クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 April, 2013  (校正2013年5月24日、2014年3月25日、2015年6月15日、2018年10月30日,2019年12月7日、2021年10月6日、2022年12月1日)
30−(7)  トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年
      (7)アザス(トッジャ)湖
             2012年9月3日から9月14日(のうちの9月7日
Путешествие по Тыве 2012 года(03.09.2012-14.09.2012)
1) トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 トッジャ地方を含む予定を立てる
2)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ダム湖水没クルガン ハカシアのチェルノゴルスク市泊
3)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
4)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミー(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
5)9/6 トゥヴァ東北部略地図 小エニセイ川へ トゥヴァの行政区コジューン(郡) ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 震源地カー・ヘム中流の村々 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る
6)9/6 3つの峠越え、トゥマート山脈 中国の紫金鉱業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 6村のトッジャ郡、トゥヴァ・トッジャ人
7)9/7 トッジャとトーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
8)9/8.9 緑の湖 アザス湖を望む ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』、ロシア帝国から西モンゴルへの道 ウルック・オー川谷
9)9/10.11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラク(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
10)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村 アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
11)9/13.14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドゥヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画

Тыва、Туваのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてロシア語の転記に従って表記した

トッジャとトッジャ郡の中心トーラ・ヘム村の歴史
トッジャ略地図拡大
 9月6日(木)朝、その夏屋の外へ出てみると、かなり寒かった。トイレ小屋への小路の草は露で湿っていた。板塀で囲ってある敷地の外に出ると霧が深くかぶさった草はらが見えた。昨夜は暗くて気がつかなかったが、家は高台にあり、やはり板塀で囲った隣の家まで草はらが広がっている。深い轍(わだち)の跡のある道が続いていて、近くの木々も霧でかすんで見える。
 9時半ぐらいに荷物を車に積んで出発した。アンドレイさんのいとこの娘さんの夫さんの車だった。目的地のトッジャ(アザス)湖までこの車で送ってあげると言うことだった。ガソリン代の実費だけを払えばいいそうだ。トッジャ湖は自然保護地帯になっているので、許可がないと入れないとアンドレイさんは、クィズィール(クズル)市出発前から言っていた。許可はトーラ・ヘム村の役所で取れると言うことだった。それで、ひと夜の宿を出ると、まず、やってきたのはトーラ・ヘム村の中心オクチャブリ通りにある郡役場(行政機関と地方議会が同居)だった。
トーラ・ヘム村オクチャブリ通り
トッジャ郡役所前
中央図書館

 郡知事(行政機関議長)の都合がつくまで、待たなくてはならないと言われて、向かいの郡立中央図書館に入る。トーラ・ヘム村のオクチャブリ(ロシア10月革命からの命名)と言う中央通りは、全トッジャ郡の行政と文化の中心らしい(レーニン通りとかマルクス通りはこの村にはなく、オクチャブリ通りが一番革命的)。図書館は郷土博物館も兼ねている。古いトッジャの写真や、トッジャ出身の有名人の7人の写真と履歴、トッジャの産業や、歴史が展示してあった。どんな7人が勲章を胸にぎっしり飾った写真付きで掲示されているのだろうか。ソ連邦労働英雄が一人、コルホーズの経営者で政治家が一人、最初のトゥヴァ人医師、第2次世界大戦で戦死したソ連邦英雄、トッジャ郡元党第一書記、文化活動家、それに文学家だった。文学家キュンゼゲシュはプーシュキン、マヤコフスキー、ゴーリキーなどのロシア古典作品やソ連現代ものをトゥヴァ語に訳した。北方少数民族の『文学家』は『民族語の発展に尽くす』はさることながら、ロシア文学の紹介が最重要課題だった。
 中央図書館の館員たちはトゥヴァ人だが、館長はロシア人女性だった。彼女によると、最近は政府からの補助金が豊富になり、トッジャのインフラも整ってきているとのこと。ルンシン社の鉱山開発のおかげだと強調していた。

 18,19世紀、トゥヴァが清朝中国の領土だったころ4つの行政区(コジューン旗)があり、そのひとつがトッジャだった。清朝時代、ロシア帝国保護領時代、独立トゥヴァ時代、ソ連時代、現代と、各コジューンは分割されたり統合されたりはしたが、トッジャ・コジューンだけは現在まで、区域も名前もほぼ変わらず続いている(全く隔離されたような地域だから)。
 清朝中国領ウリャンハイ時代の末期の1910年代頃、トッジャ・コジューン(おおむねトゥヴァ・トッジャ人のみが住んでいた)は4つのスモーン(大村か)に分かれていた。その一つのコル氏(氏はрода共同体)のコル・スモーンには9個の村(アルバン)があったが、その一つのエーン・スク村が、トッジャ・コジューン全体の行政中心地で、ここに首長が住み、1815年に創立されたと言うエーン・スク仏教寺院もあり、最も人口が多かった。ハム・サラ川やウルク・ダク山岳森林地帯のアク氏のアク・スモーンや、東部のツンドラ・山岳森林地帯のバラーン氏のバラーン・スモーンは、定住地がなく氏(共同体)毎にトナカイ遊牧の営地があるだけだった。オー・ヘム川流域やその上流地帯を占めていたホユーク(ヒューク)氏のホユーク(ヒューク)・スモーンは、1915年の天然痘の流行で消滅した。だから、今のトッジャ人は、アク氏、コル氏、バラーン氏やその他の小規模の氏でできているのだ、と言うことを館員の一人のトゥヴァ人女性が教えてくれた。(昔は大きかった4つの氏と、そのほかの小人数の氏の生き残り子孫が、今のトゥヴァ・トッジャ人。移動して去って行った氏員もあった)
 氏(род)は、苗字のようでもある。同じ『氏』は同じ出身の共同体を成す。ソ連時代、トゥヴァ人もロシア風の『名・父称・姓』を名乗ることになり、姓は氏からとった。だから同じ姓がトゥヴァは多い。バヤロフカからトーラ・ヘムへのバスの中で知り合った青年から「日本にはいくつ氏があるか」と聞かれた。姓名の姓なら無数に(20万種とか)あるが。そして同じ姓の場合、親族とは限らない。
 トーラ・ヘム村は、昔チェク・ペリク(キノコの地)と呼ばれていて、当時の行政中心地エーン・スク村から、アク氏の遊牧占有地ハム・サラ川へ行く時はここを通った。1930年ごろ、定住化が進むと、ここに学校や病院が建てられ、川の名前からトーラ・ヘム村と改名され、郡の行政中心地となったそうだ。
トッジャ郡の霊水
サヤン山麓の少数民族拡大
 今、トッジャ郡は、トゥヴァの首都クィズィール市の方より、イルクーツク州の方を向いている、と言う。トッジャの東北と接するイルクーツク州のウダ川上流には自分たちとよく似たトッファ人が住んでいるからだ。またブリヤート共和国のオカ川上流のトッジャ郡と接するオキン郡にも自分たちの仲間(ソイオート)が住んでいる。
 トッジャ郡の北東にある伝説的なチョイガン(トドマツの意)霊水場へ行くには、クィズィール市からより、イルクーツクからの方がまだ便利で、今までは湯治客の70%はイルクーツク人だ。
 たぶん、図書館で1時間以上の時間を過ごした。アンドレイさんが、トッジャ郡知事の都合がついたからと呼びにきた。郡庁舎は郡会議場もあって木造平屋で、知事(議長)の執務室の前には、面会時間が『第2,4木曜日の2時からのみ』と書いたお知らせが張ってある。(つまり、この日はこの時間ではない)
トッジャ郡知事(議長)アイゥイル=サハー氏
イルクーツク側からのチョイガン・ダバン峠
(ロシア地理学協会のサイトから)
トゥヴァ側からのチョイガン鉱泉場への道
(知事にもらった冊子の写真から)

 知事室にいたのは10分弱で、アンドレイさんが私たちを紹介し(アンドレイさんはクィズィール市の大学でも、ここでも、ネルリさんがこのグループのリーダーで、クラスノヤルスクのアカデミーで働いていると大げさに言うので、いつもちょっと不快だった)、知事が今ツーリスト・ルートを整備しつつあるチョイガンのことを話しただけで、いつアザス保護区へ行く許可のことを話したのかわからなかった。それは別のところでもう出ていて、この時は知事が一応面会した、つまり私たちが表敬訪問しただけなのかもしれない。と言うより、訪問者が何者なのか実物にあって確かめたのだろう。郡知事は表紙裏に献辞を書いて、記念にと言って冊子を一部くれた。それは、2011年までに調査したチョイガン霊水の地形的、薬学医学的分析と、クィズィール市やトーラ・ヘム村からのルート探検報告書を本にしたもので、あまり資料のない高い山脈に囲まれたトッジャ盆地、つまりビー・ヘム高地のことが、これで少しはわかる。

 トゥヴァ共和国全体には名前のあるものだけでも107のアルジャン(霊水の湧き出ているところ、鉱泉、温泉)があり、そのうち30か所がトッジャ郡にある。たいていのアルジャンは到達困難な超奥地にあるが、地元の湯治客が絶えない。療養所が建てられている(いた)ウシュ・ベルディール(上記トッジャ略地図の38)以外は、どのアルジャンにも、板塀で囲った更衣室と湧水を導く木の樋以上の設備はない。トゥヴァの数あるアルジャンの中でも、北のアルジャンと言われるウシュ・ベリディールと並んで南のタルィスは効き目が大きいと古くから有名で、施設も他よりも整っている。(シヴィリグ Шивилигу と言う東部山中の有名な鉱泉上は人気が高い)

 チョイガン鉱泉群へはイルクーツク側からのルートでは、オキン高原のオルリカ村(ブリヤート共和国)までは道がある。そこからは馬に乗って、チョイガン・ダバン峠(1931m)で東サヤン山脈を越えて、トゥヴァ側に出るとすぐチョイガン・アルジャン鉱泉に着く。アルジャン・ヘム(川)畔にあるその一帯には20か所の鉱泉があって、4度から43度までの源泉が噴き出ているそうだ。標高は1550m。
 トゥヴァ側からのルートも、やっと最近開拓された。ツーリストを、クィズィール市から、トーラ・ヘム村経由その15キロほど北東のメスティーチコ・オレブク(上記略地図の36)まで、車で1日の行程だ。その行程、トーラ・ヘム村からメスティーチコ・オレブク(ここにも鉱泉がある)まで、丘陵草原や灌木林の中を行く。オレブクにキャンプがあるので一泊して、それから先はどうしても車輪は通れない。60キロの道のりを4日間、馬(トナカイの方が適しているそうだ)に乗って東へと行くと目的地に到達できる。その最近開拓されたと言う4日間の馬上のコースには、1日行程ごとに、ユルタ(遊牧民の移動式住居で円柱形)やチュム(同じく移動式住居で円錐形)が建っていて宿泊できる。チョイガン・アルジャンでは7日間滞在、帰りも同じコースで、15日間の旅となる。
 素晴らしい旅行だ。トッジャ郡は無数の河川湖沼と山岳地帯の膨大な地に、集落などほとんどなく、くねくねした細い山道、つまり、けもの道(トナカイ遊牧道)があるだけで、ビー・ヘム(大エニセイ川)畔のトーラ・ヘム村など以外へは、たどり着くのは容易ではない。そのコースの写真を見ると灌木の間や草原沼地の中を、ごつい服(寒さ除け・吸血昆虫除け)で全身をすっぽり覆った探検隊のような一行が進んでいる。谷間では川を伝って、と言うより川の中を進んでいる。

 アンドレイさんのいとこの娘さんの夫さんの車でトーラ・ヘム村を出発する前に、ガソリンを入れ(30リットル700ルーブル)、食料とヴォッカも数瓶買った。アンドレイさんが言うには、アザスのメスティーチコのようなところではルーブルなどの紙幣ではなく、ヴォッカが一番効き目があると言うことだったので。
アザス(トッジャ)湖畔『トシュトゥク』宿へ
 トーラ・ヘム村から目的のアザス湖まではかなりあって、『地面のかたい道(つまり車輪がめり込まない)』を10キロくらい行くとアディル・ケジクという人口千人余(すべてトッジャ人)の立派な村に出る。仏塔も建っていて、低い電柱が道路脇に建ち並んでいた。昔は2、3のチュムがあるだけだったこの地に、1949年『ソヴィエトのトゥヴァ』というトナカイ飼育のコルホーズができた。小麦の栽培もする優秀なコルホーズで『長者コルホーズ』とも言われ、モスクワで表彰されたくらいだった。当時のコルホーズ長が、トーラ・ヘム村中央図書館の『郷土の偉人』コーナーに写真入りで載っているくらいだ。ソ連崩壊後はトナカイ頭数も激減し、農地は放置された。今、村には『氏 род』の共同体が数グループある。村の中に人が少ないのは、働き手たちはトナカイ放牧で、夏の間はより高い山に登っているからだそうだ。アディル・ケジク村は、アザス区の行政中心地で、アザス(トッジャ)湖にはいくつか漁業基地もあり、北の草原地帯にも遊牧基地がある。それらの行政中心地と言う訳だ。後で知ったことだが、この村の学校付属博物館にはエーン・スク寺院の遺物が保管されている。
『長者』コルホーズ村だったアディル・ケジク
標識の下を降りると霊水がわき出ている泉がある
アザス湖への道
私たちの宿『トシュトゥク』に到着
オーナーの孫娘と敷地内のチュムの前で
塀の向う側には旧『アザス』宿泊所の廃墟

 アディル・ケジク村はトーラ・ヘム盆地にある。村を通り過ぎたところの道端に霊水の案内板が建っていた。霊水の湧き出ている所にはオヴァー(石を積み上げた塔)も必ずある。案内板はトゥヴァ語でしか書いてなくて、全く分からない。アディル・ケジク村にはトゥヴァ人しか住んでいないからだ。
 道は、トッジャ湖から流れビー・ヘム(大エニセイ川)に注ぐ延長34キロのトーラ・ヘム川右岸の草原を行く。昔のコルホーズの跡か、幾つもの大型農機具が並んでいる所があった。今でも使っているのか、それとも廃棄されたものなのか遠くてわからなかった。途中、やたら平坦な草原もあり、以前は飛行場だったとか。
 アディル・ケジク村を出ると道路の状態は悪くなった。だが、アンドレイさんのいとこの娘さんの夫さんの車なら大丈夫だ。途中、ランチのため小高い丘に登ってみると、オヴァーがあった。この道を通る人は、ここに上って、土地の神に敬意を払うのだろうか。高みから見ると、緑の草原の中、茶色の道が一本上がったり下がったりしながら伸びている。下がったところでは道が水たまりになっている。

 間もなく湖面が見えてきた。アザス(トッジャ)湖の一部のクジュール・ホリ(湖)だ。数軒の家が建っている。これはソ連時代、魚の燻製場だったのだろう。細長い水路でクジュール・ホリ(湖)と繋がっているトッジャ湖の岸辺には、漁師さんの仮小屋もあったかもしれない。

 さらに『地面の硬い道』だが悪路を進んで、『トシュトゥクТоштуг』と看板の出ている板塀の前に車が止まったのは2時半ごろ。ここはどうやら、アザス湖畔で運営している唯一の宿泊所らしい。敷地内には家が2棟あるが、一軒は建設中らしい。まずは、アンドレイさんが誰かいないかと、犬にほえられながら探しまわってくれた。人気のない敷地だが、男性が現れてオーナーを呼んでくれた。私たちがここに宿泊することになっているのだと、オーナーとアンドレイさんが話を付けてくれる。横長の建物の中央ポーチから入ると、2人用から5人用の部屋が8室ほど並ぶ廊下があり、宿泊客はいなくて、好きな部屋に寝てもいいと言われた。だから、いくつかのへやの鍵を開けてもらって、好きなのを選んだ。この建物の一角に食堂と台所、オーナーの部屋もある。オーナーのところにはサンクト・ペテルブルクで学んでいると言う孫娘が泊まっていた。他にトゥヴァ人男性が2人働いていて、建設中の家の手直しや、車の運転、暖炉の薪くべなどの仕事をしているらしかった(そのうちの一人が初めに現れてくれたのだ)。オーナーは、脳卒中のためか右半身が付随なので、不自由そうに歩いていた。
 敷地内の空地にはチュムが建っている。これは展示用に作ったらしいチュムで、ここでは寝泊まりできない。しかし、折りたたんでどこか森の中に持って行って遊牧基地にできるかもしれない。後で気がついたが、トーラ・ヘム村の中央図書館でもらったトッジャ郡のパンフレットに印刷してあるチュムは、間違いなくこれだ。
 敷地の奥にはトイレ小屋、入り口近くには蒸し風呂小屋もある。
 『トシュトゥク』の少し離れた隣には、昔のツーリスト基地『アザス』があった。ソ連時代のこのような宿泊施設の営業期間は、たいてい夏場だけだ。最近は各地で冬でも営業している私立の施設ができている。旧ツーリスト基地『アザス』の広い敷地には4人用くらいの小屋(バンガロー)が数十個も見事に並んでいるが、窓ガラスなどはもうなくて、だから、中をのぞくと、2段になった4つの寝床とテーブル用の板だけが見えた。ツーリストには寝る場所があるだけで、水や電気をはじめ一切の設備はないが、管理棟に食堂はある、とツーリスト基地『アザス』の過去のサイトにあった。(ここ数年『アザス』は営業していない)

 『トッジャを見なかったものはトゥヴァを見たことにならない、アザスを見なかったものはトッジャを見たことにならない』という言い回しがトゥヴァにはあるくらい、トッジャ郡はトゥヴァ共和国の到達困難地の、たぶん自然美の極致であり、トッジャ郡の自然美の中心はアザス湖なのだ。
 トーラ・ヘム村の中央図書館の『郷土の偉人』コーナーに名前のあった文学者のひとり、レオニード・チャダムバの書いた児童用短編を、帰国後サイトで見つけた。1973年版『クィズィールからトッジャ、アザスへの旅』という物語の中に、
 『・・・トッジャには多くの湖がある。今私たちがいるのはそのうちでもっとも大きな湖だ。昔、ずっと昔、ここへトナカイを連れたある家族がやってきた。ある朝、湖を泳ぐ若いアカシカ(トッシュтош)を見た。そのアカシカが湖の主だと思った。それ以来、その湖をトッシュ(トッジャ)湖と呼んだ。本当の名前は、この湖に流れ込んでくる延長165キロのアザスазас川からアザス湖と言う。アザス湖という名前は、昔、人々は川の辺りで奇妙なオコジョを見たので、悪魔の(アザаза)オコジョ(アス ас)と呼んだ。そのアザ・アスからアザス川とアザス湖の名前になった』と説明している個所がある。アザス湖はアカシカの意味の『トッシュ』湖ともいい、どちらも正式名称で、地図でも『トッジャ(アザス)』と載っている。
 レオニード・チャダムの短編には、『トッジャは大発展した』というソ連時代のこの地方の様子が描いてある。ツーリスト基地『アザス』に主人公の2人の女の子が泊まっている。湖には漁師のモーターボートの音が響いている。空には飛行機が飛んでいる。『トナカイ飼育の夏営地へ飛んでいるのだよ』と地元の青年が説明している。ソ連崩壊後すっかり寂れて、元に戻ったトッジャ郡の各地に、昔の飛行場(草はら)は残っていても、便はもうない。モーターボートの音もない。
 ちなみにトッジャの名前の由来だが、トッジュТожуと現地の人達は呼んでいて、方言で9と言う意味なのも、湖に大小の9個の島があるからだ、という説明もある。
アザス(トッジャ)湖遊覧
 その日、4時過ぎには橙色の救命具を付けて、アザス(トッジャ)湖上の遊覧に出かけた。トッジャまで来たのも、このトッジャ湖を見るためだ。当初のテレ・ホレ(湖)のポル・バジン遺跡行きの許可が出なくて、トッジャ湖は代案だったが、代案でも代々案でも、私には、クィズィール市からトーラ・ヘム村までの道を踏破しただけでも満足だ。出発まで、トーラ・ヘム村はトッジャ湖岸にあると思っていたくらいだ。地図で見ても、イメージはわかない。
 トッジャ郡のメイン観光は、私たちのような初めての旅行者にはアザス湖で、まずは、湖上へ漕ぎださなくてはならない。湖岸にあったかつての『アザス』ツーリスト基地へ、夏休みにトゥヴァ各地から来た青少年も、最近できた『トシュトゥク』へ泊まりに来る旅行者も皆、魚釣りをしたり、湖上から湖を見たりすることになっている。宿泊手続きも、ボートの予約(と言うほどではないが)もアンドレイさんがやってくれた。
アザス湖上
漕ぎ手の背後の助手が
ペットボトルを切った柄杓で水を掻き出す
落葉樹の幹3本をそのまま利用した見張り塔
「こんな魚はどうか」
ボート遊覧代と魚代のウォッカを持つ2人

 船着き場は、私たちの『トシュトゥク』を出て、昔のツーリスト基地『アザス』の半壊れのバンガロー小屋群を通り抜けたところにある。アンドレイさんが案内してくれたが、自身は乗らないと言う。トッジャ湖は、青い山々と、湖岸の木々に囲まれた、無人の、それは神秘に美しい湖なのに。
 私とネルリさんが初めに乗ったのは、手こぎボートだった。漕いでいるのは迷彩服の作業着の上からトゥヴァ風模様の袖なし外套を着た年配の男性だった。少し若い助手も座っている。ペットボトルを切った柄杓でボートの底にたまった水を絶えず掻き出していた。ちょっと怖そうなボートだ。橙色の救命具は付けているし、ボートは岸に沿って進んでいるし、あまりにも美しい自然の中だったので黙っていた。空は晴れて、湖面は穏やかで、水鳥の群れも遠くで漁をしているらしいのが見えた。
 ボートは岸に沿って進んでいる。木々が岸辺ぎりぎりに生えていて、水面に落ちてしまっている茂みもある。水中に生えている葦の繁みの中を、しゃくしゃくとオールの音を立てて進む。オールになぎ倒された葦の茎が水面に倒れる。
 トッジャ湖の湖岸線は複雑に入りこんでいる。もう夕方の5時に近かったが、日は高かった。アザス湖に突き出た小さな半島をまわると高い見張り塔が見えてくる。自然保護地区にはこうした見張り塔が建っているのだ。違法侵入者とか不法漁業者などを見張るのかどうか知らない。そこにも船着き場があって、見張り塔の近くに小屋が3軒建っている。ここが私たちのボート漕ぎ手さんたちの仕事小屋か、仮住まいなのだろうか。とすると、彼らは自然保護区管理員なのだろうか。だが、そんなふうにも見えなくて、売りさばき先の少ない漁民のようにしか見えない。だから、旅行客相手に、現地価格で魚を売ったり、ボートに乗せたりして、稼いでいるのだ。と言っても稼ぐのは現金ではない、ウォッカだ。
 ウォッカ1本で大きいのを3匹と、ネルリさんが交渉してくれていた。その3匹が私たちの食事になるのだ。『トシュトゥク』では食事代は別料金だから、私たちはここで新鮮な魚を買って、自分たちでさばいて食べようと思ったからだ。
「今、魚を持ってくる、見張り塔に上ってもいいよ」と言って、彼らは一番大きい小屋に消えた。高さ20m以上はありそうな見張り塔は確かにてっぺんからの眺めはよさそうだった。よく見ると実にうまく建てられていた。20m以上の柱を立てたように見えるが、それは実は真っ直ぐに伸びた3本の落葉松の幹だった。幹の枝は落としているので、本当の柱のように見えた。同じような太さと高さの幹が3本、ちょうどよい近さに生えていたのを利用して、3本の幹に、高さを変えて3か所に床を付けたのだ。床は落ちないようにはすかいの柱が2本ずつ付いていて、次の階の床へ登るはしごもある。塔は4階まであって、梯子が打ちつけてあるが、登るのはためらった。梯子も床も、ぐらぐらしているように見えたのだ。足を乗せて体重をかけた途端ぐしゃっと折れないともかぎらない。3階の床を支えるかすがいも折れている。しかし、見事な塔だなあ。
「こんな魚はどうか」と、助手の男性が50センチほどの、スズキ目かもしれない魚を下げて現れた。ネルリさんがもっと欲しい、全部見せて、と言うと小屋から、網から上げたばかりらしい大小の魚の入ったかごを持ってきた。小さくても30センチ以上の、たぶん、スズキ目やサケ科などの魚がごじゃごじゃと入っていた。ネルリさんが、
「これとこれね。小さいのなら何匹もらえるの」とか言って、選んでくれた。今晩の夕食ばかりか明日の分まで調達できたので、私たちはトッジャ湖遊覧を続けるため、またボートに乗った。今度は、先ほどのタヌキの泥船のようなボートではなく、ひとまわり大きくてモーターも付いている。
 ぺしゃんぷしゃんというオールの音の代わりに、エンジンのぶるるっと言う音でスピードを上げて、湖の真ん中に出る。と言っても、複雑な形をした湖なので、どこが真ん中かはわからないが、岸からは離れた。前述のように、トッジャ湖には大小の島が9個あり、それぞれ地元の漁師たちから「ウルク・オルトゥルク」、「バルィクツィ・オルトゥルク」、「…」などと呼ばれている。オルトゥルクと言うのはトゥヴァ語で島と言う意味だから、これらは『大島』『魚島』『枯れ木島』『黒島』『小島』『トドマツ島』などと訳せる。
 10分ほど航行したところで上陸したのは、何と言う名前か聞かなかったが、シラカバなどが生い茂った美しい島だった。私たちが上陸するとすぐボートを運転していた年配の方のちょっとずるそうな表情の男性が、ウォッカを今欲しいと言う。今渡すと、すぐに開けて飲み始めるだろう。ネルリさんが上手に断ってくれた。酔っぱらっても、無人の湖上ではモーターボートを運転できるかもしれないが、素面の方がいい。
 小さな島で、上っていくとすぐ頂上に出て、対岸が見えた。この島へツーリストだか地元の漁師だかが、訪れた跡がある。つまり、ゴミや、ウォッカの瓶などの山があった。
 ヴォッカを飲み損ねたトゥヴァ人男性2人はすぐに、またボートを出した。湖上からの眺めは、素晴らしい。島や半島が多くて、この東西に20キロ、南北に5キロと言う大きな湖の全体は見渡せないが、ひし形に波模様が拡がる湖面と、遠くからとり囲む緑の低い岸辺、その向こうの青い山々は見飽きない。
 岸近くでは、水面に映った木々の緑の葉や白い幹が、波の動く通りのギザギザ模様を描いている。
 すぐに、出発点の船着き場についた。ヴォッカ1本の湖上遊覧は、2度の寄港地も含めて70分だった。船着き場ではアンドレイさんが待っていてくれた。もしかして多少危険な遊覧なので、心配していたのかもしれない。私たちは、ちょっとずるそうな顔の年配のボートの持ち主の男性と、実直そうな顔の助手に、遊覧代と魚代にヴォッカを2本支払い、ヴォッカを持った彼らと記念写真も撮って、別れた。
個人事業者オンダールさん
 岸に戻っても、時刻は6時前で、まだまだ明るかった。『トシュトゥク』では、敷地内のチュムをのぞきこむことぐらいしかすることがない。夜は冷えそうなので、部屋の暖炉に薪を多めに入れてもらった。
 敷地内でぶらぶらしていたり、食堂に出入りしたりしているうちに、この『トシュトゥク』に今いる4人と知り合いになる。特に、オーナーの孫娘さんと知り合いになって、写真を取り合ったりしていた。彼女はアップルのタブレットを持っていて、それで写真を撮っていた。なるほど、この超辺鄙のトッジャに休暇で来ているが、サンクト・ペテルブルクで学んでいるだけのことはある。サンクト・ペテルブルクでは、日本レストラン、つまりスシ・バーでバイトをしたこともあると言う。スシ・バーのロシア人客から見ると彼女も日本人に見える。
トシュトゥクの食堂で休憩中のオンダールさん
角の棚には家電とコンセント

 『トシュトゥク』では、もちろんワイファイもなく携帯の電波も届かない。それどころか電気もない。発動機で自家発電をやっている。夜の8時から電気が通じるようになると言われて、唯一電源のある食堂のコンセントにカメラの充電器をさしておいたが、充電ランプがついていない。いつ発電機を運転するかは、オーナーのオンダール・オットゥク=オールさん次第だ。
 オーナーさんの名前のつづりを教えてもらったおかげで、帰国後ネットで調べてみると、『トシュトゥク』は2008年に正式に個人企業者オンダールさんの私有物であると、クィズィール市の調停裁判所で判決が出たのだった。ネットにはその判決文が載っていた。それによると、この2棟の建物は、かつてのツーリスト基地『アザス』と同様トゥヴァ観光局の持ちもので、1987年建て始めたものだった。オンダール・オットゥク=オールさんが運営資金を貸したが、『アザス』は返済できなくて、それで借金の代わりにかオットゥク=オールさんが未完だった二棟とその敷地を、私有化しようとしたが、それを認めなかった『アザス』と抗争したらしい。なるほど、隣り合って、廃墟の『アザス』と、建設中の『トシュトゥク』が建っているわけが分かった。完全に私有化できたので、オットゥク=オールさんは、未完の2棟に手を入れて、旅行客を受け入れているのだ。手前の棟は、ほぼ完成して、私たちも宿泊しているが、奥の棟は手入れ中だ。『トシュトゥク』の建物は、だからとなりの『アザス』よりはちょっと新しいくらいの、古い建物なのだ。
 食堂にはテレビや、ミュージック・コンポのようなものまである。発動機が回っている夜の1,2時間は電源があるが、アンテナがあるのかどうかは知らない。座り心地のよい大きな長椅子や、プラスチック製の簡易テーブルと椅子セットがふた組ほどある。隣の台所には、暖炉があって煮炊きできるが、水はない。
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