クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 April, 2013 (校正2013年6月2日,6月24日,12月7日、2014年4月3日、2016年6月30日)
トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年
      (8)クィズィール市からシャガナール
             2012年9月3日から9月14日(のうちの 9月10,11日

Путешествие по Тыве 2012 года(03.09.2012-14.09.2012)

序)月/日 トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 予定を立てる(トナカイ遊牧のトッジャ地方も含める)
1)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ハカシア、ダム湖水没クルガン チェルノゴルスク市泊
2)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
3)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミー(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
4)9/6 トゥヴァ北東略地図 小エニセイ川へ トゥヴァの行政単位コジューン ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 震源地小エニセイ中流の村々 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る
5)9/6 3つの峠越え、トゥマート山脈 中国の紫金鉱業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人
6)9/7 トッジャとトーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
7)9/8.9 緑の湖  アザス湖を上から眺める ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 トッジャからの帰路
8)9/10.11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラック(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
9)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村 アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
10)9/13.14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドゥヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画

国名をトゥヴァ語に近く発音すると『トゥバ』だそうだが、ロシア語の転記は Тува または Тыва で『トゥヴァ』『トィヴァ』となる。当サイトではロシア語転記に従って地名などを表記した。

博物館館員モングーシュさん、大学講師カーチャと獣医アイ=ベックさん
 9月10日(月)、この日は車がない。アンドレイさんの息子さんのオルラン君が1日休暇を取って案内しようと言ってくれるが、お父さんからダメダメと言われていた。パーシャの車は火曜日に修理できるそうだ。夕方、オルラン君の仕事が終わったら案内をしてくれるということになった。それまではアンドレイさんも来ない。それで、ネルリさんは自分で公園でも行くと言っていたが、私はクィズィール(クズル)市の1日目に国立博物館で久しぶりに再会した館員のオーリャ・モングーシュさんに電話をかけてみた。忙しいが、昼休みなら会えると言う。
クィズィール市中心 拡大

 クィズィール市は小さな町で、アンドレイさんたちの国立大学、私たちの宿舎のある国際通りや、国立博物館、劇場、国会、アジアの中心碑、寺院などどこも15分ぐらいで歩いて行ける。
 昼休みに私たちの宿舎の近くまで来てくれたオーリャ・モングーシュさんは、近くの『トゥヴァ伝統文化発展センター』に案内してくれ、この時間には会えなかったが、トゥヴァ・シャーマン(会議)議長で、歴史学博士と言う人の電話番号もを書いてくれた。(後で自分から電話するのは遠慮したが)。
 オーリャさんと劇場前のアラート(牧夫)広場の噴水や、チベット仏教の国の首都らしい赤い屋根で赤地に金色の文字がある柱のあずまやの中にある立派な転経器()など見ていたが、オーリャさんは仕事に戻らなくてはならないので、自分の友達に電話して私のガイドを引き継いでくれそうな人を探してくれた。
(*)転経器 摩尼(マニ)車ともいって円筒形で、側面には真言(マントラ)が刻まれており、内部にはロール状の経文が納められている。大きさは様々で、手に持てる大きさのものがあれば、寺院などでは数十センチ、大きいものでは数メートルにも及ぶマニ車が設置されている。チベット仏教の場合はマニ車を右回り(時計回り)に、回転させると、回転した数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされている。ソ連時代トゥヴァのすべてのマニ車は撤去されたが、2006年になってクィズィール市のアラート広場にマニ車が作られた。2011年までには国内に大きなマニ車だけでも6個は作られているそうだ。中くらいのは30個。
アラート広場の転経器(マニ車)
 オーリャさんが首尾よく探し当ててくれたカーチャさんと言うオーリャさんと同じ年ごろの女性が、昼休みの終わりごろには駆けつけてくれた。彼女とひとまず、『アジアの中心碑』のあるショイグ(トゥヴァ人のセルゲイ・ショイグは1994年から2012年までロシア非常事態相、モスクワ州知事を経て、現ロシア国防省)公園まで行った。カーチャは大学講師で文化の講座を担当しているらしい。彼女のおかげで、アンドレイさんと連絡が取れなくなったトゥヴァ滞在後半3日間を無駄なく過ごすことができたのだ。
 カー・ヘム(小エニセイ川)とビー・ヘム(大エニセイ川)の合流点が見晴らせる川岸通りを歩きながら、どこへ行こうかと、彼女はまた、車を持っている別の友達に電話をかけ続けてくれた。海岸通りの端にあるクィズィール市仏教寺院の1階で食事をすまして出てみると、トヨタ・ランクル・プラドの横に立つ男性が「こんにちは」と日本語で声をかけてくれる。カーチャの依頼で来てくれた知り合いで、アイ=ベックさんと言う獣医だった。
「どこへ案内しましょうか。実は自分は用事でシャガナールに行かなくてはならないのですが」と言う。
「では便乗して一緒にシャガナールへ行きます」と、あっさりカーチャと一緒にランクルに乗り込んだ。カーチャは私がなにも問わずに、100キロ以上離れたシャガナールへ知り合ったばかりの人と行くと言うのでさかんに感心していた。発端のオーリャ・モングーシュさんは博物館考古学ホール部長だし、その友達のカーチャさんは本物の日本人と知り合いになれたと喜んでくれるし、その知り合いのアイ=ベックさんもとても友好的だった。
 アイ=ベックさんと、まず市の東地区にある建設途中で放置されている骸骨のような建物群や、『ソ連邦に栄光を』などと言う大きな看板が残っている寂れた工業地帯に行く。ここのある役所に寄って何か手続きをし、また市中の彼のガレージに行き、何か書類をそろえ、3時半ごろには新しく建ったロシア正教会の前を通り、ウルック・ヘム(エニセイ川)左岸の共和国道162号線に入る新しい広い道を走っていた。シャガナールの獣医学研究所に用事があるらしい。
 この新しい広い道は町を出ると、クラスノヤルスクからアバカンを通って南下し、クズィール市の先のモンゴルとの国境まで通じている連邦道54号線と立体交差する。一方、共和国道162号線はクィズィール市からトゥヴァ盆地の西の端テーリ村まで349キロ続いている。私たちのシャガナールはその3分の一ほど行ったところにある。
 少し昔まで遊牧ユルタが立っていたかもしれない所に、立体交差道があるわけだ。
 ここを過ぎると、市のはずれも終わり、もうすっかりいつものトゥヴァらしくなる。草原のかなたに見える青色の稜線のはっきりした青い山々、真っ青な広い空、木の生えていない岩山。灌木もまばらに生える草原の中には雑草の大麻も生えている。
 14キロほど行くとスクパクと言う村(4千人)に出る。この村は、本来のスクパク村と、地質学調査村とが合わさったものだそうだ。ここはエレゲスト炭田に近い。
 また14キロほどで、タンヌ・オラ山脈からトゥヴァ盆地を通ってエニセイ川に合流するエレゲスト川(177キロ)を渡る。この川の中流にはエレゲスト炭田のエレゲスト村(*)や、世界大戦英雄の名をとったカチェトヴォ村(**)や、2日後に行くことになったコバルトのホブ・アクスィ村アク・タール村がある。
(*)1500人。1990年、ここでも移住ロシア人と地元トゥヴァ人との民族紛争が起き、大部分のトゥヴァ語を話さないロシア人は去った
(**)1909年ロシア人移民が、スク・バジと言われていたこの地に住みつきアタマノフカ村(コサックの首領の意)を作った。後に、赤軍パルチザン英雄の名をとってカチェトヴォとした。
 ちなみにエレゲスト川の最上流はほとんどタンヌ・オラ山脈の向こう側斜面にある。と言うことは、そこでタンヌ・オラ山脈が切れている。タンヌ・オラ山脈はサヤン山脈ほど険しくなく、だから山を越えて文化が広がっていたのだが、最も容易に超えられる峠がエレゲスト川最上流だった。だから、ここで東と西にタンヌ・オラ山脈を分けているくらいだ。
 ウスチ・エレゲスト村周辺は工事中だった。トゥヴァの炭田が注目され、このエレゲスト川を遡る道が物資輸送の重要道となるためかもしれない。クラギノ・クィジール鉄道も、2018年には、ここまで伸びるとか。
オットゥク・ダッシュ石碑
 トゥヴァ晴れの下、遠くに青い山や、その向こうの薄紫色の見える広い丘陵草原を進む。これこそがトゥヴァ盆地だと思う。道が上りになるとエニセイの流れが見え、対岸の山々も、青くくっきりとあらわれる。草原を行く一本道も時々ごつい岩山を迂回する。草原の中に右へ曲がる細い道があって『オットゥク・ダッシュ村』と標識があり、その交差点がバス停になっているらしく数人のトゥヴァ人が荷物を持って立っていた。全ロシア画一の青地に白文字の『オットゥク・ダッシュ』と言う道路標識の横には、古いが立派なラクダのトゥヴァ風の彫刻と、民族衣装を付けた女性のレリーフ画、トゥヴァ風模様の中に『第10回ウルク・フラル(偉大な会議、つまり国会の意)ソフォーズ』と大きく書かれた看板が立っている。
オットゥク・ダッシュ村への分かれ道
『第10回国会』国営農場入り口

 エレゲスト川合流点より30キロほど下流のウルッグ・ヘム近くに、本当にオットゥク・ダッシュ村があるのか、帰国後だが詳細地図で調べてみた。共和国道162号線とウルッグ・ヘムの間に、乳製品工場(作業場)などの小屋の印があるだけで、オットゥク・ダッシュ村という記載はなかった。ウィキマックでは小さなウルック・フラル村と乳製品場跡が載っていた。つまり、ソ連時代ここに『(たぶん革命的に大成功だった)第10回国会』と言う名前の国営農場(ソフォーズ)ができ、乳製品を生産していたのだ。その国営農場は繁盛したのか、トゥヴァにおけるソヴィエトをアピールしたかったのか、モニュメントを作った。だから、今でも道を通る外国人の目を引くような立派な入り口が残っている。独立タンヌ・トゥバ民主共和国時代からソ連時代にかけて農業の集団化や国営化が推し進められ、こんな立派な門やモニュメントを作った国営農場もあちこちにできたのだろう。ソ連崩壊後は、国営農場などはすべて崩壊してしまったが。
 今、国営農場の跡地に、たぶん『第10回ウルック・フラル』などと言う大げさな名前は止めて(たぶん第10回国会で決まったことがすでに覆されているので)、岩山の名前から『オットゥク・ダッシュ』村と改名して、小さな個人農場ができているのだろう。この近くにある747mの小高いオットゥク・ダッシュ(ダッシュは岩山の意)を迂回して道路がついているのだが、この辺は『ウローチッシィ・オットゥク・ダッシュ』と言う。(ウローチッシィとは、周りと違う『場』の意。小さな谷間や盆地にあったり、森の中に開けた広場をそう呼んだり、草原の中にあることもある)
 このオットゥク・ダッシュで、古代チュルク時代のエニセイ文字を刻んだ石碑が19世紀末に3個見つかったのだ。古代チュルク文字(突厥文字)はオルホン文字が有名だが、それとよく似たエニセイ文字、タラス文字、トルファン、アルタイ、カザフ文字などがあって、エニセイ文字の石碑は19世紀以来158個見つかっている。8世紀から10世紀のキルギス帝国時代のものが多い。ほとんどは発見場所から運び出されて博物館などに保存されている。エニセイ石碑は『E』と言う文字と番号で整理されていて、オットゥク・ダッシュで見つかった石碑は、『E−4』,『E−54』,『E−64』と整理され、刻まれた文字の意味は名前と肩書だと、解読されている。(オットゥクは炎の意、ダッシュは山の意、タイガも山の意だが、針葉樹林などの茂る大きな山を指す、だからダッシュは小規模な岩山だと思う)
アイ=ベックさんのイイ・タール村
 目的地まであと50キロほどと言うところで、アイ=ベックさんの携帯が鳴って、シャガナールの獣医研究所は停電だと知らせてきた。電気がなければ、計器も動かないだろうから、この日は仕事は中止となる。しかし、ここまで来たので、イイ・タールと言う村に寄ってみる。アイ=ベックさんの親せきの家があるからだ。ロシア連邦画一の青地に白文字の『Ийи-Тал イイ・タール』と書いた標識が見えてくる。川の方に曲がると、対岸の山々がまた美しく見えてくる。両側の草原には牛が歩いている。村の方に進むと、ウルッグ・ヘム(エニセイ川)に近いせいか砂地で、砂漠に生えるような草が見えた。イイ・タール村は人口600人ほどで、川岸低地にあるので、毎年春の雪解期には洪水にみまわれるそうだ。アイ=ベックさんの親せきの家は板塀で囲った農家ふうで、敷地内には家畜小屋も飼料置場もある。
アイ=ベックさんの親せき
パンの上にのせた血液のソーセージ
イイ・タール村学校の教室と先生
道端の雑草大麻の中でカーチャと

 アイ=ベックさんが生まれたのは別の村だが、ここで育った。その後、家族はコバルト採掘のホブ・アクスィ村に移ったそうだ。イイ・タール村の家には弟さん一家が住んでいる。ここ、トゥヴァの中心トゥヴァ盆地の中ほど、ウルッグ・ヘム岸近くのトゥヴァ人村のトゥヴァ人宅へ招かれたので、喜んでカーチャと入る。カーチャはクィズィール市の都会人なので、田舎家は苦手そうだった。私は、ユルタでないのが残念だった。
 家の中は真ん中にペチカ(ロシア暖炉)があり、それを囲んで部屋や台所があり、奥の部屋にはパソコンもあった。ネットにはつながっていなかったが、中に入っている写真やフィルムを見せてくれた。チュメニ地方へトナカイを運んだ時の動画や、アイ=ベックさんが出演する韓国製ドキュメント・フィルムもあった。この家の主婦が地元の料理を出してくれる。カーチャさんが
「手を洗うところはどこ?」と、聞いても、アイ=ベックさんが
「田舎では手なんて洗わないのさ」と言って、皿に山盛りの血液の腸詰をナイフで切って、パンにのせ、私に手渡す。羊の血液を腸に詰め、調味料を加えてゆでたものだ。呑み込めた。
 手を洗うところはもちろん屋内にある。都市部以外には水道はないので、どの家でも、上から水を入れるつり下げ式手水器(ちょうずき)、または据え置き式手水器(カラン付き手洗いタンク)が置いてある。

 アイ=ベックさんの親せきの家を出たのは5時半ぐらいで、まだまだ日は高かった。ソ連時代、どんな村にも『文化の家(地域の文化の中心)』が作られているが、イイ・タール村では学校と兼用してあった
 建物に入ると、ロシアの田舎でよく見かける小さな学校とあまり変わらない。玄関ホールには、ロシア連邦大統領の写真(つまりプーチン)や国旗、国歌が掲示してある。ただ、教室の黒板の上に並んでいる肖像写真は皆トゥヴァ人だった。以前はレーニンとか、トゥヴァ政府のトップの写真などがあったのだろうか。1990年代には、レーニンを外してイコン(聖人画)を飾る学校もあった。教室横の掲示板にはトゥヴァ語文法の格変化表も貼ってある。
 職員室で、教頭先生と住所の交換をする。つまり、私のほうは、学校側の訪問者ノートに挨拶と名前メール・アドレスを書き、教頭は私の手帳に電話番号と学校の電子アドレスを書いてくれた。帰国後、メールを出してみたが、返事はなかった。
 また、帰国後調べたインターネット情報によると、アク・タール中等普通学校は1939年、夏営地に2学年の学校として、郡知事が住んでいた家に創立されたそうだ。1990年、11学年までの生徒が学ぶ中等学校(小学校、中学校、高校、つまり1年生から11年生までが学ぶ)になった。

 イイ・タール村には2時間もいたが、まだ日は高く、帰りの共和国道162号線では、道端に車を止めて、カーチャと雑草大麻の中に入り、大麻を摘んで匂いをかいたり、遠く川向こうのトゥヴァらしい山々を眺めていたり、『第10回ウルク・フラル』ソフォーズ(国営農場)入口のソ連風レリーフの写真を撮ったりしていても、まだまだ、日は暮れず、空は真っ青だった。
 アイ=ベックさんが、自分の曾祖父は清朝中国時代に生まれ、祖父はロシア帝国保護領時代に、父はタンヌ・トゥヴァ共和国時代に生まれ、自分はソ連時代に生まれ、自分たちの子供は、ロシア連邦時代だが、日本ではこんなふうに世代ごとに国家体制が違うだろうか、と問う。確かに、トゥヴァ民族の歴史は、どの時代でも、周囲の強大な国の保護下にあった。
 後で、サイトにあるアイ=ベックさんのインタビュー記事で知ったことだが、アイ=ベックさんの祖父一家は、トゥヴァ人民共和国の集団農業化時代、コルホーズ(集団農場)に入れてもらえなかったそうだ。なぜなら、1938年に反革命の日本のスパイとして銃殺された当時国民小会議の議長ヘムチック=オール(1893-1938)の近い親戚だったからだ。祖父は、粛清された『人民の敵』のヘムチック=オールと言う苗字を捨てて、サスカルとしたそうだ。「祖父は、目の前にある大きな岩山を指さし、自分たちは『ス(から)スカラ(岩)』と言う苗字にしようと決め、自分たちはみなサスカルとなった」とインタビュー記事にある。
『アルティン・ブラック(金の矢)』
 共和国道162号線を走ると、クィズィール(クズル)市から45キロのところに、『アルティン・ブラック』とルーン文字風に書いた立派なトゥヴァ風鳥居が目立つ。ウルッグ・ヘム(エニセイ川)と平行に走る連邦道を出て、鳥居をくぐって進んでいくと立派な『複合観光施設アルティン・ブラック』に出る。
 主な施設は道路と川岸の間の小さな谷間にある赤と白のユルタ群だ。谷間は5個の小山で囲まれ、昔からハン(王)が、ユルタを張る場所に選んでいたそうだ。小さな盆地のようになっている広場は風も当たらないだろうし、周囲の岩山に見張りを立てれば、敵の襲来も早く察知できるからだとか。
 道路から鳥居をくぐって進んでいくと、5つの小山の一つの頂上に出る。そこには、オヴァー(石を積み上げた塔)やレリーフのあるカノヴァース(馬繋ぎ柱)が数本立っていた。新しい見晴らし台があり、その横にも先端が家畜の頭蓋骨や角で飾られた柱が立っていた。本物の骨で、牧畜民をアピールしている。この小山から、赤と白の美しいユルタ群が見降ろせる。ユルタは、確かにトゥヴァ盆地の人たちの生活の象徴だ。
161号線を曲がると鳥居をくぐる
小山から見下ろした『アルティン・ブラック』
レストランでアイ=ベックさん
↑舞台
←舞台横の『王座』

王座の後ろに衣装がある
男性は後ろの弓を持つ

 見晴らし台の小山から降りて、上から見ていた『アルティン・ブラック』本部のほうへ乗りつけると、パーキングエリアらしいところには数台の車が止まっていた。門をくぐって入る。一番大きなユルタがレストランで、まわりの大小のユルタは宿泊ができるそうだ。この谷間に昔ハン(王)がユルタを張ったと言うので、ハンのユルタ、つまりデラックス・ルームは4幕あり、エコノミー・ユルタは7幕、トッジャ風のチュムは4個ある。豪華なユルタは車輪のある広い台の上に張られていた。昔、ハンはこうしてユルタを移動させたとか。周りの小山の頂上には、仏塔や、トゥヴァらしいあずまやのようなものが建てられ、雰囲気をあげている。川岸に近い最も高い岩山には石段がついていて、登ってみるとすぐ下がウルッグ・ヘムだった。この見晴らし台や、石段、ユルタのある広場などには照明があって、この夜景がトゥヴァの観光ポスターになっている。
 と言うのも、施設の莫大な建設費の大半は政府の予算から出た。近年政府は観光業に力を入れていて、現在稼働している非都市型宿泊所(旅行者基地というホテル)は国内に15か所あるそうだが、そのうち8か所は2010年以降にオープンした。中でも、首都から45キロのこの『アルティン・ブラック』は目玉だ。サイトには、ここはチンギス・ハンの墓所の可能性があると言われている場所の一つだとも載っている。少なくともモンゴル帝国の夏営地、首都の一つだったとか。
 確かに、トゥヴァ伝統文化の雰囲気に十分浸れる、と同時に昔の遊牧生活の不便さを感じなくてもいい。ユルタには空調も下水ダンク付き水洗トイレもある。川岸の岩山に登る階段の照明は太陽電池だ。ユルタ群のある広場は、花壇に囲まれた石畳の歩道がある。シャーマンの儀式場もあるそうだ。
 アイ=ベックさんの知り合いの一団がレストランにやってきた。挨拶して一緒に写真を撮る。この日、同僚の誕生会が、レストランであるとか。支配人の女性が現れて、アイ=ベックさんと親しそうに何か話している。その支配人さんが、『アルティン・ブラック』の由来や、天幕の施設について説明をしてくれたうえ、レストランの中もご覧ください、お茶とお茶受けも試食してくださいと勧められた。
 ただでお茶をいただくのは気が引けるくらい(たぶん、トゥヴァにしては)立派な内装のレストランで、スキタイ様式だとか。バックが金色の舞台もあった。金屏風だったかもしれない。舞台の横には『王座』があった。アイ=ベックさんが座ってみたらと言うので、私はこの立派なレストランにひどく気おくれがしていたのだが、勧められるままに座って写真を撮ってもらった。衣装も着なくてはならないと言って、いすの後ろからトゥヴァ模様、トゥヴァ風仕立ての上着を出して、ためらう私の服の上から着せてくれた。舞台で写真を撮ろうと言われたので、金屏風の前に金色の衣装で立つ。何か踊りのポーズをしたらいいと言うので適当に手を斜めにあげて、写真を撮ってもらった。
 支配人の女性に、懇ろにお礼を言って、レストラン・ユルタを出ると、ちょうどホメイ(喉歌)・グループが入っていこうとしていた。政府観光局によると、『アルティン・ブラック』はトゥヴァの民族音楽ホメイの常設舞台でもあるらしい。また教室も付属しているそうだ。
 帰り道、8時を過ぎていたが、やっと薄暗くなってきた。パーシャから電話がかかり、修理場で知り合ったトゥヴァ人運転手が8000ルーブルでトレ・ホレ(湖)まで自分のウアズ(ワズ)を出すと言う。トレ・ホレ(湖)はモンゴルとの国境にある湖で、許可がないと近づけないはずだ。いや、彼の車で8000ルーブル払えば行けると、パーシャは言う。1台、1日8000ルーブルはそれほど高い金額ではないが、なぜ、こんなに簡単に行けるのだろう。同じく国境地帯のテレ・ホリ(湖)へ行く許可はアンドレイさんも準備できなかったではないか。どうも、わからない国だ。横で電話を聞いていたアイ=ベックさんによると、
「行くだけで8000ルーブルとは高い、クルガンや岩画など考古学記念物の見物を含むなら、そんな値段だが。ウアズと言っても5人乗り貨物用ウアズもあるが、乗り心地は良くない。あした、自分はシャガナールへ行くつもりだ、そこへなら、ただで連れて行ってあげよう」といわれて、考え込んだ。この先、旅は長く、手持ちのルーブルも倹約しなければならないが、テレ・ホリ(湖)にも行きたい。許可なしで行けると言うのはどういうことなのだろう。露見した場合、罰金や将来ビザ支給停止とかにならないだろうか。いや、トゥヴァには『外部の者にはわからない、自分たちの』法律、つまり微妙な抜け道のようなもの(賄賂ばかりではない)があるそうだが。
 親切なアイ=ベックさんは明日、8時に出発するが、シャガナール周辺の観光もできると言われ、パーシャも入れて、みんなでシャガナールへ行くことにした。もちろん、後でテレ・ホレ(湖)へ行かなかったことをさんざん後悔したが。
シャガナール市へ ハィイラカン聖山
 9月11日(月)、予定通り8時にアイ=ベックさんが私たちの宿舎まで迎えに来てくれて、シャガナール市に向け、昨日と同じ共和国道162号線を西へ走った。昨日は気がつかなかったが、ウスチ・エレゲスト村には新しい回転読経(転経器)のあずまやが建っていた。ロシアの田舎で村の教会が復活しているように、民族人口が80%のトゥヴァでは自分たちのラマ教が復活している。シャマニズムも、テングリ信仰も復活しているようだ。
かつてウイグル要塞のあったボーム岩山
草原の中、ウルッグ・ヘム畔にそびえる聖山
シャガナール市戦没者記念公園
シャガナール近郊の小山に立つ
獣医学研究所の前庭で

 道路は、トゥヴァ盆地の中央をウルッグ・ヘム(エニセイ川)に平行に走っている。川岸に出たり、丘陵を上ったり、崖下を通ったりする。崖の上には大きなラジオ・アンテナが立っているが、実はこの岩山の上には、8-9世紀の古代ウイグル族の要塞があった。東西に400キロ近いトゥヴァ盆地には、テレ・ホリ(湖)からヘムチック川の上流まで17の要塞が確認されている。これらは一連の鎖状につながり、北のミヌシンスク盆地の(エニセイ)キルギス族に対して、トゥヴァ盆地の肥沃な地帯を守るようにつながっているそうだ。17個のうち、ウスチ・エレゲスト村近くの、このボーム山にあったのは要塞と言うより見張台で、ここからは東西の盆地が25キロほども一目で見渡せる。クィズラソフ教授のテキストによると、35mと45m程の方形に高さ1mほど板岩を積み重ねたものだったが、近年、ラジオ・アンテナを作る際、その岩が使われてしまった。それでも、塔だったものが4本は認められるそうだ。

 シャガナールはクィズィール市から110キロほどのところにあり、途中の70キロほどのところに、昨日のイイ・タール村があり、100キロほどのところにハィイラカン(ハイウラッカン)Хайыракан聖山がある。モンゴル語からの借用で『天の熊、聖山』と言う意味だそうで、共和国道162号線が麓を通ると言う交通便利なところにあるので、トゥヴァ観光コースには必ず入っている。平坦な盆地の中、そこだけが峻厳にそびえているハィイラカンの岩山が印象的で、遠くから眺める者にも畏敬の念を抱かせる。ちなみにトゥヴァにはハィイラカンが幾つかある。南のテス・ヘム(川)左岸や、エルジン川右岸、チャダン市の北などにもあるが、このウルッグ・ヘム左岸のハィイラカンが今は一番有名だ。南のハィイラカンは、昔の清朝ウリャンハイ時代の行政中心地サマガルタイ村の近くにある。
 ウルッグ・ヘムのハィイラカンには1992年ダライ・ラマ14世が訪れていて、その記念碑もある。ラマ教の聖地であるだけでなく、シャマニズムの聖地でもあるそうだ。山の手前には同名の村がある。
 アイ=ベックさんは時間までにシャガナールへ行かなくてはならないので、急いだ。
 ロシア語ではシャガナールШагонарと言うが、トゥヴァ語ではシャガン・アルィクШагган Арыгと言って、地元風のトゥヴァ装飾の道路標識にはシャガン・アルィクとだけあった。元々モンゴル語からの借用でツァガンЦаганは『白い』、アルィクАрыгは『乾いた川床』と言う意味で、19世紀末から集落ができていたそうだ(たぶんロシア商人たちの取引所)。ウルッグ・ヘム岸の町として発展し、1945年には市になったが、1970年、サヤノ・シューシェンスカヤ発電所ができ、かなり上流のシャガナールの辺りまでもダム湖になってしまった。それで、7キロ離れたところに新シャガナール(現在人口1万人余)ができた。
 町の中心には、ロシアのどこにでもあるが、第2次世界大戦の慰霊碑がある。開戦当時、トゥヴァは独立国だった。だから独自に枢軸国へ宣戦布告した(ヒットラーは自分の国に宣戦布告したトゥヴァという国はどこにあってどんな国かも知らなかったとか。当時トゥヴァは主権国家と世界に認められてはいなかったから)。ドイツが降伏宣言をした年にはトゥヴァはすでにソ連邦の一部になっていた。
 あまり丁寧に手入れをしていないような広場には『1941-1945』と書いた掲示板(記念碑)と、戦没者の名前が書きならべられた掲示板の間に大戦の『英雄』の胸像が立っていた。後で調べたのだが、ベロツァールスク(今のクィズィール市)生まれのケチル=オール(1914-1945)と言う人だった。
 町からはなれたところにあるアイ=ベックさんの獣医学研究所についたのは10時過ぎだった。すぐ横には幾つもの小高い丘があり、アイ=ベックさんの用事が終わるまで、その一つに上って、眼下のシャガナールの町、その向こうの平地にそびえたつハィイルカン岩山、ウルッグ・ヘムの川面は見えないが川向こうの青い山々などを眺めていた。研究所の前庭にはお祖母さんと孫が二人いた。職員の家族なのだろう。ロシア語が通じなかった。
 研究所の中も勝手に入って、廊下や空いているキャビネットを勝手にのぞいていたが、よくわからない。
 11時半ごろアイ=ベックさんの用事が終わって、そこを出た。
シャガナール城塞
旧シャガナール市のあった場所、
この近くに城塞?
トゥヴァ大学博物館にあったシャガナール城の
復元ミニチュア
 トゥヴァ盆地にあるシャガナールの辺りにもウイグルの城塞跡があるはずで、そこへ行きたかった。が、今はほとんど跡が残っていないか、残っていても到達困難か、サヤノ・シューシェンスカヤ・ダム湖(エニセイ川、つまりこの辺ではウルッグ・ヘム)の底だとアイ=ベックさんは言う。歴史の本には『シャガナール城』とも書かれている。それでも、川岸近くの旧シャガナールのあった場所が見える丘まで行った。非舗装道もここで終わっている。今、その場所は沼地になっているからだ。しかし、いつも通り過ぎるだけの共和国道162号線より、かなり外れたところまで行けたので満足だ。と言ってもどこまで行っても同じトゥヴァ盆地の山々、木々、草原が続いているだけだが。
 古代ウイグル人は、ここにも北のミヌシンスク盆地からのキルギス(クズル)人に対して砦を作っていたのだ。テレ・ホリ(湖)からヘムチック川の上流まで17の鎖状につながった要塞の一つだ。
 発掘物は博物館にあるが、ハカシアのように城壁の一部でも残っていないとは残念だ。1984年作成の地図には、方形の城壁跡らしい印が3個と、古代墓地と言う記入が読めるが。
 後で、文献を調べたところ、シャガナールには4個もの城塞が集中していた。『シャガナール1』から『シャガナール4』まで考古学上では名付けられている。『シャガナール1』はダム湖の底となっているが、2から4はお互いに数百m離れて、チャトィ川とバイ・タック山(丘)の間に並んでいる。『シャガナール3』は幅16m、深さ2mの堀に囲まれ、縦横が126mと119mもの広さの方形で、生レンガや切りわら・砂などを混ぜた粘土ブロックで厚さ6m、高さ5−8mという立派な城砦で、門や、塔、内外に付属の建物が多くあった。復元図を見ると本当に立派な城だ。この地は灌漑農業の中心であり、手工業や商業も発達していた。城塞のそばには墓地、つまり古墳があった。 
 『シャガナール3』はクィズィラソフ教授によって1959年に調査された。ウイグルによって建設されてから12世紀も経ったクィズィラソフの調査時ですら、高い壁が残っていたそうだ。今はないらしい。
 
1984年作成の地図(10万分の1)赤矢印は城塞跡
私たちは共和国道162号線に出ないで、たぶん旧道を通って進んだ。牛の群れが草を食んでいる。ハィイラカン聖山の裏側に出た。と言うのも共和国道は岩山の南を通り、ウルッグ・ヘムは北側を流れていて、ダライ・ラマ記念碑などがあるのは共和国道側だからだ。こちら側の山の麓まで近付いて眺めると、岩に地衣類やわずかに低い草が生えているだけのむき出しの岩山だ。こんな岩ばかりの隙間から、よくも雑草でも草が生えられたものだと感心するばかりだ。
 ぽつぽつと小さな穴が無数に開いている岩盤が麓に横たわっていて、オヴァーが立てられていた。自然の妙技の現れている場所は、峠なども含めて、地元の人たちは神が宿ると考えているからだ。

 2時半ごろクィズィール(クズル)市に戻り、アイ=ベックさんは共和国農業省に寄った。3時には、これですっかり仕事は終わったからと、私たちの観光に取り掛かってくれたが、観光コース計画が立てにくかったらしく、町はずれのウルッグ・ヘムの旧橋を何度も渡って往復した。
聖ドゥゲー山
 ラクダに乗ってみたいと言っていたので、右岸ドゥゲー山の麓でラクダを放牧している知り合いのところへ、アイ=ベックさんは車を向けてくれた。ソ連時代に建て始めたが、放置され、骸骨のようになっている建物群のひとつで、アイ=ベックさんは、知り合いと話していたが、ラクダは今、放牧中だそうだ。後で行くことになり、ここまで来たので、ドゥゲー山に登った。ビー・ヘム(大エニセイ川)とカー・ヘム(小エニセイ川)の合流点にある『アジアの中心碑』の川岸通りからも、対岸のドゲー山中腹の斜面に白字で描かれたマントラ(真言)がみえる。Ом ма-ни па-дме хумオン・マニ・パド・メー・フンと言う短呪だそうだ。後から辞書を調べたところ、『観世音菩薩の慈悲を表現した真言であるため、観音六字とも呼ばれ、特にチベットではダライ・ラマが観世音菩薩の化身であることから、人々によく唱えられるほか、岩(マニ石)や転輪車に刻まれて信仰されている』とあった。六字大明王陀羅尼のひとつであるそうだ。
 大きなマントラは、同じくラマ教のブリヤート共和国(ロシア連邦の1)のイヴォルギン寺院等にもあるが、ドゥゲー山中腹の文字は長さ120m、幅20mと言う世界で最も大きいマントラだそうだ。ソ連時代は合流点を見下ろすその山はレーニン山と呼ばれ、『レーニン』の大文字が掲げられていた。
ドゥゲー山、中腹(マントラ)と頂上付近(右上)
の白文字(ドゥゲー) 
写真集から
ドゥゲー山から大と小エニセイ合流点の
クィズィール市を見る
放牧から帰って私たちを待っていてくれたラクダ

 ウルッグ・ヘム右岸からドゥゲー山へ上るじゃり道があって、上っていくと、盆地の底を流れる川やその畔の町を見下ろすことのできる見晴らし台にでた。そこは白文字のマントラより奥のドゲー山頂上近くで、ここにも『ドゥゲー』と大きな白文字で書かれた文字があった。ソ連時代はここに『レーニン』と書いてあったのかもしれない。ドゥゲー山は聖山で、ここに15mの仏陀像を建てる計画だとか。台座を入れて25m、階段の長さは600mになるそうだ。
 頂上までは上らなかったが、ビー・ヘム(大エニセイ川)川の太い流れが見下ろせる崖上で、車を降りて、眺めていた。カー・ヘム(小エニセイ川)の流れは見えないが、合流点は見える。眼下のビー・ヘム右岸は土の色をしている、つまり、この季節にある草色でも、森の緑色でもない。植物が生えない土がむき出しの色だ。低い草が乾いた土の間に生えていたかもしれないが、遠くから見ると薄茶色の荒野だった。合流点より下流にはクィズィール市の街並みが見えた。

 ドゥゲー山の麓、ビー・ヘム右岸の広い荒野には、クィズィール市からカラ・ハーク(トゥヴァ北東略地図の27)という人口1500人の集団農場村への舗装道が突っ切っている。サイトに公表されている調査結果によれば、クィズィール市からカラ・ハークに至るドゲー山麓にはいくつかのクルガン群があり、鹿石、岩画、ルーン(オルホン・エニセイ)文字の刻まれた石が発見されている。1990年代に石柱は掘りあげられて博物館に保管されている。2003年発掘調査された『ドゥゲー・バールィ2』の『クルガン26』とその30m南東にある『クルガン29』が2004年には発掘調査された。『ドゥゲー・バールィ2』より北の『ドゥゲー・バールィ3』の『クルガン7』と『クルガン8』は1991年発掘調査された。近郊の住民のゴミ捨て場になっていたというその『クルガン8』は、直径9.5m、高さ70cmで、古墳内は比較的よく保存されていて、20-25歳の女性が、唐代と思われる唐草模様の土器とともに土葬されていたそうだ。
 アイ=ベックさんは考古学者ではないので、どれが『ドゥゲー・バールィ2』なのか『ドゥゲー・バールィ3』なのかわからないが、荒野の中に5-7m位の円形に石が残っているクルガン跡がいくつかあった。土盛はほとんど見えないか、せいぜい30センチくらいだ。
 クィズィール市からカラ・ハークへの道路建設のため、クルガン『ドゥゲー・バールィ2』の『クルガン29a』は、今はない。
 2004年8月2度目にトゥヴァ共和国へクラスノヤルスクの旅行会社経由で10日間ばかり訪れた時は、ここのビー・ヘム川岸のユルタ村『アイ』に宿泊した。その時、オーナーのアルチュールは、近くでクルガンが発掘されていると言っていた。実は、ユルタ村『アイ』の敷地内にも建設のとき、土器の破片が出たが、それを言うと、調査が始まり、宿泊設備建設が進まなくなるので黙っていたのだが、と言っていた。土器が見つかった場所にも案内してくれた。私は、あまり大きくない破片を1個持ち帰ったのだが、2004年の帰国の時、クラスノヤルスクのアパートにおいて来てしまった。

 この山麓、ビー・ヘム河岸はクィズィール市民のダーチャ地帯でもあり、家畜の放牧地でもあるようだ。2004年には本物のユルタも張られていて、ヤギの群れも見かけた。
 アイ=ベックさんが、昼間の放牧から帰ったラクダが私たちを待っていると言う草原に案内してくれた。そこには1匹だけがラクダ使いと一緒に座っていた。背中に毛布を敷いてくれたが、乗ってみるととても硬かった。手綱もないのでラクダの毛にしがみついていた。ラクダが好きだと言うチョコレートをあらかじめ何枚も買って持って行ってご褒美に上げたのだが、虫歯にならなかっただろうか。
トゥヴァ共和国最高裁判所
 実はラクダが放牧から戻ってくるまで時間があったので、橋を渡って一度町に戻った。アイ=ベックさんに何か用事があって、その間、私たちは新築のトゥヴァ共和国最高裁判所にいた。前日、民族レストラン・ホテル『アルティン・ブラック』でアイ=ベックさんの知り合いに会った時、女性の裁判官だったので、日本では珍しいと言うと、トゥヴァではほぼ全員が女性だと言われた。では、裁判所を訪ねて会ってみたらどうか、と言われて、「ぜひ」と答えてしまっていたのだ。アイ=ベックさんの奥さんが裁判官の一人らしい。運転しながら電話をかけ、私たちを裁判所前に下ろして去っていった。裁判官に会って、何を話せばいいのだろう。
郊外に新しく建った最高裁判所

 入口の検問も通され、若い警備員の男性が、私たちをエレベーターに乗せてサルチャーク・アレクマーСалчак Алекмаа Анай-ооловна最高裁副裁判長(民事担当)の執務室まで案内してくれた。その女性も、私たちの目的が分からず、何事だろうと思っていたのかもしれない。トゥヴァには29人の裁判官がいるが大部分は女性だと言っていた。アイ=ベックさんに助言されたように、私は「日本では女性の裁判官は珍しい」と、話したが喜んでくれたかどうかはわからない。それ以上話すことはなかったので一緒に写真を撮らせてもらった。ネットに公表しないようにと頼まれた。とても美人の最高裁副裁判長だったので、残念だ。帰宅後、ネットでトゥヴァ最高裁のサイトを調べると、裁判長も女性だった。せっかく、執務室でお会いしたのに、挨拶しかしなかったのも残念だ。と言っても、いくら考えてもサルチャーク副裁判長と私の会話のテーマは思い浮かばない。「トゥヴァ共和国の民事訴訟は、他に国と比べて異なるところはどこですか」などと言うジャーナリストのような質問もできないし、一緒にいたネルリさんも、この時ばかりはにこにこしして座っているばかりだった。

 また、橋を渡ってドゥゲー山麓に行き、前述のように、ラクダに乗って、クィズィール市に戻ったのは7時半を回っていたが、太陽に向かった山の斜面は金色に輝いている。この日、9時近くにアイ=ベックさんに市の中心地にある宿舎に送ってもらうまで、ウルッグ・ヘム(エニセイ川)右岸にある、初日にアンドレイさんと待ち合わせた『ラヴ・ヒル』という見晴らし台や、クィズィール市南の『アラート像』など案内してもらった。
 トゥヴァ出発までにまだ1日あるが、パーシャの車は修理済みのようだから、どこへ行ったらいいだろうかとアイ=ベックさんに尋ねたところ、ホブ・アクスィ町方面のアク・タール村をすすめられた。ホブ・アクスィはアイ=ベックさんの両親が働いていたところだ。
 宿舎に帰ってみると、この数日でなかったお湯が出たので、シャワーを浴びた。夏場、予告なしで止まることはよくあるのだ。夏の水道管修理もあって、それはかなり長期に止まり、住民にはテレビや新聞、少なくともクチコミで予告があるようになったはずだ。
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