クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 31 May, 2011(校正2011年6月28日,8月23日,12年7月28日,13年5月1日,11月22日) 
晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(1)ハカシア盆地のベヤ村到着
           2010年10月22日から11月19日(のうちの10月22日から10月26日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ(古代遺跡集中地の一つ)
8 別のハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ村 ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山)スベ(要塞) チェルガトィ・スベ(要塞)
9 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、、エニセイ川に架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ
今は人口70人のチェバキ村に
残る19世紀建立の大富豪の邸宅
 2009年夏、クラスノヤルスクからハカシアを訪れ、南シベリアの古代文明、特に紀元前8−3世紀(とも言われる)のタガール文化(ハカシア・ミヌシンスク盆地でのシベリア・スキタイ文化)のクルガン(古墳)などを訪れ、発掘にも参加したが、ハカシアは、紀元後5世紀頃からチュルク語系のエニセイ・キルギス族の地でもあった(紀元前3-2世紀、中国の漢王朝の北方の脅威、匈奴に追われたキルギス族がエニセイ中流のハカシア・ミヌシンスク盆地に入って、先住のウゴール語系、またはサモエード語系と同化したとも言われている。『堅昆』)。13世紀にはモンゴル帝国の一部に、そして18世紀初めにはロシア帝国領になっている。
 今回、機会があったので、再訪することにした。ハカシアは、実は通過しただけでも10回近く、1日以上滞在したのは6回目、詳細に見て回ったのが2回目なのだ。
 2010年の冬季(11月から翌年3月末まで)、ウラジオストック航空会社の運航回数が減って、新潟ハバロフスク便がなくなったので、成田からハバロフスクに飛ばないとすると、週1便(金曜日)の富山ウラジオストック便に乗るしかない。ところが、ウラジオストックから先も、多い時には毎日飛んでいたクラスノヤルスク便が週1回きり(日曜日)の往復になった。それで、乗り継ぎ便を待って、ウラジオストックに2泊もしなくてはならない。(その後、臨時のダイヤ変更で、12月末から富山ウラジオストック便がなくなって、新潟ハバロフスク便が飛ぶようになった。4月からまた中止、しかし夏季だけ運行)
灰色点々は広義(歴史的)のシベリア
 それどころか、復路はもっと不便で、ウラジオストック行き直行便に乗ると、富山行き便を待ってウラジオストックで4泊もしなければならない。だが、クラスノヤルスクからハバロフスクまではユージノ・サハリンスク行きの飛行機に乗り、ハバロフスクでノヴォシビリスクからの飛行機に乗り換えすれば、ウラジオストックに1泊ですむ。が、ハバロフスクでの乗り換えの待ち時間は、6時間という中途半端で長いものだ。このコースでも、クラスノヤルスクから富山空港までは1日半もかかる。こうして往復に4日もかかるので、4週間と言う旅行期間は長いものではないはずだった。ただ、滞在期間を1日でも無駄に過ごさないよう(自分で)計画を立てて(自分で)手配するのは、ロシアでは容易ではなかった。
 ウラジオストック経由クラスノヤルスク
 往路のウラジオストック2泊は、今回、同行者のディーマさんがいたので、知り合いのいない所でも心細くない。空港隣のヴェニス・ホテルに予約がとってあった。1泊3200ルーブル(当時のレートで8600円、サービス普通)と、周りに空港しかない土地にしては安くはないが、便利なので以前ウラジオストックを通った時もここだった。空港からスーツケースを転がして2,3分で来られるところがいい。周りには何もないので、2泊もするときはウラジオストック市街のホテルに泊まった方が観光にはよいが、空港は町から30キロも離れたところにあり、タクシー代も高いし、重いスーツケースを持ち運ぶのは不便だ。空港の手荷物一時預かり所に預けてもいいが、そこは地下にあって重いスーツケースを持って階段を下りなければならない。「いっそ、空港近くに泊まって、観光は身軽にバスで行けばいい」と、同行のディーマさんと決めてあったのだ。

駅の階段、降りると第3と第5プラットホーム
向かって右はウンテルベルグ知事、左が皇帝
この先の金角湾に架かる橋(2012年完成予定)
 ウラジオストック到着の翌日10月23日、10時にヴェニス・ホテルのロビーでディーマさんと落ちあって、まずは、ホテルではなく、空港の国内便用の安い食堂で朝食をとる。この日は一日中ウラジオストックで時間を過ごさなくてはならない。
 アルチョーム市にある空港からウラジオストック鉄道駅までの郊外バスの料金は60ルーブル。ひとまず1時間半乗って終点まで行く。ウラジオストック市は今まで何回も訪れているが、街中を見物するのは2000年、2007年に次いで3回目だ。
 シベリア鉄道駅を見て、陸橋の上から線路が走っているのも写真に撮り、人通りの多い方向に歩くと、そこは中央広場らしい。1961年に建てられたと言う人目に付く『極東のソヴィエト政権のための闘士』像なんかが立っている広場には露店が並んでいた。しばらく歩くとソヴィエト芸術様式のレリーフがひろがる太平洋艦隊記念碑のようなものがあって、おのぼりさんの親子から写真のシャッターを頼まれた。近くには『赤い軍艦旗』号と言う1911年建造の博物館になっている船も浮いていた。

 さらに人通りの多そうな通りを歩いていると、それはスヴェトランスカヤ通りとか言うらしく、この通りの由緒ある館に、『1981年皇太子のニコライが宿泊した』という記念レリーフがかかっていた。2000年にロシア正教の聖人になったので、そのレリーフの下には『皇帝・聖人ニコライ2世』と書いたプレートと花が添えられてあった。(日本訪問途中の皇太子時代、ウラジオストックを通った。最後の皇帝一家は全員が新致命者、つまり殉教者として聖人になった)
 頭上高くに工事中の陸橋が架かっている。金角湾に架かるという2008年着工の斜張橋の一部らしい。
 目当てもなくその先をただ歩いていると、時代物の大砲なんかが並んでいる広場があって、そこは太平洋艦隊博物館だった。他に行くところも思いつかなかったので入ってみると、日露戦争の展示コーナーもあって、旅順攻囲戦で日本軍が敗北している大きな絵があった。第2次世界大戦ではソ連軍が朝鮮半島を『解放』し、住民に歓迎されていた。
 『聖ニコライ』も『艦隊博物館』もロシアらしい。
 そのうち歩くのも疲れて出発点の駅まで帰り、バスに乗ってホテルのあるアルチョーム市に帰った。ウラジオストックに仕事で何度か来たことのあるディーマさんも観光名所は全く知らないと言う。やっぱり、ウラジオストック市街地図を持ってくるか、前もってサイトで調ベておくベきだった。が、目的地はシベヤリアのエニセイ川流域だから。

 10月24日(日)9時45分、ウラジオストックからクラスノヤルスクに向けて飛ぶ。しかし、ハバロフスクまで飛ぶと、いったん乗客を降ろし、給油し、ハバロフスクからの新たな乗客も乗せて2時間後飛び立つので、クラスノヤルスク到着は14時15分(時差3時間)と言う7時間半もの退屈で長い旅路だった。そのためにウラジオストックの本屋で小さめの本を買っておいたが。
 クラスノヤルスクでは、いつものホームスティのニーナさん宅へ送ってもらう。
 シーズン・オフだが、クラスノヤルスクのダーチャ
 10月25日(月)は、私の(個人)招待状をだしてくれたディーマさんの会社のために通訳したり、滞在手続きをとったりするために過ぎた。ディーマさんの招待ではこうした非観光の日が1日以上あるのはやむを得ない。どうせ、何日滞在しても、特に滞在費が増すと言うことはないのだから、いいか。
 私のロシアでの携帯電話は5年も前に買ってディーマさんの奥さんのリューダさん名義でMTSと言う会社と契約したものだが、料金表が替わっていたのでリューダさんに来てもらって契約しなおした。それから、最近買ったと言うダーチャ(ロシア風別荘)に彼女と行って、まだ枝に残っていた橙色のシーバックソーン(グミ科ヒッポフェア属スナジグ)の実を食べたり、写真を撮ったりした。
 事実、10月後半はダーチャ・シーズンも終わっていて、道には大きな水たまりがあり、人影も見えず、松葉の他には緑もなく、花も咲いていない。風の音しか聞こえなくてさびしい。
 クラスノヤルスク市とダーチャ団地の一部 
@トルガシーノ Aソースヌィ Bウダーチヌィ 
Cマヤーク Dプガチョヴォ Eミーニノ
Fドロキノ Gリビニーノ Hアレイスコエ
Iソールニチニィ J空港(エメリヤノヴォ)

 クラスノヤルスク市郊外には(どの都市の郊外にでもだが)、ソ連時代に市のはずれにある非耕作地(だから荒野)が各企業に与えられ(貸し出され)、各企業はその土地を、基本的には6アールごとに細分して社員に与えた(貸し出された)というダーチャ団地があちらこちらにある。例えば、クラスノヤルスク南東のトルガシーノ地区のはずれにあるダーチャ団地は、『クラスノヤルスク重機』の社員に分配されたものだ。クラスノヤルスク北東にだけはダーチャ団地はない。なぜならアルミ工場があって環境が悪いからだ。
 市の西部で、プガチォヴォ村外れ、ミーニノ村外れ、北部のソールニチヌィ区外れなどに大きなダーチャ団地がある。ソ連時代、(国営)企業から土地を与えられた(ほぼ無料で貸し出された)市民はそこに自給自足用の菜園を作って、もののない時代をなんとか過ごしたそうだ。だから、各ダーチャ団地には家族ごとの6アールの区画がぎっしりあって、土曜日と日曜日には畑仕事をするため都市部から家族がやってきた。自分に『給与』された区画に、自分で建てた家(だから不細工のも多い)で週末は寝泊まりし、自分でビニールハウスを作り、キュウリやトマトなどの菜園用の土壌と畝を作り、コケモモやラズベリー、カシスなどの実のなる木を植え、土地が広ければジャガイモも植え、水を貯めるドラム缶も置き、余裕があれば蒸し風呂小屋やガレージも建て、都会の本宅アパートから(不用品の)家具を運び快適化を図り、もちろん自分の土地を囲む板塀も作った。ここまで労力をつぎ込めばダーチャと言われ、まだそこまで至っていないような畑の畝と物置小屋(雨宿り用)だけのも、ダーチャと言うこともある。(企業組合によっては、ダーチャとは別にジャガイモ用の土地を耕作期間のみ賞与した場合もあった)
 そうした庶民用ダーチャ群とは違うところに、(たぶん)政府関係者エリートのダーチャがある。ソースヌィ別荘地は市の南西、つまり、市内を流れるエニセイ川の川上の超一等地にある。そこは警備されていて、入り口には遮断機があり、周りも木々で囲まれているので、どんな建物が何軒あるのかもわからない。ヘリコプター発着場も遮断機の近くに作られている。ソースヌィを通り過ぎてさらにエニセイ川に沿って川上に行ったところにあるのが、ウダーチヌィ高級ダーチャ団地で、この二つはクラスノヤルスクの市街地が終わってしばらく林の中を行ったところの近場にある(行政的にはクラスノヤルスク市内)。本宅や仕事場のある市街地から近くにある土地ほど、高いものだ。ソースヌィのダーチャは道路からは見えないが、ウダーチヌィ団地には立派な2階建てレンガの一軒家が建ち並んでいるのが見える。美しくレンガを積み重ねた塀や門も『別荘』と言うにふさわしい。木造では『田舎家』、レンガ造りだと『お屋敷』となるだろう。『お屋敷』には、自給自足用菜園の畝はない。ウダーチヌィは、ソ連崩壊後のニューリッチの別荘団地らしい。

シーズン・オフのマヤーク・ダーチャ団地、
道端には薄雪も
ダーチャの門の鍵を開ける
 リューダさんのダーチャ(別荘)は、1等地ウダーチヌィを通り過ぎて、エニセイ川を離れ、急な山道をぐるぐる回って登った先のマヤーク団地の一番遠い外れにある。マヤーク・ダーチャ団地はマツ林に囲まれていて、団地外れの区画地は、もう松林の中に入り込んでいる。つまり地所内に、何本も高い松が生えている。リューダさんによると、ここは、元々はエニセイ河川運行会社の(上級)社員に与えられたダーチャ団地で、後にその1軒を買った医師夫妻が何年間か住んでいたが、彼らが引っ越すことになったので売りに出された物件だそうだ。70万ルーブリ(購入は2010年春だったと言うからその時のレートで約220万円)で買ったと言う。古い木造の2階建ての家が建っているが、これが、もっと状態の良い家ならば、ダーチャの値段もその2倍はするそうだ。レンガ建てなら、もっとする。
 思い立って突然行ったので、リューダさんは鍵を持っていなくて、家の中には入れなかったが、庭は見せてもらった。真っ直ぐな松の幹を結んでブランコもある。落ち葉を踏んで歩きながら庭の木々に感心したり、まだ残っていたシーバックソーン(スナジグミ、ヒッポフェア)の実を試食したりした。リューダさんはガレージとあずまやがあると自慢していた。ディーマさんとリューダさん一家はアッパー・ミドル・クラスだから菜園は特に作らない。夏に時々来てバーベキューをする程度だ。

 ホームスティ先のニーナさんの家に帰ってみると、昨日までは詰まっていたと言う風呂場の配管修理が終わったと言うので、シャワーを浴びて寝た、と言うまあまあの初日(日本出発3日目)だった。
 クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ
 10月26日(火)は午後からクラスノヤルスクを出発してハカシア共和国(ロシア連邦の自治体の一つ)のベヤ村に向かった。エニセイ川左岸を南下する国道54号線を通ると423キロでハカシアの首都アバカン市に着き、そこから100キロも南下したところがベヤ地区の行政中心地ベヤ村だ。
 都市は旅行中に必ず訪れることはできるが、田舎に滞在できる機会があればそれをとらえたい。というので、ディーマさんの実家のあるハカシアのベヤ村を、今回は選んだのだ(と言うよりもディーマさんが提案してくれた)。2010年2月に訪れたクラスノヤルスクのずっと北(600キロは北)の田舎も興味深いが、夏でも冬でもない今のシーズンは航行もできないし、冬道もまだ氷が張らなくて通行不可だ。飛行機やヘリコプターでの移動は限られてしまう。一方、クラスノヤルスクの南で、トゥヴァ共和国とアルタイ共和国の北のハカシア・ミヌシンスク盆地南部にあるベヤ村は、夏でなければ今がぴったりだ。2009年の夏にハカシア・ミヌシンスク盆地はガイドのスラーヴァ(専門は考古学)と18日間ほども回ったが、未踏のところも多かった。ハカシアは、数回訪れたくらいでは見きれないのだ。
クラスノヤルスク市から
ハカシア共和国の
行政中心地アバカンへ
 ディーマさんの予定によると、彼の兄のサーシャさんが車でどこへでも案内する。1週間ぐらいの目安で滞在したらいい。飽きたら早めに戻っても、もっと回りたかったらいつまででもいてよいと言うことだった。クラスノヤルスクに戻ってから、もし、私が希望すればノヴォシビリスクへでも行こう、その後まだ時間があれば、その時はまた考えようという『気儘』で、しかし、行き当たりばったりのものだった。

 全部で83の連邦構成主体、つまり、共和国や地方や州などの地方自治体が83あるというロシア連邦では、面積46位の6万平方キロ(シベリアでは2番目に小さい)、人口71位の54万人(シベリアでは9番目に小さい)というハカシア共和国は、シベリア(注)にしては小さくて、人口密度もシベリアにしてはまあまあという自治体で、8つの区(郡のようなもの)がある。そのうちのベヤ区は南東にあって、全部で9個の村ソヴィエトがあり、28集落に約2万人余が住んでいる。ベヤ区行政中心地中心のベヤ村は人口5千人余でハカシアでは13番目に大きい。
(注)現在ロシアでは太平洋側を極東、ウラル山麓東もウラル連邦管区と呼んで、シベリアと区別するが、ここでシベリアとはウラル山脈の分水嶺より東から太平洋岸のアジア大陸北部(ロシア連邦のアジア部)をさす。歴史的(広義)のシベリア
 国道54号線を通ってハカシアへ行くのは423キロと距離は近いが、途中のクラスノヤルスク発電所のあるディヴィノゴルスク市までが、道路が狭く曲がりくねっていて交通量も多いと言うので、最近は、国道53号線を整備してできた空港への広い道を西方へ70キロほどいったところで南に折れ、針葉樹林帯(タイガ)の中の新道を通って、54号線に出ることが多い。こちらの方が40キロほど遠回りになるが、道幅も広くて混んでいない。
 運転のディーマさんは、時速120キロは出して飛ばす。よく整備管理されている日本の高速道路ならそれもいいが、1車線ずつで路肩が舗装されていないシベリアの道路では、私なら出せない。カーレースにも出ると言うディーマさんだし、シートベルトもしっかり締めたし、エアバックも開きそうだから、まあ、晩秋のシベリアのタイガ(針葉樹林)地帯の自然を満喫することにした。しかし、やはり、カーブのところに隠れていた交通警察官に止められて、速度違反の罰金を課せられていた。ディーマさんと乗ると、たいていは到着までに、罰金を1度は払うことになる。ロシアの罰金って、最近では少し高くなったが、それでも安い。
ハカシア共和国入口のランドマークとディーマさん
干し草の山(スヴィンカ)

 こうして、丘陵の針葉樹林を切り開いて最近舗装しなおしたバイパスを通りぬけ、国道54号線に出て3時間も走ったところで、ハカシアとクラスノヤルスクの境界に出る。ここにハカシア共和国の標識(ランドマーク)が立っていて、『国境』を通過するときはかならず写真に撮るのだが、今回、新しい境界標識になっていた。
 前回まではオクネフ時代(紀元前2000年紀)の岩画をデザインした『光を放つ顔(太陽)』だったが、今は、山と湖と古代の石像が立つ草原(ステップ)をバックに、図式化されたハカシアの地図が描かれたものだ。

 ここを通り過ぎると丘陵の草原の広がるハカシア・ミヌシンスク盆地に入る。夏は緑一色に地平線まで広がっているが、今は見渡す限り枯れ葉色だ。草原地帯は雨量が少ないので灌漑水路が引いてない所では農業はできない。低い丘陵がうねって続き、はるか遠くの地平線のあたりに青紫色の山がぼんやりと見える。夏場の草原は、どこまでも緑の草が生えているが、今はただ枯れ葉色が見渡す限り広がっていて、これもまた趣がある。広漠たる枯れ葉色の草原に、干し草の山が規則正しく並んでいる。スヴィンカ(辞書では『子ブタ』と言う意味だ、干し草の山は確かに遠くからは子ブタのように丸く見えるからできたスラングか)と言うのだそうだ。また、干し草を圧縮して運びやすいようにロールにしたものも置いてある。これは、1梱(こり)が300キロとかで、あとで知ったことだが、1500ルーブルで売られるそうだ。冬場には2500ルーブルになる。

 ハカシア共和国行政中心地アバカン市に着いたのは6時頃だが、10月最後の週末まではまだサマータイムが施行されていたので明るかった。ディーマさんの用事があったり、買い物をしたりして、アバカンを出たのは7時を過ぎていて、もう真っ暗で何も見えなかった。草原を走る道路に街灯なんてないので、途中の道から遠く明りが見えれば、そのあたりに集落がある。ベヤ村までの100キロの道の途中4つほどの集落があるはずだ。自動車道は集落から1キロほど離れたところを走っているが、ベヤ村付近では村に沿ってぐるりと迂回して、その先のタバット村へ向かっている。だから明かりがより広がった集落が見えてくると、そこがベヤ村だ。
 ディーマさんの実家は、アバカン方面から来ると、ベヤ村でも出口の方にあるので、村内をぐるりと通過して到着する。村に入ると途端に舗装が悪くなる。これは郊外を走る道路は国道だが村内は村道で、修理は村の予算次第だからだ、という。
枯れ葉色の草原と干し草の山
 ベヤ村のヴァーリャさん宅
 僻地でなくとも田舎はトイレとバスが苦手だが、ディーマさんの実家だけは例外的に水洗トイレで、狭いがいつでもお湯の出るシャワー・ボックスが備え付けられている。最近この水回り設備が完成して、だから(トイレにうるさい)私を招待してくれたのかと思う。深さ3メートルもある浄化槽が家の塀の前に埋められ、排水用の配管工事などはディーマさんの兄のサーシャさんが数年がかりで自分でやったそうだ。費用はディーマさんが負担し、労力はサーシャさんが負担したわけだ。後で知ったことだが、浄化槽は底がない。つまり汚水はじわじわと地中に浸透するそうだ。これは、浄化槽と聞き、そのうちバキューム・カーで吸い取らなければならないと私が心配したので教えてくれたのだ。地中に浸透していった汚水は、まあ、そのうち肥料になると言うわけか。
 田舎では、夜中に外套を着て靴を履いていかなければならない戸外のトイレと、多くて週2回程度沸かしてくれる蒸し風呂(お湯は出ない、釜の熱湯をひしゃくですくって汲み置きタンクの水で薄める)が苦手だが、ここでは、田舎の不便さを我慢しなくてもよくて、物珍しさだけに驚嘆していればよかった。
 この家にはディーマさんのお母さんのヴァーリャさんと、彼女の夫のコーリャさんが住んでいる。長男のサーシャさん一家はベヤ村の近所の家にずっと住んでいた。6年ほど前アバカン市近くのチェルノゴルスク市に移り住んだが、週末の度に実家を訪れていたそうだ。しかし、2カ月ほど前、仕事の都合でクラスノヤルスク市に引っ越した。つまりサーシャは実家のベヤ村と、持ち家のある(まだ売却してはいない、成人の長女が一人で住んでいる)120キロ北のチェルノゴルスク市と、さらに400キロ北の仕事のあるクラスノヤルスク市を往復していることになる。
 今回、ハカシアでの私の案内をしてくれたのは、このサーシャさんだった。

足元を駆ける鶏
コーリャさん(自宅前)
収穫後の菜園を歩くヴァーリャさん宅の馬
 10月27日(水)は、午前中、ヴァーリャさん宅の敷地内を歩き回った。家の向かいには物置小屋があり、家畜小屋が続いている。さらに薪小屋や干し草用の囲いもある。以前は使っていたようなもの、あるいはたまには使うかもしれないようなもの(つまり粗大ごみ)やドラム缶、タイヤ、手押し車などが、小屋の内外に乱雑に置かれている。動かすのも重そうだし、見えるところにあった方がいいのかもしれない。農機具のパーツもある。歩くと、鶏が足元を駆けて行った。自由に闊歩している鶏にも自分たち専用小屋はあって、隅には卵を抱いている雌鶏もいる。家畜小屋には子ブタが3頭いて、近づくと、えさをもらえると思ったのか、奥のねぐらから出てきた。果樹も植わっている菜園へ、木戸を開けて入ってみたが、今は何もない。カシスの木なども葉が落ちていた。さらに奥の木戸を開けると、そこは広めの菜園とジャガイモ畑だ。今は馬が3頭歩いていた。サーシャさんの次女のヴァーリャ(祖母と同名)は乗馬が趣味なのだ。浄化槽付き水洗トイレを設置する前は、この辺にトイレ小屋があった。今でもある。サーシャやコーリャは今でも外套を着て家から出てきて柵を開けてここを使っているそうだ。
 敷地は全部で約25アールと言う。ソ連時代、各コルホーズ員やソホーズ員は副業農業を営むための農地が持てた。シベリアでは場所によっては1ヘクタールまでの農地が副業用として持つことができ、家畜の数も雌牛や母豚は1頭、子ブタは2頭まで、山羊や羊は10頭までと言うふうに個人所有が許可されていた。ソ連崩壊でのコルホーズやソホーズ廃止後も、当然その『副業経営』用農地などは引き継がれた。ちなみに1998年の全農業産物の57.3%はこの『副業』経営産物だった(都市住民のダーチャも含む)。
 ヴァーリャさんの両親はベラルーシ(旧ソ連邦の白ロシア社会主義ソヴェト共和国)出身と言う。『富農』だったので、スターリン時代にクラスノヤルスク市より150キロ北のボリショイ・ムルタ村に強制移住させられた。そこで生まれたヴァーリャさんは、結婚して旧キルギス社会主義ソヴェト共和国(1991年からはキルギスという独立国)の農村ソヴェトで働いていた。サーシャとディーマの2人が生まれたが、夫と別れて今のベヤ村に来たそうだ。そして、今はコーリャさんと暮らしている。彼は18キロ離れた隣村タバット出身だそうだ。
 ベヤ村が南東のジョイ山地(東サヤン山脈の支脈)から流れてアバカンに注ぐベヤ川(71キロ)の中流にあるように、タバット村は、ベヤ川と平行にやや南を流れるタバット川(53キロ)の中流にあって人口は1671人(2003年)とある(次ページ地図参照)。
 もしかして、地元のコーリャさんがこのあたりの見どころについて知っているのではないかと聞いてみたが、ヴァーリャさん同様ハカシアの歴史や地理、文化などについては、残念ながら何も知らない(知ろうと思ったこともない)そうだ。出身村のタバットについては、今そこには妹一家が住んでいるかもしれないという以外知らないと言う。
 タバット村はベヤ村から南へ行く時はいつも通り道にあり、村はずれの国道沿いにある唯一のガソリンスタンドで、その日の行程の燃料を補給していたものだ。ハカシアの辺鄙な村々一つ一つの歴史は、本当はとても興味深いものなのだ。ロシアからコザック(ロシア人)がやってきて前哨隊村やロシア人開拓村を作った頃のその土地のハカシア人の様子や、革命後の内戦時、赤軍が白軍ソロヴィヨーフ派などを粛正したエピソード(4ページ『革命後の内戦時、ハカシアの村』参照)、集団農業化されていった経過などロシア史の一面が、身近に見て取れる。
 ベヤ村を中心に回れば、ハカシアのことをまた一層詳しく知ることができるに違いない。
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