クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 06 June, 2011 (校正11年7月1日、11年12月5日)
晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(12)ハカシアの少数民族ショル人、ハカシアの『桜の谷』村
           2010年10月22日から11月19日(のうちの11月9日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )


『南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地』シリーズ前篇(2009年6月7月)
01 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
02 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
03 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
04 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
05 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館へ 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
06 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
07 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ
08 別のハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ
09 キルベ・スベ 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、、エニセイ川に架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ

 ショル人会
 11月9日(火)、ナターシャ・フェドートヴァさんはベリティルスコエ村に住んでいるそうで、待ち合わせ場所は村役場前だった。
自宅前のフェドートヴァさん

 ショル人(注1)は現在のケーメロヴォ州南部、西サヤン山脈の山岳森林地帯(現在の山岳ショーリア)やその北のアバ川(トミ川左岸支流)流域森林草原地帯を中心に住んでいたチュルク語系民族で、原住のエニセイ語族(ケット語以外は死語)系民族(またはサモディツィ語系という説もある)と渡来のチュルク語系民族とで6世紀から9世紀(一説では17世紀)にできたとされている(注2)
 17世紀ロシア人がトミ川上中流に進出した当時、アバ川流域にはアビンツィ人(アバ人)が住み、南のトミ川の上流支流のコンドマ川ムラス川流域には、ロシア人がコンドマ・タタールとか、ムラス・タタール(注3)とか、上流トミ・タタールとか呼んだ先住民が住んでいた。北のアビンツィ人は鍛冶業に従事していたので、クズネック(鍛冶の意味)タタールと20世紀初めまでの文献に記されている。一方、コンドマ・タタールやムラス・タタールは漁業狩猟に従事していた。当時、ショル人と言う民族名はなく、それぞれ、住んでいた場所、川またはその川の上流か下流かで呼ばれていたし、自称はそれぞれの氏族名(セオク、『骨』の意、モンゴルなどでは『盟』)だった。ショルというのもムラス川流域に住んでいた一つの有力な氏族名で、20世紀ロシア人言語学者がケーメロヴォ州南部に住んでいた現在のショル人を、アルタイ人やハカシア人と区別して命名したのだ。
(注1)ショル人 ロシア語では単数がショーレツ、女性単数はショールカ、複数がショールツィ、ショールツィが住む場所がショーリヤ、話す言葉は、ショルスキィ語。英語では人はshorまたはShorian(複数はshors Shors or Shorians)言語は Shor language、住んでいる場所はShoria。
(注2)ムラス川上流のクバンスーに住んでいたクバン氏族(骨・盟)が東欧、中央アジアで11-13世紀キエフ・ルーシやビザンチン帝国と対峙したクマン人(ポーロヴェツ、キプチャック)の出身氏族ともされている。
 ケーメロヴォ州南部がチュルク系言語の故地という説まである
(注3)20世紀初めまで、『タタール』と言うのはチュルク語系またはチュルク語・モンゴル語・トゥングース語系の非ロシア人を指した。ハカシア人もアバカン・タタールと呼ばれていた。今でもシベリアのロシア人は非ロシア人をそう呼ぶこともある。
 また、クズネック・タタールとロシア人に呼ばれていたのは、今のショル人だけでなく、テレウート人なども含む場合があり、アルタイ人との境が明瞭ではなかった。
 1618‐19年、トムスク柵からのコザック隊が帝国領を広げるため(原住民から毛皮税をとるため)南下して築いたクズネック柵(現ノヴォクズネック市、その場所はショル語では『アバの塔・町・家』と言ってアビンツィの定住集落があった)は、長い間帝国の最南部シベリア植民拠点、この地のタタール(ショル人やテレウート、アルタイ人など)を征服する前線基地だった。シュル人は現在の南部山岳ショーリアの狩猟・漁業のコンドマ・タタールやムラース・タタールばかりか、北部のアバ川流域の鍛冶業に従事していたクズネック・タタールも含めて、毛皮で税をロシア帝国にも支払うようになった(注4)。当時、外貨を稼ぐために高価だった毛皮がシベリア先住民から徴収する税の中心だったからだ。
(注4)当時のアビンツィ人の冶金技術ではロシア製鉄製品に比べ商品価値がなかったので、鍛冶業は禁止され毛皮獣猟に従事させられた、と資料にある
 一方、この地方の石炭については18世紀前半のピョートル大帝の時代から記録にあり、埋蔵量の豊かさからも注目されていた。が、この地方は幹線シベリア街道からも遠く離れ、ほかのシベリアの辺地のようにゴールドラッシュもなく、『開発』もなかった。クズネック炭田(クズバス)と言う専門語は19世紀半ばにはできたが、本格的開発は20世紀初めに始まった(この時ビスカムジャまで調査されたが、通行不可とされたのだ)。革命後の1920年代後半から現代のノヴォクズネック中心に金属コンビナートがつくられ始めた。
クズネック柵はノヴォクズネック市の近くにあった。ムラス川、
コンドマ川最上流は現在、山岳ショル国立公園となっている
  
 低地のアバ川流域に住み、早くからロシア人の影響を受けロシア化していた北のアビンツィ人や、南のアルタイ山のムラス川やコンドマ川流域の諸『タタール』人たちは、それぞれの氏(セオク・骨・盟)所属意識だけを持っていたのだが、前記のように、アルタイ人やハカシア人とは(実際の境界は不明瞭なのだが)独立のショル人として公的にまとめられ、1926年には『山岳ショーリヤ民族区』と言う自治体ができた。(だが、当時は自分をショル人とみなしていたショル人は少なかったそうだが)
 全人口2万3千人のうち1万6千人がショル人 という山岳ショーリア民族区では、ムラス方言を主にショル文語ができ、ショル語の教科書、ショル語の新聞雑誌など発刊され、ショル伝統文化の維持運動が展開されたそうだ。しかし、1939年、民族区は廃止され、ショル知識人は大粛清され、ショル語は禁止、ショル文化催しも厳禁されるようになった。
 ショル人の原住地、トミ川上流やその支流アバ川、コンドマ川、ムラス川流域は大炭田地であったことから、ショル民族区にロシア人中心の新たに多くの炭坑と製鉄所の都市がつくられた。ショル人の村タグダゴル(コンドマ川)には炭鉱都市オシンニキ市が、以前は11のショル人集落があったムラス川流域にもムィスキ市がつくられた。前記(アバカン・ノヴォクズネック鉄道支線の停車駅の)メジュドレチェンスク市(注)も5個のショル人集落があった場所だ。旧『山岳ショーリヤ民族自治区』が廃止されたのも、この地にロシア人が大勢移住し、大工業地帯(クズバス)がつくられ、ショル人の人口比率が少なくなったためという公式な理由からだそうだ。第2次世界大戦中はウクライナのドンバスがドイツ軍に占領されたため、クズバスの重要性は一層上がり、生産量も伸びたとある。 
(注)メジュドレチェンスクは戦後開発され、全クズバスの1割以上の石炭埋蔵量があるとされている。現在クズバスには58の炭坑と36の露天掘り企業があり、ロシアの石炭の56%、コークスの80%を採掘、13%の鋳鉄と23%の鋼鉄を生産している。
 ショル人の生活の場、森林や川そこに住む動物や魚類は、露天掘り炭田や炭鉱、砂金採集で失われ、多くのショル人は貧困の中で50年代末まで生活していた、とある。ショル語の書籍も新聞雑誌も発行されず、ショル人はまわりの民族に同化され、人数は減り、自分たちの文化、言語を失いかけていた、とナターシャ・フェドートヴァさんにもらった資料にも、『ケーメロヴォ州ショル人協会』のサイトにも載っている。とくに北部(アビンツィ人の地)は炭鉱都市が発展し、スターリン時代の流刑者集落、強制労働ラーゲリができ、少数民族ショル人は同化され消えていったそうだ。1960年山岳ショーリヤのコルホーズ農場も採算が取れないからと閉鎖され、個人農業ができなかった時代、多くのショル人は都市住民となった。今でも炭坑に住み都市化し『固有文化から切り離されてしまった』ショル人が全体の7割を占める、とある。
 ショル人14,000人のうち11,000人がケーメロヴォ州に、そのうち4,700人が、元の山岳ショーリヤ南部(最も山岳地帯)のタシュタゴル区(ショル語で『石の谷』、ちなみにタシュケントは『石の町』)に住み、千人がハカシア共和国に住む。数百人がクラスノヤルスク地方、アルタイ地方、アルタイ共和国に住む。しかし、これは現代的な行政区分、または民族区分で見た場合で、19世紀、アバ川流域から多くのショル人(アビンツィ)が現在のハカシアのアスキース区に移住し、サガイ氏族(骨・盟)の一つとしてアバ氏族ができ、サガイ人として現代にいたっているので、彼らはハカシア人とみなされている。行政境を越えることや、後に民族名がかわってしまうことも、当時には何の影響もないことだった。
ショル人の民族遊戯の一つ
『ウサギの耳を捕まえる』
一部を白く塗った小枝を親が
投げて、白い部分をキャッチ
した子が勝つ

 1990年代からケーメロヴォ州ではいくつかのショル人協会や連盟が公式に自治体に登録され、炭鉱経営会社をスポンサーにして活動しているようだ。それら協会のサイトによると、一つの民族としてのショル人を保護する条件を作り、ショル人の固有文化と法的権利を守り、ショル語の復活と発展に貢献し、原住地の自然保護に努めている、とある。例えば、2008年は、『ショル人の社会保障と権利の擁護に関する情報と広報』、2009年は『ショル人の民族遊戯とスポーツの収集と出版』、2009年は『山岳ショーリヤの原住民の自治権の啓蒙』などを重点的に行ったと報告されている。また、サイト上にショル語・ロシア語辞書や民話を公開している協会もある。山岳ショーリヤはアルタイ山脈とサヤン山脈の接点にあって観光名所と言うので、山の写真や絵ハガキも出している。
 約千人が住むと言うハカシア共和国内にも、代表者がナターシャ・フェドートヴァさんのできたばかりのショル少数民族協会があって、活動準備中なのだそうだ。何よりもスポンサーを探していると言う。
 2009年にできた『ショル人の民族遊戯とスポーツ』のパンフレットをくれた。ケーメロヴォ州にはショル民族博物館もあるが、ハカシアにはない。フェドートヴァさんと車の中で30分も話し、山岳ショーリヤの絵ハガキ・セットなどを見せてもらうと、話題が尽きてしまった。ショル人の歴史についてレクチャーをしてもらえるわけでもないから。資料をたくさんもらい、フェドートヴァさんの電子メールアドレスも書きとめた。
 そして、昨日場所を確かめておいたアスキース博物館へみんなで行くことにした。
 アスキース博物館
 昨日の男性職員もいて、約束の12時よりずっと早く来てしまったが、ハカシア女性の館長は親切にも1時間半もかけて丁寧に案内してくれた。郷土の地理、考古学、カターノフ、民族学、戦争記念、スポーツの6つの展示コーナーがあることになっているが、カターノフと民俗学のコーナー以外は充実していなくて、今準備中という感じだった。
 ニコライ・カターノフ(ハカシア名はポラ・カターノフ、1862-1922)は、アスキース区出身で帝政時代、ハカシア人として初めてロシアの学会に認められる学者となったカザン大学チュルク学講座教授で、この博物館もカターノフ名称アスキース郷土博物館だし、ハカシア大学もカターノフ名称ハカシア国立大学だし、カターノフ賞もあり、銅像もアバカン市とアスキース村にある。
建物も貴重な時代もの、アスキース郷土博物館
ハカシア人として初めての教授カターノフ
アスキース郷土物館長

 衣装、民族楽器、狩猟の道具、馬具などのハカシア伝統品コーナーや、伝説物語の絵、シャーマンのダンバリンなど調度品はすべてオリジナルで、これは郷土博物館らしい。内戦時代やスターリン時代に粛清された著名なハカシア人の古い写真が何枚も張られた壁があった。この地は犠牲者が特に多かったのだ。カザノフカ野外博物館にあったイネイ・タスが自分たちの岩山だとする氏族(骨、盟)の一人で『ハカス』の命名者で民族学者マイナガシェフの写真が初めにあった(1918年独立臨時シベリア政府、ハカシア民族大会で復活シベリア州議会議長に選出されていた。1920年、反革命で銃殺)
 アスキース区には発掘調査されたクルガンも多いが、残念ながら展示物はなかった。倉庫にあるのかもしれない。
 建物は帝政時代のシベリア大商人風で、2階にはバルコニーもある。案内されて登ってみるとアスキース川が見えた。博物館は建物自体が博物館的なことが多いが、ここも、19世紀半ばに金山経営者P.I.クズネツォフ(前記、考古学者I.P.クズネツォフの父)が建てたもので、文化財に指定されているそうだ。ちなみにクズネツォフはアスキース村のスポンサーだった。初めの学校の建物も、彼が提供したのだ。その学校の出身者が、後にハカシア人の知識階級の核になった(カターノフ、マイナガシェフなど)。

 この博物館で『アスキース、ハカシアの心』と言う発刊されたばかりのパンフレット(220ルーブル)や、『アスキース区の博物館(附・学校に郷土博物館ホールを設置する方法)』(290ルーブル)を購入できた。
 それによると、このアスキース区立カターノフ名称郷土博物館(この博物館)の他に、昨日、近くまで行ったが寄らずに帰ったヴェルシーナ・テイ町に地元鉱物学の充実した博物館があるらしい。カザノフカ保護区・野外博物館や、パルタコフ岩画博物館、アンハーコフ博物館の詳しい説明が載っていた。戦争と戦没者記念館はどの市町村にもある。アスキース区にはその他、学校付属博物館ホールが17ヶ所も作られていて、郷土(民族)教育は充実しているらしく頼もしい。ビスカムジャのさらに奥地の悪路だと言われてあきらめたバリクサ村の中学にも砂金採集の歴史博物館があるらしい。700人余の住民のほぼ全員がハカシア人のヴェルフ・アスキース村の中学校博物館ホールには住民の家系図まであるそうだ。主な3家系で大部分の住民をカバーしている所が古い村らしい。
 アンハーコフの『刀自』
 11月9日(火)、ベヤ村滞在の最後のこの日は予定を立てにくい日だった。アスキース博物館を出て、カフェでショル人のナターシャさんと3人でお昼を食べても、まだ1時半だった。それで、近くにあるからとウルック・フルトゥヤフ・タス石柱のあるアンハーコフ野外博物館へ行くことにした。アスキース区へ来た以上は、偉大な『フルトゥヤフ』に挨拶した方がいい。ベリティルスコエからアンハーコフへの国道161号線(アバカン・アバザ・アクドブラック線)は、その先へも30キロにも延々とクルガンの集中地帯を通り、ところどころひなびた集落があって、いかにもハカシアらしい光景の一つで、魅せられる。アンハーコフ野外博物館のウルック(偉大な)・フルトゥヤフ(おばあさん,おかみさん,品位ある既婚女性,刀自)・タス(石)は、6角形のユルタ風の展示室の中央に安置してあるが、その周りの草はらにはタガール時代の大きなクルガンの立ち石がいくつもある。
アンハコフ野外博物館

 これはオクネフ時代(紀元前3千年紀から2千年紀)の石柱とされ、高さ3メートルで重さ2.6トンもあって、妊娠中の女性のような形で、古くから地元民、特に身ごもりたい女性の信仰を集めてきたそうだ。ロシア側文献の初出は、1722年ピョートル大帝のお抱えドイツ人学者メッセルシュミットがシベリア調査をした時に記したもので、
『フルトゥヤフは灰色の砂岩の石柱で、地面に斜めに埋まって立っている。石柱の後ろに太い三つ編みが下がっているとも見える。タタール人異教徒はこの石柱を崇拝して、願い事があると周りを3周して食べ物をささげている。彼らの伝説によると、ある偉大な刀自(とじ)を、全知全能の神が石に変えたと言う』
 上記の冊子『アスキース区の博物館』によると、ウルック・フルトゥヤフ・タスに関する伝説は20話ほどもあるそうだ。話の骨子はどれも、敵が襲ってきて危機の時、石に変わったフルトゥヤフは女性を救う力を得たと言うものだ。アバカン川の向こう岸、ウスチ・ソース野外博物館に最近安置されたフルトゥヤフ・タス・パラーズィ石柱は、アンハーコフのウルック・フルトゥヤフ・タスの息子で、母が攻めてくる敵からアバカン川を渡って逃げるとき、息子は渡り切れず流れにのみ込まれてしまった。振り返って息子の死を知ったフルトゥヤフは神に祈って石に変えてもらい、女性に子供を授ける力を与えられた、と言う伝説のその時の息子がアバカン川から見つかったとされているものだ。
ウルック・フルトゥヤフ・タス
 ウルック・フルトゥヤフ・タスは、たぶん何千年も草原に雪風に打たれて立っていたのだろう。ハカシア時代だけでもサワークリーム(スメタナ)など乳製品を捧げて厚く信仰されていた。が、ソ連時代1950年代、アバカン博物館へ運び去られてしまった。ソ連崩壊後、ハカシア民族長老会が返還を願い出て、2003年元の場所に戻ったそうだ。2006年には雪風に打たれないようにガラス張りのユルタに安置し、今やアンハーコフ野外博物館となった敷地内には、19世紀の木造オリジナルのユルタも調度品付きで移転させ、生徒たちの視聴覚教材としても役立っているそうだ。
 ウルック・フルトゥヤフ・タス見学は2004年『ユキヒョウ・バンガロー(ホテル)』への途中と、2007年チェルノゴルスク滞在中と、今回で3回目だ。1度目は戻されたばかりだったのか、ガラス張りユルタ風のパビリオンもなくて、木造の屋根付き小屋に納まっていた。2007年の時は立派なパビリオンはあったが、博物館敷地横に穴を掘ってトイレ小屋が立っていて、穴がいっぱいになると、少し離れたところにまた作ったようだった。今回、近代的なトイレ館が敷地の横にできていたが、まだ、未完らしく閉まっていたので、どの程度近代的かは不明。
 管理人小屋のウインドウにエニセイ文字とオリホン文字の対比表が展示してあったところも、以前と変わっていたところだ。
 アンハーコフ博物館を出てもまた2時過ぎだった。
 フェドートヴァさんをベリテリスコエ村外れのアバカン川の畔の家に送って行っても、2時半だった。フェドートヴァさん宅でお茶をごちそうになって、ショル人の資料を見せてもらい、わけてもらえるものはもらって、ハカシア・ショル人協会の運営成功を祈って家を出ても、まだ3時半になっていなかった。
 それで、『クラスヌィ・クリューチ』と矢印が出ている道路標識の方へ行ってみることにした。ベヤ村からボンダレヴォ村を通って大モナック村へ行く非舗装道の途中に出ていて、大モナック村もかなり田舎だが、クラスヌィ・クリューチはもっとひなびているようだ。自然の中にやっと人の手が感じられるような村かもしれない。
 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸),『桜の谷』小モナック村
 クラスヌィ・クリューチ村はベヤ村から56キロしか離れていなくて、ベヤ村役所の用事でサーシャも来たことがあるそうだ。人口380人(2004年)で全員がハカシア人、家は27軒。。
 ウスチ・ソース野外博物館館長のイーゴリさんが、この辺の名所を羅列した時、クラスヌィ・クリューチにも見所があると言っていたが、それは何でどこにあるのだろうか。ガイドのイーゴリさんなしで来てしまったので、携帯で彼に聞くことにした(私たちはお得意さんだ)。聞いてみると、名所と言うのはユルタで、学校にあると言う。ユルタならもうたくさん見たからもういいかと、地図を見ながらクラスヌィ・クリューチの先にある村に行くことにした。が、初日にベヤ図書館で寄贈された『ベヤの地』という限定版の冊子によると、この村はなかなか由緒あるハカシア人の村だった(と、後で知った)。

 19世紀の中ごろ、クリューチ(泉)の周りが赤(クラスヌィ)粘土になっている場所に集落ができたそうだ。モナック川河口の平野部の大モナック村に、18世紀後半に(農耕の)コザック前哨隊基地ができたので、(放牧の)ハカシア人たちはモナック川の上流に(追われて)移ってきて、遊牧基地から村ができたそうだ。
 革命後の内戦時、ハカシア人の多くはソロヴィヨーフ(ハカシア北のシラ区ソレノオジョールヌィ村出身のコザック前哨隊の隊長、コルチャコフ白衛軍だった)の一揆軍側(当時、モスクワなど中心ではすでにソヴィエト側が政権を握っていたので、反政権派・一揆軍)についた。ガイダールたちのソヴィエト軍(赤衛軍)に1922年ごろまでにはハカシアの反革命一揆隊は一掃されてしまうのだが、ハカシア南のモナック川やその上流のアルバトィ川流域へはガイダール赤衛軍のルィトキン部隊が派遣された。そのルィトキンがガイダールあてに書いた手紙が古文書保管館から出てきたのを、2000年ハカシア語の新聞に公表されたそうだ。それによると、ルィトキン隊はボンダレヴォ村でガイドを雇い、まずクラスヌィ・クリューチのソロヴィヨーフ『暴徒団征伐』に向かってきた。この地方のソロヴィヨーフ支持者は、だから森に逃げたが、村に残っていた家族や中立のハカシア人はルィトキン隊に一掃されるか、白軍からも赤軍からも逃れて森の中に逃げたと言う。今でも森の中に隠れ家の跡があるとか。森の恵みのおかげで、食べるに困らない。クラスヌィ・クリューチのソロヴィヨーフ支持者を片づけると、ルィトキン隊はマトロス山を越えてアルバトィ村の『ギャング団征伐』に向かったそうだ。それからのことはアルバトィ村のタチヤーナ先生からも聞いた『ルィトキンは村人を井戸に投げ込んだ』と言う話と同じだ。タチヤーナ先生の名字はチュクピエヴァと言って、クラスヌィ・クリューチ村から移って来たそうだが、前記冊子『ベヤの地』によるとクラスヌィ・クリューチの住民の大部分はチュクピエフ(その女性形がチュクピエヴァ)姓だ。
小モナック村への峠、コノヴャース
家畜がたむろしている家の前には個人の
コノヴャースも。豊かな農家(富農)なのかも
小モナック村の図書館
 1930年前後ハカシア農村の集団化の時代、家畜をコルホーズに没収された富農や中農(つまり、祖国の敵たち)は大モナックからクラスヌィ・クリューチへの道や小モナックへの道の建設工事に回されたそうだ。1980年代、コルホーズには、300頭の乳牛、200頭の若牛、40頭の馬、300頭の羊の群れが7群、24台のトラクター、8台のコンバインがある『豊かな村』だった。また、1941年4年制学校(初等学校)ができ、1990年には中学ができ、ヴァイカローヴァと言う先生の努力で校庭に本物の木造ユルタまで設置されたそうで、こうした『珍品』はアスキース区に2基しかないとある(もう一つはアンハーコフ博物館に)。そのユルタと言うのは、この村にあった古いもので、持主が薪にしようとしたところを、ヴァイカローヴァ(この姓も多い)先生が買い取ったそうだ。

 牛がゆっくり村道を歩き、干し草が庭に高く積んであるクラスヌィ・クリューチ村では、学校が文化の中心で、たぶん、いきなり訪れても話の相手になってくれたと思う。名物先生の案内で珍品のユルタを見学すればよかった、と後から思ったが、その時はゆっくり村を通り過ぎて、さらに奥の小モナック村へ進んだ。

 この道も、1930年代クラスヌィ・クリューチの富農や中農が作った道なのか。小モナック村へは峠をひとつ越えていくのだが、頂上にはちゃんとコノヴァーズ(馬を繋いでおく柱)があった。11月半ばのこの季節は、この程度の高さの山でも道端や枯れ草の陰に薄雪が積もっている。伝統にのっとったレリーフのある高い柱は、方形の4本の杭に囲まれて、その横にはベンチまである。ソ連崩壊後にできたこの新しそうなコノヴャースを過ぎると道は下りになり、向こうから材木を積んだトラックが上って来た。この先に伐採場があるのだろうか。トラックは古く、この程度の坂道でも苦しいらしく、真っ黒い排気ガスを大量に吐き出しながらエンジン音も大きく上って来た。
 小モナック村も、クラスヌィ・クリューチと同じ頃、やはり大モナック村のコサック前哨隊を避けて移って来たハカシア人の集落で、人口220人(2004年)。大モナック川の支流小モナック川の畔のエゾノウワミズザクラ(蝦夷の上溝桜、Bird Cherry)の群生する小さな谷間にあって、この先はジョイ山脈なので行き止まりの集落だ。以前はチェリョームヒ(エゾノウワミズザクラ)村と呼ばれていた。ちなみにロシア人はこの木が好きで、この木の地名も多い。
 綿入れを着て耳付き帽子をかぶった村人が数人、道端で台車付き車を囲んでいた。ブタやアヒルが塀の前でたむろしている家もある。なかなか立派な塀だった。横にはコノヴァースまである。今はコルホーズもなく、自給自足の生活を送っているというから、都会から購入するような工業製品(プラスチック製や鉄製品や、したがって粗大ゴミ)などの少ないエコロジーな村だ。
 村の入り口に、開館は13時から16時まで、休みは土曜日とプレートのある図書館まであった。もう少し早く来れば開いていたのに。そして、司書の人と知り合いになれたのに。
HOME ホーム ページのはじめ NEXT 次のページ