて、今はサヤノ・シューシェンスカヤ発電所ダム湖になっているエニセイ右岸に流れ込む。ウス川に沿ってずっと下っていくと中下流にやや広めの河原、小さめの盆地があってヴェルフネ(上の意)ウシンスコエとニジネ(下の意)ウシンスコエという村がある。19世紀末からある集落らしく、今でも合わせて人口が1700人もいる。が、54号線はそこまでは行かず、村より25キロほど上流でウス川と別れ、トゥヴァの方へ曲がる。 ずっと西サヤン山脈の中を走っていて、『暗い針葉樹林』と言われているトウヒやモミの茂る『密林』が続いていたところで、トゥヴァに近づくにつれてカラマツが増えて『明るい針葉樹林』になり、トゥヴァとの『国境』クルトゥシュビン山脈のノレフカ峠(1568m)まで来ると、木々はまれになる。この峠からトゥヴァの方を眺めると、今までとはがらりと違って広い草原に真っ直ぐな道が通じているのが見渡せる。これは、何度見ても強烈に印象的だ。 |
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シベリア最大クルガン『アルジャン1』と黄金の『アルジャン2』 | ||||||||
クラスノヤルスク地方とトゥヴァ共和国との境界は国境と呼ばれている。そのノレフカ(ゼロの意)峠にトゥヴァ様式のランドマークが立っている。ノレフカ峠のすぐ下の草原盆地に見える小さな集落はシヴィリグ村で、そこまで5キロの道のりを一気に下る。道路は昔のシビリグ税関、今は交通警察署の前を通り過ぎて、長さ80キロで幅40キロというトゥラン・ウユーク盆地へ入ってゆく。針葉樹の西サヤン山脈の中と違って、乾燥した草原が続き、遠く近くに見える低い丘陵には木も生えていない。峠から下るといきなり現れた草原盆地は、山中と違って見晴らしがよく、ほとんど四方に地平線が見えて爽快だ。 もう7時になっていたが、有名な『アルジャン2』遺跡にまた寄りたいものだ。西サヤン山脈の支脈南クルトゥシビン山脈とウユーク山地に挟まれ、ビー・ヘム(大エニセイ川)の右岸支流ウユーク川(143キロ)の流れるトゥラン・ウユーク盆地には、紀元前9‐3世紀のシベリア・スキタイ文化の数百の古墳が集まっているので『王家の谷』と呼ばれている。直径100メートル級のものも数十基はあるそうだ。 トゥラン市の手前で連邦道から出て西へ26キロ行ったところにアルジャン村があり、その村はずれに直径120メートルというトゥヴァばかりか南シベリアでも最も大きい『アルジャン1』古墳があった。今は、その跡がわずかにわかる程度だそうだ。というのは、古墳を形作っていた石材は村の学校やソフホーズ事務所建築の材料となり崩壊が進んでいたので、1970年代には学術的に発掘されてしまったからだ。この『アルジャン1』古墳が紀元前9、8世紀とされたことで、ユーラシアの草原地帯の歴史が再考されたと、たいていの中央アジア史には載っている。古代ギリシャ時代黒海北岸に活躍していた遊牧スキタイ文化(紀元前5-6世紀から)は、実は南シベリアが発祥地と言われるようになった。スキタイ時代馬具は前スキタイ、スキタイ前期、後期と発達して来たのだが、トゥヴァの古墳からはすべての発達段階の馬具が発掘されているからだ。スキタイ文化はここトゥヴァから西の黒海北岸の草原地帯に波及したと、今ではみなされている。また、アルジャン村とトゥラン市の中間の草原で2001年に発掘された直径80メートルの古墳は盗掘されていず、20キロの黄金が見つかったことで当時大センセーションだった。 アルジャンというのは薬効ある水、鉱水、湧き水と言う意味のトゥヴァ語だ。アルジャン村と名付けられたのは、村はずれの古墳から淡水がわき出ていたからだ。1970年代発掘後はわき水も消えた。が、村の名前はアルジャンとして残っている。2001年発掘の黄金が見つかったほうの古墳は『アルジャン2』と名付けられた。トゥラン・ウユーク盆地には4基から13基程度が固まってあるクルガン群がいくつもあり、一つ一つのクルガンが30m以上と大きいものが多い。スキタイ時代の騎馬文化はトゥヴァではウユーク文化とも言われる。(ハカシアではタガール文化、アルタイではパズィルィック文化が相当する) |
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初めのロシア農民移住地トゥラン・ウユーク盆地を抜け、クィズィール(クズル)市へ | ||||||||
トゥラン市手前の曲がり角でいったんは止まったパーシャは、『アルジャン2』古墳へは寄らないという。車の調子が悪いとか。では、帰りに寄ればいいか。それに2008年に来たことだし、アンドレイさんも待っていることだしと思い通過した(帰りは別の道を通ったので、今回は寄れなかった) トゥラン市(5000人)とその近くのウユーク村(800人)はクラスノヤルスク地方、つまり、かつてのエニセイ県に一番近く、古いウス街道を伝って、19世紀末ロシア人が初めに植民した場所だ。だからトゥヴァへの入り口とも言われている。人口30万人のトゥヴァ共和国には、都市は11万人の首都クィズィール市のほか、1万3千人のアク・ドゥヴラック市、1万人のシャガナール市、9千人のチャダン市、5千人のトゥラン市と全部で5個しかない。1万5千人のカー・ヘム町もある(『町』なのに『市』より人口が多いのは、炭田が発展したためだ)。トゥヴァでは都市人口は約51%。トゥヴァ住民のうちの16%のロシア人は多くが都市に住む。今は82%を占めるトゥヴァ人の割合は、1957年には57%で、その頃はロシア人の割合が40%だった。今は20世紀初めの民族構成(1918年トゥヴァ人80%)に戻ったと言える。
初めにトゥヴァに住んだロシア人は18世紀、宗教弾圧から逃れて、『罪ある地、つまりウラルより西のヨーロッパ・ロシア』からより遠くの、シベリアの奥地を求めてきた古儀式派だそうだ。彼らは時の政権から逃れて無人だと思われた地に移り住んできたロシア人だ。 一方、1870年代にはエニセイ川流域のチャー・ホリやシャガナールに交易基地ができたが、移住が正式に許可されたのは1885年で、エニセイ県からの農民たちがトゥラン・ウユーク盆地や、カー・ヘム(小エニセイ川)流域に住んだ。エニセイ県、いまのクラスノヤルスク地方からも近く、ウス街道(連邦道54号線)からトゥヴァに入ったところにあるのがトゥラン市で、トゥヴァへの門(ロシアからの)とも言われている トゥラン市には20世紀初めにはもうロシア正教の教会ができていた(スターリン時代に閉鎖、1990年復興)。市の中心の公園には『ソヴィエト政権のために戦った戦士』記念碑も残っているそうだが、私たちはトゥランでは給油しただけだった。薄明かりの夕方に見たせいか、寂れた感じの町だった。しかし、20世紀初めは、ロシアの大商人、例えば、サフィヤーノフ家の『トゥヴァ商業基地』もあり、政治的にも、辛亥革命後トゥヴァがモンゴルの保護領ではなくロシア帝国の保護領になった経過でも、ロシア革命後に独立タンヌ・トゥヴァ国が成立した過程でも重要な町だった。寂れているかもしれないが、トゥラン歴史革命博物館がある。トゥランと言うのはチュルク語で避難場所・要塞と言う意味があるそうだ。確かに、カスピ海から南シベリアにかけてトゥランと言う地名が多い。 トゥラン市から近いウユーク村も通り過ぎた。ここから60キロで今日の目的地クィズィール市に着くが、トゥラン・ウユーク草原盆地はウユーク村外れで終わり、目的地まではまだウユーク山脈を越えなくてはならない。このウユーク山脈越えにも新道と旧道がある。ウユーク山脈を超えると、やっと広いトゥヴァ盆地に出る。全人口31万人の大部分は、この東西に400キロ、南北は25から70キロ、標高500-1100mというトゥヴァ盆地(東のウルック・ヘム盆地と西のヘムチック盆地を合わせる)に住んでいる。住民はクィズィール(クズル)市のような人口10万人の首都や、アスベクト産地の1万5千人のアク・ドゥヴラック市、ウルック・ヘム炭田町(5−6個ある)を除けば、牧畜に従事している。穀物の灌漑農業も副業にしている。 ロシア側からトゥヴァ盆地に入ったばかりのところにあるのが、北東トッジャの山地から流れてくるカー・ヘム(小エニセイ川)と、西のモンゴルからのビー・ヘム(大エニセイ川)の合流点にできたクィズィール市だ。盆地の入り口でネルリさんが、クィズィール市で待っていてくれるアンドレイ先生に電話する。 2本のエニセイ源流の合流点にあるクィズィール市へ向かって、ウユーク山脈を越えた道はひとえに下っていく。その斜面、クィズィール市がもう見渡せるところにパーキングエリアがあり、、母シカから乳をのむ子ジカの像があって牧畜の国らしい(シカではないかもしれない)。が、私たちはアンドレイ先生も待っている『ラヴ・ヒル』とかいうもっとクィズィール市近くの見晴らし台に急いだ。 『ラヴ・ヒル』に、アンドレイ先生は23歳の長男オルラン君、長女の子供たちと待っていてくれた。トゥヴァ滞在中私たちの案内はアンドレイ先生ばかりでなく、愛車コロナ・プレミオ運転のオルラン君も協力してくれた。オルラン君は2008年に、この2001年製プレミオを28万ルーブル(2012年のルートでは75万円)で買ったそうだ。 アンドレイ先生が言うには、当初の目的だったポル・バジン遺跡への許可は、ロシア人のネルリさんやパーシャの分は取れたが、外国人の私の許可は取れなかったそうだ(1カ月はかかるのだそうだが、ではいつからとりかかったのだろう、こちらの希望は数ヶ月前に伝えてあったはずだが)。結局はみんなであきらめた。トッジャへ行くことにした。(後で、ネルリさんとパーシャの許可証を写真コピーさせてもらおうとしたが、ネルリさんは「これは私にもらったのだからね」と撮らせてくれなかった。こんなことから、この先の彼女との関係がぎくしゃくすることになった。) トゥヴァ滞在中の宿泊は私たちの招待機関のトゥヴァ国立大学が用意してくれたゲスト・ルームで、大学近くの5階建て建物の5階にある。下の階は教職員や学生の寄宿舎らしい。建物の裏側に階段ごとに入口があり、各入口には鍵がかかっていて、上っていくと階ごとにドアがあってそこにも鍵があり、フロアに入っても廊下に並ぶ部屋ごとにも鍵がある。5階の私たちのゲスト・ルームにたどり着くには、まず外からの入り口からかぎを開けて入り、5階まで上り、5階フロアのドアを開けて入ると、共通のトイレや風呂場、台所と部屋の入口が並んだ廊下がある。部屋は3つあって、2人用の部屋はパーシャ用、4人用が私たちで、もう一つにはイルクーツクからきたロシア文学の教授が住んでいた。この教授は翌日にはいなくなり、このブロックは帰るまで私たち専用になった。大学が招待したので宿泊料は無料。台所があるので自炊もでき、きっとトゥヴァにすれば快適な住居なのだろう。もっと厳しいところに逗留したことは何度もある。ここは、1泊3000ルーブルの3星ホテルの様な、それなりに快適な訳にはいかない。 先ほどの待ち合わせの見晴らし台『ラヴ・ヒル』についたのは薄暗くなった8時過ぎ。町に入って夕食をとったのは9時過ぎ。宿舎に落ち着いたのは11時過だった。 |
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