クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 05 June, 2011  (校正・追記: 2011年6月23日、2012年7月28日、2016年5月28日、2018年10月2日、2019年12月2日、2021年9月10日、2022年8月29日)
2010年、晩秋の南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地再訪
(11)アバカン山中へ
           2010年10月22日から11月19日(のうちの11月8日

Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине( 22.10.2010-19.11.2010 )

 『南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地』シリーズ前篇(2009年6月7月)
1 ウラジオストック経由クラスノヤルスク シーズンオフだがクラスノヤルスクのダーチャ クラスノヤルスクからハカシアのベヤ村へ ベヤ村のヴァーリャさん宅
2 ベヤ区立図書館 サモエード語起源のウーティ村 コイバリ草原ドライブ
3 『無人』のボゴスロフカ村 バービカ谷 サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所 ミヌシンスク博物館
4 ハカシア南アルバトィ村への遠周り道 3つのアルバトィ村 マロアルバトィ岩画 革命後の内戦時、ハカシアの村
5 アスキース川中流のカザノフカ野外博物館 『ハカシア』の命名者マイナガシェフの氏族(骨)岩 カザノフカ野外博物館をさまよう
6 トルストイ主義者村を通って、大モナック村へ パパリチーハ山のタムガ ウスチ・ソース野外博物館の石柱 タス・ハザ・クルガン群のエニセイ文字 スナジグミ林 ヒズィル・ハーヤ岩画
7 アバカン市 チェルノゴルスク歴史博物館 シラ草原 オンロ(古代遺跡集中地の一つ)
8 ヴァロージャのハカシア史 チョールノェ・オーゼロ(黒い湖) チェバキ ズメイナヤ・ゴルカ(蛇の小山) チェルガトィ・スベ(要塞)
9 キルベ・スベ(要塞) 黄金の湖のエニセイ文字碑文、英雄『モナス』の原型 袋小路の先端 乳製品工場跡のY字形のクルガンとカリーナ ウスチ・ソース村の3つ穴クルガン、民家 ハン・オバーズィ山・ハカシア人捕囚
10 タシュティップ村 自然派共同体の新興村 ペチェゴルの奇跡 レーニンのシューシェンスコエ町 カザンツォーヴォ村のレンコヴァ岩画
11 ハカシア人の心、アスキース村 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯 アバカン山中のビスカムジャ町 ナンフチュル・トンネル
12 ショル人会 アスキース博物館 アンハーコフの『刀自』 クラスヌィ・クリューチ(赤い井戸)、桜の谷の小モナック村
13 ベヤ村出発、水没クルガンのサラガッシュ クラスノヤルスク観光(レザノフ像、シベリア街道、ロシア人以前のクラスノヤルスク、エニセイ川に架かる橋) アーチンスク市、スホ・ブジムスコエのスーリコフ

 ハカシア人の心、アスキース村
 11月8日(月)、アスキース区行政中心地アスキース村の博物館に電話はつながらなかったが、出かけることにした。郷土博物館へたどり着けば、頼んで入れてもらえるかもしれない。ベヤ村からアスキース村への道は舗装されているし、川には橋もある。
 アスキース村で博物館を訪ねてみると、移転していた。だから、旅行案内書に出ている古い電話番号が通じなかったのだ。しかし、こちらの方はこの日の月曜日が休館だった。月曜日休館はありうることだが、電話で問い合わせてから来るわけにもいかなかった。せっかく来たのにと、革命前に建てられたような懐古的な2階建ての博物館前にしばらく立っていた。すると偶然にも、職員らしいハカシア人男性が鍵を開けて入って行った。私とサーシャは喜んで後を追って入ったが、愛想よく迎えてくれたその学術員も
「明日なら館長が案内できるが」と言う。私が日本人と知ると、ポケットの札入れから日本の記念切手(130円切手だった)を出して、アスキースへ学術調査に来た教授からもらったものだと言う。記念切手とは、重くもないし、高価でもないし、日本的なデザインのものを選べば、気が効いたお土産品になる。いつも私は日本語の入った3色ボールペンなどをお土産用に持ってきているのだが。

 アスキース村はアスキース川(*)がアバカン川に合流するところに1771年、木造のロシア正教会が建てられたのが始まりとされるので、定住農耕が主でなかったハカシア人の集落としては古い。1789年に文献にはじめて名前が載るベヤ村が、主に、ロシア・ヨーロッパ部からの移民や流刑者でできた村に比べて、アスキース村はハカシア人の村だった。コサック前哨隊基地だったことはなくて、ロシア正教会というロシア文化宣伝基地だったのだろう。1823年にはサガイ・ステップ・ドゥーマ(**)ができ、アスキース川河口・ロシア正教会の集落アスキースが、1858年にはドゥーマの所在地となるほど発展した。と言っても、家が40軒、住民は221人だったと言うが、当時の定住集落としては大きかった、と『アスキース、ハカシアの心』と言うパンフレットに書いてある。ちなみに19世紀末ハカシアの地の住民は15000人と、インノケンチィ・クズネツォフ(1851-1916、エニセイ県で生れる、金山経営者、考古学者、民族学者、歴史家)の文献にあるそうだ。その頃、石造りの教会も立てられ、アバカン川中流の非ロシア人自治組織の一大中心になった。つまり、非ロシア人(広くタタールと呼ばれていた)へのロシア化の拠点になった。1869年、ハカシア人のための1年制ロシア語学校ができ、1876年アスキース川岸で集団洗礼が行われ、26人のシャーマンや3003人のハカシア人がロシア正教徒になり、1911年には7病床の病院もできた、そうだ。
 前記クズネツォフ家はアスキース村のスポンサーだった。初めの学校の建物も、一級商人(商人にはランクがあった)、金山経営者インノケンチィ・クズネツォフの父が提供したのだ。ソヴィエト時代、1930年ハカシア自治州ができた当時のアスキース村人口は738人だった。2002年、村人口7000人のうち66%がハカシア人。
(*)アスキース川(124キロ) アスは川の意、キースは娘の意(124キロ)。だから『娘の川川』になってしまう。アバカン山脈のカルリガン山(雪に覆われたの意、1747m)から流れて延長515キロのアバカン川の左岸支流。ウイバット川(162キロ)より上流、タシュティップ川(136キロ)より下流でアバカン川に注ぎこむ。
(**)ステップ・ドゥーマは ロシア帝国の領土民となったブリヤート人やハカシア人、エヴェンキ人、ヤクート人など遊牧、または半遊牧先住民の自治機関。定まった行政中心地(所在地)を持たない。前記ウーティ村にもドゥーマが置かれたことのあるコイバリ・ドゥーマから分離してサガイ・ステップ・ドゥーマができた。
 ハカシア共和国の8つの区のうち、面積は4番目だが人口は43000人と最も多く(アバカン市やチェルノゴルスクなど5市を除く)、ハカシア人が最もコンパクトに住んでいる。それで、ハカシア人の割合がたった12%のハカシア共和国の行政中心地はアバカン市だが、民族中心地はアスキースだと言われている。ハカシア伝統行事のトゥン・パイラム(夏の放牧地への移動、初物の乳祭り)などもアスキース区で最も盛大に行われる。だから、博物館もそれなりに充実しているに違いない。
 が、実は私はここの博物館で、まずは、ビスカムジャの情報が知りたかったのだ。ビスカムジャ村は、アバカンからアスキース駅を通り過ぎた列車の向かう先にある。アバカン・アスキース・ノヴォクズネック線や、アバザ・アスキース・ノヴォクズネック線は南シベリアの炭田や鉄産地を結ぶために、1949年着工された。ナンフチュルというトンネルが、エニセイ水系のアスキース川とオビ川水系のトミ川の分水嶺となっている山中に掘られていると言う。クズネック・アラタウの山中にあるビスカムジャへは今回ぜひとも訪れようと秘かに決めていたのだ。そんな遠くて用もないところには行きたくないと親切なサーシャは言わなかった。サーシャにももちろんビスカムジャに知り合いはいない、知り合いの知り合いもいない。
↑ アバカン、アスキースからアバカン山中とクズネック・アラタウを通りケーメロヴォ州への鉄道。鉄道は黒線で、行程は赤線で
 アバカン山中へ、トミ川上流洞窟地帯
 アスキース博物館員は、残念ながら何も教えてあげられることはないと言う。それならそれでいいから出かけることにした。
 アスキース村から西へ、アバカン山脈(その向こうがクズネック・アラタウ)に向かう道は、10月30日にカザノフカ野外博物館へ行く時にも来た道だ。山に向かって、サガイ草原の中をまっすぐ走る道は、何度走っても爽快だ。鉄道の線路が道の右になったり左になったり、離れたり近づいたりして、私たちと一緒に進む。舗装された道を40キロほど進むとカザノフカ村があって、先日訪れた野外博物館の入り口になる。この辺から山がちになり、舗装道は先日のミゲン・ハヤ岩の横を通り、ひと気のない山に向かって伸びている。しばらく行くとウルッグ・キチク Улуг-Кичг(ハカシア語で『大きな渡し場』)と言う住民29人のハカシア人の集落があり、その先には道から500メートルほど離れたところにユガチ Югачиと言う鉄道建設のためにできた村がある。1950年代建設中は800人ほどいたが今は300人ほどで7割はハカシア人。
ビリクチュリ村
アスキース川に架かる橋、
自動車道はハブザス川沿いをいく

 アスキース川はこの辺ではもう深い谷川になり、その谷に沿って、まだ舗装道が続く。谷が浅くなって開けたところにあるのが人口2500人と言う立派なビリクチュリ村 Бирикчульだ。『渡りが難しい川』と言う意味のハカシア語の地名だが、村は鉄道建設のために1947年にでき、住民はほぼ全員がロシア人。村はベリクチュリ駅を中心にアスキース川の両岸と舗装道に沿って長く伸びていて、支流のベリクチュリ川やユユ川がここで合流する。支流を上ると数10家族の古儀式派が自給自足で住んでいるそうだ。
 アスキース川とほぼ同じ高さの580メートルくらいにあるこの村は、毎年春先には洪水に見舞われるそうだ。と言うのもアスキースは大きな川ではないので冬季は川底まで凍る。春に上流から雪解け水が流れてくると氷の上を流れることになるので溢れるという。夏場に川底を掘り下げておくと言う方法もあるが、それは毎年行わなければならない。冬場に氷を切って雪解け水の流れ道をつけておくと言う方法もあるが、あまり有効ではない。
 ビリクチュリ村は長い町で、ゆっくりだが通り過ぎるのに10分もかかった。アスファルト舗装道はここまでで、道端の土や枯れ草の上にはもう雪が積もっていた。空も暗い。ハカシア盆地の西のはずれ、というよりアバカン山脈の入り口まで上がると雨量も多く森も深くなる。

 次の集落はハブザス Хабзасというハカシア盆地周辺の山岳地帯に多く残っているエニセイ語族(ケット語系)の名前の村で、ここも1950年代鉄道建設時は700人はいたが、今は4人と統計にある。鉄道にはほぼ10キロごとに駅があるが、ハブザス駅のように旅客のためではない駅もある(停車地・鉄道管理地)。アバカン駅からここまで154キロ、3時間半かかる。始発のアバカン市から、サガイ草原、アバカン山脈、クズネック・アラタウ経由で終点のケーメロヴォ州ノヴォクズネック市までの鉄道支線を通る旅客列車は1日1往復のみで、全線386キロで、33駅、9時間44分かかる。鉄道とは物資を運ぶために敷かれ、ほんのついでに人も運ぶ。
 この辺の鉄道はアスキース川谷の左岸のかなり高所を通っていて、右岸の道路から見上げると架線が見え、錆色の列車が通るのも、枯れ葉の間からよく見えた。何度見ても長い貨物列車だと思う。アスキース谷は深いところもある。道路のほうは右岸へ行ったり左岸へ行ったりして谷底を通っているようだ。険しい岩山の下を通ることもある。
 ハブザス駅の近くで右岸支流ハブザス川が合流し、鉄道はアスキース川を遡り、道路はハブザス川を遡る方へいく。この分岐点、と言っても鉄道が分岐するわけでも自動車道が分岐するわけでもなく、一緒に走っていた鉄道と自動車道がただ自分の道を行くだけだが、アスキース川に架かる高い橋から下の鉄道が見下ろせた。路上には薄くてかたい雪が積もっていたが、橋の近くで車から降りて何枚も『秘境』に延びる線路を上から撮った。針葉樹の茂る山の間からうねうねと延びてきた線路と上の架線がまた山の間に消えていく。人気(ひとけ)も車気(くるまけ)もない道だが、橋の上で長くいたせいか、1台だけロシア製小型車が通り過ぎて行った。
 地図ではナンフチュル・トンネルはこの先にあるのだが、道は鉄道から離れてハブザス山(1205m)に向かって続く。この辺の道路は薄雪で真っ白だ。この薄雪が春までは地上ではもう解けないことでも、このシベリアの山地の気候が分かる。
 地面も凍っているような薄雪を踏んでしばらく行くと3差路が見え、左はヴェルシーナ・テイ(テヤ川の頂上、の意)、右はビスカムジャと書いてある。テヤ川は延長100キロもあるアバカンの左岸支流で、ヴェルシーナ・テイ町付近の高度950mが水源だ。そんな山中に4000人余の町があるのは、ここにテヤ鉄山があるからだ。1930年代に鉄産地が発見され、50年代には計画経済の一環として町ができ、60年代後半には鉄採掘精錬工場が稼働を始めた。現在、このアバカン山中では最も人口の多い町で、道路がハブザス川に沿って曲がり、鉄道と分かれたのもヴェルシーナ・テイ町方面に行くためで、鉄道は北回りでナンフチュルトンネル経由でビスマムジャまで行き、道路は南経由でヴェルシーナ・テイ方面に行く。途中でヴェルシーナ・テイとビスカムジャを結ぶ鉄道にぶつかり、道も南(テイへ行く)と北(ビスカムジャへ行く)に分かれる
 私達は、この三叉路でヴェルシーナ・テイ町の方へ曲がっても良かったが、鉄採掘城下町の方は帰りに時間があったら寄ることにして、目的地のビスカムジャのほうへ曲がった。帰りは別の道をとったので結局寄れなかったが、ヴェルシーナ・テイ町は鉄山従事者とその家族のため、厚生施設を整えたシベリアによくある『計画都市』の一つらしい。特にスポーツセンターが充実しているそうだ。設備のいいスキー場もあり、シベリア管区選手権大会なども行われているそうだ。が、2010年12月、電気系統の故障で取水装置と集中暖房設備が動かなくなった。こうなると、町の住民大部分が避難しなければならない。暖房がなければシベリアの人工的な町では死活問題になる。全国版の新聞にも書かれたその事件は、この時の1カ月後に起きたことだ(後記)。
 テヤ鉄山を現在、操業しているのはケーメロヴォ州、ハカシア共和国、クラスノヤルスク地方などにも鉱山を持つ有限会社『ユーラシア鉱石』で、クズネック炭田地帯に運ぶためのビスカムジャから特別に約30キロ引きこんだ鉄道支線を利用している。この支線には旅客列車は通らない。30キロもあるので途中にトゥズクスーと言う駅がある。この駅はアバカンからビスカムジャ経由ノヴォクズネック鉄道支線が1949年着工後、53年にビスカムジャからの鉄道支線をヴェルシーナ・テイ町まで引くために作られた町で、今は住民60人(ハカシア人)。
コノヴャースというのはドライブイン、左には青いトイレ小屋

 トゥズクスー駅はトゥズクスー(トゥザッフ・スーグ)川ほとりにある。トゥズクスー川はトミ川(827km)に流れ、トミ川はオビ川に流れるので、アバカン川アスキース川系のハブザス川谷からトゥズクスー川谷の間の峠がエニセイ川とオビ川の分水嶺になる。この峠にもちゃんとハカシアらしいシンボルがあった。坂道を登っていくと、突然のように道端にコノヴァース(馬を繋ぐ柱)とチャロマ、あずまやがあったのだ。何と立派なコノヴァースだろう、5本柱のレリーフも珍しい模様だと車の窓から見ていると、道が登りから下りになった。コノヴァースはやはり峠のような象徴的な場所にあるのだ。
 今まで越えてきたアバカン山脈の東斜面はエニセイ川(アバカン川)水域で、西斜面からクズネック・アラタウ(山脈)がオビ川(トミ川)水域になる。アバカン山脈の西は低いクズネック・アラタウがケーメロヴォ市の辺りまで北西に長く横たわっているのだ。

 トゥズクスー(トゥザッフ・スーグ)駅近くには同名の長さ1700m、深さ25mの洞窟があることでも有名で、1982年、ノヴォシビルスクの考古学者によって洞窟内に岩画が発見されたそうだ。盆地の草原地帯は牧畜に適しているが、盆地の端から始まる山岳樹林地帯は狩猟に適している。アバカン山脈のトミ川最上流には多くの洞窟がある。
 アバカン山中のビスカムジャ町
 やがて踏切があり、渡るとビスカムジャと書いた標識が見えてくる。ビスカムジャ町は1953(別の資料では1950)年鉄道建設基地として始まり、今は、人口は1800人で、先ほど通り過ぎたベリクチュリ『村』より少ないくらいだが、地位は『町』なので、何か博物館とかもあるかもしれない。ビスカムジャ町は始発(アバカン市)と終点(ノヴォクズネック市)のちょうど中間のアバカン山脈の奥、ビスカムジャ川(23キロ)がトゥズクスー川(トミ川の左岸支流)に合流するところにあり、鉄道城下町、つまり鉄道の他は何も産業のないところらしい。町の入り口に『ビスカムジャへ来て、シベリアがわかる』とある。ビスカムジャが典型的なシベリアの町の一つかといえば、そうかもしれない。まずは町中をぐるぐると回ってみた。山に囲まれた町だ。駅舎はなかなか立派で、道行く人は黄色のジャケットを着た鉄道整備員が目立ち、鉄道の引きこみ線が何本もあり、1日1往復の旅客列車も、アスキース駅やメジュドレチェンスク駅(人口10万人の石炭大産地)以外は1,2分しか止まらないが、ここでは17分も止まる。道は薄い雪に覆われ、地面が凍っているおかげでぬかるんでいないのがいい。下の盆地では毎日晴れているのに、ここ山地では晴れた日は少ないらしく空はどんよりして、知らない町に用もないのに来たという感じだった。サーシャが、これからどうするのかと聞く。
「文化会館を探して、そこの人にこの町の見どころについて聞いてみよう」。これが知り合いのいない町で何かを見るのに一番いい方法だ。
 しかし、この町の文化開館は修理中で閉館と書いてあった。にもかかわらず、サーシャと私は中に入って、ペンキを塗っている女性にビスカムジャの見どころを聞いてみた。後でわかったが、彼女は文化会館長だった。町役所へ行ってみてくださいと言われる。町役所は文化会館の隣にある。向かいが駅舎だ(駅長は女性)。
右への道がヴェルシーナ・テイ、
東がビスカムジャに向かう
ビスカムジャ駅
町長がパソコンを見て説明してくれる
『天の下の剣』か(町役場でコピーした写真の一つ)
町長室(グレーのスーツが町長)

 町役場に入ってみると、内装は快適で、職員は女性ばかりのようだ。町長カザンツォーヴァさんも女性で案内された町長室にはおなじみのロシア大統領メドヴェージェフの写真と紋章、国旗が飾ってある。と言うより、これらがあったので、ここは町長室、迎えてくれたのは町長とわかったのだ。
 日本から来た旅行者で、ビスカムジャのことはサイトで知って、はるばる訪れたのだ、と自己紹介すると、すぐわかってくれた。この説明で十分なのがうれしい。
 カザンツォーヴォ町長は1か月前に町長になったばかりで、その前はロマノフと言う体育系の男性が10年間町長だった。『彼ら』という雑誌に、元町長のインタビュー記事が載っていたので分かったのだが、ビスカムジャ町はトミ川最上流左岸支流トゥズクスー(トゥザッフ・スーグ)川にビスカムジャ川がそそぎこむあたり(前記)、標高500mくらいのところにあって、『5つの谷間』と言う意味だそうだ。周りは森なので狩猟採集の自給自足の生活はできるが、林業コルホーズも廃業して、鉄道保安業より他の産業はない。村から町になった直後の1968年は5200人だったが、今は1800人。1990年から着工した新ナンフチュル・トンネルも2002年完成して住民の雇用は減少。しかし、旅客列車が通る以上は観光業を発展させたいとインタビュー記事には載っている。手づかずの自然がある、何より、上流トミ川洞窟群がある、そうだ。
 愛想の良い女性町長カザンツォーヴォさんは、私がサイトを見てきたと言ったので、ビスカムジャ観光目玉の洞窟美か、ここから近いクズネッ・アラタウの最頂点『天の下の剣』登山に惹かれたスポーツウーマンとうつったのか、パソコンの部屋に案内してくれ、写真をだしてくれた。11月はシーズン・オフなのでせめて写真でも見せてくれたのだ。
 クズネック・アラタウは全体にあまり高い山脈ではないが、アバカン山脈と接するあたり、つまりケーメロヴォ州とハカシア共和国の境に『天の下の剣』群と言われる最高2178mの『剣の頂上』山をはじめいくつかの山頂がある。ビスカムジャ駅からさらに70キロ西へ電車で行ったケーメロヴォ州のルジバ(同名の川からきた駅名、ルジは南部サモエード(サモディーツ)語の『黒い』、バは『川』)と言う停車2分の駅から登山道がある。夏は徒歩で冬はスキーで登るそうだが、ハカシア側、つまりビスカムジャから登山した方が、大自然が見事だと言う。これは人がまだ踏み込んでいない地が、観光業発展の潜在力が大きいと言うことだ。厳しくも優美な自然、大きな石がごろごろあるだけの山頂付近の平原、その遠くに天の下にのこぎりの歯(剣)が立っているような写真や、氷河が落ちてきている夏の湖の写真などがパソコンに入っていた。
 トゥズクスー(トゥザッフ・スーグ)洞窟群の写真もあった。有名なものだけでも30はあって、ビスカムジャを首飾りの様に囲んでいると言う。どの写真も素晴らしい大自然だ。だが、ビスカムジャの写真もみたい。できたら町のパンフレットのようなものはないのだろうか。観光で立つと言うビスカムジャのパンフレットはまだ出来上がってはいないが、草稿はできていて、パソコンに入っていた。カザンツォーヴォ町長に言われて、女性秘書がメモリー・スティックを貸してくれた。
 その、まだ草稿中のパンフットによると、5個の谷があったところにできたビスカムジャは、アスキース駅から伸ばしてきた鉄道の建設者のための村で、ビリクチュリより5年ほど遅れて1953年にできた。それまでは、このアバカン山脈とクズネック・アラタウが接するトミ川上流にはただ針葉樹林と、夏場には人の背ほどの草、冬場には人の背ほどの雪があっただけだった。1913年、当時皇帝一家の財産だったクズネック・アラタウ西斜面の炭田地帯を90年間借款するという契約を結んでいた仏独の会社が、クズネック・アラタウ東のビスカムジャ方面の資源調査も行ったが、斧なしではこの針葉樹林の密林に入り込むことさえできない、ここには倒木の他は何もない、道路建設は不可能だと報告した土地だそうだ。
 しかし、1959年には鉄道が完成した、我々には不可能はない、といつもの調子で書いてある。現在旅客列車は1日往復だが、鉱物を積んだ車両や、から車両も含めて1昼夜に約24本も通行するそうだ。
 住民はハカシア人が最も多い。どこのシベリアの僻地でもそうだが、コムソモール(共産主義社会の具体的建設を目的とした青年同盟)運動でやってきたロシア人、ウクライナ人も多い。クズネック・アラタウの原住民ショル人も住む。
 ショル人と知り合いになりたいものだ。そうつぶやくと、カザンツォーヴァ町長はショル人協会の関係者を紹介してくれた。明日またアスキースへいってその女性に会うことにしよう。
 カザンツォーヴァ町長自身、ヴォルガ流域のタタルスタン共和国生まれで、1996年までウズベキスタンで、その後ビスカムジャでも1999年まで幼稚園の先生だった。
 ちなみに、町役場の報告書によると2007年の出生14人、死亡8人、要保護が14家族、親権喪失両親が2組、失業者のための特別臨時公共事業で働いた人45人、村に公共浴場と理髪店あり、自家営業の従事者は236人、町役場関係従事者は50人など。念のためにすべてを私のスティック・メモリにコピーして、町長室の慈愛に満ちたまなざしのメドヴェージェフ大統領と国旗の前でいつものようにみんなで記念写真を撮り、お茶もごちそうになって、1時間半も長居をして、町役場を引き上げた。

 本当はさらに奥へ行きたかった。ここから35キロ奥には人口2183人(2004年)という山中の僻地にしてはかなり大きいバリクサ(バリク・スー、ショル語で『魚の川』)と言うショル人が比較的多く住む村が地図に載っている。この集落は実は19世紀半ばからあって、革命前は徒刑囚の地だった、と言うのはこの近くで砂金が採れたからだ。革命後の1930年代からはバリクサ川(46キロ、トミ川左岸支流)上流の今はショル人やハカシア人が30人ほど住むニコラエフスクや、その上流のネアジーダンヌィ(『意外な』という意のロシア語)と言うそれらしい名前の場所でかなりの量の砂金が採集されたらしい。ネアジーダンヌィはバリクサ川の支流にあって、写真で見ると村の入り口には『ネアジーダンヌィ1835年』と言うランドマークまである。つまり、砂金採集が始まったのはクズネック炭田の埋蔵量調査(1842年)より古い。今(2004年)でも、この『意外な』村にはロシア人、ショル人、ハカシア人、ドイツ人が187人も住んでいるそうだ。
 そこまでは行かなくても、バリクサまでは行ってみたいと、かすかに思った。途中にはショラという駅や、ショラ川上流には200人ほどのロシア人やショル人やハカシア人の住むショラという村もある。だが、町役場では、ビスカムジャを過ぎると道は極度に悪くなると言うので、サーシャに遠慮してこの先は行かないことにした。
 ナンフチュル・トンネルと洞窟の多くある岩山を見ながら帰ろう。
 ナンフチュル・トンネル
 来るときはトゥズクスー(トゥザッフ・スーグ)川沿いの道だったが、トンネルを見るためにはビスカムジャ川沿いの旧道を行けばいいと言うことで、町を出たのは2時過ぎだった。すぐにヤースナヤ・ポリャーナと言うレフ・トルストイで有名な名前の集落の側を通る。トルストイ主義者が未開のシベリアの土地に自分たちの自給自足の共同体をつくった名残なのかもしれないが、行政的に登録されたのは1965年で、ここに鉄道建設従事者が住み、住民800人(2004年)の大部分がロシア人。
 レフ・トルストイが住み、執筆し、葬られたヤースナヤ・ポリャーナはモスクワ南にあるが、同名の村はロシア中ばかりか、ウクライナにもブルガリアにもあって、サイトに載っているものだけでも80か所くらいも数えられる。クラスノヤルスク地方(1か所)やアルタイ地方(4か所)、ケーメロヴォ州(1か所)にもある。『林間の明るい空地』と言う意味だから、トルストイ主義者と関係あるとは限らない。
 今、このハカシアのアスキースキィ区のヤースナヤ・ポリャーナはビスカムジャ主導の観光基地として、注目されている、と前記『彼ら』誌の前町長ロマノフ氏のインタビュー記事に載っていた。今の村のインフラ(電気と井戸のある空き家)を使ってアルペンスキー基地を作るそうだ。自然派志向レジャー施設建設には適している。環境がよい。洞窟探検も登山もできる。(2004年人口800人、2010年は12人、ウィキペディアによる)
 ビスカムジャ川の右岸の、針葉樹の緑と白樺などの落葉樹が混じってまだらの林になっている斜面にヤースナヤ・ポリャーナ村のトタン屋根が見え隠れしていた。
ハカシアのヤースナヤ・ポリャーナ
高い道床、所々に山側からの
水を流すトンネル(導水路)がある
道床に上る階段と水路の出口のトンネルが見える
トンネル西出入口
この峠をトンネルが貫通する。トンネルの
西出入り口の上。緑の管理小屋も見える
トンネル東出入口

 道はビスカムジャ川と鉄道の間に続いている。川はやがて深くなり、鉄道の道床は道路よりかなり高く積み上げられている。この山岳地帯に、軌道をできるだけ水平に保つためだろうか。こんな高い道床を作るには大量の土砂が必要だっただろう。そればかりか、長く高い道床で山の斜面をぐるりとふさいでしまうので、流れてくる水を下に流すためのトンネルも残して砂利を積まなくてはならない。ところによっては高さ20メートルもありそうな道床、と言うより城壁の腹に向こう側までのトンネルがコンクリでつくってあり、番号まで付いていた。ナンバー3とあるところで、特別に車から降りて、中をのぞきに行ったものだ。
 のぞいてみると、高さ約3m、幅2mくらいの道床下のトンネルの向こう側には薄く積もった雪の枯れ葉が見え、トンネル内には晩秋なので浅く水が流れ、出口では凍っていた。このトンネルがないと、春の雪解けシーズンには道床の山側に池ができてしまう。もっと雪解け水が多いと、せっかく作った軌道が冠水してしまう。
 道床には横腹を貫通するトンネルばかりか、一定の距離ごとに斜面を昇る長い階段も付いている。線路の保全も大変だ。
 ビスカムジャからヤースナヤ・ポリャーナ村、アラ・タウ村と行くしばらくの間にも、下りと上がり、1本ずつ列車が通って行った。他人の国ながら、頼もしい。

 10キロ余ほどで、ナンフチュル・トンネルの西側入り口に着く。旧トンネルは、アバカン・ノヴォクズネック鉄道開通の1957年にできあがったが、数10メートル離れた新トンネルは2002年開通で、長さは旧トンネルと同じ2400メートルと、特に長くもない。線路がトンネルの入り口には呑み込まれていると言うありふれた景色も一応確認する。付近にかなり立派な管理人小屋があることが珍しい。ロシアは鉄橋にも入り口と出口には見張り小屋があって武装した兵士が立っている。爆破されたら物流が滞る。『西玄関』と言う駅のようなものがここにある。プラットフォームはもちろんなくて(大都会の駅の他は、プラットフォームなどないのが普通だ)新しい看板だけが列車に向かって立っている。
 新ナンフチェル・トンネル付近は、トンネルに入る線路の道床も、ここでは広く低く、道路と同じ高さだったので、車から降りて線路の上まで行って写真を撮った。見張り小屋から見ていても、たぶん爆破するテロリストのようには見えなかったのか、注意はされなかった。
 ロシア鉄道会社(南ウラル鉄道区や東シベリア鉄道区など16区の路線に分かれている)にはトンネルが全部でたった162本、合計の長さ119キロとある。(日本では最長4本のトンネルの合計だけで126キロ)。ロシアで最もトンネル数が多いのは環バイカル鉄道(1905年から1945年まではシベリア幹線鉄道の一部だった歴史的軌道、今は東シベリア鉄道区の袋小路支線)だそうだ。また、最長トンネルはバム(バイカル・アムール)鉄道のセベロムイスキー・トンネル(2003年開通、長さ15キロ余)。
 ナンフチュル・新トンネルを作ったのも、『バム・トンネル建設会社』第18班だそうで、着工から完成まで10年以上かかったのだから、もうこの地に根を下ろした社員もあり、ビスカムジャに彼らの新居が建設されるまで(ずいぶん待たなくてはならないようだ)、ひとまずヤースナヤ・ポリャーナに40家族ほど住んでいるそうだ。
 新トンネルができてから旧トンネルを修理して、2009年には上りと下りの2車線のトンネルが完成したので、一昼夜最大38本までの列車通過が可能になったとある。
 こんな山奥の人口希薄な場所を通る鉄道、と思っていたが、実はロシア経済には重要なラインのようだ。ロシア鉄道会社機関紙『汽笛』誌によると、極東でクズネック炭田(中心がノヴォクズネック市)の石炭の需要が増している。ノヴォクズネックはシベリア幹線鉄道に面してはいなくて、ノヴォシビルスクから分かれた鉄道の先にある。戦前にはもう電化された重要路線だが、ノヴォクズネックから東へは通じていない。そこで、1957年には東へ、クズネック・アラタウを越え、ビスカムジャを通ってアバカンにまで通じ、1965年にはアバカンからイルクーツク州のタイシェットまで開通してシベリア幹線鉄道のノヴォシビリスクとタイシェット間を南周りに大迂回する全線が開通した。さらに、タイシェットからの北周りのバム鉄道(1984年完)経由でも極東の北部へのラインもでき、ナンフチュル・トンネルが複線化されたことで、確かに石炭を東へ運びやすくなった。

 トンネルの入り口の上には窓まであって立派だ。ここで、今まで並んできた鉄道はナンフチュル峠のトンネルへ、道路は峠の上へと分かれる。トミ川(オビ川の左岸支流)水系のビスカムジャ川はこちら側に、エニセイ水系のアスキース川は向こう側を流れていて、ここアバカン山脈のナンフチュル峠が分水嶺となっている。
 峠に上っても、トンネルに向かう線路が小さく見えた。また車から降りて写真を撮った。その間にも上りの長い貨物列車が通って行き、下りの機関車のみの短い車両も通って行った。峠を数分で越えると、すぐトンネルの出口が見えた。東玄関駅またはナンフチュル駅と言う。こちらの方はもっと玄関らしい立派な出入り口がトンネル穴より少し手前に建っていて西洋建築でファサードと言う荘厳な建造物に似ている。もう少し装飾されていれば、荒涼とした自然の中の劇場かデパートの表玄関のようだ。
 ここにも番小屋はあるが、この辺一帯はナンフチュル村らしい。と言っても瓦礫に囲まれたような数軒の家がぽつぽつと立っていて、廃村のようでもあるが、住民は見かけた。瓦礫の奥の家の窓には植木鉢も飾ってあった。横に薪が積んであり周りに菜園のある家もある。
 このナンフチュルからハブザスまでの旧道を通ったおかげで針葉樹林の元ハンターだったサーシャにも満足してもらえるほど美しい自然が味わえた。薄く雪が積もっているおかげで状態のよい道をゆっくり進んでいくと、10人ほどの生徒たちの一行が歩いて来るのに出会った。みんな軽装だったので、ビスカムジャの中学の洞窟探検倶楽部員が先生と近場に出かけてきたような感じだった。
岩山とアスキース川

 ビスカムジャでの町役場でも、この旧道からは洞窟の入口がいくつか見られると教えてもらっていた。道はアスキース川と山の斜面の間を通るから、洞窟の入口らしい岩の裂け目がいくつか見えた。ビスカムジャの町役場の人が、ナンフチュルから6キロほどで、道路からもはっきり見えると言う『クモ岩』らしい岩山も見え、その向こうにアコード山に違いない岩山も見える。アコード洞窟は氷河もあって、長さ1337メートル、深さ140メートル、暗闇の中で明かりを照らすとオーロラの様な幻が見え、縞メノウや大理石の部屋もあると言う。洞窟ツアーというのは神秘的なものらしい。私には恐怖だが。
 鉄道はアスキース川右岸を通り、道路は川を何度も渡る。1747mのカルリガン山から流れてきてアバカン川に注ぐ124キロのアスキース川の上流は、水量の少ない晩秋なのに力強く流れていた。山手の方は、こんなところにも森林火災の跡があった。

 ハブザス川の合流点近くまで来ると軌道が見えだした。来るときは、ここを新道の方へ曲がったのだ。だからハブザスの合流点からビスカムジャでリングになっている。ヴェルシーナ・テイへ行く三叉路は新道の方にあって、帰り道では通らなかった。

 ここからはビリクチュリを通り、後は舗装道をカザノフカ村からアスキーズ村まで行くと、もうすっかり低地の文明地帯になる。途中、携帯でショル人女性のナターシャ・フェドートヴァさんに電話をかけて、明日会うことにした。
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