クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2009年12月28日  (校正2010年1月21日、2010年2月14日、2012年1月21日、2018年10月5日、2019年11月29日、2021年8月3日、2022年7月15日)
26-8  南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(8)伝統民族祭、岩画
           2009年6月22日から7月14日(のうちの7月4日から6日

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』、シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小さな『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区オグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山の岩画 アバカン市見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトロシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり

 アバカン郷土博物館
博物館前庭にある打刻画のある石
 7月4日は土曜日だったので、サーシャとマリーナは、「今夜は帰ってこない」からと家の鍵を私に渡して、朝早くベア村の両親の家に出発した。それで、私は一人家でスラーヴァが迎えに来てくれるのを待っていた。9時過ぎにスラーヴァが迎えに来て、チェルノゴルスクを出発し、今日も南部方面の予定だからアバカン市へ向かった。
 博物館入り口にある石柱
 時間があったので、アバカン市内見物をすることにした。スラーヴァの内職の工芸品が置いてある店はまだ開いていなかったので、郷土博物館へ行く。ここはかなり前から修理のため閉鎖中だ。(2005年には開いていた。ロシアの博物館は修理のため何年も閉鎖されていることがある。たとえば、クラスノヤルスクの歴史博物館は10年間も閉館だった)。
 修理前の館内に入ったことがあるが、郷土博物館だから、ハカシアの地図や動植物(必ずあるのは、地元の動物の剥製)や、古代の歴史コーナーでは発掘物の模型や写真などが、課外授業として訪れる生徒にもわかりやすく展示してあり、(どの町の郷土博物館でもそうだが)第2次世界大戦ソ連軍の勝利を賛美するコーナーも小さくはなかった。現代史部門にはアフガン戦争と、スターリン収容所の展示物もあった。
 今、修理中の博物館内は入れないが、敷地の前庭にはずらりと打刻画や打刻文字のある石柱が並べてある。ハカシアでは、古代遺跡の石柱はあり余っていて、最も価値のある典型的なものだけ屋内で展示し、そうでないのは、屋外なのだろう(もともと、石柱は青空の下にあった)。また、昔からあった草原の一角にあえて動かさずに置いてあるとか、打刻も薄いので特に注目されず、あった場所にそのままころがっているのもある。しかし、博物館にある以上はたとえ前庭であろうと説明書きがほしいものだ。何を表しているかの説明はなくても、どこで見つかって、何時代のものかぐらいは書いてあってもよさそうなものなのに、まったくそんなパネルはない。もっとも、ロシアでは屋外の、管理の目が行き届かないところに、説明パネルのような落書きされたり、盗まれたりするかもしれないものは置かないのだろうが。
 スラーヴァに石柱のことを聞いても、一切知らないと答えるばかりだった。
 
 ハカシア伝統民族『乳祭
トゥイン・パイラム祭会場(バジン野原)
絵葉書から
 前日の『サヤン・リンク・フェスティバル』シューシェンスコエ町であったが、そこはエニセイ川中流の右岸で、右岸はクラスノヤルスク地方に属する。クラスノヤルスクの旅行会社が考えそうなイベントだが、大成功している。
 エニセイ中流の両岸のハカシア・ミヌシンスク盆地に広く住んでいたハカシア民族にも、もちろん伝統的な祭りがいくつもあった。今、祝われているのは、『チュィル・パーズィ』で『年の頭』と訳される新年(3月)の祭りと、『トゥン・パイラム(初物の強度の発酵牛乳)』という夏の初め、6月か7月に冬用遊牧地から夏用遊牧地へと移り変わりの時期に行われる祭りだ。実は、これらは1980年代や90年代になって復活した祭りだそうだ。
儀式用の火(絵葉書から)
 『トゥン・パイラム』祭は牧畜民の祭りで、発酵して強くなった(と表現される)牛乳から作ったすっぱい飲み物のパイランから牛乳酒を造る。昔、ハカシアでは近くの村々の人々が夏の初めに丘の上、または野原に集まり、儀式用の焚き火を起こし、この日のための花で飾った馬を香草で燻し、初物パイラムを炎や馬や地面に注ぎかけ、家畜が増え乳製品も増えることを祈ったそうだ。馬は家畜の守りだったので、パイラムを注いだ後、野原に放した。初物パイラムやそれで作った牛乳酒は薬効があり、この日のうちに飲みつくさなければならないとされていた。 儀式のあとには、さまざまなスポーツ競技や、音楽会、また大宴会が行われた。と、郷土博物館のサイトに説明がある。(閉館中もサイトだけは開ける)

 クラスノヤルスクの旅行会社発案の『民俗音楽祭・サヤン・リング』とちがって、『トゥン・パイラム』祭は左岸支流アバカン川中流のハカシア人の多いアスキース地区で行われる。2007年まではアスキース町の近くのバジン野原で行われていたそうだが、そこは遺跡が多いので、より広大なサガイ野原に移ったそうだ。もちろん『トゥン・パイラム』祭は一箇所ではなく、昔はエニセイ川両岸のハカシア・ミヌシンスク盆地に広く住んでいたハカシア人(当時はミヌシンスク・タタールとかエニセイ・キルギスとか呼ばれていた)は自分たちの村々で祭ってきたのだろう。今、アスキース地区の『トゥン・パイラム』がハカシア共和国祭になっている。
中世キルギス大都市の一部のマニ教寺院跡

 アルカージーを乗せて、アバカン市からアバカン川左岸に沿った国道161号線を南西へ、この日の目的地アスキース方面に出発したのは、12時も過ぎていた。それは、早く着いてもトゥン・パイラム祭りメイン・イベントは午後から始まるからなのだろうか。
 アバカン川左岸は、広くウイバット草原と言う。この辺の草原にも灌漑用水路が縦横に掘られている。
 35キロほども来たところの道路の脇に何か廃墟のようなものが見えたので、止まってもらった。8-10世紀キルギス族の城跡だと言う。直線になっている土の段差や、積み上げられた土の山にぼうぼうと生えている低い草の中へ入ってみた。道路の向かい側にも同じようなものがあるので、道路で分断されたのだろうか。錆びてひしゃげ、すっかり読めなくなった看板が立っていて、廃墟のさらに廃墟のようだった。ハカシア人のアルカージーも、自分の子供のころはこのトゥタッチコフ城跡はまだ立派だった、と驚いたくらいだ。ここを発掘した考古学者の論文によれば、これは当時この辺りを占めていた中世キルギス大都市の一部のマニ教寺院跡で、いくつものアーチやドームでできた8面対の塔が隅々にあり、雪花石膏の祭壇があったのだそうだ。アルカージーは生レンガでできた高い外壁跡を、子供のころ見たのだろう。(後記:ウイバット寺院都市遺跡とも言う。2011年にも再訪)

 国道161号線を進んでいくと、相変わらずクルガンが次々と見えてくる。ハカシアの道の駅もある。
メイン舞台
サガイ野原のトゥイン・パイラム祭
ハカシア語の即興歌
競馬場、少年の部の優勝馬が通る
 やがて会場のサガイ野原へ曲がる道には、この日のための案内板が出ている。標識を曲がると、もう舗装道ではなくなるばかりか、スラーヴァが悪態をつく泥沼道の次には、思いっきり埃を巻き上げて進む坂道だったりした。遅いニーヴァが抜かれた後は前を行く車の埃で長い間視界がないほどだった。祭りに向かう車は多くて、ニーヴァはずっと埃の中を進んでいった。
 サガイ野原はアバカン川の左岸にある広い草原盆地(ハカシア・ミヌシンスク盆地の1部だ)で、はるか遠くには集落が見える。野原の中ほどにはいくつか舞台が設けられ、盆地を作る近くの丘には儀式用の炎も見える。民族衣装のハカシア人が多く、色とりどりの旗がはためき、あちこちにユルタが建っているのが『サヤン・リング』祭と違っている。『サヤン・リング』のほうはスタジアムだが、ここは丘陵牧草地だ。
 この日もハカシア晴れだった。草原の中に日陰がなく、あたりは乾燥しきっていた。その中を私たちは歩き回り、少年も多く出場する相撲(フレーツと言うハカシア相撲)の試合をながながと見物し、出身工房ごとの縁日の露店をゆっくり品定めし、民族楽器を売っているコーナーやトゥヴァから来たという石の動物彫刻を売っているコーナーでは製作者の写真も取り、スラーヴァの知り合いだと言う民芸品店の出店ではオーナーのハカシア人ナルィルコフ氏から名刺をもらい、彼が日本へ行ったときの『びっくり話』を聞き、(荷物を持って)丘の中腹まで行って戻ると言うようなきつい障害走を少年たちが走っている種目や、弓矢の試合や、80キロはあるという石を持ち上げる重量挙げなんかを見て回ったり、埃の舞う中でもめげず中央アジア風の焼肉のシャシュリクを食べたりして時間を過ごした。ちなみに、この祭りのメインのパイラムは、私は乳製品に弱いのでスラーヴァに勧められても飲まなかった。舞台ではずっと民俗音楽が演奏されている。舞踏もあり歌もある。メイン舞台の近くは人が多いが、広い野原を舞台から離れるにつれて人の数はまばらになってゆく。それでもメイン舞台からずっと離れた丘の上にも陣取っているハカシア人家族グループもいる。ユルタ・コンクールもあって、より美しく組み立てられたユルタが優勝するそうだ。そうしたユルタが色とりどりの旗に囲まれて、中央から少し離れたところに立っている。
 競馬場も同じサガイ野原にあるが、演奏用舞台やスポーツ競技場からはかなり離れている。もともとの馬小屋もあって、ここはこの日の祭りのためにだけできたものではない。馬小屋の横にはクルガンもあって、遺跡の立石に寄りかかってハカシア娘がアイスクリームを食べていた。
 競馬場は1周が何キロもあるように思える。競技は少年たちの部から始まる。試合の動画は近づいてくるところを撮らないといけない。カメラの前を通り過ぎた後では埃しか撮れない。参加者の服装が、ヘルメットもかぶった華やかな騎手のものから普段の放牧地で着ているものまでもまちまちなのが面白い。試合毎に賞状が出るらしい。競馬場から出てゆく野良着姿の少年も賞状のようなものを手にしていた。最後は4周もまわる試合で、参加したのは4頭だけだった。そのうちの1頭は力尽きて途中で退場し、優勝したのは騎手姿を乗せた6歳馬で、賞品はロシア製の新車だそうだ。
 メイン舞台に戻ると、ハカシア人熟年女性たちの即興歌コンクールが行われていた。ロシア語でも聞き取れないところにハカシア語ではさっぱりわからない。それでも辛抱強く1時間ほど聞いていたが、夕方8時半を過ぎ、影が長くなる頃引き上げた。
 カムィシカ川ほとりで野宿
アルカージーの知り合いと
テントが飛ばされないように
 チェルノゴルスクのサーシャとマリーナはベヤ村に行っていて留守だ。鍵は預かっているが、家には帰らないことにした。テントを張って一夜を過ごすようなすばらしい自然のあるところへ行きたいと言うと、国道161
号線
から出てアバカン川の左岸支流カムィシカ川のほうへ行った。スラーヴァが考えていた場所は先客がいたとかで、川のほとりの茫々とした草むらの中で車を止めた。
 川向こうから月が昇ってきて、風も強い。テントが飛ばされないよう車のタイヤにロープを縛り付けてもらう。夜中に風がつよくなってテントごとカムィシカ川に飛ばされたらどうしよう、と言うと、そのときは日本で新しいテントを買って送ってほしいのだって。中国製のテントが日本でもレジャー用品店でもたくさん売られているから、それを送ってあげる、と答える。このテントも中国製だ。
 こんな場所には蚊がたくさんいるので電気蚊取りを持ってテントに入る。隙間の多い狭い車の中で寝たスラーヴァとアルカージーの二人はさぞかし蚊に悩まされたことだろう。そういうわけで、3人ともかなりきつい夜を過ごした。後で知ったことだが、チェルノゴルスクでは留守の両親に代わり、長女のヴァーラが蒸し風呂を炊き、夕食も作って待っていてくれたそうだ。

 次の日、朝起きてみると、そこは草原の花の咲く美しい川原で、近くまで低い山々が迫っていた。蚊もきっと喜ぶ池もところどころある。カムィシカ川の三日月湖らしい。朝食は『道の駅』でとることにした。ハカシアで道の駅とは、道祖神があって、チュルク人やモンゴル人の習慣で着ていた服の一部をちぎって結び付けて置くチャラマのあるところだ。そこには小銭やタバコなどの供え物もする。だから、ここは町から遠く離れているのに、その小銭を集めにくる浮浪者がいる。 
 帰り道には、もちろんクルガンのほかにも、中世キルギス族のトゥタッチコフ城跡の跡もあるが、頼まなくてもたびたび車が止まった。これは遺跡を見るためにではなく、車のボンネットを開けるためだ。そうやって、やっとやっとアバカン郊外の応急処置のできる修理工場まで来れた。

 この日はスラーヴァの修正予定表では再び『サヤン・リング』祭へ行くことになっていたが、古代遺跡に変更してもらった。音楽祭を見るために私たちに同行したアルカージーには悪かったが、音楽祭はなんだか退屈だったのだ。
 ちなみにアルカージーは現金を持ち歩かない主義らしい。そもそも持っていないからだ。もちろん、カード類などないことは確かだ。この2日間、食事代もビール代もすべて私が支払った。タバコ代はスラーヴァにもらっていた。タバコを吸うと私が目を三角にするからだ。アルカージーには友達がたくさんいると言う。そして友達のために何でもしてあげるそうだ。そしてそれらの友達がアルカージーに食べさせてくれるのだ、と私は理解した。私も彼の友達の一人にされたのか。車の修理をしているとき、アルカージーが私を連れてちょっと離れたところの店に入ったが、これは私にビールを買わせるためだった。貧しく世俗的な常識家の私にはなかなか理解できないことだったが、断ることもできない。42歳で2度の結婚暦の自称音楽プロモーターと言うアルカージーは面白い(ほどあきれかえった)ハカシア男性ではないか。
 修理工場の近くに教会もあった。アルカージーに誘われて中に入ってみると、聖職者がいた。長髪にひげ、黒服に大きな十字架のロシア正教司祭だ。アルカージーの古い友達だと言う。アルカージーが教会に通っているのかと思ったら、この聖職者は元ロック・ミュージシャンだったそうだ。
 ミヌシンスクの北、ビストラヤ山岩画
 『サヤン・リング』祭に、もう行かないというので、アルカージーはここで別れていった。私は音楽祭には行かず、岩画のあるところへ行って、実はそのコピーを自分でとりたかったのだ。縁日の露店では岩画をコピーして染めたTシャツが売っていた。Tシャツでなくてもいい。紙でいいから直接自分でコピーすれば、ここでしか手に入らないお土産になるではないか、自分用の。
 そこで、カーボン紙と薄紙を買って、岩画のコピーが取れるとスラーヴァが言うミヌシンスク市郊外のビストラヤ村へ行くことにした。
アバカン川がエニセイ川に合流する地点

 ミヌシンスク市は、少し前までこの辺をハカシア・ミヌシンスク盆地ではなく、ミヌシンスク盆地と呼んだように19世紀から南シベリアのロシア人町として商工業が栄え、エニセイ県の南の中心だった。記録では1739年、ミヌサ川がエニセイ川の分流(エニセイ分流ともミヌシンスク分流とも言う。航行可能)に注ぐところにできたとなっている。ちなみに、分流とエニセイ川の本流との間にできたタガール島で、後にタガール文化と名づけられた後期青銅器初期鉄器文化遺跡が、1920年に発掘されたのだ。初めに発見された場所の名前を取ってタガール文化と呼ばれている。
 アバカンからエニセイ川を渡り、今は新ミヌシンスク地区になっているタガール島や、ミヌシンスク分流にかかる橋や、旧ミヌシンスク地区も通り過ぎて北西へ、また悪路をしばらく行くとビストラヤ村に出る。村はエニセイ川に面している。村はずれには必ず村の墓地があって、たいていは高台の景色のよいところにあるが、ビストラヤ村の墓地もそうだった。スラーヴァは墓地の駐車場に(ただの空き地に)ニーヴァを止めると、その裏の小高い丘が目的地だと言う。かなり距離はあるが傾斜はゆるそうだった。
エニセイ沿いのビストラヤ村
騎士のモチーフが多い
ビストラヤ村の後ろの岩画のある山
ビストラヤ山の向こう側が見える
コピーの手伝いをしてくれるスラーヴァ
タガール時代の岩画
 コピーの道具を持って上っていった。途中の道に落ちている石を見てスラーヴァが石器に似ている、と言う。それはどうか知らないが、この辺には旧石器時代の生活跡も見つかっているそうだ。といってもハカシア盆地のいたるところに新旧の石器時代遺跡が見つかっている。重くなるので、その石器かもしれない石は持って帰らなかった。もしかして発掘調査隊が落としていったものかもしれない。
 上っていくと、次第に景色が開けてきた。この辺は流れが緩やかなのか、無数の小さな中州を作って迷路のように流れるエニセイ川と、そのほとりのビストラヤ村が小さく見えてきた。おお、写真に撮らなくては!!!村はずれの家畜小屋の長い屋根も見える。足もとには侵食を逃れて残った大岩もある。
 やがて一番近い岩画の場所に来ると、スラーヴァは複写の仕方を教えてくれた。岩画の、たとえば馬の打刻画の上に薄紙をあて、その上にカーボンを当てて、食器洗い用にいつもトランクに入れてあるスポンジで一面に擦るのだ。オリジナル岩画にはカーボンはつかず無傷だが、手にはつく。薄紙がずれないように誰かが抑えていなければならない。私のリュックには旅行中いつも持ち歩く7つ道具のひとつ、粘着テープがあったので、それが役に立った。私の7つ道具の中にはサイズフリーのポリエチレン手袋もあるのだが、それは今日のリュックには入っていなかった。だから、この日、2時間以上も複写していたので、手は真っ黒になってしまった。
 岩画のあるのは、テラスのようなところに垂直に切り立った岩が露出している場所だ。高さは1m半、長さは平板な岩が露出している限り続く。たとえば、ビストラヤの2つ目の場所では長さ10mくらいの岩のキャンパスに幾つかの物語の打刻画があるのだ。馬に乗っている人と逃げているような動物がセットになっているのはわかるが、何かを持って立っている人、並んでいる動物などがどのセットに入るのかわからない。岩の自然の切れ目なのか打刻画の一部なのかわからない線もある。下の列と上の列は違う物語かもしれない。古い時代の写実的ではない動物の横に、より新しい時代の走る動物もある。古い時代の打刻画の隙間に打刻したのだろうか。
 コピーするときは1つの場面を1枚の紙にしたらいいのだろうが、どこで切れているかわからない。スラーヴァが買ってくれた透写紙は幅84cm、長さ10mの巻物で、これを適当な大きさに破いて打刻画の上におくのだが、大きく置いても、必ず端では次の馬のおなかのあたりで切れてしまう。一方、スラーヴァは私にやり方を教えると横の岩場で寝たふりをしている。岩山の上はいつも風が強くて、薄い透写紙は粘着テープで固定するまで、ぴらぴらする。
 カーボンをこする強さや場所でコピーがうまくいったり失敗したりする。岩画のある場所は、いつもそうだが景色がよい。カーボンをこするばかりでなく、エニセイ川沿いに連なる丘陵と中腹を低地に向かって平行に走る窪、ふもとを走る一筋の道が見える夏のシベリアの風景を楽しまずにはおられない。道があるからにはその向こうに村があるのだろうか。
 「では、その村はずいぶん遠くにあるのね。そんな人里はなれたところに住むのは大変だわ(本当は素晴らしい)」と私に頼まれてテープ張りを手伝ってくれているスラーヴァに言うと、
「ミヌシンスクから車で1時間もあれば行ける所だ。自分はあの道を、テントをかついて歩いて行ったことがある」のだそうだ。途中野宿したという。この辺はエニセイ門を作る右岸岩山のひとつスハニハ山に連なる丘陵地帯だ。だから遺跡が多い。

 ビストラヤの3つ目の場所に行くと、そこの岩画はかなり痛んでいた。が、それだけより岩画らしいというものだ。その場所からは、別の景色が見える。連なる丘陵の中腹には風化されずに残った岩が壁のように連なり、山々の尾根は遠く続き、次第に高くなってその向こうはもう見えない。足元の岩のテラスの横では黄色い花も咲いている。

 車の修理、徒歩でアバカン見物ということになる
タシュティック時代のマスク
 7月6日、月曜日なのでスラーヴァがいつも行く修理工場がやっと開く。午前中はニーヴァを直してもらわなくてはならない。だから、この日の予定のサヤノゴルスクへ行くのは、12時ごろになると言われる。だが、サーシャとマリーナと一緒の私はいつも通り7時40分に家を出て、チェルノゴルスク中心街のマリーナの図書館経由、8時半にはアバカン市のサーシャの店に着いた。このサーシャ便に乗らなければアバカン市へ出られないのだ。
 早く着いたので、一人でアバカンの町を歩いてもよかったが、店のパソコンでメールチェックなどをやっていた。そのうち眠くなったので、車の鍵をもらってプロボックスの中でうつらうつらとしていると、窓をたたくスラーヴァに起こされた。ふと時計を見ると12時40分だった。修理はまだ始まってもいなくて、夕方5時にやっと取り掛かるという。つまり今日は車がつかえないということなのだ。だから、徒歩でスラーヴァの知り合いの店やアバカン見物をしようといわれる。
ハカシア民芸店
『ポゴー』とミニ『ポゴー』
 ソヴィエト様式の大壁画
 『トゥン・パイラム』祭で名刺ももらったスラーヴァの知り合いで、アバカンで民芸品店も含め手広くビジネスをやっているというナルィルコフ氏の事務所をまず訪れることにした。彼は物理数学修士であるそうだ。ロシアでは医学を始め学問分野からビジネスに転向したリッチマンが多いのだ。ナルィルコフ氏は今、タシュティック時代の墓地から出土したマスク(埋葬時の石膏製の面)の写真展を計画しているそうだ。写真を何枚も見せてくれた。普通は割れているので復元してある。この時代は刺青をしていたのか、マスクの額や頬にも渦巻き模様などが映っている。最近アバカンに来た日本人研究者に(大サルビック古墳で名詞を残した4人組らしい)、日本で写真展ができないかと持ちかけたそうだ。私にも、できないかと言われた。
 ナルィルコフ氏の事務所には所狭しと出土品のコピーがあり,壁にはクルガンのある草原や岩画の絵,古代をモチーフにした大小の絵やバヤルスキー岩画の実物大写真などがかかっている。しかし、壁紙やインテリア雑貨のホーム用品を売る店が、ナルィルコフ氏の主要な店だそうだ。
 店は駅の近くにあり、そこを出るとスラーヴァは近くの鉄道博物館に行こうという。古代遺跡とは関係のない博物館なのであまり気が進まなかった。行ってみると月曜休館と書いてあったのでほっとした。だが館長がスラーヴァの知り合いとかで中に入れてくれた。シベリアの鉄道の歴史が展示してあって、意外と興味深かった。ノリリスクからサレハルドへの未完で放置されたスターリン北極圏鉄道も、クラギノからクィジールまでのトゥヴァ鉄道と同様2030年までに開通予定と電光大地図に載っている。
 そのあと、スラーヴァが内職の品を置いてもらっているという中心街にある民芸品店にも行った。ここにはオーナーのとても感じがいいハカシア女性が番をしていた。昔ハカシア既婚女性がかけたと言う伝統の大前掛け『ポゴー』を作っているというハカシア女性もいた。細かく刺繍してビーズを縫い付けた半円形をしていて、胸に着けるのでエプロンか、布でできた大きなペンダントのようだ。確かに『トゥン・パイラム』祭でそんな民族衣装を見かけた。
 スラーヴァが内職で作る民芸品と言うのは銀製の大きな指輪だ。こんな大きなものは自分もはめられないし、プレゼントにもならない。昔のハカシア女性はこんな大きいのをつけていたそうだ。手の甲を覆う鎧のように大きい。そういえば、エプロンも胸を覆う鎧のようだ。
 チュルク民族の有名な口琴も売っていた。オーナー女性が吹いてみてくれた。だが、結局私が買ったのは、またもや何冊かの本とどこにでも売っているマトリョーシカだけだった。マトリョーシカなら自分で持っていてもいいし、プレゼントにもなる。
 店を出て、街中を少し歩いた。町の観光名所のひとつだというスラーヴァお勧めの公園は誇りっぽかった。建物に描かれた大きなソヴィエト様式の未来に向かって前進する若者たち風の絵は、実は珍しくもない。しかし、とある街角を通り過ぎたとき、
「この家の庭も発掘したのだ、タガール時代の遺跡があったから、自分たちが発掘した」と言われたときだけ、感動して立ち止まり、家の周りを一回りするため戻ろうとしたくらいだ。
「いや、今は何にも残っていないよ」と言われてがっかりしたが。
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