クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
              Welcome to my homepage

home up date 2009年12月22日(校正 10年1月21日、12年1月22日、15年12月20日)
南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地
(9)クルガン発掘
           2009年6月22日から7月14日(のうちの7月7日から10日

Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине( 22.07.2009-14.08.2009 )

ロシアへの招請状を都合してビザを入手し航空券を手配する 『古代ハカシア』旅予定表 ハバロフスク経由クラスノヤルスク はじめからアバカンへ飛べばよかった ハカシア共和国首都アバカン 石炭の町チェルノゴルスク
ロシア製小型ジープ『ニーヴァ』 ハカシア北部へ 古代人をも魅せたシーラ湖群 ガイドのスラーヴァ コサック前哨隊村 シベリア鉄道南支線の町コピヨーヴォ
旧サラーラ郡、昔の金鉱町 厳かなイワノフ湖 村おこし スレーク岩画 ハカシアのメソポタミア (ハカシア盆地古代史略年表)
トゥイム崩落 『トゥイム・リング』シーラ湖畔泊 淡水と塩湖のベリョ湖 チャルパン残丘の遺跡 クルガン草原を歩く 淡水湖イトクリ湖
タルペック山麓クルガン 古代天文観測所スンドーク 白イユース川山地の洞窟地帯 『9個の口』洞窟 小さな『贈り物』村の旧石器時代遺跡 シュネット湖とマタラック湖
2千年前の生活画バヤルスキー岩画 コペンスキー・チャータース 『アナグマ』荒野の大クルガン 大サルビック・クルガン 沈みきれなかったクルガン 自然保護区アグラフティ山
ウイバット川中流の香炉石 エニセイ文字発見記念 ウイバット・チャータース サヤン・リング民俗音楽祭の評判 レーニンもいた南シベリアの町 サヤン・リング会場
アバカン郷土博物館 ハカシア伝統民族祭『乳祭』 カムィシカ川 ビストラヤ山岩画 アバカン見物
ハカシア炭田 『チャルパン露天掘り』発掘場 サヤノゴルスク市と巨大発電所 『旧アズナチェンナヤ渡し場』発掘 聖なるスハニハ山 新リゾート地パトラシーロフ林
10 『チャルパン露天掘り』その後の発掘 岩画公園のポルタコフ村 サフロノーフ村のクルガン丘 鉄道分岐駅アスキース町 遺跡・自然保護区『カザノフカ』 旅の終わり

 ハカシア炭田
ハカシア南部
 7月7日この日は、スラーヴァが日本人を連れて行くからと、東ベヤ炭田の発掘現場の主任に電話しておいた日だ。その発掘現場で、私が来るまで夏休みのスラーヴァはバイトをしていた。
 シベリアはどこへ行っても地下資源開発の話を聞く。ハカシア盆地などでは古代から採掘していたくらいだ。19世紀、20世紀に開発された鉱山も多い。石炭のほうは品質の違いはあっても、どこを掘っても(掘り方にもよるが)見つかりそうだ。しかし、一応アバカン市の北東のチェルノゴルスク炭鉱や、南東のイズィフ炭鉱、南の東ベア炭鉱(チャルパン露天掘り場)が一連のハカシア炭田をなす。
 今、チェルノゴルスクやイズィフ炭鉱の生産量が落ちる中、最も有力視されているのが、1920年発見の東ベヤ炭田だ。はじめはイズィフ炭田の一部として採掘されていたが、1992年チャルパン湖の北にチャルパン露天掘り場ができて本格的になったと、ウェブサイトにある。アバカン川とエニセイ川の間にあるこのコイバリスク草原も遺跡が密にあるところだから、採掘するには、前もって考古学調査が必要だ。
 ニーヴァはアバカンから国道411号線を南下する。これは100キロほど先のサヤノ・シューシェンスカヤ発電所へ行くための道だ(発電所には2日後行った)。この日は途中のイズィフ村ベヤ村方面へ曲がる。
 ちなみにアバカンからは北へ、まずはチェルノゴルスク経由クラスノヤルスクへ向かう国道54号線、南東方面ミヌシンスク経由トゥヴァからモンゴルとの国道へ通じる54号線の続き、第2は南西方面サヤン峠経由トゥヴァへ入る新道161号線(鉄の産地アバザ市までは鉄道に沿って)、第3に南東のロシア工業の戦略的重要地サヤノ・シューシェンスカヤ発電所に向かう411号線、第4はこのベヤ村経由アスキース村付近で161号線につながるアバカン・ベヤ線の4本だけがハカシアでは全線舗装されている。もちろんアバカンを通らない道路も多く、その中の何本かは部分的に舗装されていて、ニーヴァも幸せだ。
東ベヤ炭田
チャルパン
露天掘り
 東ベヤ炭田『チャルパン露天掘り』遺跡発掘場
こちらの方向に発破がかかった
ブルトーザーの運転手に道を聞くスラーヴァ
つるし手洗いとシャワー小屋と水タンク(遠方)
1つ目、発掘完了のクルガン
上のクルガンからの発掘物の古代人の骨
2つ目、発掘が進んだクルガン
2つ目のクルガンの埋葬物はまだ動かしてない
3つ目、当時の地表ぐらいまで掘り進んだクルガン
塚を塞いだカラマツが現れてくる
ものさしをおいて写真を撮るゴトリプ助教授
 アバカン・ベヤ線を南下し、スミルノフカ村で発掘現場の仲間たちへのお土産を買った。発掘の指導をしているのはアバカン大学のゴトリプ助教授で、さらに何人かの考古学者が協力し、アバカン大学の考古学民族学歴史学部からの実習生も大勢手伝っているそうだ。ボランティアのアマチュア考古学者もいる。
 発掘現場は東ベヤ炭田チャルパン露天掘り場内にある。だから部外者立ち入り禁止で、ロシア連邦内務省職員が監視している。発掘関係者には特別通行許可証が出ている。私は、スラーヴァと一緒に知らん顔をして入るのだ。その先は責任者のゴトリプ助教授が「いい」といったからいいのだ。
 スラーヴァは入り口の監視所で、絶対写真を撮らないように、カメラも見せないようにと、きつく私に言い渡した。昔、ソ連時代は撮影禁止場所が多かった。今でも、こうした遮断機のついた監視所が多く、許可証などをチェックし、なぜか、撮影禁止とはどこにも書いてない。
 チャルパン露天掘り場はコイバリスク草原の中にあって、もちろん回りに柵などは巡らしていなくて、どこからでも入れると思うが、このあたり唯一の自動車道アバカン・ベヤ線から入ることになっているらしく、そこに出入りの監視所が設けられている。遮断機の前で車を止め、スラーヴァが許可証を持って監視小屋に入っていく。制服を着た女性が出てきて「アルコール類はないでしょうね」と車のトランクも見ている。炭坑夫たちが酔っ払って大切な重機を粗末に扱ったり、仕事をしなくなったりするからだと後でスラーヴァが教えてくれた。
 監視所から内に入ると、巨大なショベルカーなんかが見えてくる。地面にはキャタピラ・カーの跡がある。場内は特に道はない。大型車の通った跡が道だ。採掘現場は一定ではなく、大型車が通ってつける道も絶えず変わるらしい。開発中の炭田なので、何の目印もない。車の跡に沿って進むと露天掘り場に行ってしまう。2週間ぶりできたスラーヴァはもう仲間のいる発掘現場への行き方がわからなくなったらしく、休憩中のブルドーザー運転手に方向を尋ねていた。掘り起こした土を積み重ねた山のそばを通り抜け、まだ草の生えている草原の道を通り、やがて木立の影にキャンプが張られた調査基地に着いた。
 学生たちや考古学者たちのテントが20個ほど少しは木陰になりそうな場所に張ってあり、食堂用の大き目のテントが一番近くにある。調理は屋外でする。食堂テントの近くに石を組んで、バケツの大なべで煮炊きできるようになったかまどがある。また、チルドの食糧貯蔵穴倉が特別に掘ってあって、主食のじゃがいもや野菜などが何日分も保管されている。キャンプ場では、学生たちは半月くらいで交代するが、夏中発掘隊が宿泊するので、長期生活ができるようになっているのだ。水の入った大きなタンクも設置されている。その近くには、隙間が多くて中が覗けるちゃちなシャワー小屋もできている。少し離れた所には男女別のトイレ用の穴も掘られ、ぼろ布で3方が囲まれている。穴に板が2本渡されているおなじみのトイレだ。

 12時ごろキャンプ基地に着いたが、昼食当番のほかは誰もいなくて、みんなは半キロほども離れた場所で発掘しているというので、もう方向がわかるようになったスラーヴァと一緒に向かった。
 そこでは、3基のクルガンが今のところ作業中だ。そのうちの1基はほとんど発掘が終わっていて、深さ1m位の四角い穴があり、覗いてみると空だった。位置を決めるための杭が何本か穴の周りに刺されていた。
 発掘する場合、草の生えている現在の地表、そこより数十センチ掘り下げた塚の上面(または当時の地表)、塚の内部を掘り下げて塚の底の面、と平面的にも断面的にもわかりやすく掘るらしい。
 その四角い塚穴の周りには、塚をふさぐように並べてあったカラマツの断片が残っていて、塚底に青銅製の道具のかけらがあっただけだが、穴の横の現代の地表より一段低くなったところには、発掘されたタガール人の骨が積んであった。ちゃんと部位別に分けて積んである。手足の骨はそれだけでそろえてあり、頭蓋骨は形が残っているものが大小10個ほどと、頭蓋骨の多数の破片、その横には下あごの骨も丁寧に置いてあった。頭蓋骨やあごの骨には歯もしっかりついていて、見たところ、虫歯のタガール人は少なかったらしい。甘いものがなくて虫歯にならなかったのか、歯が悪くなるほど長生きをしなかったのか。このクルガンも盗掘されていたそうだ。そうでなければ古代人たちは当時置かれたままの形で発見され、欠けたところのないセットで並んでいるはずだった。
 少し離れたところにある2つ目のクルガンも、やはりタガール時代後期の墳墓で、穴の上部に渡してあったカラマツのふたはもう注意深く取り払われ、ほぼ底まで掘り進んであった。こちらは先ほどのものより深く広い。底にはぎっしりと骨が詰まっていた。2千年以上前とはいえ、多すぎるのではないか、戦争でもあったのか、と思ったくらいだ。後で説明してもらったことだが、タガール時代末期は1つの塚穴に多数の、時には数百体もの合葬が行われることが多くなった。冬に亡くなった人は春か夏まで安置され、それから一族の塚穴に合葬されたそうだ。
 ここも盗掘されて、骨のパーツもばらばらに見えた。ゴトリプ助教授が、
「ほら、この頭蓋骨とこの背骨、ほらそこに伸びている手足の骨があって、これで一体になる」と塚穴のうえから指差して私に教えてくれた。実は、この折り重なっている無数の骨のどれとどれがセットなのか、私にはさっぱりわからなかった。助教授やスラーヴァに聞きたいことは後になるとたくさん出てきたが、そのときはこの光景を見ると声が出なくなったのだ。無数の骨のパーツが折り重なっていた。土器のかけらも見える
 学生たちがせっせと、半分埋まっている骨の土を刷毛で掃いて、1個ずつ丁寧に全体が見えるようにしている。土器や青銅器のかけらも含めて、できるだけあったままに現れるようにしている。女性の画家(タマーラさんと、紹介された)がグラフ用紙に詳細絵を描いている。写真とこうした線画で残すそうだ。写真では判らない部分もあるし、線画では不正確な部分もあるからだそうだ。タマーラさんは発掘現場の写生をする専門家だそうだ。
 3つ目の墳墓は時代が若く、タシュティック時代にかかっているかもしれないとのこと。今、草の生えている現在の地表より80センチほど下の、塚の上面(当時の地表)まで掘り下げているところで、掘った土を担架に入れて前後二人で運んでいた。かなり広い面積が、もう四角く掘り下げられていて、ここにはいくつかの時代の異なる塚穴が見つかりそうだと言う。そのうちのひとつは、もう見つかっていて上部のふたになっているカラマツの周りについている土を刷毛で掃いているところだった。丸太が穴の幅にそろえられてぎっしり並んでふたになっている。だから両端の部分は当時の地表にのっているが、真ん中部分は下の穴のほうへ重みでたわんでいる。2千年以上もよく残っているものだ。
 スラーヴァはすぐ土運びの手伝いを始めた。刷毛と食卓用ナイフ、小さなちりとりで細かく作業するところもあるが、場所によってはシャベルで掘るところもあって、学生たちが、どういう掘り方をすればよいか助教授に聞いている。当時の地表のあたりまでしか掘られていないが、土器の破片や動物の骨が見つかり、まとまって見つかったところはそのままの土の高さで、手をつけずに残してある。立石もあらわになった。打刻画のようなものが見えるが、助教授にも発掘協力の考古学者にも今のところ不明だそうだ。
 掘り広げたところには、もちろん草は生えていないので、埃っぽい。シャベルで土をすくっても土埃が立つ。毎日ハカシア晴れが続いている。学生たちは水着で素足だ。(ロシアでは夏場、別荘の畑で働くときも水着姿だ。街中でも夏場は水着のような服で歩く。ちなみにロシアでは水着は最小限しか体を覆わないビキニしかない)。素足なのは掘り進んだ地表に何かあっても踏み潰さないためだ。だから、後で、この発掘場の地表をきれいに均した後は、靴を履いて入らないように言われた。炎天下、土堀作業は大変だ。だから一定時間毎いっせいに近くの木陰に休息に集まる。木陰と言っても細い木が1本やっと生えているだけだが。車の陰とか、山盛りになった掘りあげた土の陰とかでも休める。
 みんなの大好きな食事時間になって、キャンプ場へ学生たちは引き上げていった。スラーヴァによると当番学生たちはなかなかおいしい食事を作ってくれると言う。ビスケットと缶詰かインスタント・ラーメンの私たちの食事よりはおいしいだろう。だが食器がきれいに洗ってあるかとか、洗剤が残っていないかとか、バイキンが多すぎやしないかとか、そんなことは言っていられなくて、ゴトリプ助教授や学生たちと出されるものはおいしく平らげた。助教授は気を遣ってくれて、給仕当番の学生がほうろう製のマグカップで私にお茶を出してくれたとき、ちゃんとした陶器の茶碗で出すようにと下げさせたくらいだ。
 食事の後、日本に興味があるという何人かの学生と話している間、スラーヴァは友達のアマチュア考古学者と車の修理をしていたようだ。本職は車の修理だと言う。
 この日、2時に露天掘り現場で発破をかけるので、午後の仕事はそれが終わってからと言うことになっていた。発掘は露天堀りから近いところでやっているし、発破をかければ地震も起こり、もしかして崩れたり、爆破物が飛んできたりする可能性もあって危険なので、キャンプ場で待っていなければならない。学生たちによると、地震はキャンプ場でも感じられ、発破の煙もよく見えると言う。爆破の直前には責任者のゴトリプ助教授に無線が入る。なかなか始まらなくて、3時半頃やっと知らせが入り、学生たちもみんな出てきてキャンプの前で爆破の方向を向いていた。私もカメラを動画にして待っていた。音はかすかに聞こえたが、地面も揺れなかったし、しばらくして露天掘りの方向に煙が少し見えただけだった。
試練のひとつ、水の出る地下道
食堂のテント
超激辛のご馳走。『さ、お口を開けて』
 終わったと言う知らせで、私たちはまた発掘現場に戻り、乾燥した炎天下で作業を続けた。学生たちは超軽装だが、私は日焼けしたくなかったのでフードつき長袖を深く着込んで、ふたのカラマツの周囲の土を落とす手伝いを少ししてみた。
 2つ目の、ほぼ塚穴の底まで掘り進み、葬られていた古代人のおり重なった骨が半分現れているほうの墳墓では、ものさしをおいてゴトリプ助教授が写真を撮っていた。穴が深いので全貌を撮るためには背の高いロシアジープのウアジックの天井にのらなければならない。ウアジックはハカシア各地のほとんど道もないような場所に残っている遺跡(そんなところの方が残りやすいのだろう)の発掘調査のため、大学の考古学科が持っているのだろうか。運転手はハカシア人で、私に愛想よく話しかけてくれた。

 夕方になると、スラーヴァが私のために一番はなれたところにテントを張ってくれた。食堂とかまど(鍋の中には食べ物もあるから)近くは夜中、学生たちが音楽で騒いで眠れないからだそうだ。
 スラーヴァは久しぶりだったので、夜遅くまで焚き火を囲んでいたそうだが、私は早々に引き上げて、テントに入るとすぐ入眠剤を飲んで朝までぐっすり眠った。だから、次の日は早めに起きて、みんなが起きる前にゆっくり準備ができた。ここの時間割では、8時過ぎ朝食、9時前に現場に集合だ。いつも朝の涼しいうちに作業をできるだけ多くやるらしい。昼休みは暑い頃なのでゆっくりとり、午後からは朝のやり残しをする程度だ。

 だが、この日は夕方『若い考古学者の日』と言うお祭りがあるので、午前中だけしか仕事をしなかった。考古学者の仕事の場というのは厳しい自然の中、穴にもぐったり、川を歩いたり、一本橋を渡ったり、背中を刺されたり、激辛ものを食べたり、お化けに驚かされたりして、発掘調査し、古代人の遺物を見つけださなくてはならない。だから、新入生たちは、まずは、この先も耐えられるよう厳しい試練で洗礼されなくてはならない。
 今のグループには新入生が7人いた。夕方近くなると、その7人は捕らえられて目隠しされ、茨の牢屋に閉じ込められた。そうして、先輩たちは穴をほったり、激辛料理を作ったり、土の中にシャベルを埋めたり、気分を出すためにボディペインティングをしたりと、祭りの準備をしていた。
 学生たちは楽しそうだった。スラーヴァによると一番楽しんでもっとも熱心に新入生いじめをやっていたのは去年洗礼を受けた2年生だそうだ。ゴトリプ助教授は『地下道』に入っていった新入生の出口を水でふさごうとしている先輩学生が、あまり水をかけないよう、エスカレートしないように、見張っていた。
 前々日からスラーヴァはこの『若い考古学者の日』は面白いから、旅行者の私はぜひとも見なくては、と言っていたが、この日、午後からは夕方まですることがなくて身をもてあましていた。写生画のタマーラさんは、野外生活に慣れているので、少しの暇を見つけてのイチゴ探しに出かけたらしく、バケツいっぱいのまだ青いイチゴを取ってきて、私に勧めてくれる。1粒だけ、比較的赤くて虫の食べていないようなのを取ったが、もっとたくさん、手にいっぱい取れと言われる。
 サヤノゴルスクとサヤノ・シューシェンスカヤ発電所
新しい見晴台から発電所を見る
古いパンフレットの発電所鳥瞰図
7月9日の発電所
サヤノゴルスクの郷土博物館のガイドとスラーヴァ
1万6千年前の粘土の像のレプリカ
マイナ発電所ダム
この道は発電所で終わる
モニュメント『エニセイの征服者たちへ捧げる』
 8月17日の損壊事故で有名なサヤノ・シューシェンスカヤ発電所に行ったのはこの日で、事故の38日前だった。1968年に着工され、1985年フル稼働したという巨大発電所は、堤高242m、堤底長110m、堤頂長1074mもあって、発電力はロシア第1、ロシア全土で水力発電される電力の15%を供給していたそうだ。サヤノ・シューシェンスカヤ発電所はエニセイ川がサヤン山脈を割って流れ進むところにあり、雄大な大自然の中、『社会主義国家』の技術を結集して巨大な発電所を作ったと言うので、ハカシアと南クラスノヤルスクの観光の目玉でもあり、ロシア人の誇りでもあったのだ。
 アバカンから411号線にのり、コイバリスク草原を横切って60キロほど南下すると、サヤノゴルスク・アルミ工場が見えてくる。サヤノゴルスク市はロシア第3位というアルミ工場と、そこに電力を送るサヤノ・シューシェンスカヤ発電所の町として1975年、元のアズナチェンノエ村にできたそうだ。アズナチェンノエ(印をつけられた)村は、ピョートル大帝が地図を見てこの地点に印を付け(アズナチャーチ)、南のキルギス族の反撃から帝国を守る要塞を築くようにと命じたとこからできたそうだ。ピョートル1世のころはコイバリスク草原の端のこの辺りがロシア帝国シベリアの南限だったのだ。19世紀半ばの村の人口は100人くらいだった。しかし、1965年、アズナチェノエ村から40キロ上流に、サヤノ・シューシェンスカヤ発電所を建設することになり、建設基地として発展が始まり、2008年には人口4万8千人のハカシア第3の都市になった。(第1はアバカン、第2はチェルノゴルスク、第4はアバザ)

 この日のスラーヴァの予定コースは国道411号線を南下してサヤノゴルスク市の郷土博物館に寄り、シベリアの奇跡サヤノ・シューシェンスカヤ発電所を見物し、そこで道は行き止まりになっているので、戻ってマイナ発電所経由シーザヤ村近くの発掘現場を訪れる、と言うものだった。2002 年にクラスノヤルスクからサヤノゴルスクへ行き、発電所も見た。2003年にもサヤノゴルスクを訪れ、発電所を見ることになった。アバカンから国道411を行けば、サヤノゴルスク市と発電所しかなく(と言うより、そこへ行くためだけに作った延長80キロの道路だ)、ここまでくれば誰もが発電所を見る。
 発電所を見に来た観光客は、たとえば2002年や2003年の私のように、見晴台に上がる。そこへ行く道にもおなじみの検問所があってチェックされ、ダム湖前面の山をぐるぐる登って行き、やっとたどり着けるような高台に見晴台はできていて、こんなに上ってきたのに、まだ堤高の242mより低いのでダム湖までは見晴らせない。が、サヤン山脈の大自然とロシア発電所建設技術が一体になったロシア人自慢の景観が眺められる。
 未開のサヤン山脈を無残に切り開き、自然を勝手に変えた巨大建造物をあまり見たくはなかった。が、一応スラーヴァの立てた予定通りに回ろう。

 サヤノゴルスクの郷土博物館へはスラーヴァはまだ行ったことはないそうだ。10年ほど前にできたばかりで、とても小規模だとスラーヴァが道々言う。サヤノゴルスク市につくと博物館を探し出さなくてはならない。スラーヴァの運転は街中を走るときは、横に座っていてはらはらするものだ。その上、スラーヴァは思い通りに行かないと、これまたはらはらするような悪態をたたく。しかし、後でわかったことだが、運転が下手なわけではない。ブレーキが、ほとんど利かないくらい甘く、ハンドルがほとんど動かないくらいきつい(パワステなんてない)車をよく運転していたものだ。
 サヤノゴルスクの郷土博物館はホールが3個しかなくて、中央がサヤノ・シューシェンスカヤ発電所とサヤノゴルスク市の発展が(すこし)わかる写真とパネル、右側のホールが、もう私はうんざりしているが大祖国戦争(つまり第2時世界大戦)に捧げた展示(愛国教育)。3つめのホールが考古学関係だった。小さなホールに旧石器時代から中世キルギス時代まで展示してあって、この博物館のガイドはスラーヴァが考古学専門家で外国人を案内してきたと知ると,展示物が少なくて申し訳ない、という様子だった。博物館というのは発掘オリジナル物が展示してあるというより、写真や、説明用の図や絵が多い。オリジナルがあえて必要と言うことはない。サヤノゴルスクのあたりは旧石器時代遺跡の発見で有名だ。ここより15キロ川上のマイナ町付近では1989年、旧石器時代後期の1万6千年前の粘土の像(高さ96mm)が発見された。世界的にも貴重だというオリジナルはサンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館にある。(イルクーツク州の1万5千年前のマリタ遺跡とブレーチ遺跡から40体にもおよぶ像『旧石器時代のヴィーナス』が発見されたが、それらはマンモスの牙などに彫られたもので、そこには粘土製品は発見されなかった)。
 旧石器時代遺跡はマイナのほかにも、その対岸のガルバヤ村、シーザヤ村、アズナチェンノエ、サヤノゴルスク飛行場などで発掘され、数万点の石器、かまどや住居跡、石器倉などが発見されていると、図や写真が展示され、説明文が付いていた。
 ちなみにマイナ町は、8世紀キルギス族がオマイ要塞を築いたところで、要塞跡は1980年代まで残っていたそうだ。オマイというのは当時の神の名ウマイからきて、現在のマイナという地名はオマイ要塞からきている。ここに、サヤノ・シューシェンスカヤ発電所とセットになった小さめのマイナ発電所が作られていて、20キロ川上のサヤノ・シューシェンスカヤ発電所の放出水量の調整をしているそうだ。
 2003年にサヤノゴルスクに来た時は知り合いのトーニャの新築の家に泊まったが、その家を建てるとき、クルガンが一帯に発見されたので、考古学調査が終わるまで建設は中止されたそうだ。サヤノゴルスク郷土博物館には、その地区の写真と発掘物も展示してあった。
 こじんまりとした博物館だったので、ガイドや受付の女性、その息子とまで仲良くなって、写真も撮った。

 サヤノゴルスク市はエニセイ左岸のコイバリスク草原の南の端にあるが、そこから40キロ上流の発電所まではエニセイ川に沿った岩山を切り崩して作った道が続く。特に、発電所従業員町の町としてエニセイ河岸にできた人口1万人の町チェリョームシキ付近には、エニセイの両岸にまたぐ大理石鉱脈があって、道路は鉱脈の上を通っているそうだ。大理石の採掘は高さ200mくらいのキビック山でやっていて、道路からも山頂部分が白くなった露天掘り採掘場が見える。雪が積もっているわけでもないのに山肌が白い。

 スラーヴァが道々言うにはサヤノ・シューシェンスカヤ発電所に新しく立派な見晴台ができ、すばらしいモニュメントが建っているそうだ。行ってみると、確かに、発電所の正面のエニセイ川に突き出ている岸辺が整備され、そこにエニセイ峡谷をぴったりふさいで高いダムを作っている巨大な発電所と、その両脇にそびえる黒いタイガ林の絶壁が一望できる見晴台ができていた。以前にあった右岸の山の中腹の展望台は閉鎖され、今、ダム湖の水を逃がす水路が作られているとか。
 モニュメントは発電所に負けないくらい巨大で(近くにあるからそう見える)、発電所を作った労働者と技術者たち、つまりロシアの科学業績に捧げられたもので、『エニセイの征服者たち』と大きく金文字で書かれてあった。40年も前から建設が始まって、20年以上も前にほぼ出来上がった建造物に、最近になってこのような当時の服装をした群像の大讃美モニュメントをわざわざつくったのも、他国ながら何となく苦々しく、
「なんと言う偉大なる自然破壊記念物でしょう」といって、スラーヴァを怒らせてしまった。
「いや、水没した遺跡はほとんどない。この先は自然しかなかったのだ」と言うが、このダムはトゥヴァのほうまで広く伸びていて、旧シャガナール市は沼地になり、西トゥヴァ盆地の遺跡は水没したではないか。水没したのは遺跡ばかりではない。
 モニュメントのある見晴らし広場にはお土産店もできていた。その裏にはトイレもあって、スラーヴァが言うには例外的に設備がいいそうだ。これはシベリアのトイレの粗末さ恐ろしさをいつも私から聞かされているので、弁護したかったのだろう。でも、水洗トイレではないというので、試さなかった。広場には数十人の観光客がいてぶらぶらしている。子供がひとり、モニュメントに上りかかると、すぐ
「尊敬する市民の方(こう言われて子供はひるむだろう)、崇高なモニュメントから離れてください」というアナウンスが入った。カメラで監視しているのだろう。(将来の)若いロシア連邦市民はエニセイを征服した先人の業績を敬わなくてはならない。
 この日の38日後に事故が起きて、報道写真で見ると壊れたプラントが散乱していた。堤防が決壊すればエニセイ川は大氾濫を起こし、チェリョームシキ町やサヤノゴルスク市ばかりか、ずっと下流のアバカンや、サーシャとマリーナが住むチェルノゴルスクも水没する。だから、マリーナからのメールによると、その日はみんな山の上に逃げようとひしめいたそうだ。何百メートルも下流で、途中に別の大きな発電所ダムのあるクラスノヤルスク市でも、その日にエニセイ川の水量がなぜか上がったとかで、大騒ぎがあったそうだ。ロシアの報道記事には『エニセイの反逆』と題するものまであった。確かに、エニセイを『征服』したつもりだったのだから。
 決壊はなく、発電所で働いていた74人が死亡した。ちなみに、事故から1ヵ月半後、サヤノゴルスクの住民社会支援センターというところで働いているトーニャからメールがあって、自然災害の多い日本で、被災者や遺族を心理的にケアするプログラムがあったら教えてほしい、と書いてあった。死亡者のうち発電所職員はわずかで、外注の工事者が多かったという。

 2003年に来たときはマイナ発電所からサヤノまでの絶壁を削ってできた道路わきに、まずは『1926年、ヴォルホーフ水力発電所(レニングラード州)、66メガワット』と書いた看板が現れ、次に『1933年、ドニエプル発電所、660メガワット』、さらに『1972年、クラスノヤルスク発電所、6000メガワット』と出て、最後に『サヤノ・シューシェンスカヤ発電所、6600メガワット』という、いかに技術が発展してきたかという宣伝看板が1キロごと現れてくるのだが、モニュメントの建った今では、その看板も木立に隠れて目立たなくなっていた。
 『旧アズナチェンナヤ渡し場』発掘
ミヌシンスク火力発電所と都市暖房設備
テテリン研究員とほぼ調査完了のクルガン
明日はもう引き上げると言うキャンプ場
卒業生サーシャが見せてくれた
シーズンはじめに調査完了したクルガン
 この日訪れる予定の発掘現場というのはエニセイ右岸(クラスノヤルスク地方)のシーザヤ村の近くだと言う。マイナ発電所の堤防の上が橋になっていて対岸に渡れる。シーザヤ村も、ここより南ではサヤン山脈が迫っていて、ハカシア・ミヌシンスク盆地の南限の集落だ。ここからエニセイに平行な道を北へ行くと、音楽祭があったシューシェンスコエ町に出て、さらに行くとミヌシンスク市があって、そこからようやくエニセイを渡る橋を通りアバカンに出れる。そこまで橋はない。ちなみに4000kmのエニセイ川には、トゥヴァ共和国クィジール市に1本、ハカシア共和国に4本(首都アバカン市に2本、堤防のダムも含む)、クラスノヤルスク市に4本、ディビノゴルスク近くに1本の計8本自動車の通れる橋がある。そのほかの地点では夏場は渡し舟で、冬場はそのまま氷の上を対岸へ渡る。
 シーザヤ村から北へはアカマツ林が続いているが、ほとんどの木は数年前の火事で焼けていて、幹の一部やまたは全部が黒くなっている。やがて、道路からエニセイ川の林に入り、迷いながらたどり着いたところが、ノヴォシビリスク大学テテリン研究員発掘の『旧アズナチェンナヤ渡河場・第T』遺跡だ。現在の地表を残して四角く掘られた穴は、もう調査は終わり、図面も書き終わっていた。このあたりは背の高い草一面に覆われている。少し離れたところに調査隊のキャンプ場があって、テテリン研究員の他は女性の考古学者と、卒業生サーシャ、それにアマチュアのヴィターリーの4人しか住んでいない。ここの調査は今日が最後の日で、もう引き払うのだそうだ。
 『旧アズナチェンナヤ渡河場−T』遺跡は後期タシュティック時代の墓地で、キャンプ場の横に発掘物が並べてあった。7、8個の完全な形の椀、壷、足つきの器まである。それに大小のつぼの破片、錆びた鉄製の輪、器の中身の食料品らしいものなどだった。この時代、死者(特に男性)を火葬し、追善供養したそうだ。食器が多いのはそのせいだ。
 この遺跡はテテリン研究員が1989年から専従しているらしい。ウェブサイトにある2005年付けのタシュティック時代の火葬についての論文にも『旧アズナチェンナヤ渡し河場第T遺跡』発掘調査テテロフ研究員と出ている。チャルパン遺跡のように塚底に古代人の骨がぎっしり詰まっているような生々しさがなく、刻印の模様がはっきり見れる茶碗が発掘されたりして、より考古学らしい。
こんな完全な形のが見つかった
発掘された土器
 しかし、塚山もはっきりわからないような背の高い草が生い茂るエニセイ川岸(川そのものは現代ではここから離れたところに流れている)で、どうやってこの遺跡を見つけたのだろう。卒業生のサーシャが、この辺には何十基とタシュティック時代の墓があるという。どうして見つけるのか。古代人が塚穴を掘ったところは、そこだけ地面が違うそうだ。もちろん造営したころは土盛りがあった。だがこのころはもうそれほど高くは盛らなかったそうだ。
 この塚は17番目の発掘らしい。テテロフ研究員に大きなグラフ用紙に書かれた図面を見せてもらったが、石で囲まれた四角い塚がいくつも描かれている、重なっているのもある。卒業生のサーシャが、去年掘った墓を見せてあげると言う。行ってみると穴はかなりふさがって、もう草がぼうぼうと生えていた。シーズンはじめに発掘調査したという塚は、草の生えた現在の土表から50センチほど下がったところが、四角く平らに掘り進められ、その中央に直径80センチくらいの円にさらに10センチほど下げてあった。当時の地表と、火葬された骨と追善供養が置かれていた場所だろうか。
 ここは地味な発掘現場だったし、仕事もほぼ終わっているところに来たので、スラーヴァも手伝うこともなく、キャンプ場でお茶を飲んで引き上げた。帰りのニーヴァに、アマチュアのヴィターリーが自分の住むミヌシンスクまで乗せてほしいといった。ヴィターリーのウエストはスラーヴァの3倍は軽くあるが、狭い後部座席に、体をねじって入ってもらった。私が窓も開かない後部座席に座らされたのでは、帰りのミヌシンスク経由の道々、山火事跡で幹が半分黒焦げになったアカマツ林も、ミヌシンスク盆地に広がる地平線が見えるくらい広い畑も、ミヌシンスク市の入り口にある巨大煙突の火力発電所の写真も撮れないではないか。
 聖なるスハニハ山
GIFファイルの10万分の1の地図を下地に
 7月13日の夜までにクラスノヤルスクに戻らなければ、帰りの飛行機に間に合わない。だが、12日いっぱいはスラーヴァとハカシアを回れる。ハカシア人の割合が最も多いアスキース地区のカザノフカ野外博物館は、必ず回りたい。
 また、スラーヴァがはじめに立てた予定表に、エニセイ川右岸でエニセイ門をなすテプセィ山が未踏の場所としてある。エニセイ両岸にある4基の岩山が門柱のようにそびえる絶景地は古代人をも惹きつけたに違いない。左岸のクーニャ山アグラフティ山、右岸のスハニハ山テプセィ山は考古学の宝庫だ。石器時代から中世までの遺跡がどっさりあって、古代の謎が詰まっていると言われている。古代要塞跡はじめ、岩画はもちろん有名で、古代神殿跡もあると旅行案内書には書いてある。
スラーヴァに手伝ってもらってその岩によじ登る
対岸のエニセイ門
初期青銅時代から中世までの遺跡が見つかった斜面
この色の蝶がよく寄ってくる
尾根に出ると大きな岩が乗っている
 左岸のアグラフティ山には7月1日に登った。スラーヴァの初めの予定表にあった右岸のテプセィ山は、たどり着くのは難しいので、その南のスハニハ山に行くことにした。スラーヴァは、ここにも私がコピーできる岩画がたくさんあると言う。普通エニセイ門の遺跡観光は陸路ではなくエニセイ・クルーズでするが、私たちはもうかなり状態の悪いニーヴァを鞭打って陸路、ミヌシンスク経由で行くことにした。数年前のスハニハ山の発掘をスラーヴァは手伝ったことがあるそうだ。このようにスラーヴァは幾分か知っているところに私を案内するのだが、目的地は交通の便がないところが多く、どうも訪れるたびに様子が変わっているらしい。だから、おなじみのミヌシンスク市を過ぎ、ノヴォトロイツコエ村あたりに来ると、家の前で日向ぼっこをしているおばあさんに道を尋ねたくらいだ。ノヴォトロイツコエという名前の村だからか、住民はウクライナからの移民(前世紀以前)で、道を聞いたスラーヴァによると私より訛りのひどいロシア語を話していたそうだ。さらに20キロも舗装道を行くと、ニコラ・ペトロフカという信心深い名前の村があって(聖人)、道は終わる。村はトゥバ川がエニセイ川に合流するところにあったが、クラスノヤルスク・ダム湖のためにできた大きなトゥバ湾に水没したので、高台のここに移動してきたに違いない。

 スハニハ山はこの村からエニセイ川沿いを上流に1時間ほど行ったところにある。草原の中には、車が通ってできたというような道しかなく、これはあまり当てにはできない。クルガンが次々と見えてくるが、左手に山を見、右のエニセイ川から離れないように1時間も走ると、野営跡地のようなところに出て、車輪の跡も消え車の通れるような平地は終わった。この辺でスラーヴァたち発掘グループは数年前調査したらしい。だが、そのときは陸路ではなく、対岸のウスチ・アバカン町から船で来たそうだ。エニセイ門を通って、水路この地に近づくのはすばらしかったに違いない。この、スハニハ山裾からも、対岸の聖なるクーニャ山が青くかすんで見える。
 美しい景色をただそのままで十分楽しむと、お弁当を食べながらまた楽しむ。蝶が飛んできたりすると、指に止まらせてまた楽しむ。
 スラーヴァたちが調査したのは、この高い川岸からがけを下って水面近くへ下りた場所で、そこにはいくつもの層があって、アファナーシエヴォ時代から中世キルギスの遺跡まであったそうだ。発掘跡のまた草が生えてしまった遺跡と言うのも、ハカシアらしい光景だ。(ここ、エニセイ川右岸は現在の行政区分ではクラスノヤルスク地方ではあるが、両岸ともハカシア人の祖先たちが住んでいた、トゥバ候国と言う)。
 スハニハ山に登ると景色はもっと開けてくる。私たちは岩画のコピー用の巻紙とカーボン紙を持って、上り始めた。心臓があまりパクパクしないように時々石に腰を下ろして、どれだけ上ってきたのか確かめる。ふもとに置いたニーヴァがだんだん小さく見えてくる。対岸のウスチ・アバカン町の煙突がぼんやり見えてくる。時々風が吹いてタチジャコウ草のうっとりとするにおいを運んできてくれる。
 30分ほど上ると尾根に出た。ここに侵食から取り残された大きな岩がのっていた。白イユース川ほとりの第1スンドークほど大きくはないので、スラーヴァに手伝ってもらってよじ登り、スラーヴァに下から写真を撮ってもらった。
 ダム湖ができたために、もしかしたら眺めは古代より美しくなったかもしれない。深い渓谷もいいが、青い水面も悪くない。この不思議な岩を、古代人も見逃さなかっただろう。古代人もここに上ると、鳥になったような気分になっただろうか。
 岩画はこの近くに2箇所はあるそうだ。近い方へ行く。それでも、まだかなり崖路を歩き、キャンバスのように垂直な岩が立っているところにある。岩画はいつも、こんな風にテラスになったところにある。今回のハカシア旅行で実物の岩画をたくさん見たが、やはり、どの線がどうつながって何を表しているのか見分けるのは難しい。走る動物を何匹か、何かをしている人間を何人か見つけたが、その動物は何なのか、その人は何をしているのか、スラーヴァに説明してもらわなくてはわからない。また、どことつながっているのかわからない線刻もある。しかし、何枚も写真をとり、なんとなくわかりそうなところからコピーを始めていった。今回は、ポリ手袋も用意した、紙を止める粘着テープもたくさんある。
粘着テープもはさみもポリ手袋も用意済み
 すべての岩画のコピーをとりたいと思った。たくさん取れるよう、薄紙(トレーシングペーパー)もカーボン紙もどっさり買ってきてある。だが、2時間もすると、スラーヴァが引き上げようという。雨が降ったらまずいというのだ。
 スハニハと言うのはハカシア語でスフ(水)とアフ(白)からきている。雨が降ると、山からエニセイ谷に向かって流れる水の勢いが激しく、車も人も通れなくなるそうだ。古代人は、この洪水をよけるために岩の下などに避難場所を作ったと、書いてある。そんなところにも岩画が多く残っているという。
 雨が降る様子はなかったが、出来上がった薄紙を丸めて山を降りた。帰り道にあるクルガンにも触っていきたい。
 この草原のクルガンたちは、エニセイ谷の上、スハニハ山の下の草原に、対岸の聖なるクーニャ山やオグラフティ山の青い山影を見ながら立っている。いいなあ。
 新リゾート地パトラシーロフ林
 トゥバ湾の出口近くにあるニコラ・ペトロフカ村の近くのエニセイ川岸に、パトラシーロフ松林と言う一角がある。草原、つまり荒野の中に忽然とできたオアシスだ。エニセイ川の川岸といっても絶壁か、そうでなければ沼地が多い中、この一角だけ、その少し上流に砂州ができているせいか、エニセイ門のそびえ具合か、トゥバ川の流れ具合かで、森林が育つ土壌と雨量ができたのだ。スラーヴァが言うには「クラスノヤルスク人は週末にシーラ湖に来る、だが地元アバカン人やミヌシンスク人はパトロシローフ谷で週末を過ごす」のだそうだ。パトラシーロフ林がリゾート地として注目を集めだしたのは最近で、設備は何もない。みんなテントとバーベキューの道具と水着をもって出かけるのだ。だから、この日、金曜日の夕方、帰り道はそうした車の列に出会うはめになった。草原荒野に車が踏み均してできた道を車1台通れば埃であふれる。普段はめったに車は通らない。お昼頃来たときも車にすれ違ったり、追い越されたりはしなかった。だから迷子になりそうになったくらいだ。だが、この週末の夕方、繁華街の道路並みに車が走っている(この道では走るというより埃を巻き上げて這うといったほうがいい)。よかったのは車の列は私たちとは反対方向に向かっているし、ここは草原荒野、踏み均された道は不規則に何本もある。スラーヴァと私は突然現れた車の洪水にあきれながら、逆方向に、ニコラ・ペトロフスカ村の方へ、ミヌシンスク市の方へと帰っていった。
 ちなみに、スラーヴァはそのペトロシローフ林には寄ってくれなかったが、帰国後5万分の1の詳細地図には小さなうす緑色のゾーンが記され、グーグル・マップで見ると、そこだけ林が見える。
HOME ホーム BACK 前のページ ページのはじめ NEXT 次のページ