クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 18 April, 2013  (校正.追記:2013年5月17日、10月8日、2014年3月15日、2018年10月28日、2019年12月6日、2021年9月26日、2022年10月27日)
30−(2)    トゥヴァ(トゥバ)紀行2012年
    (2)エニセイ川を遡りハカシア盆地へ
           2012年9月3日から9月14日(のうちの9月3日
Путешествие по Тыве 2012 года (03.09.2012-14.09.2012)
1) トゥヴァについて トゥヴァ略地図 前回までのトゥヴァ紀行 予定を立てる、ポル・バジン遺跡
2)9/3 エニセイ川を遡る クルタック旧石器時代遺跡 ダム湖水没クルガン チェルノゴルスク市に泊る
3)9/4 アバカン博物館 エニセイ川をさらに遡る 西サヤン山脈に向かう エルガキ山中 救急事態救助センター ウス川沿いのアラダン村 シベリア最大古墳 クィズィール市へ
4)9/5 トゥヴァ国立大学 クィズィール市をまわる トゥヴァ国立博物館 4輪駆動車ウアズ 新鉄道建設 エールベック古墳群 ロシア科学アカデミー(抄訳) 『王家の谷』キャンプ場
5)9/6 小エニセイ川へ トゥヴァの行政単位コジューン 小エニセイ川を遡る ロシア移民起源の村々 トゥヴァ東部の金 震源地カー・ヘム中流の村々 トッジャ陸路の入り口で待つ かつての金産地のコプトゥ川谷を遡る
6)9/6 3つの峠越え、トゥマート山脈 中国の紫金礦業 ミュン湖 エーン・スク寺院とダルガン・ダグ遺跡 トッジャ郡トーラ・ヘム村泊 トゥヴァ共和国のトゥヴァ・トッジャ人
7)9/7 トーラ・ヘム村史 トッジャ郡の霊水 アザス湖へ アザス湖上 個人事業者オンダールさん
8)9/8.9 緑の湖 アザス湖を望む ヴォッカ 初代『アジアの中心碑』のサルダム村 ウルック・オー谷
9)9/10.11 獣医アイ=ベックさん オットゥク・ダシュ石碑 イイ・タール村 『アルティン・ブラク(金の矢)』 シャガナール市へ シャガナール城塞 聖ドゥゲー山 トゥヴァ最高裁判所
10)9/12 コバルトのホブ・アクスィ村   アク・タール(白い柳)村 ヘンデルゲ古墳群 チャイリク・ヘム岩画
11)9/13.14 西回りの道  チャダンの寺院 ヘムチック盆地 アスベクトのアク・ドゥヴラック市 西サヤン峠 オン川とオナ川 シャラバリノ岩画

ロシア語のТываのトゥヴァ語の発音に近いのは『トゥバ』だそうだが、地名などはすべてロシア語の転記に従って表記した。トゥヴァの他にも、ハカシア共和国だが人はハカス人(男性単数)、言語はハカスキィ語、ハカスカヤ盆地などだがすべて国名のハカシアで統一。

クラスノヤルスク出発、エニセイ川を遡る 9月3日(月)
クラスノヤルスク市からクィズィール市へ
1.ザレデエヴォ 2.ディヴノゴルスク 3.バラ
フタ 4.クルタック 5.ノヴォショーロヴォ 
6.イリインカ 7.ミヌシンスク 8.カザンツェ
ヴォ 9.ィエルマコーフスコエ 11.カラトゥー
スコエ 12.クラギノ 13.シャラボリノ 
14.モーホヴォ 15.クスクン 17.クーニャ山 
18.テプセィ山  19.オグラフティ山 
20.スハニハ山
以前の土砂採掘場跡が、池に
クマのミーシャの檻の前
 クラスノヤルスク市からクィズィール市まで800キロあり、山越えはあるが、ひたすら走れば1日で行ける。しかし、その道中にも寄りたいところはあったので、中間点アバカン市近くのチェルノゴルスク市のサーシャ宅で1泊することにして、1日目はそこまで400キロほど進むだけにした。それでも早めに出発したかったが、パーシャの運転するフォルクスワーゲン(2002年製)がホームスティ先のネルリさん宅の前についたのは8時40分だった。クラスノヤルスク到着から出発まで、一応パーシャが自分の車で運転手をすることになっていて、実費のみ私が負担。ネルリさんも同行した。
 パーシャは、経営者が私の知り合いの会社で、運転手として働いているのだ。クラスノヤルスク到着の8月30日からすでに4日間、私を案内してくれたのだが、パーシャのロシア語は私には1度では聞きとれず、私のロシア語もパーシャはわかりにくそうだった(彼は外国人に分かりやすいように自国語を話してくれない)。それに、スピードを出し過ぎる危ない運転ぶりだった。本人は自信があるのかもしれないが、助手席に座っている私には不自然な走行に感じる(後でわかったことだが、彼は何度か事故を起こしている)。それで、車を出してくれた会社の経営者の一人ワジムさんに、クレームを出した。直接私が頼んだのは別の経営者のディーマさんだが、彼は当時、中国に行っていて不在だったのだ。それで、この日パーシャは、90キロ程度のスピードで安定して走ってくれた(初めのうちだけ)。

 クラスノヤルスクからアバカン市のあるハカシア方面に行く時は、終点がモンゴル国境まで通じている連邦道54号線を通るのだが、最近はザレデエヴォ経由のバイパスで、クラスノヤルスクを出る。
 バイパスから54号線に合流すると、すぐビリュッサ川を渡る。前々日その河口を遊覧したのだった(別記)。道路の左にヴェルフニャヤ(上の意)・ビリュサ村があって、右にシベリア風サービス・エリア、つまりドライブ・インがある。もちろん、ここの飲食店には水道はなく、トイレは水洗でもない(町から離れた連邦道沿いのドライブ・インには、上水道設備などはない、ましてや下水道もない)。だから、ここでトイレ休憩をしないで、この先の旧・土砂採掘場でブランチにする。
 古い採掘場には採掘跡の窪地があり、水がたまって池か湖になっているものだ。道路から少し離れたところにあり、ちょっとした名所で、そんな穴場を知っているドライヴァーは多くないらしい。だから、パーシャは得意そうだった。連邦道からは、大型トラックが凸凹に踏み固めたような道を通らなければならないが、木々と水場があるので一休みに格好な場所なのか、たき火の跡がある。そればかりか、古タイヤやヴォッカの瓶などが捨ててあった。採掘場跡とは思えないような美しい湖で、三方が白樺やトウヒ林の斜面に囲まれ、水面はまわりの木々が映って緑色に見え、魚も住みついているようだった。宝石箱に描かれているような景色でも、足元に目をやればゴミがある。が、めげてはいけない。

 ヴェルフニャヤ(上)・ビリュッサ村のドライブ・インと、バラフタ村への分かれ道のなかほど、パーシェンカ川(オビ川の大支流チュリム川の右岸支流スィル川の支流)手前に『タイガ』というカフェがあって、横の空地に熊が1匹飼ってある。2005年に初めて見た時は小さかったが、今、ネルリさんの勧めで降りてみるとすっかりおとなになっていた(ネルリさんの本業はガイドで、ちょっとした見どころを知っているので、パーシャに頼んでは止めてもらっていたのだ)。熊のミーシャの檻の前で止まった車がもう1台あって、降りてきた太めのアジア人が、
「ジャパン?」と聞く。彼らはカルムィク人で、ハカシアからの帰りだそうだ。カルムィク共和国はヴォルガ川とドン川の間、カスピ海の北西にあって、ヨーロッパ・ロシアに住む唯一のモンゴル系のロシア連邦構成共和国だ。彼らは17世紀にジュンガル盆地(中国新疆ウイグル自治区北部)から現在のカスピ海北西に移動して来た。もともとカスピ海岸や黒海岸は,
古代からスキタイ人などの遊牧民の、中世はハザール帝国やジュチ・ウルス(金帳汗国)の地だった。
 私が「(カルムィクの首都は)エリスト市ね」というと、よく知っていると感心される。日本にいてもクラスノヤルスクにいてもカルムィクのことを知る機会は多くない。彼らにとって、ハカシアのこんなところで日本人に会うのも珍しいが、その日本人がカルムィクのことを多少とも知っていたのが好印象だったのか、一緒に写真を撮ろうと言われる。
 (今では音信不通になっているが、レニングラードの知人の父親がカルムィク共和国の首脳の一人だった。エリスト生まれだそうだ。カルムィク人は、第2次大戦中占領軍のドイツに協力したとかで、10万人以上の全カルムィク人がシベリア各地へ強制移住となり、半数は死亡した。ソ連時代の民族大虐殺の一つだ、ということを初めて知ったのは、1989年末にその知人からだった。現在カルムィク共和国の人口は30万人、そのうち半数が西モンゴル・オイラト族のカルムィク人で、約3分の1がロシア人である。1926年にはカルムィク人75%、ロシア人10%の、ウクライナ人10%の構成だった。1959年はカルムィク人35%、ロシア人56%だった。2010年カルムィク人57%、ロシア人30%、同年旧ソ連邦全体でカルムィク人は20万人弱)。
 クルタック旧石器時代遺跡
 クラスノヤルスクから180キロのバラフタ村への分かれ道付近では、夏場はいつも道端でキノコや自家栽培の作物を売っている。その写真を撮るのが好きだが、今回はただ通り過ぎた。助手席に座って道路標識を読み取っては地図と見て確認していたのだ。それで、この近くに旧石器時代遺跡クルタックがあると、ちょうどよい折に思い出した。まだ間に合うから、そこへぜひ寄ろうと、パーシャに地図を見せる。パーシャはクラスノヤルスク地方のナビを持っていたがその小さな画面はパーシャだけが見る。
 クラスノヤルスクから200キロほど来たところで、クルタックと書かれた曲がり角がある。エニセイ川(この部分はクラスノヤルスク・ダム湖になってしまっている)の左岸からややはなれるが川と平行して走っている連邦道54号線を出て、クルタック村のあるダム湖の方へ曲がる。すると前方に、対岸が青い山並みに囲まれたダム湖の水面が見え始める。エニセイ川をクラスノヤルスク・ダムでせきとめた湖の長さは388キロで、幅は広いところで15キロほど。この辺もかなり広い。クルタック村までは連邦道を左折してから10キロ余で、アスファルトはないがよい道だ。この道路の状態というのが、パーシャとの最大問題。どんな道路でも猛スピードを出したがる。ここでも砂利道でお尻を振って走るので、この車は後輪駆動かと聞いたくらいだ。
 クルタック村は、ソ連時代のコルホーズも閉鎖され人口が激減している村の一つで、働き口のない村人は、昔からのように、自分の菜園で半自給自足暮らしをしているのだろう。しかし、当然のことながら、今となっては経済的にも心理的にもソ連時代以前の『昔』のようにはいかない。
 道端の一人を呼びとめて、考古学発掘場への行き方を訪ねる。そんなもの聞いたこともないという答え。1987-1989年、クラスノヤルスク・ダム湖岸のクルタック村付近に3か所にわたり考古学的・地質学的に旧石器時代と確認される石器などが発見され、クルタック遺跡と名付けられた。しかし、クルタック村人が、考古学とか石器時代遺跡とかに関心があるはずもないと、ネルリさんが言って、別の人に『大学のキャンプ場はどこ?』と聞きなおすと、道なりにこの先の湖岸まで行ったところにある、と教えてくれる。
クルタック村
旧石器遺跡の川岸
旧石器遺跡の河岸段丘(チャニ川の入り江も)

 『キャンプ場』の敷地の入り口には上げたままになってはいるが遮断機と通行禁止マークがついていたので、一応車を降りて歩いて入っていく。そこは思った通り立派なキャンプ村で、2階建ての管理棟もあれば、番号のついたバンガロー小屋も並んでいた。後で知ったことだがクラスノヤルスク教育大学経営のキャンプ場とペンション村で、大学関係者が宿泊したり、歴史学部学生たちが実習したりアルバイトやボランティアをしながらここでひと夏を過ごしたりするばかりか、考古学関係の国際シンポジウムも開かれる。学会出席者も、対岸に美しい青い山並みが見え、此岸には緑の草原やところどころ林の拡がる湖岸のペンションに宿泊し、旧石器時代人と同じ気持ちになれるかもしれないのだ。
 管理棟のドアを押してみたが、鍵がかかっていた。バンガロー小屋も順番に回ってみたが、どれも人の気配がなかった。バスケット・ボールができる広場や、ベンチも並んでいる小路が続いているが、静まりかえっている。誰かいないかとネルリさんと探す。9月に入って新学期が始まり大学関係者が引き揚げたとしても、管理人か警備員はいるはずだ。バンガロー小屋のはずれの木々の間には、テントを張った跡もあった。誰か人を見つければ情報が得られるかもしれない。ネルリさんと私は、
「アウー、アウー、誰かいないのー、アウー、アウー」と叫びながら歩き回ったが、誰も答えてくれない。ずんずん歩いて行くと湖岸に出た。かなりの高台で、水面が低く見渡せる。ダム湖のできる前の本来のエニセイ川はもっと低いところを流れていて、ここは山、高原だったのだろう。ダム湖ができたため、この辺の左岸ノヴォショーロヴォ区だけでも30村が水没した。石器時代人も山の斜面か、当時の河岸段丘に住んでいたのだろうか。
 かつてはエニセイ川からかなり高くにあったこの崖近くにまで、春の雪解け増水期には水面が上がるのか、崖が浸食され、崩れかかっていた。崩れそうな崖っぷちには、危険を知らせる目立つ配色のひもも張ってあった。今年は7月初めに国際シンポジウムも開かれ、しばらく前までは注意喚起のひもを張るほど、学生たちや考古学関係者(日本からの参加関係者も3名)でにぎわったのだろう。ひもを越えてそっと崖っぷちに立ってみた。今年はダム湖の水位が異常に下がっているそうで、水面下の元の河岸段丘も見えていた。
 ダム湖のこの辺の平均深さは50‐60メートルとあるが、水位は最大20メートルまで上下することがあるそうだ。
 広いクラスノヤルスク・ダム湖岸には至る所、昔の川が大小の入り江となっていて今の湖岸線はとても複雑だ。入り江はなだらかなものや絶壁になっているものなどさまざまで、かつての河口の地形によるが、どこも湖岸近くまで木々が茂っている。ダム湖全体に無数にある入り江は、自然の中で孤独にしばらく過ごしたい旅人の格好の拠点となる。これら無数の入り江が、そんな旅人の個室となるが、満室になることはまずない、とあるロシアのブログにあった。
 ダム湖の予定地にあったため、大小の多くの村が移動した。幾つかの村が近くの高台に移動して、新しい合併村を作った場合もある。ずっと遠くに一気に移動して新村を作った例もある。小さな村が一個だけ移動して新村を作ったということはあまりなかったらしい。ダムのできる前の村々はほぼ旧エニセイ川岸にあったので、移動先の新村はできたが、ダム完成後の1970年にはこの地区の人口は激減した。現在は、それら新村もいくつかは無人化し、さらに減っている。
 今、高台にあるクルタック村は、クルタック川がエニセイ川に注ぎこむところにあったクルタック村と、中洲にあった旧ベレジェコヴォ村が1962年以降に合併してできた。クルタック川の現在の入り江(エニセイ川、つまりクラスノヤルスク・ダム湖への合流点)は、(新)クルタック村より少し上流にある。クルタック考古学キャンプ場の方は、緑に囲まれたチャニ川の入り江と元のエニセイ川の高い河岸段丘に面している。
 クルタック遺跡と命名された旧石器遺跡はダム湖の左岸に20キロにわたって3か所が発見されている(60キロも上流のラズリーフという場所も含めると4か所)。38万年前から10万年前の前期旧石器時代とされている。だからネアンダルタール人のムスティ文化の跡や、中石器時代の跡で、このような旧石器時代の遺跡としては、ほかにアンガラ川南岸、レナ川流域があると、前記クラスノヤルスク教育大学のドロズドフ主著『シベリアの前期旧石器』という論文に載っている。私たちが見たのはクルタック遺跡の3か所の一つ、論文に載っている地図ではベレジェコヴァという場所らしく、地質年代で更新世(新生代第四紀)中期から後記とされている層から35個の石器が発見されたそうだ。
 研究者は一人も残っていないようだったが、ハカシア晴れ(この盆地は降雨量が少ない)の初秋の青空の下、広々としたダム湖岸を長い間歩き回った。元チャニ川の入り江を白樺やヤマナラシの木々の間から見下ろし、倒木をまたぎながら、どこか発掘の跡でもないかと探してみた。
 やっとガードマン(女性)が小道を私たちの方に近づいてきた。私は、何か発掘の情報が得られるかと喜んで、質問を始めたが、知らない、と言われる。ネルリさんによれば
「ガードマンさんは考古学には全く関係ない」とのこと。だが、発掘していたときに近くにいたのだから断片的にも知っていることはないのだろうかと、重ねて聞いてみると、
「発掘していた場所ならあっちの方よ」とバスケット・ボールのコートの向こうの草はらを指さしてくれる。もちろんそこも、高い河岸段丘になっていて、絶壁の下には岸辺があり、もとは、下も高い段丘か斜面だったのだろう。今は、春の増水期には水面下になるような低い岸辺だった。そこへ下りる人口の『土段』が作られていた。つまり、絶壁の土が階段状に削られていた。下へ降りるのに便利なばかりか垂直に掘ってあるので地層もよくわかる。私とネルリさんは感心して眺め、何枚も写真を撮った。下へ降りようかとも思ったが1段の高さが1mくらいもあって、私向きではない。
 2時近くになっていたので、南シベリアでも最も古い時代の遺跡近くの原っぱで、敷物を敷いて昼食にした。少し前までは、日本からも含め世界中の考古学者60人余が集まり国際フォーラムを開いた場所で(新聞のアーカイブによる)、ずっと昔は、ホモ・エレクトスかハビリスが歩いていたかもしれない所で、パンを切りチーズやハムをのせ、ゆで卵の殻をむいて昼食にした。魔法瓶のお茶はなくなっていたので、ガードマンさんに頼んで、小屋からポットを持ってきてもらった。オーリャさんというそうだが、彼女はクルタック村の住民で、非番の時は村内に住んでいる。この大学のキャンプ場のおかげで、村人の数人には働き口ができたのだ。クルタック村は、ソ連時代コルホーズがあった頃は千人くらいも住んでいたが、今は200人もいないそうだ。
 ハカシア、モーホフ村の水没クルガン
 3時、ハカシアへの『国境』を超える(ハカシア共和国なので県境でも州境でもない)。地平線の見える草原や低い丘陵が広がっている。干し草の小山や、干し草ロールも見えた。草原はまだ緑色だ。ここで3時ということではアバカン市(まだ200キロはある)の博物館の5時閉館には間に合わない。チェルノゴルスク市のサーシャ宅に着くには早すぎる。もちろんここまで来たのだから寄りたいところはあるが、道がわからない。
 例えば、城跡か寺院跡かもしれないと言われている半分土に埋まった石が並んでいるウズィンヒール遺跡だ。2007年に初めて考古学のスラーヴァ・ミノールに案内されて訪れた。アバカンから30キロほど北のプリゴルスク町近くにあって正式遺跡名も『プリゴルスク1』と言われる。だが、ハカス語の地名『ウズィンヒール、またはゼンフィル(長い山々)』で呼ばれることが多く1998年の試掘ではアファナシエヴォ文化(紀元前3000年紀から2000年紀の前期青銅器・金石併用時代文化)の土器が見つかったそうだ。川岸に小規模なグループで住んでいた青銅器時代初期のアファナシエヴォ人が、このような城か寺院を作ったかどうかは不明。
 ウズィンヒール遺跡は連邦道54号線のプリゴルスク町から、ダム湖の方へ2キロほど入った草原の丘に上あるが、どこで曲がるかははっきりとは覚えていない。それで、スラーヴァ・ミノールに電話する。突然の私からの電話で嬉しそうではあったが、そこへ行く道は先日の大雨で状態が悪く、ジープでないと行けないとのこと。他に見るものがないかと尋ねたが、今、彼はアバカン市近くの発掘作業を指導していて、時間がないと言う。では、モーホフ村の水没クルガン(墳丘墓)を訪れよう。そこへも行けなかったら、足を延ばしてサルビック大クルガン群へ行こうと思っていた。サルビックはハカシアの考古学の目玉だからそれなりに多くの訪問者がいて、数年前にできたユルタの売店で発行部数の少ない考古学の面白い本が売られていたりする。遠くからここまで訪れて来たらしい旅行者たちの顔ぶれ(の跡)を見るのも面白い(たとえば、管理人が日本から訪れた考古学者からもらった名刺を見せてくれたりする)。誰もいなければ、それはそれでもっといい。
 モーホフ村方面へはスラーヴァ・ミノールも一応通行可能という。しかし、水没クルガンへの道はないか、ひどく悪いそうだ。運転手のパーシャに、今夜の宿に着く前に、また寄り道するように説得する。パーシャは会社から10日間の出張旅費をもらい、実費は私持ちなのに、ただクラスノヤルスクからクィズィールへ行って戻ってくるだけのつもりだったのか。どこへ寄るにもたいそうお願いしなければならなかった。パーシャはしぶしぶ懇願を受け入れ、道中はずっと、引き受けてしまったことに文句を言い続け、今にも引き返そうとするのだった。
 (数日後の、旅行の後半には、寄り道は全く拒否するようになった。仕方なく、クラスノヤルスクの会社に電話して中国から帰ったばかりのディーマ社長に説得してもらうということになり、説得された(社命と言える)ことを怒って、ますます私に当たるようになった。何と言われても、ハンドルを握っている彼には言い返せない。黙って聞き流すようにしていたが、クラスノヤルスクに戻った時には、この先のパーシャの運転は断わろうとした。が、他の人材はいないと言われ、他に仕事はないと言われたパーシャと仲直りしたものだ。しかし、これは10日後のことだ。)
 水没クルガンは、モーホフ村付近ばかりではなく、湖岸の至る所で見られるだろうが(シーズンによって水位は上下する)、2010年、スラーヴァに案内されて来た時、そこは印象的だった。モーホフ村も元の村は水没して、今のは移転村だ。
 幹線道を曲がると、村への道を探しながら進んだ。と言っても、林も丘もない平坦な草原だ。パーシャは道がないと怒鳴っていたが
「ほら向こうから車が来るではないの、あの道へ行くのよ」と言われて、しぶしぶ進む。村を右に見て進むとダム湖に突き当たる。しかし、ずっと草原が続き、どこからがダム湖なのかわからない。海岸なら広い砂浜があるが。
 岩画などの遺跡で有名なクーニャ山オグラフティ山の間も草原になっている。どちらの山もダム湖岸からすくっとそびえているので、対岸の同様のスハニハ山テプセィ山と『エニセイ門』と言われている。これら4つの岩山が両岸から迫っているので、ダム湖ができてもここだけは川幅が狭いままだからだ。そして湖岸の景色も素晴らしい。
モーホフ村付近の赤色の草むら、
対岸のスハニハとテプセイ山
プリゴルスクとモーホフの間のクルガン

 モーホフ村はクーニャ山の麓の草原の一角にある。ハカシア政府の2011年の古代遺跡リストによれば、この草原には50以上のクルガン群が登録されている。各クルガン群には4−7個のクルガンがあって、だいたい紀元前7から3世紀のタガール時代とリストにある。10世紀前後の中世キルギスの古墳も2群ある。もっと多くの遺跡があったが、昔のエニセイ川近くにあったものは水没してしまい、また境界線にあったものも、流されていっただろう。
 2年前には草むらを歩いてダム湖に近づいているうちに足元が水浸しになった。気づかないくらい高低差がないのだ。今年は水位が異常に下がって、狭いが一応砂浜の帯ができ、その向こうのダム湖の湿気の残っている一帯には遠くまで、水辺に生えるような草が群生していた。日光と水分に恵まれてか、草丈も高く、ダム湖が一時的に干上がったため急いで生えてきた草は名前は知らないが葉っぱは赤色だった。草原ではいろいろな草が生えてどれも緑色だから、赤緑色の草原は不気味だった。この背の高い赤緑色の草むらが切れたところから今のダム湖が始まるのだろうが、高低差がないので湖面は見えず、対岸の聖テプセイ山と聖スハニハ山のそびえる岩肌だけが見えた。赤緑色の草むらに入っていけば半水没クルガンも探せたかもしれないが、サシバエなどの吸血昆虫群に襲われそうだった。昆虫類は草のまばらな砂浜にも迫ってきて、責め苛め始めた。それにもめげず、赤緑色の草むらと、半砂漠に生えるような草がところどころに生えている砂浜の間を、対岸の聖なる岩山を眺め、この地で川(ダム湖)の浅瀬が干上がるとどうなるか感心しながら、30分ほども歩きまわった。

 連邦道54号線のプリゴルスク町に戻るまでの10キロほどの草原にもいくつも中規模クルガンがある。ここまではエニセイ川上流のサヤノ・シューシェンスカヤ発電所ダムが決壊しない限り洪水にならない(2009年に発電所事故があって洪水になりかけたが、決壊はしなかった)。パーシャにわざわざ車を止めてもらって、私だけそのひとつのクルガンに近づいた。
 クラスノヤルスクからトゥヴァへの行きと帰りにハカシアを通ったが、ハカシアに無数にあるクルガンの一つでも触れたのは、この時だけだった。クルガン(墳丘墓)はよほど大きなものでない限り墳丘はほとんど残っていなくて、周りを囲っていた石のみが残っている。
 チェルノゴルスク市で泊まる
サーシャ家の菜園
 6時のまだ明るいうちにチェルノゴルスク市のサーシャとレーナ宅についた。前年サーシャ宅に来た時は、レーナはまだ同居していなかった。サーシャの先妻(たぶん、その時はまだ完全には別れていなかったマリーナ)との娘のヴァーリャがいて、レーナは少し離れたゼリョーニィ町の母親宅に住んでいた。その前年、サーシャはレーナとは付き合っていたが、家にはまだ、先妻のマリーナが住んでいた。マリーナは先夫(サーシャと再婚するする前の夫)との娘を引き取って、今、クラスノヤルスクで別の男性と暮らしているそうだ。つまり3人目の夫というわけか。
 レーナはチェルノゴルスクの菓子工場に勤めていて、この日、おいしい菓子パンを焼いて私たちを待っていてくれた。まだ、婚姻届は出していないそうだ。2005年(マリーナと住んでいた頃)にチェルノゴルスク市のこの家にはじめてきたが、家は、来るたびに修理されて住みよくなっている。2年前には屋内にトイレができた。今、水道の出るダイニング・セットがそろっている。その前は水道がなく、外の共同井戸から水を汲んで来ていたものだ。さらに、サーシャは自分で外壁を厚くしている。暖房効果が上がるし、外観もよくなる。菜園にキャベツがなっていた。イチゴの苗も植わっている。これはレーナが世話をしている。
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