クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 April, 2013  (校正・追記:2013年6月2日、12月20日、2014年4月5日、2016年6月30日、2018年10月31日、2019年12月8日、2021年10月9日、2022年12月8日) 
30-(10)   トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年
      (9)タンヌ・オラ山中へ
             2012年9月3日から9月14日(のうちの9月12日

Путешествие по Тыве 2012 года(03.09.2012-14.09.2012)

(1) トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 トッジャ地方も含めて予定を立てる
(2)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ハカシア、ダム湖水没クルガン チェルノゴルスク市泊
(3)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
(4)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミー(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
(5)9/6 トゥヴァ北東部の略地図 小エニセイ川へ トゥヴァの行政区コジューン ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 震源地小エニセイ中流の村々 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る
(6)9/6 3つの峠越え、トゥマート山脈 中国の紫金鉱業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人
(7)9/7 トーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
(8)9/8,9 緑の湖  アザス湖を望む ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 ウルック・オー谷
(9)9/10,11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラク(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
(10)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村 アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
(11)9/13,14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドゥヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画

国名のトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、ロシア語の転記は Тува または Тыва で『トゥヴァ』『トィヴァ』となる。当サイトではロシア語転記に従って地名などを表記した。

クィズィール市から共和国道162号線を南に曲がってホブ・アクスィ方面
10万分の1の地図
 緑▲はクルガン群(墳丘墓) (1)ウローチッシャ・ヘンデルゲ
 コバルトのホブ・アクスィ村
 9月12日(水)、朝からアンドレイさんに連絡しても通じない。パーシャの車もあり、目的地も決めたので、自分たちで出かけることにした。しかし、前々日にオーリャの紹介で会いに来てくれて、アイ=ベックさんを呼んでくれたカーチャにも、念のため電話してみた。水曜日は大学で自分の講義がないと言っていたからだ。カーチャはクィズィール(クズル)市から外へはほとんど出たことはなくて、遺跡も全く知らないそうだが、トゥヴァ女性が同乗してくれているのは心強い。カーチャもドライブは好きだと言っていた。本物の日本人と付き合うのは生まれて初めてとも言っていた。電話するとすぐ承知してくれた。
162号線から南へ曲がる
道路の左は選鉱屑ダム跡(上段)
『トゥヴァコバルト』の廃墟の工場の一部

 カーチャを家の近くで拾って、もう3日も連続になるがクィズィール市から西への共和国道162号線を走る。ウスチ・エレゲスト村の新しく建った赤い屋根の転経器(摩尼車)のあずまやや、オットゥク・ダシュ岩山麓も通り過ぎ、時々、灌木の間から見えるウルッグ・ヘム(エニセイ川)の流れを眺めながら、ホブ・アクスィ村へ通じる曲がり角まで着いたのは12時半も回っていた。地図で見ると、クルガンや岩画のあるアク・タール村は、タンヌ・オラ山脈北斜面のホブ・アクスィ村の近くだ。
 『タンヌー・オラー』とはロシア語風の発音で、トゥヴァ語ではタンディ・ウーラ、モンゴル語ではタガン・ウルと言うそうだ。タンディとは高い山の意味、ウーラ、ウルとはモンゴル語で山の意味、タグとはチュルク語の山の意味。つまり冗語になって『高い山・山』と訳せる。東西に300キロ、最高峰は3061m。北麓は2000mの高さまでシベリアマツと落葉松の樹林、南麓は急斜面の草原(乾燥地帯、半砂漠)になっている。
 共和国道162号線からホブ・アクスィの方へ曲がると、乾いた草原丘陵がどこまでも続く。オヴァー(石を積んだ塔)とチャラマ(布切れを結びつけた木など)がしつらえてある丘もあった。道路横には電線が伸びている。地平線近くの山々も遠くに見え、真っ青の空が広い。パーシャも文句の言わない舗装道が一本、先へ先へと続いていた。あの遠くの山(タンヌ・オラの支脈か)の向こう側はモンゴルと言うことになるのか。あまりに気持ちよさそうな草原なので降りて写真を撮る。雑草の大麻も生えていそうな草原だった。
 共和国道162号線を南へ曲がってからホブ・アクスィ村まで50キロだが、途中、通り過ぎるのはチャル・ケジックと言う小さな村のみ。トゥヴァでは3代前には定住生活はしていなかったから、当時は集落と言っても臨時的なもので、夏営地か冬営地しかなかったのだ。今の村々は大部分ロシア人移民が作ったか、ソ連時代になってコルホーズ農民(トゥヴァ人を含む)を組織するためにできたものだ。
 チャル・ケジック村近くで、道路はエレゲスト川に出会う。タンヌ・オラ山脈の向こう側から流れてくるこの川の下流にはエレゲスト村、カチェトヴォ村と言った炭田城下村がある。東タンヌ・オラの北斜面はエレゲスト川の東岸支流畔のメジェゲイ炭田も含めてトゥヴァの大炭田地帯の一つだ。
*タンヌ・オラ山脈は北極海に流れ出すエニセイ水系と、大洋には流れ出さずウブス・ヌールのような湖で終わる内陸水系との分水嶺だ。だが、エレゲスト川だけは、分水嶺のはずのタンヌ・オラ山脈の地峡を縫ってエニセイ川(ウルッグ・ヘム)に流れ込む。その地峡の東は東タンヌ・オラ、西は西タンヌ・オラとなる。ちなみに、その地峡のやや西からトルガルィグ川(66キロ)が南に流れウブス・ヌール湖に注ぐ。なぜか、そのトルガルィク川の水源近くから、同名のトルガルィグ川(53キロ)が北に流れウルッグ・ヘム(エニセ)に注ぐ。両トルガルィグ川の間にはバヤン・タグヌィ峠があってこれが西タンヌ・オラ山中の分水嶺になっている。バヤン・タグヌィ峠は、また、北のトゥヴァ盆地から、南のウブス・ヌール盆地(北西モンゴル)に抜ける峠でもある。
 道はチャル・ケジック村近くでエレゲスト川と並んでしばらく進むが、すぐに川を離れ、山がちになり、舗装もなくなり、曲がりくねってのぼるうちに、まわりの草原は森に代わる。道は山を迂回してホブ・アクスィ村に通じている。ホブ・アクスィ村に入る前に、そこだけ全く草の生えていない不気味にもただっ広い地面が見える。1981年地図によると、ここに3段になった選鉱屑ダムがあった。今見えているのは上段のダム底のようだ。有害なものも残っているのかもしれない。毒でも蒔いたかのように草の生えない薄茶色の地面が広くむき出しで広がっていた。100mくらい進んだところに巨大な煙突が何本も立つ工場の廃墟があった。タンヌ・オラ北斜面のこの地には銅、ニッケル、コバルトの鉱山と精錬工場があったのだ(今でも?)。太い円柱も見える。これは火力発電所か。同じく1981年地図では、この工場の背後の山に点々と採鉱地を表す記号が続いている。
 ロシア連邦では、一昔前のソ連時代の工場廃墟や、建設が完了しなかった建物をよく見かける。20年以上は廃墟になっているものだ。全盛時代、古くからの金採掘業以外では、このトゥヴァ・コバルト工場は、トゥヴァではアスベクトと石炭と並ぶ代表的鉱業だった。
 ここから5分も行ったところがホブ・アクスィ村だ。50年も昔、ここはオグニョーフと言う人の猟師小屋があったが、1950年代に有色金属鉱山コンビナート『トゥヴァコバルト』が開かれ、タンヌ・オラ山中のこの辺をウローチッシャ『ホブ・アクスィ(草原の合流点、つまり、平原草原が終わり山岳草原の始まるところの意)』と呼んでいたことから地名がオグニョーフからホブ・アクスィに変わった。
 ホブ・アクスィは1956年から2005年までは町だった。と言うのは、銅、ニッケル、コバルトの採掘工場で働くために、ロシア各地から移住してきた技術者、工員たちで人口が増えたからだ。最盛期は6000人の工場城下町だった。しかし、ソ連崩壊後の1991年『トゥヴァコバルト』は閉鎖した。その前の1990年、過半数を超えていたロシア系移民と地元トゥヴァ人との民族紛争も起きている。主に、ソ連時代に移住してきたロシア人(スラブ系の外貌の人々)が襲われたそうだ。塀には『ロシア人帰れ』などと書かれていたそうだ。
 ホブ・アクスィにいたロシア人は、避難民になってクラスノヤルスク南部のエルマコーヴォ区やクラギノ町などに逃れた。旧ソ連邦は超多民族国家だった。かつてソ連邦を構成していた15のソヴィエト社会主義国(バルト地方や中央アジア、カフカス地方など)からは、分離独立後、多くのロシア人が現地人のからの非ロシア化(暴動)のため本土(と言うか、かつてのロシア)に避難してきた。反ロシア人運動が、旧ソ連邦内でも初めに起きた地域の一つがのが、トゥヴァだったそうだ。
 ちなみに、ここは青銅器時代から銅を採掘していたという遺跡がある。ここから近いヘンデルゲ地方に豊かなスキタイ文化が栄えたのもうなずける。

 アイ=ベックさん一家のようにトゥヴァ人の就職口でもあった『トゥヴァコバルト』城下町のホブ・アクスィ村へ入ると、今は『町』から『村』に降格してしまったが、村らしくない4階建ての集合住宅も残っていて、街路樹の多い静かな村だった。ここからアク・タール村へはどう行けばいいのか、通行人のトゥヴァ女性に聞いてみると、私たちは行きすぎたようだ。ホブ・アクスィ村の手前で、西へ曲がらなければならなかったのだ。それで、Uターン、また、工場廃墟跡と、選鉱屑ダム湖底がむき出しに建っている広場を通り過ぎて、元来た道を戻る。
美しく豊かなヘンデルゲ地方のアク・タール(白い柳)村
 草原の中に、ユルタの前に立ってロシア風に客を出迎えているトゥヴァ女性が描かれたいかにもソ連時代風の立派だが、色あせた標識が立っている。標識にはトゥヴァ語でだけ書いてあったので、帰国後、辞書を頼りに訳してみると、『美しく豊かなヘンデルゲ地方へようこそ』と言うような意味になる。1981年地図ではこの近くにオンガチャと言う集落があったが今は無人。私たちは教えられた通りに標識のある方へ曲がった。ヘンデルゲ地方へ行くためだ。
『美しく豊かなヘンデルゲ地方へようこそ』
と書かれた標識
運転席男性に地図でも書いてもらおう
としたが...。オーデコロン『トロイカ』が横に
アク・タール村の店

 相変わらず、からりとしたトゥヴァ晴れで、草原の黄緑が柔らかく、まわりの丘陵に生えている木々の緑も光っていた。私たちはここで一休みした。目的地のアク・タール村はこの先の20キロほどのところにあるし、道は舗装こそないが、穴ぼこもないし、ぬかるんでもない。ただ、アク・タール村のどこを探せばいいかわからないが、行ってみて現地の人に聞いたらわかるだろう。
 そこへ小型のウアズ(ワズ)がやってきた。私たちは地元民らしい運転手からアク・タール遺跡のことを知ろうと思って、急いで手を振って止めた。運転手は止まってはくれたし、私たちの話も聞いてはくれた。
「クルガンなら・・・にある」と説明もしてくれる。私は急いで手帳を広げ、どう進んだらいいか略地図を書いてもらおうとした。真黒い手にペンをとり何やら話しながら地図らしいものを書いてくれようとしているが、何を言っているのかわからない。座席には『トロイカ』と言うオーデコロンが転がっている。後ろの席にはこちらも真っ黒な足をあげて男性が寝ている。ネルリとカーチャが、もういいと言う。運転席の男性が
「あんたたち、これはどうだい?」と勧めてくれる。つまり、彼らはヴォッカの代わりにオーデコロンを飲んで酔っ払っているのだ。何だかふらふらしながらもスピードを上げて彼らは去っていった。
 こんな車にぶつかられたら大変なので、見えなくなってからも数分経ってから、私たちは出発した。カーチャによれば『トロイカ』は最も安いオーデコロンだとのこと。私は、以前、蚊よけにオーデコロンをたっぷり手足に塗ったことがある。

 草原丘陵の中の一本道、行く手には遠く山、左右も遠く山々、近くには木の生えていない小山、見飽きないトゥヴァ盆地のタンヌ・オラ山脈麓の風景だ。草むらにライチョウの群が走る。やがて村が見えてくる。
 アク・タール村にも、稼働しているかどうかわからない(無人らしいので)建物がある。そこを通り過ぎて、たぶん村の中心の店に入る。もちろん、衣料品から生活雑貨など何でも売っている(村の店にはたまたま仕入れたような家電製品が売ってあったりすることもある)。私たちはまずは食料などを調達し、村の情報を得る。カーチャが誰か案内してくれる人はいないかと聞いて回ってくれた。カーチャのトゥヴァ語のせいか、日本から来た旅行客がいると強調してくれたせいか、この村に住んでいて、ホブ・アクスィの学校でも格闘技のコーチをしていると言う男性が不審そうな顔をしながらも引き受けてくれた。そのアヤンさんに、案内の後、5時までにこの車でホブ・アクスィまで送ってほしいと頼まれた。
 ヘンデルゲ・クルガン(墳丘墓)群
 クルガンは、村外れのかつて家畜小屋だったらしい廃墟や、勝手に廃棄されたような車の残がいの横を通り過ぎて、ゆっくり5分も行ったところに見えてきた。ホブ・アクスィ村を流れていたエレゲスト川(177キロ)の少し上流にこのアク・タール村はあるのだが、エレゲスト川の左岸支流ヘンデルゲ川(52キロ)とに挟まれた低地にこの草原がある。つまり、ヘンデルゲ谷間とエレゲスト谷間の接しているウローチッシャ・ヘンデルゲという広い丘陵草原に、石を積み上げた大きなクルガンがいくつもあった
墳丘墓(クルガン)の一つに上る
点々と続くクルガン

 アヤンさんは、5基か6基ぐらいはあると言う。石山の周りには棘のある灌木が群生している。矮小の草原アカシアかもしれない。大きなクルガンの石山は高さ3mくらいもあって、立派な落葉松が何本も生えている。スキタイ時代のクルガンだと言うが、盗掘の穴のあいた場所にも大きな落葉松が生えていた。古い時代の盗掘跡だとわかる。石山に上ると、広いヘンデルゲ谷間が見渡せ、遠くにアク・タール村と、近くに止まって待っているパーシャの車が見えた。石の間からも丈夫そうな草が生えている。硬くて、家畜も好まないような草やまずそうな灌木だ。
 石山クルガンは5基か6基どころではなく何十基とあった。アク・タール村側の草原からはあまり見えないが、これら石山クルガンは、点々とタンヌ・オラ山脈に向かって続いている。アク・タール村周辺にもあったかもしれない。ソ連時代に耕作地にするためトラクターで均された古代遺跡は多い。放牧地として使う場合は牛たちがクルガンに生える草も食べる。円形に盛った石山が、もう平らになってしまったクルガンもある。
 ヘンデルゲとは『勝手に流れる、逆流する』と言う意味だそうだ。アク・タール村にあった唯一の店も『ヘンデルゲ』と言う名前だった。このヘンデルゲ川谷間はタンヌ・オラ山の支脈のような低い山々に囲まれ、青銅器時代人も豊かな遊牧生活を送っていたのだろうか。クルガン群が続くこの一帯は、現在の川の流れでは、ヘンデルゲ川よりエレゲスト川に近いのだが『ウローチッシャ・ヘンデルゲ』と呼ばれている。帰国後10万分の位の地図でわかったことだが、クルガンは、アク・タール村はずれだけでなく、山に沿って麓に15キロほど、エレゲスト川の上流に向かって、幾つかの大きな塊になって鎖状に続いている。エレゲスト左岸支流のヘンデルゲ川だけでなく、モグ・オイ川と言う現在は途中で川筋が沼になって消えてしまう谷間にも集中している。
 チャイリク・ヘム岩画
 この近くにあるという岩画(ペトログリフ)もぜひ見たいものだ。アヤンさんは
「ペトログリフね...」と少しためらっていた。が、承知してくれて、
「ここから、あの沼地帯を行けば近道だが」と、ヘンデルゲ川右岸低地を向き、「その車では・・・」と言ってパーシャの古いフォルクスワーゲンを指し、「無理だ」と言うので、私たちは遠回りして行くことになった。一旦アク・タール村に戻り、さらにホブ・アクスィ村への道を少し戻ってから、地元の人ではないとわからないような小道に入った。後で地図を見てわかったが、確かにヘンデルゲ川右岸は沼地で、左岸は低い山の麓になっていた。パーシャも、もはや、草原アカシアが道の横に生え生え、草の生えない岩山が所々突き出ている草原の怪しげな道を行くしかない。夏場で乾燥しているから細い道もぬかるんではいない。帰国後見た地図では、この辺にもクルガンがある。撮ってきた写真を見ると、石が円形に集められた、もう盛り土のなくなったクルガンが点々と映っている。
ヘンデルゲ川左岸を行く。クルガンも見える
牧童さんが前方に。フロントガラスの
前に見えるのは犬の耳
一本橋を渡るカーチャ
チャイリク・ヘム岩山、アヤンさん
岩画の一つ
帰り、夏営地と橋のない小川(左前方)
アヤンさん

 馬に乗った牧童さんとすれ違った。道が高台に出ると、『ウローチッシャ・ヘンデルゲ』やアク・タール村が遠くに見える。真っ直ぐ来れば、かなり近かったのだ。ヘンデルゲ川の左岸の草原にぽつんと『狩猟禁止』と書いた看板が立っていた。実は左岸のボッシュ・ダック山の向こう側にはカク湖があり、一帯は自然保護区になっているからだ。
 夏営地もあり、そばを通ると犬たちに長い間追いかけられてほえられた。1時間程、岩が突き出ている丘と下の方には川面が見えるほか何もないヘンデルゲ川左岸(北岸)段丘の草原を進んだ。一応タイヤの跡のため草が生えていないからそれとわかると言う草原の『道』はどこまでも続きそうだが、移動手段はこんなところは、もう車輪より蹄の方が言うまでもなく便利だ。
 本当に蹄でないと難しいと思った頃、この先は川を渡らなくてはならないとアヤンさんが言ったので、私たちは車を降りた。こんなところの川に車が通れるような橋は絶対にない。人もやっと通れるくらいだ。夏場の渇水期なので水量は多くない。丸太が渡してあった。平衡感覚に自身のない人のために、手すり用の針金も一本渡してあった。この丸太と針金のおかげで、私はヘンデルゲ川を渡れた。
 しかし、ヘンデルゲ川は沼地草原を幾筋にも分かれて流れる川だ。親切にも丸太が渡してあるのは初めのヘンデルゲ本流だけで、次の流れには何もかかっていなかった。渇水期で水かさが低いので、問題ないのか、先に立ったアヤンさんは、ためらうことなく靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくりあげて、じゃぶじゃぶと入っていった。私もやむなくアヤンさんに続こうとしたが、いくら浅い川でも、一歩入ってためらってしまった。水は氷のように冷たく、川底はつるつるで流れも速いのだ。慎重にゆっくり渡ると、向こう岸に着くまでに足は凍って動かなくなりそうだ。何だか転びそうで怖い。急いで渡ると、流れに足をとられて、やはり転びそう。引き返して、向こう岸で待っているアヤンさんに渡れない、と言う。楽々とこちら岸に戻ってきたアヤンさんともっと渡りやすい場所を探すことにした。川岸に木が生えていれば、枝を伝って渡れるかもしれない。お猿のようにすばしければだ。だが、少し行ったところで、狭くなって、おまけに近くに、手ごろな丸太が転がっていた。元々その丸太は橋だったのが、増水期にでも流されてしまったのかもしれない。針金の手すりはないが5,6歩くらいで渡れる。カーチャが手をとってくれた。私は平均台運動が大の苦手なのだ。
 湿地帯には、もう9月なのにシナノキンバイが黄色い花を咲かせていた。6月なら、湿地帯に群生している見事なシナノキンバイをシベリアならどこにでもみかける。
 ヘンデルゲ川の分流をやっと渡ると、その草原にも夏営地があった。こちらは無人で犬もいなくて、ただ家畜を囲う柵と小屋だけがあった。その背後にある小高い山のどこかに岩画があるらしい。麓には、また棘のある灌木が生い茂っていた。できるだけ密集していない斜面を上っていく。だんだん灌木よりむき出しの岩が多くなる。切り立った岩も現れる。こんなところにこそ岩画があるのだ。
 目のいいネルリさんが最初にチュムらしい打刻画を見つけた。よく見ると、その岩の近くに別のチュムが見え、人間や動物も見える。少し離れた広い岩に角のある動物や、太い胴をした動物の線画が見える。弓を持った人の姿も見える。私たちが見つけたのは2枚だけだった。つまり、少し離れた垂直に建った2か所の岩肌だけだった。打刻されている動物のスタイルも、打刻の仕方も違う時代のようだった。
 時刻は5時半を回っていた。早い時間だったら、もっと見つけたかもしれない。アク・タールにペトログリフがあることも、アイ=ベックさんに2日前聞いて知ったことだったし、ここへ来るまでは見つかるかどうかもわからないところだった。カーチャはクィズィール市にずっと住んでいて、博物館以外でペトログリフを見たことがないというトゥヴァ人だ。カーチャは遺跡のことは何も知らない。
 アヤンさんのおかげで、岩画を見つけられたし、共和国道162号線からも、ホブ・アクスィ村からも、アク・タール村からもこんなに離れたところまで来られて、まずは満足して引き上げることにした。アヤンさんは、私たちの案内をしてくれたためにもうホブ・アクスィの仕事には間に合わない。棘の灌木を通って登った1500mくらいのその岩画のある山の斜面にいたのは30分弱だった。(ヘンデルゲ川の海抜はこの近くで1070mとある)。
 帰国後調べてみると、チャイリク・ヘム遺跡と言って、3キロもにわたってペトログリフが続く大規模なものだとわかった。私たちが上った山の向こう側にヘンデルゲ川の右岸支流チャイルク(夏営地の意味)・ヘム(川)が流れ、そちらの斜面により多くのペトログリフがあったらしい。
 ここは1989年に初めて調査され、2007年にサンクト・ペテルブルクで出た論文集のキルノフスカヤ『トゥヴァの岩画』に詳細に言及されている。それによると、垂直に切り立った岩壁に3,4列にわたり、打刻画がみられる。画は50場面以上あり、狩りの場面が最も多い。弓を持った男性が車の側に立っている場面も5個ある。鳥、魚、ビーバーや船が描かれていて、これはトゥヴァの岩画では大変珍しい。鳥人らしい画もある。またトゥヴァ各地の岩画にあるような大きな枝状の角を持った牛や鹿の画も多い。青銅器時代の画だけでなく、尖った兜をかぶり、弓矢を持った馬上の古代チュルク戦士も描かれているかれている。(М.У.Килуновская "Рисунки на скалах Тувы")
 ここまで来てチャイリク・ヘム遺跡のたった2か所だけしか見なかったとは残念なことだった。だいたい、私の旅はこんなふうだが。
 遺跡を見ると言うよりもその過程の道筋も旅の重要な一部だ。運転手のパーシャが行きたがらない所をなだめすかして進ませる。「なんでこんな道を通って、どこへ行かなくてはならないのか」と叫ぶパーシャを無視もしてきた。タンヌ・オラ山脈が近くで見られた。ヘンデルゲ川を渡った。アヤンさんと言う格闘技のトレーナーとも知り合った。その後の文通はできなかったが(私のメール・アドレスは残してきた)。
 帰国後サイトを調べてみると、ホブ・アクスィ村に2002年創立チェディ・ホリ郡立青少年スポーツ・スクールがあり、そこの校長がコプチュク=カラ・アヤン・フョードロヴィッチとあった。その人だったようだ。

 ネルリさんはさすが、岩画がまだないかと探し回っていたが、あきらめて声をかけながら岩山を降りはじめた。私たちはまた無人の夏営地のある草原を通って、ヘンデルゲ川の方へ戻ってきた。早足のアヤンさんについて必死で歩いたので、カーチャやネルリさんとは離れてしまった。平均台運動の一本橋に来る。苦手だなあ。恐る恐る一歩2歩と小さく進もうとしている私を見て、格闘技のコーチのアヤンさんは
「あなたは日本女性でしょう、頑張って」と励ましてくれる。日本女性だからといって平均台運動に巧みなわけではないが、きっと、こんなふうに、ホブ・アクスィ村のスポーツ少年を「君は・・・だぞ、頑張れ!」とコーチしているのだろう。励まされて、私も川に落ちずに、無事渡れた。
 パーシャが待っている川向こうへ戻り、また犬にほえられながら夏営地の側そばをとおり、沼地を遠回りしてアク・タール村にアヤンさんを送り届けたのは8時だった。アヤンさんに謝礼として渡したのはたったの300ルーブル。

 クィズィール市のアパートにカーチャを送り、私たちの宿舎に戻って夕食を作って食べたのは11時だ。翌日はクィズィール市を立つ。ネルリさんが翌々日のクラスノヤルスク市での会に出席するためだ。実は、ネルリさんはバスで帰ってもらっても、パーシャともっと残り、南のトレ・ホリ(湖)へ8000ルーブリで行きたいと思ったくらいだ。しかし、今回は機会がなかった、と言うわけだ。
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