クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up date 2009年12月27日
 (校正2010年2月、2010年3月25日、2012年1月24、2014年2月26日、2018年10月3日、2019年11月28日、2021年8月1日、2022年6月4日)
26 -(3)  南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(3)ハカシア北部イワノフ湖、スレーク
           2009年6月22日から7月14日(のうちの6月25日から26日

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.06.2009-14.07.2009 )

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア ハカシア盆地古代史略年表
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区オグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェノエ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり
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 旧サラーラ郡、昔の金鉱の町
村の捨てられたような資材置き場も通り過ぎると万年雪の山が近づく
サラーラ・タス・フィズ(旅行案内書から)
雨のポドビンスク村
雨のプリイスコヴォエ村
たいていの建物は空き家
 シベリア平原の大河オビ川の右岸チュリム川の支流の黒イユース川のさらに支流のサラーラ川ほとりのサラーラ村辺りに来ると、もう雨だった。ちなみに前後20日間のハカシア滞在中、雨に降られたのはこの日だけだった。ハカシア盆地の周辺部クズネック・アラタウ山麓に来ていたからかもしれない。盆地の中央部は降らなかったらしいのだ。ハカシア盆地は降雨量が少ないのでステップ(草原)地帯になり、山麓の針葉樹林地帯(タイガ)は降雨量が多いから針葉樹林が成長するのだ。
 2004年秋サラーラ村近くで高さ2メートル余の彫刻のある石柱が見つかったと、最近の旅行案内書にある。この古代女性を彫ったらしい石柱は、紀元前3千年紀から2千年紀中ごろのオクネフ時代のものだ。この時代の石柱はハカシアで何百と見つかっていて、そのうち300基ほどは研究され、模写もされている。不思議な動物、縦に並んだ顔、太陽、女性(乳房)、香炉などが彫られ、オクネフ人は、この石に宗教的な力を感じていたと言う。今でも、たとえば有名な『ウルック・フルトゥヤッフ・タス(大きな石のおばあさんnの意』など、ねんごろに祭られている。ほかにも、現在のハカシア人の祭るオクネフ時代の石柱は多い。
 サラーラ村で見つかった『サラーラ・タス・フィズ(サラーラの石娘)』も、オクネフ人が宗教儀式に使ったらしい。ソ連時代なら立派な石柱が見つかると、博物館に運んで展示されたが、今では見つかった場所に祭られているのが多い。ハカシア・シャマニズムでは
「動かしてはいけない、3500年前、オクネフ人(自分たちハカシア人の遠い祖先とされている)の置いたところに立てておくべきだ」ということで、サラーラ村郊外にハカシア風に祭ってある。そこに寄ってみたいとスラーヴァに言った。今は雨も降っているし、帰りに寄ることにしたが、このイワノフ湖旅行はハプニング続きだったので、結局帰りに寄ることは忘れた。
 車の中から村の通りの写真は撮ったが、それはシベリアの僻地によくある文明から忘れられたような寂れた集落だった。が、このサラーラ川のほとりでは4000年前にはオクネフ人が、たぶんかなり密に住み(当時にしては)、牧畜し、お祈りをしていたのだ。
 コピヨーヴォ町から50キロでサラーラ村だが、さらに25キロでオルジュニキーゼスコエ村にでる。以前は、オルジョニキーゼ地区の中心はオルジュニキーゼスコエ村だったが、今はコピヨーヴォ町だ。その前は、この区をサラーラ区といって、サラーラ村が中心だった。サラーラ(イワノフとも言う)金鉱があったからだ。
 チェルノゴルスク第33収容所本部からの第5支部が、オルジョニキーゼ(旧サラーラ)地区にあって、戦後のシベリア抑留者が送られて金を採掘していた。事実、ここは19世紀から金を採掘している。クズネック・アラタウは鉱物資源が豊富で、その東斜面のオルジョニキーゼ地区でも、19世紀から20世紀前半は金が豊富に採れたと、ハカシア史にはある。ちなみに西斜面は有名なクズネック炭田地帯(クズバス)だ。
 道はこの先、ポドビンスク村グラフスタン村と通りすぎて終点のプリイスコーヴォエ村とさらに27キロ続くが、これらはみんな金採掘者の集落だった。ポドビンスクとグラフスタンはほとんど廃村になっている。プリイスクという語は『探り当てる・貴金属鉱坑』と訳せる。これが村の名前になったくらいだから、外国人の私にも聞いただけでゴールドに関係あるとすぐわかる。
 見捨てられたような村プリイスコーヴォエではまだ金採掘を行っているのだろうか。人口は600人とある。1850年代、世界の金の40%はロシアで採掘されたが、その90%はエニセイ県(今のクラスノヤルスクやハカシアなどエニセイ岸にあった)の金山だった(エニセイ・ゴールド・ラッシュが起こったくらいだ)。その後、産出量は落ちたが、シベリアの大金山の半数はエニセイ県にあった。20世紀になっても、同県の200近くの金山でシベリアの金の15%を産出していた。ハカシアにも6箇所の採掘場があって、サラーラ(イワノフ)金鉱もそのひとつだった。が、それも、1940年代までがピークだった、と資料にある。
 シベリア奥地の農村には普通、木造平屋しかないのに、当時の経済の重要地だったプリイスコーヴォ村にはソ連政府肝いり(にちがいない)の鉄筋3階建てが建っていたりする。それは昔の病院だったとか。しかし、数十年前の近代的建物が住む人もなく廃墟のように放置されていると、今は世の中から忘れられているということがひときわ際立つ。
 厳かなイワノヴィ湖群
サラーラ川の渓谷
雪解け池
いっせいに芽を出す
目的地イワノフ湖と
寒かったに違いないスラーヴァ
サラーラ川に注ぐ小川
 プリイスコーヴォ村で道は終わり、さらに7キロは自然道を行かなくてはならない。スラーヴァはイワノヴィ湖群がいかに美しいかと道々言う。最後の村からも遠く離れたクズネック・アラタウ山中にあるカルスト起源の4つの湖に、スラーヴァは以前行ったことがあるのだ。すばらしかったので外国人の私を案内しながら自分ももう一度見たかったのだろう。アバカンから400キロの道のりをかけても、私のハカシア滞在第一日目の目的地に選んだのだ。
 地の果てプリイスコーヴォ村からさらに超悪路を7キロ走る。小雨が降っているとか霧が立ち込めているというより、過剰な水分が冷たい空中に浮いているような中、水溜り(泥たまり)やぬかるみの道を進んで行くと、雪の塊がところどころ残った山肌が近くに見えてくる。万年雪だ。スラーヴァは氷河と言う。
 やがて、たどりついたやや開けたところには、こんな奥地なのにすでに数台の車が止まっている。自然を求めてクラスノヤルスクなどからジープで来たリッチマンたちのようだ。車の横にはテントも張ってある。数台の車でやってきて大きくて派手なテントを張っているグループもいるが、この天候ではいまいちだろう。
 ここから湖までは3キロほどの山道で、車では湖までいけないが、行けるところまで行ってみようという。というのは、3キロも、このしょぼ降る水分の中、山道を歩くのは大変だと文句を言ったからだ。しかし、たった200メートルほど岩道を昇ったところで、ニーヴァは前に進まなくなってしまった。エンジンの何かが飛んだのか、ミッションが外れたのか。
 急坂でそんな故障がおきて、ブレーキがかかるだけでもよかった。私は急いで車から出た。スラーヴァがニーヴァもろとも崖から落ちたら、私はどうやってアバカンまで帰ったらいいだろうなどと、利己的なことを考えていたわけではないが。
 やがて、通りかかった登山者の男性数人に手伝ってもらって、ニーヴァをユーターンさせると、スラーヴァは車ごと坂道を転がって行って見えなくなってしまった。ブレーキも利かなくなったのか、と泥だらけの車の後姿を見送りながら心配したものだ。空中に漂う水滴の中に一人残された私は、この先どうしたらいいのだろう。とにかく、消えた方向に向かって、水溜りをよけながら下りて行くことにした。崖から落ちなかったとすれば、木の幹にぶつかって大破したのではないだろうか。
 しかし、しばらく行ったところで私を迎えに急いで上ってくるスラーヴァに出会った。坂道を転げ落ち、先ほどの平坦な開けたところの泥の中に突っ込んで止まったのだそうだ。いや、止めたそうだ。ブレーキは利いたそうだから。

 スラーヴァの言うには車の方はあとで何とかするから、その先にせっかくだからイワノヴィ湖群を見に行こうという。ロシアに来ると、『夕暮れ』が夕方の頃ではなくずっと遅くに始まるので、午後を過ぎると時間感覚を失ってしまうのだが、後でその時の写真の撮影時間を見ると午後4時を過ぎていた。
 今日行くところは寒くて雨がちなところだからその用意が必要、と出発前に言われて、マリーナからゴム長ぐつは借りてきたが、レィンコートはなかった。仕方ないのでポリエチレンの大きめゴミ袋を持ってきた。氷河が残っているくらいで寒いようなのでごみ袋の下には、ディーマに借りた蚊よけのジャンパーも着た。多少は防水できるかもしれない。しかし、案内人スラーヴァには雨具は何もなく、ゴム長どころかサンダルだった。ただ、車のトランクに常備してあるらしい昔の兵役のとき支給された黒の綿入れ上着をはおった。こうやって私たちは雨の中、出発したのだ。
 サラーラ川がイワノフ湖群を直列につないで流れて来るそうだ。そのサラーラ川に流れ込む小川が何本も山道を横切っている。浅そうなところを歩いて渡るのだが、ここはサンダルのスラーヴァにおんぶしてもらった。
 自然は、それはきれいだ。山道の横には小さな池がところどころにあり、池の向こうには氷の塊が残っている、夏、氷が少しずつ解けて、この池の水になるのだろうか。この辺では7月まで氷が残っているそうだ。ツンドラと高山草原とタイガが混ざり合っているクズネック・アラタウ山岳地帯のハカシア側(の比較的到達可能な場所)に4つの湖(標高約1500m)があるという。
 1時間も上ったところにイワノフ湖群のひとつの冷たい湖面が見えてきた。高い斜面にまわりをかこまれて厳かにたたずんでいる。斜面には大きな氷の塊がいくつも残っていて、落差40メートルという滝も見え、寒さに震えているような水しぶきを上げている。この滝も、その奥の高い方のイワノフ湖から落ちてくるのだという。カスケードになっているのだ。
 絶景ではあるが、スラーヴァの頭はびっしょりぬれている。サンダルで雪の上を歩いている。私のポリエチレン・ゴミ袋もとっくに破けて防蚊ジャケットにも雨水がしみてきた。というわけでこんなにも苦労してきたイワノフ湖は一目見て、数枚写真を撮っただけで引き上げることにした。もちろん、私にすれば、ここまでの道中も興味深かった。400キロも来たのだから。
 帰り道でも葉っぱの写真をたくさん撮った。去年の枯れ草の間から今年の芽がむくむくと出ている。下を向いて歩いていた私は、一歩ごとに「おおっ」と言う草花や、これから短い夏に急いでお花畑を広げようとする芽の集団や、また、ごみにも、何にでも感動して写真を撮りまくった。サラーラ渓流が眼下に大きな音を立てて流れ、川岸にはぎっしりジャルキ(シナノキンバイソウ)が茂っている。めったにないが、晴れた日のイワノフ湖群はすばらしいとスラーヴァが言う。7月になると晴れた日もあるそうだ。それなら、7月になってからの私のハカシア滞在後半に来ればよかったのに、と思った。スラーヴァは遠いところから回るような予定を立てたと言っていたが、では、車が動くうちに回ろうと考えたのだな(そのうち動かなくなると見抜いていたのか)。
 私たちの『ニーヴァ』、ここで夜を明かす
 その車のところに戻ったのは6時過ぎだった。ニーヴァは構造が難しくないので、スラーヴァでも修理ができるかもしれないが、泥の中にあるので、下にもぐって修理箇所を見つけるのは大変だという。牽引されてコピヨーヴォ町まで行けば(そこまで100キロもある、せめて50キロのサラーラ村まで)、そこで修理できるところが見つかるかもしれないと言う。
 スラーヴァはこのテント村を見回りに行った。牽引してくれそうな車を探しに行ったのかもしれない。私が雨の中、ニーヴァの窓から眺める限りでは、パジェロとかランクルとか、それほどでなくてもオフロード向き日本車が目に入り、ニーヴァなんて本当に肩身が狭い。私たち以外の旅行者はかっこいいレィンコートを着ている。
 帰ってきたスラーヴァは、彼らツーリストは誰も今日は下山しないそうだと言う。明日になれば何とかなるだろうと、まずはスラーヴァが持ってきたインスタント・ラーメンを車の中で食べる。ふたをして3分間待つタイプのものだが、深鉢に麺を入れて湯を注いで、ふたなんてないので数分間適当にかき混ぜて食べた。中国製小型カセット・コンロをスラーヴァはこの日のために買ったらしい。車の中でガス・コンロなんて危険だ、と思うのは私が日本から来たばかりだから。
 今日はここで夜を明かすことになるが、車の回りは泥水たまりでテントも張れないから、車の中で寝ようということになった。窓は閉めて寝るから、酸素が足りなくなるのではないかと心配して、スラーヴァに笑われた。後部座席の荷物をどかして私が寝袋に入って寝、前部運転席ではスラーヴァが寝た。こんな狭いところに寝たのでは翌日は体の節々が痛いのではないかと心配したが、もう、選択の余地がない。
 村おこし
サラーラ村の『百貨店』
牽引してくれたトラック
プリイスコーヴォ村役場前で昼休みの終わるのを待つ
 次の日(6月26日)、車の中で目を覚ますと相変わらずしとしとと降る雨だった。スラーヴァが情報を集めに雨の中、出かけていった。牽引してくれる車はなかなか見つからない。やがて、ロシアの田舎ではみんなそうだが、不恰好なトラックが通りかかり、さらに上へ登って行こうとしている。不恰好だろうとどうでもいい、動いているのがうらやましい。この、岩山を登っていけるのが、もっとうらやましい。トラックを止めて牽引できないか、牽引してくれるようなトラックが下りてこないか聞いた。このトラックは、この先のアルペン・スキー場で学童がキャンプするための資材を運んでいるそうだ。
 イワノヴィ湖にツーリストが多いのは自然が美しいからばかりではない。ここの近くに長さが1000メートル以上、落差高度が200メートルというアルペン・スキーに格好な斜面があって、7月まで雪が残っているので夏スキーができるからなのだ。やがて、スクールバス(というより、トラック)に乗った学童の一行が通り過ぎて行った。夏期のスキー・トレーニングするために近隣から集められた選手候補たちだ。
 実は、人里離れたこの場所が最近は夏スキー場として脚光を浴びてきているらしいのだ。私たちが来る数日前にはシベリア管区(ウラルの西、極東の東にあるノボシビルスクやクラスノヤルスク、イルクーツクをふくむ12の自治体をまとめて言う)アルペン・スキー選手権大会が開かれたそうだ。こんな施設の全くないところでだ。ホテルももちろんない。7キロ離れた下のプリイスク村の空き家で泊まるか、キャンプするしかない。『ハカシア』誌(ネットでアーカイブが読める)に拠れば、シーズン中の観光客は1万5千人とか。同誌には「この遠さで、インフラがまったくないにもかかわらず」とも書かれている。本当だ。ここを『イワノヴィ自然公園』として保護する、とハカシア政府関係機関は言っているとか。
 いくら景気が悪くても、プリミティブでもレジャー資本が入るのは時間の問題だろう。観光事業のほうが金採掘より儲かるかもしれない。住民が『村おこしだ!』って騒いでいるかどうかは知らない。その前に来てよかった。

 学童用キャンプ資材を運ぶトラックの運転手によると、お昼ごろ、別のトラックが下りてくるから、その運転手に牽引を頼んだらどうかと言うことだった。それで、また車の中で待っていた。外は雨だし、寒かったし、車の中で旅行案内書を読み返すか、スラーヴァに話しかけるしかすることがない。途中4、5台もトラックが上っていった。トラックがこんなに頻繁に通るなんて、さすが将来の(今も)夏スキーのメッカだ。お昼過になってやっと、降りてくるトラックがあったので、運転席で寝ていたスラーヴァを急いで起こして頼みにやらせた。これは、先ほどの資材を積んだトラックの運転手が言った車ではないが、一応承知してくれた。キャンプ客に手伝ってもらって、ニーヴァの方向を変え、牽引ロープを結びやすくする。
 そうやって、やっとお昼の1時頃私たちは出発できた。不恰好なトラックは力強くて、小さなニーヴァがぬかるみにはまっても軽々と引き上げて引っ張っていってくれる。7キロほどの山道を30分ほどかけてゆっくりと、プリイスコーヴォ村まで来ると、村役場前でトラックは止まった。ここで、この公用らしいトラックは仕事をしたというサインをもらわなければならないそうだ(こんな労務管理の方法もある)。しかし、村役場は昼休みなので、午後の仕事が始まるまであと30分待たなければならないという。牽引してもらうだけでもありがたいというものだが、もう車の中は飽きてしまった。そこで、
「だめもとでもエンジンをかけてみたら、どこが悪いかわかるかもしれないわ」とスラーヴァに言ってみた。ニーヴァというのは謎の車だなあ。ちゃんとかかるではないか。前進に入れてもバックに入れても、ちゃんと動くではないか。7キロ牽引されて走っている間に外れかかったパーツが元に戻ったのかもしれないとのこと。ふしぎな車だ。でも、ニーヴァのご機嫌のいいうちにと、牽引のトラックの運転手にお礼を言って、私たちは昨日走ってきた道をサラーラ村へ、オルジョニキーゼスコエ村へと走っていった。
 サラーラ村で、店に入り食料を調達する。村の店はどこでも興味深い。食料雑貨衣類や、時には電化製品や自転車(たまたま仕入れたのか)まで何でも売っている。もちろん一番豊富なのは瓶類の列、つまりヴォッカだ。
 オルジョニキーゼスコエ村近くになると雨も上がり、青空が見えてきた。これから先は実はこの『ハカシア晴れ』に悩まされることになる。
 スレーク岩画
中腹のテラスのようになったところ
旧スレーク郡、岩画のある丘から
草原に止まっている大小のジープ
観光客
 やがて、昨日来たときに見えたクルガンの群れが現れ、スレーク岩山に着いた。コピヨーヴォ町から18キロほどだそうだ。道路から草原に入り、しばらく行ったところ、低い丘の手前で、車を止めた。私たちのニーヴァのほかにもウアジック(ニーヴァより大きいジープ)などが止まっていて10人ほどの観光客が上っている。このあたり数百メートルくらいのところに3つの丘があって、『スレーク1』から『スレーク3』まで名づけられている。
 岩の間に草の生えたふもとのゆるい坂を上ったところの中腹にテラスのような場所があって、そこには垂直に立つ岩が迫っている。岩画はそこに彫ってあるのだ。数メートルもの長さの岩のキャンバスに馬、牛、らくだ、鹿、いのしし、人、狩猟の場面など隙間なく打刻されている。その横の数メートルの岩には、数匹の動物の群れがまばらに打刻してあったり、さらに岩をたどっていくと、また動物が密に現れたりする。
 黒イユース川と白イユース川にはさまれたスレーク郡(その『郡』は今はない。オルジョニキーゼスキィ地区に含まれるようになった)は、紀元後9−10世紀キルギス人の中心地のひとつでもあった。キルギス人よりずっと前のタガール人のクルガンもたくさん残っている。その前のオクネフ人もこの地にかなり密に住んでいたに違いない。岩石画はオクネフ時代から中世の頃(キルギス時代)まで彫られたのが残っている。点刻で輪郭されている馬はオクネフ時代だとスラーヴァが説明してくれた。よりはっきり描写されていて、躍動感のある狩の場面はさすが中世キルギス人のもので、オルホン・エニセイ文字もある。馬にまたがり振り返って弓矢を引いている岩画では有名なスタイルの騎士の打刻画もある
弓を射る
 らくだなどの動物の上にくっきりと彫られた
落書きのOB、頭文字か
 ここは、19世紀に『学術的に』発見され、一時期ハカシアでもっとも有名な遺跡のひとつだった。そのせいか、岩画に近づくとまず目に入るものはヴォーヴァとかアーニャとか自分の名前の横に日付を書き込んだり彫り付けたりしている20世紀人の落書きだ。1950年代以降の日付はさすがにない。落書きは、中世キルギス人の狩人が乗って弓を引いている馬の横にではなく、その真上にくっきりと彫ってある。「そりゃ、その方が注目されるからだ」そうだ。
 遺跡が珍しくもない南シベリアではごく最近までは、クルガンの石や、大きな岩画は不用品で、ただ生活の邪魔だったのか。1950年代初めに道路がひかれた時、この辺の石を切り出したそうだ。だからスレーク遺跡も破壊された部分がある。
 ここで1日中岩画を見て過ごしてもいいくらいだ。と言っても到着したのはすでに2時半頃だったが、岩下の草地に留めてある車で、サラーラの店で買った缶詰の昼食を食べたり、また岩場に上って見たりして、出発したのは5時ごろだった。その間に、いくつかの団体の出入りがあった。そのガイドが、この近くのステップ(草原)でサラビヨーヴァの一揆軍(白軍)と赤軍の戦いがあったということを話しているのが聞き取れたのだ(前記)。
 スラーヴァの方はこの旅行企画の主催はどこか、聞き出そうとしていた。ハカシア観光は古代遺跡ツアーが目玉で、その運営やガイドは考古学関係者がなることが多い。学術機関で働く考古学者の給料はとても低いもので、食べていけないらしい。スラーヴァも私以外の観光客の個人ガイドを毎年小規模ながらやっている。スラーヴァは前年買った(日本ではもう走っていないような)デリカさえ動けば、個人観光業がもっと大規模にやれる。しかし、ニーヴァでも「これは贅沢の車ではない、この車が自分を養ってくれる」と言っている。生計の手段だ。その他、スラーヴァには旅行会社に頼まれて観光パンフなどを作るというバイトもあるらしい。
 スレークに来ていた団体の主催者は、どうやらスラーヴァの知り合いの考古学者(女性)らしい。彼女がこうやって幅広く儲かるビジネスを広げていることが意外で、もしかして、うらやましかったのかもしれない。
 ハカシアのメソポタミア
昔、ハカシアのメソポタミア
ハカシアではクルガンに不自由しない
白イユース川
現在の用水路
 私たちは、昨日来た道をシラー町の方へと走って行く。黒イユース川白イユース川の間の地方を旅行案内書ではハカシアのメソポタミアと大げさに呼んでいる。その川の間に青銅器時代から、灌漑用水路のある農地が開けていたからだ。ハカシア遺跡地図を見ると、ここが遺跡密集地のひとつだ。クルガンや石碑が集中しているばかりか『スベ』もここに多く見られる。
 『スベ』というのはハカシア語で山にある要塞のような石造りの建造物のことだ。ハカシア・ミヌシンスク盆地には約50基もあるが、ほかの遺跡同様ほとんどがエニセイ川左岸のハカシア共和国内にある(エニセイ右岸も東サヤン山脈までハカシア・ミヌシンスク盆地だが、ここにはなぜか遺跡は左岸ほど多くはない)。中でも、白イユース川と黒いユース川の間、アバカン川やエニセイ川の川岸、アバカン川の支流沿いに集中している。多くは小山の頂上近く、一方は断崖になっているようなところに、大きくても1キロ四方、多くは300m四方くらいの石の壁で囲まれている。二重三重の石垣で囲まれている『スベ』もある。
 はじめは、『スベ』は中世内紛時代のキルギス人かモンゴル人の要塞とされていた。また、『スベ』には文化遺跡地層がないということで長い間、発掘調査もなされてこなかった。しかし1983年、黒イユース川近くの『スベ』から初期青銅器時代の遺物が見つかった。つまり、ハカシア草原の初期青銅器時代の墓から出てきたものと同じ青銅の鏃、土器片、骨製の銛、石の手斧、女性の顔を彫った石片が出てきたのだ。それで、『スベ』は紀元前3千年紀末から2千年紀はじめのアファナーシエヴォ時代の初期青銅器時代から、特にオクネフ時代に多く作られたのではないかと最近の研究では言われるようになった。だが、何のためにかはわからない。要塞の形をしているが、守備するには難攻不落の場所とは言いがたく、内部に水源はない。牧畜人の季節型住居地としても、断崖絶壁の上では家畜が養えない。住むには不便で菜園も作れない。では、天に近いところの神殿として造営したものだろうか。 
(女性の)顔の一部か
 オクニョーフ時代の石柱
 丘や山の上に『スベ』を作った集団と、平地の草原にクルガンを作った集団とはどんな関係があるのだろうか。アンドロノヴォ時代のクルガンの場所と、近くのオクネフ時代の土器が出てくる『スベ』は、北から膨張してこの地に渡来したアンドロノヴォ人と、南に退却するオクネフ人との境目だろうか、と資料には書いてある。
http://kronk.narod.ru/library/gotlib-podolsky-2008.htm
 ちなみに黒と白のイユース川は南から流れてきて、コピヨーヴォ町近くで合流し長さ1800キロのチュリム(チュルク語で走る雪。または)となり北上し、エニセイ川へ7キロまで近づきながら、低い丘陵があるためエニセイに流れ込めず、西シベリア平原に出て蛇行しながら多くの長い支流を集めオビ川に合流する。

 シラー町へ戻る道路は白イユース川の右岸にあって、車窓からクルガンが草原の中に点々と見える。クルガン群が見える度に私は車窓からカメラを向けていたが、「ハカシアではクルガンに不自由しないんだ」とスラーヴァに言われ続けていた。それにもめげず、私は撮り続けた。
 ある道端でスラーヴァは車を止め、草原の中に入っていった。研究したことのある石柱を車窓から見つけたそうだ。草の上に1m半くらいの石が横たわっていた。石柱は土の中から出て立っている場合もあるが、こうして倒れていることも多いのだ。スラーヴァは「ここがあごで、ぼうしの部分がよく見えなくて、ここに目が、こっちにもうひとつの目がある」と指差して説明してくれるが、こんな彫像を見慣れていない私には、それらは石に生えたコケか自然の割れ目にしか見えない。『ハカシアのオクネフ時代の石の彫刻と石柱』と言う本には、ハカシア盆地にある300個のオクネフ遺跡が解説と模写付き(写真では目鼻口が不明なことが多いが模写・スケッチでははっきりわかる)で載っているのだが、記載されていない遺跡もとても多い。日本に帰ってから、そのカタログで調べてみると、そのあたりには7,8個の模写と説明が載っているが、どれも、私が見たものではない。
 オクネフ時代の石柱のいくつかは今でも信仰をあつめている。私が知っている限りでも、『サラーラ石娘』、『ウルック・フルトゥヤッフ・タス(偉大な石婆)、『アク・タス(白石)』など。

 *(名前の由来、別説):チュリム川 この川の上流に住んでいたチュリム族(チュルク語系)の名前から。『チュル』は水、『イム』は自分の。つまり『自分の水、川、チュリム族の川』、直訳すればただ『川』。

 ハカシア・ミヌシンスク盆地 古代史略年表(ハカシア共和国中高校生用教科書「ハカシアの歴史」Сунчутащевから)
 旧石器時代 中期 (10万年から3.5万年前)
 ・ボグラット地区ドゥヴグラスカ洞窟…1970年代発掘調査、幾層もの文化遺跡地層があるが下の層は4万年から4万5千年前のムスティエ文化<ネアンデルタール人が住んでいたレ・ムスティエ洞窟(フランス)から>
 旧石器時代 後期(3.5万年前から1万年前)
 ・白イユース川左岸のマーラヤ・シーヤ遺跡…1974年発見。3万年から3万5千年前。2千平方メートル以上にわたって集落。50平米の広さの半地下の円形の住居跡や囲炉用の穴のほか寝台用の突起もある。住民は、仮住まいでなくここに何十年、もしかして何百年と定住していた。大量の石器の他、鹿の角でできた槍の先、トナカイ、羊、ヤギ、カモシカ、バイソン、熊、マーモット、ウサギの他、マンモス、毛サイ(1万年前に絶滅)の骨などが発掘された。
・エニセイ川左岸のマイナ遺跡…1万6千年前の粘土の像(高さ96mm)などが発掘される。
・サヤン山麓を含むエニセイ中流やアバカン川流域、トゥバ川流域、では、1万年から2万年前の氷河期時代の後期旧石器時代人生活跡が100箇所以上発見されている。住居は円錐形で穴に石で囲った炉もあった。トナカイなどを追って狩りをしていた小さな家族集団らしい。
 中石器時代 (1万年前から8000年前) 新石器時代 (紀元前5千年紀、6千年紀から)
 ・ハカシア盆地に残っているアグラフティー山やエニセイ川の川岸、その支流に多くある最も古い岩画はこの時代。
・エニセイ右岸ウニュク村、左岸のカピョニ村付近など(今はクラスノヤルスク・ダム水面下)で、住居跡と土器類などが発見されている。
・埋葬地で有名なのはバイカロヴォイ村やバテニ村(ダムの水面下)付近で、古モンゴロイド系の男性や多くの副葬品が発見された
 アファナーシエヴォ文化 (銅石併用時代)紀元前3千年紀後半〜紀元前2千年紀初め
 ・エニセイ川左岸アファナーシエヴォ山(ハカシア共和国ボグラッド区、ダム水面下のバテニ村付近)をT920-1932年考古学者S.A.テプロウーソフが発掘調査。
・コーカソイド系。銅と農耕文化、牛、羊、馬の家畜を持って渡来した。東ヨーロッパのヤムナヤ文化と共通点が多い。
・以前はこの地になかった墳墓(クルガン)を営むという伝統をもたらす。
・多くは直径10m以内、高さ1m以内の円形に石で囲ったクルガン。土器の副葬品
 オクネフ文化 (紀元前2千年紀前半〜紀元前2千年紀半ば
 ・ウイバット川(アバカン川左岸支流)オクネフ村で、1960年アファナーシエヴォ文化と異なる遺跡の発見から名づけられる。アンドロノヴォ文化の前に位置づけられる。
・クルガンは前時代のように石を置くものではなく石板を横にして地面に埋めた方形のもので四隅に高い石碑が立つ。中央に1つの墓、周囲に何個かの墓。副装品に青銅製ナイフ、石のやじり、石や青銅、骨、角せいの装飾品やお守り。
・丘、小山の上の石の要塞(スベ)。石の壁の高さは2.5m。ハカシアに多くあるスベのうちで最も古いものはこの時代。
・彫刻のある石柱(『サラーラ岩娘』、『ウルック・フルトゥヤッフ・タス(おきな石のおばあさん)』や、不思議な動物を打刻した岩画、香炉を打刻した立石。
・トゥイム・リング(直径80mの円形で一定の距離をおいて石碑が建てられている)
 アンドロノヴォ文化 (紀元前2000年紀第3四半期から)
 ・クラスノヤルスク地方アーチンスク地区アンドロノヴォ村の遺跡から名付けられる。
・東ヨーロッパからコーカソイド系が渡来した。西へはスルブナヤ文化(ルーマニアからトゥルクメニスタン)、東へはアンドロノヴォ文化(カザフスタン、中央アジア、西シベリア)。 
・担い手はコーカソイド系、アファナーシエヴォ人やヤムナヤ人により似ている
・ハカシアまでは、アンドロノヴォ人の膨張は弱い形で現れ、南部には及ばなかった。ハカシアでは、前時代のオクネフ人や次時代のカラスク人と共存した
・クルガンは縦に置いた石でできている。方形または円形。主なクルガンに付属して回りに作られた小さなクルガン。
・副葬品は土器や小型装飾品が主。土器の模様はひし形、鍵十字。
 カラスク文化 (紀元前3千年紀末から1千年紀初め)
 ・ハカシア共和国ボグラット地区エニセイ川左岸支流カラスク川の遺跡から名づけられた。
・青銅器の繁栄。高い鋳造技術。担い手はモンゴロイド系。ハカシア盆地の人口増加。
・方形のクルガン。主なクルガンに付属した小さな土盛りクルガンも多い。多くは、クルガン中央に1つの墓。台形の塚穴。肉の副葬品の他、玉の首飾り、銅の輪、貝、くつわ、幌馬車などが発見。
 タガール文化 (紀元前8世紀から紀元前2世紀 初期鉄器時代、スキタイ時代)
 ・ミヌシンスク市、エニセイ川とエニセイ川右分流との間にできた中州タガール島の遺跡の発掘調査から命名。
・ドナウ川からザバイカルまで、馬具、武器、芸術(動物意匠など)が共通するシベリア・スキタイ文化が広まった。しかし、たとえば、タガール人と『スキタイ』人は異なる民族で、『スキタイ』人はイラン語、タガール人は、おそらくサモエード語を話した。
・タガール人のクルガンも何千とあるが、それまでの時代と異なって、巨大な石を使っているクルガンが多い。サルビック大クルガンの石は30-40トンもある。また、サフローノフやカザノフカなどのクルガンは縦長の石板で、上が斜めになっていたりする。現在ハカシア盆地で見られるクルガンの90%はこの時代のもの。
・この時代の草原地帯では初期鉄器文化が栄えたのだが、タガール人の前期クルガンの副葬品は青銅製のみ。後期のクルガンになってやっと鉄製品が現れる
・中国の歴史書で言及されている丁零(ディンリン)か。紀元前201年、匈奴がディンリン国を破る
 匈奴勢力圏内のハカシア盆地、タガールからタシュティック文化へのテシ移行期文化  (紀元前2世紀から紀元後1世紀)
 ・エニセイ右岸トゥバ川のテシ村の遺跡から命名。タガール文化晩期テシ時代。2つの文化伝統(土着タガール人とチュルク系渡来)が合体して後のタシュティック文化になる。
・匈奴がモンゴル、ザバイカル、サヤン、アルタイ、東トルキスタンを征服。
・1940年から発掘されたアバカン南8キロのチャパエフ村の中国風建物は、1500平米の粘土の壁で囲まれた瓦屋根の宮殿、全ての瓦には漢字で『千年の秋、万年の喜び』と書かれている。匈奴の捕虜となり、後に地方代官になった漢王朝の季陵(リー・リン、?-74BC)の屋敷か
 タシュティック文化 (紀元後1世紀から5世紀)
 ・ハカシア共和国バグラット地区エニセイ川左岸支流タシュティック川の遺跡から命名。
・特に有名なのは、エニセイ右岸のアグラフティ遺跡やテプセイ遺跡。多数のミイラが発見され、石膏生の葬儀用の仮面が付けられていた。
.男性は火葬され、土器や皮袋に遺骨が入れられることが多い。
・チュルク語系民族キルギスがハカシア盆地に広まる。
    中世以降のハカシア盆地 
 中世キルギス (6世紀から1207年まで)
・6から9世紀はチャータース文化
・オルホン文字と平行して7世紀にできたエニセイ文字。両文字とも40個の『ルーン』印を持つ。現在まで約150基の石碑が発見されている。(モンゴル時代に消滅、19 世紀オランダ人トムセンによって解読される)
・チャータース(石の戦士)と呼ばれるクルガンが、この時代のもの(ウイバット・チャータース、カピョニ・チャータースなど)、副葬品にろくろを使った器
・9世紀からチュフタット文化
・ウイグル可汗国を倒して、840-924年キルギス・可汗国(東トルキスタンからセレンガ川、満州興安嶺の契丹の地を含む)
・スレーク岩画
・トゥタッチコフ遺跡(生レンガで建てられたマニ教寺院跡?)
・10世紀アスキース文化
 モンゴル帝国内のハカシア  (1207-1368年)

 モンゴル帝国崩壊後 (1399-1727 )
・ハカシア盆地にはエニセイ・キルギスの4つの侯国 (モンゴル系ハン国の勢力下にある)
・17世紀、シベリア進出のロシア帝国とたたかう
 ロシア帝国内のハカシア (1727-1917年)
・1727年、清国とロシア帝国の間にサヤン山脈を国境とする条約が締結。サヤン山脈の北をロシア帝国に、南を清朝とした。
・19世紀は帝国内半遊牧民には『ステップ・ドゥーマ(シベリア草原地区の国会・政府』と言う自治機関があった。
 ソ連時代のハカシア (1917-1991年)
・1923-1925年 エニセイ県ハカシア郡
・1925-1930年 シベリア地方ハカシア管区
・1930-1991年 クラスノヤルスク地方ハカシア自治州
・1990年 ハカシア自治ソヴィエト社会主義共和国
・1991年 ハカシア・ソヴィエト社会主義共和国
 ハカシア共和国 (1991-
1992年 ハカシア共和国
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